2012/3/24
「日陰の女と演技論」
写真はスタニスラフスキー
Koheleth(コへレト)とはキング・ジェームズではEverything is Meaningless(意味は何ひとつありはしない=空しい)で始まります。The words of the Teacher,son of David,king of jerusalem.つまりダヴィデの息子と言っているのですが,コへレトは伝道の書というか説教師を指しているのです。つまりPreacherなのですが英文ではTeacherとしているところが面白い。この雰囲気を敏感にとらえたのがシェークスピアの文章に多く見られます。
例えばマクベスでは.......
『 明日,また明日,また明日と,時は小きざみな足取りで一日一日を歩み,ついには歴史の最後の一瞬にたどり着く,昨日とという日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた。消えろ,消えろ,つかの間の燈火(ともしび)。人生は歩き回る影法師,あわれな役者だ,舞台の上でおおげさにみえをきっても,出場が終われば消えてしまう。わめきたてる響きと怒りはすさまじいが,意味は何ひとつありはしない』
写真はシェークスピアを育んだ田園ストラッドフォード・アポン・エイボン
ウイリアム・シェークスピアは1564年イギリスのストラットフォード・アポン・エイボンに生まれました。同じ年にセルバンテスが生まれ,同じ年に二人とも52歳で死んで往きました。ドンキホーテは宇宙を眺め叶わぬ夢を追っていたのでしょうか?
シェークスピアの本を読んでみると,必ず星座に関する記述があります。「私はクルミの殻の中に閉じ込められた小さな存在に過ぎないかも知れない。しかし私は自分自身の無限に広がった宇宙の王者と思い込むことも出来るのだ」とハムレット第ニ幕場面ニで言っています。
このエリザベス朝最大の劇作家は,戯曲と詩に,当時の占星学に関する世間の興味を反映させています。もっとも有名なのは「リヤ王」の中で私生児のエドムンドに言わせています。「べらぼうな話だ。運が悪くなると〜それはたいてい自業自得なのに,その不幸の原因を太陽や月や星のせいにする。人間は天体の圧迫で,よんどころなく悪者にもなり,阿呆にもなるかのように思って,悪党となるも,盗賊となるも,謀反人となるも,同じく天体の争いがたい感化。大酒のみも,うそつきも,間男も,みんな止むを得ない星の影響。
おれの親爺は大熊星の下でおふくろとねんごろにして,そのために俺は気が荒くて色を好む。フン,よしんば大空で第一等の潔白な星が,外借腹の真っ最中に,どうきらついていようとも、俺はまさにこの通りにお育ち遊ばしたに相違ないわい」注:外借腹(げしゃくばらの原語は日本で言う「放送禁止用語」ですから,説明しなくてもわかりますよね!
ラルフ・ワルド・エマーソン,あんたもかい?「占星学は,地上にもたらされ,人間の生活に適用された天文学である」と。
そういえば宮廷というのは暇だったらしく,エリザベス一世とジョン・デイ,カトリーヌ・ド・メディシスはじめJ・Bモリン,法皇ウルンバ8世,ウエールズ生まれのエヴァンズ,ヨハネス・ケプラー、アラン・レオ,エヴァンゲリン・アダムス,マーガレット・ホーン,最近亡くなった米国のディーン・ラドハイアーなどまだまだおります。
聖書ものがたり・コへレトの言葉参照
働く者の眠りは快い/満腹していても,飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。(コヘレトの言葉:第5章12節)
現在の新宿2丁目はかつての赤線地帯である。パンパンくずれの梅毒もちの女の掃き溜めであったこの2丁目も作家にかかると見違える女になる。
「青春の門」自立篇で早稲田大学へ入ったばかりの信介は,ある日校門の前にいた2年生の緒方に出会い,物語は始まる。緒方は演劇を専攻し信介は,はじめて新宿2丁目の「かおる」を知る。学生は金がない時,かおるのもとへ本を持参して金を借り,バイトが終わると借りた金と引き換えに本を返してもらう。
いつもかおるの部屋は,貧乏学生の本でうまっていた。悲しい真理を知りつくしている哲学者的「かおる」と楽しい真理しか知らない学生との交流を描いている。
緒方は信介に言う。夜になると面白いぞ あっちでもこっちでも女達の例の声がきこえてな。あれは客に早く行かせるための演技にすぎんがね。
「スタ二スラフスキーの演技論]では,まず自分が感情移入して その役と状況に没入してしまわなきゃならん。
だがここは演技で没入しちまったら意味がないだろ。自分はあくまでも醒めていて,客だけを興奮させなきゃならんのだからな。
夢中にならず真に迫る,という困難な命題が彼女達には課せられているわけだ。
日陰の女を描く場合,具体的な男女の交接はもし表現されれば,一瞬に文学的価値を失う。 谷崎潤一郎の「痴人の愛」の[なおみ]を今演じられる女優はいない。松島奈々子とか藤原紀香では到底お呼びでない不可能な世界なのだ。
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こういう女性がナオミのイメージでしょう。なおこの女性は韓国の方です。
強いてあげれば「なおみ」に一番適しているのは誰であろうか?また河合譲治役には「佐藤浩一」。 もし僕が監督だったらやってみたい。
これほど難しい映画はないのです。あの「かおる」と同様「なおみ」も悲しい真理を知った女でなければならない。その上で「痴女」を演じる。つまり正気の狂人女を演じるということだ。
残念ながら楽しい真理しかしらない監督では到底無理なことである。理性の目には「汚辱」と見えることが,感情の目には「立派」に見えるのだから。(ドストエフスキイ「カラマーゾフの兄弟」熱烈なる心の懺悔より)
スタニスラフスキー・「俳優修行」の分析・研究
「My Life in Art」を1924年に執筆し、スタニスラフスキーは当時世界的に名が知れ渡っていた「system」についての本を出版する運びになりました。彼の考えとしては、「身体的」な人物形象化とともに、「心理的」な俳優訓練・準備について書くつもりでしたが、アメリカの出版社が、分割するよう提案しました。「心理面」と「身体面」を別々に発表することで、読者が誤解を持たないか恐れました。「心理面」「身体面」は一枚のコインだと考えていましたから。しかし、しぶしぶその案に従うことになりました。かくして、「An Actor's Work on Himself in the Creative Process of Experience」と「An Actor's Work on Himself in the Creative Process of Physical Characterisation」の執筆が準備されます。スタニスラフスキーが、本全体の概略でも書いていればよかったのですが、書いていなかったために、その恐れは現実のものになりました。スタニスラフスキーは「メンタル面の人」「スーパーナチュラリズム」という印象を、最初の本が与えてしまい、大きな誤解を生むことになりました。この誤解はロシア国内においても例外ではありませんでした。
