2011/11/11
「サンカ(山窩)のルーツは創世記のヘテ人 その3」
読者から教えていただいたニュートンはアマゾンで50円で買えました。この本は買われた方がいいでしょうね。今のサンカシリーズは読者とともに古代神代文字を考察するのが目的ですから一緒に考えていきましょう。そうでないと一人よがりになってしまいますからね。
前の記事で「竹内文献」の意味するところが理解できたことでしょう。ユダヤ=キリスト教文明圏で,神といえばそれは「エホバ」ただ一人の一神教である。ヤハウエともよばれ,万物の創造主で宇宙の主宰神とされている。しかし,この旧約聖書の伝承(創世記)の最高神=唯一神も,竹内文書の伝承によれば,「天神七代」の第五代天一天柱主大神(アメハジメアメハシラヌシオオカミ)だということになる...........。古代イスラエル民族は,アダム=イブの誕生をもって人類の始まりとし,それ以前の神々による創造活動を「唯一神」エホバに一括してしまった。
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図はここから
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上の写真や文章は「謎の竹内文書」日本は世界の支配者だった!佐治芳彦著からですが是非買われてお読みください。アマゾンで120円から。前の記事に「神社に潜む謎の勢力」がありましたね。そこで竹内文書の説明がなされております。管理人もそれまで「竹内文書=とんでも」という認識しかなかったのですが無知とは恐ろしいことです。
皇祖皇太神宮はとんでも神社とされているが。
竹内文書が現れる越の国の史跡
不合朝六十九代 神足別豊(かんたるわけとよすき) 天皇の御代にモーゼ来日。(↓モーゼの骨石)........などの骨石の写真がありますが『大烏から竹内文書の中に荒唐無稽の要素を織り込まなければ発表をゆるさないと規制され、やむなく、誰が見てもわかるウソを織り交ぜた.........』というように書物や神社にもウソがたっぷり織り交ぜてあるのです。ちなみにモーゼは架空の人物です。
サンカ(山窩)を考える
「男は凛々しい顔をしていて眼光が鋭く、それでいて穏やかで物静かな感じであり、手先が器用で一途で律儀な人が多かったようです。独自の言葉を使い、やはり一般 の人達とは雰囲気が違ったらしいです。そして美人が多かったなんてのは本当に心ひかれたりしてたまりません(管理人注:神田うのさんばりの容姿端麗の美人でしょうか?考えるに人類の祖先はミトコンドリアイブの科学的調査でたった一人のエチオピア女性なのは分かっているのですがサハラ砂漠という自然と死闘しながら出エジプト記のはるか以前にゴシェンの地に住みついたセム族の可能性大でありマサイなどのDNAを引継ぎスタイルは抜群ということでしょうか)。それと文献からと直接接した人の話しから、僕が一番好きな部分ですが、弱者に対してのいたわりの精神です。戦前の話では見捨てられた癩病者のめんどうをみたり(管理人注:族原にゴミのように捨てられた癩病者のすぐ傍の族原でともに生活をして助けていたという話がいつの間にかサンカは族原乞食となってしまった)、何かの理由で山に逃げたり困窮した人をかくまい助けたと云う話しもよくある話しです。」
歴史の扉・過去へのいざない
前の記事で書きましたが.......聖書に書かれていることを見てみると,イスラエル民族はその成立の頃から,すでに様々な人種的要素が交じり合っていた。当時の小アジア,シリア,パレスティナには多くの異なった人種が住んでいた。例えば,ブロンドで長頭長身のアモリ人,色が黒く黄色人種系のヒッタイト人,黒人のクシート人など多種多様であった。聖書の各所に見いだされるように,古代ヘブライ人はこれらの人々との通婚を行っていたのである。古代の預言者たちは「異国の神の娘たちとの結婚」には大声で反対を唱えたが,元来,性関係にルーズなイスラエル人を思いとどまらせることは出来なかった。指導者達が先頭に立って悪いお手本を示したとさえいえるのである。イスラエル人最初の家長であったアブラハムはエジプト人ハガルと同棲していたし,ヨセフはエジプト人祭司の娘だったアセナテと結婚した。モーゼはミディアン人のチッポラと結婚,ユダヤ民族の英雄とされているサムソンはペリシテ人であった。ダビデ王の母親はモアブ人であったし,彼自身ゲシュル人の王女をめとっている。ソロモン王(彼の母はヒッタイト人)ときては「多くの外国の女を愛した。すなわち,パロの娘,モアブの人々,アンモン人,エドム人,シドン人,ヘテ人,の女を愛した........」(列王記(上)11章1節から)と,醜聞録はえんえんと続く(笑)。
古史古伝
「古史古伝とは、戦後の超古代史研究家の吾郷清彦氏が著書「古事記以前の書」において神代についての伝承を含む古文献を古典・古史・古伝の三通 りに分類したことに由来するようです。古典とは古事記・日本書紀などのアカデミズム公認の神代関係史料で、古史は竹内文献や富士古文献のように神代文字に関する伝承を含んだ史料を意味し、古伝とは上記(ウエツフミ)や遜真伝(ホツマツタエ)のように全文が神代文字で書かれた史料を意味するとのことです。古史古伝という言葉を、超古代史などと呼ばれていた史料の総称として定着させたのが、佐治芳彦氏の一連の著作によるものです。古史古伝には竹内文献・富士古文献・上記・遜真伝・九鬼文献・東日流外三郡誌・三笠文・カタカムナ文献などがありますが、いずれもアカデミズムからは黙殺されるか、偽書として扱われています。また、古史古伝の多くが、サンカを始めとした山の民と深く関わっていたとされています。縄文時代が始まったのは今から約12000年前だとされていますが、沖縄周辺で発見されている海底遺跡が海に没したのがほぼ同時期とされています。縄文時代以前に高度な文明があったのかもしれませんし、なんらかの理由で、その文明が滅び、生き残った人達が縄文人の始まりなのかも知れません。
