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教義の変節は、須らく邪宗の証しである

 投稿者:管理人  投稿日:2012年 4月11日(水)15時00分32秒 softbank219205006025.bbtec.net
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  『前に言っていた事と、今言っている事が違う宗教は邪宗である』

とは、応に恩師戸田先生による殊言である。

本より、宗教者として、否、仏法者として、其れまで堅持していた仏法義を悉(ことごと)く破棄し、
新たなる教義を造説するなどは、其れが如何なる理由であろうとも、許されるものではない。

日蓮大聖人が曰く『昔と今はかわるとも、法華経のことわり違(たが)うべからず』と。(新編 1183)

まして教義の変節が、宗門からの破門によって生じたとなれば、其れこそ宗門からの破門が無ければ、
其れら教義の変節は無かったという事になるのである。つまりは、そういういい加減な都合に依って、
お前らの変節は成り立っているのである。ったく、恥かしいとは思わんか。哀。

果たして、そういう主体性の無い変節漢にして、鉄面皮(恥知らず)な教団と申せば、お前らが其の功
績を讃えた彼の立正佼成会が有名であろう。

さても此の教団、庭野日敬などが霊友会から離反して創られたものであるが、何と此の教団の本尊は、
設立した昭和13年から昭和23年までの10年間に5回も変更(変節)され、其の後の昭和32年、
庭野日敬は『今までは方便の時代であり、今こそ、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊を本尊とすべき』
などと宣言して、実に6回目の本尊変更を行ったのである。

おいおい、『今までの本尊は方便であった』『今までの教義は方便であった』つまりは、だから今は
用いない。果たして、此の言い訳、まったく、お前らと類似しているではないか。否。お前らなどは
『今までの教義は邪義であった』などと打ち捨てるのであるから、其の変節ぶりは立正佼成会よりも
酷(ひど)いと云う事である。ったく、情けないよのぉ。呆。

して、お前らは、我ら富士門信徒からの呵責に論窮すると、必ずと言っていいほど『其れは破門以前
の教学だから、今の我らには通用しない』などと、白を切るのである。呆笑。

ならば一体、破門以前のお前らは、邪教を信じていた謗法の徒輩であったのか!

して、其の無智なる棟梁が、恩師戸田先生であり、そして、池田太作であった、と云うのか!

ったく、馬鹿な事を云うものではない!

果たして昨今、お前らが発行せし仏教哲学大辞典をして『一体、いつのモノですか?』などと惚(とぼ)
けておるが、云うまでも無く、初版(三版も含)までの仏哲に記(しる)されている仏法義の解説を今更に
否定する事は、須らく恩師戸田先生の教学指導を否定する事であり、其れこそは恩師の存在そのもの
を否定するものである!

本より、上版に記されている仏法義は、お前らが興門正統の断絶と大騒ぎした日顕上人御相承以前の
日達上人当時の教説であり、今は其れを邪義として使用しない、などと云うは、応に後付による自己
撞着の言い訳であり,日興門流として通用するものではない。大体、教団設立当時から堅持していた
仏法義を、破門されたという理由で、其の根本教義を根底から破棄するは、其れまでの折伏内容を自
らが完全に否定するものであり、其の折伏によって入信した幾百万会員の信心を謀(たばか)った事に
なる! そんな都合の良い変節教学を以て、我らが持する本来からの立義に反論する事自体が論外なの
であり、そういう変節を以って、己(おのれ)の主張を宣べるは、これ応に『言い繕い』の類(たぐい)で
あり、仏法者としてあるまじき、撞着(どうちゃく)の恥態である!

先ずは第一、初版から三版までの仏哲に記されていた仏法義が、今にして邪義となった法義的根拠を、
其れこそ恩師の教学指導から、其れを証明してみせよ。よろしいか。

ったく、戸田先生をして『恩師』とは、如何なる事を以って称するか。お前らは解かっておるのか!

よいか! 戸田先生をして『恩師』と呼ぶは、実に大檀那として正法正義を我々に説いて下さった、
其の大恩と尊敬の念をもって呼ぶのである! 爾(しか)らば、其の正法教学を説いて下さった恩師戸田
先生の御指導からして、上版仏哲の富士門教学に於ける内容が邪義でない事は、火を見るより明らか
ではないか!!

大体、其の当時の仏哲に記された教学が、今に成って邪義と云うのであれば、其の当時の創価学会は
一体全体、どの様な集団であったのか。つまりは、恩師戸田先生は、誤謬教義を信奉する棟梁であっ
たと云う事か。云うまでも無く、即身成仏義などは、組織破門の理由によって変節する内容ではない。
本からして、不変の教義である。仍って、此の即身成仏義に於ける対論に於て、仏哲に示された文証
を今にして白を切るは、此れ論敗の証しと成るのである。

●日蓮(大聖人)は末法の本仏ではない
●戒壇の大御本尊は後世の創作だ
●二箇相承の鑑定書を出せ
●本因妙抄は偽書だ
●百六箇抄は要法寺の相伝書だ
●産湯相承書は捏造書だ
●御義口伝は無名者の創作文だ
●日有(上人)が本仏論の張本人だ
●日寛(上人)は謗法甘受の邪師だ

よいか。これすべて、お前ら創価学会員の言い分である。

何とも情けないものよのぉ。呆(あき)れてモノも云えんぞ。呆。

鼻笑。

よくもまぁ、其の様な体たらく(主体性の無さ)で、我ら富士門の教学を突くものよ。呆笑。

ったく、お前らは『馬鹿』である。『馬』を見て『鹿だ』と言い張る『馬鹿』である。哀。

池田太作に云く、

『僕が言うのは、法律的届けの問題は一夫一婦制になっている、ということ。ただし、ただしですよ、
もし、それだけの理由と力があって、しかも誰にも迷惑をかけないという場合には、一夫一婦制の枠
外の行為でも、私は男性として認めます』(『月刊宝石』昭和45年)1月号)

果たして、此れは何なのだ。

して、此の桂冠詩人の不貞容認論は、今のお前らからして『変節』はせんのか。鼻笑。

ったく、御隠尊猊下の『かまし』どころではない。

お前らは、本当にどうしようもない連中である。

お前らは、本当に恥を知るべきではないのか。哀。
 
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