NU SPECIAL INTERVIEW
アニメ監督・出崎統氏
「ジャングル黒べえ」のメッセージは 今も生きている
(NU37号 「ジャングル黒べえ」特集より)  

●本年で生誕30 周年となる「ジャングル黒べえ」。今なお超多忙の日々を送られるアニメ界の重鎮・出崎統監督に「黒べえ」制作の〈ウラ!ばなし〉を語っていただいた。

でざき・おさむ ''43 年東京都生まれ 学生時代から貸本マンガ家としての作品発表を経て、虫プロに入社。アートフレッシュ、マッドハウスを経て、現在は株式会社あんなぷるの代表者として映画「とっとこハム太郎」や「ASTROBOY 鉄腕アトム」など多数の作品の舵を執っている。手がけた作品は「あしたのジョー」「エースをねらえ!」「ガンバの冒険」「家なき子」「宝島」「ベルサイユのばら」「ブラック・ジャック」…と数多い。

手塚先生に憧れて―

―アニメのお仕事に携わるまでのご略歴からお話を伺って宜しいでしょうか
●どんなことを描いたかはよく覚えてないのだけど、小学校の頃に「漫画少年」の最終号に投稿したのが(創作の)最初ですね。小学生だったから入選しなかったのだけど、名前だけは載ったんですよ。(笑)
「漫画少年」でも投稿コーナーの主幹をやってらした寺田ヒロオさんがその後、尚文館の「野球少年」に四コマ漫画投稿コーナーを担当されまして、中学二、三年生位の時に投稿したら二回位、続けて入選しました。だけど貸本マンガにも投稿したらそちらにも入選しまして。注文も来るようになったので、高校一年生頃からは貸本漫画を描いていました。
ちょうど大阪でさいとう・たかをさん達が活躍を始めた頃で、貸本マンガを描くんだったら劇画調という感じでしたし、(貸本マンガの)出版社も東京に出てきて、貸本マンガが隆盛を極めた時期があるんですよ。でも、僕が高校二年生の頃にはテレビの影響で貸本屋もダーッと無くなって、出版社も全部大阪に引っ込んで―。
もともと手塚治虫先生のファンでしたから手塚調の絵を一生懸命描いていたし、貸本マンガでは描ける場所がなくなってしまって、二年生の終わり位にいろいろ原稿を描いて持ち込みをしたのだけれど、秋田書店の「冒険王」別冊付録全ページのカットがメジャー系の最初で最後の仕事でしたね。それで僕はあきらめました。大好きだったんだけど、とにかくもうマンガやめたっと思ってね。
その後、高校を出てしばらく普通の工場みたいなところに勤めていたのです。まわりはみんな工業高校を出た人ばかりで、僕は普通高校でしたから何の知識もなくて仕事もできなくて、これはもうたまらないと思っていたら、たまたま虫プロが人を募集しているという小さな新聞広告を見たのです。僕は手塚先生には全く面識がなかったのだけれど、ここへ行けば絵の仕事ができるかもしれないと思って。
試験を受けたら「鉄腕アトム」('63〜'66 )のアニメーターの仕事だったのです。あれを動かせ、これを動かせというもので、絵は描けたのでなんとか通って。正式なところはわからないけれど五〇〇人ほど応募した内、三人位しか通らなかったのです。即戦力ということで、絵をかける奴を選んだのだと思うけれど。

―同時期の同門の方はどなたになりますか?
●真崎守さんかな。彼は演出志望で制作になって。有名な方は僕の後に続々と入ってこられて。僕が入ったら、村野守美さんがいらして、いろいろ教えてもらいました。その頃、虫プロは富士見台の手塚先生宅の敷地内にあって、僕が入った時は、仕上の方とかもいれて一〇〇人位いたかな。一、二年位したら、あとからあとから入ってきて三〇〇人位になっていたね。その中に杉野昭夫とか、荒木伸吾さんとかいて。僕みたいに貸本マンガを描いていた人たちが続々と集まってきたのです。

―当時のウィークリーアニメのシフト体制はどんなものだったのでしょうか
●全員で毎週、毎週取り掛っていたかな。遅れている所にバッと集まっていって。毎週ヤマ場が来て。月曜から土曜まで、まぁほとんど泊まりだね。当時は外注プロダクションなど無かったから、仕上もやらなきゃいけない。ゼロックス(コピー機)もなかったから、ハンドトレスで。今はゼロックスも使わないけど。