実際は三冊で全てを網羅するところを、二冊しか発表されず、しかも最初の「An Actor Prepares」(これが大抵はスタニスラフスキーの全貌と見られてきました)は、半分のことしかいっていないのです。だから、スタニスラフスキーを知った気になっていてはいけないのです。アメリカのメソッドも、旧知のスタニスラフスキーも、オリジナルのスタニスラフスキーの全貌から見ると、一部に過ぎないのです。
そして、更に悪いことに、英語版の翻訳のとき、勝手にカットされてしまっているのです。そのために、大事なところが説明不足になっていたり、混乱を招きがちになっています。例えば、ロシア版では、俳優が新しい役に取り組むとき必ず問わなければならない重要な要素を6つ(誰・いつ・どこで・なぜ・なんのために・どのように)を挙げているのに対して英語版はその内四つの概略を書いてあるだけです。英語版でさえ、このように問題が多いのに、それを日本語にした「俳優修業」が更に誤解を生む本になるのは当然です。「俳優修業」は逐語訳になっているので、余計取っつきにくく、また専門用語をわかりにくくさせています。本当は、平易な形で、いかにも専門用語というように書いてはいないのです。しかし、英語版でそのニュアンスが専門用語的になり、日本語版で理解しにくい「超目標」や「単位」という言葉になりました。現在、英語のスタニスラフスキー研究本では、よりスタニスラフスキーが意図したであろうニュアンスの言葉に直されてきています。例えば「目標」である「objective」は、「task」という言葉になっているのをよく目にします。
しかし、この「An Actor Prepares」。俳優やトレーナーにとっては宝の山のようなものです。数多くある演技の重要要素についての豊富なサジェスチョン。また、どれだけスタニスラフスキーが深く演技を考察してきて、どれだけ俳優の立場に立ち、どう習得していけばいいかを考えてきたかがわかります。
誤解の多いスタニスラフスキーと「俳優修業」。このコーナーが、その誤解を解き、より明確・正確に理解する手助けとなればと思います。
Chapter1: The First Test(最初のテスト)
コスチャ(Kostya)少年をメイン主人公に、演出家トルツォフ(Tortsov)の指導風景を通して、スタニスラフスキーは自らの考えを書きつづっているのが「俳優修業」の構成です。
この第一章において、最初に注意を喚起している点は、俳優初心者はとかく演じたがってしまい、すぐに結果に走り、プロセスを無視してしまうということです。最初の授業での発表のため、コスチャは「オセロー」を選び、夢中になって真似事をし、大成功をもたらすと確信していました。特に、内面には目もくれず、外面の真似ばかりをしていたのです。そんな彼は練習ですぐに行き詰まり、演技の難しさを感じます。また、発表の時の厳粛な空気に萎縮します。スタニスラフスキーは、俳優入門者の立場に立って、得体の知れない演劇の魅力や、演技の深さをサジェストしているのです。
最初の授業の日、コスチャが遅刻をしたとき、演出助手のラフマノフが強く戒めますが、これも俳優入門者に対する忠告です。「俳優は鉄の規律に従わなければならない」とラフマノフはいっています。
Chapter2: When Acting is an Art(演技が芸術である場合)
悲しいことに、日本で演劇を芸術と捉えて活動している人はどのくらいでしょうか。この章では、芸術であるという観点に立って、まかり通っている偽物の演技(俳優入門者にありがちの演技)を批判しています。
かくして、コスチャはオセローを演じ終えましたが、無我夢中でなりきって演じたため、自分の内部でどういう事が起こっていたかとたずねられても思い出せません。そこでトルツォフは名優サルヴィニの言葉を引用し、「自分の感情を感じているべきだ」といいます。ここでは、インスピレーションや潜在意識の大切さを伝え、それが「役を生きる(living a role)」ことにつながるといっています。ここで間違えてはいけないのが、「なりきること」が「役を生きること」ではないということです。だからこそ自分の感情を覚えていなかったコスチャを咎めたのです。役と自分の相互関係のなかで、潜在意識を導くのは意識だからです。これが一つめの偽物の演技「なりきること」が「役を生きること」だと勘違いしていることです。
次に出てくるのが「役の具体化(representing a role)」です。ここで述べていることは、外面の準備ばかりに長けて内面をないがしろにしてはいけないということです。内面のリアリティーの充実を図ることが大切です。
三番目に出てくるのが「機械的な演技(mechanical acting)」です。 本物の感情から演技をするのではなく、あらかじめ決めた動きや台詞の喋り方、表情を再現するというやり方です。ポールがやった演技ですね。物真似は大事ですが、かなり研究して、生きた再現にならないと芸術にはなりません。本物の感情・経験から生じた演技ではなく、どこかで見た、ありきたりの紋切り型の演技を「ゴム版(stencils)」の演技とトルツォフはいいます。印刷の原板のように、同じ物を繰り返し生み出すだけの悪い演技です。この種の演技に対してスタニスラフスキーは強い警告を与えています。
次にやり玉にあがったのが、グリーシャのやった演技です。つまり「やりすぎの演技(overacting)」です。これは機械的な演技のなかでも最悪の部類に入ります。オセローを演じたとき、黒人のイメージから、野蛮人のようにふるまっただけだったのです。
最後に出てくるのは、最も悪かったタイプの演技です。それは、ソーニャがやった「利用(exploitation)」です。自分のかわいい手や足、美しさを見せびらかせただけの演技で、役とは関係なく、自分のアピールのために演劇が利用されてしまったということです。このような行為は、それを求める人たちを引きつけるが、芸術家はこんな虚偽の、創造の芸術とはかけ離れたやり方には、厳しい手段を取らなければならないと戒めています。
Chapter3: Action (行動)
ロシアのオリジナル版では、この章のタイトルは「Action, If, Given Circumstances(行動、もし、与えられた環境)」となっています。スタニスラフスキーを理解している人であれば、即座にこの三つが、密接に関わりのあるものだと気づくでしょう。演技の要素は様々あり、それらが相互に関係しているわけですが、この章では、特にこの三つをテーマとしています。
冒頭、トルツォフは面白いことをやらせます。生徒に、舞台でただ座っているだけのことをさせるのです。しかし、生徒は意味もなくもじもじしたり、なにかをやらなきゃという気持ちが働いたり、動くと勝手に余計なものになってしまい、何一つ自然にできない。ただ座っていることがこんなにも難しいということを感じるのです。一方、トルツォフがやってみると、それは自然で、見ている方も心の内面を知りたいとまで引きつかれたのです。トルツォフと生徒たちの大きな違いはなんでしょうか?