ヤゾーの空想「瀬降り物語/サウンドトラック」。
瀬降り物語
もしも、今の文明がなんらかの理由で滅び、少数の人が生き残り、自分もその中のひとりだとしたら、どうするだろうかと想うことがあります。当面 はその日その日を生きていくのに大変な苦労をすると思いますが、生活が安定した時には、過去に自動車やパソコンを使っていたことを懐かしむかも知れません。しかし、機械設備や技術者がまったく残こされていなかったら、それらの道具を一から作り出すことは容易ではないでしょう。それに行き過ぎた物質文明が戦争や環境破壊をひき起こして滅びたのであれば、二度と同じ過ちを繰り返さない為に違う価値観での生き方を選択するのかも知れません。自然と調和のとれた母なる大地が喜ぶエコロジ−で霊性の高い生き方を。 そして、また次の世代にもそのことを伝えていくのだと思います。一万年も続いた縄文時代って、そんな時代だったりして・・・(*^^*)
ある方から聞いた話しです。
「サンカに関する情報は日本よりアメリカが握っているだろう(管理人注:アメリカでなくてロスチャイルド財閥がとくに神代文字に異常な関心を示す(クリック)。))。また日本では偽書扱いされている古史古伝のいくつかは、アメリカにおいて、日本を知るうえでの正規の研究対象となっている話を聞いたことがある。大平洋戦争が始まる以前から、日本を知る為に、国の成立から天皇制、被差別 民の成り立ちまで、綿密に歴史を研究したようである。それは日本を占領した際に、統治しやすくするための研究だったのだろう。しかし、戦後においても全国の貴重な古代に関する古文書などを接収して、本国に持ち帰っていることから、何か日本の歴史に特別 関心があるのかもしれない。」とのことでした。
サンカの掟(ハタムラ)
サンカの社会は、彼等独自のもので、アユタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。 結婚により彼等は親兄弟と離別し、独立のセブリで独立の生業(なりわい)をすることを決められています。 そして掟(ハタムラ)では、ひとたび関係のできた男女は夫婦(ツルミ)とならねばならぬ し、 ツルミとなった以上は、如何なる不正な関係も断じて許されないということです。映画「瀬降り物語」ではそう語られていますが、本当のところは分かりません。ただサンカの人達の夫婦の結びつきは強く、病身の妻を最後まで夫が甲斐甲斐しく看病した話しや、男尊女卑的な考えはあまり無かったようです。神示などの教えには「神界の乱れ、イロからじゃと申してあろう。男女関係が世の乱れであるぞ。お互いに魂のやりとりであるぞ。」との言葉がありますが、かなり自由に生きていたと思われるサンカの人々ですが、人間として守らねばならぬ 掟に対しては厳格であったのかも知れません。」(サンカ(山窩)を考える)から引用
古代文字とシャンカ文字に関して「竹内文書の謎」209〜213ページに上の写真とともに解説があります。一部引用・加筆・解説をしよう。
「まず平群真鳥(ヘグリノマトリ)の写した神代文字の子文書をとりあげてみよう。これは竹内文書の原本の一部とされているもので,狩野博士が,「天津教古文書の批判」で解読したものだ。その文書の本文は前ページにかかげるように異様な記号の羅列だが,博士はこれを同系統の古史古伝「上記・ウエツツミ」(大友文書)に出てくる豊国(とよくに)文字と同じものであることを(厳密には少しちがうが),神代文字研究の古典ともいうべき落合直澄の『日本古代文学考』で確認したと述べている。
ところがここにもう一つの神代文字がある。これを前掲の天津教神代文字ないし豊国文字と比べてみてほしい。ラ行のリのダンゴ(?)がひとつ足りない点と,ワが全体的に形が少し崩れている点をのぞけば,両者はほぼ完全に一致する。これが越(こし)文字とよばれている神代文字だ。そしてその名称が示すように,この文字はもともと古代の越(こし)の国,つまり北陸から新潟県にかけての地方で使用されたものといわれている。
神代文字総攬参照
↑『古代ギリシャが、当時の先進国の言語であったセム語で表記したことがあったそうです。そのときに、音韻としては無用の区別をして表記したそうです。このことは日本についてもいえて、外来的な表記法がはじめて採り入れられた段階では、音声上の違いにすぎない変異音まで書き分けることがあるので、万葉仮名も漢字の音を発音記号として借りた結果、必要以上に音声を分けてしまったということです。また松本教授は、奈良時代の音韻は、現代の五母音とほとんど変りなく、八母音説は、外来的な書記法のつくり出した虚像である、と論破されています。また、奈良女子大学教授の森重敏氏は、奈良時代八母音であったのだとしたら、平安時代には五母音になってしまっているが、八母音から五母音に移行しなくてはいけない必然性が見あたらない。上代も五母音であったのだ、と指摘されています。平仮名が音韻を表記したのにたいし、万葉仮名は音声まで写したものであるというのです。母音そのものは変っていないということです。
ハングルと神代文字(阿比留文字)
現在韓国でも超古代史の研究が活発に行われていますが、一部の研究者達によれば、韓国のハングル文字は朝鮮時代の世宗大王が直接に創製したものではなく、BC2000前後に中国大陸を含め、東北Asia地域に広大な勢力を持っていた檀君朝鮮時代に作られた「カリント(漢字では加臨多 ガリムトという表記もあり)という古代文字をもとに作ったという説があります。そのカリント文字が韓国だけではなくて、中国の西夏、西蕃の地域を始め蒙古、印度の西北部であるクザラト地域などおよび古代日本まで伝播されたという説があります。これがもし事実であるならばハングル制定以前、渡来人が日本に渡りその文字を伝えた事も十分考えらます。 韓国国出身の景教研究家ジョン.M.L.ヤング氏によればハングル文字は、今から1000年程前に朝鮮半島を訪れた景教(ネストリウス派キリスト教)の宣教師達が作ったという説もあります。景教が日本に伝来したならば、当然文字も伝えられたはず。そうなれば日本に伝わるアヒル文字の信憑性も出てきます。その後、15世紀になって李朝第四代世宗時代に復活したとすれば、時間的なつじつまも合い無視出来なくなります。』
