第五話
沙織の案内でコミックマーケットを一通り堪能し、人で込む前に帰ろうということになったとき、偶然にも京介が姿を現した。先ほどとは打って変わって、ジーンズとTシャツという格好だが、髪の毛だけは白いままである。手には紙袋を持っていた。
「その髪の毛、カツラ? とらないの?」
「いや、脱色したんだよ。昨日のキャラクターも髪の毛白かったし」
前髪を摘みながら京介は答える。まるで女のようにころころと髪の色を変える。
まだコミックマーケットは続くが、ブロマイドも全て売れてしまったため、帰宅の許可が出されたらしい。もちろん、同人誌は売れ残っているが、どうせ売れないといって箱にしまってしまい、本人は本を買いに行ったのだという。
そんなわけで、京介も一緒に帰路に着く。彼が持っている紙袋にも同人誌が入っているが、購入したわけではなく、彼の友人が書いたものを貰ったらしい。
京介が沙織や黒猫と親しげに会話しているのを聞いて、何故かイライラしながら歩き進めると、前方に見慣れた人影を発見した。見つかりませんように、と祈ったそばから、その人影は桐乃を発見し、子犬のように嬉しそうに駆け寄ってくる。
無意識のうちに京介に視線を向けると、彼は沙織たちと話しながらも、桐乃の手から同人誌が詰まった紙袋を受け取る。隠している趣味がばれかねない物を全て預けると、三人から離れるように、桐乃も走って向かう。
「桐乃!」
と名前を呼びながらやってきたのはあやせである。桐乃も「あやせ!」と名前を呼びながら、彼女の方へと走る。両手を握り合いながら、奇遇だね、と言い合うが、内心では気が気でなかった。
桐乃は頭が良い。学校の成績だけでなく、生きていくのに大切な頭の良さを持っている。一方で、彼女は突然の出来事に弱い。父親にアニメやゲームが見つかったときもそうだが、そういうとき、彼女の頭は一切働かなくなる。というより、慎重になりすぎるために、どれだけ考えても結論を出せなくなるのだ。幸い、今は目の前にいるのが友人であるということと、荷物を預けたという安心感が、彼女に最後の砦を守らせていた。
「こんなところで奇遇だね。でも、用事があるって言ってなかったっけ?」
「そ、その、用事があったのは昨日までなんだ」
「それじゃ、明日からは遊べる?」
「ううん。明日からも用事が続いてる。ごめんね」
「いいよ、別に。じゃぁ、今日が一日だけ休みだったんだ」
「うん」
「何してたの?」
あやせの純粋な質問に、桐乃は心臓が止まりそうな思いであった。立っているだけでも汗が吹き出てくるほどの暑さなのに、布団の中に入りたくなるほど、体が冷たい。いっそのこと誰かが殺してくれたら楽なのに。
「え、えっとね。そのぉ、あれ」
「あれ?」
「だ、だからね」
釈然としない言葉で一秒でも長く場を繋いで、言い訳を考える。しかし、何も思いつかぬうちに、あやせは桐乃の背後を見た。
「あそこにいるの、桐乃のお兄さんだよね」
「え? ああ、うん、そうだよ」
「髪の毛の色変わってるけど、何かあったの?」
「さあ? なんか、いきなり変わってた。脱色したんだって」
嘘ではない。屁理屈ではあるが、友人に嘘をつかないで済む、ということが彼女を安堵させた。
あやせの視線に気がつき、京介が手を振ると、彼女は桐乃の手を握って「手を振ってもらっちゃった」と喜ぶ。普段なら京介に怒りを向けるところだが、今回ばかりは話がそれたことがありがたかった。
空気を読んでくれたのか、黒猫と沙織が先に帰る。京介は手を振って二人を見送ってから、桐乃たちのほうへとやってきた。
「お久しぶりです、京介さん」
「久しぶり。ここで何してたの?」
「グラビアの撮影があったんです。雨が降ってきて、中止になっちゃったんですけどね」
何故か彼女は照れくさそうに笑った。
「写真が掲載されたら、雑誌をお渡ししますから、きっと見てくださいね」
「うん、もちろん」