「芸術の本質は外面ではなく、精神の中身にある」と第一項の最後にいっていますが、ここで重要なのは「内的な行動(inner action)」なのです。生徒たちの意識は、外面の動きにしかなく、トルツォフの演技がよかったのは、内面が正当化され、それが身体と結びついて自然な行動に表れていたからです。座っている演技や、動きがない演技でも、このことができていれば強烈に引きつけるものとなるということを教えているのです。
この内的な行動があるとなしでどれだけの違いが出るか、トルツォフはマニアに対して、かまをかけて試します。ブローチを探すという演技を最初やらせたとき、悲嘆に暮れたり困っているわざとらしい仕草ばかりで、見ている生徒は笑いたくなるほどでした。けれど、ブローチが見つからなかったら退学といわれ、素に戻って探す姿は真剣そのもので、見ている生徒も同じ気持ちになってしまうほどリアルでした。それは素に戻ったとき、行動が内的に正当化され、それに伴って自然な行動や表情が出てきたからです。そしてトルツォフは二度目のブローチ探しを賞賛したのです。
第三項では、行動を裏付ける内的動機(inner motives)または内的目的(inner aim)の大切さを語っています。行動には理由がなくてはいけません。また、ここでは外的要因についても語っています。つまり、その行動をするときの状況が変化すれば、その行動の意味もがらりと変わるということです。これらの理由を見つけて行動を単なる機械的なアクションとしないことを正当化(justification)するというのです。
ここで、スタニスラフスキーは正当化のために、役に立つ考え方を示しています。それが「もし(if)」です。第四項・第五項はこの「もし」についての話です。「Magic If」とも呼ばれるスタニスラフスキーの有名な用語ですが、考え方は簡単です。「もし〜だったらどうするだろう?」と仮定してみることです。「〜だったら」には色々な当てはめ方がありますが、「もし自分がこの役の状況に置かれていたらどうするだろう?」とか「もしこの役の人物がこのような状況に置かれたらどうするだろう?どうなるだろう?」と、その役の「与えられた環境(given circumstances)」や状況を分析した上で仮定してみるのが一般的です。従って、「もし」がスタートで、「与えられた環境」がそれを膨らませる素材というわけです。この「もし」を使うことによって、よりリアルなものを引き出せるようになります。
Chapter4: Imagination (想像力)
「システム」では、理解しやすいよう演技の重要要素に分けて考えていますが、完全に分離して考えることは無理で、この「想像力」の中にも「感情の記憶」や「適応」「途切れないライン」など、他の要素と結びついています。この章では、「想像力は演劇のリアリティーを創り出すために非常に役に立つ手段」だとまず語っています。芸術家は、演劇だけの話ではなく、想像力が生み出すものなのです。
しかし、想像力の種類は人によって違い、イニシアチブを持っている人、持っていない人、またどちらでもない人の三種類を説明しています。これは自然に素直にイメージが沸いてくる人、なにかきっかけや刺激があってイメージが沸いてくる人のことをいっています。そしてどちらでもない人は、形式的にさもイメージしているようにふるまう人のことです。
コスチャは家で想像の練習をしてみますが、眠ったりして失敗します。それを聞いたトルツォフは、@無理矢理イメージしようとするのがいけない。A興味のあるテーマを持っていなかった。B受動的であり能動的でなかったと指摘します。単にイメージすればいいのではなく、なにか内側からくるベクトルがあるべきです。目的や感情があってこそ、イマジネーションが行動やリアリティーを引っ張り出してくれるのです。能動的というのはそういう意味です。
トルツォフは、想像力を引き出す方法として、「Magic If」を使うよう薦めます。例えば時刻や状況を変えてみて、それを正当化しようとすると、様々なことが見えてきます。行動というのは、時・状況・場所に左右されるものですから。
4のところの冒頭の言葉は非常にわかりにくい翻訳になっていますが、ここでは要するに「劇世界の状況にも途切れない流れがあり、その状況の中にいる自分の中にも途切れないビジョンがある」ということで、この内的ビジョン(内的イメージ)は、役を取り巻いている環境を鮮やかに客に伝えたり、俳優の感情や気分を導き出してくれるのです。
イメージは、視覚・聴覚に関わらず、そこにないのに創り出すことができます。俳優はこの人間の能力をうまく使わなければいけません。しかし、誰もが豊富なイメージを創り出せるというわけではありません。そこでトルツォフが行う、イメージをより喚起させる方法とはなんでしょうか? それは、単純な問いかけをし、論理的に推理しながらディテールを創っていくという知的なアプローチ法です。これを繰り返すことでよりイメージは完全になり、そして何度でも使えるようになるのです。
そして、その問いかけは以下の6つのクエスチョンです。
@わたしは誰?
Aわたしはどこにいる?
Bわたしはいつここにいる?
Cわたしはなぜここにきている?