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『竹内文献内で見られる文字の一つ。越の国(北陸から新潟県)に伝えられたというが、竹内文献を世に公にした“竹内巨麿”がこの国の出生だというのもおもしろい。文字種は象形文字の部類であり、『上書』の“豊国文字”に一部を除き酷似している。また、以前から独自の社会を持つ山の民「山窩」に密かに伝承されて来た“サン力文字”との類似性にも言及する必要がある。』
神代文字〜知られざる近世日朝交流
ところが,さらにもう一つの興味のある文字がある。図211ページ(注:写真では右側)を見ればわかるように豊国文字や越文字とよく似た形をしているのが,これは作家で(サンカ=シャンカ)研究家でもあった三角寛が昭和17年,あるシャンカの国知(くずし)り(地域のボス)の協力を得て解読したサンカ文字なのだ。サンカ文字はふつう「あぶり出し」で書かれ,その秘密(解読法)を一般人に知られれば私刑(リンチ)されるといわれていたし,またサンカ社会は明治以前からもその独自の掟にしたがって,一般の人々との接触を抑えてきたこともあって,この秘密文書の存在は長いあいだ外部に知られなかった。それだけに神代文字に関心をもった新井白石はもちろん,各地に弟子たちを派遣して多くの神代文字を収拾した平田...もさらには博学をもってなる狩野博士でさえ気づかなかった(一説には4500もの神代文字があったとう)。
『シュメ一ル文明の最後の華を咲かせたウル第三王朝がBC2004年に滅びますと、スメル人は忽然として姿を消します。彼らは一体何処へ行ったでしょうか。岩田 明は前掲書において、スメル人が海と陸の二手に分かれて移動したのではないかと推理しています。海に逃れた人々は得意の船団を組んでインド洋、南太平洋、南支那海を通って日本列島に到達したと見ています。この説によると、彼らは「天孫族」と称し(管理人注:下記神々の系図参照)、第1団は山陰地方の丹後に天下った(海下った)のが、アマテラスオオミカミの孫ホアカリノミコトで、丹波から大和に至る大丹波王国を建てました.....竹内文書の著者竹内巨麿が鞍馬山で修行していたとき、大烏から竹内文書の中に荒唐無稽の要素を織り込まなければ発表をゆるさないと規制され、やむなく、誰が見てもわかるウソを織り交ぜたと記されています(飛鳥昭雄前掲書pp.294〜300)。この大烏とは飛鳥氏によれば、日本の神道界はもとより、天皇、宗教、政治、経済、その他各界を裏から支配している蛇と龍の勢力の代表的人物であると言われます。大烏はすでにAD8世紀に作られた古事記(AD712)、日本書記(AD720)にも深くかかわっていました。彼らは竹内文書を材料にして記紀を作ったので、もし本来の竹内文書が発表されれば、記紀の偽書性が暴露されるから、竹内文書を偽歴史書とするために、竹内巨麿を脅したのです。ところで、竹内文書は神武天皇を日本最初の天皇としてはおりません。』これが前の記事の中である「神社に潜む謎の正体」からの引用です。
写真はサンカ(シャンカ)文字で上の本の左にあたる文字。
「サンカ文字が『上記・ウエツフミ』や竹内文書に出てくる神代文字(豊国文字,越文字)に似ている.......というよりも,これらの神代文字がサンカ文字に似ているということは,古史古伝の成立や継承の問題だけでなく,サンカ部族の出自に多くの示唆を与えずにはおかない。つまり,これらの禁断の伝承をもち続けてきたのは,部族のアイデンティティを守るために漢字使用を意識的に避けた人々であり,その人々は弥生文革によって成立した古事記や日本書紀などとは違ったものであることも,当然と考えられるからだ。」
景教と弘法大師空海参照
「魏志倭人伝」によれば、3世紀半ばの日本列島のどこかに、女王卑弥呼の邪馬台国があったことは間違いない。しかし、当時のことを記すわが国の歴史書=『古事記』と『日本書紀』(以下では「記紀」と略記)には、その所在地が記されていない。(記紀(きき)とは、『古事記』と『日本書紀』との総称である。『古事記』の「記」と『日本書紀』の「紀」を併せて「記紀」という。)
偽装された歴史を明かす暗号(管理人もよく分かりません)
「記紀」は、天皇家によるわが国支配を正当化するねらいを持つ史書である。その中に、天皇家の体面を汚す過去は記録できない。中国に朝貢していた倭王に関する記録がほとんど無視されているのは、そのためであろう。
したがって、邪馬台国という国名をもじった題の暗号形式の落書は、その題によって、国家の体面を汚すなと権力者に向かって訴えているのではなかろうか。(=「と か な く て し す」 つまり 「咎なくて死す」)「いろは歌」の暗号より)
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
「......このことはまた神代文字存在論に大きな示唆を与えずにはおかれない。つまり、神代文字が平安朝依頼,つねに日の当る場所から追い払われていたということは,この文字をかつて使用し,またひそかに伝えてきた人々の辿った道からすれば,けだし当然なのである。また,そうであったればこそ,神代文字を含む竹内文書をはじめとする古史古伝が異端とされ,禁断のものとされたのだろう。(管理人注:聖書でいえば異端カタリ派のようなものです)いずれにせよ,竹内文書に出てくる越文字がサンカ文字と似ている......同じ系列の神代文字であったことは,竹内文書継承についての私(管理人注:作者の佐治芳彦氏)の仮説を形成する第一の要素となった。」