―見える場所に手塚先生はいらしたのですか。
●いつもは雑誌のマンガを描いてらしたのですが、時どき来たりするのですよ。こちらは小さい時から知っているけど最初は動画から入っていましたし(指示を受けて)「ハイッ」「ハイッ」としか言えないのです。他の人はそうでもなかったですが、手塚先生に憧れて虫プロに入ったのだけれど、僕は口聞けなかったですね。
虫プロは一年位で辞めてしまい、外注で「アトム」を作るプロダクションを仲間と初めて作ったのです。毎月会社が一本仕事を受けて、その内の三本に一本の割で演出と作監をやっていました。絵コンテは四、五本描いていますが、手塚先生とお話が出来るようになったのはその頃ですね。そのうち「アトム」の後番組として「悟空の大冒険」('67 )が始まりました。その途中でフリーになりました。

―「悟空の大冒険」はマンガも描いていらっしゃいますね
●アニメで自分の演出した回を雑誌マンガとして「C O M 」に描いたのです。僕がマンガを描いたのはそれが最後でしたね。23 、24 歳だったと思います。月16 ページかな。
7 ヶ月。空いた時に描いていましたが、雑誌だから締切もあるし、それはもうめちゃくちゃな進行でした。

―総監督をされた「あしたのジョー」('70 )では絵を描かれなかったんですか
●手が足りない時は描いたけどね。監督だったから、絵コンテを自分でも描いて、他の人が描いてきたものもチェックしないとならなかったから。

―印象的な場面を止め絵にするという演出はいつごろ開発されたんでしょう
●それはもう「ジョー」の時にやっていたよ。こういう映像を表現してみたい、というのはもう「ジョー」の時にほとんどやっているのです。透過光とかは技術的にはできなかったけど。

―「ハゼドン」('72 )ではどんなお仕事を担当されたのでしょうか。
●虫プロがつぶれたあと、それぞれが会社を作って、僕らはマッドハウスを作って東京ムービーの仕事をやろうと出ていったんだけど、なかなか仕事が決まらない。その後、創映社の仕事なのですけど「ハゼドン」の放映が決まって、僕はマッドハウスの仕事が決まるまで―ということで引き受けました。「ハゼドン」の一話をやったところで本来の仕事が決まったので辞めるよと言ったら、それはないだろうって言われたんだけど、それが約束だろって言ってやめました(笑)。

そして「ジャン黒」に!

―そして翌年に「ジャングル黒べえ」('73 )が始まりますが、楠部大吉郎さんが「ジャングル黒べえ」の素案は宮崎駿さんが作ったんだよとおっしゃっていたのですが―
●僕は知らないなあ。でも楠部さんがそうおっしゃるなら、そうかもしれないね。最初は「ど根性ガエル」('72 )なんかを手伝っていたんだけど、「ジャングル黒べえ」は東京ムービーでの最初の監督作品です。その時、初めて藤本さんとお遇いして、全くのアニメオリジナルとしてキャラクター像を作っていただいて、話し合いで企画を決めて。

―東京ムービー側の発起人の方はどなたなのでしょう
●もう亡くなられたんですけど藤岡豊さんという方で、国際放映とT B S と組んで東京ムービーを立上げられた方です。途中で国際放映の専務になって、またしばらくして返り咲いて…。僕はその人とずっと仕事やっていて、最後の作品は『N E M O 』かな。「ジャングル黒べえ」の企画書は藤岡さんの意向を受けて、東京ムービーの企画室の方が作ったんだと思います。

―藤本先生とこんな番組にしようとお話されたのは企画段階だけでしたか
●どんな話をしたのかは覚えていないけれど、新宿かどこかで、最初にお遇いしたのだけ覚えてます。藤岡さんと藤本さんが来られて、すごい優しい人だったよ。お酒あまり飲まれない方で。もう落ち着いた感じで。

―アニメ用のキャラクターのデザインを起こされたのは?
●僕は黒べえの絵が完成してから参加しているから、それ以前のことはわからない。(本誌掲載の)黒べえの初期デザイン案の存在も知らなかったですね。たぶん、藤本さんにこういう内容のこういうキャラを描いてくださいと発注しているので藤本さんだと思います。

―実際にテレビアニメ「ジャングル黒べえ」が始まったあとは、ストーリーは藤本先生とはご相談なく作られていたのでしょうか
●テレビアニメ側は、こっちはこっちでどんどん作っていったみたい感じでしたね。間に合わないからね。原作マンガを積まれて、これをどう分析するかはやった覚えがないし。先ほどの企画書みたいに、設定が決まっていて、後から絵をつけるという意味ではテレビアニメ先行でやっていたのではないかな。

―O P のコンテはどなたが描かれたのでしょうか?
●僕が描いたのかもしれないけど、よく覚えていないです。第一話(A パート)を作ったのはよく覚えているんだけど。E D もどうだったっけ?