二人のやり取りを聞いて、もしや話をそらすことが出来ただろうか、と思ったが、すぐに話題が戻る。
「そういえば、何を話してたんですか? もしかして、中断させちゃいました?」
「いや、大丈夫だよ。話が終わったから分かれたんだ」
「なら、良かったです。それにしても、何を話してたんです?」
「服の作り方について」
「服を縫われるんですか」
「いや、あまりやらない。でも、小柄な方の子が自分で作るって言うから、どういう風に作るか聞いてたんだよ」
「そういえば、見たことないデザインの服を着てましたね」
京介の前だから言葉を選んだのだ、と桐乃はすぐに理解する。内心では、変な格好だと思っていたに違いない。
「先ほどの二人は、京介さんのお友達ですか」
その言葉に、桐乃は心臓が破裂しそうな思いに駆られた。
「うぅん。何て言うべきかな。友達、というよりは、知り合いなのかな。そもそも、俺の知り合いって感じでもないしなぁ」
「ってことは、桐乃の?」
まさかね、とでも言うような顔で、桐乃を見つめる。
桐乃は吐き出しそうなのを押さえてから、笑顔を作った。
「そ、そんなわけないじゃん。知らないよ、あんなキモい連中」
「そうだよね。うん、変なこと聞いてごめんね」
あやせの言葉に、桐乃は小さく息を吐いた。これで一つの難関は突破した。
そう思った矢先に、背筋が凍るのを感じる。体を震わせてから、本能的に京介を見た。その顔には、何を考えているか分からない笑顔を浮かべている。
あやせも、桐乃に釣られて京介を見る。果たして彼女が京介の様子から何を感じ取ったかは分からないが、「どうかしましたか?」と尋ねる。
「あのさぁ、桐乃」
「な、何よ」
「蹴り飛ばすぞ、お前」
笑顔のままだというのに、熱湯が一瞬にして凍りつくほどの冷たい口調だった。
「あ、あの、京介さん? どうしちゃったんですか?」
あやせまで、慌てたように尋ねる。
もちろん、京介が怒っている理由に、桐乃は心当たりがある。黒猫と沙織のことを「キモい」と言ったことなのだろう。実際、自分でも口にして気持ちのいい言葉ではなかった。しかし、今はそんなことでも言わないと、取り繕えないのだ。その事情は京介も重々承知しているはずだ。
どうしようかなぁ、と小さな声で呟いて、京介は何かを考え込む。二秒も経たずに、京介は持っていた桐乃の荷物を本人に返した。
「俺は先に帰るよ。今日は家には帰らないから、荷物は自分で持っていってくれ」
目もあわせずに桐乃にそう告げると、対してあやせには笑顔で別れを告げる。呆然とする二人を置いて、すたすたと歩き、すぐに人ごみの中に姿を消してしまった。
「ど、どうしたのかな?」
京介が歩いていった方向を見ながら、戸惑った様子のあやせが尋ねる。
「さ、さあ。分かんない。ほら、うちって兄妹仲が悪いからさ」
「そういえば、そう言ってたね。でも、それ勿体無いよ」
「でも、あいつってあやせが言うほど凄い人間じゃないよ」
「んー、でもそういうのを抜きにしても、兄妹って親よりも年が近い分、頼りになること、あると思う。なのに仲が悪いから、頼れないなんて、勿体無いよ」
心のそこから同情するように、泣きそうな顔で、あやせは桐乃を見つめた。その目に見つめられると、なんともいえない気持ちになる。
「そういえば、その紙袋、何が入ってるの?」
「え?」
しばらく迂回していた話題が、唐突に戻ってきたことで、桐乃は間抜けな返事をした。
「だから、袋の中身。買い物に行ってきたの? それにしては、見慣れない紙袋だけど」
袋の柄を隠すように、桐乃は紙袋を抱きしめる。その行為をどのように間違えて解釈したのか、あやせは嬉しそうな顔を浮かべた。
「もしかして京介さんからのプレゼントでしょう」
予想外の言葉に、桐乃は返事が出来なかった。
「いいなぁ。私も京介さんとデートしたいなぁ」
甘ったるい声で言いながら、頬に手を当てる。薄々感じてはいたが、やはり尊敬しているというよりも、京介のことが好きであるらしい。