古史古伝と神代文字
封印された超古代日本史
『古代日本人にまつわる二つの観念を埋めこんだ。ひとつは山中他界の観念だった。これは山越阿弥陀や当麻曼陀羅につながっている。もうひとつは日想観である。夕陽が沈むところに浄土があるというものだ。これも浄土曼荼羅につながっていた』(折口信夫・「死者の書」より)。(日想観とは心を堅くとどめて乱すことなく、一すじに想いつめて他のことに触れず、こうして夕日がまさに沈もうとして、ちょうど空に鼓をかけたようになるありさまを見ることによって、阿弥陀如来の浄土を想念(そうねん)する観法(かんぽう)です。つまり他人への余計なお節介などはするな.....という意味)
浄土曼荼羅の見方
国宝の綴織(つづれおり)當麻曼陀羅(根本曼陀羅)當麻寺蔵(注:中尊は必ず大日如来となっている)
宇宙的実践に於いての曼荼羅と観想参照
サンカ(山窩)の漢字の当て字はひどい蔑称であり山家がふさわしいのでしょうが特に明治以来サンカに対する弾圧はひどいものがあり神代文字は封印された。管理人はサンカを考察するために15冊ほどの参考資料を取り寄せたが「謎の竹内文書」以外はひどいものである。つまり回し者たちが話をあわせ心理的情報操作をして書いていたとしか考えられないような記述が殆どだ。
「サンカ社会の深層をさぐる」(筒井功著)や「異形(いぎょう)にされた人たち」,とくに(塩見鮮一朗著)などはいわゆる「三角寛」について後書きにこう書いている。
「稀代のペテン師にして自己粉飾を続けざるをえなかった三角寛も,ベクトルの方向は私と..................三角は「サンカ」を研究の対象にする道をえらんだ。その作業はウソの上にウソをつみあげて行くもので,それが余りにも壮大に展開されたので,心優しい人はころりと騙された。(管理人注:これは新興宗教がよく使う手で「あなたも心優しいでしょ,だから三角とか竹内文書なんて信じちゃだめですよ,ということ)サンカについて書くのがいやなのは,三角ワールドのインチキ性から始めなければならないためだ............関心の対象がサンカではなくて,誇大妄想に捉えられる法螺吹きの男の悲喜劇になる(2008年10月)
この類の本が今大量に本屋に並んでいる。書いているのは佐治芳彦氏のようなインテリ本ではなくはっきりいえば「ヨタ本」なのですよ。
旧東部柳井・光 熊毛郡・田布施町。クリックするときれいに見れます。
瀬降り物語
http://adiscrimination.dreamlog.jp/archives/2704090.html
1985年5月(東映京都)の作品です。企画は本田達男・佐藤雅夫、企画協力は三角優・三浦大四郎、脚本・監督は中島貞夫です。音楽には井上堯之が参加しています。
「瀬降り」。サンカ。山間地を漂流する非定住民。その道の研究者でもある三角優が企画協力。その史実としての実証性には様々な疑問が呈されていますが、太平洋戦争に突入するという時勢のなか、厳しい掟のなかに暮らすサンカを演じるのは萩原健一。民具の修繕などを商いしながら、「とうしろ」と呼ぶ定住民と限られた交渉を行います。普段は、特別なことがなければ、その関係性は安定的でもあるわけですが、「てんまもん」と差別的なまなざしを持って彼らが見られているのは、否定できない現実。住所がない、読み書きができない。しかし、独自の規律を持ってそのコミュニティを維持する彼らが、近代化の波、特に戦時動員という極限のなかで揺れ動く様をフィクションとしてみることができるのは大変貴重です。
室田日出男、小林稔侍、内田朝雄など東映やくざ映画に欠かせない面々から、仲間のなかでも最高齢に近い古老に殿山泰司、その妻に藤田弓子、その息子に内藤剛志、妻に早乙女愛なども登場。さらに、藤田の娘を新人の族野美地子が演じ、大道芸人のようなことをして東京でちょっと売り出し始めていた光石研と結ばれ、サンカと一般の住民との激しい抗争にまで発展する火種を作りだしてしまいます。最初は、可愛げな族野にちょっと手を出した程度であったのが、嫁にしてくれないとと拒む族野に勢いで頷く光石にも召集令状が届き、徴兵検査が間近に。そんな事情も知らず、掟を破った娘に罰を与える藤田ですが、どうか娘を嫁にしてくれと光石に頼みに行きます。しかし、光石の義姉に激しく罵られ、追い返されてしまうのです。
光石は、軽い気持ちで族野に近づいたのですが、その思いの強さと、兵役から逃れたいという思いで、村を飛び出し、瀬降りの世界へ一心不乱に駆け込んでくるのです。そこで見たのは、一般の人間と交わった罰として土埋めにされ、何日も経って青ざめている族野を発見し、すぐに掘り起こします。背後から、殺気立った萩原が近づき、本当に族野と一緒になり、瀬降りの生活をすることができるのかとすごまれると、一瞬はたじろぐものの、その決意を表明します。既に、互いのコミュニティ同士の緊張は激しく高まり、光石に嘆願しに行った藤田は、例の義姉に罵られたため逆上し、宴の場をめちゃめちゃにし、そのために、惨殺されていました。それでも、死ぬ直前に、娘と一緒になってほしいと言い続け、光石の耳にそれはこびりついていたのです。
一度は、補導されたものの、脱出した内藤らも再び捕まり、身体的には極めて健康であるので、出征は免れません。一方で、そこから逃げ出し瀬降りの世界に入ってくる光石。好対照。しかし、その生活はどちらが厳しいのかは分かりませんが、ただ、自分たちの小さな生活を守ることに必死に山間を行き来するサンカの生き方に評価軸を置いた作品であることは言うまでもありません。
風の王国・五木寛之作......「サンカ」といわれる幻の漂泊民を描いた五木ロマンの最大傑作が横書き・全3巻「1巻 翔ぶ女」「2巻 幻の族」 ヒロイン、葛城哀に導かれついに謎の異族の秘密が暴かれる。「3巻 浪の魂」 巨大勢力と対立する速見と哀の選んだ道は?.......