―三チームほどのローテーションで制作されていらっしゃったようですが―
●いわゆる(A パート・B パート型式の)二階建てというのはコンパクトだから、結構回転がよくて。制作が間に合わなかったら、入れ替えちゃうこともできてよかったね。それでも僕は、絵コンテの直しに追われて大変だったけどね。

―作画監督に椛島義夫さんや杉野昭夫さんの名前が出ていますが―
●杉野さんはマッドハウス時代から、ずっと一緒にやってますが、椛島さんや芝山努さんとはこの作品で出会った、東京ムービーの作画の全責任を負っていた楠部大吉郎さん一門のA プロの人たちです。お互い切磋琢磨・刺激を受けながら「ガンバの冒険」('75 )まで一緒にやったね。同時期に「新オバケのQ 太郎」('71 )「ど根性ガエル」をやっていたので、A プロの古参の人たちはできなくて、「ジャングル黒べえ」はマッドハウスとA プロの若手の人たちで作った分、当時のほのぼのギャグマンガという感じじゃなくて、前衛的というか、映像的に突き抜けたものになりましたね。

―二頭身のキャラクターが所狭しと動き回り、細かいカット割や背景がこれでもかっと切り替わって、現在でも新鮮な映像です
●そうなんだよ。そういう意味では〈藤子さんタッチ〉じゃなかったかもしれないけど(笑)。映画タッチというか…。

―出崎監督は劇画タッチ作品が多いようですが、こういったギャグ作品も自然体でできるんですか?
●「ガンバ」では半々だったけれど、何故か「あしたのジョー」をやってしまったばかりに劇画タッチの作品が多いんですけど、どっちかと言うと本当はこういうギャグ作品が好きですよ。

―放映半ばにしてアニメオリジナルでライバルキャラクター・ガックを出されていますね
●視聴率対策とかではなくて、新鮮に展開させるために出したんだと思います。

―放映期間の計画は最初から半年ほどだったのでしょうか

●残念なことに裏番組が強くて、東京では(視聴率は)全然駄目だったみたいね。大阪ではまあまあ行ってたらしいけど。「ジャングル黒べえ」の方がぜんぜん面白かったと思うけどね。番組としては予定通り終わったのだと思うよ。そのあと、すぐ今度これやってって『エースをねらえ!』の原作を積まれて。「こんなの俺見たことない」って言うのに「明日までに企画書作って」って言われて。(一同笑)

―「ジャングル黒べえ」への想いを教えてください
●(出崎さんらが設立した)マッドハウスは、虫プロの「あしたのジョー」班の全員を連れてきたの。僕は藤岡さんと虫プロいたときからの知り合いで、三〇数人連れてよろしくお願いしますって、お金借りて社屋借りてスタジオ作ってみたいなことで始めたから、責任を感じていて、「ジャングル黒べえ」はなんとか成功させようと一生懸命やりました。
パオパオとか赤べえとか描いていて面白かったよ。黒人の問題もいいがかりですよ。日本人だって今でもちょんまげ結っているなんて思っている人が世界にはいるわけですから。それはそれで文化の違いだし、そういう意図で作っているわけではないからさ。しかも「ジャングル黒べえ」の場合は、ジャングルの王様はえらいぞという話でしょう。どこに何がひっかるんだよという感じですよね(笑)。「ジャングル黒べえ」に僕はすごい愛着あるんだけれど、黒い人が出ている、というだけで埋もれて表に出て来られない、可哀想な作品だよね。現実世界に身も知らぬキャラクターがやってきて…そういう映画流行ったよね、ブッシュマンとか。ああいう感覚なんだよね。現代批判、文化批判ということだよね。そういう位置づけだと思うんですよ。それは間違っていないと思うし。それは別にアフリカじゃなくて、おとぎの国からでもいいわけだしね。メッセージとして今も生きているものだと思うんだけど。だから「オバQ 」とか「ドラえもん」と構成は似ているけれど、文明批判ということでは、それら以上の存在意義があったんじゃないかな。今みたいに何でもマニュアル化してしまって、それに抵触してしまうものは価値観を与えないというのは間違っていると思うんですよ。

