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利根運河散歩をきっかけに数回に渡って辿った柏、流山の谷津や小金牧、流山の旧市街の散歩もおおよそ気になる事跡はカバーし終え、やっと野田へと足を運ぶこととなった。みりんで栄えた流山旧市街は今では静かな街並みが残るだけであったが、醤油と言えば野田と言われるその街並みが如何なるものか、実際に訪れてみると、野田市街はいわく言い難い町ではあった。古い街並みが続くわけでもなく、かと言って、雑とした街並みでもなく、歴史を感じる醤油工場の広いプラントと民家、そしてその中に旧家が同居する、他の町では感じたことのない雰囲気を醸す町であった。

旧市街を彷徨うも、結局は醤油にかかわる事跡を辿った、との思いしか残ってなく、それでも、何か見落とし、時空散歩につながる深堀りのきっかけを求めながら散歩のメモをはじめる。

本日のコース:東武野田線野田市駅>有吉町通り>野田町駅跡>茂木本家美術館>文化通り>茂木佐公園金福宝龍金寶殿本社>野田市郷土博物館>茂木佐邸>本町通り>興風会館>須賀神社>堤>県道松戸野田線>下河岸桝田家住宅>江戸川>報恩寺>上河岸戸邊右衛門家住宅>高梨本家上花輪歴史館>上花輪香取神社>本町通り>奥富歯科医院>株式会社千秋社社屋>旧野田醤油株式会社本店初代正門>野田市立中央小学校校舎>キノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群>愛宕神社>浪漫通り>キッコーマン稲荷蔵>茂木七左衛門邸および煉瓦塀>弁天通り>茂木七郎治邸>キッコーマン給水所>厳島神社弁財天>駐輪場>野田野田線野田市駅

東武野田線・野田市駅
通いなれたるつくばエクスプレス&東武野田線に乗り東武野田線・野田市駅に。駅を下りると駅前ロータリーの向かいには巨大なプラントとその入門ゲート。キッコーマン野田工場とある。右手もテニスコートの先にはプラント、駅の裏手もプラント。キッコーマン食品の工場とある。醸造所との言葉とは程遠い巨大なプラントに囲まれた、とはいいながら工場特有の喧騒とは程遠く、また駅前商店街といったものもなく、少々さびれた感じの街並みが、他の町では感じたことのない野田の第一印象であった。
振り返り駅舎を見やる。昭和の名残を残すレトロな雰囲気が、いい。この駅舎は昭和4年(1911)に建築され、昭和61年(1986)には鉄組みを残し、全面的に改装された、とのことだが、それでも建築当時の面影を今に伝える。

野田町駅跡・有吉町通り
駅を下りるも、野田散歩のきっかけとなるものは何もない。例のごとく、とりあえず郷土資料館を訪れ、なんらかの資料を手に入れることに。工場の間を通る県道46号を道なりに進む。県道46号は野田と牛久を結ぶが、利根川のあたりで一時道筋が無くなるという。
散歩をするまで、県道や国道で途中道筋がなくなるなど考えてもみなかったのだが、時としてそのような道に出合う。印象に残るのは、都道184号。都下日の出町の平井川に沿って北に上り、途中道筋がきえるのだが、御岳山から日の出山へと辿る尾根道に都道184号とあった。御嶽の集落に都道の表示もあり、馬の背の尾根道に道を通す計画があったのだろうか。御嶽の集落から先の道筋は確認できなかた。

野田町駅跡・有吉町通り
県道を進むとほどなく道脇に「野田町駅跡・有吉町通り」。案内によると、「明治44年(1911)、野田・柏間に県営軽便鉄道が開通。そのころの野田町駅があったところである。また、当時の千葉県知事・有吉忠一氏の功績をたたえて新設の駅前通りを有吉町と命名した」とある。
野田に鉄道敷設の気運が出てきたのは、明治10年代のことと言われる。野田と国鉄・常磐線柏駅を結び、野田の醤油を鉄路を通じて東京や各地へ運ばんとした。しかし、従来の江戸川を使った、舟運業者との関係からその計画は進まず、結局千葉県営軽便鉄道として野田~柏間が開通したのは30年後の明治44年(1911)。建設費は全額を県債とし,野田の醤油醸造者による野田醤油組合が引き受けた。この時の千葉県知事が有吉忠一氏であり、駅がこの地に建設された。

大正11年(1922)には、野田醤油醸造組合が民間払下げ運動を起こして県から譲り受け、野田・柏間の路線を継承し、併せて柏・船橋間を開くべく北総鉄道株式会社を設立。昭和4年(1929)には愛宕、清水公園の両駅を新設、社名も総武鉄道株式会社と変更した。
先ほど下りた野田市駅は、この総武鉄道の拠点駅として建設された。単なる駅舎だけでなく、本社機能もそなえたものであり、結構大きな規模の駅舎が建設されたようである。この時に旅客業務は野田市駅へと移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで行っていたとのことである。
総武鉄道は昭和5年(1930)には大宮~船橋間の全線(62.7キロメートル)が開通。昭和19年(1944)、総武鉄道は国策により東武鉄道に合併され現在に至る。先ほど醤油プラントに囲まれたところに駅がある、とメモしたが、よくよく考えれば、そもそもが、鉄道は醤油輸送を目的として作られたわけであるから、当たり前と言えば当たり前のことではあった。

茂木本家美術館
県道を少し進み、右手に折れて野田市郷土博物館へと向かう。北に進むと「茂木本家美術館」があった。茂木本家十二代当主である茂木七左衞門氏が収集した、葛飾北斎、歌川広重の浮世絵をはじめ、小倉遊亀、梅原龍三郎、横山大観、片岡球子など絵画から彫刻、陶芸などおよそ700点にも及ぶ作品を所蔵する、とのこと。情緒・情感に乏しく、美を愛でる心に欠けるわが身であるので、少々敷居が高いのだが、意を決して美術館に近づくに、予約制とのこと。故なく、ほっとして美術館を離れる。
ところで、野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木ということは知って入るのだが、茂木本家って?チェックすると、茂木家の始祖であり真木しげに遡る。夫の真木氏が大坂夏の陣に西軍に与し自刃を遂げたため、妻のしげが野田に逃れ来た、と言う。名も真木から茂木と改め、しげの子が茂木家の初代当主茂木七左衞門となった。本家と称する所以は、時をへて茂木家が茂木佐平治家、茂木七郎右衛門家、茂木勇右衛門家、茂木啓三郎家、茂木房五郎家といった分家ができたため、本家と称するのだろう。

茂木佐公園・金寶殿本社・手水舎

野田本家美術館脇の道を北に進む。前方に緑の森が見えてきた。郷土博物館はそのあたりであろうと先に進む。道の右手に郷土博物館らしき建物があるのだが、左手に公園があり、そこに建つ社殿がなんとなく、いい。郷土博物館を後回しにし、先に社殿に向かう。
公園内の鳥居脇に手水舎があり、この造作も、いい。社殿に向かいお参りし、脇にある案内を読む。「茂木佐平治家の稲荷神と竜神を祀るための、立川流大工・佐藤里次則壮による総欅造りの大唐破風の社寺建築(大正3年)。鳥居脇にある手水舎も豪華な大唐破風造りとなっていて、たいへん珍しい神社。堂には十六羅漢や花鳥魚類や十二支と見事な彫刻や錺(かざり)金物が約150点施されており、江戸から大正にかけての伝統的職人技が花びらいた近在屈指の建造物である。大正15年より、遊楽園内のよろこび教会釈尊堂として使用されたが、平成17年に元に戻された」、とあった。

茂木佐平治家とは茂木家の分家のひとつ。野田の醤油醸造は1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始。その翌年(1662年) に茂木佐平治が味噌製造を開始した、とされる。茂木家はその後醤油製造も手がけ、 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受けた、とか。ところで、キッコーマンの商標はこの茂木佐家の商標である。大正6年、高梨家、流山で関東白味醂を生産していた堀切家と、 茂木本家をはじめとする茂木家六家が大同団結して野田醤油株式会社を設立し、合併当初は各家の商標をつけた醤油を併売してたが、 やがて当時もっとも人気の高かった茂木佐家のキッコーマンの商標に統一することになった、とのことである。1877(明治10)年に開催された「第1回内国勧業博覧会」で、茂木佐平治家が「亀甲万印」の醤油で賞を獲得するなど、「亀甲万印」のブランドが一番知られていたのであろう、か。

野田市郷土博物館

公園から郷土博物館に向かう。博物館は元の茂木佐平治邸、現在は市に寄贈され市民会館となっている旧家邸内にある。公園脇に蔵に囲まれた通用門の周囲の塀の赤はベンガラ塗り。インドのベンガル地方産の赤い顔料であり、格式の高い屋敷に使われる。通用門から入ると、玄関はいかにも市民の集会所入口といった雰囲気。
塀にそって南に下り、左に折れて表門より邸内に入る。この立派な表門・薬医門は、かつては特別のゲストや行事のときだけ開けられたもの、と言う。薬医門の名前の由来は、矢の攻撃を食い止める=矢食い、とも、医師の屋敷門であるから、とも。建物は国登録有形文化財、国登録記念物に指定されている。
門を入ると邸内左手に野田市郷土博物館があった。設計は日本武道館などを設計した山田守氏。昭和34年に建設された。1階は「野田の歴史と民俗」の展示。野田貝塚・山崎貝塚や三ツ堀遺跡の土器、東深井古墳群の埴輪など、市内を中心に東葛飾地方から出土した考古遺物、野田人車鉄道に関する資料、樽職人の道具、そして昭和初期の童謡作曲家・山中直治などが展示されている。2階は「野田と醤油づくり」とのテーマで醤油醸造に関する資料が展示されていた。
郷土博物館で気になったことは、江戸の頃醤油を江戸に運んだ江戸川の上河岸と下河岸、野田人車鉄道、そして山中直治氏。上河岸と下河岸には、市内彷徨を後回しに、まずはその地に向かうことにするとして、野田人車鉄道、そして山中直治氏についてチェック。野田人車鉄道とは明治33年(1900)に野田鉄道が開通すると、大正2年(1913)には人車鉄道は野田町駅へと路線を延長。大正6年(1917)、野田醤油醸造組合が合同し野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立されたときは、人車鉄道は同社の運輸部門となるも、大正12年(1923)の関東大震災を契機に鉄道輸送がトラック輸送にシフトし、大正15年(1926)にはその営業を停止した。

山中直治氏は野田出身の童謡作家。童謡「かごめかごめ」を全国に広めた人としても知られる。全国に広めた、という意味合いは、童謡「かごめかごめ」は歌詞を変えながら全国で歌われていたのではあるが、昭和8年頃、山中氏が野田地方で歌われていたこの童謡を採譜し、楽譜にして広島高等師範学校(現在の広島大学)発行の『日本童謡民謡教集』に紹介。これが契機となり昭和38年に岩波文庫から『わらべうた』で野田で歌われている童謡として知られていった、ということだろう。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」。これが昭和8年頃、野田地方で歌われていた歌詞。童謡自体は江戸の文献にも残るが、歌詞はそれぞれ異なる。特に「鶴と亀と滑った」「後ろの正面」という表現は明治以前には確認されていないようだ。意味も各人が各様に解釈している。深読みもそれなりに面白いのだけれど、単なる「語呂合わせ」や「リズム合わせ」「ことばの連想遊び」程度との話がなんとなく落ちつく。「囲め」が「籠目」に。「籠」から鳥を連想。鳥と言えば「鶴」。鶴といえば「亀」でしょう。「鶴」からつるっと「滑る」を連想。鳥が鳴くのは「夜明け」。「夜明けから逆の「晩」を連想。かくのごとく、こともたちが口調次第で自由に語り継いでいったのではないだろう、か。

茂木佐邸

郷土博物館を出て邸内茂木佐邸・茂木佐平治氏のお屋敷に向かう。正面破風造りの正面玄関からお屋敷に足を踏み入れる。大正13年、当時の贅をつくしたと伝わるお屋敷を一巡。10もあるこの和室のどこかで吉永小百合さんのシャープAQUOSのテレビコマーシャルの撮影が行われた、とか。長い廊下から眺める庭園も誠に、いい。先ほど訪れた茂木佐公園も含めた一帯が茂木佐平治氏の敷地であり、市立中央小学校の辺りには茂木佐家の醤油醸造所があった、とか。茂木佐公園は大正の頃に一般に公開されたが、屋敷は昭和31年(1956年)市に寄贈され、同年一般公開されるようになった。

興風会館

茂木佐邸を離れ、江戸川の河岸へと向かう。西に向かい、県道17号・流山街道へと向かう。途中道の左手に琴平神社がある。二代目茂木七郎右衛門が讃岐の金毘羅神宮をこの地に勧請した、と。現在は一般公開されていない、と言う。
流山街道、野田市内では本町通りと呼ばれているようだが、その通りを南に下り県道46号と交差する野田下町交差点を目指す。道の左手にキッコーマン本社を見やりながら進むと、近代的な本社ビルの脇に、レトロなビルがある。昭和4年に竣工の「興風会館」である。ロマネスクを加味したルネサンス風の建物は竣工当時、千葉県庁に次ぐ大建築であった、とか。国登録有形文化財に指定されている。
興風会とは野田醤油株式会社が社会教育事業推進の目的で昭和3年(1928)に設立された財団法人。「興風会」は「民風作興」から。このフレーズは昭和初期に流行った言葉のようで、ライオン宰相・浜口雄幸もその随想録の中で「最後に言はしめよ。現代の青年は余りに多く趣味道楽に耽って居るのではあるまいか。之が果たして其の人を成功に導く所以であるか、之が果たして民風を作興する所以であるか」と述べる。意味するところは「一般庶民が風を起こし、町を作る」といったところである。
興風会設立の背景には、歴史に残る「野田労働争議」がある、とも。興風会が設立された昭和3年(1928)は、大正11年(1922)から連続的に起こった野田の醤油醸造所での労働争議が和解された年でもある。樽の加工をおこなう樽工170名が樽棟梁によるピンハネの撤廃を要求しおこなったストライキに端を発し、翌年には全工員が参加する大ストライキに発展。一時終息するも、再燃。会社側による暴力事件も頻発した、とか。結局は昭和3年(1928)争議団長による天皇直訴事件を契機に和解に至った、とか。

須賀神社

興風会会館の向かい、野田下町交差点脇に須賀神社がある。土蔵造りの社に惹かれてちょっと立ち寄り。境内に猿田彦の像が建つ。文政6年(1823)造立の丸彫立像。猿田彦は、天津彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から日向に天孫降臨降臨するに際して、高千穂まで道案内したという記紀神話の神。そのゆえに「導きの神」「道開きの神」とされる。道祖神や庚申信仰と結びつく所以である。
通常須賀神社の祭神は牛頭天王とか、素戔嗚命、と言っても、神仏習合で牛頭天王=素戔嗚命ではあり、同じ神であり仏ではあるのだが、この社の祭神は誰だろう。チェックし忘れてしまった。

市道の碑

野田市下町交差点から、成り行きで上花輪地区を南へと下り下河岸跡へと向かう。花輪って美しい言葉と思い由来をチェックすると、「土地の出っ張り。末端」の意味とのこと。「端+回(曲)」が転化したものだろう。端は文字通り、回(曲)は、「山裾・川・海岸などの曲がりくねった辺り」を意味する。
南へ進むと東福寺の脇道に出た。そこを少し進むと台地端となり、台地下には低地が広がり、そこに県道5号が走る。台地端の道脇に「市道」の碑。案内によると、「現在市道の土手と知られているこの道は、かつて土手下にあり、その頃道の両側には和野菜の市がたっていたことから市道と呼ばれるようになった。昭和のはじめ鹿島原(注;野田市駅の東辺り)から大量の土砂が運ばれ土手が築かれたため、旧道はその下に埋もれ野菜市も行われなくなったが、花輪道が今では市道といわれるようになった」とある。
利根川水系江戸川 浸水想定区域図(国土交通省関東地方整備局 江戸川河川事務所)を見ると、土手下あたりは洪水時2mから5mの浸水予想。その南は5m以上の浸水予想。土手の東側は0.5m未満と表示されていた。洪水予防のため高い土手を築いたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

下河岸桝田家住宅

土手道のはじまるところに甲子講(きのえねこう)の石塔。甲子の日に集う民間信仰で大黒講、とも。お参りを済ませ、土手道下にキッコーマンの工場を見下ろしながら進む。土手道は緩やかな坂道となっており、下り切ったあたりで県道5号に当たる。交差点を渡り、江戸川堤防手前の下河岸桝田家住宅に。国登録有形文化財に指定されている。周囲に人家のない江戸川の堤防下にぽつんと一軒家が建つ。下河岸の船積問屋であった桝田仁左衛門家である。明治4年に建てられたたもの。1階が帳場、2階が船宿であった、とか。標識に桝田とあり、現在もお住まいのようである。

家の前には洪水除けの煉瓦塀が残る。江戸川に堤防は大正と昭和の二度にわたって築かれた。第一回は大正3年(1914)。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。昭和22年のキャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施され、現在の姿になった、と言う。
千葉県立関宿城博物館所蔵の『回漕問屋開業広告』、枡田家がつくった広告パンフレットには江戸川に面した船積問屋・枡田家が描かれている。堤もない江戸川には高瀬舟や蒸気船・通運丸も浮かぶ。この下河岸が通運丸の発着所でもあったようだ。往昔、野田の醤油醸造所から馬車や人車で運ばれた醤油が江戸川を下り、江戸や上州に向かったのであろう。また、醤油の原料となる大豆は常陸、下総から、小麦は相模から、そして塩は赤穂など十州塩田(瀬戸内10カ国の塩田)から運ばれ、此の地で荷揚げされた。
下河岸は上河岸に対してつけられた名称であり、船積問屋の主人の名をとり「仁左衛門河岸」とも、地名をとり「今上河岸」とも呼ばれたようである。

報恩寺

下河岸跡を離れ、江戸川の堤を北に辿り、野田橋の近くにある上河岸跡へと向かう。堤防に東には醤油プラントが続く。かつてはこの辺りに宮内庁に納める醤油をつくる御用蔵があったようだが、現在は駅前のプラント内に移された、と。
堤を歩きながらiphoneをチェックすると堤下の緑の中に浄水池らしきものが見える。市の浄水場かと思ったのだが、キッコーマンの排水浄化装置のようである。
水に惹かれ、堤防を下り、成り行きで森の中に入る。行き止まりを恐れながらも進むと、前方が開け、そこにお寺さまがあった。道なりに四国八十八カ所霊場が祀られており、弘法大師がご本尊。山号も大師山報恩寺となっていた。このお寺様、もともとは此の地の北、野田市堤台にあり、堤台八幡神社の別当として、江戸の頃は末寺二十四ヶ寺をもち、幕府より朱印状を与えられた寺格であったようだが、明治の廃仏毀釈の時、この地に写った。

上河岸戸邊五右衛門家住宅

報恩寺を離れ,工場プラントの塀に沿って、ぐるっと周り県道19号に。野田橋下交差点を越えたすぐ先に、県道から左斜めに堤防方面に向かう道がある。平成食品工業というキッコーマンのグループ会社を左手に見ながら進むと趣のある邸宅があった。そこが上河岸戸邊五右衛門家住宅。上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡である。この屋敷も国登録有形文化財に指定されている。
上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡は現在も個人のお宅であり、塀の外から主屋や重厚な土蔵を眺める、のみ。このお屋敷は昭和の江戸川改修に伴い現在の地に曳き屋した、とのこと。地名ゆえに、中野台河岸とも呼ばれる。

高梨本家上花輪歴史館

上・下河岸を見終え、それなりに昔を偲び旧市街へと戻る。途中、上花輪にある高梨本家上花輪歴史館に訪れることに。成り行きで県道5号まで戻り、キッコーマンのプラントを左手に見ながら、下河岸桝田家住宅近くの交差点まで戻る。そこを先ほど下りてきた緩やかな土手道を上り、途中左手に折れ、国名勝のけやき並木が並ぶ公園を左手に見ながら進むと高梨本家上花輪歴史館。
国指定名勝に指定されている歴史館は、残念ながら改修工事かなにかで、邸内に入ることはできなかったが、この歴史館は江戸時代に上花輪村の名主で醤油醸造を家業として
いた高梨兵左衛門家(高梨本家)の居宅。中には醤
油醸造の道具類の展示と広壮な庭園の散歩と、贅沢な
座敷が見られる、とか。

野田における醤油生産の歴史は、戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛という人物がたまり醤油を製造、甲斐の武田氏に献上したことに遡る。たまり醤油って、鎌倉時代に和歌山県の湯浅で, 味噌の桶に溜まった汁(たまり)を調味料として作り出したのが最初とされる。味噌から分離された液体が「たまり醤油」と言うことだろう。江戸時代の初め頃までは 近畿地方と四国の讃岐などから たまり醤油が関東へと「下って」きていたのだが、如何せん、 たまり醤油は製造から出荷まで3年程の長期間かかり, 需要に追いつかず, 関東では 銚子・野田などで1年で製造できる「濃口醤油」が, 関西では 兵庫県(たつの)で「薄口醤油」が 開発されることになった。
濃口、薄口って、味の違いかと思っていたのだが、濃口は本醸造とも呼ばれるように、製法自体がたまり醤油と異なっている。「たまり」はその原料が大豆がほとんどで、極めて少量の小麦を加えるだけであるが、「濃口」って原料は大豆・小麦が50%、塩分16%から20%使い十分に発酵・醸造させた本醸造のこと。野田において最初にこの濃口醤油の製造を開始したのがこの高梨兵左衛門家とのこと。寛文元年(1661)のことである。
ちなみに、醤油の「醤(ひしお)」って食品に塩を混ぜて放置しておくと旨みを出したもの。中国の宋の時代にその製造がはじまった、とか。食品の種類により、草醤(くさびしお=漬物に発展)、肉醤(にくびしお)、魚醤(うおびしお=塩辛といったもの)、穀醤(こくびしお)に分けられる。このうち、穀醤が味噌となり、醤油となったようだ。

上花輪香取神社

歴史館の次は、須賀神社のあった野田市下町交差点まで戻り、流山街道・本町通りを北に辿り、時間の許す限り、河岸に直行故に見残していた見どころを訪れることにする。途中香取神社が。何気なく立ち寄るに、銅葺屋根の立派な社殿。社殿の前に門を構え塀が囲む。
社殿の建築棟梁は茂木佐公園の社殿と同じく棟梁佐藤里次。監督は佐藤良吉。昭和8年の『香取神社正遷宮大祭』の写真には人力車に乗り群衆の歓喜の中を進む両名の姿があり、歴史が少々のリアリティをもって現れてくる。社殿を彩る彫刻も立派。彫工は石川三五郎信光の手によると伝わる。石川三五郎は柴又帝釈天や川越・連雀町の蓮馨寺にその名を残す

奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗

興風会館を右手に見やり、キッコーマン本社を越えた通りの左に古き趣の家屋がある。この奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗は大正から昭和初期に建てられたもの。大正期の出桁造の旧薬局店舗と、昭和初期のモダンな洋館である。




株式会社千秋社社屋
野田市下町交差点まで戻り、奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗の通りの反対側に陸屋根(傾斜のない平面の屋根。平屋根とも)、鉄筋2階建ての建物。大正15年(1926)に建てられ旧野田商誘銀行として使われていた。野田商誘銀行は野田醤油醸造組合の発起により明治33年(1900)に設立された。「商誘」の名称は 、醤油の語呂にちなんで名付けられた。野田商誘銀行は、太平洋戦争中の金融統制に より、千葉銀行に合同され、昭和45年まで千葉銀行野田支店として使用されていたが、その後キッコーマン系列の千秋社の所有とな っている。
千秋社は大正6年、野田の醤油醸造業者が合同し設立した野田醤油株式会社を支援する経営者団体として組織されたもの。興風会館でメモした、財団法人興風会も千秋社の寄付により設立されたものであり、現在キッコーマン株式会社の株の3.1%を所有し、主要株主となっている。

旧野田醤油株式会社本店初代正門
株式会社千秋社社屋脇の道を少し入ると旧野田醤油株式会社本店初代正門が残る。キッコーマンの初代正門と言うことだ。土蔵と塀に挟まれた門の向こうはキッコーマンの敷地のようで、通り抜けはできない。



野田市立中央小学校校舎
流山街道・本町通りに戻り、北に進むと、通りの右手に野田市立中央小学校の門柱。門柱の脇には煉瓦造りの塀が残る。門柱から中を見るに、民屋や商家らしきものがあり、ちょっと奇妙な感じではある。
野田市立中央小学校校舎はその奥にある。昭和3年(1928)から7年(1932)の頃建てられた校舎は当時珍しい鉄筋コンクリー3階建。外観のレリーフや校庭側のテラスがモダンな造りとなっている。




ノエネ醤油株式会社本社社屋および工場群

通りを更に北に進み、京葉銀行野田支店を左に折れキノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群に向かう。左に折れる手前に「野田醤油発祥の地」があったようだが、見逃した。上でメモしたように戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛がこの地ではじめて「たまり醤油」を製造したところではあろう。
先に進むと落ち着いた佇まいの中、黒板塀に
囲まれた醸造所が見える。天保元年(1830)の創業、野田を代表する醤油工場の一つキノエネ醤油である。本社社屋は明治30年、鉄筋コンクリート造りの作業場は大正10年(1921)築とのことである。大正6年(1917)の野田の醤油醸造者の大同団結にも加わらず、独自路線を貫いた、と言われるだけで、なんとなく全体が有難く感じる。
ちなみに、このキノエネ醤油は映画監督小津安二郎氏と深い関係にある。小津安二郎監督の妹さんが山下家に嫁いだ関係から、戦時下、小津監督の母親が野田に疎開。監督も戦地より引き揚げてから鎌倉に住むまでの6年間野田に住んだ。といっても、ほとんど大船の撮影所に泊まり込みであったたようではある。

愛宕神社
流山街道・本町通りに戻り、少し北に進むと愛宕神社前交差点。野田の総鎮守で、創建は延長元年(923)と伝えられ、雷神を祀り、防火を司る迦具士命を祭神とする。現在の権現造り・木造銅版葺様式の社殿は、文政7年(1824)に再建されたもので、社殿彫刻は左甚五郎を祖とし、そこから10代目の名工二代目石原常八の手になるもの。石原常八の出身地、群馬県の花輪村は「匠の里」と呼ばれ、隣の上田沢村とともに彫刻師の一派があり、上州の左甚五郎と呼ばれる関口文治郎などの名工を生み出した。
これほどの匠を招くには茂木家の力も大きくあったのではなかろうか。愛宕神社の東には茂木房五郎氏の邸宅があったとのことだし(現在は一部が割烹料亭に)、一説には愛宕神社に初代茂木房五郎が祀られる、とも。また、愛宕神社の北には、愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵尊があるが、この地蔵尊を建立したのは初代茂木啓三郎とのことである。


キッコーマン稲荷蔵
日暮も近い、大急ぎで残りの見どころを辿りながら野田市駅へと向かう。流山街道・本町通りを南に下り、キッコーマン本社北の通りを左折。浪漫通りと呼ばれる道を進むとキッコーマン稲荷蔵。明治41年頃に建てられたもの。黒板塀が美しい。元は茂木七左衛門の仕込蔵であったが、現在は倉庫として使用されている。



茂木七左衛門邸および煉瓦塀
キッコーマン稲荷蔵に続く赤い煉瓦塀は茂木本家・茂木七左衛門邸。邸宅は関東大震災の後、大正15年築。煉瓦塀は明治末期築と言う。設計は上花輪の香取神社や愛宕神社と同じく立川流宮大工の流れをくむ佐藤良吉、建築は佐藤里次則の手になるとのこと。国登録有形文化財に指定されている。



茂木七郎治邸
浪漫通りを文化通りのT字路にあたり、右に折れ、すぐに左に折れると弁天通り。通りの左手に一見すると農家かと見まがう古いお屋敷。門札に茂木とありチェックすると茂木家の分家のひとつである茂木七郎治邸であった。安政7年(1854)頃に建てられた野田市内最古の木造住宅とのこと。地主農家としての長屋門と金融業としての帳場を併せ持つのが特徴、とあった。



キッコーマン第一給水所
通りの右側にはキッコーマン第一給水所。大正12年(1923)から昭和50年(1975)頃まで工場および地域住民に供給された。通水までには苦労があったようで、大正10年(1921)の地下水汲み上げのための第一号削井工事では予定の水量が確保できず、第二号削井工事で予定水量の目途がたち、水道施設工事をおこない、通水、各戸給水の追加工事に着手。上記のごとく大正12年には給水をはじめ、昭和50年に野田市に移管されるまで企業が水道事業を行っていた、とのことである。なお、昔はこの地に給水塔があったようだが、老朽化のため耐震基準をみたせず取り壊しとなった。
それにしても、この給水所=水道だけでなく、銀行、病院(養生所から発展)、学校(中央小学校はキッコーマンの寄贈)、そして鉄道など、醤油会社が社会インフラの整備を行政に代わりおこなっているわけであり、企業経営上の合理性とは言うものの、その財力に少々の驚きを感じる。

厳島神社
弁天通りを進み、野田市駅へと右折するところにちょっとした緑の森が見える。中に入ると厳島神社が祀られていた。この社は安永7年(1778)創建。「下の弁天さま」と称される。この辺りが下町という地名故の命名であろう。ちなみに、野田市内には古春、柳沢にも弁天さまがあり、野田の三弁天と呼ばれるようである。
社の後ろには弁天社お約束の池。弁天さまはインドの神様で、河を守る水神・農業神であり水辺に鎮座するのが普通である。昔は湧水だった、とか。

東武野田線野田市駅
弁天様の脇道を進むと緩やかなカーブ。自転車置き場となっているこのカーブは工場への引き込み線の跡かとチェックする。上で、野田町駅は昭和4年(1929)に野田市駅が出来たときに旅客業務は市駅に移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで続いたとメモした。その引き込み線は市駅の南手前から分岐され、野田市駅第一、第二自転車駐輪場に沿って進み、県道46号に沿って野田町駅に結ばれていた。同じ自転車置き場ではあるが、こちらの自転車置き場ではなかった。それでも、このカーブ、なんとなく怪しい、などと思いながら東武野田線・野田駅に向かい、本日の散歩を終える。

野田散歩は結局醤油醸造に関わる文化遺産を辿る以上のものにはならなかった。日本の醤油消費量の28%ほどを製造するとも言われる野田であれば仕方なしとすべし、か。それと、散歩してはじめて知ったことは、野田は枝豆の主要生産地である、ということ。2002年には全国一の生産量を記録した、とも。醤油の主要原料は大豆であるので、当然か、などと思っていたのだが、野田で枝豆栽培が本格的にはじまったのは、それほど昔でもなく、1960年代に入ってから。もとは自家製の味噌造りのために栽培していた大豆を枝豆生産に切り替えたようである。町には「まめバス」と呼ばれる枝豆由来のコミュニティバスが走り、枝豆を核にした町おこしもはじまっているようである。とはいうものの、結局は大豆=醤油からは離れることはできないようである。

流山散歩;往昔、みりん・醸造で賑わった下総流山を彷徨う先日、利根運河を利根川から江戸川へと辿ったとき、江戸川河口近くに「今上落し」と呼ばれる農業用水とおぼしき水路に出合った。流れは南に下り,流山旧市街の辺りで江戸川に注ぐ、と言う。この「今上落し」もさることながら、利根運河の南北に広がる谷津の景観に魅せられ、そのうちに、利根運河の南に広がる流山の大青田湿地や周辺の谷津を南から辿り、利根川運河の北の三ヶ尾の谷津を野田へと歩いてみようと思った。
今回の散歩は、流山から野田へと南北に辿る散歩の第一回。スタート地点の流山を彷徨うことにした。とはいうものの、流山って、江戸から明治にかけて、みりん醸造で賑わったところであるとか、幕末に新撰組局長・近藤勇が降順したところ、といったことしか、街についての知識はない。いつだったか、神田の古本市で手に入れた『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』を本棚から取り出し、家から1時間半ほどの車中にて一読するも、今ひとつポイントが絞れない。とりあえずは郷土資料館(流山では市立博物館)を訪れ、流山のあれこれについての情報を手に入れることにして、あとは資料次第の成り行きで、といった、いつものお気楽散歩のスタイルで流山を彷徨うことになった。

本日のルート;流鉄流山駅>市立博物館>大杉神社>ましや>流山広小路>呉服新川屋店舗>浅間神社>今上落とし>江戸川・今上落常夜灯>矢河原の渡し跡>常与寺>閻魔堂>新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡>見世蔵>流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地>長流寺>一茶双樹記念館>杜のアトリエ黎明>光明院>赤城神社>流山寺>丹後の渡し跡>流山糧秣廠跡>流鉄平和台駅

流鉄流山線・馬橋駅

地下鉄千代田線・JR常磐線直通乗り入れの我孫子行きに乗り、馬橋で下車し、流鉄流山線に乗り換える。二両編成、改札に駅員さんも見えないのんびりとした風情である流鉄流山線は、大正5年(1916)、町民の出資で流山軽便鉄道として誕生し、流山と馬橋の間、5.7キロを結んだ。明治44年(1911)には、野田と柏の間に県営軽便鉄道野田線(現在の東武野田線)が開通し、野田の醤油を柏経由で常磐線に運ぶようになっていたため、流山も鉄道敷設の機運が高まり、町民116名の出資による「町民鉄道」として開通したとのこと。旅客と貨物の輸送、特に、流山で生産される醤油やみりんを馬橋経由で国鉄・常磐線へと結んだ。
大正13年(1924)になると、陸軍の糧秣廠の倉庫が本所から馬橋に移されることをきっかけに、軌道を国鉄と同じ幅に拡張し、糧秣廠への引き込み線を敷設。昭和3年には、みりんの工場への引き込み線もつくられ、貨物の輸送は昭和52年(1977年)頃まで続いた、とのことである。鉄道の名称も、流山軽便鉄道、流山鉄道、流山電気鉄道、流山電鉄、総武流山電鉄を経て平成20年(2008年)には流鉄株式会社となり、路線も総武流山線から流鉄流山線となった。流鉄って、略したものかと思っていたのだが、会社の正式名称ではあった。編成毎に色分けされ、また名称がついた車両はすべて西武鉄道で使われていたもの、とか。

流鉄流山線・小金城趾駅
馬橋を出てしばらくすると小金城趾駅。車窓から小金城趾のある大谷口歴史公園の緑の台地が見える。いつだったか、平安の頃から官営の馬の放牧地であった小金牧、そして、その放牧地を囲う土手である「野馬除土手」を求めて北小金の辺りを辿ったことがあるのだが、そのとき、小金城趾まで足を運んだ。
この小金城には戦国の頃、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ下総屈指の城郭であったが、現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけで、あとはすべて宅地なっている。城趾には、大きな土塁や障子掘や畝掘が残っていた。高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出し、古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか諸説あるも、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市川付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦うも、小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる。

坂川
小金城趾駅を越えるとほどなく坂川を渡る。この川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にある坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀正川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがある。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、ここでその一端に触れることができて、なんとなく心嬉しい。

流鉄流山線・流山駅
坂川を超えると鰭ヶ崎駅。「ひれがさき」と読む。地名の由来が弘法大師伝説に登場する神龍の「ひれ」故とか、台地の地形が魚の「背びれ」に似ているから、とか、あれこれ。駅の近くには名刹・東福寺がある、と言う。
二輌連結の車輌は平和台の駅を過ぎると流山駅に到着。駅前は予想以上に「つつましやかな」雰囲気。江戸の頃は江戸川の水運やみりんの製造で栄え、明治期には葛飾県庁もおかれた西下総地域の中心地といった姿は、今は昔、といった静かな佇まいである。

六部尊

駅前を北へ、県道5号・流山街道を流山市市立博物館に向かう。図書館と博物館のある台地への上り口辺りに祠がある。案内によると、明和4年(1767)建立の六部廻国の石塔が祀られる、とのこと。六部廻国とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた、とのことだが、この地にの六部尊は巡礼を終えた記念に建てられたもの、と言う。

