2012/3/23
「シオン長老の議定書 その16〜18」
*シオンの議定書 第十六議定
われわれ以外の結束力をすべて根絶するためには、集産主義の第一段階・・大学・・を、新しい方向で再教育して去勢するのである。職員や教授連を精密な秘密教育計画に従って再訓練するが、断じてその一部分たりとも免除することはない。彼らの任命には格段の注意を払い、一人の例外もなく政府が掌握して配置する。
われわれは全教育課程から政治と同様に法律も排除する。政治法律に関しては、予め許された者の中から、さらに卓越した人物を選び、数十人という少数の人物にのみ教える。大学はもはや、喜劇や悲劇を書くようなつもりで法案や計画をこね上げたり、父親たちでさえも理解できなかった政策問題にかかずらう青二才を世の中に送り出してはならない。
大多数の人間がもっている政治問題に関する頓珍漢な知識が、ユートピアを夢見る人間や不良市民を作るのである。諸氏は実際の大学教育がゴイムをこの方向に導いてきた実例をよく御存知であろう。われわれは彼らの教育の中に、完膚なきまでに彼らの秩序を破壊する原理を持ち込まなければならなかった。しかしながら、われわれが権力を掌握した時には、秩序破壊の種になるようなものはことごとく教育課程から駆逐し、青年を権威に従順な子供にし、平和安寧の希望として統治者を頼みの柱とするように育成するのである。
どんな形の歴史研究も皆そうであるが、範を過去に求める古典主義で行くと、良い例よりも悪い例の方が多いのであって、われわれはそれに代えるに未来研究をもってする。われわれは、われわれにとって好ましくない過去何世紀かの人類の記憶を一切消去し、ゴイム政府が犯した誤ちをことごとく叙述する。実際生活、秩序に対する義務、人民相互間の関係、悪を伝染する利己的な実例、その他教育の本質に関わる類似の問題の研究、これらが教育計画の最前線に置かれるだろう。その実施にあたっては職業ごと、あるいは生活状態によって別々にし、教育は決して画一的に行ってはならない。この処置は、特に重要である。
社会各層の教育は、それぞれの階層の本質と実際の仕事に応じて厳格に制限を加えなければならない。稀に天才的人物が出てうまくやって行くことがあったし、上の階層に滑り込むことが常であるが、このような極めて稀にしか出ない天才のために、生れや職業に特有であるべき階層に、その価値もない人間を入れてやるなどということは、愚行もはなはだしい。こんな目に余ることを許したゴイム社会はどうなったか、諸氏はよく御存知のはずである。
われわれは私学という私学をことごく廃止する。教育施設の中では、あたかもクラブのように、親たちとの集まりを持つことは許す。休日には、そういう集まりに教師が参加して、人間関係、見せしめの罰則、神の選民ではない者のいろいろな制約等々の問題、とどめには、まだ世界で明らかにされていない新たな哲学原理について、課外講義で読んで聞かせるだろう。その原理は、最終的にわれわれの信仰に従わせるための移行期の教理として、われわれが提起するのである。現在ならびに将来の行動計画を説明し終えたら、私は諸氏にその学説の原理をお話しする。
一言にして言えば、何世紀にもわたる経験に鑑みて、人間は思想に生き思想に導かれるものであり、思想というのは人間成長の各段階にふさわしい教育を初め、さまざまな手段によって人間に浸透するものであるから、思想の支配を受けない最後の火花を、われわれが押収し呑込み、自分自身のものとして利用するであろう。この、思考力を人間から切り離すということは、過去長い時間をかけて、われわれが導入してきた極めて有益な手段である。思考力を抑制する手段はすでに、いわゆる実物教育という方法で実行されている。この方法によりゴイムは、目に見えるものだけを頼りにして理解し、物を考えない従順な動物にさせられている……フランスでは、われわれの最良の代理人であるブルジョアジー諸氏が、すでに実物教育の新しい計画を実地に移している。
*シオンの議定書 第十七議定
弁護士活動は人間を冷酷、非情、頑固、破廉恥にする。弁護士はどんな場合にも、人間ではなく、ひたすら法律の観点からのみ問題を論じる。彼らはどんなことを取り上げるにしても、弁護する価値があるかどうかと考えるのが習慣になっていて、弁護した結果、公共の福利がどうなるかは考えない。なんでもかんでも弁護を引き受けて断わることをしないというのが普通であり、無罪を目ざして極力奮闘し、法律上の細かい所にこだわって片端から難癖をつけ、挙句のはてに正義を地に落とす。であるから、われわれは他の行政公務員と同様に、この職業の範囲を狭く絞り込んでおこうと思う。裁判官と同じく、弁護士が訴訟当事者と直接接触する権利は剥奪する。彼らは法廷からのみ仕事を受け、訴訟書類や報告を調査し、法廷で被告が尋問を受け、事実が明らかになった後に被告を弁護する。どんな弁護をしたかという内容に関わりなく報酬を受け取る。このことは、弁護人は告訴のための審理記録人である代訴人に対して平衡を保つための、正義のための