『五木寛之という作家は若くして流行作家となり、その後も浮沈なくマスコミを賑わしているように見えるけれど、世間で思われているよりずっと、硬派である。
硬派といっておかしいなら、たんに気骨があるとか超マジメ派といってもいいが、ようするに大より小を、中心より辺境を、上位より下位を選び、幸福より不幸に、強さよりも弱さに、デカダンよりデラシネに、激しい関心をもっている作家なのだ。マイナー思考だとかマージナル志向だとか、ふつうはそう思われるのを嫌うのに、あえてそこに踏みこんでいるともいえる。そういえば昨日の朝日新聞の広告に出ていた新著のタイトルも、『不安の力』というものだった。
だいたい、いつもアウトローを徹底的に擁護する。なんといってもデビュー作が『さらばモスクワ愚連隊』なのだ。最初から愚者が選ばれている。ロシアの風土感覚が選ばれているのは早稲田の露文出身であること、デビュー直前にソ連を旅していることが関係している。
もっとも、このアウトローに対する愛情は社会からの逸脱者にばかり向けられているわけではなく、もっと広くて優しいものだ。何度か一緒に仕事をしてみるとすぐに気がつくのだが、この作家は自分に対する位置付けよりも、たえず他者に対する処遇をばかり配慮する。だから中央の文壇を嫌っているだけでなく、故意ともいうほどに中央から逸れた作家や批評家を本気で応援している(ぼくが受賞した鈴鹿市の「斎藤緑雨賞」もこの作家の進言と価値観によって制定されていた)。
やはり硬派、いわば「心の硬派」なのである。デラシネの気分が奥深くに脈々と流れている硬派だ。
この作家は炭鉱町に近い福岡県の八女に生まれた。すぐに教職者の両親とともに京城や平壌に移って、そこで国民学校や中学時代を送った。敗戦が陸軍幼年学校に合格した直後にあたっている。
昭和22年に帰国して福岡の高校に入り、そこから早稲田へ。そのあとは編集や作詞や台本などの仕事を次々にしながら(それゆえカメラワーク、レイアウト、舞台事情にやたらに詳しい)、ついに念願のシベリア鉄道によるロシア横断を果たした(同じコースを安藤�"雄が似たような時期に動いている)。ソ連・東欧から戻ったあとは夫人の郷里の金沢に住んで、そこから『さらばモスクワ愚連隊』や直木賞の『蒼ざめた馬を見よ』を問うた。
このあとの派手にも見える活躍は、誰もがよく知っているところだろうが、けれどもそれもいささか無責任な印象で、ではどこに派手な証拠なんぞがあったかというと、実は五木さんから派手は探せない。あえて言っても地味派手というところだ。「日刊ゲンダイ」の6000回をこえる連載で書いていることや『大族の一滴』でずばり表明していることに顕著なように、人間の「弱さ」や「他力本願」をそうとうに正面からうけとめているところなど、とても派手では書きえない。もっとわかりやすくは藤圭子や山崎ハコらの暗い歌が大好きなところをあげればいいのだろうが、ともかくもこの作家には、あの人を魅きつける風貌の奥に、やっぱり異質なまでに硬派な人生観や無常感が突沸しているというべきなのだ。
まあ、こういうことを並べたてても説明にはならない。それよりむしろ、ぼく自身が五木さんに会ってすぐに、このデラシネ硬派の感覚を直接に肌に感じたというほうがいいだろう。
で、その五木さんが2度目の休筆期間をしばらくへたあとで(このときに東洋・仏教・日本の探索を自分に課したようだった)、久々に世に問うたのが『風の王国』だったのである。一読、これこそは五木さんが最も書きたかったことだと思った。
では、以下はその話――。まず前フリから話してみたい。山本七平『現人神の創作者たち』〜プラトン『国家』〜大友克洋『AKIRA』〜と辿ってきた流れもあることゆえに。
世の中には、その正体をこれこれと名指しえない一群がいる。その動向、その歴史は数知れない。そもそも神々が「名指しえない正体」であったからこそ、マルドゥークとよばれ、アルテミスやディアーナとなり、迦楼羅、阿修羅、西王母、女娥となった。
しかし、ここで話題にしたいのはそういう神々の時代が終わってなお「名指しえない正体」をもった実在の人々のことであり、実在の一群のことである。
たとえば中国では逸民伝というものがあり、時代によって隠者、隠士、帰隠、逸士、高逸などとよばれた人々がいる。その起源はひとつには慕山遊仙につらなる者の系譜だが、ひとつには王朝の変更と遷都のたびに居住地を追われた者たちの系譜を含んだ。
日本では柳田国男や宮本常一が定住型の「常民」を規定したのに対比して、非定住で道々の輩(ともがら)として動きつづける者たちを、「遊民」として一括りすることが多い。最近は「山の民・川の民・海の民」ともいわれるが、そこに芸能や信仰が関与するときはしばしば「遊行の民」といった。声聞師・鉦叩き・遊行聖・白拍子・木地師・杜氏なども含んだ。ときに「化外(けがい)の民」も含まれた。
杉山二郎には蘊蓄傾けた『遊民の系譜』(青土社)があって、ユーラシア全土にまたがるジプシーから白丁・傀儡子に及ぶ動向を、まるでひとつながりの一群のように描いていた。
これらはひっくるめて流浪の者の流れというものだ。いまやノーマッドやノマドロジーへの関心も高まって、こうした遊民や流浪民を語ろうとする研究者やフィールドワーカーは少なくはない。しかし、流浪の民のすべてが「名指しえない正体」だとは言えないのである。
役の行者とよばれた役小角とその一党、国栖とか土蜘蛛とよばれた一党は、おそらく国にまつろわぬ者だったろうし、アラハバキ、酒呑童子、安達ケ原の鬼女などとよばれてきた者は、殷賑の巷を訪れにくい理由をもっていたのであろう。
いや、そのように舞台を古代中世に求めずとも、近世には多くの賤民や遊侠の徒が多く群れ、近代にも差別をうけた者から草莽・博徒・馬賊・乞食とだけよばれてきた者も多くいた。その動向は今日にもなお続いているというべきなのである。たとえば難民やホームレスは、いまなお定住の地をもてない者の群である。
そうした一群のなかには、あえて定住を避けたい者たちもいた。かれらは何かの理由を背負って動き続けることを選択したか、選択させられた一群である。
なぜ、そのような一群がいるのだろうか。五木寛之は青年時代からこの何かの理由を背負った一群に強い関心をもってきた。そこには炭鉱の町の近くや朝鮮半島に生まれ育った生い立ちが関係しているのかもしれない。『風の王国』はそのような一群が、いっときの“国なき国”をつくろうとした動向に光をあてた作品である。こんな話だ――。
出版社の手伝いをしている速見卓が、ふとした機賊で二上山のレポートを頼まれる。さっそく現地に赴いた速見が仁�%天皇陵あたりから二上に向かっていると、そこを一瞬、異様に敏捷に歩く「翔ぶ女」が見えた。