流山市市立博物館
台地に上り、市立博物館で流山の歴史や、流山と言えば新撰組、といった幕末の流山と新撰組に関するあれこれを、ざっと頭に入れる。受付で頂戴した『水と緑と歴史の流山 タウンナビ』なども、流山の右も左もわからない者にも心強いお散歩マップである。
流山の歴史のおさらい;流山地域の台地には石器時代、縄文、弥生といった時代の遺跡も残り、戦国の頃も先ほどの小金城、そしてその支城である深井城址(利根運河沿い)、花輪城址(流山市街の北)、前ヶ崎城址(坂川流域;前ヶ崎字奥之台409-1)などに人跡が残るが、流山駅前の旧市街の辺りが歴史に登場するのは建久8年(1197)の頃、市街の南にある「丹後の渡し」こと、「矢木(八木)の渡し」の記録がはじめて。とは言うものの、「矢木(八木)の渡し」は所詮、中世の荘園である風早荘八木郷への渡し場、ということであり、現在坂川の上流部に「八木」を関した学校名などが残るので、流山の旧市街からは少し離れるし、そもそも「流山」の地名が記録に登場しないと言うことは、流山の旧市街には未だ人が住んでいたわけではない、と言うことではあろう。
また、旧市街には鎌倉時代創建との縁起の寺院があるも、それとて、それ以外の寺社の創建は江戸となっており、余りに乖離が激しく、鎌倉創建というのも確証がない、と言うことであり、はっきりとしたことは不明ではあるが、江戸川沿いの低湿地帯である流山駅前の旧市街に人が住み始めたのは江戸の頃からではないか、と『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』は言う。
人が住み始めたと思われる江戸の頃は、流山旧市街、昔の地名で根郷とか宿、そして馬場、現在の流山1丁目から8丁目辺りは天領であったが、それ以外の流山市域は藩領、旗本の領地などが混在していたようである。この博物館のある地、昔の加村は田中藩下総領。先日の利根運河で出合った駿河国の田中藩(静岡県藤枝市)の飛び地であり、この博物館の辺りには先日の田中藩の下屋敷・陣屋があった、と言う。鰭ヶ崎、加村など田中藩下総領42ヶ村でとれる米は良質で、江戸の相場を左右するほどであり、御用河岸である加村河岸から江戸へ運ばれた。また、駒田新田、十太夫新田、大畔新田といった天領からの米は流山河岸から船に積まれたとのことである。
河岸ができた頃にはそこの旧市街の辺りには人が住んでいたのであろうが、そもそも河岸が成立するのは江戸川こと、昔の太日川が舟運の幹線として整備されてから、であろう。流路定まらぬ太日川が整備されたのは、利根川東遷事業により、古来江戸へと下っていた利根川の水を銚子へとその流れを変えてからのことである。その利根川東遷事業が一応の完成をみたのは17世紀中頃、と言うから、東遷事業の一環として、曲りくねった太日川(江戸川)を一種の放水路としてまっすぐな水路に整備し、利根川から江戸川を経て江戸へと結ぶ船運路の中継基地として流山の河岸ができあがり、流山の町並ができはじめたのは17世紀の中頃ではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
良質の米の集散地、名水として知られる江戸川の水、そういえば、葛西の旧江戸川沿いの熊野神社の前あたりは「おくまんだし」と呼ばれる名水で知られていたようであるが、それはともあれ、江戸の頃、良質の米と水をもとに酒の醸造からはじまり、みりんで栄えた流山の町は、明治の御一新になり葛飾県の県庁が置かれるほどになっていた。葛飾県庁はもともとは東京の薬研堀に置かれていたようだが、明治2年(1869)には田中藩が房州長尾に国替えとなり、流山にあった下屋敷が空いたため、この地に県庁が移された。
その後明治4年(1871)の廃藩置県により房総30余の県は木更津県、印旛県、新治県の3県に統合され、この地は印旛県となり県庁は行徳におかれるも、明治5年(1872)には県庁所在地となった佐倉の庁舎建設が間に合わず、明治6年(1873)に印旛県と木更津県が合併し千葉に県庁が移されるまでは、この流山が印旛県の県庁所在地となった。今は静かな街並みではあるが、明治の頃は、この流山は商家が酒造蔵やみりんの醸造蔵が建ち並び、下総の中心地ではあったのだろう。
因みに、田中藩は先日の利根運河散歩のときにメモしたように、元和元年(1616)、本多正重がこの下総の地を拝領したのがはじまり。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した、とのことである。

大杉神社

博物館を離れ、県道5号・流山線を北に進み、文化会館前交差点を越えるとほどなく道の西側、住宅に囲まれたところに大杉神社があった。如何にも、あっさりとしたお宮さま。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この地の大杉神社はこの辺りの加村の産土神。加村河岸など、江戸川の船運の安全を祈る社ではあったのだろう。
大杉神社のある加村って、全国でも珍しい一音の面白い地名。チェックすると、その由来は、桑原郷が桑村となり、加村となった、とか、クワの「ク」は「崩れ」で「ハ」は端。崩れた端、から、とか、川が転化したとか、船荷を架したことに由来するとか、例によって諸説あり、定まることなし。

流山広小路

大杉神社を離れ、流山広小路へ。広小路の手前に立派な蔵をもつ老舗の呉服屋「ましや」がある。元々醸造業であったが、安政6年(1859)に呉服屋となり、「増屋」と名乗る。「ましや」となったのは戦後のこと。流山広小路って、上野広小路ではないけれど、江戸の頃の地名だろうと思っていたのあが、実際は、昭和27,8年頃、「ましや」のご主人の命名、とのことである。
広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。ここから南は流山の根郷となる。根郷は本郷とか本田と同じく集落のはじまりの地といったもの。現在本通り(表通り)は県道に移ってはいるが、元々の本通りである旧道を古い街並みを眺めながら南に進む。

旧道

旧道こと、もとの本通り(表通り)は江戸川が長い年月をかけて築いた自然堤防の跡と言われる。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によると、明治の末までは江戸川には堤防はなく、この本通りが堤防であった、とか。自然堤防上に1mほど高く土を積み上げ、水面より2mほど高い堤防ではあったようではあるが、それで江戸川の洪水を防げるわけもなく、流山はしばしば洪水被害を被ったとのこと。
洪水被害を防ぐべく、大正時代と昭和30年代の二度に渡る江戸川堤防改修工事により、現在の江戸川の堤防ができたわけだが、そうなると自然堤防の盛り土が邪魔になりを、今度は自然堤防を削り道路として整備した、と言う。現在、旧道を歩いても、周囲とそれほどの段差を感じないのは、こういった事情であろう、か。

呉服新川屋

道を進むとほどなく呉服新川屋。広化3年(1846)創業の商家。国の登録有形文化財となっている土蔵造りの店舗(見世蔵)は明治23年(1890)に建築された。ところで、見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている。

浅間神社

新川屋から先に進むと、ほどなく浅間神社。旧道がもとの自然堤防であったためか、心持ち境内が道より低く感じる。この根郷の鎮守さまは江戸初期の創建。新撰組を包囲した新政府軍が境内裏に仮本陣を敷いたところでもある。本殿裏に市指定文化財の富士塚がある。富士塚が築かれたのは明治24年。そこに祀られる「富士浅間大神」の碑は明治19年と言うから、浅間大神さまが先に祀られ、その後に富士塚がきずかれた、とか。溶岩船で運ばれてきた、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。


今上落し

浅間神社を離れ江戸川の堤へと向かう。堤の手前に「今上落し」の水路があった。「今上落し」に最初に出合ったのは利根運河の散歩のとき。野田の野田橋のちょっと南からはじまり、江戸川の一筋東の水田の中を進み、利根運河の下を潜り(今上落悪水路伏越)、流山1丁目で江戸川に注いでいる。利根運河の辺りは水田の中の水路ではあったが、流山では自然の小川といった風情となっている。

「今上落し」は元々、水田の農業用排水路ではあったのだろうが、この流山市街では江戸川から一筋街へ入った舟運の水路の役割をも果たしていたのではないだろうか。実際、昔、「今上落し」は流山3丁目の万上のみりん工場のあたりまで続いていたようであり、江戸川の堤が大正、昭和に渡って築かれた後は、堤一筋街側を流れる「今上落し」を舟運路として活用したのではなかろう、か。舟運路としては重宝した「今上落し」ではあるが、洪水時は江戸川からの逆流が押し寄せ、街が水害に見舞われることになった、と言う。

江戸川堤
「今上落し」が江戸川に注ぐ辺りを堤に上る。江戸川の河川敷が美しい。「今上落し」が江戸川に注ぐ水門のところに「今上落常夜灯」がひっそり佇む。行徳の河岸にあった常夜灯に比べ、まことに小ぶりな石塔であり、実際に使われたようには思えない。思うに記念碑といったものとして造られたものではなかろう、か。石塔の建立年をチェックしておけば、と今になって思う、のみ。
既にメモしたように、この江戸川の堤は大正と昭和の2度に渡って改修工事が行われた。第一回は大正3年。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。キャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施された。底幅も拡げられ、根郷の南部と宿では表通りが堤防にかかることになり、それがきっかけで表通りが現在の県道に移り、元々の本通りが旧道となった、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。それはともあれ、人工の堤防ができるまでは流山広小路から南に下る旧道が自然堤防であり、土積みをおきない川面より2mほどは高かったようではあるが、その程度で洪水を防げるはずもなく、水害に悩まされ続けた地域も堤防の完成によって、被害が大幅に改善された、とは既にメモした通り。

流山の水運華やかなりし頃は、田中藩の御用河岸・加村河岸、幕府天領の流山河岸、加村河岸の北には輪河岸(三輪野河岸)、また、みりん醸造・秋元家の天晴河岸、堀切家の万上河岸など、利根運河を往復する蒸気船・通運丸の蒸気宿などで賑わった川辺は今は昔の静かな川面が広がるのみである。ちなみに、流山から行徳までは4時間、酒問屋の集まる日本橋小網街へは朝6時に出航すれば夕方には着いた、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。

矢河原の渡し跡
「今上落し常夜灯」から堤を少し北にすすむと「矢河原の渡し跡」の標識。「やっからの渡し」とも「加村の渡し」とも呼ばれ、昭和10年、下流に流山橋ができた後も、昭和35年頃まで続いた、という。
この渡しは、流山に陣を敷いた近藤勇が、官軍に降順し越谷へと流山を後にした地として知られる。諸説あるも、一説では、慶応4年(1868)4月3日未明、東山道鎮撫総督府副参事である薩摩藩士・有馬藤太は威力偵察により新撰組の流山駐屯を知り、有馬率いる官軍の一隊が新撰組を包囲。突然の官軍の出現に驚いた新撰組は銃を放つも官軍は応戦せず。そこに、大久保大和と名乗る近藤勇が出頭し、下総鎮撫隊として治安維持を図る幕軍である旨を伝える。
有馬は、官軍参謀のいる越谷への同道を求めると、大久保こと近藤は出立準備のため、しばしの猶予を求める。同日午後3時頃には官軍主力が矢河原の渡しの北にある、羽口の渡しを経て流山に着陣。夕刻には出頭の遅れにしびれを切らした有馬は本陣のある長岡屋に乗り込み、早々の出立を求めたと、言う。思うに徹底抗戦派の土方との意見の相違があった、とか、否、切腹を図る近藤を土方が説得した、とか、幕府治安維持部隊との主張が偽りで新撰組局長であることは官軍の知るところであり出頭は危険である、といった意見噴出で出頭に時間がかかった、とも。とは言うものの、官軍も幕軍もその動向はあれこれ諸説あり、はっきりしたことはわからない。ともあれ、午後10時頃(これも8時頃との説もある)には矢河原の渡しを越えて、越谷に出向いた。結局は近藤勇であることが官軍の知るところとなり、4月25日、板橋で斬首の刑となった。JR板橋駅前で近藤勇の供養塔があったが、これでやっと流山から板橋への襷が繋がった。

常与寺

江戸川堤を離れ、旧道に戻る。先ほど訪れた浅間神社の南に常与寺がある。鎌倉時代創建の日蓮宗寺院とのこと。とはいうものお、旧市街にはこのお寺さま以外に鎌倉といった古い創建の寺社はなく、創建年代の隔たりが300年程もあるということで、鎌倉創建に少々違和感がある、といった説もある(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
境内には「千葉師範学校発祥の地」の碑。明治5年(1872)、県内最初の「流山学校(小学校)」と教員養成のための「印旛官員共立学舎(後の千葉師範学校=千葉大学)が設置されたとのこと。共立学舎は明治6年、印旛・木更津県の合併により千葉市に移った。

閻魔堂
常与寺の一筋南の通りに閻魔堂。閻魔堂と言っても、閻魔堂らしき祠があるわけでもなく、ごくありふれた民家と見まがう家が現在の閻魔堂のよう。安永5年(1776)の作との閻魔様はその民家の居間の奥といったところに安置されていたようだ。ちょっと勇気を出して拝観しておけばよかった。
閻魔堂には、江戸時代の義賊で天保六歌仙のひとり、金子市之丞の墓がある。金持ちから盗んだ金を貧しい人に分け与えた、といった話が伝わる。とはいうものの、この義賊、記録によれば「流山無宿 市蔵かねいち事盗賊悪党につき大阪にて召し捕られ、今日小塚原へ引き回し獄門にかかり候由」、とある。悪党と呼ばれ、義賊のかけらも感じられない。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によれば、盗賊悪党の流山無宿である市蔵かねいちが、義賊に変わっていったのは講談や歌舞伎の影響である、とのこと。講談「天保六花撰」において、河内山宗春、片岡直次郎、暗闇の丑松、とともに流山醸造問屋の倅・金子市之蔵、花魁の三千歳として登場し、また、明治14年には歌舞伎「天衣紛上野初花」と言った演目ともなっている。かくのごときプロセスをへて、単なる盗賊悪党が義賊へと「昇化」されていったとのことである。

新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡

閻魔堂のある細路を先に進むと道脇の蔵の前に「誠」の旗印。慶応4年(1868)4月、新撰組が本陣とした醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の跡地である。慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼で敗戦の後、新撰組を主力とする150名の甲州鎮撫隊は江戸へ敗走。3月13日の夜、大久保大和(近藤勇)以下48名が浅草から五兵衛新田(足立区綾瀬)に、2日後には内藤隼人(土方歳三)が率いる50名も到着。幕府天領であった五兵衛新田(足立区綾瀬)で隊士を増強し、慶応4年(1868)4月1日の深夜、200名が流山を拠点にすべく陣を移し、ここ醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の屋敷を本陣に、光明院、流山寺などに隊員を分宿させた、と伝わる。流山に着陣の目的は、加村の田中藩の陣屋を奪うとか、天領であり調練に便利であったとか、あれこと。根拠はないが、江戸川を前にすることにより安心感もあったのだろう、か。実際、4月11日には大鳥圭介の率いる幕軍2500名が江戸川を前面に配した市川に布陣している。
一方官軍の動きであるが、諸説あるも、3日未明には官軍の一隊、午後には官軍主力も流山に着陣。羽口の渡し(三輪野の渡し)を越えて、流山北方から進出。広小路で三手に分かれ、一隊は本通りを進み光明院や流山寺に対峙しながら新撰組本陣を窺う。また、一隊は浅間神社に進出し、錦の御旗を立てる。ここが官軍本陣といったところだろうか。残る一隊は加村台地(市立博物館のある台地)に進出し大砲を備えた、と。
合戦の模様は詳しくは分からない。分からないが、このような両軍があまりに接近した陣立てで激しい合戦が行われたようには思えない。思うに、幕府治安部隊として、不逞の徒から町の治安を護る、といったスタンスを保つ隊員200強の新撰組と、それを不審に思いながらも今ひとつ新撰組との確信のない800名弱の官軍が様子眺めの睨み合いをしていたのだろう、か。不意をうたれた新撰組が大敗し降参したとか、加村から大砲をうったのは新撰組であるとか、諸説あり流山の両軍の合戦模様はよくわからない。合戦の様子はあれこれ不明ではあるが、「流山宿内の者は大人も子どももみさかいなく立ちのき、近郷や近村へ逃げ去り、近在の者までが皆あわて騒ぎ、共々に難渋したのである」と住民は多いに迷惑したようである。
流山の後の近藤勇は既にメモしたとおりであるが、近藤と別れた副長の土方は、旧幕府軍と合流し、鴻之台(市川市国府台)で大鳥圭介軍に合流し、小金宿(松戸市北小金)などを経て、宇都宮、会津と転戦し、函館で戦死。奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった、とか。

見世蔵
新撰組本陣跡から本通り(現在の旧道)に戻り、南へと進む。と、ほどなく万華鏡ギャラリー見世蔵。明治22年(1890)に建築された「寺田園茶舗」跡であり、現在はコミュニティスポットになっているほか、万華鏡作家である中里保子さんの作品を展示している。見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている、とは既にメモしたとおり。

流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地
道を進むと流山キッコーマン(株)の工場がある。ここが流山で「天晴」ブランドとともに名高い「万上」ブランドのみりん発祥の地である。創業は明和3年(1766)、埼玉の三郷からこの地に移ってきた堀切家・相模屋が酒の醸造をはじめたことに遡る。
18世紀後半にはミリンの製造をはじめ、また、19世紀の前半になって流山みりんの持ち味ともなった、白みりんの製造をはじめることになる。もち米と米糀によってつくられるみりんは褐色であったが、それに焼酎をくわえることにより白くなったみりんは江戸の人々に好評で、上方からの褐色のみりんを駆逐した。
現在は調味料として使われるみりんであるが、みりんは古来より甘い酒として愛用されていた、とか。「その味甘く、下戸および婦女好んでこれを飲む」、とある。調味料として使われるようになるのは明治の後半、本格的には昭和になってから、とのことである。
万上の由来は宮中に献上の折り、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」と詠われたことによる、と。ら「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
堀切家の相模屋は1917年には万上味醂株式会社、1925年には野田醤油醸造株式会社、1964年にはキッコーマン醤油株式会社、1980年にはキッコーマン株式会社、2006年にはキッコーマン殻分社化され、流山キッコーマン株式会社として現在もみりん製造を行っている。

長流寺

江戸初期の浄土宗寺院。境内の両側に梅の木が並び、銀杏の大木がそびえている。新撰組隊士も分宿した、と言う。

一茶双樹記念館
先に進むと一茶双樹記念館。万上の堀切家とともに、みりんで財を成した秋元本家五代目三佐衛門(俳号「双樹」)と俳人小林一茶との交誼を記念したもの。安政年間(19世紀中頃)の家屋を解体修理し往時の主庭と商家を再現している。秋元家も堀切家と同じく埼玉の出身。八潮からこの地に移り、酒造りをはじめる。秋元家がみりんや白みりんの製造をはじめたのは万上の堀切家と同じ頃とのこと。「天晴」ブランドとして好評を博した。

この秋元本家五代目当主三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人でもあり、一茶のよき理解者であった、とか。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。この地で多くの句を詠んでいるが、いつだったか我孫子を歩いた時に、市役所近くに一茶の「名月や江戸の奴らが何知って」が句碑として建っていた。そのときは流山の秋元家との関係も知らず、ひたすら、この地で見る月はさぞや美しかったのだろうな、などと思っただけではあったのだが、この句も流山へと道すがら、下総を彷徨ったときに詠んだ歌なのではあろう。
もっとも、一茶の句集にはこの句の記録がなく、誰の作か不明、との説もある。それはともあれ、この記念館にも「夕月や流れ残りのきりぎりす」との句碑が残る(平成7年に建てられたもの)。江戸川の洪水の後の風情を詠ったもの、と言う。
秋元家の天晴みりんは現在その製造はおこなっていない。大正11年秋元合資会社、1940年、帝国酒造に売却、1948年には東邦酒造に売却、1965年には三楽オーシャンに急襲合併。1985年三楽株式会社に社名変更、平成2年(1990年)にはメルシャン株式会社に社名変更となるも、流山での操業はすべて停止し、工場跡地はケーズデンキとファッションセンターしまむらとなっている。

ところで、流山でどうしてみりんの醸造が栄えたのだろう。あれこれチェックするに、流山近辺で生産されていた名産のもち米、おいしい江戸川の水、江戸への船運もさることながら、醸造元である堀切家と秋元家の切磋琢磨に負うところ大、とのこと。販売促進にもつとめ、文政7年、8年(1824,25年)の頃には江戸での人気をもとに、全国に広がっている。また、1873年のオーストリアの万国博覧会には両社ともに出展し有功賞牌授与を受賞している。かくのごとき努力の賜ではあろう。

杜のアトリエ黎明
一茶双樹記念館の斜め前に鬱蒼と茂る屋敷林とお屋敷。「杜のアトリエ黎明」とある。秋元家の分家である秋元平三こと「秋平」、とも「見世の家」とも呼ばれたお屋敷跡。分家「秋平」の五世平八は俳号を「酒丁」と称し、菱田春草の後援者として知られるが、それ以外にも文人墨客との交誼も広く、岡倉天心や横山大観もこのお屋敷を訪れたとのこと。折しも、「酒丁と赤城神社」といった企画展が開かれており、そこにはこのお屋敷を訪れた、皇族や芸術家が紹介されており、中にはお散歩随筆でお気に入りの田山花袋の名もあった。
「アトリエ黎明」の由来は、画家であった秋元松子さんと、その夫で同じく画家であった笹岡了一氏が戦後の昭和32年、このお屋敷にアトリエを建て柳亮の主催する絵画研究会「黎明会」活動を行っていたことによる。その後、この屋敷を寄贈するにあたり、「アトリエ黎明」の名を残し、創作・文化活動の場として新たに生まれ変わった、とのことである。

光明院

「杜のアトリエ黎明」を離れ先に進むと光明院。真言宗寺院であり、赤城神社の別当寺。幕末には新撰組が分宿した。秋元双樹の眠るお寺様でもあり、境内に双樹と一茶の連句の碑や双樹の句碑が残る。
「豆引きや跡は月夜に任す也」と双樹が詠えば、それに対して「烟らぬ家もうそ寒くして」と一茶が返す。文化元年(1804)の連句である。「豆の引き抜き作業も終わり、後はお月さんにお任せしよう。夕餉の支度の煙も見えたり見えなかったりではあるが、秋の夕暮れは少し寒い」といった意味だろう。この文化元年(1804)は流山が洪水被害に見舞われた年でもある、先ほど一茶双樹記念館で見た「夕月や流れ残りのきりぎりす」は、こと年の句であろう、か。また、本道の前庭に双樹の句碑「庭掃てそして昼寝と時鳥」。ゆったりとしたお大尽のゆとりの感じられる句と評される。
境内を歩いていると、木に案内があり、「タラヨー;多羅葉」、別名「ハガキの木」とのこと。この木の葉っぱの裏を堅い物でひっかくと、30秒ほどで文字が浮かび上がる、とか。「葉書」の語源とも言われる。古代インドではこの木と似た貝多羅(バイタラ)樹に経文を書き写し、法隆寺には「貝多羅般若心経写本(八世紀後半)」が伝わっている、とのことである。

赤城神社

光明院のお隣りに赤城山と呼ばれる小山があり、そこに流山村宿地区の鎮守様赤城神社が祀られる。比高差10mほどのこの小山が流山の地名の由来ともなったところ、とか。上州の赤城山が崩れてこの地に流れ着いた、との伝説があるが、そんなわけもなく、近くの台地が洪水によって切り離された、とか、江戸川を流された砂礫が長い年月にわたって積もり積もって小山を造ったとか、そして、その小山が、吉田東吾が「この丘も江中にありて、形状流移するものに似たりければならん」と描くように、「丘は川の中にあり、その丘が流れるように見えたから」、とか、また、高台の斜面林が長く連なった山のように見えたため、「長連山」が転化した、とか、例によって地名に由来はあれこれ。

神社にお詣りし、石段を下ると、右側に一茶の句碑がある。「越後節 蔵にきこえて秋の雨」。酒の杜氏が謳うのだろうか、一茶が故郷を懐かしむ。参道を本通り・旧道へと向かうと、正面山門に巨大な注連縄。市の無形文化財とのことである。

流山寺
丹後の渡し跡へと江戸川に向かう途中に流山寺。秋元、相模屋、紙喜、鴻池とともに流山を代表する醸造家「紙平」の浅見家が再興した。幕末には新撰組の隊士が分宿したお寺でもある。境内には第二次世界大戦のとき、米軍艦載機の機銃掃射跡のある句碑が残る

丹後の渡し跡
流山寺脇を抜け、江戸川の堤に出ると丹後の渡し跡。八木野の渡しとも呼ばれるこの渡しは、慶応4年(1868)4月1日、新撰組が五兵衛新田(足立区綾瀬)を離れ、この流山に来たときに利用したとも伝わる。
丹後の渡しとも、八木野の渡しとも呼ばれる所以は、中世の風早荘八木郷(八木村と流山村の一帯。坂川の上流部には八木小学校といった名前が残る)の支配者・井原丹後が二郷半領(三郷市早稲田辺り)を開拓するときに渡った、から。上でメモしたように、建久8年(1197)には矢木(八木)の地名が文献に残るので、流山一帯では古くから開けたところであったのだろう。丹後の渡しは昭和10年、流山橋ができるとともに廃止された。

秋元醸造跡地
江戸川の堤を離れ、流山糧秣廠跡へと向かう。途中、光明院と一茶双樹記念館脇の道を進むと右手にケーズデンキとファッションセンターしまむらが見える。ここは秋元の工場、と言うか、メルシャンの工場跡地である。

流山糧秣廠跡
道を進み県道に出ると、正面にイトーヨーカドーなどの大型ショッピングセンターが見える。このショッピングセンターやその南の流山南高等学校を含む一帯は、大正14年(1925)から昭和20年(1945)にかけて陸軍の流山糧秣廠があったところ。糧秣廠とは兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設ではあるが、この施設は馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務とし、近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した、と言う。
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったものが、周辺に家屋が建ち、火災の危険もある、という状況となり1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案。移転先として流山が選ばれた。流山が選ばれた理由は千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえていたこと、また、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性、そして比較的東京に近いという地理的条件もあった。流山糧秣廠移転に先立って、流山鉄道が国鉄と繋ぐべく軌道を広げ、引き込み線などを用意したといった鉄路については先にメモした通りである。開庁は1925年(大正14年)である。
戦後北側はキッコーマンの倉庫群、南側は住宅や学校敷地をへて、現在のショッピングコンプレックスとなっている。道路脇にはキッコーマンが立てた「流山糧秣廠跡」の碑と、その裏手には如何にも軍馬の糧秣廠の名残を伝える「千草神社」が佇む<。

流鉄平和台駅
日も傾いてきた。イトーヨーカドー脇の道を進み流鉄平和台駅に向かい、本日の散歩を終える。次回は流山から北へと向かう事にし、一路家路へと。 酒の醸造からはじまった流山のみりんではあるが、酒の醸造は明治末で終えている。また、万上の焼酎も平成8年には流山でのその歴史を閉じた。現在では江戸川沿いの流山キッコーマンだけがみりん醸造の伝統を今に伝えていた。
流山には銭湯が無かった、という。みりんを製造する過程でできる熱湯を社員用の浴場に使い、社員だけでなく町の人達も利用したり、熱湯そのものを無料で給湯したから、とのことである(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。 

先回、何気に高松城水攻めの跡地を巡った。基本は、成り行き任せ、行き当たりばったりの散歩故、あそこも行けば良かった、行くべきであった、といった、「後の祭り」が常日頃から多いのだが、吉備散歩では、特にその思いを強くした。
きっかけは、秀吉の中国・毛利攻めに際しての、高松城水攻めの地を実際に見てみよう、といった程度ではあったのだが、その地は古代吉備王国の中心地。造山古墳だけば、成り行きで訪ね、全国第四位の規模を誇る前方後円墳に上り、3世紀から5世紀にかけて大和朝廷と拮抗する勢力を誇った吉備王国の一端に触れたのだが、その古代吉備王国の指導者であった、であろう、吉備津彦を祀る、吉備津彦神社も吉備津神社も、時間切れで行きそびれた。また、応神天皇が、吉備の兄媛(えひめ)恋しさの余り、大和から吉備に下り滞在したときの行宮跡、と言う、葦守八幡にもいけなかった。
ということで、今回、お盆の帰省を利用し、先回の吉備散歩の「取りこぼし」、「跡の祭り」フォローアップにでかけることに。お盆帰省、ということで、家族も一緒であり、この炎天下、さあ、歩きましょう、というわけにも行かず、今回は岡山でレンタカーを借りての旅。散歩のメモというより、家族旅行での旧跡メモといったもの、である。

本日のルート;清心町交差点>国道180号>備前三門>矢坂山を迂回し、平津橋・北向八幡宮>篠ヶ瀬川に沿って進む>幾筋もの川が合流>北西に進み、吉備津彦神社>国道180号に戻り、吉備津神社>造山古墳>庚申山の手前で足守川を渡り>国道429号を北上>足守>葦守八幡>国道429号を戻り、岡山自動車道を東総社駅>総社宮>国道180号を戻り国道429号>備中国分寺>作山古墳>県道270号>そう爪で南下>県道245号>山陽新幹線に沿って県道3242号>岡山駅

矢板山
岡山駅よりカーナビの案内に従い、吉備津彦神社へと向かう。駅前を進み、国道180号・清心町交差点を左折。清心町交差点を西へと進むと、吉備線・備前三門駅(みかど)へと。前面に見えるのは、矢坂山。標高131mの独立丘陵。吉備線は矢坂山の南に沿って進むが、国道180は左に曲がり、山の東麓から北麓へと半円を描くように迂回。北麓では笹ヶ瀬川に沿って西に進み、樽津のあたりで、山麓を離れ北西へと向かう。地図を見ると、樽津の西で笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といったいくつかの川筋が合流し、南へと下る。このあたりが先回の散歩でメモした、大安寺荘園のあったところであろう、か。
先回の散歩でメモ:大安山駅の北に矢坂山という標高131m程度の独立丘陵がある。往昔、八坂山の西側は入り江であり、「奈良の津」と呼ばれていた、とのことだが、この入り江の東側に50町歩に及ぶ大安寺の庄園があった。公地公民が律令制の基本、とはいいながら、寺社はその「公共性」故に、田畑の私有が認められていたため、9世紀から12世紀に渡る平安時代、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷から貰い受け、開拓していった。この吉備の国には河川の扇状地や浅瀬の干潟など埋め立て・開墾に適した土地が点在している、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地を手に入れ開拓荘園を作っていった、と言う。この大安寺のあたりも、笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といった川筋が、八板山の西で合わさる。これら幾多の川によって形づくられた干潟を朝廷から貰い受け、大安寺が直接開拓し、荘園としたのであろう、か。

吉備の中山
国道180号を少し進むと、前面というか、進行方向左手に大きく拡がる独立丘陵が見える。この山稜は、吉備の中山と呼ばれ,古代、山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきた、と。この山が、「神奈備山」である、ってことは、先回の散歩でわかったことではあるのだが、その気で見れば、B級路線、情感が圧倒的に足りない我が身にも、自ずと、有り難くも見えてくる。

吉備津彦について
道を進み、吉備津彦神社の案内を目安に左折し。吉備津彦神社に。吉備津彦を祀る神社をめぐる吉備津彦神社、そして吉備津神社巡りのはじまり、である。先回の散歩で、吉備津彦についてのメモをまとめた。リマインドのため、以下コピー&ペースト
吉備津彦について:『古事記』、『日本書記』によると、吉備津彦命は孝霊天皇と倭国香媛の子。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)、とも呼ばれた。孝霊天皇の時代に吉備国を平定。崇神天皇のときには四道将軍のひとりとして3、山陽道を制服するため派遣された、とある。しかしながら、少々の疑問が芽生える。吉備を征服した大和の王族を、どうして吉備の人々が一宮の主祭神として祀るのであろう、か。それも、大和朝廷によって分割された備前・備中・備後・美作の一宮に主祭神として祀られる。『吉備の古代史;門脇禎治(NHKブックス)』など、あれこれ本を読んでも、いまひとつ門外漢には難しすぎて、よくわからなかった。が、ある日、何気なく立ち寄った近くの地域センターの図書ライブラリーで借りた『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』を読み、なんとなく納得できる説明があった。
『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』によると、吉備津彦は吉備王国の指導者であった、とする。5世紀頃、吉備王国は吉井川・旭川・高梁川・芦田川の流域に拡がる豊かな農業生産地帯と、中国山地の砂鉄資源に恵まれ、瀬戸内の製塩、また内海交通の制海権を掌握し、大和朝廷に拮抗する力をもつ王国であった。その中心地、吉備津、すなわち、吉備の湊の首長が吉備津彦であった。
その吉備王国を征服すべく大和朝廷から派遣されたのが五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。吉備津彦を中心とする吉備王国は激しく抵抗するも、吉備津彦は殺害され、吉備国は大和に敗れた。吉備津彦は大和朝廷に抵抗した吉備の英雄の名前であった。五十狭芹彦命が吉備津彦と同一神となったロジックは、古代、征服者に自分の名前を与えるのが服属の証しであった、とのことから。そのことは、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた日本武尊(やまとたける)が熊襲タケルを殺害した後、熊襲は服属の証しとして「タケル」を小碓命に与えたことにも顕れる、とする。かくして、『古事記』や『日本書紀』には、服属の証しとして与えられた吉備津彦の名が、大和天皇家の系譜に組み込まれ、吉備王国の征服者と記載された。一方、吉備の人々は征服者である大和朝廷に深い恨みを抱き、やがて吉備津彦は祟りの神となった。その怨霊を怖れた大和朝廷は、その怨霊を鎮めるべく吉備津彦を神として祀り、神社に高い位を与えた。吉備の人々は、吉備津彦を吉備王国の英雄として忘れることなく、吉備国が分割された後も、往昔の吉備王国の栄光の象徴として、それぞれの一宮の主祭神として祀られた。(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)、とのことである。

吉備津彦神社
以上のメモを思い描き、社殿に向かう。古色蒼然とした古き社を思い浮かべてはいたのだが、結構新しい。チェックすると。昭和5年(1930年)、失火により本殿と随神門以外の社殿・回廊を焼失。現在見られる社殿は昭和11年(1936年)に再建したもの、と。駐車場脇に「さざれ石」。さざれ石は、誠に細かい小石(細石)のこと。その細石の欠片の隙間を、炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることにより、長い年月をかけ、巌(いわお)となる、と言うのが、国歌にある「さざれ石が巌となり、苔がむす」といったくだりの意味、とか。「さざれ石が巌となった」、ある程度大きい巌を見やり、随神門をくぐり境内に。左手に大きな石灯籠。安政の大石灯籠と呼ばれ、高さ11mで日本最大、とか。随神門に至る参道の左右には池が配置され、左右に亀島神社・鶴島神社が祀られている。先に進み、拝殿にお参り。境内から眺めると、拝殿・祭文殿・渡殿、そして、その沙先に本殿が縦に並ぶ。拝殿に「一品一宮」と書かれた額があった。「一品(いっぽん)」とは、皇族の功績に対して授けられる品位こと。一品とか二品といった勲位があるので、その第一位、ということだろう。朝廷直属の宮であったことを示す。吉備津彦神社が一品の神階を受けたのは承和7年(840年)の頃、と言う。
一方、「一宮」は平安から中世にかけて行われた社格の名称、と。特段に決まった定めはないようだが、諸国において、自ずと社格が決まり、その最上位が「一宮」と呼ばれた。ちなみに、武蔵には一宮がふたつ、あった。大宮の氷川神社と多摩・聖蹟桜ヶ丘の小野神社。その経緯についての空想・妄想は、七生丘陵散歩にメモしたが、大雑把に言えば、それなりの由緒があり、それなりの人が「一宮」と主張すれば、それが、「一宮」となった、ということであった、よう。一宮制については、未だ、よくわかっていないようである。
吉備津彦神社は大化の改新後、吉備の国が、8世紀頃、備前・備中・備後に分かれた後、備前国の一宮となる、と言われる。とはいうものの。大化の改新は7世紀の事であり、一宮制度は、はっきりはわかっていないにしても、大宝律令が制定され律令制が始まって以降であり、11世紀頃、早くとも10世紀は下らない、と言う。つまりは、吉備の国が分国化された後、それぞれの国にあった神社に、なんらかのポリティックスが働き、平安時代に最終的には吉備津彦神社が備前の一宮となった、ということだろう。
実際、明神大社の社格をもつ西大寺の安仁神社が備前の一宮になるはず、であった、とも言われる。しかしながら、天慶2年(939年)の天慶の乱において、藤原純友が反乱を起こした際に、安仁神社は純友に味方し、一方で吉備津彦神社の本宮にあたる吉備津神社は官軍(朝廷)に味方したため、その分祠社である吉備津彦神社が備前一宮となった、とされる。ちなみに、明神大社とは律令制において、明神祭の対象となる神々を祀る社。明神祭とは、国難に際し、その解決を祈願する国家的祭祀。明神大社とは高い社格を誇る社である、とウイキペディアにあった。
吉備津彦神社を「朝日の宮」とも呼ばれる。神社の案内によれば、社殿配置が太陽信仰の形を留める、とも言う。夏至に昇る太陽光は、正面鳥居から、幣殿の鏡へ差込む、とか。そして、その直線後方に、神体山山頂がある。山中に巨大な天津磐座(神を祭る石)、磐境(神域を示す列石)を有し、自然神信仰の場であった古代からの祭祀の地であったのだろう。その地に吉備が分国され備前の国が出来たときに、本宮である吉備津神社から分祀し吉備津彦神社を祀られていた、のだろうか。古代には、気比大神宮・大社吉備津宮と称されたようである。

戦国の争乱期には社殿焼失するも、江戸時代になると姫路藩主・岡山藩主である池田公の庇護を受け社殿が再建された。境内を散策。鯉喰神社、矢喰神社、坂樹神社、祓神社などがある。そのほか、温羅神社、楽御崎神社(桃太郎の猿にたとえられた人物、を祀る)、子安神社、天満宮などがたたずむ。鯉喰神社、矢喰神社、温羅神社などは、次に訪れる本社・吉備津神社にも登場するはず、であろうから、メモは後に譲る。

吉備津神社
吉備津彦神社を離れ、吉備の中山の北西麓に北面して鎮座する吉備津神社に向かう。到着した第一印象は、吉備津彦神社とはその趣きが異なり、樹木囲まれた古き社の風情が色濃く残る。参道を進み石段を上ると赤く塗られた「北随神門」がある。室町中期の建築といわれていて、国の重要文化財である。北随神門の先にも急な石段があり、その先には「割拝殿」。誠に趣のある建屋である。割拝殿、って、中央に通路があり、下足のままで進める拝殿とのことだが、斜面や階段の途中にある場合は、楼門の代用とされる場合が多く、拝殿の役割はもたない場合も多いと、言う。
割拝殿を通り抜け、拝殿でお参り。回廊に囲まれた境内に入り、神社の構えを眺めると、社殿が縦に、それぞれの特徴を示しながら並ぶ。縦長の拝殿、その後に妻がふたつ連なる本殿。入母屋屋根を2つ繋げた形をしていて、これを比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)と言う。これに縦拝殿を接合したこの建物全体の作りを吉備津造(きびつづくり)と呼ぶ、ようだ。もっとも、吉備津造の建物はこの神社だけしか、ない。俗な表現で表すとすれば、「合体ロボ」といった、なにか、インパクトを与える構えである。拝殿、本殿とも国宝に指定されている。