―出崎監督の創作の源泉や今後のご活動もお話いただけますか
●最初に感銘を受けた手塚先生の作品はやっぱり『鉄腕アトム』とか『冒険狂時代』かな。あとで知ったんだけど、『冒険狂時代』は手塚先生のメジャー初の連載作品なんですってね。『冒険狂時代』を子供の頃みてね、当時はそれこそ本なんか買えないから、毎月立ち読みしたりとか、手塚マンガで育っちゃったという感じですよ。手塚先生は失敗作と言ってるんですが、侍がいろんな事件に巻き込まれながら、宝の地図を探して、西部劇も出てくるし、砂漠のピラミッドも出てくるし、無茶苦茶・ハチャメチャなんだけれど、いろんな人が登場してワクワクしながら読んだんですよ。後で読み返すと、何でこうなるのみたいな箇所があるんだけど、主人公が一生懸命やっているところにワクワクしながら読みましたね。それを映像化しようと思って、一昨年前に企画を興したんだけれど、まだモノになってないですよ。現在進行中の「映画・とっとこハム太郎」と「鉄腕アトム」のあと新しい企画が控えていたりするんだけど、まだちょっと言えない(笑)。

―貴重なお話しをいただきありがとうございました。
(取材'03 ・11 ・1 掲載2003・12発行 ネオ・ユートピア37号)
取材:ポール舘/てふてふ 撮影:古賀太朗

ここまでインタビューを行って一つわかったことがあります。それは僕らが好きな黒べえを作ったのはF先生というより出崎監督を初めとするアニメスタッフだったということです。


◆脚注・出崎統ミニ百科◆
●少年期の出崎さんにとってもっかの目標たる作品発表の場は学童社の「漫画少年」だったが、'55 年に出版社倒産に伴い休刊。藤子先生が二人で一人の存在とは当然知らないものの、投稿マンガや連載作品でその名を意識もされていたと言う。その後投稿企画を実施している雑誌が無くなり「野球少年」誌が唯一の例外となったとのこと。

●出崎さんの描かれた貸本マンガ作品『ホオに傷のある男』『天使達』が〈出崎統公式ファンクラブ〉のホームページで閲覧が可能。時代の要請で描かれたそれらの作風は無頼漢たちの人情鐔といった作風。蛇足だが小学館のコミック販促誌「ナマズの巣」に連載されていたさいとう・たかお氏「俺は劇画家だ!」並びに現代マンガ図書館館長・内記稔夫氏「マンガとともに生きた私の戦後史」が貸本マンガの栄枯盛衰を知る上では有力な資料となるだろう。

●村野守美(むらのもりび) '41 年満州大連生まれ虫プロのアニメを立ち上げるにあたり、手塚治虫先生に請われて入社。漫画家としても作品を多数執筆。動画、作画監督として「佐武と市捕物控」他を演出。ダーマトグラフィで描く独特の演出画法を考案。サンリオの「ユニコ魔法の島へ」では名実ともに監督を努める。

●真崎守(まさきもり) '41 年横浜生まれ本名・森柾(もりまさき)虫プロで「鉄腕アトム」や「ジャングル大帝」などに関わる。'68 年に漫画家として独立し、その後再びアニメ界に復帰、「浮浪雲」「はだしのゲン」「時空の旅人」などを監督する。

●「アトム」放映中に立上げられた会社・アートフレッシュで、出崎さんは112 話「サムソンの髪の毛」123 話「ドッグ隊長」132 話「ルイ王子」143 話「バードストリート物語」175 話「ロボット大戦争(前篇)」の演出を担当されている。

●この冬に発売されるD V D ‐B O X の封入特典として初めて一冊の単行本としてまとめられる『悟空の大冒険』は何と〈虫コミックス〉を模したデザイン。最後に出版された商品から実に三〇年ぶりに出た第189巻目の虫コミとなる!

