2011/12/23
「自分だけのパラダイム(座標軸)を持つべきだ」
武士は死して名を残し,虎は死して皮を残すというが,ひとり愛国陣営の徒のみは,名さえ残さぬのみか,汚名さえ着せられて逝く覚悟に徹さねばならぬ。<渥美勝>
声楽を学んだソプラノの発声法は同じなんですね。第二部は森麻季さん。2分58秒から。第三部は久石譲さん(作曲家)のお嬢さんの麻衣さん(残念ながら森麻季さんと比較せざるをえないのですが本格的な歌唱力は持ち合わせていない......麻衣さんをクリック)(第一部はサラ・ブライトン)
「森麻季さんは幼くして父を亡くし、女手ひとつで育てられた。学生時代は奨学金を貰い、学んでいた。フジ子へミングさんもそうでしたが母子家庭のエネルギーは凄いですね。真剣勝負ですから。」
司馬遼太郎の長編小説を原作とするスペシャルドラマ『坂の上の雲』の主題歌
【凛として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し】
迷い悩むほどに 人は強さを掴むから.....
久石 譲 歌・森麻季
作詞:小山薫堂
ちいさな光が 歩んだ道を照らす
希望のつぼみが 遠くを見つめていた
迷い悩むほどに 人は強さを掴むから 夢をみる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し
あなたと歩んだ あの日の道を探す
ひとりの祈りが 心をつないでゆく
空に 手を広げ ふりそそぐ光あつめて
友に 届けと放てば 夢叶う
はてなき想いを 明日の風に乗せて
わたしは信じる 新たな時がめぐる
凛として旅立つ 一朶の雲を目指し
評価の高いコメント
自虐すること無く、また、夜郎自大にならずに、ひたむきに努力を続け、どんな困難をも謙虚さとチームワークで乗り切る姿こそ我々日本人にふさわしい。歴史から誇りを感じ、大いに反省もして、真の先進国として全世界の模範になって行きましょう。我々ならきっと出来ると思いますよ、本当に!
muratajupiter 7 か月前 25
小村寿太郎は1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。我々は、203高地で国のために死んでいった祖先に対して天国で顔向け出来るのだろうか関税自主権を安易に放棄していいのだろうか
hotucyare 1 か月前 20
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すべてのコメント (91)
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今を生きる人たちが今の価値観とか常識で、良い悪いとかいう次元の話では全くないと思います。間違いなく、欧米列強に追いつき、追い越し、強く豊かな国を創ろうという一途な想いで死をも恐れずに邁進する姿に絶句するしかありません。真似できるか?と問われれば、絶対に無理だと答えるしかありません。明治の人は強く美しいです。
yukihanakun 10 時間前
森さんの方がいい。日本語の歌詞を綺麗な日本語で聞く方がストレスがない。
Wandarer38 10 時間前
森麻季さんのもなかなかいいね。サラのも大好き。3部の人はちょっと、素朴になりすぎたかなー。悪くはないけどね。
実力ある人の声はやっぱり印象に残るね。
popseasun 1日前
江戸時代から明治維新になった時、誰でも教育を受けられ、職業の自由も獲得し庶民は高揚した時代であったが、その引き換えに庶民も戦争に参加する代償はかなり厳しいものがあったに違いない。
今の時代よりも明日への希望を全国民が感じ取ることができたのだろうか。この曲はドラマに合ってますね。
chou11121 2 日前
戦争自体は絶対に良いことではないが、日露戦に勝ってくれてホントに良かったと思います。もし負けていたら永遠にロシアに植民地化されてたでしょう。そう思うと身震いしてしまう。
boggy779 3 日前 8
ドラマ 『坂の上の雲』を観てこの曲を知り、好きになりました。
身を呈して国を守ることを「男児一生の快事」とし、勇敢に戦い そして守り抜いた20世紀初頭の先人達への感謝と畏敬の念を見事に表現するばかりか、現代を生きる 今にも心が折れそうな日本人に我が身を省みさせ、奮い立たせる力を持った名曲だと思います。何度聴いても鳥肌が立ちます。
嘘をつく自我(ジャック・ラカン)
嘘をつく自我
『物理学者ファインマンは、その自伝の中で、心理学の授業で催眠術にかかった体験を記述している。
若き日のファインマンは、自分は催眠術にかからないと確信しながら、催眠術師の言葉に耳を傾ける。催眠術師はファインマンを催眠状態に置き、「あなたは目が覚めたら、教室の窓を開けます」と言う。ファインマンはそれを聞きながら、自分がそんなことをするはずが無いと思っている。催眠術師が「あなたは目を覚まします」と言うと、ファインマンは目を開けて、自分の席に戻ろうとする。そりゃあ、窓を開けることもできるけど、それは自分の自由だ、と思う。窓を開けることも開けないこともできる。それで、ファインマンは窓を開けてから自分の席に戻る。
この時、誰かが、ファインマンに「なぜ窓を開けたのか」と訊いたら、ファインマンは、「教室が暑苦しかったから」と答えるだろう。