Dわたしはなにをするためにここにいる?
Eわたしは今後どうする?
というものです。そしてこの中でもとりわけ重要なのがDの「わたしはなにをするためにここにいる?」で、これはひいてはスタニスラフスキーの有名な用語にある「超目標」 になるのです。
そして、これらの質問は、能動的な行動や感情を誘発してくれるのです。問いかけてみて想像するという習慣をつけるべきです。
Chapter5: Concentration of Attention (注意の集中)
「第四の壁」についての話からこの章はスタートします。第四の壁とは、(プロセニアムの)舞台と観客を隔てる見えない境目のことです。役者は第四の壁に向かって演技をします。観客が観ているからです。しかし、観客を意識しすぎてしまうと逆に第四の壁は俳優を苦しめたりもします。見えないけれども恐ろしい存在であるわけです。フォーカスを、舞台より奥の客席に向けてしまってはいけません。
なにかを注意してみるという当たり前のことが舞台でも起こっていますが、この章ではそのことを改めて考えさせようとしています。そこで、注意の円(Circle of Attention)という用語が出てきます。スタニスラフスキーはわかりやすく捉えるために、小(the small)・中(the middle)・大(the large)・特大(the very largest)と分けます。
注意の円(小)は、自分の身の回りへの集中です。これは、明るくても暗くても比較的集中しやすく、またその対象物への感情も沸き上がりやすいのです。感情が強ければ、集中度も高くなり、集中度が高くなればまた感情も強くなります。また、このときは「周りが見えてない」状態ともいえます。「靴のヒールをなくしたのは誰」と演出家が聞いて、みんなが探していると、誰もそのとき秘書が現れて書類を渡していたことに気づいていなかったというエピソードはこれを現しています。
注意の円(中)は、自分とその近くの環境であり、対話している相手なども中のレベルに含みます。身の回りにはたくさんの物があるために、焦点がぼやけやすくなるのは確かです。注意の円(大)は、ステージ全体を含みます。景色を見ながら歩いていたり、焦点がとても広がっています。トルツォフは、このエリアで、何かの対象物を注意させる練習をさせます。注意することは目を使うことであり、目は観客の注意を引き、イメージを共有します。ですからとても大切なことです。これが演技調ではなく、自然にできなければいけません。
注意の円(特大)は、舞台上だけでなく客席までを含めた最も大きなエリアです。この円は、観客を気にするということであり、これ見よがしの演技に陥る可能性が出てきます。
もし、注意の円が広がりすぎて、集中力が散漫になってきたら、注意の円(小)を使って、また集中力を取り戻しましょう。
上記の内容は外的注意(external attention)ということになり、この逆に内的注意(internal attention)は、自らの内部に目を向けた集中で、五感や記憶、イマジネーションということになり、これは外的注意よりもより重要で、よく訓練されていなければなりません。イマジネーションの訓練と、これら注意・集中の訓練はとてもよく似たもので、どちらも毎日の生活から行うことが出来ます。しかし、意識的に行っていくには意思と目的意識と、忍耐が必要になります。そして、普段から自分の身の回りのことに注意を向け、想像力を使ってものを見るようにしましょう。
Chapter6: Relaxation of Muscles (筋肉の緩和)
「An Actor Prepares(俳優修業第一部)」は、精神面を主に、「Building A Character(俳優修業第二部)」では身体面を主にスタニスラフスキーは書いていますが、ここでは身体面について触れています。しかし、単独に身体のことを述べているわけではなく、精神面が密接に関わっていることがうかがい知れます。
ピアノを持ち上げた状態で、計算を行うなど頭を使おうとしたら、うまくいかなかったという実験をさせて、スタニスラフスキーは身体が固くなった(緊張した)状態では五感や精神の働きが発揮されにくいということを示しています。したがって、身体を適度な状態(過度に緊張していない)にしておく必要があるのです。
緊張を完全になくしてしまうことは不可能です。俳優にとって必要なことは、緊張をコントロールして制御できるようにすることです。そのためには、自らの緊張を意識するよう習慣化させ、緊張を緩めるよう努力することが必要だと説いています。
「コントローラー(ベネデッティ氏の翻訳では「モニター」としており、こちらの訳の方が適切だと思います)」は、自分自身に対して緊張を監視することもできますし、もちろん他人に対しても観察できます。このモニターを持って、立っているときや歩いているとき、なにかの動作をしているときの緊張の状態を確認する練習をさせています。
そしてこの章の後半では、自然な姿勢と重心の移動についても触れています。モニターによって身体を意識する習慣がついたら、正当化された自然な姿勢と、無駄のない重心の移動についても意識することができます。
俳優の内側から自然に、無意識的に出てくるものはリアルな演技につながります。また、緊張の緩和についても俳優の内側から自然に出てくるのが理想的です。
この章で出てくる「単独動作(isolated act)」は、俳優の身体訓練のヒントを示唆しています。動かす身体の筋肉だけを使い、他はリラックスさせておくというものですが、身体の部分部分への意識を高めると共に、無駄な緊張を排除し、緊張と緩和をコントロールする練習になります。
Chapter7: Units and Objectives(単位と目標)
一章で、七面鳥を使って非常にわかりやすく、「ユニット(Units)」に分けることの意味を教えています。一つの作品をまとめて捉えようとすると無理があるので、ユニットに分けていくといいということがわかります。ユニットに分けてもまだ大きいようでしたら、更に細かく分けてみるといいでしょう。「単位」というルールや決まりはありません。「units」以外に「bits」という言葉も使われますが、全体の中の小さな断片であるという認識で、その断片は全体があってこそ意味があります。作品へのアプローチの過程で便宜的にユニットに分けますが、最終的には全て融合させて全体になります。ユニットに分けず、全体から入っていくと、様々なディテールにつまずき、混乱し、全体像を見失う恐れも出てきます。