吉備津神社は吉備津彦を祀るのは、言うまでもない。が、同時に、この神社は鬼と称された温羅の怨霊を鎮める神社としても知られる。温羅にまつわる伝説とは以下のようなものである:はるか昔のこと、異国より、この吉備国に飛来し来たる者がいた。一説には百済の皇子とも伝えられるが、名を温羅(うら)といい、鬼の如く凶暴であり、足守の西の山に城(鬼の城、として現在も残る)を築き人々を苦しめていた。大和の朝廷は温羅を征伐すべく五十狭芹彦命を派遣。吉備の中山に布陣し、温羅と相対した。
五十狭芹彦命は矢を放ち、温羅は石を投げて矢を防ぐ。が、結局、矢が温羅の左目に突き刺さり、温羅は雉に姿を変えて逃げる。五十狭芹彦命は鷹となって追いかける。捕まりそうになった温羅は鯉に姿を変え、左目から流れ出した血で川となった血吸川に逃げ込むも、五十狭芹彦命は鵜となり、ついに、鯉となった温羅を捉える。降参した温羅は吉備冠者の名を五十狭芹彦命に捧げ、降服の証しとした、と。
イマジネーション豊かな物語ではあるが、温羅はもともと吉備国の指導者であった「吉備津彦」であったことは言うまでもないだろう。吉備の指導者を鬼・温羅、とみなし、大和より吉備の人々を苦しめる鬼退治に五十狭芹彦命が下る。見事、鬼を討ち果たし、吉備の指導者である吉備津彦の称号を得る、といった大和朝廷の吉備制圧の正当性を描く物語ではあろう。
ちなみに、五十狭芹彦命が射た矢と温羅が投げた岩が空衝突し、落ちた処には矢喰宮があり、その脇には血吸川が流れる。現在の岡山自動車道、総社インターのすぐ東に矢喰宮が祀られる。また、血吸川を鯉となって逃げる温羅を噛み上げたところには鯉喰神社が現存する。山陽自動車道、岡山ジャンクションの南の足守川の近くに祀られる。二つの吉備津彦を祀る神社を巡り感じたことは、なんとなく元々の吉備の指導者でり、朝廷によって鬼とされた温羅と称された、吉備津彦を祀るのが吉備津神社。それに対し、元は大和朝廷から派遣された五十狭芹彦命であり、吉備征服後に「吉備津彦」と称された人物を祀るのが備前の吉備津彦神社のように思える。なんの根拠もないのだが、「一品」の称号など、備前の吉備津彦神社のほうが朝廷との結びつきが強いように感じるから、である。

足守
次の目的地は足守の町と葦守八幡。緒方洪庵生誕の地もさることながら、パンフレットで見た武家屋敷の残る落ち着いた街並みの足守の町と、応神天皇の行宮跡という葦守八幡を訪ねることに。吉備津神社を離れ、国道190号を北に進む。最上稲荷の大鳥居を右手に眺め、備中高松駅を越え、国道が足守川とクロスする手前で右手に折れ、国道420号を北に向かう。道の左手の山塊にある、という温羅の「鬼の城」を想い描きながら足守の町に。
駐車場を探し、街中を進む。道の左右には落ち着いた街並みが続く。現在足守地区にあるおよそ三百戸のうち、

江戸時代の家屋の姿を今にとどめるものはおよそ百戸、と言われる。コミュニティセンタ-・足守プラザ近くの駐車場に車をとめ、町を歩くと乗典寺。緒方洪庵の位牌と両親が眠る、と言う。生誕の地は、町を離れ、足守川の東、国道429号が洪庵トンネルに入る手前に残る。先に進むと右手に古き商家。旧足守商家・藤田千年治邸が公開されていた。醤油製造を商いとしていた堂々とした商家の造りが今に残る。
町屋地区を北に進み、町屋地区から武家屋敷地区に。旧足守藩侍屋敷の格式高い武家書院造り屋敷はなかなか、いい。水路に囲まれた小高い敷地が陣屋跡。足守は関ヶ原の合戦の後、播磨城主であった木下家定をこの地に配置換えし、足守藩主とした。木下家定は秀吉の正室・北政所(ねね)の兄。関ヶ原の合戦時、終始徳川家に味方した北政所の功績故の処遇であろう、か。以降、足守は木下家の統治ものと、明治まで続いた。
足守藩には城はなく、陣屋を置いた。陣屋町つくりは四代藩主・木下利富公が本格的に着手。現在に残る、武家屋敷地区と町屋地区により、街並みが形成された。陣屋跡の水路に沿って進むと「近水園」。江戸中期につくられた木下家の庭園。小堀遠州流の池泉回遊式庭園は、なかなか美しい。
足守の歴史は古い。5世紀につくられた『日本書紀』には「葉田葦守宮」の記述がある。平安初期に編纂された『和名抄』には「安之毛利」、「葦守」の記述がある。平安末期には「足守庄」という庄園が開発されている。葦はイネ科の植物。湿地を好む。往古より、足守川流域は低湿地で葦が茂っていたのであろうし、葦が茂るということは稲作にも適した土地、ということでもある。実際吉備の地は福岡県の板付遺跡とともに、弥生時代前期、日本で最初に稲作が始まった地、とも言われる。葦の茂る湿地を開拓し、庄園としたのであろう。戦国時代には毛利家の支配下となり、宇喜多の支配を経て、江戸の足守藩へとなった。

葦守八幡宮
足守の町を離れて、葦守八幡宮に向かう。国道429号に戻り、ほどなく国道を離れ、小径を進むと葦守八幡宮駐車場の案内。車一台やっと通れるような急坂を上りきり駐車場に。境内には鐘楼があったり、社も、神社と言うより、なんとなくお寺の雰囲気を残す。どこかでメモしたが、八幡さまは、八幡大菩薩とも称えられるように、八幡信仰そのものが、神仏和合の結晶ともされる。とすれば、この、如何にもお寺様といった雰囲気は、あながち、間違いではないの、かも。
『日本書紀』には応神天皇の行宮として「葉田の葦守宮」との記述がある。足守町の少し南にある葦守八幡がその跡地とのこと。以下は先回の散歩メモのコピー&ペースト;「『日本書紀』には以下のような物語が描かれていた;応神天皇の妃、兄媛(えひめ)が故郷である吉備恋しさのあまり、「帰省」の許しを乞う。帰省を許したものの、兄媛に会いたいと応神天皇が吉備に下る。その行宮が葉田の葦守宮、である。応神天皇を迎えた兄媛(えひめ)の兄の御友別(みともわけ)は、一族をあげて歓待。それを徳、とした応神天皇は、御友別の支配する地域をその子らに分封し、その支配権を公に認めた、とある。この『日本書紀』に描かれる、天皇が妃を焦がれて吉備まで、といった話はあまりにナイーブであり、文言通りにはとれないが、このエピソードから読み取れる大和と吉備の関係を、我流でまとめてみる。吉備王国は3世紀から発展をはじめ5世紀頃には複数の首長を中心とした連合王国が成立。大和や出雲に匹敵する力をもつ王国となる。5世紀から6世紀はじめにかけて大和朝廷は吉備を支配下に置くべく謀略をはかり、7世紀にかけての分割支配体制により吉備国は崩壊をはじめ、8世紀には、備前・備中・備後・美作と完全に分割され、大和朝廷の支配下に入る。これが、時系列で見た吉備と大和の関係である。
で、上の応神のエピソードの解釈であるが、応神天皇は4世紀後半の天皇とされるので、可能性としては、拮抗した力関係もと姻戚関係を結んで吉備と大和が友好関係を保っている次期ともとれる。また、支配下に置くべく吉備に楔を打ち込むべく下向した、ともとれる。吉備王国は有力な首長による連合王国であった、とされる。親大和・反大和などさまざまな思惑の豪族の連合王国ではあろうが、その中で、応神天皇の后・兄媛(えひめ)の兄の御友別は、親大和朝廷系の豪族であったのかとも思う。御友別、といえば日本武尊の東征に吉備武彦命が従う、というくだりがある。吉備武彦命は『古事記』では御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)と呼ばれ、『日本書紀』の応神記に、吉備臣の祖先である「御友別」と同一人格か、祖先か、ともあれ、深い関係がある、とされる。その御鉏友耳建日子こと、吉備武彦命が日本武尊の東征に副官として従う、という神話の意味することは、吉備王国が大和朝廷によって侵略・平定された後、東国への軍事行動に吉備武彦命系列の吉備の豪族が参加・転戦した、ということであろう」、と。
先回の散歩で行きそびれた、吉備津彦ゆかりの神社、吉備津彦神社と吉備津神社、それと足守の街並みと葦守八幡をカバーした。お盆帰省でやっと予約の取れた岡山発の新幹線まで、2,3時間ほど余裕がある。ついでのことなので、総社市に廻り、総社宮と備中国分寺を訪ねることに。

備中・総社宮
国道429号を南に下り、吉備線・足守駅を越えたあたりで国道180号に乗り換え、西に向かい吉備線・東総社駅近くの総社宮に。現在の社は江戸時代に再建されたもの。100mにおよぶ長い回廊や社殿前の「三島式庭園」と呼ばれる景観はなかなか、いい。三島式庭園とは神池と中島で構成される古式の庭園とのことである。総社の成り立ちは行政官の「合理的」発想、から。もともと、律令政治の地方行政の長である国司は、赴任に際し、国中の神社参拝がその義務でもあった。地域の神々をお参りし、敬うことが行政の基本でもあった。が、平安末期には、国中の神社を参拝することが困難となる。お金もかかるし、治安も悪い、ということだろう、か。で、その代案として考えられたのが、国府の近くに国中の神々を一同に集めよう、合祀しよう、ということ。結果、この備中総社には備中の国中の三百四の神々が祀られた、とのことである。

備中国分寺跡
お参りを済ませ、国道180号を東に戻り、金井戸の手前で429号を南に下り、ナビの誘導のまま備中国分寺跡に。西からのアプローチの前方に五重塔の甍が現れる。誠に美しい。駐車場に車をとめ、国分寺へと。
国分寺は聖武天皇が天平13年(741)、鎮護国家を目的に全国に建てられた官寺。当時は東西160m、南北178m程、七堂伽藍の並ぶ大寺であった、とのことだが、現在の国分寺は江戸時代に再興されたもの。本堂と大師堂が残る。山門脇の境内には創建当時の礎石も残っていた。境内西にある五重塔は高さ34.32m。この五重塔はなんとなく、インパクトを感じる。その屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさであることも、その一因であろう、か。弘化元年(1844)ごろに完成したこの塔は、江戸後期の様式を今に伝える。
備中国分寺の近くには備中国分尼寺とか、こうもり塚といった古墳も残るのだが、同行の家族に、更に数百メートル歩くべし、の一言を発する勇気は、既に、なし。あれが「こうもり塚」、あのあたりが国分尼寺跡、と数百メートルを隔てた地から眺め、国分寺跡を去る。

作山古墳
駐車場を離れ、ナビの誘導で県道270号を国道429号に向かう。国道429号との交差点でいくらたっても信号が変わらない。結局後ろの車がしびれを切らし、ボタンを押す。押しボタン交差点であった。それはともあれ、その交差点に「作山古墳」の案内がある。カーナビにも、交差点のすぐ西に「作山古墳」の案内がある。全く予想もしていなかったのだが、突然の作山古墳の登場。時間もあまりないのだが、とりあえず一周でもしてみようと、交差点を越えて直進し、田圃の間の小径を進む。作山古墳の手前に集落があり、誠に狭い集落内の小径を道なりに、おそるおそる進むと、古墳の西側にある駐車場に出た。
車を下り、ヒット&ランで古墳に走る。造山古墳と同じく、独立丘陵をもとに作り上げた、この前方後円墳の古墳は全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部110m、同幅174m。全国九位の規模を誇る。ゆっくり楽しむ余裕はなかったが、とりあえず、古墳の一端に触れ、心嬉しく岡山駅に向かい、吉備散歩第一回の、「後の祭り」フォローアップの旅を終え、一路東京へ。

新宿散歩も三回目。今回は四谷台地の尾根道や谷筋を彷徨い、新宿から西新宿へと向かう。四谷見附から四谷3丁目、四谷四丁目・四谷大木戸跡、そして新宿へと四谷台地の尾根道ルートは幾度となく歩いている。四谷の尾根道、現在の新宿通りは、往昔、潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれる、一面のすすき原であった。潮踏の里とか潮干の里と呼ばれたのは、一面に尾花(ススキ)が生え、秋になると朝霧がかかり風に尾花が波打つ様子はちょうど海原を思わせるものがあったが故の命名とも伝わる。

新宿通りを歩いている時には、往昔、一面のススキの原と呼ばれたように、平坦な台地、といった印象でしかないが、この尾根道を一旦南や北に外れると、そこは川が刻んだ谷筋・窪地やそこに下る坂など複雑に入りくんでいる。そもそも、四谷の名前の由来からして、四つの谷、すなわち、紅葉川の谷筋(四谷台地と市谷台地を開析した川筋。現在の靖国通)、鮫河谷筋(四谷三丁目あたりを源頭部とし、鮫河橋から赤坂溜池に注いだ桜川渓谷)、渋谷川の谷筋(四谷四丁目交差点あたりから南へ下る。外苑西通り)、蟹川の谷筋(大久保の由来でもある大窪を形成し神田川に注ぐ)または、蟹川支流の加二川谷筋(外苑東通り)から、との説もあるように、谷をその特徴とする地名でもある。

今回ルートは台地の尾根道を外れ、谷筋・窪地を辿りながら西に向かい四谷四丁目交差点を目指す。四谷四丁目交差点、その昔の四谷大木戸のあたりは、南は渋谷川の谷筋、北は紅葉川支流の谷筋と、南北から谷筋の迫る尾根道の馬の背といった地形であったようにも思う。この馬の背から先は内藤新宿の旧跡を辿り、最後は西新宿あたりへとルートを想い描く。本日は、結構複雑な地形のルートである。凸凹の複雑な地形の低地部分にはお寺様も点在する。鈴木理生さんの書いた『まぼろしの江戸百年;筑摩書房』には、幕府の都市政策により、寺社は低湿地域に配置し、人の集まること、そしてそのゴミの蓄積を利用し湿地を陸地化する施策を実施した、とか。今回は、地形と寺社との関係なども少々意識しながら散歩にでかけてみようと思う。


本日のルート;JR四谷駅>二葉亭四迷旧居跡>西念寺>観音坂>戒行坂>宗福寺>西応寺>須賀神社>妙行寺>東福院>愛染院>円通寺坂>日宗寺>鉄砲坂>オテルドミクニ>鮫谷橋>安鎮坂>林光寺>一行院>滝沢馬琴終焉の地>本性寺>於岩稲荷>田宮稲荷神社>長善寺>四谷大木戸>水道碑記>三遊亭円朝旧居跡>かめわり坂>正受院>成覚寺>大宗寺>追分>天龍寺>花園神社>常圓寺>JR新宿駅

JR四谷駅
JR四谷駅の駅は麹町・四谷の台地を穿ち、市谷の谷筋から赤坂・溜池の谷筋へと堀抜いた外濠の堤あたりに造られている。有り体に言えば、「谷底」といった場所である。実際、JR四谷駅の上を地下鉄が通っている。
明治22年(1889)、多摩地方と東京を結んだ甲武鉄道の開設を受け、明治27年には新宿から牛込が開通。四谷駅はこの開通に合わせて開業した。その後路線は、明治28年には牛込と飯田橋、明治37年には飯田橋からお茶の水、そして明治41年にはお茶の水から万世橋へとその路線を延ばすことになるが、その路線は新宿から南に迂回し、千駄ヶ谷、信濃町を経由し、四ツ谷見附の外濠へと台地をトンネルで抜く。四谷見附から先は外濠の内側沿いの堤を走り、市ヶ谷見附と牛込見附の下を通過して、飯田町方面へと進んだ。四谷の駅が台地上から見て、「谷底」にある、といった景観となっているのはこういった事情からである。
台地や谷など起伏ある複雑な地形を通るこの路線を計画したのは、日清戦争を控えた時代状況も大きく影響したのであろうか、大いに陸軍の意向があった、とされる。千駄ヶ谷と信濃町間は陸軍の青山練兵場があり、市谷見附から外濠を隔てた市谷台地には陸軍士官学校、水道橋のあたりは陸軍造兵工廠、その南にも陸軍の練兵場があった。軍需物資の輸送、部隊の機動的運用のためには鉄路が不可欠であり、四つのトンネル、16もの鉄橋敷設といった計画ルートの難工事も顧みず、軍事戦略優先で工事を成し遂げた、と。水道橋エリアは、江戸の頃から、舟運が盛んで、さらに鉄道が通ることで物資の大量輸送が可能となり、その軍事的重要性が増すことになる。事実、砲兵工廠は鉄道開通に合わせ、規模を拡大することになった、とか。ちなみに、青山練兵場は元の青山常盤介忠成屋敷跡、陸軍士官学校は尾張徳川家の下屋敷跡、砲兵工廠は水戸徳川家、水道橋の練兵場は徳川家の講武所跡地(日本大学法学部図書館のある水道橋内三崎町三丁目の地)である。

四谷外濠
四谷駅あたりの外濠は寛永13年(1636)の江戸城外濠普請により、赤坂溜池と市ヶ谷の開析谷を繋ぐように台地部を開削して作られた。お茶の水の駅前の神田川も、台地を切り開き通した水路であり、結構大変な普請であったと思っていたのだが、この四谷の台地を南北に穿つ工事も大変であったろうと思う。四谷駅のあたりは四谷台地の尾根道であり、江戸城の外濠の中では最も標高の高い箇所であったが、そこへの水源は四谷台地の尾根道上を通した玉川上水からの余水などを流し、水量を保ったと伝わる。
現在、四谷駅の南北の外濠は埋め立てられている。明治27年の四谷駅開業の頃、その土手を削った工事残土の一部が四谷外濠の埋め立てに使った、とのことだが、当時の記録には未だお濠には水は残っている。その後、明治32年(1899)、新宿・淀橋浄水場の完成により、淀橋から四谷に至る玉川上水路は不要となり、水路は閉じられ四谷外濠は養水源を失う。その後、大正12年(1923)、関東大震災が発生、昭和4年(1929)には関東大震災に伴う復興事業により、四谷外濠には大量の瓦礫が持ち込まれて埋め立てられ、空濠となる。また、昭和20年東京大空襲での瓦礫処理に濠は埋められ、現在は四谷見附の南の外濠(真田濠)は上智大学の運動グランド、北はRおよび東京地下鉄丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっている。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)



四谷見附
四谷見附門が築造されたのは四谷の外濠が完成した3年後の寛永16年(1639)。四谷台地の尾根道が西から進めば江戸城の出入り口に達する、江戸城の構えの中では、地形的に最も危うい場所であり、その地に見附を設け、その内側の麹町の台地には武家屋敷を配置し、西からの攻めに備えた。見附には枡形門を設け、また土橋も防衛上の理由から筋違いに架けられた。
明治5年(1872)に見附門は取り払われる。クランク状に筋違いの道筋も、明治36年(1903)には外濠沿い(御茶ノ水~赤坂見附)と甲州街道沿い(半蔵門~新宿)に路面電車が開通。 明治42年(1909)には赤坂離宮が完成し、これに相応しい橋として大正2年(1913)にバロック調の鋼製アーチ橋「四谷見附橋」が完成し、甲州街道と麹町の通りが直線で繋げられた。この四谷見附橋は東京では日本橋に次ぐ建設費を費やした、とのことである。

二葉亭四迷旧居跡
四谷見附交差点を渡り、新宿通りの南側を進み、一筋目を南に折れ、四谷中校庭の西側、民家の脇に「二葉亭四迷旧居跡」の案内。尾張藩士の子として、市谷本村町の・尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)で生まれ、松江などをへて父の実家水野家があったこの地に移る。東京外国語大学に入学するまで、この家で過ごした。
二葉亭四迷と言えば、文学者になることを父に告げたところ、「くたばってしまえ」と言われたことから本名長谷川辰之助のペンネームを「二葉亭四迷」にした、とか、『浮雲』や『平凡』に代表される「言文一致の文体」の確率を推進した文学者として知られる。
ところで、「言文一致」ってわかったようで、はっきりしない。Wikipediaによれば、「日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章のことを指す」、と。マイペディアによれば「思想・感情を自由的確に表現するため,書き言葉の文体を話し言葉に近づけようとする主張,およびその文体」、とある。ますますわからなくなった。あれこれチェックする。
言文一致運動が起きる背景には、明治維新という大きな変革の時代があったことが大前提の、ように思う。西洋列強の進んだ思想・科学を取り入れるに際し、国民教育が必要。新しい思想・科学を学び、また、それをあまねく人々に伝えるためには当時の日本語の抱える問題、書き言葉と話し言葉の乖離・溝を改め、文章を読んでも、通常話している言葉と違和感のないようにしよう、としたのであろう。従来、書き言葉では、漢文中心で「今般御即位大礼被為済、先例之通被為改年号候、就而ハ之迄吉凶ノ象徴ニ随ヒ(明治初期の新聞記事)」、などと書いていたものを、「このたび、即位の大礼も終わったので、先例のように年号を改めるこことになった」などと書くようにしましょう、そのほうが、国民の皆に理解しやすいでしょう、ということであろうか。我流の例文であり、少々いい加減ではありますので、ご容赦を。
自分の目で見聞きし、心に思うさまざまなことを、自在に駆使される言葉によって明らかにする、単におしゃべりだけでなく、思想や科学技術を人に伝え、また相手も理解する、そのためには、漢語でも市井の人が十分理解できる漢語は使う、新しい思想・科学の概念を現す翻訳語(自由とか哲学といった言葉。漢字が多い)も使う、ひらがなもつかう、カタカナも使う。明治という新しい時代を迎え、欧米の知識を吸収した日本人が自分の思想信条を延べ、そしてそれがあまねく市井の人々に伝わる、それが実現できる「文体」を模索したのが明治の言文一致運動のように思う。
二葉亭四迷が言うように、「言語と文章とを一致せしめんと欲せば、作るところの文章を朗読し、聞く者をして直ちに了解べからせしむべし。聞く者をして直ちに了解せしめんと欲すれば平生説話の言語をもちいざるべからず。平生説話の言語をもちいて言語を作ればすなわち言文一致なり」、といった日本語の文体確立を目指したのだろう。文学にあまりに興味のない自分であり、言文一致などという現在の我々にとって、あまりに当たり前であり、そのため逆に、どういうことか、ちょっと疑問を抱き、メモをした。言文一致運動って、文学運動というより、国民教育運動のような気がしてきた。
このことで思い起こすのは、フランス革命時における法と言語の問題である。娘の民法のアサインメントに、横から眺め読みした『言語と法;続フランス革命と近代法の成立(金山直樹)』に、革命時に制定されたフランス民法典を十全たらしめるには、当時のフランス国内での多様な言語を「フランス語」として統一する、国語(フランス語)教育が必要不可欠とされた、と。いくら明快で平易な法典をつくっても、その法典を読みこなせるフランス国民が圧倒的に少なかった、とのことでもある。社会が大きく変化するときは、誰でも読み書きできる言語・文体をつくることと、それを可能とする公教育を目指す社会運動が必要ということだろう、か。娘のお手伝いも、たまには役に立つ。

西念寺
二葉亭四迷旧居跡のあるマンション前を離れ、民家の間の小径を成り行きで西に進み西念寺に。忍者服部半蔵の墓所と思っていたのだが、服部半蔵って代々の名前であり、初代は伊賀の忍者とのことではあったが、この寺にまつわる二代目服部半蔵・正成は徳川家康の家臣として仕え、徳川十六将のひとりとしてその武勇で知られていた武人。この西念寺には家康拝領の槍が残るが、それは三方原の合戦における半蔵・正成の武勇を愛でたものである。
半蔵・正成が後の世にまで知られるようになった事件が、本能寺の変における家康危機脱出への正成の活躍。伊賀出自の半蔵は伊賀の山越えの脱出路を案内し、無事三河に導いた。その功もあり、家康が江戸入府の後は与力三十騎、伊賀同心200名を配下に置き、江戸西門警備を命ぜられ、その門は「半蔵門」として現在に残る。
西念寺は麹町・清水谷の半蔵・正成の隠居庵がはじまり。家康正妻の築山殿の武田家内応事件に連座し、信長の命により自刃した家康嫡子・岡崎信康をとむらう半蔵・正成の姿に家康が寺の建立を命じた、とも。武田家内応事件は信康の非凡さを怖れた信長の謀略との説もあるが、信康自刃の切腹・介錯を命ぜられた半蔵正成は悩み苦しみ、終生信康の供養を続けた、と言う。寺には半蔵正康の隣に信康も眠る。
寺は半蔵の生前中には建立を果たせなかったが、没後完成。半蔵の法名をとり西念寺と名付けられた。現在の地に移ったのは寛永11年(1934)江戸城総構えの最終仕上げでもある外濠完成を待って、外濠の外側に移った。

観音坂
西念寺を離れ、近くにあるという鯛焼きで名高い「たいやき わかば(新宿区若葉1-10 小沢ビル)」に成り行きで進み、家族へのお土産を確保。西念寺脇を谷へと下る観音坂に向かう。西念寺と蓮乗院、真成院の間を南に下るこの坂の由来は、真成院の潮踏観音に因む。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれていたことに因む。上で、一面のススキの原が風に波打ち、海原のように見えたため潮踏の里と呼ばれたとメモしたが、潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので汐干観音とも呼ばれた、との説もある。往昔、このあたりまで海が迫っていた、ということだろう。西念寺坂、潮踏坂、潮干坂とも称される。

桜川跡
谷筋に下り、如何にも川筋跡といったうねりを残す道筋を南に少し下る。若葉二丁目商店街と呼ばれるこの道筋は往昔の桜川の川筋跡。尾根筋に近い円通寺の下を谷頭部とし、日宗寺の湧水地を源流点に、通称鮫河谷を流れる桜川と、信濃町駅南の「千日谷」からの水路を合わせ、この道筋を鮫河橋跡へと進み、現在の赤坂御用地、かつての紀州徳川家の中屋敷へと進む。そこでは屋敷内の谷戸からの水をも合わせ赤坂見附に下り、紀尾井町の清水谷からの水流も合わせ、赤坂の溜池に注いだ、と言う。溜池の先は、江戸の頃は虎ノ門あたりで日比谷の入り江へと続いた、とのことである。

戒行寺坂
桜川の川筋跡を離れ、台地に上る。坂の名前は戒行寺。戒行寺の南を東に下る坂である。別名油揚坂とも呼ばれたが、坂の途中に豆腐屋があり、その油揚が評判であったから。とか。戒行寺には長谷川平蔵が眠る。池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公、火付盗賊改方長官である。元は麹町8丁目に唱題修行の戒行庵としてあったものが、寛永11年にこの地に移る。

宗福寺
戒行寺の斜め向かいには宗福寺。もとは清水谷にあったものが、寛永11年、この地に移る。寺には江戸後期の刀鍛冶として知られる源清麿が眠る。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、その刀の切れ味故に、「四谷正宗」と呼ばれた。

西応寺
宗福寺のお隣に西応寺。幕末随一の剣豪として知られる榊原鍵吉が眠る。幕府講武所教授として幕臣の武芸指導のつとめるとともに、将軍家茂の信任を得、上洛を共にする。上野での彰義隊に加わることはなかったが、上野寛永寺の輪王寺宮(後の北白川宮)の護衛にあたる。維新後は将軍家達に随って駿府に移るなど、終生幕臣としての立場を貫いた。
また、この寺には藤田貞資が眠る、と言う。「精要算法」で有名、「今の算数に用の用あり,無用の用あり,無用の無用あり・・・」という言葉が知られている、とのことだが、なんのことか凡たる我が身にはちんぷんかんぷん。チェックする。
藤田貞資は江戸中期の和算家。『精要算法』は数学の教科書、といったもの。用の用とは日常生活に役立つ数学,無用の用とは日常生活には役に立たないが基礎となる数学,無用の無用は問題のための問題、といった「技」を競う数学、といったところ。『精要算法』は数学の教科書として広く使われ、多くの門下生を抱えた。で、この門下生の特色は算額の奉納。難解な数学の問題の解決を誇った算額を神社に掲げた、とのことである。和算といえば関孝和であり、書は『塵劫記』を知っていた程度。当たり前であるが、世の中には知らないことが、如何にも多く、ある。
散歩の折々に神社で算額にしばしば出合う。都内・都下ではあきるの市の二宮神社、八王子・片倉城址の住吉神社、稲城の穴沢神社、足立区花畑の大鷲神社、渋谷の金王八幡などでの算学を思い出す。今までは、単なる「算額」であったものが、藤田貞資を知ることにより、ちょっと身近なものとなった、よう。

須賀町
それにしても、この須賀町には寺院が多い。成り行きで歩いているので、後の祭り、と感じるような名刹もあるかとも思うが、出合ったお寺さまに入っただけでも、上でメモしたような、あれこれが登場してきた。これら多くのお寺さまは、江戸城の総構えが完成し、麹町、清水谷あたりにあったお寺さまが、この四谷に移されたものではあろう。台地上のお寺は戦時の防御ラインともなるし、鈴木理生さんが『幻の江戸百年』で延べているように、お寺に集まる人、行事より生じるゴミ芥は湿地埋め立ての重要資源であった、と言う。実際に台地の上や谷地に点在するお寺さま、その墓地を見るにつけ、リアリティをもって大いに納得。
須賀町の名前の由来は須賀神社、から、と言う。といっても、そもそもの「神社」という名称は明治以降のことであるわけで、明治の前の名称をチェックすると、明治5年、忍原横町・南伊賀町飛地・旗本屋敷・妙行寺・宝蔵院・谷田院をあわせて、明治5年に四谷須賀町となった。また正覚寺・顕性寺・本性寺・報恩寺・松巌寺・永心寺・西応寺・竜泉寺・栄林寺・文殊院・戒行寺・勝興寺・清岩寺・戒行寺門前と女夫坂(みょうぶだに)東の武家地をあわせて四谷南寺町とした。四谷寺町の南の寺町の意である。同44年には両町ともに四谷の冠称を外し、昭和18年には両町が合併して現行の「須賀町」となった。

須賀神社
須賀町のお寺様の間を辿り、江戸時代の首切り役人・山田朝右衛門が眠る勝興寺脇の小径を台地の崖端に向かうと須賀神社。もとは現在の赤坂、一ツ木村の鎮守であった稲荷の社。寛永11年の江戸城外濠普請のため、この地に移った。その後寛永14年、島原の乱の兵站伝馬御用に功績のあった日本橋大伝馬町の大名主・馬込勘由がその功故に四谷の一帯を拝領。その際、寛永20年、神田明神より須佐之男命を勧請、稲荷の社と合祀し、稲荷天王合社と称した。天王の名称は牛頭天王、より。神仏習合により牛頭天王は須佐之男命の本地とされていた。
須賀神社と呼ばれるようになったのは明治の神仏分離令の後。天王>天皇との同音故、不敬にあたるかとの怖れより改名した、と言う。牛頭天王は須賀神社とか八坂神社と改名したケースが多かったように思う。須賀神社は須佐之男命を祀る日本最古の社、出雲の須賀にあった須賀宮、から。須佐之男命が八岐大蛇を退治して、「わが心清々(すがすが)し」と言ったことが、須賀の由来、とも。八坂神社は須佐之男命を祀る祇園信仰の本拠が京の八坂の地にあった、ため。 社には三十六歌仙繪が社宝として残るとか。
境内を歩くと天白稲荷神社が祀られていた。あまりなじみのない社。チェックする。江戸の頃の記録には、「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるかを知るべからず。恐らくは修験宗に天獏あり。是なるべし」、とある。早い話が、よくわからない、ということ。よくわからないが、天白、天伯、天獏、天縛、天魄などの字を当てることが多く、伊勢の御神(おし)がお札を配り、神楽を舞って各地に広めたとのこと。東日本で水の神、農耕神として祀られることが多いようだ。そう言えば、名古屋に天白区ってある。由来は地域を流れる天白川であり、その天白川は河口付近の天白神に由来する、とのこと。徳川家の家臣が江戸へ移るに際し、地元の天白様を勧請したのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

妙行寺
石段を下り、台地から桜川の谷筋に再び戻る。女坂を下りきったところに妙行寺の墓地が拡がる。本堂と庫裡が残るだけで、十代将軍家治の御代、この寺を深く信仰する伊藤氏の娘が将軍側室として大奥に入り、その縁で将軍に信頼の篤い者に許される赤門を持った往昔の姿は、今は、ない。本堂もなんとなく武家風なのは、こういった事情もあるのだろう、か。
赤門もさることながら、このお寺さまは「三銭学校」の教場として知られる。明治の頃、桜川の谷筋に密集する貧しい人々に教育を施すべく、四谷区内の50余りのお寺さまが共同で運営した。妙行寺もそのひとつ。三銭学校の名前の由来は、授業料が三銭であった、から。

東福院坂
妙行寺から桜川筋に出る。今度は谷筋を北に、新宿通が通る尾根道側に上る。坂に名前があり、東福院坂、と。坂を上ると途中に東福院があった。東福院には左手を失ったお地蔵様が佇む。その昔、このあたりに豆腐屋があった。そこに毎晩豆腐を買いに来るお坊様。不思議なことに、その日から売上銭の中に「シキミの葉」が混じるようになる。豆腐屋の親父は、そのお坊さんの悪戯だろうと懲らしめることに。で、少々の論理の飛躍ではあるとおもうのだが、次に来たときにお坊様の左手を包丁で切り落とす。とはいいながら、少々怖くなり、翌日血の跡をたどってゆくと、東福院のお地蔵様の左手が失われていた、と。豆腐屋のおやじはその後行いを悔い改め、お地蔵様を敬い、豆腐造りに精進し、名高い豆腐屋になった、とか。

愛染院
東福院と坂を隔てた東側に愛染院。高松喜六と塙保己一が眠る。高松喜六は内藤新宿の生みの親。元は浅草の名主であった喜六は、元禄10年(1679)、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)を宿場にする請願を幕府に提出。日本橋と次の宿である高井戸までは16キロと距離があるので、その中間に宿を開いた。元禄11年(1680)には許可がおり、4人の仲間とともに冥加金5600両を納め、問屋・本陣を開いた。高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
また、この寺には国学者塙保己一が眠る。延享3年(1746)、現在の埼玉県本庄市の生まれ、姓は萩野、幼名は辰之助。七歳で失明するも、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。その優れた記憶力故に、雨富検校に認められ学問に精進し国学・漢学・和歌・医学などを学ぶ。
安永8年(1779年)、古書の散逸を危惧し、古代から江戸初期までの史書や文学作品を集める、『群書類従』のプロジェクトを開始。幕府や諸大名、寺社・公家の強力を得て、文政2年(1819)には、670冊からなる『群書類従』、を完成させた。文政4年(1821)には総検校となるも、亡くなったときには、現在のお金に換算すると1億円にも相当する借財を残した、と。作品完成のために私財を投じたのだろう、か。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。ちなみに、南洋遙か南の小笠原諸島が日本の領土であるというエビデンスは塙保己一の集めた資料がもとになった、と言う。

日宗寺
東福院坂を下り桜川の谷筋に戻る。川筋を西へと桜川の源頭部方向へ向かう。もとより、水源があるわけも、ない。川筋跡の道を進み日宗寺に。こさっぱりとした構えの寺である。このあたりが水源であった、とか。その湧水池は、今は、ない。
日宗寺は元、麹町清水谷にあったものが、外濠普請のため寛永11年、この地に移った。日蓮上人ゆかりの房州小湊の誕生寺の末とも伝わり、上人にまつわる縁起も伝わる。夜明鬼子母神が、それ。日蓮上人が母を拝せんと旧里の小湊に戻る。母、感極まり頓死。上人大いに嘆き、また、法力を末代に示さんと、弟子日法に命じ、鬼子母神像を彫り祈ると、暁に母が蘇生。このゆえに、夜明鬼子母神と称された。鎌倉の住人鎌田某が霊夢により、この寺に納めた、と。この寺には江戸時代初期の歌人北村湖元、春水、季文等の一族も眠る、と。佐伯泰英さんの『酔いどれ小藤次』に登場する歌人北村おりょうと、故なくかぶる。

円通寺坂
日宗寺を先に進むと道は北に折れ、坂となる。坂名は円通寺坂。新宿通り(旧甲州街道)から四谷2丁目と3丁目の境界を南に下る坂の途中に円通寺がある。坂の東には祥山寺とか宝蔵寺。誠にお寺さまが多い。祥山寺は先ほど訪れた妙行寺とともに三銭学校に貢献したお寺さま。四谷笹寺(長善寺)の住職など数人が発起人となり、妙行寺に教場・共立友信学校を開き、祥山寺の住職が教師となって、鮫河の貧しい家庭の子供の教育に努めた。祥山寺には伊賀者を供養した忍者地蔵もある、と言う。

鉄砲坂
桜川の谷筋に沿った商店街を再び下る。途中で道を左に折れ、鉄砲坂へ。江戸の頃、このあたりに鉄砲組屋敷があり、鉄砲訓練所や鉄砲鍛冶があったのが名前の由来。坂を学習院初等科方向に上り、フレンチレストランで有名なオテルドミクニの辺りまで上り、再び鉄砲坂まで戻り、今度は南に進みJR中央線を跨ぐ橋へと向かう。いつだったか橋から見たJR中央線のトンネルの古風な雰囲気をあらためてじっくりと見てみよう、と。

旧御所トンネル
迎賓館の地下を信濃町方面から四ッ谷駅へと貫通するこのトンネルは「旧御所トンネル」と呼ばれ、明治期の旧甲武鉄道が造ったもので、現在も使われている。御所の下を通すことが許されたのは、日清戦争に備えた軍事優先の方針により、青山練兵場とのアクセスを優先したから、と。このトンネルの開通を待って明治27年、新宿から牛込間が開通した。明治の建造物らしく赤い煉瓦造りのトンネルから何が現れるかと佇んでいると総武線が走ってきた。

