二代目
全身が楽にうつる大きな鏡の前に洋一は立った。
鏡の中には、何も身に付けていない、生まれたままの自分の姿がある。
洋一の目が、その後ろにあるワードローブへと移動する。
開かれたその扉の中にある、無数の服。多種類のバッグ。
そしてウィッグ。
それらは全て女物だ。
ゴクリとのどが鳴った。
----- 今なら引き返せる、やめろ、やめるんだ!
内なる己の声に、洋一の動きが止まった。
----- なんでヤクザの俺がこんなことに・・・・・・
もう一人の自分がため息をつく。
そして洋一は、呼吸をするのも忘れて固まった。
彼は幽姫洋一30歳。
この街の暴力団組織、紅椿一家会長の不肖の息子、つまり跡継ぎである。
関西の指定暴力団に所属する紅椿一家は、全国レベルからいえば吹けば飛ぶようなちっぽけな組だが、この地方都市では、商業・工業・政治と、あらゆる分野に根を張る、裏の実力者だった。
その二代目と言われる洋一は、全身でヤクザを表現している父・義隆とちがって、銀河鉄道の某美人もうつむいて泣き崩れるといわれるくらい美しい眼と身体をした、母・凛にそっくりだった。
そのせいでやたらとモテた。女性はもちろん男にも。
言い寄る女の子たちには愛のキスを。
鼻息を荒げて近寄る男どもには重い拳を、おしみなく与えてきた。
そうやって生きているうちに、ヤクザの息子という肩書きも後押しして、いつの間にか立派な次期二代目と言われるようになっていた。
持ち前の美貌とは裏腹な洋一の凶暴性と悪事の際の頭のキレも、これからの彼の地位をゆるがないものとしていた。
今夜もこの街で一番のクラブで飲み明かし、お姉さんたちの決しておせいじではない熱い視線に見送られて店を出た洋一は、送るという組の者をムリヤリに帰すと、一人深夜の街を歩き出した。
「二代目、ごくろうさんっス!」
「おつかれさまっス!」
洋一の姿はどこへ行っても目につくらしい。
道行く多種の人々からそんな挨拶が彼に贈られた。
洋一は鷹揚にそれらを受けながら、少し足を早めて通り過ぎてゆく。
盛り場を離れ、シャッターの下りた商店街へと足を踏み入れたところで、洋一は止まってあたりを見回した。
照明に照らされたアーケードの中は、人っ子ひとりおらず、まるで墓場のようにシーンと静まり返っている。
洋一のなで肩がガクリと落ち、弱いため息が口から漏れた。
----- やっと独りになれた・・・・・・・
さっきまでの辺りを睥睨する目と威圧する足取りは消え、美しい大きな瞳をうるませ、長いまつげをしばたかせて、また歩き出した。
----- どうしてこうなっちゃったのかなぁ・・・・・・・・
うつむいて歩きながら、独りになるといつも考えることをまた心の中で繰り返した。
本当の洋一は、その姿形を同じで、とても繊細で華奢な心の持ち主だった。
学問、スポーツともに優秀。華道、茶道、日本舞踊は師範級。
おまけに絵を描き、詩を作り、歌までうたうという、西洋のルネッサンス人の生まれ変わりのような母に似たのだと洋一は思っている。
むらがる女の子たちに対応しているうちに、無類の女ったらしと噂されるようになり、いやらしい目で言い寄ってくる男どもの顔面をグーで連打してしりぞけていたら、狂犬と呼ばれるようになった。
全てはふりかかってくる火の粉を払うための諸行だったのに、やがて誤解はくつがえせないほど深まり、今ではヤクザである。
洋一は、巌を刀で斬りつけてから、それにエロスを塗りたくったような父のいやらしい顔を思い出して、ブルルと身を震わせた。
----- イヤだ!絶対にあいつみたいになりたくない!
