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「ジャングル黒べえ」のメッセージは 今も生きている
アニメ『ジャングル黒べえ』監督
出崎統氏
DEZAKI OSAMU |

本年で生誕
30 周年となる「ジャングル黒べえ」。今なお超多忙の日々を送られるアニメ界の重鎮・出崎統監督に「黒べえ」制作の〈ウラ!ばなし〉を語っていただいた。
プロフィール: '43年、東京都生まれ。学生時代から貸本マンガ家としての作品発表を経て、虫プロに入社。アートフレッシュ、マッドハウスを経て、現在は株式会社あんなぷるの代表者として映画「とっとこハム太郎」や「
ASTROBOY 鉄腕アトム」など多数の作品の舵を執っている。手がけた作品は「あしたのジョー」「エースをねらえ!」「ガンバの冒険」「家なき子」「宝島」「ベルサイユのばら」「ブラック・ジャック」…と数多い。
手塚先生に憧れて―
―アニメのお仕事に携わるまでのご略歴からお話を伺って宜しいでしょうか
どんなことを描いたかはよく覚えてないのだけど、小学校の頃に「漫画少年」の最終号に投稿したのが(創作の)最初ですね。小学生だったから入選しなかったのだけど、名前だけは載ったんですよ。(笑)
「漫画少年」でも投稿コーナーの主幹をやってらした寺田ヒロオさんがその後、尚文館の「野球少年」に四コマ漫画投稿コーナーを担当されまして、中学二、三年生位の時に投稿したら二回位、続けて入選しました。だけど貸本マンガにも投稿したらそちらにも入選しまして。注文も来るようになったので、高校一年生頃からは貸本漫画を描いていました。
ちょうど大阪でさいとう・たかをさん達が活躍を始めた頃で、貸本マンガを描くんだったら劇画調という感じでしたし、(貸本マンガの)出版社も東京に出てきて、貸本マンガが隆盛を極めた時期があるんですよ。でも、僕が高校二年生の頃にはテレビの影響で貸本屋もダーッと無くなって、出版社も全部大阪に引っ込んで―。
もともと手塚治虫先生のファンでしたから手塚調の絵を一生懸命描いていたし、貸本マンガでは描ける場所がなくなってしまって、二年生の終わり位にいろいろ原稿を描いて持ち込みをしたのだけれど、秋田書店の「冒険王」別冊付録全ページのカットがメジャー系の最初で最後の仕事でしたね。それで僕はあきらめました。大好きだったんだけど、とにかくもうマンガやめたっと思ってね。
その後、高校を出てしばらく普通の工場みたいなところに勤めていたのです。まわりはみんな工業高校を出た人ばかりで、僕は普通高校でしたから何の知識もなくて仕事もできなくて、これはもうたまらないと思っていたら、たまたま虫プロが人を募集しているという小さな新聞広告を見たのです。僕は手塚先生には全く面識がなかったのだけれど、ここへ行けば絵の仕事ができるかもしれないと思って。
試験を受けたら「鉄腕アトム」( '63 〜 '66 )のアニメーターの仕事だったのです。あれを動かせ、これを動かせというもので、絵は描けたのでなんとか通って。正式なところはわからないけれど五〇〇人ほど応募した内、三人位しか通らなかったのです。即戦力ということで、絵をかける奴を選んだのだと思うけれど。
―同時期の同門の方はどなたになりますか?
真崎守さんかな。彼は演出志望で制作になって。有名な方は僕の後に続々と入ってこられて。僕が入ったら、村野守美さんがいらして、いろいろ教えてもらいました。その頃、虫プロは富士見台の手塚先生宅の敷地内にあって、僕が入った時は、仕上の方とかもいれて一〇〇人位いたかな。一、二年位したら、あとからあとから入ってきて三〇〇人位になっていたね。その中に杉野昭夫とか、荒木伸吾さんとかいて。僕みたいに貸本マンガを描いていた人たちが続々と集まってきたのです。
そして「ジャン黒」に!
―そして'73年に「ジャングル黒べえ」が始まりますが、楠部大吉郎さんが「ジャングル黒べえ」の
素案は宮崎駿さんが作ったんだよとおっしゃっていたのですが―
僕は知らないなあ。でも楠部さんがそうおっしゃるなら、そうかもしれないね。最初は「ど根性ガエル」(
'72 )なんかを手伝っていたんだけど、「ジャングル黒べえ」は東京ムービーでの最初の監督作品です。その時、初めて藤本(藤子F先生)さんとお遇いして、全くのアニメオリジナルとしてキャラクター像を作っていただいて、話し合いで企画を決めて。
―東京ムービー側の発起人の方はどなたなのでしょう
もう亡くなられたんですけど藤岡豊さんという方で、国際放映とT B S と組んで東京ムービーを立上げられた方です。途中で国際放映の専務になって、またしばらくして返り咲いて…。僕はその人とずっと仕事やっていて、最後の作品は『N
E M O 』かな。「ジャングル黒べえ」の企画書は藤岡さんの意向を受けて、東京ムービーの企画室の方が作ったんだと思います。
―藤本先生とこんな番組にしようとお話されたのは企画段階だけでしたか
どんな話をしたのかは覚えていないけれど、新宿かどこかで、最初にお遇いしたのだけ覚えてます。藤岡さんと藤本さんが来られて、すごい優しい人だったよ。お酒あまり飲まれない方で。もう落ち着いた感じで。
―作画監督に椛島義夫さんや杉野昭夫さんの名前が出ていますが―
杉野さんはマッドハウス時代から、ずっと一緒にやってますが、椛島さんや芝山努さんとはこの作品で出会った、東京ムービーの作画の全責任を負っていた楠部大吉郎さん一門のA
プロの人たちです。お互い切磋琢磨・刺激を受けながら「ガンバの冒険」( '75 )まで一緒にやったね。同時期に「新オバケのQ 太郎」(
'71 )「ど根性ガエル」をやっていたので、A プロの古参の人たちはできなくて、「ジャングル黒べえ」はマッドハウスとA プロの若手の人たちで作った分、当時のほのぼのギャグマンガという感じじゃなくて、前衛的というか、映像的に突き抜けたものになりましたね。
(続きは本誌でお楽しみください!)
―貴重なお話しをいただきありがとうございました。
'03.11.1
取材:ポール舘/てふてふ 撮影:古賀太朗
関連リンク
●
KYOTO 手塚治虫ワールドオリジナルアニメ 『鉄腕アトム』
●劇場板「とっとこハム太郎」オフィシャルサイト
*取材にあたり下記のH P を参考させていただきました。お礼を兼ねてお知らせ申し上げます。
●出崎統公式ファンクラブ
*会誌掲載の記事作成にあたり情報提供をいただきました。
●日本で(いやきっと世界で)一番の『ジャングル黒べえ』研究サイトはこちら。
T.Yoneyama
(よね)氏 運営 の「藤子不二雄atRANDOM
」内のコーナーです。
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