夜になって、山中の広場に再び「翔ぶ女」が現れた。俊敏な動きはダマスカス・ナイフのようだった。ところがその女は、やがて小さな老人と仲間を含む何人もの一行と一緒になっていく。一行は法被(はっぴ)を着ていて、襟には「同行五十五人」「天武仁神講」の文字が染め抜いてある。いったい何者たちなのか。
冒頭、このように始まっている。取材者まがいの速見の目で、この異様な者たちの実態を証かしていこうという話だなと、すぐに見当がつくのだが、実はこの予想は裏切られる。
まず速見は、いくつかの謎のような言葉やすぐには理解できない歴史の出来事に出会う。
最初に気になったのは、二上山をとりまく地形そのものだ。北から生駒山・信貴山・二上山・葛城山・金剛山とつづく山系を、一本の大和川が破っている。葛城川・高取川・初瀬川・飛鳥川・曽我川はすべて流れこんで、この大和川になっている。古代日本の幹線水路であった。小野妹子らが隋から帰ってきたときは、難波の津からまっすぐ大和川をさかのぼって大和の都に入ってきた。
一方、この山系を走り抜けている何本かの“けもの道”のような街道がある。なかでも竹内街道は二上山の山麓を抉(えぐ)って、古代最も重要な輸送路となった。そこには武内宿禰の伝説がまとわりつき、数々の人間たちのドラマを運んできた。速見はこの地形と風土に惹かれる。
しかし、なんといっても異様な出来事を暗示していると思われるのは、二上山そのものである。古来、東の三輪山が朝日さす神の山で、西の二上山は日の沈む死の山とされてきた。二上の向こうには実際にも応神天皇から雄略天皇期までの大王・貴人・豪族たちの墳墓が集中し、その数は大小2500をこえている。二上山はその死者の国の西の奥津城(おくつき)なのである。
それだけでなく二上山は鉱物宝玉の宝庫ともいわれてきた。石器人がヤジリをつくった黒い安山岩(サヌカイト・紫蘇耀石)、刃物を研ぐのにつかわれる金剛砂、さらには鋼玉(コランダム)も出るとされた。鋼玉は赤ければルビー、青ければサファイアだ。これらのことは二上山がかつては活発な火山であったことを物語る。
その二上山に大津皇子の墓がある。無念の皇子の墓。「翔ぶ女」の一党はそのニ上山にこだわっているらしい。物語はこのような二上山にまつわる「負のイメージ」を背景に、しだいに核心に迫っていく。
速見が見た「ダマスカス・ナイフのような女」は葛城哀といった。父親は葛城天浪という。かれらはときどき自分たちのことを「ケンシ」とも言った。かれらの口からは「へんろう会」「ハッケ」という呼び名のようなものも聞こえてくる。
やがて二人が中心になって主宰する「天武仁神講」の意味が見えてくる。その昔、仏門の隠語に一のことを「大無人」(大という字から人を無くすという判じ読み)、二を「天無人」(天の字から人を無くす)、三を「王無棒」などと言い替えたことに因んで、「天武仁」で「二」を、「神」で「上」をあらわして、かれらは自分たちの講組織を「ふたかみ講」と名付けたのだった。
葛城天浪はその二代目の講主にあたる。「へんろう会」はお遍路を「へんろう」ともいうのでそのことかと思ったが、初代の講主である葛城遍浪の名を採ったものだった。遍浪の時代、その講に参加した八つの家族がいて、その八家(ハッケ)に血のつながる講朋が「同行五十五人」とよばれた。かれらは遊行と学行を守り、遊行ではとくに歩行を鍛練しつづけた。しかし、なぜこんな講があり、こんな習練が今日なお継承されているのかは、速見はわからない。また、ケンシというのもわからない。
物語はここで、速見の兄に恋をしている歌手とその業界との裏関係、その背後の興業界や暴力団めいた団体の関与、ボストン美術館の仁�%陵出土品盗難未遂事件、あるいは山野跋渉のバッグパッキングブームの話などが絡まって、しだいに複雑になる。
そのうち葛城哀に東京から伊豆までを速歩で歩ききってみないかという挑戦をうけた速見は、それに応じてついに伊豆山中で「天武仁神講」の面々と出会う。そのあまりの決然とした生き方に速見は引きこまれそうになりつつも、なぜ自分がそこにいるかということが、まだ見えない。
こうして意外なことが次々に露わになってくる。まずケンシはセケンシの略で、世間師であるらしい。山の世界の彼岸と里の世界の此岸との間の世間を動く民のことである。そうだとすると、この集団はサンカ(山窩)のことだということになる。
ところが、ここからこそ五木寛之がこの作品を通して強く主張しているところになるのだが、この集団は「誤ってサンカと名指された一群」であって、実はそこにはこの一群・一族の「正体」をめぐる苛酷な歴史があったのである。
この物語の主人公たちは、明治維新に廃藩置県があったとき、葛城山系に住んでいた「箕作り」の一族の末裔たちだったのだ。
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箕作りは穀箕・茶箕・粉箕・雑箕などを、桜皮・藤蔓・篠竹・杉皮などによって巧みに作る職能集団で、古代から一貫して農作業や村落の生活のための重要な用具を提供してきたネットワーク集団である。
しかし箕はつねに綻びもあり、損傷も多いので、このチームは村から村を回ってその「箕なおし」や補給をするため、山林や渓流に「セブリ」(キャンプ)をはってきた。またそのようにしなければ、さまざまな地の村人から穀物や野菜を受け取ることは不可能だった。それがかれらのライフスタイルであり経済生活だったのである。
ところが維新後の急激な社会変化によって、こうした非定住者は許されなくなってくる。近代の国家というものが国民に要求することは、徴兵と納税と義務教育であり、それを完遂するために国家が大前提にすることは住民登録を徹底することだった。
そこでしばしば「ケンシ狩り」がおこなわれたのである。国家というもの、浮浪者狩り、乞食狩り、博徒狩り、アカ狩り、犯罪者一斉摘発、暴力団一掃、不穏者の調査、はてはテロリストのための戦争など、いつだって平ちゃらである。そこにはそのつどの大義名分がある。
しかも、そうした一掃計画には、たいてい何かが抱き合わされていて、もうひとつの計画が見え隠れした。裏があったのだ。たとえば道路橋梁開発、ダム開発、護岸工事、大型住宅地開発、ゴルフ場建設、リゾート建設‥‥等々だ。明治期の「ケンシ狩り」にもそのような事情が絡んでいた。住民調査、実は一斉摘発、その実は開発計画、なのである。
廃藩置県によって3府302県が3府72県となり、それぞれに県令が就いたとき、各県令が行使した権力には今日では想像がつかないほどの強大なものがあった。