しかし、彼はヤクザである。
同類、それも組織経営なら親をもしのぐとさえ言われていた。
少しでもヤクザらしくするために坊主に刈ってある髪-----本当は綺麗で細く明るい栗色の髪だった-----をガリガリとかいた。
次に洋一は、アルフォンス・ミュシャ描く女性に、菩薩の知性と微笑みを足して、神が造りたもうたフィギュアを持つ、母の姿を思い浮かべる。
----- あぁ、かあさんはやっぱすごいなぁ、カンペキだ・・・・ なんであいつなんかと結婚したんだろう
ここで彼の為に断っておくが、洋一はいわゆる世間でいうマザコンではない。
母である凛は、女性と言う偶像を極めた存在ではあったが、立派な社会人でもあり、己の息子に惑溺などせず、また必要以上に彼を精神的に近づけたりはしなかった。
だいたい彼女自身がヤクザの娘だったのである。
だから洋一は純粋に、まるで少女が宝塚の男役に憧れるような気持ちでもって、母のことを敬愛しているだけなのだ。
しかしその母は、洋一が小学校にあがった年に家を去り、そして成人した年に住んでいたマンションの鍵とあるものを置き土産にして、イタリア人のダーリンと共にフィンランドへと旅立ってしまった。
洋一は世界地図を片手に、そのフィンランドを探したこともある。
南米のどこか、たしかコーヒー豆の産地だったと思っていたその国は、バルト海に面した北欧の寒い国であった。
緯度、軽度共にまったくちがっていたし、なによりも日本からは遠すぎた。
洋一は涙を飲んで、母に頼るのをやめ、己で生きなければならない。
まぁ実際の話、生きていくのは楽勝でできるのだが、幸せとは程遠いクライムな世界でこれからもやっていくのかと考えると、気がどんどん滅入ってくるのだった。
逃げ場はなく、またやりたいこともない。
ただ行き詰まり感だけがあった。
かといって、盗んだバイクで走り出すようなことはとっくの昔に済ませてあるし、だいたい30でヤクザの自分がまたそれをするわけにはゆかない。
----- どうしてこうなっちゃったかなぁ・・・・・・・
結局、この問いに戻ってくるという無限ループの中、洋一が切ないため息をついたとき、アーケードの脇の暗がりから、とつぜん人が飛び出してきた。
いつもの洋一なら母ゆずりの運動神経でヒラリとかわすのだが、落ち込んでため息をついている最中だったので、まともにぶつかってしまった。
急に自分の懐に飛び込んできた人物は、黒いヒラヒラの布で出来たメイド服っぽいものを着ていた。女の子のようだった。
突っ込まれたわき腹が痛かったが、ヤクザモードでないときの彼は優しい。
どなりもせず、彼女の肩をそっとつかむと、
「大丈夫ですか?」と声をかけた。
「ごめんなさい、すみません!」
彼女はうつむいたままでそういうと、するりと洋一から逃れて、アーケードの中を駆け去っていった。
あまりの早業に洋一はしばし、ぼうぜんとしていたが、彼のするどい頭脳はすでにうごき始めていた。
----- あれ・・・ なんか声低くなかったか? それに肩もえらくがっしりとしてたような・・・・・・
5秒で答えは出た。
----- あっ! 男!?
正解である。
どうも最近、水面下で秘かに増えてきているという、女装の男、女装子というのに当たったらしい。
夜のドキドキお散歩を愉しんでいる最中に偶然、洋一にぶつかってしまったようだ。
めずらしいものを見た気分で、また歩き出そうとしたとき、洋一の胸・・・・・・ いや、正確には恥骨の奥あたりがピクリと震えた。
----- なんだ?
思わず足を止めてしまうと、今度は脳内で何かがドクドクと溢れ出してきたのを感じる。
それに同期するように、心臓がコトコトと音をたてはじめた。
----- ど、どうしたっていうんだ、俺!?
訳がわからず目を見開いて立ち尽くした洋一の胸ポケットの中で、存在を誇示するようにチャラッとキーが音をたてた。
それは、母が洋一に残してくれたマンションの部屋のキーだった。
午前3時。
洋一は震える手でキーを取り出すと、ガラスドアを開けて母のマンションのエントランスに足を踏み入れた。
エレベーターで35階へと上がると、扉を開けて部屋に入る。
玄関は暗く冷えていた。
すぐそばにあるスイッチを押して明かりをつける。
短い廊下が、彼をいざなうようにパッとあらわれた。
誰もいないのに、洋一はそっと足を忍ばせて進んでゆく。
2LDKのどこにでもある小洒落た部屋だった。
これまでもここへは何度もやってきていた。
別に母を偲ぶわけではなく、組や彼女たちに知られていない、独りっきりになれる場所だったからだ。
また壁際にあるスイッチを押して照明をつけると、人が住んでいないことが不思議なくらい物がそろった寝室が映し出された。
母・凛はすべてを置いて、この部屋を出て行ったのだった。
理由は知らない。
実は大雑把で豪快なところがある凛なので、面倒で身一つで去ったのかもしれない。
そしてここで洋一は、全裸になって鏡の前に立ってしまったのだった。
長い回想は終わり、現在の洋一である。
自分がなんの目的でこんなことをしているのか、彼はわからなかった。
あの女装子に突き当たってから、憑かれたようにここへやってきて脱いでしまったからだ。
ただ自分が今から何をしようとしているのかは、はっきりとわかっていた。
とまどっているのは、それを認めたくないだけなのだ。
その証拠に洋一の身体はまた動いて、ワードローブの下にある引き出しを開けている。
すーっと音も無く開かれたそこは、下着が咲き乱れるお花畑だった。
洋一の脳内に流れ込んでくる、妙な液の分泌量がグンッと跳ね上がった。
そして視線が己の股間へと向けられる。
そこにあるよう洋一自身-----彼はそれを「暴れ坊主」と呼んでいた-----は、こんなにもドキドキしているのに、なぜかおとなしかった。
----- なんだ? 俺は心の病なのか!?