戯曲のコアを探すと、ディテールに騙されずシンプル化することができます。コアとは、その作品にとって欠くことの出来ないもののことです。つまりは要点を抑えていくということです。そうすれば大きなユニットがわかり、次に中くらいのユニットや小さなユニットにも分割できます。
これらユニット分けで、絶対に忘れてはいけない大きな目的があります。それは、全てのユニットの核心にある「創造的目標(creative objective)」です。目標と単位は有機的に結びついています。目標は、一貫した流れを持ちますし、単位と同じく大きい目標、小さい目標に分けられます。そして目標は内側からの能動的なものであるべきです。すなわち行動を導き出す感情や意志を伴っていないといけません。
〔目標とは〕
@観客に向けられていてはいけない。
A自分個人から生まれるもの、もしくは自分が思い描くキャラクターが有するものである。
B創造的で、芸術的である。
Cリアルで人間的で、芝居がかっていたり生命力をなくしていたりしない。
D俳優や観客が信じられる真実のもの。
Eあなたを引きつけるもの。
F明白で、キャラクターと関わるもの。曖昧な適当なものではいけない。
G中身があり、意味があるもの。浅くて表面的なものではいけない。
H推進力があり、能動的である。
後半で、経験の少ない生徒に対して、まず身体的な目標に集中するようにさせています。これは、行動と心理は表裏一体ですので、細かい身体的な行動から、どのような心理や意味があるのかを見つけさせようとします。そして、目標を「〜したい(I wish)(I want)」ということばに直すようにさせます。名詞ではなく動詞を使うのです。それによって、目標は動的になり、行動を導き出していきます。
Chapter8: Faith and a Sense of Truth(信頼と真実の感覚)
他よりも長いこの章で、問題となるのは真実の感覚です。例えば居場所のわからない財布を探すことは誰でも出来ますが、居場所のわかっている財布を、居場所がわからないという想定で探すとき、難しいと感じるものです。舞台の上で生きる(live)というのは理想的なことですが、演技の中で真実の感覚を持ち、そのキャラクターの生活を生きることは難しいです。この舞台上の真実(scenic truth)がテーマです。舞台の上の小道具や装置が実際の物でないにしても、人物のスピリットと内面生活は真実であり、また真実だと信じて演技をすることが大事なのです。
虚構を真実として信頼して捉えるには、正当化(justification)のプロセスが必要になってきます。「どうせこの剣はおもちゃだ」と冷めてしまったり、段取り通りに行動していたり、虚構に冷めてしまったりするのは信頼が薄いということです。真実の感覚を得るには信頼が必要です。信頼とは信じ込む力です。これは俳優のみに限らず、観客にとっても必要な要素です。人は、真実の感覚と同時に不信の感覚(sense of untruth)を持っているものなのです。完全に100%真実の感覚でなくても、不信の感覚より高いパーセンテージとなるように心がけたいものです。
第二章では、真実への意識を強く持つがゆえにオーバーアクションへとなってしまう傾向に警告を唱えています。これは真実どころか逆に虚偽の演技へと変わってしまいます。トルツォフは稽古場でよく「90%カットしなさい」というと記述してありますが、それだけ意識が悪い方に働き、無駄に誇張された演技になりがちだということです。
有効な対処法として「自分自身をチェックする意識」が大切だと語っています。そこで、生徒たちは互いにどこがおかしくてリアリティーがなかったかを、稽古場でも生活上でもチェックすることにします。そうすると、揚げ足取りの批評にきりきり舞いとなり、余計に動きがとれなくなってしまい、トルツォフにたしなめられます。そして正しき判断、冷静さ、賢明さが芸術家の友だと教えます。そして、細かいあら探しにとらわれるのではなく、他人の良い所を見て真実の感覚を磨きなさいといっています。
第四章から問題にしているのは行動のフィジカルな面でのディテールです。いってみればパントマイムの正確さですが、紙幣を数えるなど何かアクションをマイムでさせたときにおかしい点がたくさん浮上するのです。実際の物がないことによって、多くの必要なディテールが失われていることに気づきます。そして細かいディテールに気をつけて行動すると、今度は一貫した大きな行動の流れが損なわれ、不自然なものとなってしまいます。細かいディテールも有機的につながって、自然でまとまった行動になっていなければいけないのです。そしてトルツォフは更に、行動の理由と背景に注意させ、正当化させるよう促しています。
さて、今度は無行動(inaction)という課題が待っています。すなわち、喋らない、動かない演技です。そのとき、コスチャは機械的な陳腐な表現になってしまいましたが、動きがないときは感情の流れを押さえて正当化させなければいけません。内面では様々な動きがあるのです。
行動を導き出したり、正当化させるのは内面の感情です。行動(肉体)と感情・精神(魂)は相互作用して密接に関わっています。
スタニスラフスキーが非常に重要視しながらわかりにくい翻訳のためにピンときていない用語で、「人間身体の生活(the life of the human body)」と、「人間の魂の創造(creation of the human soul)」が出てきます。ライフ・オブ・ザ・ヒューマン・ボディは、行動の流れは、舞台上での断片的なアクションにとどまらず、その人の人生・生活という全てを含む大きな流れのなかの一部であるということです。そしてそれこそ、その人の魂の根本から創り出されるものであり、それがクリエイション・オブ・ヒューマン・ソウルなのです。
そこに辿り着くためには、小さな細かいアクションを結びつけていき、大きな有機的な流れにすることも必要ですし、様々な分析やプロセスを経て、キャラクターの魂から表現できるくらいにならないといけないのです。そして新鮮で創造的でなくてはいけないのです。ですからここでいわれていることは、理想的な最終形であり、非常にレベルの高いことなのです。
この理想形に近付くために、行われている稽古はなにかに注目してください。それは即興(improvisation)です。即興は大いに有効です。そして、どこから始めればいいのかのヒントとして、身体面・行動面からがよいということがわかります。小さな身体的行動は大きな内的意味を持ったりもします。スタニスラフスキーはメンタル面のメソッドばかりが取り上げられて誤解を受けてきましたが、実際には身体面・行動面を非常に重要視し、芸術的な表現へと昇華させる上で大事な基礎要素だと認識していました。