斎所厚が大阪府権判事、族内県知事、兵庫県知事をへて堺県令となり、さらに奈良県知事になった経過にも、そのようなケンシ狩りともうひとつの計画が抱き合わせになっていた。
この物語の最初にしきりに竹内街道の話が出てくるのは、この街道をはじめとする大阪・奈良の連結開削開発工事にも、そのような目的がひそんでいたことの伏線だったのである。そして、それと抱き合わされるようにして、明治10年には最初の大和・和泉・族内での「サンカ狩り」がおこなわれたのだった。
これは「山窩」という蔑称を押し付けて、この人々の正体を公然と刻印するためでもあった。警察が動き、ジャーナリズムもこの蔑称を使う。のちに三角寛の一連の“サンカ小説”が話題になって、ぼくなどもサンカのことはこの三角寛によって知ることになるのだが、実は三角の小説や報告の多くか、もしくは一部が、いまではこうした国家や警察がつくりあげた情報にもとづいていたのではないかとされている。この作品でも、五木は注意深く三角説に走らないサンカをめぐる説明をしようと心掛けていた。
ちなみに『風の王国』には、尾佐竹猛が芥川龍之介や柳田国男らと座談をしている「文芸春秋」の記事が紹介されているのだが、尾佐竹はぼくが第303夜『下等百科辞典』の著者としてあげた“ケンシ社会”にいくぶん通暁していた法曹家でもあって、五木はその尾佐竹に斎所厚の“悪事”を語らせていた。
ついでにいえば、こうした明治期の裏と裏とが結びつく事情の一端は、第549夜の『博徒と自由民権』にもふれておいた。
博徒と自由民権
連打される「サンカ狩り」「ケンシ狩り」「浮浪者狩り」の区別はつきにくい。またその特定の区域を狙ったのか、畿内一斉の処分がおこなわれたのかも、正確なところはわからない。
けれどもこの物語の主人公になる一族のオヤたちは、これらの一斉取締りのもと、ついに自身の「正体」をそのまま証かさずに「トケコミ」をはたすことになったのである。なぜ一族はオモテ社会への「トケコミ」をせざるをえなかったのか。五木はその理由を登場人物の一人をして、こんなふうに語らせている。
「戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国にはすまわせないという、強烈な国家の意志を反映した無籍者への最後の一撃でした」「そしてトケコミが消滅でなく、地底に再生するもうひとつの王国の建設であることを、語り示したのです」「これによって千数百年の浪民の歴史は、表面的にその幕をおろすのです」と。
一畝不耕の流民は、こうして「名指されない正体」を近代国家から隠したのである。
物語はこのあと、速見卓がこの一族の最も重大な「血」を帯びていたことが判明してくるのだが、そこは本書を読みたくなった読者のために、ぼかしておくことにする。それゆえ『風の王国』が、このあとどのように終結していくかも案内しない。
そのかわりに、この作品が抱えたメッセージと、五木寛之その人がたんなるデラシネ硬派だけではなくて、そうとうの“フラジャイルな硬派”であること、つまりは筋金入りの「壊れもの注意派」であることを如実に示す場面をあげておくことにする。
その一節は、「天武仁神講」と「へんろう会」に亀裂が生じ、講友の一部が肥大して勢力も経済力ももってきた現状に、講主の葛城天浪が娘の哀に、こんなことを問う場面である。
まず八家の一人が、「国家は領土と人民を固定するところに成立するのだから、われわれは国家に埋没したくもないが、もうひとつの国家を作りたいとも思わない」という話をする。ついで天浪が言う、「世界の多くの人々の思想は勝つか負けるか、わたしはそのどちらも好かん」。
そこで速見が「でも、もし勝つか負けるか、二つのどちらかの道しかないとしたときは?」と聞いてくる。天浪は「意外な道が必ずあるもので、それは見えないだけなんだ」と言うのだが、速見が半分納得しながらも、なお「それでも二者択一しか残されなくなったときは、どうされるのでしょうか」と尋ねる。天浪はそれには答えず、葛城哀に「おまえなら、どうする」と問いをふる。そこで哀が一言、こう言い放つのだ。「負けます」。
天浪は「よく言った。それでこそ三代目の講主だ」と、目に歓びの光をたたえるというところで、この場面がおわる‥‥。
以上、今夜のぼくはこれをもって『風の王国』の、それゆえ五木寛之の、真骨頂としておきたい。』(松岡正剛・風の王国書評より)
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OUR MOTHER PLANET
世界の終わりと始まりの狭間......と月の呼吸......と天体写真
惑星GRIDの地点
【地点1】北緯31.72度、東経31.20度:(まず最初にこの地点1が、北緯および東経の双方において31という数に近いという点に注目のこと。)
地中海のエジプト大陸棚上の地点で、ナイル川河口のマジブ・ラジットとマサブ・グムヤットのほぼ中間地点。ギザのビラミッドはこの地点より南に70マイル、東に5マイルのところにある。この地点は様々な理由から、UVGの交点が自然に北緯31.72度に生じるという事実も含め、論理的な最初の基準点になっている。この地点はまた、古代に地図の中心に据えられたとされているアレキサンドリア図書館のある地から東に約40マイルの場所である。古代の地図がほぼこの地を地球上の他の地点を滞りなく定めるための基準の点と定めていた事実は特筆すべき重要事である。
この地点1を通る南北の子午線は昔から最も長い陸地を通っている子午線として知られている。地点1はまた赤道から正確に2160マイルの地であるが、2160マイルとは月の直径であり、またUVGグリッドの3角形の(直角を挟む2辺の)長い方の辺長でもある(訳注:1マイル=1.609km。したがって2160マイル=3475.44km)。もう1つの地点1に関する興味深いことは、我々の惑星の陸地のほぼ中央にあるということである。このこと自体が十分興味のあることであるが、我々は陸地がまだ各大陸に分裂する以前の約2億4千年前にもまた、この地域は原大陸の中心にあったであろうことを理論化することができる。このことは明らかになぜ『エノクの鍵』が大ピラミッドを「世界の中心にある白い玉座」として言及しているかの理由である。
考古学的に興味深いところはこの地点1周辺地域がアレキサンドリア図書館、ギザの大ピラミッド、ヘロデ王の要塞宮殿、岩の丸天井、エルサレムのソロモン神殿(大工はヒラム)、そしてヘリオポリスを含んでいる点である。この地域は何千年もの間西洋文化の重要地点の1つであり、過去の偉大な教師や哲学者たちが多数、学ぶために訪れたり住み着いたりしているということは忘れてはならない。
地動説とはポールシフトのことなんでしょうか?