そうでもあるし、ないともいえよう。
とまどう心とは別に手は着々とまたうごき始めて、黒いセクシーなランジェリー、俗に言う「ひもパン」を指がつかんで履いてしまう。
そして絶対に合う訳がないと思っていた、母のブラが己の胸にピタリとおさまったとき、その動きは、もはや止めることは不可能なほど加速した。
無意識に目は、さきほどの女装子が着ていたようなメイド服を探している。
しかもあるはずがないそれが、なぜかあった。
----- か、かあさん・・・・ あなたっていう人は・・・・・・・・・
息子の将来を見通していたかのようなチョイスであった。
遠いフィンランドのある方角を洋一は思わず見上げてしまったが、それはまったくの方向違いだった。
フレアなスカートをはき、「入るかな?」と思いながら、そっとブラウスに手を通す。
なんなくそれは体にフィットした。
悪魔のしわざかと思うくらいの偶然だったが、親子なんだから他人より体型が近いのは当たり前なので、実は偶然でもなんでもない。
ただ洋一は、それを神のしわざだと思った。
何種類も吊るされているウィッグの中から、長いストレートな黒髪のものを選んでかぶる。
完成した己の姿を洋一は、張り裂けそうなくらい鼓動している胸を押えながら、鏡に映してみた。
化粧をしていないのでさすがに違和感があったが、意外と見苦しくない自分が中に見えて、洋一はおどろいた。
学生時代は剣道で鍛えぬき、今でも素振りをかかさない身体だったが、なぜか筋肉質に見えず、あくまで見た目は華奢でか細いことがこの現象に利を生んでいた。
この身体と顔のせいであらゆる精神的災害を被ってきたのに、皮肉にも今はこんなに自分の胸をときめかせている。
原因と結果である今とのギャップに、洋一は頭がクラクラした。
しばらくそうして自分の姿を見ていたが、ふと今までの緊張がゆるみ、目を鏡からそらせた。
すると、その先にドレッサーが見えた。
----- あぁ・・・・ もうそのくらいにしてぇ・・・・・・!
そう胸中で叫んだが、再び火がついた心は許してはくれない。
というか、すでに語尾が女性化している。
高校時代にビジュアルバンドのボーカルを、その時の彼女にムリヤリやらされていたので、化粧方法がわかっていたのがまた不幸だった。
母は仕込んだように化粧品もしっかり残していってくれていたので、あっという間に顔ができあがる。
「あっ!」
自分の顔を見て、洋一は声をあげてしまった。
双子とはちょっと言いすぎだが、年の離れた姉妹くらい母に似た姿が鏡の中に見えたからだ。
さっきまであった、ウィッグや服とのズレがかなりなくなってきている。
これは凶悪さをだすために細く剃りあげている眉の効果も大きかった。
洋一は、ヤクザになって初めて、己の職業に感謝した。
適当にファンデーションをたたき、まつ毛をビューラーではねあげ、マスカラを塗ってアイライナーを引いただけなのに、目はぱっちりと大きく広がって見え、つけまつ毛など必要ない。
しかもなぜかびしょびしょに濡れている瞳が妖艶なものを発散しており、アイシャドーすらいらないくらいだ。
元々細いフェイスラインがファンデでさらに引き締まり、顔を構成するパーツ一つ一つをうまく演出している。
とどめの唇は、小さな薔薇が咲いているように、輝きを放っていた。
「あ・・・・・・」
ついに洋一は、あまりに変貌をとげた己の姿に気を失ってあおむけに倒れこんだ。
精神と肉体のコペルニクス的転換に耐え切れなくなったようだった。
だが数秒でガバッと起き上がり、またドレッサーの方へと駆け寄ると、完成した自分の姿を見始めた。
いつしか窓の外には朝日が昇り、チュンチュンと雀の鳴く声がしていたが、洋一は夢中で気がつかなかった。
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