そして、身体面で十分コントロールできるようになっていれば、「マジック・イフ(Magic If)」や「与えられた環境(given circumstances)」が、内面から確立された演技を創り出す基礎となっているというのです。そして、正しくその道に導いてあげるには、信頼の感覚と真実の感覚が必要なのです。
9章・10章では、インスピレーションで、役に入った状態になれば身体面・行動面は必要ないのではという疑問が提示されます。たしかにインスピレーションで、内面から感情があふれ出して行った演技は、観る人の感情を揺さぶる素晴らしいものとなりましたが、それを繰り返そうと思うと無理で、一回の奇跡で終わってしまったのです。そうならないためには、やはり身体面・行動面が必要になってくるし、次の章で出てくる「感情の記憶(Emotion Memory)」が必要になってくるのです。
Chapter9: Emotion Memory(情緒的記憶)
稽古というのは新鮮さとの闘いでもありますが、この章でのコスチャたちの演技は、先を知った演技になってしまい、行動の要因となる感情がなにもリアルではありませんでした。そこで、感情の導き方についてトルツォフから指導を受けます。いつでも自由自在に感情が沸いてきてくれるわけではないので、「与えられた環境」や身体面の計画などを使って、感情を導き出すためのアプローチが必要になるのです。
「Emotion Memory(感情の記憶)」は、過去の人生経験の記憶と五感の記憶、それから身体の記憶に分けられます(身体の記憶は触覚でもあるので、五感に含めることも出来ます)。また、「俳優修業」の中では、「Emotion Memory(感情の記憶)」と「Sensation Memory(感覚の記憶)」の二種類の言葉が出てきますが、トルツォフも一緒くたになるというように、まとめて感情の記憶と捉えてよいと思います。
人生経験の記憶は、強く蘇ることもあれば、弱く蘇ることもあり、また元の記憶そのままではなく変化している場合もあります。
そして、五感の記憶の場合、スタニスラフスキーは特に視覚と聴覚が俳優にとって特に重要であると示しています。五感のうち、味覚と嗅覚と触覚は補助的役割となります。視覚と聴覚は常に使っているといえます。これら五感の記憶を利用することで、演技の上でもリアルな感覚を持つことが出来ますし、また感情の記憶を刺激したりします。
四章、五章で興味深い点は、感情の記憶が現実の出来事よりも強烈な感覚を導いてくれたり、芸術的な新鮮なインスピレーションを与えてくれるケースがあるということです。トルツォフは時間というフィルターを通すことで記憶が浄化したり、詩的に変わったりすると述べています。偉大な詩人や作家も、大規模な記憶の中から創造しているのです。だからこそスタニスラフスキーは、様々な人生経験の記憶を蓄えておいた方がいいと薦めています。
スタニスラフスキーに対しての勘違い、また演技に対しての勘違いで、「役に入り込む」「感情に没頭する」ことが理想的だと捉えるのは間違っています。あくまで演技者本人がベースになっているので、スタニスラフスキーは、「舞台では決して自分を失ってはならない。いつでも自分自身を演じなければいけない」と強く念を押しています。ただし、役のための準備をしっかり行うことは大前提です。
第6章では、外的要因(照明や音響効果、舞台美術など)が精神状態やイマジネーションに大きく影響するということを語っています。感情をどのように表現するのかとというよりも、感情を起こさせるための工夫が必要なのです。したがって、「感情の記憶」とは、結果重視ではなくプロセス重視であり、感情を刺激してくれる要素が大事になるのです。
そこで、9章ではまとめとして、6つの感情を導く刺激を紹介しています。要するに以下のことです。
@「Magic If」・「与えられた環境」
A単位と目標
B注意の対象
C行動・演技に対する信頼
D作品の読解・役作り
E外的要因
Chapter10: Communion(交感)
Communion(交感)とCommunication(意思疎通)は、似通っています。コミュニケーションは、言葉・ジェスチャー・表情を使います。これは、俳優でなくても誰でも行っていることです。コミュニオンは、俳優の舞台上でのコミュニケーションや意識で、見えない意思疎通だと考えられます。一章でトルツォフは、「他から吸収したり、自分を他に与えたり」することが舞台上で必要になるといっています。
スタニスラフスキーは「目は魂の鏡」といっています。空虚な目は、感情や生きた内面も空っぽであることを示すのみです。舞台上の全てのことに対して、見ること、感じることが俳優には必要なのです。
舞台では台詞がないからといって空っぽな状態であったり、役ではなく俳優個人になっていては絶対にいけません。常に、交感があるのです。そして交感には感じるエネルギーや発するエネルギーが必要なのです。これがなければ観客も注意して見てくれないのです。観客にエネルギーを与え、また観客からもエネルギーを受け取るという点で、観客との間にも交感するということが成り立ちます。
交感するのに必要なエネルギー。これを自分自身の中にも見つけることが出来るというのが、ヒンドゥー教のプラナの話でしょう。身体の中心に、エネルギーの源があり、それは感情を放出する力があるようです。魂(spirit)という言葉を比較的よくスタニスラフスキーは使いますが、その中心エネルギーを彼は実感しているようで、それがプラナと通じるのでしょう。
見せかけの形だけの演技では、相手役との交感もできないし、観客にも伝わりません。この「Communion」の章でも、入念に注意がなされています。これ見よがしの形式(the form of exhibitionism)は、よく使われ、また人気があるというのは認めているものの、決して真の俳優はこの形式に陥ってはいけないと口を酸っぱくしていっています。
正しく、相手と相互に交換しあうためには、もちろんコミュニケーションのツールである言葉・ジェスチャー・表情を使うのですが、それらは俳優の表現手段として非常に有効にコントロールしなくてはなりません。言葉だけに頼ったり、ありがちなジェスチャーに頼ったり、嘘くさい表情で表したりではいけないのです。それはヴァイオリニストが愛用のストラディバリを扱うのと同じことなのです。
最後のほうの章で出てくる「放射・放出(irradiation)」と「把握(grasp)」は、「交感」とほぼ同じです。交感の際に、放出しているエネルギーが、「放射・放出」であり、それは相手役や観客を引きつける力を持っています。それが「把握」です。「把握」というよりも「つかまえる力」という意味です。ちなみに「把握」は、スタニスラフスキーはめったに引用していない言葉ですが、15章において創造における重要な三つの点として、その一つに「内的把握(inner grasp)」を挙げています。