ポールシフトは起こらないそうだけど?
そうはいっても......
2012年の謎は地球と太陽の極の反転
マヤ暦・SEDONA
プラトン立体とツオルキン
宇宙の年齢
2006/6/21
「宇宙の年齢」
宇宙には二つの要素が用意されている。一点に収縮するか,無限に膨張するか。今有力なのド・ジッターやフリードマン理論・宇宙は膨張を続ける「インフレーシオン理論」です。僕は素人ですが,素人なりの受け売り理論で考えるとこういうことです。「宇宙が無限に大きいとしたら星の数も無限になるので,宇宙全体から地球に届く星の光によって夜でも空は昼間のように明るいはずである。しかし現実には夜は暗いのは実際に宇宙が膨張しているためと考えられる。後退速度が光の速度を超えてしまう領域からの光は,永遠に地球には届かないので昼のようになることはない。」
地球が24時間で自転する間に,月は地球と同じ方向に約27日間かけてゆっくりと公転している。この結果,毎日の月の出は,一日の公転分(50分)ずつ遅れる。潮汐の周期もこれに符合して24時間50分間隔となる。いわゆる太陽暦と旧暦(ルナ・カレンダー)の違いとなる。
ゲームの達人のリンクにある「TOSHIYUKI」さんの統一磁場理論のHP関連に「宇宙の年齢の計算」がある。宇宙は「ハップル定数」に従って膨張しているとされている。ハップル定数Hは,銀河が遠ざかる後退速度Vを,銀河までの距離Dで割った宇宙膨張の係数として求められる。
@H=v/d
現在のハップル定数Hoは,100万パーセク(1パーセク=3.26光年=約30兆キロ)あたり秒速50キロから100キロ(管理人注:宇宙の膨張速度)とされています。
ハップル定数の逆数(v/d)は「ハップル時間」ともよばれ,宇宙の年齢を算出するのに使用される。宇宙の密度が臨海密度(50センチ立法に水素原子が1個存在)に等しい場合は,宇宙の年齢は
@t::2/3.1/H
で与えられる。宇宙の密度が臨海密度より大きい場合は
@O<2/3.1/H
小さい場合は,
@2/3.1/H<1/Hでそれぞれ得られる。
現在の宇宙密度が臨海密度に近いと仮定して,現在のハップル定数Hoを50(100万パーセクあたり秒速50キロ)とすると,tは,
@t::2*3*10の19乗/3*50::4*10の17乗(秒)::1.3*10の10乗(年)でおよそ130億年となり,現在発表されている,最も古い球状星団の年齢(約150億年)と,ほぼ一致します。
しかしHo=100だと,宇宙年齢はおよそ60億年,Ho=75でも約80億年で宇宙のほうが銀河よりはるかに若いという矛盾が起きてしまいます。ハップル定数Hoはあくまで現在の値であり,宇宙はビッグバン以来,重力によってその膨張速度を鈍らせてきています。
その減速パラメーターqoは,宇宙の臨海密度soと宇宙の実際の平均密度sと@qo=1/2・s/soという関係にあり,qoが0.5よりも小さいと,膨張は永遠に続き,宇宙は無限の広がりを持ちます。
1.5より大きい場合は,膨張はいずれ収縮に転じ,宇宙は有限の大きさしか持たない事になります。
ところが現時点では,ハップル定数Hoは50から100の間と,とても実質的に使える正確さは持っていませんし,減速パラメーターqoの値も,観測的には不確定でしかありません。ビッグバンがどれくらい前の事件なのか,宇宙は有限なのか無限なのか,その答えが出る日を待ちましょう。
とこんなことです。ですから宇宙の法則で癒しなんてうたっているブログの管理人は一度この計算式を読んでください。ブラックホールだって断言できる天体はなにも発見されていないのです。
ヌース理論とシュタイナーの類似点
「総体における定質と性質が凝縮化されて送り出されてくるという意味では、物質体はその背景にイデアとしての正20面体構造を持っており、エーテル体は同じくその背景に12個の五茫星形からなる正12面体を持っている。」
(上はヌース理論の本)地球の地軸が赤道に対して23.4度傾斜しているため四季がもたらされている。昔の人はお星様キラキラを見て神の存在を感じたのでしょうね,きっと。案外90度ー23.4度=66.6=666=極の反転かも!

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投稿者:伊勢
7月7日の記事で「ロシア防衛相のセルデュコフの恐怖を煽っているのは、彗星Eleninの軌道を計算した結果、この彗星はどう考えてもなんらかの知的制御を受けたものであって、それが地球に接近してくると判明したと報告者は述べているのである。その軌道は当初、今年の秋に地球に接近すると考えられた軌道よりもはるかに地球寄りになっているというのである」とあります。
11月22日=33と言うのが少し気に掛かるとの意見も。
投稿者:tatsujin
管理人より「注意とお願い」
他のブログ主が拙稿をリンクされるのはいいのですが他のブログのコメント欄に拙稿のURLを勝手に載せることはお止めください。とくにそのブログ主が奇矯な人物であるばあい管理人が迷惑しますので.......以上ヨロシク!
投稿者:lull
こんにちは。気になる事があったようなので書き込みたいと思います。
先日打ち上げられたロシアのホッボス・グラント(火星のホッボス探査船)が機能不全に陥り、地球の周回低軌道上に足止めされているそうです。
毒性の強い燃料を積んでおり、落下の危険性も在るとのことです。
ヨハネの黙示録の苦ヨモギ、ノストラダムスのマルス、恐怖の大王(ホッボスはギリシャ神話の恐怖の神)を連想させるのですが…
御考察戴けたらと思います。
本記事に関連のない質問で申し訳御座いません。m(_ _)m