「それで、京介さんに何を買って貰ったの?」
「え、えっと、見せなきゃダメ?」
こうなったら、誤解を生かそうと、恥ずかしそうな振りをして、紙袋を更に強く抱きしめた。
「なんだ、やっぱり京介さんと仲いいじゃない」なんて笑顔を浮かべつつも、「いいじゃない、見せてよ」とせがむ。
どうやって回避したものか、と考え始めたところで、唐突にバケツをひっくり返したような勢いで雨が降ってきた。何よりも先に、同人誌が濡れてしまうことを恐れる。
「雨降ってきちゃったし、屋根のあるところに移動しない?」
「だったら、車に入ろうか? ついでだから家まで送ってくれるように頼んでみるよ」
うんともすんとも言わぬうちに、あやせが桐乃の腕を引っ張る。走り出したのは、桐乃と「プレゼント」をぬらさないようにという配慮であったのだろう。しかし、如何に陸上部とはいえ、棒立ちの状態でいきなり引っ張られても対応できるわけではない。咄嗟に、足を前に出すことができず、桐乃は前のめりに倒れてしまう。
「ごめんね。大丈夫?」
慌てて駆け寄ってくるあやせに、大丈夫、と声をかける。幸い、手をついたので顔に怪我はなかったし、少しの痛みはあるが膝も大した怪我はしていないと思う。
両手を突いて、顔を上げると、飛び込んできたのは落とした紙袋と、そこから雪崩のように出てきた同人誌であった。
「大丈夫?」
と、もう一度あやせが声をかける。しかし、その声は酷く冷たいものだった。
慌てて桐乃は同人誌を袋の中につめなおすが、遺憾占領があるし、不幸にも雨にぬれてしまった本は綺麗に袋に収まってはくれない。
四苦八苦しているうちに、あやせが適当な本を一冊つかむ。それ以外全てを袋にしまい、立ち上がると、あやせがどの過ぎた恐怖を味わったような笑顔を浮かべた。
「ねぇ、これって、何?」
「あ、の、それは……」
何の言い訳も思いつかない。せめて普通の漫画だったら良かったのに、あやせが手にしていたのは、十八禁の内容のものだった。
「とりあえず、返すね」
「……うん」
あやせから本を受け取って、袋の中にしまう。
「それ、京介さんのプレゼントじゃ、ないよね」
その言葉に、なんとも答えることは出来なかった。
「だって、仲が悪いんだもんね」そう呟いてから「そっか、仲良くないんだ」とたった今気がついたように、もう一度呟く。
「……うん」
小さく答えた途端に、なんともいえぬ虚脱感が彼女を襲った。思わぬ形で目標がなくなってしまったような、そんなやるせなさを感じる。
あやせが何かをこらえるようにこぶしを握り締めているのが見える。力をこめているのか、こぶしは震えていたが、ふとその振るえが止まると、無感情な声を投げかけてきた。
「ごめんなさい。私、そういう趣味の人とは、今後お付き合いできません。……高坂さん、お願いですから、もう学校でも話しかけないでくださいね」
そういうと、彼女は一人で車の方へと走っていってしまう。彼女が乗り込み、車が走り出すと、桐乃もゆっくりと歩き出した。
駅へと歩く途中、ガラスに映った自分の膝から、僅かに出血していることを気づく。その場にしゃがみこんで、膝の様子を見る。怪我はそれほど酷くないが、思ったよりも出血していて、足首の辺りまで血が垂れていた。
ふとした拍子に傷に触れてしまって、痺れるような痛みを覚える。立ち上がろうともせず、何かのリズムでも取るかのように、何度も傷口に触れる。段々痛みになれてくると、今度は押し付け、擦りつけた。先ほどまでとは比べ物にならない痛みに、涙がにじむ。その涙が傷口に落ちて、痛みを感じると、堰を切ったように、涙が溢れてきた。
声を押し殺して泣く。強がりの彼女は、昔から泣いていることを悟らせないように、声を押し殺して泣いた。
幼い頃はその小さな鳴き声でも、誰かが迎えにきてくれたのに、今は周りに誰もいない。
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