Chapter11: Adaptation(適応)
Adaptation(適応)は、CommunionやCommunicationと似ている単語のため、わかりにくい印象を受けるかもしれません。適応や適合という言葉は同じ種類としてスタニスラフスキーは使っています。
本文の中ではまず、人と人との様々な関係に合わせるための内的・外的手段であり、また自らの目的を成し遂げる手段といっています。俳優は様々な点で、合わせることが必要になります。それは相手の行動や言葉に対してかもしれないし、その場の状況かもしれません。何かの目的を達するために行動していくときにも必要です。自分とその周りに対して、バランスを取りながら合わせていくことが適応だといえるでしょう。バランスを取りながら合わせるということは、ふさわしい行動や交感をするということでもあるのです。
機械的な演技は、適応の一種ですが、これはよくない手段です。例えば、怒りの感情をあらわすのに、拳をふるわせるという行動でその状態を表したとしても、安易な適応でしかないのです。適応の仕方というのも、俳優は多彩でクリエイティブでなければいけないのです。スタニスラフスキーは素晴らしい適応は、鮮明さ・多彩さ・大胆さ・繊細さ・微妙な陰影・優美・風情といった要素があると述べています。
第一章でトルツォフに誉められたワーニャが、第二章ではまったく逆の評価を受けてしまっています。これは、目的を達するために行った行動が、最初はうまくピッタリはまって、皆を出し抜くことができたのに、二回目では周りの笑い声に調子に乗って、どんどんと行動がエスカレートし、わざとらしくなってしまったために適応に失敗したということなのです。従って、意識すればするほどわざとらしくなったり機械的になったりする危険性があります。
トルツォフは、適応は意識的でも無意識的でもできるということをいっています。そして明らかに、無意識に適応できることが素晴らしいと見なしています。そういった意味で、思いがけなさ(unexpectedness)は力を持っています。
スタニスラフスキーの手法として共通しているのは、最初は意識的に身体の行動などからはじめ、徐々に無意識的に自然に内側から表現できるように昇華させるという手法です。予期せず、自然に内部からの反応で、表情が出たり行動できたら、あなた自身素晴らしい適応だと感じられるでしょう。
直観的な適応(intuitive adaptation)ができるようになるためにはどうすればいいのでしょう。 潜在意識に訴えかけ、その直観的な適応を導くことはとても困難なことです。なぜなら意識下にあるわけですから。そこでスタニスラフスキーが薦めているのは、毎回違う適応を見つけ出すという手法の導入です。これは意識的になっても無意識的になっても気にしなくてよいのです。新しいものを見つけようとする姿勢が大切なのです。ここで述べているようなことは、スタニスラフスキー自身、即興(improvisation)を取り入れる中で、毎回新しいものを発見する試みをしています。
Chapter12: Inner Motive Forces(内的原動力)
この章は、非常に短い章ではありますが、後半だけあってとても重要です。演技の要素をこれまで学んできて、楽器は出来上がったと言っていい俳優たちにとって、その楽器を演奏するためのキーは第1に感情(feeling)であり、第2に精神(mind)であり、第3に意志(will)であると語られます。この三つは、いいかえれば心・脳・身体ともいえます。意志(will)というのは、わかりにくいですが、行動を導き出す欲望(desire)と捉えてもいいのです。欲望や願望は行動を必要とします。ですので、意志を実行に移す身体は必要になるのです。
また、感情と意志が、「俳優修業」において混同されると思いますが、感情は自然と内側から出てくる喜怒哀楽や感覚。意志は、目的や方向性のある、行動を伴う欲求と捉えるのがよいでしょう。そして精神は司令塔です。
感情はどうあっても必要なものだとわかるでしょう。その感情を導き出したり、新鮮な創造的な演技に変えたりするのには精神または知性が必要になるのです。そして、欲望や願望となり行動を導き出す意志。この三つをスタニスラフスキーはマスター(master)と称しています。そして三つは相互に結びついており、いつでも相互に作用し合うのです。これら三つのマスターを駆使できるようになれば俳優として理想的と言えます。
更にこの章では、目的(objective)の話にも触れています。これは第15章「The Super Objective」で大きく取り上げる要素ですが、目的が意志や感情を直接的にも間接的にも刺激することは間違いないといえるでしょう。
感情と意志は、役や俳優によって、パーセンテージが変わってきます。自然と感情があふれ出すのに向いた役や俳優もあれば、意思の力で目的を持った上で行動する役や俳優もあるでしょう。どちらにせよ、三つのマスターのうち、一つを蔑ろにするようなバランスの悪さは承認できません。バランスも大事なのです。
この章の終わりにきて、トルツォフは遂に「もう諸君は裕福である」「おめでとう」といっています。
Chapter13: The Unbroken Line(とぎれぬ線)
舞台の稽古に臨むとき、最初にテキストを受け取ってから、どのようなアプローチをしていくでしょうか。まずはテキストをよく読み込んで、解釈する必要があり、いきなり役の本質をつかんでその役の感情や精神を思いのままに出せるということは極稀なことです。テキストを様々な視野から分析し、読解することで、漠然に広がっていきます。我々はこの中に途切れぬラインを見つけなければいけないのです。このラインは生きている人間のラインですが、行動のラインと、感情のラインの2つに分けて見ることもできます。
一日の生活を追って考えてみたとき、短いライン(行動)が連なり、過去から未来へと続いていきます。短いラインがポンとある場合もあれば、幾つかに連鎖している場合もあるでしょう。そしてそれらのラインはその時々の感情や意志といった内的原動力が導いているのです。常に行動と感情は表裏一体です。