ファインマンは自分が催眠術にかかったとは思っていないし、暗示に従って窓を開けた訳でもないのだから、そうとでも答えるより他にない。(こうした現象は、催眠術にかかった患者にはよく見られるものである。)
フロイトとラカンによれば、これこそが自我の根本的な性格なのである。
自我は自己の無意識を知らず、自己の同一性を維持するために、常に偽るものなのである。
自我の同一性は、自我の外部にあり、自我は自己から疎外されている。
言い換えれば、自己を他者と同一化することで、自我は自己の同一性を確保する。そうしなければ、自分の居場所が奪われてしまうからである。
「主体」の場所
ラカンは世界を
現実界
想像界
象徴界
の三つに分ける。
現実界とは、それこそが「現実に」存在している、無意識の欲望の世界である。これは基本的に知りえない。
想像界とは、自我と意識の世界、知覚とイメージの世界であり、鏡像段階論は、ここにおける自我の疎外を物語る。
象徴界とは、言語という記号の世界である。ここで大文字の「他者」による、自我の更なる疎外が生ずる。
言葉(記号)の持つ意味作用を「シニフィアン(signifiant)」という。シニフィアンとは、エディプスであり、「父の名」である。』
ジャック・ラカンの「鏡像段階」論について。
昨日から本格的な夏休みになった。我が家も立派な「地デジ難民一家」というわけで、テレビから完璧に排除されたので、これ幸いと、昔懐かしいラジオの「子供電話相談室」なるものを聞きながら、学生の一人が書いてきた大論文を読んでいる。東浩紀からデリダ、ラカン、フロイト・・・まで雑多にというか、強引にというか、引用文献や参考文献として並べられた大論文。荒削りだが、ちょっと読むだけでも大いに刺激を受ける。近頃の学生を舐めてはいけないと思う。論文の内容はsns時代の孤独と自殺を、ジャック・ラカン理論を使いながら、論じたもの。snsで、「つながり」があるように見えるが、実は、決してつながっているのではない。ますます孤立して、孤独になっていく。交通事故と自殺は異なると思われているが、実はそれほど違っているわけではない、と言う。ともに「他者による殺人」である。つまり、自己の投影でしかない他者、つまり自己という他者による殺人が自殺である、というわけだ。生きたいにもかかわらず、自己という他者が殺しに来るというわけだ。ここで、ラカンの他者論、つまり「鏡像段階」論が登場する。ラカンは自我の形成過程を「鏡像」で説明する。赤ん坊は、鏡に映った自分の姿を見て、初めて統一性を感受するらしい。そこでラカンは、自我の形成過程を三段階に分ける。想像界と象徴界、現実界の三段階である。僕が、このラカンの三つの概念を知ったのは、浅田彰の『構造と力』であったが、その『構造と力』が、探していたら、見つかったので読みなおしているところだ。ちなみに、柄谷行人の『世界史の構造』におぇる交換の三段階も、柄谷行人は明言してはいないが、ラカンの概念と連動している。(山崎行太郎)
この世界の仮説
『現代においても、人が世界の何たるかを知ろうとする努力は、いまだに「群盲象を撫でる」の域を脱していない。確かに、人類は、自然現象を記述する有効な科学理論を数多く獲得してはいる。だが、その内容は、必ずしも日常的な直観や宗教的な信念と相容れるようには見えない。このためか、科学に対する不信感や嫌悪感を耳にする機会も多く、科学が解明し得ない超常現象への関心も、TVや週刊誌などの大衆的マスメディアにおいて根強い。科学が提供する世界像は、一般の人にとっては、何か「しっくりしない」ところがあるようだ。譬えて言えば、科学の描く世界〈象〉が「壁のようなもの」であるのに対して、日常的直観は、それが「柱のようなもの」だと訴えているのである。
これから私がしようとしているのは、この矛盾の劇的な解消ではなく、「柱のような」足の上に「壁のような」胴体が乗った〈象〉の似姿をデッサンすることである。このような折衷案とでも言うべき描像は、科学的知見や日常的直観をほとんどそのままの形で採用し、ある解釈を媒介として両者を強引につないでしまうことによって得られる。ただし、この仮説は、単純で合理的だが、それなしには胴と足がバラバラになってしまう重要な役割を果たしている。
もしかしたら、私が描き出す〈象〉は、足が3本しかなく、胴体から直に鼻が突き出ている異形の怪物かもしれない。だが、それはそれでかまわないと思う。「足は4本あるはずだ」とか、「鼻と胴体の間に頭があった方が良い」との批判をもとに、描像を修正することは常に可能だからだ。悲しむべきは、「人間は盲だから〈象〉そのものについて語ることはできない」と賢しらに決め込む態度である。世界は峻厳にして近寄りがたいが、あらゆる解釈を受け付けぬほど茫洋としてはいない。世界について合理的に語ることを可能にする解釈を思いつく限りは、その妥当性を検証してみることが、「知を愛する者」の勤めなのである。』
吉田伸夫著「宇宙に果てはあるか」
http://www.shinchosha.co.jp/book/603576/
吉田伸夫の著書

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