法務の単なる記録人に過ぎなくさせる。こうすれは、個人的な興味関心からではなく、確信に基づいた、偽りのない公平な弁護活動が可能となるのである。また、この方式にすれば、現今横行しているような、金をよけい出さなければ裁判には勝てないという弁護士の腐敗堕落を除去することにもなる。
われわれは過去長い時間をかけて、ゴイム僧侶の信用を落とし、それによって、放っておいたらわれわれの大きな脅威となったやも知れぬ地上における彼らの伝道を凋落させるようにして来た。今や日一日と、世界の人民に対する彼らの影響力は低下しつつある。信教の自由ということが至る所で喧伝されたので、今やキリスト教が完全に破壊されるのはここ数年のうちに過ぎなくなった。ほかの宗教に至っては、骨抜きにするのは更に容易であるが、今この問題を論ずるのは時期尚早であると思う。
われわれは聖職者重視の教権主義や聖職者たちの力を、以前、彼らが華やかなりし頃に持っていたのとは比べものにならないほど狭い枠に押し込めるであろう。
決定的に法王庁を破壊する時が来れば、見えざる手の指が各国民に法王庁を指さすであろう。しかしながら、国民がそれに襲いかかろうとしたら、あたかも過度の流血を防がんとするかのように、われわれは法王庁の擁護者を装って進み出る。この転換によって、われわれは彼らの深奥にまで足を踏み入れ、間違いなくかの最強部を腐食し切るまでは二度と出て来ないであろう。
ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。
だが、一方で、われわれが青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後にはわれわれの宗教で再教育する間、われわれは明らさまには既存の教会には指一本触れないけれども、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘う。
その場合、一般的には、われわれの現代の新聞は、ゴイムの国家問題、宗教、ゴイムの無能さを断罪し続けるが、常に、わが民天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使して彼らの威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する……
われらが王国はインドのヴィシュヌ神になぞらえ擬人化すると・・われらが百本の手の一本一本は、社会という機械のバネを握っている。警察というのは、われわれがゴイムのために入念に作り上げ、しかも政府は覗けない望遠鏡であるが、その警察の力を借りずともわれわれは何もかもが解るのである。われわれの計画では、われわれの臣民の三人に一人が、国家への無料奉仕義務として他の二人を監視する。かつてのようにスパイは恥ずべきことではなく、評価すべきことなのである。しかしながら、根拠のないことを密告した者は厳罰に処し、密告権の乱用を慎ませる。
このわれわれの代理人は、社会の上層からも下層からも、さらに暇な時間を娯楽に費す管理層、編集者、印刷業者や出版人、書店業、店員、販売業者、労働者、御者、従僕等々からも採用する。この組織は職権を持たず、目撃したことについてなんらかの行動を起こすことは許されず、なんら権限のない警察であって、唯一観察し証言するのみである。供述を確かめたり逮捕を決定したりするのは、警察の責任ある取締官の仕事であり、実際の逮捕には憲兵隊や都市警察があたる。警察担当の事件で、見聞したことを報告しない者は、隠匿罪で告発され、その責を負い、それが証明されれば有罪となる。
今日でもわれらの兄弟たちは、自分の責任において、自分の家族の背教者や結社に反対する行動をとった結社員を告発する義務をもっているが、それと同じことを全世界を支配するわれらの王国においても、わが臣民全員に国家に対する奉仕として義務づけるのである。