そして、ラインというのは、注意の対象が様々に無限に切り替わって続いていくとも捉えられます。ずっと一つのことを繰り返す、またはずっと一つのことに固執しているということはありません。あってはならないのが、そんな注意が客席に向くということです。そんな瞬間があったら、その役のラインは壊れています。また戯曲上では、登場のシーンしかわかりませんが、登場していない時もその役の生きたラインは続いているはずです。全体の大きなラインをつかんでおきたいものです。
非常に短い章ですが、とても中核的で大事なことをいっています。
Chapter14:The Inner Creative State(内部の創造的状態)
俳優と演技における様々な要素を学んできましたが、それらをひっくるめて舞台で実現できる創造的状態が自分自身に出来ていないといけないのです。人間なので、気を抜くとたるんでしまったり、積み重ねてきた創造状態を忘れてしまったりします。日によっては調子が悪い、気分が乗らないということもあるかもしれません。しかし、それではいけないのです。楽器であれば、音の調子が悪ければ楽器を手入れすることで改善するかもしれませんが、俳優は自分自身の心と身体を、最適な状態にもっていかなくてはいけないのです。
また、劇場においても客との交流から、エネルギーをもらってよりクリエイティブになるということもあるでしょう。逆に、恐怖感を感じたり、思うように動けなかったり、感情が麻痺したり、落ち着きを失ったりもします。どこかが悪くなると、全体がダメになるというケースも悲しいことに多いです。
Inner Creative State(内部の創造的状態)は、Natural State(自然な状態)と非常に近いといえるでしょう。その自然な状態をつくり、キープすることが舞台では難しいのです。わざとらしい演技や、誇張した演技、自己顕示の演技でごまかすことはできません。真実の演技、自然な状態というのは実に難しいことなのです。俳優はより熟練すればするほど、自然な創造的な状態で舞台に臨めるのです。
スタニスラフスキーは役の準備について、こういうことをいっています。登場の二時間前には来て準備を始めなさいと。そしてまず身体の緊張と固さをほぐし、次になにか対象を選んで様々にイメージを巡らすイメージ・トレーニング、その次に注意の円を自分の小さな範囲の中で作ってみます。自分とその対象物です。最後に目的を一つ決めて、その動機を考え、行動してみます。変化もあっていいです。注意の円は、移り変わったり、大きくなったりしています。
いわば、楽器のチューニングのように、目的や感情、イマジネーション、集中といった俳優のスキルを軽くテストしてみるのです。特に、熟練されていない俳優にとっては準備は困難ですが、いつでも創造的な内面状態でいられるように計らうのです。経験がないうちは、むらがあったり、演じる毎に新鮮さが失われたりするものです。熟練すれば、舞台上で狂いが生じたときも、演技をしながら問題を把握し修正することもできるのです。
スタニスラフスキーは名優サルヴィニの言葉を引用しています。「俳優は、舞台で、生き、泣き、笑い、しかもその間中、彼は彼自身の涙や笑いを見ている。この二重機能、役と自らの間のバランスが己の芸術をつくっているのだ」
Chapter15:The Super Objective(超目標)
スタニスラフスキーの中でも殊更有名なスーパーオブジェクティブ(超目標)。Jean BenedettiはSuper Taskという英訳のほうが良いとしていますが、Super Objectiveという言葉が既に有名になっています。
作品の中のその役の最も軸となっている大きな目的をスーパーオブジェクティブだと考えるのが一番わかりやすいでしょう。スタニスラフスキー自身の記述によれば、全ての目的を内包する極めて本質的な目的で、あらゆる大きなユニット、小さなユニットを含んでおり、これは作家の創造的な魂でもあることがわかります。
実際、役の目的はたくさんあり、それらが連なり、大きな目的の流れを作っています。それがスーパーオブジェクティブなのです。目的は一つだけと勘違いすると、浅くなってしまいます。戯曲と俳優の両方に栄養と生命を与える大動脈のようなものと「俳優修業」で書かれています。
スーパーオブジェクティブの使い方は、「わたしは〜〜したい」という言葉で表します。ハムレットであれば「父の復讐を成し遂げたい」でしょう。これはハムレットという作品通じて貫通している軸となる目的です。ただ、面白いことに、このスーパーオブジェクティブであれば、力強いハムレットを想像できますが、「苦悩をなんとかしたい」という言葉で使うと、これも作品通じて軸となりますが、人間の弱さと葛藤が前面に出たハムレットが想像できます。従って、どのような言葉で表すかで、全体的な演技が変わってきます。
スタニスラフスキーはモリエールの「気で病む男」で「わたしは病気になりたい」としたら、喜劇なのに病的悲劇になっていったと語っています。そこで彼は間違いを認め、「わたしは病気と思われたい」としたら、喜劇性が出て成功したのです。
この意味では、劇作家の魂やテーマだけでなく、演出家の演出意図とも深く関わるといえます。
第二項ではスルーアクション(貫通行動)(Through-Action, Through Line of Action)について述べています。スルーアクションは様々な小さな目標で構成された演技の流れであり、この流れはスーパーオブジェクティブの方向を向いています。この流れが、あちこちに向いていたり、スーパーオブジェクティブと全く関係のないものだらけであれば、良くない作品、良くない演技といえるでしょう。
また、古典作品を現代化させるときの陥りがちな欠点についても語っています。それは「一時性(momentariness)」で、確かに一時的な現代的要素を付け足しただけの演出作品は、ただ奇をてらうだけで出来の良くないものが多いです。
作用(action)、反作用(reaction)のくだりは、理解しづらいかもしれません。戯曲というのは、優れた作品ほど大きな葛藤を孕んでいます。ハムレットがいとも簡単に復讐ができれば、ドラマにならないのです。簡単に彼のスーパーオブジェクティブを達成できない、障害や葛藤や反対要素が存在します。また、正義という要素があったとしたら、必ずどこかに悪という要素があるでしょう。ギリシア悲劇やシェイクスピアなど、優れた作品であればあるほど、対極要素があります。
「システム」の創造過程における三つの重大要素はこれです。
@内的把握(inner grasp)
A行動の貫通線(through action)
B超目標(super objective)
ここまで語って、「俳優修業」でのシステムの学習はほぼ終わりを告げるのです。
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