鮫河橋跡
橋の上から中央線や総武線、その南を走る高速道路をしばらく眺め、再び鉄砲坂へと戻る。途中、崖端に建つマンションの駐車場から桜川の谷筋、桜川によって開析され南北に分かれた四谷の台地の景観を楽しみ、鉄砲坂を下り桜川跡の道筋に戻る。
二葉南元保育園、二葉乳児園脇を進み、JRと高速道路のガードを越えると「南元町公園」。公園脇に小祠と「鮫河橋地名発祥の地」の説明があった;「みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った沼池があり、周囲の台地から湧き出す水をたたえ、南東の方向へ流れ鮫河となり、赤坂の溜池に注いでいた。江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外濠工事で余った土で埋め立てられて、町になったと言われている。鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋と呼ばれていた。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられ、有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、いまでもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残している」、と。
現四谷三丁目にある「鮫河谷」、日宗寺の湧水池辺りの源頭部から流れる桜川や、信濃町駅南側の「千日谷」からの流れがこのあたりで合わさり、沼地となっていたのであろう。古の昔には、この辺りまで江戸湾の入り江が迫っていたということでもあり、名前の由来に「鮫」がこのあたりの入り江まで現れたから、との説もある。
小祠はせきとめ神を祀る。桜川(鮫河)のゴミ芥を堰止める堰と沈殿地がこの地にあり、堰止め>咳止め、ということで、いつの頃からか沼池の周囲の木の枝に名前や年齢を書いた紙を紅白の水引で結び付けて「咳止め」のお願いをする風習が流行した。沈殿地はその後埋め立てられたが、その信仰は残り、昭和5年、小俣りんという近所の老女が埋め立て跡地に「大願成就 鮫ヶ橋(鮫河橋)せきとめ神」と彫った石碑を建てた。この碑は戦後取り除かれるが、その後鮫河橋門向かいの地に再建され、昭和46年現在地に移した、とのことである。

鮫河
江戸の時代小説を読んでいると、鮫河は悪所・岡場所として描かれている。現在の南元町から桜川の谷筋を北に向かう一帯である。天保の改革で岡場所が禁止されると、鮫河橋夜鷹として牛込桜の馬場、四谷堀端辺りまでを縄張りに出張った、と言う。
明治になってからの鮫河も貧しい人々が集まり、松原岩五郎がその著『最暗黒の東京』で描く、「山の手第一等の飢寒窟」となった。明治22年の頃、明治政府の農業政策の失政から疲弊した農村から職を求め東京に集まった農民が押し寄せ、狭い0.1平方キロメートルの谷間に1400戸、5000人もの人々が住み着いた。下谷万年町や芝新網町などとともに東京の三代スラム街のひとつ、とも称せられた。
この地に集まったのは食料の確保が容易であったから、と言う。市谷台の陸軍士官学校から出る残飯がそれ。大八車を牽いて行き、残飯を安い値段で引き取って、それを貧民に売る。米や菜を買う金のない貧民は、この残飯を糧にした、と。『貧民の群れがいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常にこの歓迎にむくゆべく、あらゆる手段をめぐらして庖厨(くりや=厨房のこと)を捜し、なるべく多くの残飯を運びて彼らに分配せんことを努めたりき。』、と松原岩五郎は描く。
「全町ことごとくこれ貧民窟。谷町を中心としておよそ卑湿の地、いたる所、軒低く、壁壊れ、数千の貧民、蠢々(しゅんしゅん)如としてひそかに雨露をしのぐのさま、哀れなり」。これは毎日新聞記者だった横山源之助が、『日本の下層社会』に描く明治36年(1903)の鮫河橋の姿である。横山源之助が呼んだこの辺り一帯の貧民窟は大正時代も続いたようだが、昭和18年(1943)に町名が鮭河橋から若葉に変わった頃には、その状態はなくなっていたのだろう。というより、どこか別の地に移ったというほうが正確かもしれない。
現在は往時の状態を残す街並みは見あたらないが、当時建てられた貧民救済施設は現在もその名前を残す。先ほど道脇にあった二葉南元保育園、二葉乳児園は、もともとは貧困故に親を失った孤児を受け入れるために建てられた施設であった。

赤坂御用地
鮫河橋跡の道路を隔てた一帯は赤坂御用地。現在迎賓館や東宮御所のあるこの敷地はかつての紀州徳川家の中屋敷。一帯は江戸の地形がそのまま残されている、と。敷地の西端を谷頭とし、東に開く谷戸があり、谷底と台地との比高差は15mほどもあると言う。谷戸やいくつかの支谷からの流れは桜川(鮫河)と敷地の中頃で合流し池をつくり、赤坂の溜池へと下る。どんな地形か見たいとは思えども、叶わぬことではあろう。

安鎮坂
鮫河橋跡から赤坂御用地前を外苑東通り・権田原交差点へと続く道を西に向かう。道は緩やかな坂となっており、安鎮坂とある。案内には、「あんちんざか 付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう」、とある。
この坂は安珍坂とも、安鎮坂、権田坂、権田原坂、権太坂、権太原坂、信濃坂とも書く、昔、安藤左兵エの屋敷内に安鎮大権現の社があったのが名前の由来。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説ある。

林光寺
安鎮坂を上り、道路から脇に折れ、南元町の林光寺へと向かう。首都高速4号線の傍にある。但馬国生野銀山にあった清浄光寺がはじまり。慶長18年(1613)、松平忠輝の招きにより赤坂一つ木村に移り、寛永元年(1624)、林光寺と改めた。明暦元年(1655)には、寺地が御用地となり、この地に移った。
道を隔てた紀州徳川家とのつながりも深く、親鸞・蓮如・聖徳太子および七人の高僧を描いた四幅の画像は、寛延3年(1750)紀州七代藩主徳川宗将が奉納したものであり、寺宝となっている。
ところで、生野から江戸にこの寺を招いた徳川忠輝。家康の六男に生まれるも、生涯家康から疎まれた。母の出自の身分が低いとか、その容貌が怪異であったから、とかあれこれの理由があるも、家康の今際の際にも傍に侍るのを許されなかった、と。さわさりながら徳川将軍家に生まれたわけで、伊達政宗の長女五郎八姫と結婚そ、越後高田藩60万石の太守となるも、元和2年(1616 )には大阪夏の陣での不始末故に改易される。徳川家から「勘当」された、とも。その勘当が解けたのは昭和59年(1984)のこと。370年にも及ぶ勘当とは、ギネス記録にでもなるのだろう、か。

一行院
道なりに進み、外苑東通り手前から坂をJR信濃町駅へと上る。千日坂と呼ばれる。案内によれば、「この坂下の低地は、一行院千日寺に由来し千日谷と呼ばれていた。坂名はそれに因むものである。なお、 かつての千日坂は 明治三十九年(1906)の新道造成のため消滅し、 現在の千日坂は、それと前後して造られた、 いわば新千日坂である」、と。
 坂の途中に一行院千日寺がある。現在、千日谷会堂とも呼ばれるこのお寺様の開基は永井右近大夫直勝。永井家の下僕であった故念が起立した庵を一寺として創建した。永井家はこの辺りを拝領地としており、永井家が信濃守を称していたのが、信濃町の由来。また、千日寺と呼ばれるのは、僧となった来誉故念が主家永井家の供養に千日毎におこなったのが、その由来、とか。
舎利塔前の案内には、鎌倉時代後期から室町時代後期までの板碑(死者を供養するための石造りの卒塔婆)が7基保存されている、と。開起当時は寺域も広く2、025坪。明治初年には境内租税地1、800坪。その後は、明治中頃、後の方に国鉄信濃町駅が出来て狭められ、昭和37年(1962)には高速道路の建設に伴い、現在は1、200坪程度となった、とか。

滝沢馬琴終焉の地
JR信濃町駅から少し南に外苑東通りを跨ぐ歩道橋がある。歩道橋を渡り終えたあたりに滝沢馬琴終焉の地との案内。あたりを彷徨ったが、それらしき案内は見付けられなかった。江戸の切り絵図などを見ると、永井信濃守の下屋敷の南東に御手先組、御鉄砲組などの組屋敷がある。馬琴がこの地に移ったのは、医師を目指した長男が病死したため、その孫の将来を考えて小禄ではあるが定収のある御家人株(鉄砲同心)を買い求めた、とあるので、御鉄砲組の組屋敷があるこのあたりではあろう。天保6年(1835)の頃のことである。
馬琴は松平信成家臣の五男として誕生。深川浄心前の松平信成邸内が生誕の地とのこと。仙台堀川近くの江東区老人センターの前には「滝沢馬琴誕生の地」の碑があった。若き頃より戯作者を目指し、山東京伝に師事。その後、飯田橋の履物商・伊勢屋に婿入りするも、商売に身を入れることはなく、『椿説弓張月』などの作品を著した。
代表作品である『南総里見八犬伝』を書き始めたのは、文化11年(1814)の頃から。信濃町のこの地に移った頃は『南総里見八犬伝』は未完。「屋敷は間口わづか六間に候へども奥行四十間有之、凡弐百四拾坪の地所にて、奥に六間に九間の大竹薮あり、空地も有之候間菜園にすべく存候」と馬琴が描く、有り体に言えば、荒壁茅葺のあばら家で『南総里見八犬伝』を書き続けた。過労と老齢のため、次第に視力を失い、しまいには失明し、息子の嫁である路の口述筆記で執筆を続け、実に28年の歳月をかけて作品は完成した。
いつだったか、馬琴とその息子の嫁である路のことを描いた文庫を読んだ。書名を思い出せないのだが、群ようこさんの『馬琴の嫁』だったのだろう、か。偏屈な馬琴につきあい『南総里見八犬伝』をつくりあげる姿を思い起こした。梓澤要さんの『ゆすらうめ』だった、かも。

本性寺
JR信濃町駅に戻り、外苑東通りから一筋入った小径を北に向かって田宮稲荷神社に向かう。途中には創価学会の建物が幾多ある。道なりに進むと東西に走る道筋に。東に向かえば、先ほど訪れた西応寺などをへて戒行寺坂に下る。
田宮稲荷神社へと道筋を逆に西に向かう。路に沿ってお寺さまが並ぶ。なんとなく本性寺にお参り。山門の雰囲気に惹かれたのかとも思う。この山門は戦災を逃れ、元禄当時の面影を伝える、と。境内には同じく戦災を逃れた毘沙門堂も残る。元は江戸城本丸にあったものが、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により堂とともにこの寺に寄進された。この像は北を向いていることから「北向き毘沙門天」とも呼ばれる。北方の仙台藩伊達氏が謀反を起こさないよう、北方の守護神・毘沙門天を徳川家康が北向きに安置したという伝説が残されている。

於岩稲荷
本性寺前から北に向かう道筋を先に進む。と、道の右手に於岩稲荷の幟が見える。その少し先、道の左手には田宮稲荷神社がある。於岩稲荷は陽運寺の境内にあった。少々商売っ気の感じる境内をちょっと眺め、足早に田宮稲荷神社へ向かう。

田宮稲荷神社
案内によると、「都旧跡 田宮稲荷神社跡」、とある。「文化文政期に江戸文化は燗熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北[金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829年)十一月二七日歿]も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊左衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。
物語は文政十年(1827年)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二七年再びここに移転したものである(東京都教育委員会)」、との説明。

わかったようで、いまひとつはっきりしない。チェックする。江戸も初期の頃、この四谷左門町の武家屋敷に田宮伊右衛門とその妻であるお岩さんが仲むつまじく暮らしていた。お岩さんは貧しい家計を支えるため商家に奉公に出る。田宮家の屋敷社への信心も欠かさず健気に働き、田宮家は豊かになる。
その評判を聞きつけた近隣の人々はお岩さんの幸運にあやかるべく田宮家の屋敷社を「お岩稲荷」として信仰するようになった。この「お岩稲荷」があったのが、この田宮稲荷神社の地である。
時は過ぎ、お岩稲荷ができて200年もたった江戸の後期、歌舞伎作者の鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を書く。南北はなくなって二百年たっても人気のある「お岩」さんを取りあげれば、人気歌舞伎がっできるだろうと考えた、とか。ともあれ、お岩さんを主人公に歌舞伎を仕立てる。が、いかにも善人で女性の美徳の鑑では面白くない、ということで事実とは関係なく、怪談話に仕立て上げた。
文政8年 (1825) 初演のその歌舞伎が大当たり。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、それ以降、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほど。四谷塩町・忍町の名主・茂八郎に命じて町内の伝説をまとめ奉行に提出した「文政町方書上」の伝説がもとになっている、との説もあるが、「文政町方書上」の提出が文政10年(1827)であるので、時期があわないように思う。
明治5年にはお岩稲荷を田宮神社と改める。明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失。また、「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、当時中央区新川にあった田宮家の屋敷内に移転した。それが現在の中央区新川にある田宮稲荷神社である。
その新川の社殿も昭和二十年(1945)の戦災で焼失。戦後、新川とともに四谷の現在地にも田宮稲荷神社が復活した。陽運寺の於岩稲荷は、戦災で社殿が焼失したときに、つくられたもので、田宮神社とは関係はない、とのことであった。

長善寺
新宿通り・四谷三丁目交差点を新宿方面へと向かう。道の南側、国際交流基金の手前を南に折れる小径を進むと笹寺こと長善寺がある。
笹寺の由来は三代将軍家光とか、二代将軍秀忠とか、ともあれ将軍さまが鷹狩りの途中、この寺で休息し、辺りに笹が繁るのを見て「以降、笹寺と呼ぶべし」と。本堂には赤い瑪瑙(めのう)で造られた「めのう観音様」がある。二代将軍秀忠の夫人・崇源院の念持仏であった、とか。

四谷大木戸
先に進み四谷四丁目交差点に。江戸の頃、この地には四谷大木戸があった。甲州道中の江戸への出入り口として、元和2年(1616)に設けられた。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし』と四谷大木戸が描かれる。
上でメモしたように、この四谷四丁目交差点の、北は紅葉川の谷筋、南は渋谷川の谷筋と、尾根道の馬の背といった一本道であり、出入り管理が容易であったのだろう。「江戸名所図会」を見るに、道の両側に石垣が築かれ、内藤新宿側は石畳となっており、玉川上水の水番所も見える。一方、石垣の四谷側には屋根が見えるが、それは旅人や荷駄を調べる番屋の屋根であろう。番屋では突棒、刺股などの道具を置き門番が警護していた。高札も掲げられている。大木戸は世の安定、経済の発展による人馬の往還、また番屋費用の町内負担などの理由により寛政4年(1792)に廃止。石垣も明治9年(1876)に取り壊された。

水道碑記
「江戸名所図会」に見える玉川上水水番所は現在、交差点を新宿側に渡った四谷区民ホール脇の道端に「水道碑記」との石碑で残る。江戸開幕にともなう上水確保のため、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、40キロ以上を導水した。取水口から四谷大木戸の水番所までは開渠、ここからは地下の石樋をとおして江戸の町に流した。
玉川上水を取水口からこの四谷大戸までヶ4回に分けて歩いたのはいつの頃だっただろう。散歩をはじめたばかりの頃でもあるので、開幕期の江戸のことなどなにも知らず、入り江を埋め立てて造った江戸の町の飲み水の確保の歴史に、思いの外フックがかかり、文京区の東京都水道歴史館を訪ねたり、古本屋を廻り『約束の奔流;松浦節(新人物往来社)』や『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』といった本を手に入れ、玉川兄弟、それを助けた安松金右衛門、水を吸い込む「水喰土」など、すべてが目新しかった。そういえば、玉川上水散歩のメモは未だつくっていない。もう一度歩き直し、そのうちにメモしておこう。少々思い入れも強い玉川上水にまつわる碑のメモは、今回はパスし、先に進む。

三遊亭円朝旧居跡
新宿通を進み新宿1丁目交差点を右に折れ、区立花園公園の三遊亭円朝旧居跡を目指す。たまたま、森まゆみさんの『円朝ざんまい』を呼んでいるところだったので、なんとなく親近感を抱く。先般の新宿散歩で二葉亭四迷が言文一致の文体の参考にしたのが三遊亭円朝の噺ということでもあったので読み始めていたわけである。
公園脇の案内によると;「このあたりは、明治落語会を代表する落語家三遊亭円朝(1839~1900)が、明治21年から28年(1888~1895)まで住んでいたところである。円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳の時小円太の名で初高座をふみ、9歳で二代目円生の門下に入門した。
話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。
屋敷地は約1000平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、、孟宗竹の藪、広い畑、桧、杉、柿の植え込み、回遊式庭園などがあり、母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。新宿在往時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという(東京都新宿区教委区委員会)」、と。
円朝は喧噪を避け、当時は寂しい町であった、この地を選んだとのことである。散歩の折々に円朝ゆかりの地に出合うことも多い。墨田区の亀沢には「初代三遊亭円朝住居跡」があった。墨田区両国には円朝の作品「塩原太助一代記」の太助橋があった。越後からも三国峠を越えて猿ヶ京温泉のあたりは塩原多助の出身地でもあった。墨田区の木母寺内には「三遊塚」があった。板橋の赤塚には「怪談乳房榎」のモデルと呼ばれる榎、また豊島区高田の南蔵院も「怪談乳房榎」ゆかりの寺、と言う。足立区伊興の法受院は「怪談牡丹灯籠」ゆかりの寺とする。数え上げれば切りがない。人気者故のことではあろう。

かめわり坂
花園公園を北に進み靖国通りに。今は無き厚生年金会館前を東に向かってゆるやかに上る坂の名前、かめわり坂に惹かれたため。由来ははっきりしないが、一説によると、厚生年金会館前に、その昔弁慶橋があった、とか。弁慶とかめわりがどう関係するのかチェックすると、「かめわり」には「お産」を意味する言葉であり、義経と北の方の間に生まれた赤子を弁慶が取り上げた故、とのこと。少々無理がある、かなあ。

正受院
新宿一丁目北交差点の傍に正受院。境内に奪衣婆尊の案内があった。案内によると、「木造で像高70cm。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。あまりの人気に寺社奉行が邪教ではないかと禁止をしたほどの賑わいであった、とか。
本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄14辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる(新宿区教育委員会掲示より)」、とあった。
境内の鐘楼は「平和の鐘」として知られる。江戸の頃、宝永8年(1711)の鋳造された銅製の梵鐘であるが、太平洋戦争に際し、金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊に残っており、昭和37年に返還された。
この寺は毎年2月8日に行われる、針供養でも知られる。脱衣婆像に咳どめを祈願した人が真綿を奉納したことから、裁縫の神様を祀るものとして始まったという。

成覚寺
文禄3年(1594)創建のこの寺は、江戸時代、内藤新宿の宿場の遊女の投げ込み寺として知られる。境内に「子供合埋碑」と呼ぶ遊女を弔う碑が残る。子供とは抱え主の子供、ということで飯盛女(遊女)のことである。案内には、「江戸時代に内藤新宿にいた飯盛女(めしもりおんな)(子供と呼ばれた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で、年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという(新宿区教育委員会)」、と。
内藤新宿において、「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には、上町(新宿3丁目あたり)には、20軒、中町(新宿2丁目)に16軒、下町(新宿1丁目)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候(高松文書)」とあるように多くの飯盛女=実質的遊女がいたわけで、成覚寺に投げ込まれた飯盛女の数は三千余体もあった、と伝わる。
境内にある旭地蔵も内藤新宿での情死者を弔ったお地蔵さま、とか。もとは玉川上水脇にあったものを。この地に移した。入水心中といった情死者を弔う。また、この寺には、江戸後期の浮世絵師・狂歌師・黄表紙作者の恋川春町も眠る。

太宗寺
案内によれば、このお寺様は慶長年間初頭(1596)頃、僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高藤藩の菩提寺として発展。かつての内藤新宿仲町に位置し、「内藤新宿の閻魔」、「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像や奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影を残す、と。
境内を歩く。江戸時代、1668年当時、太宗寺の寺領は、7396坪もあった、と言う。いまよりはるかに大きな寺域であったのだろう。門を入ると右手に2.6mの銅造の地蔵堂が佇む。江戸六地蔵のひとつ。六地蔵の3番目として甲州道中沿いに建立された。六地蔵は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進を集めてつくった。太宗寺以外の六地蔵は、品川区南品川の品川寺、台東区東浅草の東禅寺、豊島区巣鴨の真性寺、江東区白河の霊厳寺、江東区富岡の永代寺にあったが、永代寺は現存していいない。
境内右手に閻魔堂。5メートル余り、木造の閻魔様は、江戸時代の文化11年とされるが大震災で壊れ、昭和8年に作り直された。しょうづかのばば、とは正塚婆のこと。脱衣婆、葬頭河婆とも呼ばれ、閻魔堂左手に安置されている。木造彩色2.4m。明治3年(1870)の作、と言う。脱衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計ったとされる。閻魔堂の脱衣婆も右手に亡者からはぎ取った衣が握られている。脱衣婆、つまりは正塚婆は、衣をはぎ取るところから、内藤新宿の妓楼の商売神として、「しょうづかのばば」として信仰された。
境内左手には不動堂。額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像が安置される。銅造で、像高は194cm。江戸時代の作、とのこと。寺伝によれば、高尾山薬王院に奉納するため甲州道中を運ぶ道筋、休息のため立ち寄った太宗寺境内で動かなくなったため、この地に不動堂を建立し安置したと伝えられる。
本堂脇には切支丹灯籠が残る。昭和27年(1952)、太宗寺境内の内藤家墓地から出土。織部型灯籠の竿部だけではあったようだが、現在は上部笠部も合わし復元している。とはいうものの。切支丹灯籠と織部灯籠の違いがよくわからない。織部灯籠は安土・桃山時代から江戸初期の大名であり茶人である古田織部が好んだ形の灯籠で、基本は庭園の観賞用のものである。織部型灯籠の全体像が十字架、竿部の彫刻がマリア像に似ているとのことで、江戸時代のキリスト教弾圧の時代は、隠れキリスト教徒は織部灯籠をマリア観音と「仮託」し、信仰の対象としたのかとも思うが、内藤家がキリスト教徒にでもなければ、単に観賞用の石灯籠として使っていただけ、ということもありうるのでは、などと妄想する。

内藤新宿
愛染院での高松喜六のメモで書いたように、信州高藤藩内藤家屋敷の一部を幼稚として元禄12年(1699)、この地に宿場が開かれた。この辺りは、以前より内藤宿ともよばれていたので、正式な宿場名としては「内藤新宿」とした。亨保3年(1718)には、風紀上の理由もあり一旦廃止となるも、明和9年(1772)年には再会し、江戸四宿(品川、板橋、千住、新宿)のひとつとして栄えた。
内藤新宿は四谷大木戸の外、場末にあり宿場の遊郭、玉川上水の桜見物、太宗寺の閻魔さま、正受院の脱衣婆像といった流行神へのお参りなどで大いに賑わった、とか。

追分
太宗寺を離れ、成り行きで新宿3丁目交差点に。ここが昔の新宿追分。追分とは街道の分岐点であり、慶長9年(1604)に開いた甲州道中と慶長11年に青梅・成木と繋いだ青梅街道の分岐点となった。追分には一里塚や高札が立っていたとのことである。

天龍寺
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍寺にちなんで改名した。
西郷の局が将軍秀忠の生母となるにおよび、上野の寛永寺が鬼門鎮護の寺となったように、江戸城の裏鬼門鎮護の寺として幕府の手厚い保護を受けた。天和3年(1683)に現在の地に移った。
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」は、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられた。この鐘は天竜寺を菩提寺とした茨城笠間城主・牧野備後守が明和4年(1767)に造らせたもの。東京近郊名所図会には「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報じせり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六で出るとか、市谷の六で出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり」とある。遊客もこの鐘の音を合図に妓楼より「追い出された」のであろう。
牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計も知られる。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、と言う。天竜寺には、かつて渋谷川の源流のひとつでもあった池があった。そのうち、流路を渋谷へとい辿ってみよう。

花園神社
天竜寺から再び靖国通り・新宿5丁目交差点に戻り、花園神社に。毎年家族・親類一同で花園神社の酉の市に参っており、花園神社と言えば、酉の市の本家、などと勝手に思い込んでいたのだが、散歩を重ねるにつれ、足立区花畑の鷲神社がその始まりであるように思えてきた。そして、その賑わいの理由も鷲神社の酉の市のときには当時禁止されていた賭博が許され、それを目当てに足立区の端まで多くの人が足を運んだ、と。が、賭博が禁止されると一転、「信仰」の足が鈍くなり、代わりに近場の浅草竜泉寺、大鷲神社で酉の市が賑わうことになる。賭博の代わりに吉原が登場しただけではある。信仰は「現世利益」と相まって賑わうものであろう、か、などとお酉さまについてあれこれ妄想を巡らせたことがある。
それはともあれ、花園神社は家康の江戸入府以前より祀られていた稲荷の祠がそのはじまり、のよう。場所は現在の伊勢丹の付近にあったものが、その地が寛政時代に旗本・朝倉筑後守の下屋敷とした拝領したため、代地として現在の地に移った。その地は徳川御三家・尾張徳川家の下屋敷の一部であり、美しい花が咲き乱れていた、とか。これを、花園神社の名前の由来とする。
とはいうものの、花園社と呼ばれ記録は享和3年(1803)が初見。それまでは稲荷神社とか、三光院稲荷、とか四谷追分稲荷と呼ばれていたようである。三光院稲荷と呼ばれたのは別当社が三光院であった、から。
明治の神仏分離令のとき、「村社稲荷神社」となる。書類提出時に「花園」を書き漏らしたとのこと。その後大正5年には「花園稲荷神社」と改名。さらに昭和40年には境内末社であった大鳥神社(尾張徳川家に祀られていたもの、と伝わる)を本社に合祀し「花園神社」とした。酉の市との関わりはこの頃からであろう、か。意外に最近のことであった。

常圓寺
そろそろ散歩を終えようと思うのだが、靖国通りに戻り、新宿大ガードをぐくり、新宿警察署前交差点の手前に道脇に大田直次郎こと蜀山人ゆかりの常圓寺がある。前を通ることも多いのだが、一度も境内にはいったことがないので、疲れた足をひきずり訪れることに。広い境内中庭、左奥の植込みの間に「便々館湖鯉鮒狂歌碑」がある。狂歌師である便々館湖鯉鮒(べんねんかんこりふ)の 「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」という狂歌を刻んであるが、これは大田南畝(1749-1823)の筆になるものである、と。便々館湖鯉鮒は牛込山吹町に住む茶人であり、狂歌師である大田南畝と交際していた。
大田南畝ゆかりの地はこのあたりにも多い。新宿十二社・熊野神社の手洗鉢(盥石)の銘文は南畝の手になるもの。「熊野三山 十二叢祠。。。」などと刻まれている。このため、往時の名所である「十二社」の由来は大田南畝による、とも言われる。成子坂を北に下り、十二社通りとの交差するあたりには江戸の頃、南畝との交誼をもつ土方作左右衛門の家があった。盥石の銘文も文政3年(1820)に、南畝が土方作左右衛門宅に立ち寄った際のものと、伝わる。成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸もあった、とのことであるので、このあたりに訪れることも多かったのだろう。
常圓寺の本堂右側にしだれ桜がある。これはもと、小石川伝通院、広尾光林寺のものとならんで 「江戸三木」といわれ、また「江戸百本桜」の一とされたもの。現在に桜は「三代目として、昭和45年に植えられたもの。近くに天明期(1781-1789)の俳人冬暎の「うれしさや命をたねの初さくら」という句を刻んだ碑が残る、とか。寺には幕末に目付、長崎奉行、南町奉行、大目付などを歴任した筒井 政憲が眠る。

常泉寺
常泉寺常圓寺を離れ、お隣の常泉寺にある鬼子母神の祠にお参り。成子の子育て鬼子母神と呼ばれている。子育て、とはいうものの、既に大学生となった息子と娘の健やかな人生をお願いし、新宿駅へと向かい、本日の散歩を終える。それにしても、新宿散歩のメモは結構長くなる。歴史のある、というか記録の残る一帯は、今流行のAC広告機構の台詞ではないが、幾層もの知層が蓄積し、自己の好奇心を満たすには、結果的にメモが長くなってしまう。次回の散歩はあまり知層の多くない、自然の中を歩くことにしよう。


新宿散歩の2回目。市ヶ谷の駅を始点に、市谷の台地を辿り、その昔の大久保村から柏木村(北新宿)へと進み、中野区との境をなす神田川あたりまで進もうと思う。市谷台地とは靖国通りの北、現在防衛省のある市谷本村町周辺一帯の台地を指す。地形図を見るに、住吉町、富久町の辺り、そして市ヶ谷御門の外濠を下った長延寺坂あたりに谷筋が切れ込んでいる。住吉町、富久町辺りの谷筋はその昔、市谷台地の南、現在の靖国通りを流れていた紅葉川に合わさる支流であろうし、また、逆に現在の外苑東通りの道筋を市谷台地の北へと流れ、神田川に注ぐ加二川の谷筋であろう。
谷筋が細かく刻む市谷台地を越えると抜弁天の先辺りから、蟹川(金川)が刻む大きな窪地・大久保に下る。幅200mほどの大窪を辿れば明治通りのあたりで再び淀橋の台地に上り、ルートの最後は神田川の谷筋に向かって北新宿へと下ることになる。
本日は、結構複雑な地形のルートである。凸凹の複雑な地形に残る時=歴史、空=地形、時空散歩が楽しめそうである。

本日のルート;JR市ヶ谷駅>市ヶ谷見附>市ヶ谷亀岡八幡>佐内坂>長延寺坂>浄瑠璃寺坂>浄瑠璃寺の仇討ち跡>鼠坂>中根坂>近藤勇・試衛館跡>焼餅坂>経王寺>常楽寺>法身寺>幸国寺>月桂寺>フジテレビ跡>念仏坂>安養寺>安養寺坂>長井荷風旧居跡>台町坂>西迎寺>全勝寺>新坂>善慶寺>成女学園_小泉八雲旧居跡>自証院>禿坂>西光庵>西向天神>大聖院>専念寺>専福寺>法養寺>抜弁天>大久保の犬御用屋敷>永福寺>九左衛門坂>島崎藤村の旧居跡>鬼王稲荷>小泉八雲終焉の地>コリアンタウン>皆中稲荷>鎧神社>円照寺>蜀江園跡地>内村鑑三終焉の地>蜀江坂>成子天神

JR市ヶ谷駅
JR市ヶ谷駅で下車。住所は千代田区五番町。市ヶ谷駅が五番町にあったり、法政大学市谷キャンパスが外濠の南の土手堤の上にあったりするので、市谷って、この駅の辺り、かとも思っていたのだが、実際は上でメモしたように、防衛省のある外濠北の台地であった。江戸の頃、市ヶ谷駅のあたりには通称江戸城36見附(実際は50とも90とも)のひとつ市ヶ谷見附があった。市ヶ谷見附は寛永13年、美作津山藩主・森長継が築造したもの。桜の御門とも呼ばれ、楓(カエデ)の御門と呼ばれた牛込見附門とは春秋一対の御門であった。
御門は枡形。門(高麗門)をくぐると、直角に曲り、もう一つの門(櫓門)をくぐるという防御を重視した構造である。明治4年(1871)に道路拡張に伴い撤去されたが、形が烏帽子(えぼし)に似た巨大な「烏帽子石」は撤去時に日比谷公園に移設されて、現在に至る。

外濠
外濠に架かる市ヶ谷橋、と言うか土堤を渡る。江戸の町普請は家康入府した天正18年(1590)よりはじまるが、家康入府当初は江戸城の普請や日比谷の入り江の埋め立など、すべては家康家臣の普請ではあった。その江戸の築城・町普請も慶長8年(1604)、家康が豊臣家を倒し天下を握っての以降は、全国の大名を動員した「天下普請」となる。
数度に及ぶ天下普請の中で、この外濠工事は第五期の事業。寛永13年(1636)、三代将軍家光の命により、外濠石垣普請は西国61の大名に、濠の開削は東国52の大名が分担して工事を開始。この外濠工事は江戸城の総構えを締めくくるものであり、江戸城の西側、今回散歩の対象あたりとしては、牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂の見附御門の石垣、牛込~赤坂間の濠の開削が行われている。牛込~赤坂間の濠の開削は、石垣の完成を待って伊達政宗を初めとする52家が、7組に分かれて開始した。
橋から外濠の東西を見やる。橋の東の牛込から市ヶ谷あたりまでは往昔、紅葉川の流れる自然の谷筋であり、その湿地を開削するわけで、それほどのこともないと思うのだが、西に見える市ヶ谷の谷筋から四谷の麹町台地尾根道を穿ち、赤坂へと開削する外濠工事はさぞや大変であったろうと思う。実際に、濠の開削は予想を超える難工事であったようで、各大名は開始早々に国元へ人夫増員を指示した、とか。

市谷亀岡八幡
外堀通を少し西に折れ市谷八幡町交差点に。通りを少し入ったところに市谷亀岡八幡がある。男坂と呼ぶ急な石段途中の金比羅様や茶ノ木稲荷にお参りし、上り切ったところの銅造りの鳥居を潜り境内に。鳥居のそばには幕府公認の『時の鐘』があった、とか。上野寛永寺の鐘、新宿の天竜寺の鐘とともに、江戸三代名鐘のひとつ。ちなみに、天龍寺では、実際の時刻より少し早めに鐘を撞いた、と言う。お城へも距離があり、悪所での名残を早めに済ませ、登城遅参相成らず、との老婆心、か。

神社の創建は文明11年(1479)、鎌倉の鶴岡八幡を勧請。鶴岡八幡への一対でもあろうか、亀岡八幡宮とした。もともとの創建の地は千代田区の番町であったが、徳川幕府の時代となり、大がかりな城普請の結果、番町が武家屋敷となるにおよび、現在の地に移る。この地には元々、茶ノ木稲荷神社という社がり、その境内に遷座したとのことである。
茶ノ木稲荷は弘法大師の縁起も伝わる古い社であり、鎌倉時代、市谷氏が所領し市買村と呼ばれたこの地の鎮守であった、とも。茶ノ木稲荷には、神の使いである白狐が、あやまって茶の木で目を痛め、以来稲荷社を崇敬するものは正月の三が日は茶を飲むのを控えた、との話が伝わる。茶ノ木八幡は眼病の人には霊験があらたか、とのことであるが、如何なるロジックで災いのもとであった茶の木が、福の神となったのだろう、か。
境内を歩くと、出世稲荷という、如何にも有り難そうな稲荷の祠もある。今でこそ静かな境内であるが江戸の頃は、芝居小屋や茶屋が並んだ賑やかな場であった、と。

佐内坂
八幡様を離れて次の目的地である「浄瑠璃坂の仇討ち跡」に向かう。外濠通りから市谷の台地には幾多の坂が上る。市谷見附交差点からすぐに北に上る急坂は左内坂。江戸の頃、この地を開墾した名主である島田左内の名をとったもの。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗った。

長延寺坂
左内坂の隣に長延寺坂。左内坂と比べては、穏やかな坂である。往昔、長延寺(明治末に杉並区和田に移転)が台地上にあったのが坂の名の由来。現在このあたりの地名は長延寺町と呼ばれるが、明治13年の陸地測量部の地図を見ると、長延寺谷町とあった。実際、慶長の頃までは長延寺坂の谷筋には大きな沼があったようである。
長延寺坂を上り、現在では大日本印刷の工場のある、往昔の長延寺谷町あたりを通ることも多いのだが、台地の中程に窪地があり、如何にも大沼の面影を残す。大沼と言われただけあって、谷幅は100mほどあるかと思う。この長延寺谷を堀った土は九段、麹町、番町の土手の土塁とした、とのことである。

この長延寺谷は市谷の地名の由来との説がある。改撰江戸史によると、このあたりには四つの谷があり、市谷はその「一の谷」から名づいたもので、その「一の谷」とは長延寺谷、別称市ケ谷と称する大きな谷を指すとも言う。長延寺谷が大きく、またその土が九段、麹町、番町の土塁となり、江戸のお城の総構に大きく貢献したとのことであれば、この長延寺谷をもって市谷の地名とするのが自分としては心地、よい。そのほか、市谷の地名由来としては、鎌倉時代末の古文書にある市谷氏(孫四郎)がその由来との説、毎月六回開かれた六斎日(ろくさいじつ)から、市買であるという説など、例によって諸説あり、定まること無し。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)



砂土原町
長延寺坂を成り行きで右に折れ、浄瑠璃坂に向かう。このあたりは現在市谷砂土原町と呼ばれる。江戸時代、ここに家康の名参謀・本多佐渡守正信の別邸があったのが、その由来。その後、本多屋敷跡の土を利用し、外濠沿いの市谷田町あたりの低湿地を埋め立てたため、土(砂土)取場と呼ばれるようになり、後に砂土原と転化したとのことである。田町には岡場所もあった、とか。

くらやみ坂・闇坂
砂土原1丁目と2丁目の境の浄瑠璃坂を上る。坂道の名前の由来は、その昔この坂で「あやつり浄瑠璃」の興業があったから、とか、近くの光円寺のご本尊である薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため、など例によってあれこれ。
浄瑠璃坂の仇討ち跡へと坂を上る途中に「くらやみ坂・闇坂」があった。市谷砂土原町1丁目と市谷鷹匠町の境を長延寺谷へと向かう坂。樹木が多く薄暗かったのが名前の由来。そのほか、付近にゴミ捨て場があったので、「ごみ坂」とも。往昔、ごみは湿地帯埋め立ての重要な「資源」のひとつである。その坂は先に進むと大日本印刷の工場を横切る歩道橋となっている。

