つらつら日暮らし

仏教、禅宗を学ぶ曹洞宗の禅僧によるつらつらなる日暮らし。時事ネタ、野球ネタもあります。

反・戒名不要論?

2012-04-09 12:19:43 | 仏教
これは、戒名不要論を唱える記事ではなく、戒名不要論に抗う記事である。マスコミから、こういう調査結果が出されている。

戒名必要ない56%、葬式簡素派9割…読売調査(読売新聞)−Yahoo!ニュース

こういう記事が、わざわざ「4月8日・花まつり」の日に出て来た「恣意性」を拙僧は問題視してしまうのだが、日本のマスコミ、余程、日本の伝統仏教については壊滅させたいらしい。実際のところ、宗教団体のマスコミ対策費というのは、広告収入減少に喘ぐマスコミにとって、今後はより大事にしていきたいところではないかと思うのだが、ここには多分に、未だに「国家神道」を潜在的に肯定したい日本の官僚の意図なども考えていくべきなのだろう。

誰も問題視しないので、拙僧も不思議なのだが、今年の3月11日、日本政府は東京都千代田区の国立劇場で政府主催の東日本大震災一周年追悼式を開催している。そこには、天皇・皇后両陛下もご臨席されて、ともに哀悼の意を捧げられた。しかし、このような政府の主催による「追悼式」というのは、いたずらに宗教的行事となり、結果、政府そのものが宗教行為を行うという政教一致にしか見えないのである。

政府は、このような愚行は止めるべきであると思うが、結果的に、こういう「儀礼」を通して、政府そのものが決して被災者や、死者に対して関心がないわけではないことを見せるために、追悼式を行うのである。だが、この方法は、決して褒められたものではない。むしろ、いくつかの宗教系連合団体に合同で追悼式をさせ、そこに両陛下を出席させるべきであったと、拙僧は強く思う。

さて、本題に入るが、世の戒名無用論に対抗するという時、実は、我々自身の方策は限りがある。それは、まずは我々自身の信ずるところを、素直にありのままに申し上げることである。それは、戒を受け戒名を付けねば、絶対に成仏できないという信念である。日本では、一般的に亡くなられた方を「ほとけさま」などと称することもあるが、これは本来仏教の文脈にていわれることであった。しかし、それが一般の方にも広まって、「ほとけさま」は一般名称になった。

だが、もし、原理的なことを申し上げれば、これはやはり、仏教的儀礼とは切り離せない存在のはずで、ただの告別式のみを行う場合や、神道式・儒教式の葬儀を行った場合、その死者は「ほとけさま」には成り得ない。ただ、興味深いのは神主であっても、「ほとけさま」なんていう発言をする場合があると聞いているので、この辺は注意が必要だ。

また、そもそも戒名を不要だと思う理由を考えてみなくてはならない。まずは、先の信念吐露と並んで、ただの教育不足の可能性はある。いわゆる儀礼が必要だという意味の説明である。先の記事では「価値観の多様化」に話を持っていこうとしているが、それが本当に良いことかどうかは分からない。むしろ、それがために、故人との精神的繋がりを無くし、根無し草のような意識でもって一生を生きる不自由さ(この段階で、我々のための解釈を意図的にしている)を強いられる可能性だってある。

或いは、供養や葬儀の費用的な問題も挙げるべきであろう。何時の頃からかは知らないが、葬儀費用の内、特に寺院や住職に対して行われるお布施が、「サービスへの対価として金銭を支払うこと」だと理解(曲解)され、その結果、実感の出来ない「サービス」への不信感から、供養離れに繋がる可能性は指摘しておきたい。だが、この場合も布施・供養の真意、つまりは功徳を得るためであることの主張を行う必要性を感じる。そして、布施は現代的な経済的な交換とは全く違う原理、互酬性に依拠していることを指摘しなくてはならないように思う。

そして、後は、正直なところ、ここまで世間に於ける供養の無関心が増大していくのならば、我々禅僧もただ個人的な修行のみを行うことを目指し、一切の檀務を放棄して、本当に山の中に入り、完全なる自給自足を行うのも本気で検討した方が良い。かつて、中国で破仏が行われたとき、我々の先達はそのようにして逃げたものだ。その意味での逃避は、遁世と同義であり、自らの聖胎を長養する最善手でもあった。

夜坐更闌けて眠り未だ至らず、弥よ知る弁道は山林なるべし、
渓声耳に入り月穿つ眼を、此の外更に一念の心無し。
    『永平広録』巻10-偈頌101


このようにカラッと生きてみれば良いのだが、しかし、授戒を媒介にして、菩薩の行いを進めていくという観点も捨て難く、結局は、今のところ授戒・戒名・葬儀実施の敷衍に勤めるべきなのだろう。島田裕巳氏がいうには、我々曹洞宗が「葬式仏教の産みの親」であるらしいが、いや、彼にしてみれば、「反仏教的な葬式仏教の産みの親でダメな連中」といいたいのだろう。だとすれば、いよいよダメになれば、遁世するという話で良いような気もしている。

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2 コメント

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Unknown (天真)
2012-04-09 18:16:49
マスコミは自分達に都合のいいような部分を報道しますから、数字だけを鵜呑みにしない方がいいと思います。
私の親や身内が高齢になり、自分の葬式の話を聞かされる事がありますが、戒名は要らないといった人はひとりもいませんでした。
生きている間にお寺さんと相談して戒名を授かるのがいいのかなと思います。
コメントありがとうございます。 (tenjin95)
2012-04-10 06:32:19
> 天真 さん

> マスコミは自分達に都合のいいような部分を報道しますから、数字だけを鵜呑みにしない方がいいと思います。

仰る通りですね。本文中に挙げた島田裕巳氏も、研究者を自称しますけど、数字の扱いは恣意的で、ウチの宗派の調査に関わってくださっている、或る社会学系の先生が徹底的な批判をしていました。

今回の数字、鵜呑みにすること無く、問題は問題として受け止め、善処したいと考えています。

> 私の親や身内が高齢になり、自分の葬式の話を聞かされる事がありますが、戒名は要らないといった人はひとりもいませんでした。

ありがたいことです。これにあぐらをかくことなく、我々も精進していきたいと思います。

> 生きている間にお寺さんと相談して戒名を授かるのがいいのかなと思います。

そうですね。正式に授与しなくても、決めておくくらいはあっても良いと思います。正式な授与式(=授戒会)は、実際かなり大変な儀式ですので(ご参加いただければ、本当に良いですけど)。

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