このような組織こそが、権威権力の乱用や贈収賄や、われわれの機密計画を使い、人間についての超人類的な理論を駆使し、われわれがゴイムに植え付けた悪習のすべてを根絶させるであろう……だが、彼らの政治の中に混乱を植え付け増大させるのに、果たして他に方法があっただろうか?……あまたあるこれらの方策の中でも、最も重要なるものの一つは、彼らの悪の偏執性・・どうしようもない自惚れ、権力の無責任な乱用、そして、何よりもかによりも賄賂・・を拡張発達させ、彼らを破滅させるのに都合のいい位置にいる秩序回復の代理人である。
*シオンの議定書 第十八議定
われわれが秘密の護衛措置の強化を講ずる必要が生じた際には、見せかけの秩序混乱、すなわちうまい弁舌家に協力させて不平不満をぶつけさせる。こういう弁舌家の回りには、その発言に共鳴する輩が皆集まってくる。それがあまたのゴイムの中から選んだわれわれ側の人員によって、家宅捜査や監視をする口実となる。
大多数の陰謀家というのは勝負事好きでおしゃべり屋であるから、そこで、彼らが明白な行動を起こすまでは、われわれは指一本触れずに、ただ彼らの中に監視員を入れるだけにとどめておく……銘記しておくべきことは、陰謀摘発が度重なると当局の威信が落ち、弱みがあるからやっているんだろうとか、もっと悪いことには不正不法であるとか、余計な憶測邪推を生じさせるということである。御存知のように、われわれは代理人を通じてゴイの王たちの生命を脅かして権威を失墜させたのであるが、この代理人たちはわれわれが飼っている群の中の盲目の羊であって、少々政治色をつけた自由主義的な言辞を弄して犯罪を攻撃すると、たやすく乗せられてしまう連中である。われわれは秘密防衛措置を公然と暴いてやって、支配者たちに彼らの弱点を思い知らせてやってきた。これによって、権力を打倒する保証を手中にしたのである。
われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる。反政府暴動があるやも知れず、王にはそれを抑える力がなく逃げ隠れているという考えは断じて与えてはならない。
ゴイムがやったように、また、現在もやっているように、そんな考えをはびこらせたら、われわれの王ではないにしても、とにかくその王朝に対して遠からず死刑宣告に署名しているようなものである。
われわれの王は威厳のある風貌の力を国民の福利増進のためにのみ用いるのであり、間違っても自分自身や一族の利益のために用いることはない。それゆえに、この威信が保たれることで、王の権威が尊敬され、国民そのものに守られ、市民全員の福利と固く結びついて神のように崇められるのである。まさに王の威信によってこそ、多数の通常生活における秩序すべてが保たれるのである。
公然と護衛することは、強そうに見える王者の政治組織の弱さをさらすことになる。
われわれの王は人民の中に行くときは常に、見た目には全く偶然そこに居合せた物見高い男女の群集に取り囲まれたかのように見せる。それらの男女は王に近い前の方の数列を占め、後の列を制止する。他の者は尊敬の念からよく秩序が保たれているように見える。これは他の場合でもそうすることに慣れるように種を蒔くことになるのである。もし群集の中から請願人が現われて、王に請願書を手渡そうとし、列を分けて進んできたら、最前列の者が請願書を受け取って請願人の目の前で王に取り次がなければならない。そうすれば誰の目にも直接請願書が王の手に届き、王自身が国政を監督していることが知れ渡る。人民が「王様がこの事を御存知だったらなあ」とか「王様が聞いて下さった!」と言えることが、権力の後光となるのである。
公然たる護衛警察は王者の神秘的権威を失わせる。少々大胆さを持ち合わせていれば、誰でも自分は護衛を自由に操れると思い込み、暗殺者は自分の力に自信を抱き、時至れば官憲に一撃を加える瞬間をうかがう……ゴイムには、われわれは正反対のことを教えてきたが、目立つ護衛策がどんな結果をもたらしたかを、事実そのものによってとくと見ることができた。
われわれは、犯罪者とあれば根拠が十分であろうと不十分であろうと、まず逮捕する。万一間違えるといけないということで、政治的堕落や犯罪を犯した疑わしき者に逃亡の機会を与えるとは、とんでもないことである。政治犯の場合は、文字通り峻厳でなければならない。単純犯罪で動機の再審議を許可し、特別扱いをすることが可能な場合でも、職権を持った者の他には何びとといえども事件に介入する口実は存在しない……すべての政府が真実の政治を理解するものではないのである。

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