浄瑠璃坂の仇討ち跡
浄瑠璃坂を上り切り左に折れ少し進むと、道脇に江戸三代仇討ちのひとつとして有名な「浄瑠璃坂の仇討ち跡」の案内板が、いかにも普通の街角、大日本印刷の社宅の塀の前に立っていた。この辺りは市谷鷹匠町。鷹匠頭・戸田七之助の屋敷が仇討ちの舞台となったという。
仇討ち事件の発端は寛文8年(1668)、宇都宮藩主・奥平忠昌の法要の席での重臣同士の刃傷事件。重臣の一方である奥平隼人の侮辱発言に、その相手であるこれも重臣・奥平内蔵允が立腹し抜刀するも、思いは果たせず、奥平内蔵允は当日自刃して果てる。この刃傷事件の裁定は奥平隼人が改易、他方の奥平内蔵允の遺児・源八が家禄没収の上追放と決定。が、しかし、この処置が喧嘩両成敗にあらず、と奥平内蔵允の遺児・源八が奥平隼人一統を仇として追い求めることになる。
寛文9年(1669)には、隼人の実弟・奥平主馬允を出羽の国で討ち取る(奥平主馬允は改易されず、奥平家の転封先出羽国に移っていた)。そして寛文12年(1672)、この地の鷹匠頭宅に保護を求めていた隼人を討ち果たすべく、同士42名とともに討ち入った。が、隼人は不在。隼人の父を討ち果たし屋敷を引き上げたところ、事件を聞き及んだ隼人が手勢を率いて一党に向かい牛込御門で戦いとなり、結果隼人が討ち取られる。同士が42名もいた、ということは事件処理が不公平であると憤慨する家臣が多くいた、ということであろう、か。事件後、源八ら一党は幕府に出頭し裁きを受ける。当時の大老・井伊直澄は源八らに穏便であり、死罪を免じ伊豆大島への流罪の沙汰を下す。そしてその6年後には千姫13回忌法要による恩赦を受け、井伊家に召し抱えられた。

この事件は寛永11年(1634)、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った、「鍵屋の辻の決闘」、そして元禄15年(1703)の「赤穂浪士の討ち入り」とともに「江戸三大仇討ち」として知られる。「鍵屋の辻の決闘」は『天下騒乱;鍵屋ノ辻(池宮彰一郎)』に詳しい。また、世に浄瑠璃坂の仇討ちでの幕府の穏便な沙汰が赤穂事件の討ち入り決断の大きな要因でもあった、との説がある。その当否はわからないが、事件の発端となった奥平忠昌の妻女は鳥居忠政(関ヶ原の役のとき、伏見城を死守した鳥居彦衛門の)の娘。その鳥居忠政の弟である忠勝の娘が嫁いだ先が赤穂の大石良欽。大石良雄はその孫。幼い良雄は祖母から実家の仇討ち話を聞かされて育った、かも。単なる妄想。根拠なし。

鼠坂
浄瑠璃坂の仇討ち跡を先に進み、左に折れ鼠坂を下る。往昔、狭くて細く、鼠が通れるほどの坂であったことが、その名の由来。現在は幅も拡げ市谷鷹匠町と納戸町の境を長延寺谷に下る。納戸町は納戸役同心の組屋敷があった、から。納戸役とは将軍家の金銀・衣服・調度品・諸大名からの献上品、諸役人への下賜品の管理を司る役職。納戸町は牛込・天龍寺が内藤新宿に移った跡地である。

中根坂
鼠坂を下り、大日本印刷の工場群の真ん中に出る。坂を降りきったところ、北は牛込三中角交差点、南は市谷左内町へと続く道筋は中央部が凹地形となっており、北から中央に下る部分を中根坂、中央から南に上る部分を安藤坂と呼ぶ。安藤坂の由来は安藤弘三郎から。中根坂は旗本・中根家の屋敷に由来する。安藤弘三郎のことはよくわからない。
一方、中根家は幕末に歴史上に登場する。中根市之丞がその主人公。文久3年(1863)、長州藩による関門海峡外国船砲撃事件の詰問使として幕府の軍艦・朝陽に乗船し長州に赴くも、長州軍の砲撃の後、奇兵隊の襲撃を受け下船。その後詰問使一行は宿舎にて襲撃に遭い数名が死亡。難を逃れ船に戻った市之丞も最後には暗殺されてしまった。った、と言う。長州には自ら請うて赴任。武芸に長じ、気概をもち、6000石の禄を有する名門28歳の青年旗本であった、とか。

市谷加賀町
中根坂を上り、市谷三中交差点左に折れる。この辺りの市谷加賀町は、江戸時代に金沢・加賀藩前田光高の夫人の屋敷があったことに由来する。夫人は水戸黄門頼房の娘であり、三代将軍家光の養女として前田家に嫁ぐも、30歳の若さで亡くなったため、加賀屋敷跡はみな武家地となった、とか。
先に進むと、立派な長屋門のもつお屋敷がある。門の両側が長屋となり家臣や下男が住まいした。幕末は御典医のお屋敷であった、とか。なお、この屋敷には中国革命の父と称される孫文が日本に亡命したとき、一時隠れ住んでいた、との話が伝わる。神楽坂の筑土八幡界隈にも、孫文が隠れ住んだと伝わる屋敷もあるようだ。

誠衛館跡
外苑東通りの一筋手前の道を大久保通り・焼餅坂へと向かう。北に向かう小径は市谷柳町と市谷甲良町の境といったところである。と、道脇に史跡案内。「誠衛館跡」とある。案内文には;「幕末に新撰組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市谷甲良屋敷内(現市谷柳町25番)のこのあたりにありました。この道場で、後に新撰組の主力となる土方歳三、沖田総三などが剣術の腕を磨いていました」、と。

近藤勇は天然理心流の遣い手。その創始は近藤内蔵助による。遠江国より江戸に出て、寛政年間(18世紀末)、両国薬研堀に道場を開いた。二代は近藤三助。江戸に道場を開いた天然理心流が、何故多摩で盛んになったのか、少々疑問に思っていたのだが、最近読んだ時代小説(『算盤侍影御用 婿殿開眼;牧秀彦(双葉文庫)』)に、「天然理心流は、当時江戸御府内では士分以外の武芸修練が禁じられ、それではと、取り締まりの及ばない御府内外の村々を訪れ、地元の名主などが用意する道場で出稽古を積極的におこなった」、といった記述があった。天然理心流が多摩の農村部で裕福な農民層を中心に盛んとなった理由がなんとなくわかった気がする。
近藤周助が天然理心流の三代目を継いだのが天保元年(1830)。この市谷甲良屋敷に移ったのは天保10年(1839)のことである。市谷甲良屋敷とは、大棟梁甲良氏が幕府から拝領した土地故の地名。拝領地を町屋として賃貸した一角に、近藤周助の身元保証人の山田屋権兵衛所有の敷地があり、その蔵の裏手に道場を移したようだ。最近古本屋で買った『幕末奇談;子母澤寛(桃源社)』に、近藤周助は一代に女房9人、愛妾4目。隠居宅には妻と愛妾3名が同居し、酒乱も甚だしきなり、と。

その三代目近藤周助が宮川勝五郎こと近藤勇を養子に迎え(当初周助の実家である嶋崎。後に近藤)、四代目として代を譲ったのは文久元年(1861)のこと。その後文久3年(1863)年には浪士隊を組織して京へ出立しており、近藤勇が道場主として教えたのは3年程度。勇が上洛の後は、佐藤彦五郎と幕臣寺尾安次郎が留守を預かり、慶応3(1867)年まで存続した。現在では、石積道の奥にはささやかな稲荷の祠があるも、民家が建ち並び往昔の面影はなにも、ない。ちなみに、この試衛館という名称は、明治に小島某が明治6年刊の『両雄士伝』の中で、「構場(号試衛)江都市谷柳街...」と注を入れた資料が唯一であり、江戸の頃に試衛館として道場名が出ることはないようではある。

多摩を歩くと天然理心流のゆかりの地に出合うことも多い。八王子戸吹町の桂福寺には天然理心流初代・内蔵助と二代目の近藤三助が眠っていた。町田の小野路で出合った名主・小島家当主・小島鹿之助は近藤周助の門人として、屋敷内に道場ももっていた。日野宿で出合った名主・佐藤彦五郎も天然理心流の門人であり、近藤勇との交誼だけでなく土方歳三の姉と縁を結ぶなど新撰組との結びつきも深め、鳥羽伏見の戦いで破れ、甲州鎮撫隊として甲州に向かう新撰組を助け、また、自らも義勇軍・春日隊を率いて幕軍を助けた。とまれ、小島家・佐藤家は天然理心流の多摩での拠点であり、近藤勇も周助の門人として小島鹿之助と佐藤彦五郎深い交誼を続け、義兄弟の契りを交わしている。

焼餅坂
先に進み大久保通りに突き当たると、外苑東通り・市谷柳橋交差点に下る焼餅坂にでる。赤根坂が本来の名前とのことだが、江戸から明治にかけて焼餅を売る店があったため、焼餅坂と呼ばれるようになった。現在でも結構急坂ではあるが、これでも明治に道路改修をおこない、勾配を緩やかにしたとのことである。
市谷柳町交差点は焼餅坂が下り、交差点を境に再び上りに転じる窪地となっている、川田ヶ窪町とも呼ばれていた。柳町となったのは往昔、外苑東通りを流れていた加二川にそって柳があったのだろう、か。いまは、その面影は、ない。

常楽寺
大久保通りを一筋南へ離れ、常楽寺へと向かう。剣豪浅利又七郎が眠る、と言う。が、構えはビルというか、マンションというか、あまりにモダンなアプローチでもあり、少々立ち入るのが憚れる雰囲気でもあるので、即撤退。

経王寺
大久保通りに戻り、西に少し進むと道脇に大黒天の案内。もとは市谷田町で開基。振り袖火事はじめ多くの火災に見舞われるも福の神の大黒様は焼けずに残り、「火伏せの大黒天」として庶民の信仰を集め、現在も山の手七福神のひとつとして信仰を集める。ちなみに、山の手七副神とは善国寺・毘沙門天(神楽坂)、経王寺・大黒天(原町)、厳島神社・弁財天(余丁町・西向天神社)、永福寺・福禄寿(新宿)、法善寺・布袋(新宿)、鬼王神社・恵比寿様(新宿)、である。

 

幸国寺
日蓮宗小湊の誕生寺の末寺。開山は戦国武将・加藤清正と伝わる。山門は明治維新時に譲り受けた田安家の屋敷門。本堂の日蓮上人像(木像)は古くから「布引きの御影」として知られる。房総半島で疫病が流行り、鎌倉にいた日蓮上人に救いを求める。上人は仏師に我が身に似せた像を彫らせ、南無妙法蓮華経という題目を書いた白布を懸け、房総の地に送ると疫病退散。像は誕生寺に安置されていたが、寛永7年幸国寺に移された。堀の内妙法寺、谷中瑞輪寺の両祖師とともに江戸の三高祖の一つとして知られる。

 

 

法身寺
臨済宗のこのお寺は、江戸時代青梅にあった普化宗鈴法寺の江戸番所の菩提寺もあった。鈴法寺では、虚無僧の弔いをしないため、ここ法身寺が菩提寺となっていた。「鉄道唱歌」の作詞者として有名な、詩人大和田建樹(1857~1910)が眠る。


外苑東通り
寺を離れ大久保通を南に越え、成城学園脇を成り行きで南に下り月桂寺に向かう。市谷柳町交差点から南に続く外苑東通りの市谷柳町、市谷薬王寺町のあたりは、神田川の谷から南に延び牛込台地を開析する浅い支谷の谷頭部。新宿散歩その壱でメモした加二川の源頭部である。現在は外苑東通りとして切り開かれた谷筋は崖面が続き、比高差5m弱ともなっている。谷筋に沿っていくつもの寺が並ぶが、地名となった薬王寺は廃寺となり、町名に名を残す、のみ。

月桂寺
道なりに進み月桂寺に。鎌倉円覚寺末寺で関東十刹のひとつ。豊臣秀吉の側室・嶋女の法名である月桂院が寺名の由来。嶋女は足利氏古河公方の分家、小弓公方・喜連川(きつれがわ)家の姫君。塩谷家に嫁ぐも、秀吉小田原征伐の折り、旦那は逃亡。残された嶋女は秀吉の側室となる。嶋女への秀吉の寵愛並々ならず、嶋女に喜連川3800石の化粧料(所領)を与え、嶋女はこの所領を弟に継がせ、喜連川藩5000石として江戸時代へと続く。嶋女は秀吉に侍した後、家康に召され、振姫付老女として会津にも赴いている。また、元禄年間には柳沢吉保もこの寺の檀家となっている。
境内は一般公開していないようであったので入らなかったが、境内には切支丹燈籠といわれる織部燈篭がある、という。切支丹燈籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタン信者がひそかに礼拝したもので、十字架を変形しており、下部にはキリスト像のカモフラージュが刻まれている、とか。

河田町
月桂寺を離れ、東西に走る道路に出ると、目の前が大きく開ける。大きなスーパーやマンションが広い空間に建つ。ここはフジテレビの本社があった。往昔は尾張徳川家の抱屋敷跡があった。河田町(旧市谷河田町)、と言えば、とのフジテレビも今はお台場に移った。
河田町はその昔、牛込村川田窪と呼ばれていた。川の傍らの窪地、浅い湿地帯に田圃があったのだろう。地形から見るに、牛込台地と麹町台地を穿ち市谷へと流れる紅葉川への支流が流れ下っていたの、かも。市谷河田町となったのは明治5年。尾張藩抱屋敷の一部、小倉小笠原藩下屋敷跡などを合わせて成立した。

市谷仲野町
元のフジテレビ敷地東端、河田町と市谷仲野町の境の道を南に下る。仲野町の名前の由来は、河田町と、外苑東通りの東、現在防衛省のある市谷本村町にあった尾張藩徳川家上屋敷の間にあった、から。

念仏坂
成り行きで進むと民家の軒下を下る石段。念仏坂とある。『新撰東京名所図会』によれば、昔、近くに住む老僧念仏を唱えていたから、とか、両側が切り立った崖場であり、危難避けに念仏を唱えたから、とか諸説ある。地元では「念仏だんだん(段々)」と呼ばれていた、と。永井荷風がこの坂を、「どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまはないやうにと私はひそかに念じてゐる。(岩波版『全集』11巻より)」、と描く。坂を上りきった余丁町に永井荷風旧居跡がある。自宅への往来にこの坂を上り、気に入っていたのだろう。

住吉町
石段を降りきると商店街に出る。この商店街は、江戸の頃には安養寺の門前町。江戸中期には岡場所もあった、とか。現在の地名は住吉町ではあるが、当時の地名は市ヶ谷谷町。牛込台地と麹町台地に挟まれ、幾多の坂道が合流する、如何にもの名称である。住吉町としたのは地名を変えるに際し、よく使われる地名。最近では清瀬散歩の折、旧地名を「縁起のいい」住吉という地名するに際し、すったもんだの経緯にも出合った。旧名への想いは強いのではあろう。商店街の脇道を入り安養寺に。浄土宗知恩院末寺。もとは市谷左内町富士見坂のあたりに開かれたが、その地が尾張藩邸となり、現在地に移ったという。

市谷台町
お参りをすませ、先を急ぐ。商店街を少し北に進むと左に上る坂。安養寺坂と呼ぶ。『新編東京名所図会』には 「安養寺坂は念仏坂の少しく北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。 傍らに安養寺あるに因めり」、と。坂を上り先に進む。このあたりは市谷台町と呼ばれる。大正11年、市谷谷町から分かれて地名を成した。谷町ではなく、台地上であるとの表明であろう、か。道なりに進むと大きな通りに出る。道を新宿方面へ進めば余丁町から抜弁天へと進む。この道筋の少し先に永井荷風旧居跡がある。

永井荷風旧居跡
道を右に折れ余丁町14-3にあると謂う、荷風旧居跡を探す。案内もあるとのことだが、結局見付けられなかった。荷風はこの地にあった父親の屋敷に、フラランスから帰国した明治41年から大正7年まで暮らした。敷地は広く500坪以上もあった、とか。
大通りから小径に入ると郵政省の官舎が建っているが、このあたり一帯が屋敷であったのだろう。昭和天皇の侍従長で名エッセイストでもある入江相政の『余丁町停留所』に、「・・・牛込余丁町に落ちついた。いまは新宿区余丁町、大正七年のこと。亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった」、とある。ということは、500坪以上と言うか、1000坪近くあったのかもしれない。
父の命にて実業家をめざし欧米へ留学するも、帰国後はその意に背き慶応大学で教鞭をとるかたわら創作活動に励んだ。邸内に『断腸亭』と呼ぶ離れを建てる。荷風と言えば、『断腸亭日記』というほど有名な名前であるが、その心は、荷風が腸を病みがちであった、ことによる。随筆「断腸亭雑藁」(大正7年刊)の中で、「我家は山の手のはずれ、三月、春泥容易に乾かず、五月、早くも蚊に襲われ、市ヶ谷のラッパは入相の鐘の余韻を乱し、従来の軍馬は門前の草を食み、塀を蹴破る。昔は貧乏御家人の跋扈せし処、もとより何の風情あらんや。」と、当時の屋敷周辺を描く。
それにしても荷風の旧居には見付けるのに苦労する。市川でも結構彷徨ったのだが、結局見つからなかった。余丁町の名前の由来は、江戸の頃、御旗組屋敷の横町・路地が四筋あり、大久保四丁町として使われていたが、四=死は縁起が悪いと余丁とした、とある。

靖国通り・住吉町交差点
荷風旧居跡を離れ台町坂方面に戻る。文学者つながり、というわけではないのだが、靖国通り沿いに小泉八雲旧居跡がある、というので戻ることにした。靖国通り・住吉町交差点にむかって下る台町坂を下る。台町坂と呼ばれるこの坂は道路整備と拡張されたのだろう、江戸の坂といった趣は、ない。
靖国通り・住吉町交差点に下り、地図を見ると、牛込台地と逆側、甲州街道の尾根道が通る台地側にもいくつかのお寺様が見受けられる。小泉八雲旧邸に行く道すがら、道の両側のお寺様にお参りをすることに。

西迎寺
交差点を渡り西迎寺に。このお寺さまは、延徳2年(1490)、太田道灌の菩提をとむらうため、江戸城紅葉山に西迎法師が開いた西光院がそのはじまり。歴史は古いが本堂はちょっとモダン。

全勝寺
西迎寺を離れ、坂を上り外苑東通りに面したところに全勝寺。江戸中期の兵学者・尊皇論者として知られる山県大弐が眠る。宝歴8年(1758)『柳子新論』を著し、尊王論と幕政批判を説き、ために、明和3年(1766)捕縛され、翌年没した。門下生に苫田松陰などが出たため、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになった。
山県大弐に散歩で最初に出合ったのは墨田区立花の吾嬬神社。そこに山県大弐により建立された「吾嬬の森」の碑があった。吾嬬の森は江戸を代表する社の森として「江戸名所図会」などに紹介されている。碑の内容は、日本武尊の東征の折、走水の海域(横須賀から千葉への東京湾)にて突如暴風雨。尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれている。
このお寺さまには明治の頃、四谷鮫河谷のスラムに集まった子供の教育のための三銭学校の教場として使われたこともある、と言う。授業料が三銭であったのが、名前の由来。

善慶寺
全勝寺を離れ、外苑東通りの一筋西の坂を靖国通に下る。「新坂」と呼ばれるこの坂は明治になってできたもの。新坂を下りきり、住吉町交差点辺りのお寺さまへの立ち寄りはこの程度にして、靖国通りを西に向かう。
道の北、崖の上に善慶寺。平秩東作が眠る、とのことであるので、靖国通と平行した坂を上る。が、なんとなく境内に入るのを憚られる雰囲気であったので、即撤退。平秩東作(へづつとうさく)は江戸の戯作者。平賀源内、大田南畝とも親交があり、江戸戯作の草分け的存在である。「世の中の人とたばこのよしあしは けむりとなりて後にこそ知れ」は平秩東作の作。


小泉八雲の碑
靖国通り脇、明治32年創立の成女学園校門の脇に小泉八雲の碑。この地が小泉八雲の東京での最初の住居であった。明治23年(1890)、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンはアメリカの出版社特派員として来日。来日後、その契約をすぐに破棄し、島根県松江中学校、そして熊本の第五中学校で教鞭をとる。日本人セツと結婚し、明治29年(1896)に日本に帰化し小泉八雲と名乗り、同年9月には東京帝国大学文学部の講師として招かれ上京、この地に住んだ。

富久町交差点
成女学園の先の富久町交差点あたりは靖国通りを流れていた紅葉川の谷頭部だろうか。交差点からは幾条もの坂が台地に向かう。靖国通りも安保坂となって新宿・淀橋台地に向かって上る。富久町の台地を刻む谷は、現在の靖国通りを流れていた紅葉川渓谷の中で最大のものと言われ、四谷の一谷をなすものと、考えられている。カシミール3Dでつくった地形図をみると、新宿御苑あたりから富久町交差点の先を通り、北に若松町の先まで、標高30m強の細長い支尾根が延びており、このあたりでの最高標高点となっている。
安保坂を先に進めば新宿の繁華街。左の坂を上れば大木戸坂下交差点をへて四谷四丁目・四谷大木戸跡に続く。安保坂の地名の由来は、男爵安保清種海軍大将の屋敷から。


自証院
成女学園の東を上ると自証院。現在の自証院はつつましやかな寺域ではあるが、「江戸名所図会」を見ると、靖国通りから段坂の長い参道が続き、広い境内に総門、中門、本堂、方丈、庫裡が描かれている。
もとは牛込榎町にあった日蓮宗・法常寺をその起源とするが、寛永17年(1640)、三代将軍家光の側室であるお振の方(法名;自証院)をまつり、家光の命によりこの地に移る。法常寺は京の妙覚寺の日奥を開祖とする、日蓮宗不受不施派のお寺様。不受不施とは、日蓮宗以外の者から施しを受けず(不受)、また日蓮宗以外の僧侶に施しをしない(不施)というものであり、封建制度の為政者にとっては厄介なものであり幕府により禁制となったため、元文年間、というから18世紀の前半にこの寺は天台宗に改宗した。
「江戸名所図会」には『昔は山林に桜多かりし由、諸書に見えたれども、多くは枯れ失せて今わずかに古木二三株存せるのみ。』とある。「江戸名所図会」描かれた天保5年(1834)~7年には、樹木も枯れ失せた、とのことではあるが、小泉八雲は、老杉が鬱蒼と生い茂り、苔むした庭をこの自証院の風致を好んだとのことであるので、明治の頃まではそれ相応の自然の美を保っていたのであろう。瘤寺(こぶてら)とも呼ばれるように、皮を剥いただけで、樹木の節がそのままの檜丸太を集めて組み立てられた建物も気に入っていたようである。
寺が経済的理由で杉を切り倒すのを嘆き、「なぜこの木切りました。私、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るなとあなた頼み下され」(小泉節子「思い出の記」)とセツに懇願した、とも。この杉の木伐採事件がきっかけとなり、明治35年(1902)西大久保に転居したとも言われる。八雲の葬儀は自証院で親しくしていた旧住職の元で行われた。小金井公園にはお振の方の「旧自証院御霊屋(おたまや)」が移された。日光東照宮の如き黒漆塗りの極彩色の建物である。

禿坂
自証院を離れて富久町を成り行きで彷徨う。名前の由来は、「久しく富む」といった願い、から。先に進むと禿坂に。その昔、自証院横に小さな池があり、水遊びに来る童の髪型が禿のように、おかっぱを短く切りそろえていたから、と。
禿坂を進み、成り行きで右に折れ小径に入る。このあたり、市谷台町から富久町の小石川工高跡にかけて、その昔、といっても明治から昭和にかけて、ではあるが、市谷監獄があった。明治8年に日本橋伝馬町にあった牢屋敷をここに移し、市谷監獄としたが、昭和12年に廃止された。
刑務所正門は町を東西に通る台町坂にあった、とか。荷風の旧居にも近く、欧州留学に旅立つときは影も形もなかったものが、帰国後に屋敷前面に聳え立つ獄舎を見て『監獄署の裏』を書いた。大逆事件で知られる幸徳秋水もここで処刑された。荷風の『花火』の中には大逆事件についてのコメントもある。そのほか、明治45年には北原白秋が姦通罪で収監されている。お隣の婦人に横恋慕しての罪。示談にはなったようだ。明治の毒婦高橋お伝もここで執行された。明治12年、日本で最後の斬首刑であった。


西光庵
禿坂を進み東京医科大の塀に沿って道なりに進み西光庵に。落ち着いたいい雰囲気のお寺様。尾張藩14代主徳川慶勝と、その子で戊辰戦争の折に官軍として東海道先鋒をつとめた義宣が眠る。慶勝は長州征伐の際の総督。尾張藩の支藩である美濃高須藩主松平義建の次男であり、兄弟には会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、15代尾張藩主徳川茂徳とともに、名君・高須四兄弟として知られる。

西向天神
西光庵を離れ、そのすぐ北にある西向天神に向かう。崖面上の境内に佇む社は古く、安貞年間、というから、13世紀前半、鎌倉時代に京都栂尾の明恵上人が祀ったもの、と伝わる。その後、豊島氏、牛込氏、大田道灌といった、時代の覇者の尊崇・庇護を受けるも、16世紀後半の天正年間には兵火により焼失。その後、江戸時代の前期、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った時、大僧都元信に命じ社殿を再建。

境内にある大聖院は往時の西向天神の別当寺。寛正年間(1460~1465)に牛込八郎重次(あるいは重行か)による創建、と伝わるが、江戸の頃は聖護院宮を開基とする門跡寺院となり、本山修験派の江戸の拠点となっていた。
この社は「棗(なつめ)の天神」とも呼ばれた。三代将軍家光も鷹狩りで訪れ、社殿の修理にと棗(なつめ)の茶器を下されたのが、その由来。境内には「紅皿の碑」が建つ。紅皿とは、太田道灌の山吹の里伝説、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」を詠った女性の名前である。己の教養の足らざるを恥じた道灌は、その後紅皿を城に招き、歌の共にした、とのことである。山吹の里伝説は散歩の折々に出合う。道灌人気のバロメーター、か。

大窪
「江戸名所図会」にはこの西向天神は「大窪天満宮」とある。「江戸名所図会」には神社の下に小川が描かれている。これが江戸の頃の蟹川(金川)の流れであろう。西武新宿駅付近にあった池を水源とし、新宿ゴールデン街の北と太宗寺の池から水を集め、戸山ハイツから早稲田鶴巻町へと下る。この川が開析した谷地が大きな窪地となっていたため大窪と呼ばれたのだろう。大久保もこの大窪から、との説もある。カシミール3Dで地形をチェックすると、誠に大きな窪地が見て取れる。蟹川に沿って鎌倉街道が通っていた、とも。
この台地端からの景観を大町桂月は「新宿附近唯一の眺望よき処也(『東京遊行記;明治39年』)」、永井荷風は「タ日の美しきを見るがために人の知る所となった(『日和下駄;大正4年』)、と描く。

法善寺
一度天神前の蟹川の谷筋に下り、再び坂を上り台地上の都道302号・抜弁天交差点に。交差点の周囲には専念寺や専福寺、法善寺などのお寺さまが集まる。専福寺は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年が眠る。
法善寺は「江戸名所図会」に七面大明神社とも、大久保七面宮として描かれている。七面明神とは日蓮宗の守護神の一つであり、七面天女、七面大菩薩ともいう。日蓮宗の総本山である身延山の北にある七面山に住む天女であるが、日蓮上人の説法により救われたことを徳とし、龍に姿を変えて身延山を守護した、と。江戸にいくつかある七面明神の中で最初に祀られたものである。
「江戸名所図会」には奥に七面明神、手前に法善寺本堂が描かれている。法善寺は、もとは大森にあったとされるが、鳥取藩主池田伯耆守綱清の依頼により、身延山久遠寺から七面明神像をこの地に移し、七面堂を建てて安置。その後大森から法善寺が移ってきた、との説もある。


抜弁天
抜弁天交差点脇に抜弁天厳島神社のささやかな祠。第二次世界大戦の戦災により水鉢を残す、のみ。抜弁天の由来は奥州征伐に向かった八幡太郎義家が戦勝を祈願して厳島神社の弁天様を勧請したことよる。抜弁天と呼ばれるのは義家が苦戦を切り抜けたから、とか、往還が集まり、どちらにも通り抜けできたから、とか説はあれこれ。江戸の頃には江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)、山之手七福神として人々の信仰を集めた。

散歩をすると八幡太郎義家ゆかりの地に出合うことも多い。最初は「またか」、などと、少々うんざりしていたのだが、足立を散歩したとき、義家も含め奥州征伐へ向かう源氏の棟梁のゆかりの地を繋ぐと、奥州古道の道筋になっていた。伝説も見方を変えると別の情報源として意味あるものになる。この抜弁天も西向天神下の谷筋を鎌倉街道が通っていたとの説がある。義家が登場するのであれば、鎌倉街道かどうかは別にして、往昔の往還があったことは、それほど違和感は、ない。
それはそれとして弁天様って、水の神様。だいたい、どこの弁天様も湧水池がある。で、この抜弁天であるが、昔は湧水があった、と伝わる。地形図を見ると、新宿御苑のあたりからこの抜弁天、そしてその北の若松町、最北端は国立国際医療センターあたりまで標高30m強の尾根筋が続く。その尾根筋の水がこのあたりで湧き出たのであろう、か。
そういえば、この抜弁天のすぐ北に大久保の犬小屋跡があった。「生類憐みの令」で江戸市中から集めた数万匹の犬を「大切」に飼うには大量の水が必要だろうし、そのためには、この台地上では湧水地がなければ犬小屋など設置できやしない。ということは、このあたりには湧水点があったに違いない、とのロジックにて抜弁天に湧水あり、と我流妄想で、一応問題解決としておく。真偽の程定か成らず、は言うまでもない。

坪内逍遙宅跡・文芸協会演劇研究所跡
抜弁天のすぐ横あたりに坪内逍遙宅跡・文芸協会演劇研究所跡がある。明治22年(1889)、文京区散歩の折に訪れた炭団坂脇の屋敷からこの地に移った。小説をから離れ新しい演劇を興すために、明治42年、この屋敷内に文芸協会演劇研究所を建てた。第一期生には松井須磨子もいた、と言うが、大正9年には逍遥は熱海に居を移し。協会も解散。現在は民家が立ち並び、往時を偲ばせる物はなにも、ない。


大久保の犬小屋跡
抜弁天から現在都営大江戸線が地下を走る道筋を、大久保通り若松町交差点方面に少し東に進むと警視庁第八機動隊と余丁町小学校のあたりに大久保の犬御用屋敷跡の案内。案内によると;抜弁天の東側一帯(1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊(1万3千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後、世継ぎに恵まれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞亨4年(1687年)、「生類憐れみの令」を発し、生物の殺生を固く禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため、犬を重視した。これに伴い、元禄8年(1695)、飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯。旧囲町)の三カ所に「犬御用屋敷」を設置した。大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし、次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役割を移し、元禄十年十月に閉鎖され、跡地は武家居屋敷となった(新宿教育委員会)」、と。工事手伝いとして越中富山の前田利通、総奉行は側衆米倉丹後守伊昌、藤堂伊予守良直が任じられた。

永福寺
抜弁天交差点に戻り、交差点北にある山ノ手七福神のひとつ永福寺に。境内には大日如来の坐像と半跏趺坐の地蔵菩薩像、そして福禄寿の祀られる祠にお参り。七福神信仰は室町末期頃から始まったもので、インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入りまじって形成された、いかにも日本的な信仰の姿である。福禄寿は南極星の化身。長寿の神として親しまれた。


九左衛門坂
蟹川(金川)の谷筋を感じてみようと、都道302号を離れ、永福寺脇の坂を下る。道の脇に九左衛門坂とあった。九左衛門が造った故の命名。九左衛門は今回の散歩のはじめに出合った、左内坂の由来ともなった名主・島田左内の兄であり、大窪村の名主であった。
島田と言えば、現在防衛省のある市谷台(市谷本町)を開いたのが島田主計等7人の浪人と言われる。江戸時代以前の事で、家康入府の時には川崎まで出迎えた、とか。この島田主計と左内・九左衛門が関係あるのか無いのか、そのエビデンスは未だ目にしたことが、ない。

坂をのんびり下る。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵もこの坂を下ったようで、『江戸近郊道しるべ』には、「久左衛門坂近くの大久寺境内には大きな松があったと」と描くが、松もなければ大久寺も、今は、ない。坂の周囲は、こじんまりとした商店街。この商店街の一隅に川端康成が住んでいた、と言う。全寮制の一高卒業後、東京帝国大学に入学し、下宿が決まるまで、この坂の近くにあった友人の下宿に同居させてもらっていた、とのことである。


島崎藤村の旧居跡
おおよそ200mほどの窪地を辿り、再び明治通りの走る台地へと上る。比高差は5mから10mといったところ。明治通りを越えて旧居跡を探す。ほどなく道脇、この道筋を職安通と呼ぶようだが、とまれ、大通りの脇、ビルの前に「島崎藤村旧居跡の案内と石碑」があった。案内によると「詩人・・小説家の島崎藤村(1872~1943)は、馬込(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)「文学界」の創刊に参加。明治30年の「若菜集」にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌39年10月2日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。この頃から小説に転向した藤村は、ここで長編社会小説「破戒」を完成し、作家として名声を不動のものとした。 しかし、一方で、転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった( 新宿区教委区委員会)」、と。
「破戒」は夏目漱石などから高い評価を受け、田山花袋の「蒲団」と共に、自然主義文学の代表作として知られる。藤村はその後、この大久保を離れ、「賑やかな粋な柳橋の芸者屋街に移転された(『思いいづるまま;三宅克己』)」、とのことである。明治39年の浅草区新片町のことである。


鬼王稲荷
地図を見ると、島崎藤村の旧居のすぐ近くに鬼王稲荷という社がある。「鬼王」という名前に惹かれて、職安通りから少し南に入り境内に。まずは、「鬼王」って何だ?とチェックすると、鬼王権現とは月夜見命・大物主命・天手力男命という三神合体の強力な神仏混淆の神さま、というか仏様。月夜見命は天照大御神の弟神で、天手力男命は天の岩戸をこじ開けた怪力の神様、大物主命は大国主命のこと。大黒様でもある。古来より大久保村の氏神として稲荷社が祀られていたこの地に、宝歴二年(一七五二年)、当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から紀州熊野より鬼王権現を勧請し、稲荷社と合祀し稲荷鬼王神社とした。
鬼王と言った、少々「特異」な名前の権現様を勧請できたのは、もともと、この地に幼少時に鬼王丸と称した将門公との因縁があったから、との説もある。北新宿、昔の柏木村に将門伝説とか将門討伐の将・藤原秀郷ゆかりの地が伝わる。この鬼王も、その一環であろう、か。

境内入り口に祀られる鬼の手水鉢は誠に面白い。鬼の頭に手水鉢が載っかっている。新宿区教委区委員会の案内によると;「この水鉢は文政の頃より旗本加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・」とある。この水鉢は、高さ1メートル余、安山岩でできている。

鬼王神社には「豆腐断ち」(鬼王神社に豆腐を献納し、治るまで豆腐を食べるのを我慢すれば、湿疹・腫れ物がなおる)の御利益が伝えられる。失明した滝川(曲亭)馬琴の口述筆記で知られる滝沢(土岐村)路の『路女日記には』、「おさち同道。自大久保鬼王権現江参詣。豆腐を納む。右鬼王権現ハ、腫れ物ニテ難儀致候者、全快ヲ祈候ヘバ、利益アリ。此故ニ、おさち疱瘡全快祈候所、ほど無く平癒ニ付、今日為礼参り豆ふヲ納、参詣す」、とある。効能あったのだろう。つい最近、馬琴と路を描いた時代小説を読んだばかりなのだが、どうしても書名が出てこない。なんだったか、なあ?群ようこさんの『馬琴の嫁』?