●虫プロ商事・虫プロダクションが倒産し('73 年)在籍していたアニメーター達が作った創映社。後の日本サンライズ(現・サンライズ)の祖となったスタジオだ。

●藤岡豊(ふじおかゆたか) 東京ムービー初代社長。出崎統監督や宮崎駿監督、高畑勲監督らと「ルパン三世」「エースをねらえ!」「ガンバの冒険」「じゃりん子チエ」などを製作、さらに世界に通用するアニメをと、日本で初めてのフルアニメのスタジオ、テレコムを設立。宮崎駿監督の「ルパン三世・カリオストロの城」を送り出した名プロデューサーでもある。

●手塚治虫漫画全集40巻『冒険狂時代』あらすじ●密書をワシントンへ届けるべく、海をわたった少年剣士嵐タコの助は、宝の地図をめぐるあらそいにまきこまれてしまった!宝をもとめ、タコの助は世界じゅうをかけめぐる!大きな夢がひろがる奇想天外大冒険物語!!(手塚プロH P から引用させていただきました)

●はみだしトーク●「ジャングル黒べえ」ではコンテを担当された作品では〈さきまくら〉さんという筆名をご利用になっていますが―(N U )〈お先真っ暗〉ですね。本当は違うんだけどね。(笑・出崎)


出崎統監督小史

'64 アートフレッシュ 参加
'72 マッドハウス 設立
'80 あんなぷる 設立
'63 虫プロ入社
'59 貸本マンガデビュー
'43 誕生'47 手塚治虫『新宝島』発表
'51 手塚治虫『冒険狂時代』『来るべき世界』などを発表
'55 「漫画少年」休刊
'63 TV アニメ「鉄腕アトム」放映(〜'66 )

● '63 「鉄腕アトム」原画に参加
'64 ア ートフレッシュとして同作品の演出など担当
● '67 「悟空の大冒険」に演出に参加
● '70 「あしたのジョー」が初監督作品となる(〜'71 )
● '72 「ハゼドン」第1 話監督
● '73.3 「ジャングル黒べえ」(〜'73.9 )
● '73.10 「エースをねらえ!」(〜'74.3 )
● '75.5 「ガンバの冒険」(〜'75.9 )
● '75.10 「元祖天才バカボン」(〜'77.9 )
● '76.10 「まんが世界昔ばなし」(〜'79.3 )※共同監督
● '77.10 「家なき子」(〜'78.10 )
● '78.10 「宝島」(〜'79.4 )
● '79.9 「エースをねらえ!」(劇場版)
● '79.10 「ベルサイユのばら」(〜'80.9 )
● '80.10 「あしたのジョー2 」(〜'81.8 )
● '82.7 「コブラ」(劇場版)
● '82.10 「スペースコブラ」(〜'83.5 )
● '83.5 「ゴルゴ13 」(劇場版)
● '88.7 「エースをねらえ!2 」(OVA )
● '89.10 「エースをねらえ!ファイナルステージ」(〜'90.4 )
● '93.12 「ブラックジャック」(OVA 全10 作 〜'00 )
● '96.11 「ブラックジャック」(劇場版)
● '97.4 「白鯨伝説」
● '01.12 「とっとこハム太郎」(劇場版)
● '02.12 「とっとこハム太郎2 」(劇場版)
● '03.4 「鉄腕アトム」オリジナルアニメ第1 弾
● '03.9 「鉄腕アトム」オリジナルアニメ第2 弾

●オリジナルアニメ『鉄腕アトム』は京都駅構内「KYOTO 手塚治虫ワールド・手塚治虫アニメシアター」のみの上映。現在、'04 年公開に向け第3 弾も制作中だ。右図は絵コンテを担当したTV 版第9 話収録のDVD 。
●出崎監督がさきまくら名義でコンテを描かれた第1 回第1 話。本誌掲載の再録マンガと類似した構図が発見でき興味深い。共通のシノプシスを利用しつつも頁数の都合か、F 先生は犬小屋を破壊して黒べえが登場する部分を描かず、タイガーとの賭けを果たすべく犬小屋に鳥(?)を居着かせるオチを用意している。


関連リンク

KYOTO手塚治虫ワールドオリジナルアニメ第2弾
『鉄腕アトム・イワンの惑星』〜ロボットと人間の友情 画像
http://astroboy.jp/c/news/event/index.html#0309_002

劇場板「とっとこハム太郎」オフィシャルサイト
http://www.hamutaro-movie.com/

ジャングル黒べえ小辞典(藤子不二雄atRAMDOM)
もっと黒べえを知りたい方はこちらへ
管理人様の好意によりリンクの許可をいただきました。
http://www17.big.or.jp/~yonenet/fujiko2/kurobee/index.html

取材にあたり下記のH P を参考させていただきました。お礼を兼ねてお知らせ申し上げます。

出崎統公式ファンクラブ

http://www.toshima.ne.jp/~styou/

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