小泉八雲終焉の地
職安通りを隔てた北、大久保小学校の正門脇に小泉八雲終焉の地がある。先ほど訪ねた八雲旧居跡より明治35年にこの地に移るも、2年後の明治37年、この地にてなくなった。

百人町
山手線や西武新宿線が走るガードをくぐり、線路に沿って北に折れ、百人町を大久保通りへと向かう。百人町は江戸の昔、内藤清成が率いる伊賀組百人鉄砲隊の組屋敷があったところ。現在では、コリアンタウンと呼ばれる一部となっている。

皆中稲荷
大久保通りから続く細長い参道をちょっと進むと社がある。「みなあたる」稲荷、と読む。社伝によると、その昔、天文2年(1533)、大窪とよばれたこの地に、伊勢の御師の御旅所があり、伊勢参りの手配や御札配ったりと、あれこれしているうちに次第に多くの人が集まるようになり、御旅所を社と造り直した。その後、寛永年間というから17世紀の前半、鉄砲百人組がこの一帯に移り住んだ頃、射撃の訓練をするに際して、この社にお参りすると射撃の腕が上がった、とか。ために、社の名前も「皆中(みなあたる)」稲荷神社となった、とか。

鎧神社
日も暮れてきた。そろそろ家路へと思えども、地図を見ると皆中稲荷神社から西に進み、中央線が神田川を渡る少し手前に鎧神社がある。柏木村の鎮守と言うが、それよりなにより、鬼王神社や皆中稲荷神社と同じく、その名前に惹かれてもう少々散歩を続けることに。
現在の北新宿、昔の柏木村を成り行きで進むと神田川の右岸斜面上に鎧神社があった。江戸の頃までは「鎧大時明神」と称された、と。社名の由来は、日本武尊命が東征してきた際に、この地に甲ちゅう六具を納めたことによる、とも。また、天慶3年(940年)、藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しむ秀郷が、境内に将門の鎧を埋めてその霊を弔ったところ病が全快した、など、あれこれ。そのほか、天慶の乱のとき、将門の弟である将頼の陣を敷いた場所とも伝わる。先ほどの鬼王神社も含め、将門にまつわるエピソードが多いが、この神社を南に下った蜀江坂のあたりにも将門にまつわる伝説が伝わる。単なる伝説なのか、何かを示すシンボルなのか、問題意識としてもっておこう、と思う。

円照寺
鎧神社のすぐ南に円照寺。この寺院には藤原秀郷にまつわる縁起が伝わる。「江戸名所図会う」によれば、円照寺のあたりには醍醐天皇の頃に祀られた薬師如来の祠があった、とか。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門討伐軍を率いて出陣の途中、中野の辺りで病に伏すも、霊示によりこの祠にて祈ると苦痛が消え去り、将門討伐も達成。凱旋の後に堂塔を建立し、圓照寺とした。旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えられる。藤原秀郷って、我々団塊世代の人間には「俵藤太のむかで退治」としての印象が強い。もとより、周囲の若者は俵藤太って誰?と応える、のみ。

蜀江坂
円照寺を離れ蜀江坂に向かう。実の所、この蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込み、それゆえに疲れた足を引きずりながら新宿の西端まで辿ってきた。理由は、「蜀」という特異な文字と、いつかの散歩の折、新宿十二社熊野神社に蜀山人ゆかりの手水鉢などがあり、蜀山人はこのあたりを彷徨ったはず、と推論したわけである。実際は、この蜀江坂は蜀山人とは全く関係なく、中国の三国志で知られる蜀の首都、成都を流れる川である蜀江から、とのこと。蜀江付近の特産の絹織物が紅葉のような緋色であった、と言う。
野口武彦さんの書いた本に『蜀山残雨(新潮社)』がある。その冒頭あたりに、蜀江坂が蜀山人ゆかりの地ではないことがわかり、がっかりした、といった記述があった。野口武彦もそう思い込んだ根拠は、この「蜀」という文字面と、この柏木成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸があったりしたことがそのひとつであった、と記していた。蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込んだのが自分だけでないことがわかり、なんとなく心嬉しい。
蜀江坂は円照寺を南に下り、大久保通りを越えた先にある。蜀江園跡と記される大久保通との交差点北に、明治の司法卿・江藤新平旧居跡(新宿区北新宿 3-10-18から20)とか、大町桂月旧居跡(新宿区北新宿 3-13-22から25)とか、南には内村鑑三終焉の地(新宿区北新宿 1-30-25)などがあるようだが、あれこれ彷徨うも、案内もなく、日も暮れ始めてきたので、結局あきらめて先に進む。大町桂月の紀行文は誠に、いい。
大久保通りを越え先に進むと緩やかにカーブした、誠に緩やかなる坂がある。この坂が蜀江坂。蜀江坂と呼ばれるようになった由来は、このあたり一帯の台地の紅葉が美しく、将軍家光が蜀江の錦に例え、以来、蜀江山と呼ばれ、その坂を蜀江坂とした、とか、平将門(ないし弟将頼)が、このあたりに陣を敷いたとき、敵襲が素早く、鎧を着けるまもなく応戦したため、蜀江錦の衣の袖が切り落としたため、とか、例によってあれこれ。今となっては、旧家を壊し再開発が行われる北新宿の一画であり、昔日の趣は、ない。

成子天神
蜀江坂を下り、後は一路家路へと新宿駅に。成り行きで青梅街道に出て東に向かうと、街道脇に成子天神の石碑。ビルに囲まれた細長い参道を進むと本殿がある。延喜3年(903年)の創建と伝わるこの社は、祭神は菅原道真。建久8年(1197年)に源頼朝が社殿を造営したとも言われるが、詳しいことは不明。ちなみに、菅原道真の係累も将門との関わりも、結構深かった気がする。
富士塚が本殿の裏手にあるようだが、普段は公開していないようだ。神社は神楽坂散歩のときに赤城神社で見たような、境内敷地に高層マンションを建設する計画があるよう。本殿もそのうちに赤城神社のようなモダンな風情と変わってしまう、かも。
成子坂
神社を離れ、成子坂、これって濁り坂の商いの合図に「鳴子」を取り付けたことが名前の由来のようだが、現在は車の往来の激しい青梅街道喧噪が響く、のみ。坂を進み新宿駅から一路家路へと。
本日は距離の割には、長い、距離が長いというより思いの外メモが長くなった散歩となってしまった。次回の四谷散歩もどうなることやら。


文京区散歩その参

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関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く

文京区散歩の三回目。西端の関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く。音羽の谷を形づくった川は弦巻川と水窪川。ともに池袋駅周辺の池や湿地を水源として護国寺・雑司ヶ谷の台地を西と東に別れて下り、音羽の谷で合流する。「御府内備考」には「幅九尺・・・・・水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より當町(東青柳町)え入音羽町裏通り江戸川え流出申候・・・・流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候」、とあるが、この鼠ヶ谷下水は水窪川だけでなく弦巻川をも含めての呼び名であり、特に最下流の人工水路を指していたようだ。
小日向の台地から音羽の谷に下る坂に鼠坂という名前の坂がある。鼠でなければとても上れないような急な坂であったが、この坂は別名水見坂とも呼ばれていたい。音羽の谷を流れる川筋がよく見えたからだろう。鼠ヶ谷下水はこの鼠坂に由来するのだろうか。それにしても音羽に鼠とはこれ如何に。それはともあれ、本日の散歩は、まずは雑司ヶ谷の西を下る弦巻川からはじめ、音羽の谷を下り関口台地に進む。その後は小石川台地をぐるりと廻って水窪川筋に戻り、護国寺の台地の東側を池袋駅近くの水源跡にもどろう、というもの。文京区散歩とは言うものの、始まりと締めが豊島区ではあるが、それはそれとして、ちょっと長い散歩に出かける。

本日のルート;JR池袋駅>丸池の碑(元池袋史跡公園)> 明治通り>弦巻通り(大鳥神社参道)> 法明寺>鬼子母神>大鳥神社>都電荒川線>首都高速5号線>護国寺西交差点>大町桂月旧居跡>目白通り>胸突き坂>水神社>関口芭蕉庵>新江戸川公園>神田川>江戸川交差点>今宮神社>服部坂>小日向神社>新渡戸稲造旧居跡>切支丹屋敷跡>蛙坂>深光寺>林泉寺>地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅 >小石川植物園>千川跡>簸川神社>不忍通り_猫又橋跡>不忍通り_春日通り交差>護国寺>東青柳下水跡>吹上稲荷神社>坂下通り>都電荒川通り交差>東青柳下水跡源流点>JR池袋駅

丸池
池袋駅を北口に下り、駅前を西へ弦巻川のあった丸池へと向かう。ホテルメトロポリタンの東脇に元池袋史跡公園というささやかなスペースがある。ここが弦巻川の水源であった丸池の跡。池袋という地名の由来ともなったところでもある。「袋」は低湿地の地勢を表すことが多いという。低湿地に湧水の湧き出る池があったのだろう。その面影は、今はない。もっとも、東京芸術劇場の地下では現在でも大量の地下水が湧き出ているようで、多くのポンプで排水しているとの話を聞いたこともある。目には見えないところで未だに自然の力が保たれている、ということか。 300坪もあったと伝わる丸池を水源とし、弦巻川はここから南西に下り明治通りに進む。池袋警察所から明治通りへと向かう道を進み、JR線、西武池袋線のガード下を通り明治通り手前に進む。道端に案内地図。如何にも水路跡といった道筋などないものか、とチェック。と、JR線と西武新宿線の間に緩やかに曲がる道筋があり、その道筋らしき続きが明治通りを渡り、その先を東へとこれも緩やかに蛇行する。しかも、その道筋は「弦巻通り」とある。これって弦巻川の川筋の、はず。偶然に川筋が見つかる。これは幸先がいい。

明治通り
道を少し戻り、JR線と西武池袋線の間の最低部で信号を渡り、先に進む。道なりに進み、西武池袋線下を潜り、小料理屋など昭和の雰囲気を残す街並みを進み明治通りに。道の反対側には時に訪れる古書店・往来座。ちょっと立ち寄り数冊購入。

弦巻通り
少し先に進み弦巻通りに入る。大鳥神社参道とある。先の都電荒川線との交差するあたりに大鳥神社があるが、そこへの参道ということ、か。ビッグネームの「鬼子母神」を差し置いての「大鳥神社参道」ということは、大鳥神社ってよっぽどの由緒があるのか、はたまた地元とのつながりがめっぽう強いのか、ちょっと気になる。

法明寺
緩やかにうねる道筋を進む。と、道の北側になんとなく雰囲気のあるお寺さま。桜並木の参道を進むと法明寺とあった。開基810年という古刹。元は威光寺と呼ばれる真言宗の寺であったが、14世紀の初め日蓮宗に改め法明寺となった。江戸の頃には徳川将軍家光より御朱印を受けるなど、代々将軍家の庇護を受ける。有名な雑司ヶ谷の鬼子母神はこの寺の飛地境内にある。境内には豊島一族や小幡景憲の墓がある。豊島氏は鎌倉から室町にかけ石神井城を拠点に、このあたり一帯に覇を唱えた一族。江古田の戦いで太田道灌の軍勢に敗れ勢は衰えるも、生き延びた一族は徳川氏に仕え八丈島の代官となった。ここに眠る豊島氏はその八丈島代官であった豊島忠次の一族である。
小幡景憲は江戸時代の軍学者。徳川氏に仕えるも、大阪の陣では豊臣方に与したとされるが、その実、徳川に内通していた、と言われる。事実、戦後1500石で徳川氏に仕えている。武田の遺臣でもあった小幡景憲は甲州軍学の集大成である『甲陽軍艦鑑』をまとめた。

鬼子母神
鬱蒼たる社叢の中に鬼子母神が佇む。室町の頃、永禄4年(1561)目白台(護国寺西交差点近く、清土鬼子母神のあるところ)で鬼子母神像が見つかり、東陽坊の堂宇に納められる。東陽坊はその後大行寺となり、さらに法名寺に合併したというが、それはそれとして、人々の信仰篤く、「稲荷の森」と呼ばれたこの地に鬼子母神堂を建てた。天正6年(1578)の頃、という。古来、この地には武芳稲荷が祀られ、ために「稲荷の森」と呼ばれた、と。
鬼子母神信仰がさらに盛んとなったのは江戸の頃、加賀前田藩前田利常公の息女により本堂が寄進されてから。門前にお茶屋や料亭が建ち並び大いに賑わったとのことである。前田家との関わりは、鬼子母神が納められた大行院が加賀藩前田利家公のゆかりの寺院であったため。子授け、安産、子育ての神ということもあり、鬼子母神への篤き信仰が従前よりあったのだろう。鬼子母神はインドの仏法守護の毘沙門さまの武将の奥さま。1000人もの子どもがおり可愛がっていたのだが、他人の子供は別物。当たるを幸いに「食べ」ていた。それを改心させようとお釈迦様が、鬼子母神の子供を隠す。鬼子母神は半狂乱。頃合いをみてお釈迦様が、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と言った、とか。以来改心し子授け、安産、子育ての神となった、と言う。
境内を歩く。権現造りの本堂は古き趣。前田家息女の寄進のものが現在まで残っているのだろうか。本堂に向かって右手に鬼子母神像。本堂の像は柔和な表情とのことだが、こちらは結構厳しい表情。仏法護持の職務故、か。左手に法(のり)不動堂。どちらかと言えば密教系の不動堂があるのは、法明寺がもとは真言系の寺院であった名残だろう。本堂を少し離れたところに武芳稲荷。この地のもともとの地主神。脇に大きな公孫樹(いちょう)がそびえる。樹齢700年以上、とか。
境内にある駄菓子屋・川口屋は江戸の頃からの店。すすきの穂を束ねたみみずくの人形「すすきみみずく」は鬼子母神の名物。江戸の頃、夢のお告げで生まれた、と。団子屋には「おせんだんご」。簡潔なる名通信文「おせん 泣かすな 馬肥やせ」とは関係なく、1000人の子供がいた鬼子母神にちなんで、多くの子宝に恵まれることを願う。本堂裏手には妙見堂。北斗七星を神格化した妙見さまは、もともとは空海の真言宗からはじまったものだが、日蓮との結びつきも強い。伊勢において日蓮の前に妙見菩薩が現れ仏教の未来を託された、とか。そのような縁起もあり法華教の布教者は全国の妙見宮の復興に尽くしたと。そういえば大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮関連の寺院に妙見さんが目につく。ちなみに鬼子母神の「鬼」の表記だが、第一画目の点がないものもある。鬼の角を外した姿と示すものであろう、とか。

大鳥神社
境内を離れ再び弦巻川跡をたどる。東京音楽大学の間を抜け、道は如何にも川筋であったがごとくゆるやかにうねりながら進む。道が都電荒川線と交差する手前に大鳥神社。明治通りの入り口よりこの道筋は大鳥神社参道とあったわけで、いかほど大振りなる社かと思ったのだが、まことに普通の神社であった。
この神社、もともとは鬼子母神の境内にあった、という。江戸の頃、松江藩主の嫡子が高田村の下屋敷にて疱瘡を患い療養。ために、疱瘡除けの神として名高い出雲の鷺明神(大社町鷺浦)を鬼子母神の境内に勧請したとされる。「我 これより鬼子母神の神籬(ひもろぎ)の内に鎮座し衆人を衛護せん 若し広前の石を拾い取りて護符とせば決して悪瘡に悩まされることなかるらん」とは鷺明神の言。なぜ鬼子母神の地かはわからない。この地に移ったのは明治になってから。神仏分離で鬼子母神の境内を離れ、少々流浪の時期を経て篤志家の支えでこの地に移った。
大鳥神社と言えば酉の市。ご多分に漏れずこの社も江戸の頃から酉の市が開かれた。江戸末期の記録に『今年より雑司が谷鬼子母神境内鷺明神へ十一月酉の祭とて詣づること始まる是より年々賑わえり(武江年表)』、とある。あれ?あれ?鷺(さぎ)?鷲(わし)じゃないの?酉の市って、足立・花畑の大鷲神社にしても、埼玉・久喜の鷲宮神社にしても、浅草の鷲(おおとり)神社にしても「鷲(わし)」のはず。「鷺(さぎ)」も鳥には違いはないのだが、何がどうなっているのだろう。鷺(さぎ)大明神は素戔嗚尊の妻女であり、その実体は十羅刹女といった神も仏も皆同じ、というか、ぐちゃぐちゃな話もあるが、『新編武蔵風土記稿』では鷺明神社の祭神を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)としている。祭神もあまりひっかからない。酉の市で名高い浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれていたようだ。鬼子母神にも妙見堂がある。こういったことが関係したのだろうか。よくわからない。

雑司ヶ谷台地
都電荒川線を越える。進むにつれ道の左手に台地の高みが感じられる。道を離れちょっと台地へと寄り道をする。成り行きで進むと宝城寺とか水仙寺。宝城寺の門前には「祈雨日蓮大菩薩」の石柱がある。その横、少し坂を上る途中の水仙寺こと御嶽山清立院青竜寺は改築されたのだろうか、新しい建物となっていた。疱瘡快癒祈願の「疱守薬王菩薩」や雨乞いの松がある、とか。「江戸名所図会」の御嶽坂には崖上に瀧清寺、御嶽堂や講雨松。崖下あたりに堂宇、これはたぶん宝城寺、そしてその脇を流れる弦巻川が描かれている。川の周囲はひたすらに畑地が続くのみである。
水仙寺前を台地に上る。雑司ヶ谷台地と呼ばれ、武蔵野台地の末端が浸食されてできたもの。台地上の雑司ヶ谷霊園は明治になってできたもの。それ以前は将軍鷹狩りのための御部屋、そして農家が点在していたとのことである。台地上から弦巻川に開析された谷地を想う。地形図を見ると法明寺から清立院を結んだあたりが崖線。関口台地との間の窪みが弦巻川の谷筋である。しばし崖線に沿って進み、成り行きで弦巻川、というか弦巻通りに戻る。

不忍通り・清戸坂
下町の雰囲気を残す道筋を歩き首都高速5号池袋線の走る都道435号線に出る。高速道路の向こうには豊島岡の台地の高みがある。道を南に下り不忍通り・護国寺西交差点に。どこで見たのか忘れたのだが、交差点近くに大町桂月の旧居跡がある、と。桂月の紀行文のファンとしては、これは一度訪れるべし、と。旧居は文京区目白台3丁目。不忍通りが目白通りに合流する清戸坂を南へと渡り目白台に。この坂が清戸坂と呼ばれるのは、清戸道に上る道であった、から。目白台2丁目で目白通り(清戸道)に合流する。
清戸道は清瀬の清戸に向かう道。始点は江戸川橋のあたり。そこから椿山荘脇を通り西に進み目白、練馬と、おおざっぱに言って目白通りの道筋を進み清瀬に向かう。清瀬での将軍の鷹狩りの道とか、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とか、あれこれ。とまれ一度辿ってみたい古道である。清戸?清土?鬼子母神像がみつかったという「清土」鬼子母神は「清戸」坂の脇、目白台2-14-8にある。清瀬の清戸も由来では「清い土」からとのことである。清土は清戸道の元の由来を残した名前か、鬼子母神像を掘りだした清い土からのものか、はてさて。

大町桂月旧居跡
道を渡り大町桂月さんの旧居跡を探す。あちらこちらとさまよいながら、住宅街の中に旧居跡の案内を見つける。奥は空き地となっていた。明治の末にこの地に住んでいた、という。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

胸突坂
ここからは弦巻川の川筋を離れ関口台地の崖線へと進むことに。目白台の台地を成り行きで進み目白台3丁目交差点あたりに出る。目白通りを少し東に戻り、関口台の崖線へと右に折れる。一度訪れた胸突坂を下るため。
道の右手には和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。先に進むと永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。先に進む。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。
右手に新江戸川公園の緑を見やりながら急坂を下る。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。とはいうものの、「自分の胸を突くようにしなければ上れない」ってどういうこと?胸突の意味がよくわからない。「胸を突かれたように息ができない」といった定義もあり、このほうがわかりやすいのだが。はてさて。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。

水神社
足元をとられないように胸突坂をゆっくり下る。コンクリートで固められてはいるのだが、雨上がりでのスリップが少々怖い。下る途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。
神田上水は江戸のはじめの頃、江戸の人々、というか、中心はお武家様用であり余水を町屋の人が、といったところではあろうが、とまれ、江戸の人々に飲料用の水を供給するため設けられた人工の水路。元々あった平井川の川筋を改修し、豊かな井の頭の湧水と結んだ、とか。
神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。どちら関口水神社であり,少々わかりにくいのだが、もう一カ所のほうにはまだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。
さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は江戸図会に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

新江戸川公園
神田川を少し西に戻り返し新江戸川公園に向かう。江戸の頃熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。数年前に訪れたときは入場料が必要だったように思うのだが、今回(2010年8月)は無料で入場できた。

椿山荘
神田川を江戸川橋交差点へと折り返す。芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面には椿山荘。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。桜の季節の花見の宴や結婚式などの折り、その庭園は歩いているので今回はパス。

関口大洗堰跡
左手に崖面を意識しながら江戸川公園に沿って進むと関口大洗堰跡に。この地に大きな堰があり井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。公園には堰跡を残す。

音羽谷
江戸川橋交差点に。護国寺から江戸川橋に下る道筋は音羽谷と呼ばれ、関口台地と向かいの小石川・小日向台地を分ける。江戸の頃は紙漉が盛んであったと言う。その昔、この音羽の谷筋には関口台地に沿って弦巻川が、小石川・小日向台地に沿って水窪川(東青柳下水とも)が流れていた。今はともに暗渠となりその名残はないが、その昔は清流がながれていたのだろう。「みずまやの 牛の腹ゆく ほたるかな」とは蛍の名所であった弦巻川を詠んだ句である。音羽谷の出口で合わさったふたつの流れは伏樋で神田上水を潜り江戸川橋の下で神田川に注いだ。現在水窪川は坂下幹線と呼ばれる雨水幹線として音羽通りの下を通り神田川に注いでいる。ちなみに、音羽の由来は奥女中の拝領地であったから。

今宮神社
次は小日向台地と小石川台地を辿ることに。小日向台地は小石川台地南端部の支尾根といったものだろうか。茗荷谷のあたり、地下鉄丸の内線の操車場あたり地形の窪みによって分けかれているのだろう。江戸川橋交差点を越え小日向の台地に向かう。
道路脇の地図を見ると、目白坂下交差点近くに今宮神社がある。別名「玉の輿神社」とも称されるように、今宮神社は将軍綱吉の生母・桂昌院とのゆかりの社。八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めた桂昌院が篤い信仰を寄せたが故の呼び名である。それはそれとして、護国寺も桂昌院の発願によるもの。なんらかの関係があるのか、と思い訪れることに。
こぶりな社は護国寺建立の時に京都の今宮神社を分祀したものであり、この地には明治の神仏分離令にともない移り来たとのことであった。桂昌院と大いに関係があった。境内には明治時代、製紙業者が和紙に掛けて招聘した「天日鷲の命」の社がある。鷲>わし>和紙、といった連想ゲームだろう、か。

服部坂
今宮神社を離れ、さてどこから台地に取り付こうかと思案する。道脇の地図を眺めると、小日向神社とか新渡戸稲造旧居とか切支丹屋敷跡といった案内。フックが掛かる。まずは小日向神社に。台地下に沿った道を進む。神田川から2筋ほど入ったこの道路道は昔の神田上水の水路筋。このあたりは開渠で水戸藩の江戸屋敷に向かう。この道は上水通りとも呼ばれていたようだが、上水が廃止された後に水路を石で覆ったため現在では巻石通りと呼ばれる。
大日坂下交差点を越え区立五中前を左に折れ坂を上る。服部坂とある。名前の由来はかつて坂の上に服部権太夫の屋敷があったから。永井荷風は「金剛寺坂 荒木坂 服部坂 大日坂 等はみな 斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書く。今は高い建物が多く、それほどの見晴らしはないのだが、少し前の昔にはよき眺めであったのだろう。それぞれの坂は巻石通りを上る坂である。先ほど通り過ごした大日坂は往時坂の上に大日堂があった、から。

小日向神社
坂を上ると小日向神社がある。ここは服部権太夫の屋敷跡。古き社とのことで訪れたのだが、これといった趣は、なし。小日向神社は氷川神社と八幡神社というふたつの古き社が合祀して明治2年にできたもの。氷川神社は天慶3年(940)、当時の常陸国の平貞盛が現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。どこかの古地図で見たのだが、今宮神社のところに田中八幡があったが、そこが古地だろう、か。
ところで小日向だが、日向って、てっきり「日当たりのいい南面地」」と思い込んでいたのだが、実際は人の名前。文禄の頃の文献に、このあたりを領地とする鶴高日向という人いた、とある。で、家が絶えた後このあたりを「古日向」と称していたのが、いつの頃か「小日向」となった、とか。

新渡戸稲造旧居跡
台地上の道を成り行きで進む。誠に偶然に新渡戸稲造旧居跡の案内に行き当たった(文京区小日向2-1-30)。農政学者・教育者。内村鑑三とともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受ける。その後東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として活躍。国際連盟設立に際してはその事務局次長に就任。『武士道』の著者としても知られる。

切支丹屋敷跡
民家の脇に切支丹屋敷跡の石碑。この地は宗門改役井上政重の下屋敷跡(文京区小日向1-24-8)。案内をメモ;江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取り締まった。この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された、と。
島原の乱の後、筑前に漂着したイタリア人宣教師を収容したのが切支丹屋敷の始まり、とか。宣教師の転向を強要するのが最大の目的であった、とも。神父フェレイラ、そして神父を転向させようとする井上政重を描いた小説に『沈黙』がある。また、新井白石の『西洋紀聞』は収容された宣教師のヨハン・シドッチを尋問しまとめたもの。

切支丹坂
切支丹屋敷の辺りまで来ると小日向台地の左側の崖線もすぐそこ。谷間には丸ノ内線のヤードがある。この谷間が小石川の台地から小日向の台地をわけているのだろう。碑の前を進み左折すると坂があり、丸の内線のガードへと続く。その坂は切支丹坂と呼ばれる。
志賀直哉の小説『自転車』に切支丹坂の描写がある;恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた(『自転車』)。子供の頃自転車に熱中し、あちらこちらと走り回った、とか。坂の雰囲気を少し味わい、切支丹屋敷跡へと折り返し、茗荷谷駅方面へと向かう。

蛙坂
道なりに進むと茗荷谷へと下る坂に。道脇の案内によると「蛙坂」とある。メモ;「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)。『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている、と。

茗荷坂
坂を下りきったところに深光寺。滝沢馬琴の墓がある。『南総里見八犬伝』で知られる。深光寺と拓殖大学の間を上る坂は「茗荷坂」。案内をメモ;「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。(中略)茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」、と。

林泉寺
茗荷坂の途中に林泉寺。しばられ地蔵をおまいりに伺う。階段を上り本堂脇に石仏があり、縄で巻かれていた。いつだったか葛飾東水元の南蔵院の、しばられ地蔵にお参りしたことがある。本家本元はそちらか、ともおもったのだが、こちらのお地蔵様も『江戸砂子』に「小日向茗荷谷林泉寺の縛られ地蔵に願かけの時、地蔵を縛り、叶うとほどくと言われ、地蔵縁日には大変な賑わいであった」と書かれている。結構昔から人々の信仰を集めていたのだろう。
説明書きにあった「しばられ地蔵」の名前の由来をメモ;昔、呉服屋の手代が地蔵様の前で休み、居眠り。その間に反物を盗まれる。奉行は石地蔵が怪しいとして縄をかけ、奉行所に運ぶ。物見高い見物人もそれについて奉行所内へ。許しもなく奉行所内に入った者たちに対し奉行は、罰として三日以内に反物を持ってくるように、と。で、集まった反物の中に盗品を発見、犯人も逮捕したという話が「大岡政談」にある、とか。この話の元になったのは葛飾区東水元の南蔵院だが、縛られ地蔵はこのころより有名になった、と。この話はわかったようで、よくわからない、がそれはそれとして寺を離れ坂を上り茗荷谷駅に。台地上にある茗荷谷駅では、いまひとつよくわからなかった茗荷谷の「谷」たる所以がわかった小日向台の散歩であった。

東京大学付属植物園
さてと、散歩もそろそろ最終段階。池袋から護国寺の東を流れ音羽の谷に注いでいた水窪川(東青柳下水)に向かう。茗荷谷駅から台地上の春日通りを進み不忍通りの交差点へともおもったのだが、どうせのことなら小石川台地を一度下り、白山台地との境をつくる谷端川の川筋を辿ろうと。少々迂回することになるが、ここまで来たら、どうということも、なし。
茗荷谷駅から昔の東京教育大学、現在の筑波大学跡地である教育の森公園脇の坂を下り東京大学付属植物園の北西端に。植物園に沿って進む道が昔の谷端川の川筋である。(ここから谷端川を北に上り猫又橋跡までは以前歩いた谷端川散歩の記事をコピー&ペースト)。
東京大学の付属施設であるこの植物園の歴史は古い。貞享元年というから、1684年、徳川綱吉の白山御殿の跡地に、幕府がつくった薬草園・御薬園が、そのはじまりである。三代将軍家光のときに麻布と大塚につくられた薬草園をこの地に移したわけだ。園内には八代将軍吉宗のときにつくられた、小石川養生所の井戸なども残る。養生所は山本周五郎の小説『あかひげ診療譚』でおなじみのものである。台地上や崖線をゆったりと歩く。巨木、古木のなかで最も印象的であったのがメタセコイヤ。垂直に天に伸びる姿はなかなか、いい。
谷端川はこのあたりで千川と呼ばれる。その所以は、この川筋は源流点で千川用水の水を取り入れていたから。別の説もある。千川用水開削の目的がもともと、小石川白山御殿・本郷湯島聖堂・上野寛永寺や浅草寺などの御成御殿への給水のため、ということ。神田・玉川上水からの給水が地形上不可能なため、新たな上水道を開削したわけだ。 要町から先の千川上水というか用水の流路をチェックしておく。要町3丁目から北東に東武東上線・大山駅付近まで登る>その先、都営三田線・板橋区役所駅前が北端のよう>その後は、駅前通・旧中山道に沿って南東に下る>明治通りとの交差するあたりで王子への分水>さらに旧中山道を下り巣鴨駅前・巣鴨三丁目で白山通・中山道通りに>白山通りを進み白山前道から白山御殿に給水、といった段取りでこの小石川植物園あたりまで進んできている。
この用水、将軍様だけでなく、駒込の柳沢吉保の六義園といった幕府関係者への給水、また本郷地区の住民も上水の恩恵に浴した。その後白山御殿閉鎖にともない、いくつかの紆余曲折はあったものの上水の給水はなくなり、水田灌漑用の用水として機能した、と。

簸川神社
小石川植物園の脇、台地の上に簸川神社。第五代孝昭天皇の時代というから、5世紀の創建と伝えられる古社。この神社、もともとの社号は氷川神社。簸川となったには大正時代になってから。天皇自体は伝説の天皇かもしれないが、その当時から簸川=氷川=出雲族の神様をまつる部族がこのあたりに住んでいたのだろうか。氷川神社のメモ:氷川は出雲の簸川(ひかわ)に通じる。武蔵の国を開拓した出雲系一族が出雲神社を勧請して氷川神社をつくる。武蔵一ノ宮は埼玉・大宮の氷川神社。武蔵の国に広く分布し、埼玉に162社、東京にも59社ある、とは以前メモしたとおり。もとは小石川植物園の地にあったが、その地に館林候・徳川綱吉の白山御殿が造営される。ために、おなじところにあった白山神社とともに元禄12年(1699年)、この地に移った。八幡太郎義家奥州下行の折、参籠した、といったおなじみの話も伝わっている。
簸川神社坂下一帯は明治末期まで「氷川田圃(たんぼ)」と呼ばれる水田が広がっていた、とか。神社階段下に「千川改修記念碑」。白山台地と小石川台地に挟まれた谷地を流れる川筋は水はけが悪く、昭和9年には暗渠となる。「千川通り」のはじまり。千石の地名は、千川の「千」と小石川の「川」の合作。

猫又橋
民家の間を続く谷端川跡を進み不忍通りに。横切ると、歩道脇に「猫又橋の親柱の袖石」の碑。「この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけていたので根子股橋と呼ばれた」との説明文。谷端川はこのあたりでは千川とか小石川と呼ばれるようになる。交差点の上は猫又坂。不忍通りが千川の谷地に下る長い坂。千川にかかっていた猫又橋が名前の由来。猫又とは、根子股とは別に、妖怪の一種であったという説もある。このあたりに、狸もどきの妖怪がいたとか、いないとか。

本伝寺
不忍通りを東に、千石3丁目交差点を越えゆるやかな再び小石川台地に上る。春日通りとの交差点の手前に立派なお寺様。本伝寺。何気なく入った境内に波切不動があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に波切不動堂が描かれている。『鬼平犯科帳;逃げた妻』;大塚の波切不動堂は、はじめ伊勢の国の或る村に安置されてあったのを、かの日蓮上人が伊勢路を旅するうち、霖雨のため水量を増した河を渡りかねているとき、老爺に姿を変えた不動明王が河の水を切って上人を渡河せしめたという。この不動明王の本尊を東国へ運び、大塚の地に移したのも日蓮上人だそうな。 「農民、その塚上、松の木の下に一宇の草堂を営建して、これを安置したてまつる」と、物の本にある。 いまは、東京都文京区大塚仲町の内だが、当時は江戸の郊外のおもむきがあり、それでいて、新義真言宗豊山派の大本山.護国寺が近いだけに、町なみもととのい、種々の店屋も軒を連ねている、と。
昔はこの本伝寺の場所ではなかったようだが、本伝寺にしても波切不動堂にしても『江戸名所図会』にも描かれている。本伝寺は大きな境内に不忍通りとおぼしき道を人が往来している。波切不動は狭い境内ながら、多くの人が往来する。物売り、駕籠、馬子、主人と奉公人とおぼしき連れなどなど。道は春日通りであろう。

富士見坂
台地上で春日通りと交差し、今度は小石川の台地を下り東青柳下水の水路跡に向かう。この坂は富士見坂。昔はここから富士が眺められたのだろう。道脇の案内によれば、この坂上の標高は28.9m。区内の幹線道路では最高点とか。昔は、狭くて急な坂道であったようだが、大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった、と。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。「とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆくおほつかなかまち(会津八一)」「この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」。富士が詠われていないようだが、既に富士の眺望は過去のものとなっていたのだろう、か。

護国寺
護国寺の東側、いかにも水路跡といった通りを確認し、ついでのことでもあるので、護国寺へ足をのばす。お寺の門というより、武家屋敷の門構えといった惣門を入り境内に。五万石以上の大名家の格式をもつ門構えとか。五代将軍綱吉が生母である桂昌院のために建てた寺院であれば当然、か。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、 この門は、中期元禄年間のもので、特に重要な文化財である、と案内にあった。
境内を本堂の観音堂へと向かう。不老門に通じる石段の右手には富士塚。『江戸名所図会』にそれらしき姿があったので気にしていたのだが、疲れのためか富士塚に行くのを忘れてしまった。本堂の観音堂は国の重要文化財。お参りをすませ、八脚門・切妻造りの堂々とした仁王門をくぐり不忍通りに。

水窪川・東青柳下水跡
不忍通りを戻り直し水窪川・東青柳下水の流路跡とおぼしき地点に戻る。根拠はないのだが、北から不忍通りへと合流し、通りの南を先に続く細路がいかにも水路跡といった雰囲気であった、から。結果的にはオンコースであった。不忍通りを渡った水窪川・東青柳下水跡は大塚2丁目・旧東青柳町を小日向の台地の下を進み、弦巻川の流れと合わさり江戸川橋で神田川に合流する。水窪川跡を源流へと向かう。源流点はサンシャイン60の近くということはわかってはいるのだが、流路はそれほどきちんと残っているとも思えないので、とりあえす成り行き、ということで先に進む。
皇室の御陵である豊島が岡御陵東側の石垣に沿って進む。豊島が岡御陵は護国寺と一帯になった台地となっており、その崖下を進む。民家の軒先といった流路を進むと、吹上稲荷神社がある。吹上>吹上御所>皇室>豊島が岡御陵、といった連想ゲームで、なんらかありがたい社かと、ちょっと寄り道。

吹上稲荷神社
社の裏手は鬱蒼とした赴き。豊島が岡御陵の社叢に連なる緑だろう。元和8年(1622)、徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神を勧請し、江戸城中紅葉山吹上御殿につくられた。もとは「東稲荷宮」と呼ばれた、と。後に水戸家の分家・松平大学頭家に、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として現在の小石川4丁目に移遷。この頃に吹上御殿に鎮座していたことから名前も「吹上稲荷神社」と改めた。その後、護国寺月光殿から大塚上町、そして大塚仲町へと移遷し、明治45年に現在地に移った。

水窪川源流点
川筋跡に戻り先に進むと坂下通りに。根拠はないのだけれど、川筋跡とおぼしき道が坂下通りを越え、湾曲して進む。たぶんそれが川筋跡だろうと先に進む。道脇には大谷石の石垣で段差をつけた家があり、なんとなく川筋の雰囲気がある。道なりにぐるりと迂回し、再び坂下通りに。この先は流路らしき道は残っていない。崖下から離れないように先に進む。だけ、道すがらポンプ井戸などが残る。小さな商店街をかすめ先に進むと都電荒川線に当たる。成り行きで造幣局東京支局の石垣下に。幣局東京支局は戦犯を収容した巣鴨プリズンのあったところ。石垣下をかすめ、都電荒川線東池袋四丁目駅あたりに進む。近くに川筋跡らしき道が残る。
この先は川筋跡の痕跡はなにもないが、源流点とされる東池袋1丁目23の美久仁小路に向け高速5号線をくぐり、豊島岡女子学園脇を通り源流点に到着。池袋の繁華街、コンビニの脇に美久仁小路があった。
かつてはこのあたりから都電荒川線の池袋4丁目駅あたりまでは一面の湿地であったようだが、一帯の丘陵地であった「根津山」を切り崩し埋め立てられた、とか。弦巻川にしても、この水窪川にしても池袋付近にあった池や湿地を源流として護国寺の東西を下っていたわけである。今は昔、ということ、か。これにて少々長かった本日の散歩を終える。ちょっと疲れた。

文京区散歩その弐

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本郷台地の東端をかすめ、台地上の街道を白山台地、そして駒込に文京区散歩の第二回。本郷台地の南端あたりの湯島聖堂からはじめ、正確には文京区ではないけれど神田明神をちょっとかすめ、湯島天神、白山神社、そして駒込の富士塚を本日のポイントと大雑把に想い描く。ポイント間のルートは成り行きで進むことにする。富士塚だけは今回がはじめて。江戸の頃には駒込の富士塚とその名を知られていたようだ。そういえば、神田明神と将門、湯島天神の「湯島」、白山神社の祭神菊理姫など、よくよく考えればその何たるかについては、ほとんど何も知らない。歩く・見る・書く、をとおして、あれこれが見えてくれば、との想を描き散歩に出かける。

 

本日のコース;JRお茶の水駅>湯島聖堂>神田明神>蔵前通り>妻恋神社>三組坂上>霊雲寺>湯島天神>麟祥院>切通し>講安寺>旧岩崎邸庭園>境稲荷神社>竹下夢二美術館>立原道造記念館>言問通り>弥生土器発祥の地>言問通り_本郷通り交差>追分>追分の一里塚跡>旧中山道>大円寺>白山上交差点>心光寺>円乗寺>白山下交差点>白山神社>本郷通り>吉祥寺>目赤不動(南谷寺)>天祖神社>駒込名主屋敷>駒込富士神社>上富士前交差点(本郷通り_不忍通り交差点)>六義園>千石一丁目交差点(不忍通り_白山通り交差点>白山通り>浄土寺>本念寺>地下鉄三田線・白山駅

湯島聖堂
JRお茶の水駅聖橋改札に出る。神田川に架かる聖橋を渡り、古の昔、伊達仙台藩が切り開いた神田川の水路を見やる。橋を渡りきったところに湯島聖堂への入口。孔子の銅像を眺めながら門をくぐり大成殿へと向かう。なんとなく、中国の寺院の雰囲気。孔子をおまつりする廟であるので、当然、か。
この湯島聖堂、元は忍岡(上野公園)にあった朱子学派儒学者・林羅山の別邸内に建てられた孔子廟と家塾がはじまり。儒学に重きをおく幕府は、1690年(元禄3年)、将軍綱吉の頃、廟をこの地に移し「大成殿」を建て幕府の「聖堂」とした。その後、1797年(寛政9年)には林家の家塾も幕府官立の学問所となり、昌平校とも昌平坂学問所とも呼ばれるようになる。昌平とは孔子の生まれた村の名前である。聖堂東側の昌平坂をのぼり本郷通りに。次の目的地は本郷通りを隔てた神田明神。

神田明神
鳥居をくぐり境内に向かう。参道左手にある天野屋さんでは甘酒を買ったことがある。創業以来、地下の土室(むろ)で糀をつくりそれをもとに甘酒や味噌をつくる。江戸の頃、18世紀のはじめに湯島には百件以上の糀屋があったようだ。江戸末期には味噌屋も八十軒ほどあった、とか。関東ローム層、いわゆる赤土は室をつくりやすかったのだろう。が、現在は天野屋さん1軒だけだ、とか。
随神門をくぐり境内に入る。神田明神といえば明神下の(銭形)平次でしょう、ということで、崖端に向かう。崖下を眺める場所を探すが今ひとつ、これといった場所が見つからない。江戸の頃は観月の宴も開かれたところも周囲は様変わり。結局男坂上から明神下を見下ろす。
男坂は神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を献納。天保の頃である。脇にあった大銀杏は安房や上総から江戸に来る漁船の目印になった、と言う。江戸の頃、渚は現在の小名木川のライン、江東区の清洲橋通りに沿って東西に進む川筋あたりであったというから、それはよく見えたことだろう。ちなみに今日読んでいた『今朝の春;高田郁(ハルキ文庫)』に「仰ぎ見れば神田明神の大銀杏が見える」といった描写があった。なんとなく散歩にも小説にもリアリティを感じる。
明神さまには、一之宮には大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮には小彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮には平将門が祀られる。大己貴命や小彦名命はさておくとして、神田明神といえば平将門でしょう、とは思えども、よくよく考えると、いかなる経緯で神田明神と将門が結びついたのか、はっきりしない。そもそも神田明神に限らず江戸には将門由来の神社が多い。先日歩いた神楽坂に築土明神があったが、この神社など将門の首塚などもあり、結びつきは結構強い。将門といえば築土明神でしょう、と言いたいぐらい。地元民が将門の威徳を偲び、かつ怖れたが故に神田明神にお祀りした、との話があるが、あまりに唐突でよくわからない。あれこれと素人なりの推論・妄想をしてみることに。

社伝によれば、神田明神は天平2年(730)頃、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる、という。一之宮に祀られている大己貴命、というか大国主命・大黒様は出雲の神様であるので話は合う。もっとも、房総半島から移ってきた忌部族(海部族)が守護神である安房神社に祀られていた海神様を祀ったのが神田明神のはじまりとの説もあり、どちらにしても遙か昔のことで、よくわからない。わからないが、当時一面の入り江が広がる海辺の集落・柴崎に誰かが、なんらかの祖先神をまつったのが、そのはじまりだろう。
時代は下って10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。以降、神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。境内に駕籠職人の籠祖神社、漁師の水神社などなどの摂社が祀られる所以である。
それはともあれ、神田明神の祭りが天下祭りとも呼ばれるようになる。御輿、というか当時は山車のようだが、神田祭りの山車が江戸城内に入ることも許されたようだ。神田祭りが天下祭りと呼ばれる所以である。こういった神田明神のプレゼンスが大きくなったが故に、ほかの社を差し置いて、将門=神田明神、ということになったのだろう、か。素人の妄想。真偽のほどは定かならず。ちなみに祭りの山車が神輿に変わったのは、市電だか都電だかの架線に引っ掛かるため、といった話を聞いたことがある。
ついでのことながら、二之宮の「小彦名命」誕生は明治期の将門の位置づけと大いに関係がある。徳川幕府が倒れ天皇の御代となった明治には、天皇に反逆した逆賊将門を祀るのは少々具合が悪かろうと、大己貴命との国造りのパートナー小彦名命を祭神とした、との説がある。大己貴命が鎮座するのに、どうして助っ人が必要だったのだろう?大己貴命と大己貴命のペアが必要だったのだろうか?また、小彦名命を茨城の大洗神社から分祠したとのことだが、大洗神社と神田明神はどういう関係だったのだろう。将門の本拠地が茨城であったことに何か関係があるのだろうか。はてさて。

遠藤家旧店舗・住宅主屋
次の目的地である妻恋神社へと成り行きで明神様に沿って進むと、明神様脇に誠に美しい木造の日本家屋がある。案内によると戦前の商家・木材問屋「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。もとは江戸開闢期からの町屋である古町・鎌倉河岸に店があった、とか。建物は関東大震災後の昭和2年に建築されたもの。外壁は「江戸黒」とよばれる黒漆喰で伝統的な店蔵を再現している。一時府中に移築して保存していたものが、この地に移された。本当に美しい。
遠藤さんは神田明神の氏子総代をもつとめていた。将門塚の保存につとめ、かつ将門研究家でもあった、とか。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸捕物控え』ではじめて知ったのだが、江戸開闢期からの古町町人にはいろいろと特権が与えられていたよう。

清水坂
遠藤家旧店舗・住宅主屋がある宮元公園を抜け蔵前橋通りに下り、清水坂下交差点から清水坂を上る。坂の名前の由来は明治・大正の頃の精機会社の名前から。江戸の頃、この地には霊山寺と言う寺があった。
寺は明暦3年(1657年)の明暦の大火後、浅草へ移ったが、その敷地は妻恋坂から神田神明神にいたる広大なものであった よう。その広大な敷地は明治になり「清水」という精機会社の所有となる。で、その広い敷地が邪魔となり湯島神社と神田明神の往来が不便なったため、敷地を提供し坂道を整備した。これが清水坂となった所以である。

妻恋神社
清水坂をちょっと上り、右に折れる。日本独特のホテルの前にささやかな社。社殿もコンクリート造りと少々赴きが乏しい。日本武尊ゆかりの社伝をもち、江戸の頃は王子稲荷神社とならんで稲荷社を勧請する際の惣社、総元締めであった社の雰囲気は、今はない。
日本武尊が東征の折、東京湾を渡り房総に向かう時、突然の大暴風雨。海神の怒りを鎮めるべく、妃の弟橘姫が海に身を投じる。妃を慕う日本武尊を思い、妃と尊を祀ったのが妻恋神社の始まり、とか。 「吾嬬者耶(あづまはや)」 (ああ、わが妻よ、恋しい)と言ったエピソードは散歩のいたるところで出会うので、縁起は縁起とするだけであるが、この神社の「縁起」物として名高いのは七福神を乗せた宝船の版画。「夢枕」と呼ばれ、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるとして売り出され、大いに人気を博したとのことである。
境内を離れる。日本独特のホテルには少々違和感があるも、この湯島天神の西側は明治維新後に栄えた花街・三業地。昭和のはじめには芸子置屋59軒、芸者100人以上、待合が31軒もあった、という。教育の街・文京区にこの類(たぐい)のホテルは如何に、との議論も多いが、歴史を踏まえてのホテルであろうから、「衣食足って」の後の「礼節」の話には、少々違和感あり。

霊雲寺
妻恋神社を離れ、三組坂上交差点に。家康亡き後、お付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」にこの地が与えられた。三組坂から湯島天神に向かう途中に大きな甍が見える。霊雲寺にちょっと寄り道。堂々たる堂宇は戦後再建されたコンクリートつくりのようだが、往時の威勢を少し感じる。チェックすると、江戸の頃柳沢吉保の帰依を受け、ために時の将軍である綱吉からこの地を得て寺を開いた。幕府から朱印状を受け元禄の頃は関八州の真言律宗の総本山であった、とか。
霊雲寺が知られるのはその結縁灌頂。出家に際してその守り本尊を決める儀式。目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、その落ちたところの仏と結縁する。ここで結縁した衆生の数は4万人近くいた、という。本堂の脇に灌頂堂が残る。江戸の名所図会にもこのお堂が描かれていた。

湯島天神
春日通り・湯島天神入り口を少し折り返し湯島天神に。境内に梅の木が並ぶ。紅梅、白梅併せ梅の名所となっている、と。湯島天神といえば、「♪湯島通れば想い出す お蔦 主税の 心意気♪」というフレーズを思い出す。「湯島の白梅」の歌詞の一部である。泉鏡花原作の『婦系図』、正確には原作をもとにした芝居でのお蔦と主税の別れの舞台がこの湯島天神となっている。『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。......私にゃ死ねと云って下さい。』というあの有名なフレーズである。お蔦は後の鏡花夫人がモデル、「俺を捨てるか、婦を捨てるか」と主人公(鏡花がモデル)迫る先生は鏡花の師匠である尾崎紅葉とのことである。
梅園の脇に奇縁氷人石がある。落とし物や探し人の時は石柱の右側の「たつぬるかた」に、拾ったり見つけた人は左側には「をしふるかた」に紙に書いて貼っていた、という。氷人とは仲人の意味、とか。

湯島天神は菅原道真を祀る社として知られる。社伝によれば、雄略天皇2年(458)勅命による創建と伝えられ、天之手力雄命(あめのたじからおのみこと)を祀ったのがはじまりとか。天之手力雄命って、岩屋に隠れたアマテラスを引き戻し、世に明るさを取り戻した神様。縁起は縁起としておくとして、世が下り14世紀の前半、いかなる契機か定かではないが、菅原道真の威徳を偲ぶ郷民が京都の北野天満宮から天神様を勧請した、と。15世紀後半には太田道灌に、また徳川の御代も朱印地を受けるなど篤い庇護を受けた、とのことである。

菅原道真を祀る社を天神さまとか天満宮とか言う。どういう関係なのだろう。ちょっとチェック。天神さまとは、国津神に対する「天津神」であり、どれといって特定の神様を指すということではないようだ。天満宮は天満大自在天神を祀る社。天満大自在天神とは、怨霊として畏れられた、その魂を鎮めるために道真与えられた神号である。もともとは天神と道真は別物であったようだが、天満大自在「天神」として祀られた道真と天神が次第に同一視されるようになり、天神=道真=天満、というようになったのだろう。火雷天神を祀っていた北野の社が天満大自在天神=菅原道真を祀るようになり北野天満宮となったのはその証。
湯島天神は学問の神とはいいながら、婦系図の舞台など妙に艶めかしい。妻恋神社のところでメモしたように、花柳界が周りにあったのが大いにその遠因であろう。また、この神社は江戸の頃、富クジ発行の社としても知られる。聖俗併せ持つ社であろう、か。
それはそれとして、湯島の地名の由来。件(くだん)の如くあれこれ説がある。が、どれもしっくりこない。崖下一面は湿地であり、本郷台地の端にあるこの地が「島」のように見えた、と。それはそれでいい。が、「湯=温泉」が出たから、との説は如何にも不自然。「斎の島」からとの説もある。台地の突端にあり、昔はここに神を祀りその斎場があった、とする。「斎(いつき)の島」が、「ゆつきのしま」>「ゆしま」と転化したとする。台地の突端の斎場といった論は、よさげな気もするのだが、よくわからない。
湯島ではない表記もある。菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されている。武州豊嶋郡江戸油嶋郷と表記されているケースもある。はじめに「音」があり、それに「漢字」を被せるわけだから、表記をそのまま鵜呑みにすることはできないが、由井には「湿地」の意味がある。湿地帯に浮かぶ島、といったイメージは如何にも、いい。真偽の程は定かではないが、自分としては結構気に入っている。

麟祥院
春日通りの坂を少し上り麟祥院に向かう。坂は湯島の切通し坂と呼ばれていた。昔の奥州街道であった崖下の道を切り開き本郷台地と御徒町方面を結んだ。現在は湯島天神の逆方向にはマンションが建ち、地形がはっきりしないが、明治末期の写真を見ると崖上が緑地となっており、それなりに切り通しの雰囲気が感じられる。江戸の頃は急坂であったようだが、明治37年には上野広小路と本郷の間に電車が走るようになったため、緩やかな坂にした、という。
麟祥院は三代将軍徳川家光の乳母である春日局の菩提寺。寺の名前は春日局の法号から。境内は品のいい雰囲気。明治になって、この地には東洋大学の前身でもある哲学館が創立された。創立者である井上円了さんは中野散歩のとき、哲学堂で出会った。

講安寺
麟祥院を離れ、坂を少し下り「切通し公園」に向かう。切通しの名残でもないものか、と辿ったのだがありふれた公園でしかなかった。道なりに進み、お屋敷の塀をぐるりと一回り。趣のある坂に出る。案内に「無縁坂」と。その昔、この坂上にあった無縁寺によるとか、周囲武家屋敷が多いが故に、武家に縁がある>武縁>無縁、など例によって地名の由来はあれこれ。さだまさしの歌・「無縁坂」の舞台でもある、とか。
坂の途中に講安寺。土蔵造りの本堂が面白い。外壁が漆喰で塗り固められ防火対策を施している。住職の遺言として「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」とある。

旧岩崎邸庭園
坂を下り、長い塀に沿って南進み旧岩崎邸庭園に。もとは越後高田藩・榊原氏の江戸屋敷跡。明治になり三菱財閥・岩崎家の屋敷となった。現在残る建物は三菱財閥三代目当主である岩崎久弥の館。洋館と撞球室の設計は英国人ジョサイヤ・コンドル。建物は重要文化財となっている。旧古川庭園の洋館や綱町三井クラブ、三菱一号館など散歩の折々にコンドルの作品に出会う。明治期のお雇い外国人として来日し、日本の近代建築の基礎をつくった人である。戦後はGHQに接収され、その後最高裁判所の司法研修所として使われていたが、現在は都立の庭園として公開されている。

境稲荷神社
東大構内東端に沿って道なりに進む。やたら朱のあざやかな小ぶりの社がある。境稲荷神社。創建時は不明。文明年間、15世紀の中頃に室町幕府の足利義尚が再建したとの伝承がある。社の名前は、この地が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることによる。この社はかつての茅町(現在の池之端1,2丁目の一部)の鎮守であった、と。茅町とはいかにも茅の原というか、湿地のイメージ。昔は一帯が低湿地であったのだろう。
社の北脇には弁慶鏡ヶ井戸。義経主従が奥州に向かう途中、弁慶がこの井戸をみつけ喉を潤した、とか。江戸の頃には名水として知られ、戦中には被災者の渇きを癒したと。

言問通り
東大構内に沿って言問通りに向かう。道の途中に立原道造記念館とか弥生美術館・竹下夢二美術館がある。時空にはフックがかかるが情感にあまりに乏しい我が身としては、立ち寄るのも少々敷居が高い。素通りし言問通りに。根津に向かって少し下ると道の左手、東大農学部側に「弥生式土器発祥の地」の案内。東大農学と工学部の境(ゆかりの碑、のあるところ)、根津小学校裏の崖、東大工学部内弥生二丁目遺跡など諸説ある弥生式土器発祥の地の案内がある。いずれにしても往古一面の海を臨む本郷台地の端。そこに弥生の民が住んでいたのだろう。

弥生式土器発祥の地
更に少し根津方面に下ると、道の反対側、東大工学部側に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑があった。ここも弥生土器発祥の候補地のひとつ。明治17年、東京大学の先生たちが根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見。それがどうも従来の縄文式土器とは異なる、ということで土地の名をとり弥生式土器と名付けられた。
弥生の地名は水戸斉昭公の歌碑の詞書から。江戸の頃、このあたりは水戸藩の中屋敷。明治となり町名を決めるに際し、水戸藩の廃園にあった歌碑の詞書き、「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ;名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」の中から「やよひ(夜余秘)>弥生」を取り出し、向ヶ岡弥生町とした。

本郷追分
言問通りの弥生坂を上り返し本郷通りとの本郷弥生交差点に向かう。弥生坂は先ほど歩いてきた弥生美術館方面からの道との交差点あたりまでのよう。坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったため、鉄砲坂とも呼ばれている。更に上り本郷弥生交差点を右に折れるとほどなく道はふたつに分かれる。そこが本郷追分と呼ばれた中山道と岩槻街道・日光御成道の分岐点。
街道が別れる角に一里塚の案内が残る。日本橋を出た中山道はこの地で1里となる。一里塚の案内がある家屋は高崎屋とあった。江戸の頃、追分には酒・醤油を商う高崎屋と青果を商う八百屋太郎兵衛という大店があったとのことである。この高崎屋はその後裔だろうか。上方からのブランド品:下り物に対抗するため、「下らない物=江戸近辺の地回り品」である定評ある野田や銚子の味噌や醤油に「江戸一」といったブランドで現金大安売りをおこない身代を築いたと言う。八百屋太郎兵衛は八百屋お七の実家、とか。

大円寺
17号線・中山道を白山に向かって進む。白山上交差点の少し手前に大圓寺。なにげなく寄り道。「ほうろく地蔵」がある。「八百屋お七」にちなむ地蔵尊であった。天和の大火(1682年)の際、避難した寺(円乗寺)で見初めた寺小姓に恋慕。火事が起これば再び会えるかと、実家に付け火。小火(ぼや)で終わったものの、付け火は大罪。火あぶりの刑を受けたお七を供養するため建立されたお地蔵さま。お七の罪業を救うため、熱した焙烙(素焼きの土鍋)を頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、その後このお地蔵さまは頭痛・眼病・耳や鼻といった首から上の病に霊験あると人々の信仰を得た。
お七が避難した円乗寺はすぐ近く。お七のお墓もあると言う。後ほど訪れる。ちなみに目黒の散歩で訪れた大圓寺は、お七の恋い焦がれた吉三が仏門に入り修行した寺。寺の名前が同じであるのは単なる偶然、か。
また、この寺には高島秋帆が眠る。高島平散歩の折り、松月院で出会った。徳丸が原(現在の高島平)で幕閣を集めて砲術の訓練をおこなったことで知られる。鳥井耀蔵に貶められ一時幽閉されるも、ペリー来航などの国難に直面し放免され海防指導に努める。高島平の名はこの人物の名前から。

旧白山通り
白山上交差点から旧白山通りを下る。この坂は薬師坂とも浄雲寺坂とも白山坂とも呼ばれる。薬師坂は坂の途中にある妙清寺の薬師堂から。浄雲寺坂はこれも坂の途中にある心光寺の寺号である浄雲院より。白山坂は坂を少し奥まったところにある白山神社から。白山神社は後ほど訪れることにして、坂を下り白山下交差点を左に折れ円乗寺に向かう。

円乗寺
路地といった雰囲気の円乗寺の入口に、お七の地蔵尊。今ひとつ寺域といった赴きに乏しい「小径」を進むと本堂横に三基の墓があった。住職や住民や、そして演じたお七が当たり狂言となった寛政年間の歌舞伎役者の岩井半四郎が建てたもの。お七の事件は世間の耳目を集めたのか、事件の3年後、貞享3年(1686)には井原西鶴によってお七が取り上げられた。お七が有名になったのもこの歌舞伎・浄瑠璃故のことではあろう。とはいうものの、そのブームもいつまで続いたのか、太田南畝が『一話一言』を書いた天明5年(1785)の頃には墓は荒れ果てていたようだ。「石碑は折れ、無縁の墓のため修繕もできない」とある。再びお七が有名になったのは、その少し後、上で目もしたように岩井半四郎の演じたお七が大人気となり、石塔を建ててからである。虚実入り乱れた八百屋お七の話は、恋い焦がれた寺小姓も吉三、とか吉三郎だとか、庄之助、とか佐兵衛とかあれこれ。

東大下水の支流・北指ヶ谷跡
白山坂下交差点に戻り、坂を少し上り戻し、なりゆきで左に折れて白山神社に向かう。白山神社への道は一度窪み、再び上りとなる。窪んだあたりは昔の東大下水の支流のひとつ、六義園から下る通称・北指ヶ谷の流路ではなかろうか。六義園からの水路は東洋大学前交差点で旧白山通りを越え、蓮久寺や妙清寺脇を下り、白山坂下で駒込方面から下る東大下水の本流・西指ヶ谷で合流する。

白山神社
複雑なうねりの地形を眺めながら白山神社境内に。開基は古く10世紀の中頃、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請。時代は下って江戸の頃、二代将軍秀忠の命により巣鴨原(現在の小石川植物園)に移すも、その地を館林藩主松平徳松(後の5代将軍綱吉)の屋敷造営のため、17世紀の中頃この地に移った。この縁もあり社は綱吉とその生母・桂昌院の篤い帰依を受けた。この神社の祭神として菊理媛(くくりひめ)がいる。イザナギが変わり果てた妻のイザナミに少々恐れをなし諍いを起こしたときに仲直りをさせた神さまとか。ために、縁結びの神、最近では、はやりのパワースポットとして菊理媛におまいりする人がいるとか、いないとか。それにしても、菊理媛って、古事記には登場しないし、日本書紀にもほんの一言だけ登場する神さま。「(イザナミから一緒に帰れないとの伝言を伝える、黄泉の国の番人の台詞に続いて)その時菊理媛も語った。イザナギはそれを聞いてほめ、別れて立ち去った」、と登場するのみ。何を語ったのかも書かれていない。死者の言葉を取り次ぐ、あの世とこの世の橋渡し=仲介をする、といったことから縁結びとなったのだろうか。よくわからない。
境内には富士浅間社・稲荷社・三峰社・天満天神社・山王社・住吉社といった摂社が祀られる。富士神社には小高い富士塚が残る。富士参詣に行けない人の模擬富士登山・信仰のために塚が立つ。八幡神社は10世紀中頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家がこの地に御旗を掲げ京の石清水八幡を勧請。戦勝を祈念した。ということは、このあたりに奥州への古道が通っていた、ということ、か。

吉祥寺
次の目的地は吉祥寺。東大下水の支流・北指ヶ谷跡かな、と思う道筋を辿り旧白山通り・東洋大学交差点付近に上る。その後は成り行きで北に向かい本郷通り・吉祥寺前交差点に。
本郷通りに面して風格のある山門が残る。参道に入ると脇にお七・吉三の比翼塚とか二宮尊徳の墓碑などもある。榎本武揚や鳥井耀蔵もこの地で眠る。先に進むと如何にも広い境内というか駐車場。30年ほども前にこの寺を訪れたときのうっすらとした記憶では、もっと構えの小さいお寺さま、といったものであったので、少々戸惑う。境内というか駐車場脇にこれまた風格のあるお堂がある。このお堂は教蔵。檀林寺の図書館といったところ、か。それにしても広い。その昔、曹洞宗の檀林(学問所)として学僧1000名を越え、七堂伽藍を誇ったお寺ではあるが、戦災で灰燼に帰した、という。このアンバランスなほどのスペースは、そのうちに往時の堂宇の再建を考えてのことであろう、か。檀林は現在の駒沢大学の前身である。
寺の歴史は古く室町の太田道灌の頃に遡る。道灌が築城の江戸城内に開山。その後江戸時代になり、水道橋津金に移る。水道橋も当時は吉祥寺橋と呼ばれていた。この地に移ったのは明暦の大火の後。寺院を江戸の町中から周辺に移した。火の気が多い寺院は火災もとになることが多かったのだろう。ちなみに中央線の吉祥寺は、明暦の大火で罹災した水道橋脇の吉祥寺門前の住民が移り住んだことからその名が付けられた。

目赤不動
吉祥寺前交差点を少し本郷方面に戻り、道脇にある目赤不動・南谷寺に向かう。お堂は本堂脇、二間四方といった、つつましやかなもの。もとは不忍通りと本郷通りを結ぶ動坂あたりにあり、赤目不動と呼ばれていたようだが、三代将軍家光が駒込に鷹狩りの折り、府内目白・目黒不動の因縁をもって目赤不動とすべし、ということで目赤不動となった、と。江戸名所図会には「目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?~一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624-44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ」とあり、家光によりこの土地を賜ったのは記録に残るも、目赤となったのは後の世、とも読めるが、それはそれとして府内五色不動のうちのひとつ、目赤不動が誕生した。
日本各地に五色不動が残るが、江戸の御府内の五色不動も知られる。目黒(目黒区下目黒の滝泉寺)・目白不動(江戸の頃は文京区関口の新長谷寺。現在は豊島区高田の金乗院)は江戸の前から存在していたようだが、江戸の頃のこの目赤不動が生まれ、明治以降に目青不動(世田谷太子堂)、目黄不動(江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺の2つ)が登場して現在に至る。

動坂
駒込の富士神社に向かう。近くに先ほどメモした動坂がある。このあたり、現在の駒込病院のあたりは鷹場のあったところという。動坂下から天祖神社にかけては御鷹匠屋敷や御鷹部屋などもあった。目赤不動での家光の鷹狩り云々の所以である。現在その名残があるとも思えないが、とりあえずちょっと寄り道。道すがら駒込名主屋敷跡。慶長年間というから17世紀の初頭、この地を差配した名主の屋敷。趣のある門が残る。現在もお住まいのよう。
成り行きで天祖神社に進み、道坂上あたりをかすめ、このあたりに鷹場があったのだろう、とか、目赤不動のもともとの赤目不動の祠があったのだろう、などと往古を想い富士神社へととって返す。

駒込富士神社
駒込の富士塚として知られる。散歩の折々に富士塚が現れる。所沢・佐山湖脇の荒畑富士、葛飾・飯塚の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。通常、塚と社殿が分かれていることが多いのだが、この神社は塚の上にのみ社殿がある。社殿部分は平らになっており、富士塚でよく見るお椀を伏せた、といった形状ではない。長さも40mほどもありそうで結構大きい。古墳跡とも言われるが、定かではない。元は本郷にあったとのことだが、その地が加賀藩の江戸屋敷となったため、この地に移った、とか。
富士塚は富士信仰のため富士山に見立てた造った塚。冨士講を組織し富士への参拝を本旨とするも、すべての人が富士に行けるわけもなく、その代わりとして各地の富士塚をお参りする。食行身禄などにより江戸で広まり、「江戸八百八講 講中八万人」と言われるほどになった。食行身禄の生涯は新田次郎さんの『富士に死す』に詳しい。

六義園
本郷通りを進み不忍通りとの交差点・上富士前交差点を少し先に進み六義園に。六義園は五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷として造った庭園。平坦なところに土を盛り、水は千川用水から導水し7年の歳月をかけて造り上げた。
柳沢家は甲府、大和郡山と領地は移るも、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで続く。維新後は三菱財閥を興した岩崎弥太郎が入手。現在の赤煉瓦はそのときのもの。関東大震災や戦災に被害を受けることもなく現在に至る。
なお、六義園の六義とは紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとか。「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法。3とおりの体裁「風」「雅」「頌」という三通りの体裁と、「賦」「比」「興」からなる三通りの表現法から構成される。紀貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した、と。「風」は各地の民謡、「雅」は貴族・朝廷の公事・宴席の音曲の歌詞、「頌」は朝廷の祭祀の廟歌の歌詞、「賦」は心情の吐露、「比」はアナロジー、「興」は詩情を引き出す自然を歌うさま、といったもの、とか。

本念寺
長かった散歩も次が本日最後の目的地である本念寺。蜀山人こと太田南畝が眠る。通りを進み千石1丁目交差点で左に折れ白山通りに入る。千石駅前交差点で旧白山通りと別れ白山通りを下る。この道筋は東大下水の本流・西指ヶ谷の流路ではあったのだろう。緩やかな坂道の途中、京華高等学校の通りを隔てたあたりを右に折れ、台地を上る。ほどなく本念寺に。
ささやかなお寺さま。ここに大田南畝が眠る。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々に出会う。上野公園の蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時は水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行いお賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧をみるにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。
本念寺の向かいにある浄土寺には松平忠直卿の墓がある、とのこと。それにしては少々趣に乏しい、ということで、軽くお参りし、成り行きで地下鉄三田線・白山駅に向かい、本日の散歩を終える。


文京区散歩その壱

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本郷台地を辿り指ヶ谷の谷筋に。更に小石川台地を越えて神田川の川筋へ再び下る

文京区を歩くことにした。実際のところ、文京区は散歩の折々に幾たびと無く「掠め通って」はいる。豊島区の染井霊園にその源を発する谷田川(下流部では藍染川とも呼ばれる)、現在では川筋などなく道路を辿るだけなのだが、ともあれ本郷台地東側の川筋跡を根津谷に下ったことがある。同じく豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池に源を発する谷端川(小石川とも千川とも呼ばれる)を下り、これもまた、今では川の面影など何処にもないのだが、その川筋跡を辿り白山台地と小石川台地の間の谷筋を後楽園まで下ったこともある。また、日暮の里・日暮里から上野台地に上り、一度根津の谷に下った後再び本郷台地に上り、またまた千川の谷に下りさらには小石川の台地を経て神田川に下ったこともある。こうしてみると、どれも武蔵野台地の東端にある文京区の、台地とその台地を刻んだ川筋を辿ったわけで、時空散歩の「空=地形」を楽しんだ、ということであろう。
今回の文京区散歩と銘打つも、いまひとつルートが思い浮かばない。根津神社にしても、後楽園にしても、伝通院や白山神社にしても折に触れて訪ねており、一筆書きを信条とする我が身としては、その地を再び訪ねる強い動機に今ひとつ欠ける。思案の末、というほどのこともないにだが、とりあえず郷土歴史館に行き、なんらかの「きっかけ」を得るに莫如(しくはなし)、ということで、まずは文京区ふるさと歴史館に。

本日のコース;JR総武線水道橋駅>神田上水掛樋跡>金毘羅宮>忠弥坂>昌清寺>本郷給水所公苑>壱岐坂通り>三河稲荷神社>春日通り>文京ふるさと歴史館>炭団坂>坪内逍遥旧居跡>菊坂>樋口一葉旧居跡>宮沢賢治旧居跡>本妙寺跡>長泉寺>本郷菊谷ホテル跡>菊坂通り>本郷通り>本郷三丁目交差点(春日通り_本郷通り交差点)>かねやす>桜木神社>法真寺(樋口一葉ゆかりの地)>石川啄木ゆかりの地>菊坂下交差点>白山通り・西方交差点>樋口一葉ゆかりの地>善光寺>沢蔵司稲荷>伝通院>春日通り>安藤坂>諏訪神社>神田川_白鳥橋>大曲>JR飯田橋駅

神田上水の掛樋跡
「文京区ふるさと歴史館」は文京区本郷4丁目にある。最寄りのJR野駅・水道橋で下車。水道橋と言えば、その名前の由来ともなった神田上水の掛樋(懸樋)跡が駅のすぐ近くにある。神田川に沿って外堀通りを少し上ると道脇に神田上水掛樋跡の碑。
掛樋のあたりの神田川の谷は深い。この谷は、人工的に開削されたもの。元々の川筋は飯田橋あたりから南に下っていたのだが、それでは江戸城が水害に晒される、ということでお茶の水の台地を切り開き現在の水路を開いた。水路用に切り開いたものではなく、江戸城の北方防備のため本郷台地を切り崩して造った外堀を活用した、との説もあるが、それはともかく、仙台の伊達藩が6年の歳月をかけて切り開いた。その故にこの谷は仙台堀とも伊達堀とも呼ばれる。掘り起こされた土は低湿地であった神田・日本橋一帯の埋め立てに使われた、と。
掛樋の通る神田上水は、江戸の人々、といってもお武家様中心ではあろうが、その飲み水を確保するため、遠く現在の吉祥寺にある井の頭の水を江戸の町まで引いたもの。もともとあった平川の自然水路を整備し直し、流路を井の頭までのばし、現在の神田川の流路がつくられた。神田上水は江戸川橋近くの関口大洗堰で神田川から分水される。神田川から分かれた上水の水路は現在の後楽園、当時の水戸徳川家の上屋敷に入り、その余水はさらに進みこの地で掛樋を渡る。掛樋を越えた上水は、神田や日本橋の武家屋敷を潤し、そしてその余水が町屋に流された、とのことである。

文京区ふるさと歴史館に向かうべく、外堀通りを下り白山通りの交差点に。交差点脇にある都立工芸高校前に住所案内。歴史館への道すがら、なにか見どころはないものかとチェック。金比羅宮とか昌清寺とか三河稲荷とか、いくつかの神社仏閣がある。どうせのことならと、成り行きで辿ることにする。

金比羅宮
白山通りを一筋入ったあたり、宝生能楽堂の北に金比羅宮。このあたり元は高松松平家下屋敷。金比羅山さんと言えば四国の讃岐。虎ノ門の金比羅宮は讃岐丸亀藩の邸内祠と言うし、ここの金比羅さんも高松藩の邸内祠かと思ったのだが、事はそれほど簡単ではなかった。もとは江戸の町人がつくった邸内社。あれこれ経緯はあるものの明治23年に深川に移り「深川のこんぴらさん」などと呼ばれ人々の信仰を得ていた、と。その社も戦災で焼失。昭和39年に高松松平家より下屋敷跡のこの地の寄進を受け、社を建てた。その際に江戸の頃、松平家下屋敷の邸内社であった金比羅様も合祀された、とのことである。
金比羅さんは、ヒンズー教のクンビーラ神から。ガンジス川に棲むワニが神格化されたものであり、その「水」との関連故に竜神・水神として信仰され、海難とか雨乞いの守護神として信仰されるようになったのだろう。お宮はこじんまりしているのだが、狛犬がちょっとユニーク。阿吽それぞれが、授乳であるような、子供を宿しているような姿をしていた。

忠弥坂
昌清寺に向かう。桜蔭学園の東、坂を上ったところにある。桜蔭学園は東京高等女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の同窓会が母体とのこと。お茶の水の聖橋脇にある湯島聖堂、と言うか昌平坂学問所は、現在は小じんまりとした佇まいではあるが、往時は広大な敷地をもっていた。その敷地は現在の東京医科歯科大とか順天堂医院あたりを含めたものであり、明治に入り、敷地跡に東京女子高等師範学校が建てられた、という。桜蔭学園創立の所以を納得。
桜蔭学園脇の急坂を上る。坂の途中に案内。チェックすると「忠弥坂」とある。文京区教育委員会の案内によれば、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、また慶安事件に連座し逮捕された場所にも近いということで名付けられた。慶安事件とは、忠弥が由井正雪とともに幕府転覆を企てた一大事件のことである。

昌清寺
桜蔭学園のすぐ東に昌清寺。小じんまりとしたお寺さま。文京区教育委員会の案内によれば、開基は駿河大納言忠長卿(家光の弟)の乳母。二代将軍秀忠と母のお江は兄の家光より忠長を愛で、次期将軍を忠長に譲ろうとした。が、家光の乳母である春日局は「長序の順を違うべからず」と家康に直訴し、結局三代将軍は家光と決まる。忠長は駿府城主となるも、心穏やか成らず、さらに大阪城主も求めた。ために家光の怒りに触れ領地は没収、高崎城に幽閉され自害に追い込まれる。28歳であった。
忠長死後、忠長夫人のお昌の方は剃髪し松考院となる。乳母のお清も剃髪し、お昌の方より一字をもらい、昌清尼と称する。松考院は忠長の菩提をとむらうにあたり、公儀に配慮し自分にかわり、乳母であるお清・昌清尼に菩提を弔わせた、と。乳母が開基の所以にもドラマがある。

本郷給水所公苑
次はどこ、と考える。すぐ東に本郷給水所公苑があり、そこには神田上水の石樋が残されている。散歩を始めた頃、一時期、用水歩きに「萌えた(燃えた?)」ことがある。玉川上水を羽村から4回に分けて新宿大木戸まで下ったり、神田上水を井の頭から隅田川合流点まで下ったり、三田用水や品川用水、六郷用水跡を辿ったことがある。そんなこともあってか、この公苑脇にある東京都水道歴史館には幾度となく足を運んだ。そのときに公苑の石樋は見てはいるのだが、その記録もおぼろげになってきており、ついでのことなので、ちょっと寄り道。
公苑の隅に石樋が残る。結構大きい。内径は1.5mほどもある。石樋は今で言う大規模幹線水道管。石樋からは少し小さい枝線水道管・木樋を通して地中を進み、枡で分岐し、また、枡から水が汲み上げられた。江戸の昔の井戸は、自然井戸ではなく地中を通る「水道管」の水を汲み上げていた、と言うことだ。葦や芦の生い茂る低湿地、遠浅の入り江を埋め立てた江戸の町では、自然井戸で汲み上げた水は、塩気が強く、とてものこと飲めたものではなかったようだ。

三河稲荷神社
次の目的地は新壱岐坂を越えた先にある三河稲荷神社。三河は徳川の出身地でもあり、なんらかの謂われを期待して進む。これまた小振りのお稲荷さん。謂われは予想通り、三河国稲荷山隣松寺の稲荷社にはじまる。往古、家康が三河の一向一揆に立ち向かうべく隣松寺に陣を張り稲荷社に戦勝を祈願。勝利を得る。江戸入府に際し、稲荷社を吹上の地(現在の吹上御所のあたりだろう、か)に勧請。その後、御弓組がこの地に大縄地を拝領したとき、その鎮守として昌清寺に祀られる。
江戸城の鬼門防備の役割を担った御弓組も鬼門防備の任が上野寛永寺に移ったため、この地を離れ目白台に。跡地は町屋となり、三河稲荷も町屋の鎮守となる。明治になり神仏分離で昌清寺と別れるも、先ほど訪れた本郷給水所が造られる際にこの地に移った。成り行きで訪ねたお寺や公苑が、ぴったりと繋がった。成り行き任せの散歩の妙。ちなみに御弓組は文字通りの弓を操る戦闘部隊。大縄地とは職務を同じくする者に対して土地を一括して与えること。

壱岐坂
お稲荷さんを離れ、ふるさと歴史館に向かう。成り行きで進むと東洋学園脇に壱岐坂の案内。標識には、「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に元和年中(1615~1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」、と。
ということは、彦坂壱岐守屋敷と笠原壱岐守下屋敷があったということ、か。彦坂壱岐守は若年寄、大目付、大阪町奉行などを歴任した人物。「死んでも人の惜まぬ物は鼠とらぬ猫と井上河内守。吝い物は金借り浪人と彦坂壱岐守。人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守。風向き次第に飛ぶ物は糸の切れた凧と坪内能登守。人をはめる物落し穴と稲生次郎左衛門」などと「吝い」人物として揶揄されている。小笠原壱岐守は九州佐賀県唐津で当時六万石の大名。吉祥寺は現在本駒込に移っているが、当時は水道橋の都立工芸高校あたりにあった。水道橋も吉祥寺橋と呼ばれていた。

大クスノキ
壱岐坂を越えて春日通りへと成り行きで進むと大きなクスノキがあった。樹齢600年とも。これは御弓組の旗本であった甲斐庄喜右衛門の敷地内にあったもの。楠木正成の流れという4000石の旗本は明治に楠氏と改名した、と言う。このような楠が保存されているのが、誠にありがたい。

文京区ふるさと歴史館
春日通りを越えて、やっと本日のスタート地と目したところに着く。館内をぐるり。文京区教育委員会編の『文京のあゆみ』などを買い求めるが、なにより有り難かったのが、受付の方に頂いた「本郷付近の史跡地図」。史跡もさることながら、多くの名のある坂が記されている。三多摩を含め都内には502の坂があり、その内に文京区には115の坂がある、とのこと(『文京のあゆみ』より)。武蔵野台地東端に位置し、河川の開削や湧水による浸食により台地に谷が刻まれ、結果、本郷台地・白山台地・小石川台地・小日向台地・関口台地とその台地を分ける谷との間に数多くの坂道がつくられたのだろう。
少し休憩した後は、この地図を頼りに彷徨うことにする。手始めに歴史館のすぐ北にある炭団坂に向かう。

炭団坂
坂と言っても現在は石段となっている。教育委員会の案内によれば、本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂。名前の由来は、炭団などを商売にする者が多かったとか、切り立った急な坂で転び落ちた者がいた、ということからつけられた。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしており、今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりの時など転び落ち泥だらけで炭団のように真っ黒になった、ということ、か。
坂の右側の崖の上に坪内逍遥の旧居跡。明治17年(1884)から20年(1887)まで住んでいた。東大生時代に、家庭教師した親から感謝されプレゼントされた、とか。剛毅なものである。現在はオフィスビルとなっているが、この地で『小説神髄』や『当世書生気質』を著した。その後逍遥は歴史館近くに移ったとのこと。そういえば、歴史館脇にいかにも明治時代の趣を残す美しい屋敷があった。逍遥の屋敷跡ではないとは思うが、記憶に残る建物であった。それはともあれ、逍遥が移った屋敷跡は伊予の松山の元藩主・久松氏の育英事業である「常磐会」の宿舎となり、正岡子規もそこから大学予備門に通った、と。

菊坂
炭団坂を下り、下町の雰囲気を色濃く残す民家の間を抜け菊坂に下る。菊坂は本郷三丁目交差点付近から北西に下り言問通り通じるゆるやかな坂道。かつてはこのあたり一帯で菊の栽培が盛んであったのが、名前の由来。この界隈は多くの文人が居を構えたところ。震災や大戦の災禍から免れたこともあり、昭和の面影を今に伝えている。
菊坂の谷筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路。東大構内(加賀藩上屋敷)の懐徳館の庭園にある池から流れ出し、本郷通りを横切り菊坂の谷を下っていた。永井荷風は「本郷なる本妙寺坂下の溝川」と描いている。この「溝川」は同じく東大農学部(水戸藩中屋敷跡)を水源に西片と本郷の境を下ってきたもうひとつの支流と合わさり、巣鴨駅あたりより白山通りの谷を下ってきた東大下水本流に合流する。東大下水本流はさらに下って小石川(千川・谷端川)に合わさる。
菊坂の一筋東に一段低い小径があるが、これが東大下水の支流跡であろう、か。ちなみに、「下水」とはいっても、現在我々が使う下水とは少しニュアンスが異なる。低地を流れる水路といった意味が近いだろう、か。湧水からの美しい水が流れていたとも伝わる。

文人ゆかりの地
荷風の描く「溝川」に沿って民家の軒先を辿っていると、炭団坂より少し北に宮沢賢治の旧居跡があった。現在はマンションとなっている。「溝川」を少し南に下る。民家の路地を左に折れると樋口一葉の旧居跡がある。あるといっても、昔ながらの民家とコンクリートつくりの民家の間、狭い路地に井戸が残っており、それが目安となっている。数年前ここに来たときは、案内もあったようなのだが、今回は見当たらなかった。訪れる人が多く、取り外したのかとも思う。迷惑にならないよう、早々に退却。

鐙坂
井戸の先に石段があり、その石段を跨ぐ、これまた年期の入った木造建築がある。先に進めるような、進めないような。人が住んでいるような、いないような。意を決して、石段を登る。人の気配がする。お邪魔にならないよう、静かに軒先をかすめ先に進むと鐙坂(あぶみ坂)に出た。坂の形が鐙に似ているとか、鐙をつくる職人がいたとか、由来はあれこれ。坂を少し上り、言語学者である金田一家の屋敷跡の案内あたりで引き返し菊坂に戻る。
今なお井戸の残る民家の軒下を進み菊坂の道筋に。胸突坂の手前に蔵造りの建物がある。伊勢屋と呼ばれるこの質屋は一葉ゆかりの地。金策のため通ったとの案内があった。

本妙寺跡
胸突坂を上る。上りきったあたりに趣のある建物。旅館鳳明館とある。明治の下宿屋をリユースした、とか。登録有形文化財に指定されている建物を見やりながら本郷通り方面に向かって進み、法真寺の手前で右に折れ本妙寺跡に。
本妙寺は振袖火事として知られる明暦の大火の火元とされている。町屋や大名屋敷だけでなく江戸城の天守閣も含め江戸の市街を焼き尽く。なくなった人が3万とも10万とも伝わる。
幕府はこの大火を契機に、江戸の都市改造計画をつくる。大名屋敷や武家屋敷、寺社を江戸の周辺部に移すことになる。大名屋敷に上屋敷だけでなく、中屋敷・下屋敷がつくられたのはこのことがきっかけ、と言う。戦備防衛上、千住大橋しか認めていなかった大川・隅田川に両国橋も掛けられた。火災の避難路を確保するためもあろう。これを契機に大川東岸に深川などの町屋が開かれることになる。
振袖火事と呼ばれる所以は、供養のために燃やした振袖が本妙寺の本堂に引火し、大火のトリガーとなったから、と。もっとも、火元も本妙寺ではなく老中阿部家との説もある。老中の屋敷が火元では如何にも具合が悪かろう、ということで本妙寺が火元身代わりの役を担った、といった説もある。振袖が出火の原因とするお話はいつ頃、だれがつくったのだろう、か。八百屋お七にしても、この振袖を着ていたお嬢さんにしても、寺小姓に恋い焦がれた故の出火・大火事ってプロットは結構近い。ちなみに、本妙寺は先日谷田川(藍染川)の源流へと染井霊園を訪ねたときに偶然出会った。染井の地には明治の末に移ってきた、と。名奉行・遠山金四郎や剣豪千葉周作が眠る。

赤心館跡
本妙寺跡の坂は菊坂に下る。少し逆に戻り、道を折れて菊坂ホテル跡に向かう。多くの文人が止宿した宿も今はなく、碑が残るだけ。菊坂ホテル跡を離れ、長泉寺を抜けて菊坂に下る途中に赤心館跡の案内。石川啄木が金田一京助を頼って上京し下宿した宿。作品は売れず苦しい生活であった、とか。有名な「たはむれに母を背負ひて そのあまり輕きに泣きて 三歩あゆまず」はこの時代に作品。

見返り坂・見送り坂
菊坂に下り、坂を本郷通りへと上る。ゆるやかな坂を上り切った本郷通りのあたりは。往古、見返り坂・見送り坂と呼ばれていた。本郷通りは本郷三丁目から菊坂にかけて微かに下り、菊坂から赤門にむかって微かに上る。この境目に橋があったと、言う。東大下水の支流に架かる橋であったのだろう。
道脇にある案内によれば「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃、追放の者など、此処より放せしと。いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんか別れの橋なりしといひ伝へり。太田道灌の頃罪人など湖の此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや。」、と。江戸を追放される科人がこの橋を渡り見返り、そして親子が見送ったのであろう。

桜木神社
本郷交差点の脇を少し入ったところに本郷薬師。江戸に奇病(マラリア)が流行ったとき、このお薬師さまに祈願して病気が治まった。以来ここの縁日は神楽坂にある善国寺の毘沙門様とともに大いに賑わったようである。その傍に桜木神社。太田道灌が江戸築城に際し、京都の北野天神を勧請し、江戸城内にまつる。将軍秀忠の時、湯島の高台・桜の馬場に移し近隣の産土神として桜木神社と名付けられた、と。その後、綱吉が湯島聖堂をつくるに際し、この地に移る。名前の由来は桜の馬場からとの説と、ご神体が桜で彫られているとの説がある。

かねやす
本郷三丁目の交差点脇に「かねやす」の看板をつけたビルがある。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と呼ばれる「かねやす」の現在である。兼康祐悦という口中医師(今で言う歯医者)、がはじめた乳香散(にゅうこうさん)という歯磨粉を売るお店があった。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とは、「かねやす」のあたりが江戸の町の境であった、ということだろうが、実際のところ、町奉行の支配は巣鴨辺りまでカバーしていたようで、この辺りが江戸の境と言うわけでもないようだ。世に言われる解釈は、「かねやす」を境にした街並みのコントラストによる、と。大岡越前守が防火のため、江戸の町屋は土蔵造りや瓦屋根を奨励したことにより、土蔵造り・瓦葺きの江戸の街並みと、その先にある中山道沿いの茅葺の家並みの境目が「かねやす」あたりであった、よう。現在の「かねやす」は洋品店となっている。

一葉桜木の宿
「かねやす」を離れ、本通りを東大・赤門方向へ進む。赤門の対面あたりに法真寺。ここも樋口一葉ゆかりの地。この法真寺の東隣に一葉が4歳から9歳まで過ごした、通称「一葉桜木の宿」があった、とか。現在は駐車場となっているあたりだろう。一葉がこの地に住んでいたころは、親の事業も順調であったようであり、恵まれた家庭で過ごしていた、と。『ゆく雲』の中で「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と描いているのが当時の法真寺。境内には今も腰衣観世音菩薩像が御座(おわ)します。なお、桜木の宿の由来は「詞がきの歌より」にある、「かりに桜木のやどといはばや、忘れがたき昔の家には いと大きなる その木ありき」から、だろうか。

啄木ゆかりの地・蓋平館別荘
法真寺を離れ、本郷台地を下り、次は小石川台地へと向かうことにする。東大正門あたりから成り行きで本郷通りを右に折れ先に進むと、道の途中に石川啄木ゆかりの宿の案内。蓋平館別荘とのこと。貧窮に喘ぐ啄木を助ける金田一京助の配慮で、赤心館よりここに移った、と。日誌には、「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言って、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは担かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。三階の北向の部屋に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる」とある。

言問通り
蓋平館前の新坂を下り言問通りに出る。本郷通の東大農学部前の交差点から下るこの道筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路でもあったのだろう。言問通りには天空に架かる、というのは少々大げさではあるが、通りを跨ぐ橋・清水橋がある。樋口一葉の日記には「空橋」と描かれている。「空橋のした過る程、若き男の、書生などにやあらん、打むれて、をばしば(らんかん)に依りかかりて()」などとある。農学部あたりを水源とする東大下水の支流が、往時谷底であったこの言問通りを流れていたのだろう。

石坂
言問通りを下り、白山通りの手前にある石坂にちょっと立ち寄り。坂の途中にあった案内によれば、石坂の上の台地一帯、旧中山道まで備後福山藩十一万石阿部家の中屋敷と幕府の御徒組・御先手組の屋敷があった。明治から昭和初期にかけて阿部家自らが宅地開発をし、東大も近いという環境もあり、坪井正五郎、佐藤達次郎、木下杢太郎、夏目漱石、佐々木信綱、和辻哲郎といった多くの学者が住む瀟洒な住宅街となった、とか。戦災からも免れ、明治の趣を伝える街並みが残る、とのことであるが、少々時間がタイトになってきた。坂を上りきったあたりで引き返す。ちなみに、地名の由来はその昔、中山道を挟んで両側に町ができ。街道の東側を東片町、こちら右側を西片と名付けられた、とのことである。

白山通り
言問通りに戻り、白山通りへ。交差点を少し北に行った道脇、洋服のチェーン店の店先に樋口一葉終焉の地があった。この白山通りは東大下水の本流の流路。巣鴨駅付近を水源に、いくつかの支流を合わせ本郷台地と白山台地の間を下り、最後は小石川台地と白山台地の間を下ってきた小石川(千川・谷端川)と合流する、というか、していた、と。今は車が走る通りに川筋の面影を見るのは少々難しい。

小石川・千川筋
白山通りを渡る。通りの一筋西にも大きな通りがある。都道426号線のこの道は小石川(千川・谷端川)の川筋跡。小石川は豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池を水源に、池袋の台地を、ぐるりと迂回し板橋そして大塚を経て小石川台地と白山台地の間を南東に下る。台地から平地に出た小石川・千川の川筋は流路を変え、白山通りと平行に下り、最後は白山通りを下ってきた東大下水の流路と合わさり神田川に注ぐ。
いつだったかこの小石川・千川の流路を源流点から辿り、この地の「こんにゃく閻魔」まで歩いたことがある。今回はこんにゃく閻魔をパスし、直接小石川台地に進む。ちなみに千川と呼ばれる所以は、東大下水が千川用水の水により養水されていたことによる。

澤蔵司稲荷
小石川2丁目と3丁目の間にある善光寺坂を上る。坂の途中に善光寺。元は伝通院の塔頭であったものが、明治になり善光寺と名前を変え、信州の善光寺の分院となった。善光寺の上隣に澤蔵司(たくぞうす)稲荷。縁起によれば、十八檀林(全寮制仏教学専門学校、といったもの)として多くの学僧が学ぶ伝通院に澤蔵司と名乗る修行僧が現れる。この学僧、非常に優秀で浄土教の奥義を3年で習得し、ある日「我は太田道灌公が江戸城に勧請した稲荷大明神である。浄土教を学び得たお礼に、今後とも伝通院を守っていこうと思う。ついては我のために祠を建て、稲荷台明神を祀るべし」とのメッセージ残し暁の空に隠れたという。坂道の脇に椋の大木が残るが、これには澤蔵司の魂が宿ると伝えられる。椋の樹のあたりを少し入ったところには幸田露伴が住んでいた。
澤蔵司稲荷のある慈眼院の境内には、松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。「一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川」。礫とは小石のこと。小石(礫)が多い川であったために小石川と呼ばれた。

伝通院
坂を上りきったあたりに伝通院。数年前訪れたときは本堂の改築をしていたように思うのだが、今は美しくできあがっていた。もとは小石川の極楽水に浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開いた無量山寿経寺と呼ばれる小さな寺であったが、家康公の生母である於大の方の追善のため菩提寺と定められ、徳川将軍家の庇護のもと大伽藍が整えられた。傳通院殿は於大の方の法名。また、この寺は、関東十八檀林のひとつとして、浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内に多くの坊舎(修学僧の宿舎)を有し修行僧が 浄土教の勉学に励んでいた、と。澤蔵司縁起の所以である。境内には千姫も眠る。二代将軍徳川秀忠の娘として7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁し、大阪城に入る。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後播州姫路城主本多忠刻に再嫁。波乱万丈の生涯を過ごした姫君として多くの映画や小説になっている。

安藤坂
伝通院を離れ、春日通りを越え神田川の川筋へと坂を下る。坂の名前は安藤坂。元は結構急な坂道であったようだが、明治に路面電車を通す際に傾斜を緩やかにした。名前の由来は坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩支藩・田部藩主)の上屋敷があったから。幕末の長州征伐の時、石州口総督軍の先鋒隊長に紀伊藩兵を率いた安藤飛騨守という人物がいる。長州軍に大敗したようではあるが、安藤坂の安藤飛騨守って、この先鋒隊長と同じであろう、か。
古くは坂の下は入江、江戸の頃も未だ白鳥池と呼ばれる一大湿地であったと言われる。そのため漁をする人が坂の上に網を干し、また御鷹組屋敷の鳥網を干していたので、「網坂」とも呼ばれたようだ。
坂の途中には中島歌子の案内;「塾主中島歌子(弘化元年~明治36年・1844~1903)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1,000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)などがある。明治36年、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。樋口一葉(明治5年~明治29年・1872~96)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治25年)して、小説家の道に進んだ。近くの北野神社(牛天神・春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある(文京区教育委員会)。

牛天神
坂を下り牛天神に。牛天神下を流れる神田上水を描いた「江戸名所図会」を見たことがあり、どんなところか一度訪れたいと思っていた。石段を上り崖上に鎮座する天神さまにお参り。牛天神の由来は、その昔源頼朝が奥州征伐の折り、入江に船を漕ぎ寄せこの地で休憩。その時、牛に乗った菅原道真が夢に現れ、「ふたつ願いが叶う」とのお告げがあり、夢から覚めると牛に似た石があった、とか。頼家が誕生したとか、平家鎮定といった願いも叶い、そのお礼にと牛によく似た岩を御神体とし、太宰府天満宮より天神様を勧請した。この由緒のためか、ご神体の岩を撫でると願いが叶うといわれる。
牛天神の縁起はよく聞く話ではあるので、今ひとつインパクトに欠けるのだが、結構フックがかかったのが境内にある太田・高木神社の縁起。現在は芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と武の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)のご夫婦をお祀りしているとのことだが、もともと祭られていたのは貧乏神と言われる黒闇天女。容貌(ようぼう)醜悪で、人に災難を与えるというこの女神、吉祥天の妹で、弁財天の姉。密教では閻魔王(えんまおう)の妃とされる。この貧乏神がある出来事がきっかけで福の神に転じることになる。
話はこういうことだ;小石川に住む貧乏旗本の夢の中にこの貧乏神が現れ、「住み心地がいいので長い間やっかいになったが、このたびよそに移ることにした。ついては、赤飯と油揚げを備えて私を祀れば福徳を授ける」、と。そのお告げを忘れず励行した旗本は、たちまち運が向き、お金持ちになった、とか。以来太田神社は貧乏神を追い出して福の神を呼ぶ神様として信仰を集めた。縁起自体はわかったようでわからないのだが、貧乏神がいた、ということが新鮮な驚きである。八百万の神さまの守備範囲は如何にも、広い。「江戸川をこえ、りうけうばしをわたり、すは町を北に泉松山にのぼり、牛天神のみまへにぬかづく。かたへに一つの石のほこらあり。苔むして戸ぼそなし。白駒がいふ、これ貧ぐう(窮)をまつる、よく人を禍福す。むかし小日向のほとりにすめる人、家の内の貧を逐ふとて、窮鬼のかたちをつくりて、此ところにまつれるなり」と太田南畝こと蜀山人が描いている(『ひぐらしのにき』)。

白鳥橋
安藤坂に戻り、神田川に架かる白鳥橋に。上にもメモしたが、往古東京湾はこのあたりまで入り込んでいた。その名残でもあろうか、江戸の頃も白鳥池と呼ばれる低湿地が一面に広がっていた、と。江戸になっても、このあたりまで汐が上ってきていたようで、関口の大洗に堰を設けたのは、井の頭から引いてきた神田川の真水に汐が交じらないようにとする配慮。白鳥池が完全に埋め立てられたのは明暦の大火の後と伝えられる。白鳥橋のあたりを大曲と呼ぶのは、神田川が大きく曲がっているため。白鳥橋から神田川に沿ってJR飯田橋まで下り、本日の散歩を終える。

八王子散歩もこれで五回目。よくもまあ、とは思えども、それでも取りこぼしの処がある。それも、八王子と言えば、といった処。もっとも八王子を歩きはじめる前には預かり知らなかったところもあるが、それはそれとして、山田の広園寺、小門の大久保長安の屋敷跡、元横山の八幡八雲神社、恩方の由比氏館跡などがそれである。事前準備なし、成り行き任せの散歩が基本ではあるので、結構「後の祭り」ってことが多いのだが、それにしても一度訪れないことには八王子散歩としては少々収まりが良くない。ということで、「八王子ほぼ締めくくり散歩」に出かけることに。


本日のルート;京王山田駅>広園寺>郷土資料館>天神社>念仏院・時の鐘>法蓮寺>本立寺>観音寺>八幡八雲神社>金剛院>産千代稲荷神社>追分町>日吉町(バス)>宝生寺団地入口>宝生寺>日枝神社>諏訪神社>京王八王子駅

京王線・山田駅
散歩のスタートは山田の広園寺から。最寄りの駅である京王線・山田駅に向かう。駅を下り都道506号線を北に向かうと、道は緩やかに山田川の谷筋へと下りてゆく。川の北には散田の小高い丘陵。川筋は細長く東西に延びる谷戸となっている。山田川はこの谷戸奥を上流端とし、東へと下り多摩川へと合流する。
散田って、読みは「さんだ」だとは思うのだが、通常、散田(さんでん)って、平安期の荒廃した田、とか、近世において逃散などにより耕作する農民のいなくなった田地との意味、そしてその他に、荘園領主の直属の田地といった意味ある。往古、天皇直轄地である屯倉であった多摩一帯は、平安期には舟木田庄と呼ばれる藤原氏の庄園となる。鎌倉期には頼朝によりその地は関白・九条家に寄進。さらに九条家は係累の一条家にも譲り、両家が相伝してきたが、鎌倉以降になって両家はこの地を京都の東福寺に寄進した、と言う。この地の散田って、これら庄園に関わる地名であろう、か。単なる妄想。根拠なし。

広園寺
月見橋を渡り、広園寺交差点を西に折れ広園寺に。風格のあるお寺さま。臨済宗南禅寺派。杉木立の境内には総門、山門、仏殿が並び、その脇には鐘楼が建つ。往古14万坪以上の境内に開山堂、仏殿、方丈、総門、山門、鐘楼など幾多の堂宇が結構をきわめた頃には、比ぶべくもないのだが、それでもの「結構」ではある。
寺の開基は南北朝末期というから14世紀末。片倉城主長井大膳大夫満道広とも、大江備中守師親とも。長井氏は大江広元の次男時広が頼朝の奥州征伐に従い、出羽国長井庄を領し、ために長井氏を名乗ったことからはじまる。つまるところ、どちらにしても大江広元の後裔である。
大江広元って、鎌倉開幕期の重臣。平安末期より、この地域一帯に覇を唱えた武蔵七党・横山党に代わり、この地を領した。きっかけは和田義盛の乱。横山党は和田方に与力し北条氏との抗争に敗れる。横山党の領地は、北条勝利に大きく貢献した大江広元に与えられた。
この古刹は天正の小田原征伐の別働隊である上杉景勝、前田利家軍による八王子城合戦の折、堂宇悉く灰燼に帰した。現在の建物は慶長年間、浅野行長により再興された。寺域には大江氏の館址も残る、とか。

富士森公園
道を広園寺交差点まで戻り、都道506号線を北に向かう。山田川の川筋を見下ろしながら丘陵の坂道を上る。上りきったあたりに富士森公園。今風ではない、土っぽい、なんとなく素朴な感じの公園。開園が明治29年と言うことで、それなりの風雪のなせるワザか、とも。
公園内の浅間神社にお参り。裏手に富士塚がある。富士山に行くことができない人が、代わりに参拝したもの。散歩の折々に富士塚に出会うが、葛飾区南水元の富士神社、狭山丘陵・荒幡の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。
公園から八王子の街並みを眺める。地名が台町というだけあって、結構なる高み。市街地との比高差は30m強、といったところ。坂を下り都道506号線を上野町に進む。市民会館交差点を左に折れると郷土資料館。

郷土資料館
市民会館の前、お役所の建物、と言うか、学校のような建物の中にある。1967年(昭和42年)の開館であり、多摩地方で最も古い郷土資料館である。館内には中央高速の建設時に発掘した出土品などが展示をされている。川口兵庫助の発願により写経された「大般若経」もある。室町期に活躍した兵庫助には先日の川口川散歩のとき、鳥栖観音堂で出会った。
館内には八王子大空襲の展示も。1945年(昭和20年)の8月2日、180機の爆撃機により投下された焼夷弾は67万個に及んだ、と言う。事前の爆撃予告があったとはいえ、市街の80%近くが壊滅したという大規模爆撃であった。

八王子「時の鐘」
郷土資料館を離れ、都道506号線を少し北の金剛院交差点に。左手の金剛院は後回しとし、道の向こうにある天神社、そしてすぐ横にある念仏院・時の鐘を訪ねる。天満神社はいたってあっさりした祠。「時の鐘」は元禄12年(1699年)の鋳造。八日市宿名主である新野某の発願で、八王千人道頭や同心、それに八王子15宿や近郷の人の協力により寄進された。
八日市宿は横山宿、八幡宿とともに滝山城下にあった三宿のひとつ。北条氏が城を八王子城に移すに際し八王子城下に、さらに、江戸開幕期に三宿そろってこの地に移った。

法蓮寺
ここからはしばらく千人隊ゆかりの寺を訪ねる。八王子千人隊は八王子千人頭を筆頭に、10名の同心組頭に率いられた各百人の同心よりなる。設立時は江戸の西の防御のためのものであったが、太平の世になると日光東照宮の火防・警護をする日光勤番がその主任務となった。
最初に訪れたのは法蓮寺。天満神社の南の道を少し東に進んだところにある。八王子千人隊組頭である並木以寧が眠る。19世紀中頃・天保の飢饉の頃、医をもって病者を救い、貧者に救いの手を差しのべた。幕末の社会事業家として知られる。

本立寺
法蓮寺の隣に本立寺。千人頭・原氏の開基。境内に眠る原半左衛門胤敦は、寛政11年(1799年)蝦夷開拓願いを幕府に提出。翌年100名の千人同心子弟を率い蝦夷に渡るも、幕府の政策転換により、文化5年(1808年)、志半ばにして江戸に戻ることになる。『新編武蔵風土記稿』の「多摩郡」編纂者としても知られる。

観音寺
本立寺の少し南に観音寺。石段を上がったところにある山門は千人隊頭・中村左京の屋敷門を移築したもの。行基作とも伝えられ「峰の薬師」と称される秘仏をもつ、とも。
観音寺からは千人隊ゆかりの地から少し離れ、武蔵七党・横山党ゆかりの地である八幡八雲神社に向かう。東京環状16号線を北に、JR.中央線を越え国道20号線に。そこから北に二筋上がった少し東に八幡八雲神社がある。

八幡八雲神社
この神社は八幡神社と八雲神社とを合祀したもの。八幡神社は武蔵守・小野隆泰が都の石清水八幡を勧請したもの。その後、隆泰の長子である義孝が武蔵権守となり、この横山の地に館を構え横山氏と称した。武蔵七党の一つである横山党の始まりである。ために、この地が横山党根拠地の地とされる。
横山氏は鎌倉の御家人として活躍するも、建暦3年(1212年)の和田合戦で和田義盛に与し北条に敗れ、その勢を失った。境内にある横山神社は大江広元が義孝の霊を鎮めたもの。広園寺でメモしたように、広元は和田合戦において北条勝利に貢献し、横山氏の領地を有した。 八雲神社(天王さま)は、古来深沢山(八王子城山)に牛頭八王子権現として鎮座。北条氏照が彼の地に城を築くに際し、その名にちなみ八王子城と名付け城の氏神となした。地名・八王子の由来でもある。
天正18年(1590年)秀吉軍の猛攻を受け八王子城落城。ご神体は城兵により密かに川口村黒沢の地に隠す。時を経て慶長3年(1597年)、八王子神社に合祀された。八幡八雲神社は八王子の西の鎮守とされる多賀神社に対し、東の鎮守として人々の尊崇を受ける。

金剛院
国道20号線・甲州街道に戻り少し進み、八幡町交差点を南に折れ金剛院に向かう。ゆったりとした境内のお寺様。江戸の頃には表門、鐘楼、本堂、庫裡、観音堂などが並んだと言うが、昭和20年の八王子大空襲で焼失した。品のいい雰囲気。真言宗の別格本山という寺格のためだろう、か。別格本山がどういったものか定かではないのだが、いつだったか、つつじ見物に訪れた青梅の塩船観音も真言宗の別格本山であった。あの古刹と同じクオリティと思えば、有り難みが少々わかる。
創建は天正4年(1567年)。現在地より少し南にある不動堂がはじまり。明王院と呼ばれた。その後、寛永8年(1631年)、現在地に金剛院として開山。この地が大久保長安の陣屋内にあった大師堂にあたることから、その大師堂の法灯を継ぐ形で明王院が移ってきた、と伝わる。別格本山となったのは平成4年のことである。

大久保長安屋敷跡
江戸時代初期、金剛院から北にかけて旧小門宿、現在の小門町に大久保長安の屋敷があった。JR中央線を越えた少し西にある産千代(うぶちよ)稲荷神社に大久保長安の陣屋跡の碑が建てられている。南北と西に陣屋の土手、その外周に水堀、東に表門、北に裏門があったと伝わるが、産千代神社は西の土手辺りだろう。陣屋内の鬼門除けとして祀られた産千代神社は、大木が茂り稲荷森と呼ばれていた、とのことだが、現在は閑静な住宅街といった趣である。
大久保長安は元武田家の家臣。武田家滅亡後、その才を家康に見いだされトントン拍子に出世し関東総代官としてこの地に居を構えた。行政・司法・財政を差配し、関東の人々の仕置きをすべて任されたわけであり、公事訴訟のために陣屋を訪れる人々で門前市をなした、とか。『新編武蔵風土記』に「町なかに番屋を構え、籠獄をおき非違を戒めたり」とある。小門町の地名も、裏門あたりに公事訴訟の百姓宿を建て、それが御門宿>於門宿>小門宿、と転化していった、とか。西への備えに武田家遺臣をもって八王子千人隊を組織するなど、この陣屋は、江戸開幕期において司法・行政・財政の中心地であった。
関東総奉行の職に加え金山奉行として鉱山開発、貨幣鋳造なども兼務し、権勢並ぶものなき長安も終には家康の寵を失い、長安だけでなく係累すべてに罪を及ぼすといった「粛正」が行われた。

陣馬街道
次の目的地は恩方の由比館址。甲州街道を追分で分かれ陣馬街道・案下道を5キロ程進んだところにある。日暮れも近い。追分を越え歩き始めてはいたのだが、このままでは、日没時間切れとなってしまいそう。ということで、日吉町で折良く走ってきたバスに飛び乗った。バスに乗ると、急に強気になり、どうせのことなら、由比館址の少し先にある宝生寺にまで足を伸ばすことに。先日来の八王子散歩で、「宝生寺末寺」といった寺がいくつかあり、それならば結構なお寺様かと記憶に残っていた。
陣馬街道は追分から北西に一直線に進み、北浅川に当たる手前で直角に曲がる。突き出した山稜が北浅川に「沈む」突端が切り開かれ、切り通しとなっている。この切り通し脇に由比氏館址があるのだが、それは後ほど辿ることにして、先に進み宝生寺団地入口バス停で下車。

宝生寺
陣馬街道を離れ宝生団地方面への道を北に進む。陵北公園の野球場を右に眺めながら進み北浅川・陵北大橋に。西に並ぶ陣馬の山容を眺めながら橋を渡り脇道を宝生寺に。イメージとは異なり、古刹といった趣はない。百坪もある本堂や書院、庫裡、玄関、表大門、中門、鐘楼などの堂宇が八王子の大空襲で焼失。本堂・庫裏は昭和25年、鐘楼堂は昭和43年、書院が昭和45年、その他山門、毘沙門堂を新たにつくられた、とのこと。新しいお寺様といった雰囲気はこのため、か。
開山は室町期。元は境内仏堂・大畑観音堂の別当寺であったが、15世紀のはじめ寺生寺と改めた。戦国期は滝山城主・北条氏照の帰依を受け滝山城下に移り祈願所となる。江戸時代には、関東十一談林の一つとなり、御朱印十石を賜り、末寺38ヶ寺を有する武州多摩郡の名刹として隆盛した。高尾山薬王院とならぶ古刹であった。談林とは学問所院のこと。

寺を離れ先ほど通り過ぎた切り通しまで戻る。陵北大橋で西の空を見やる。日暮れも近く、ほんのり夕焼けが陣馬の山容を照らす。先日、陣馬街道の夕焼け小焼けの道を歩いたが、日中でもあり夕焼けはなし。中村雨紅が陣馬街道・案下道を実家へと戻る恩方の道すがら、童謡「夕焼け小焼け」の歌の詩情を養った景観の一端を味わい、少々幸せな気持ちになる。案下は僧侶として仏門に入るとき準備する篤志家の家のこと。恩方は「奥方」から。奥の方といった意味、か。どちらもいい響きの言葉である。

由比氏館址
陣馬街道に戻り、切り通しに戻る。直角に折り返す切り通しを抜けると日枝神社への石段。石段を上りお参り。南から北へと突出する舌状台地の突端部分にある。散歩の達人・岩本素白さんの描写ではないけれど、「神といえども、さぞや寂しかろう」、といった風情の祠が佇む。
平安期、このあたりには由比氏の館があった、との説がある。弐分方山とも呼ばれるこの雑木林の丘は御屋敷とも呼ばれていたのは、その名残であろうか。由比氏は武蔵七党のひとつ西党・日奉氏の後裔。この辺り一帯の由比の牧の別当として力を養った。
神社の横に丘陵を越える切り通しがある。由比氏の館の堀切とも言われる。現在の陣馬街道が通る以前の案下道(陣馬街道)ではあったのだろう。館跡の遺構は、この丘陵の尾根道を400mほど下ったところの不断院あたりまでいくつか残る、とか。平安期は由比の牧を見下ろし、戦国期には八王子城の防衛ラインとして陣馬街道を睥睨していたのだろう。

壱分方町・弐分方町
由比氏の館跡を訪ね、本日の予定は終了。日没までまだ少々時間がある。諏訪町にある諏訪神社まで足を伸ばすことにした。諏訪宿といったバス停が残る。「宿」であれば歴史のある地域であろうし、それよりなにより、由比の牧のあったこの辺りを歩くのもいいか、と思ったわけである。
陣馬街道を南東に進む。街道の北は上壱分方町。南は弐分方。この地名も由比牧と縁が深い。由比牧の別当としてこの地に居を構えた由比氏は、横山氏とともに和田合戦において和田義盛に与力。北条方に破れ、牧の管理者の任を追われることになる。その後子孫は由木村に転じ由木氏を起こし、川口氏もその後裔であるのだが、それはそれとして、この地で力を失った由比氏に代わり、由比牧は天野氏に領地となった。天野氏は武田家家臣。武田家滅亡後、遠州犬井の里より北条宇氏照を頼り、この地に来た。
14世紀はじめのころ、その天野氏に土地の相続争いが起きる。執権の命により土地を三分の二と三分の一に分けて兄弟が相続。「三分の二」の地域が弐分方、「三分の一」が壱分方。とか。地名に由比の牧の名残があるとは思わなかった。

諏訪神社
上弐分方交差点から陣馬街道を離れ、道なりに進むと諏訪神社に。古色蒼然と、といったイメージとは異なり、結構あっさりした神社。往古諏訪ノ森と呼ばれ鬱蒼とした森であったが、昭和41年の大暴風雨で樹木は根こそぎ倒壊、社殿も潰された。現在は鉄筋の社殿となっている。神社の周囲は現在では人家密集。往古、由比野との通称があった牧の名残を想像するのは難しい。 諏訪神社の鳥居をくぐり陣馬街道に戻る。諏訪宿バス停でしばしバスを待ち、八王子駅へと向かい本日の散歩を終える。 
いつだったか相模の大山を訪れた。大山寺の不動明王にお参りし阿夫利神社のある山頂に。そのときは山頂から西、というか南の尾根道を下った。ヤビツ峠を経て蓑毛に下り大日堂を訪れたのだが、山頂からの下山道には東、というか北の尾根道を進むルートもある。この道を下ると同じく古い歴史をもつ日向薬師がある。
大山には三つの登山口がある。そして、そこにはそれぞれ古刹が佇む。伊勢原口の大山寺、蓑毛口の大日堂、日向口の日向薬師、がそれ。役の行者にまつわる共通の縁起をもつこれら三つの修験の大寺のうち、大山寺と大日堂には足を運んだ。残りは日向薬師。そのうちに日向薬師を歩きたいと思っていた。
先日のこと、古本屋で『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』を見つけた。亀井千歩子さんが執筆者に名を連ねている。亀井さんは昨年信州・塩の道を歩いたときに参考にした『塩の道 千国街道(国書刊行会)』の著者でもある。誠にいい本であった。ならば、このガイドもいいものに違いない、と購入。パラパラ眺めていると、「白山巡礼峠道」のコースの案内があった。厚木の七沢温泉から白山への尾根道を辿り飯山観音までのコースである。このコースだけでも結構面白そうなのだが、スタート地点・七沢温泉の4キロ程度西に日向薬師がある。であれば、ということで、少々コースをアレンジし日向薬師もカバーすることに。飯山観音をスタートし、巡礼峠への尾根道を七沢へと進み、そのまま日向薬師まで一気に進む。おおよそ11キロといった尾根道・峠歩きを楽しむことにする。



本日のルート;小田急本厚木駅>千頭橋際>飯山観音バス停・庫裏橋>金剛寺>龍蔵神社>飯山観音>白山神社>白山山頂展望台>御門橋分岐>むじな坂峠>物見峠>巡礼峠>七沢>薬師林道>日向薬師


小田急線・厚木駅
飯山観音へのバスが出る小田急線本厚木駅に。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。
厚木やその東の海老名って、あまり馴染みがない。ちょっとチェック。古代、このあたりは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。
時代は下って江戸の頃の厚木;昨日、たまたま古本屋でにつけた『大山道今昔;渡辺崋山の「游相日記」から;金子勤(かなしんブックス)』に厚木宿の昔を描いた記事があった;「全戸数当時330戸。矢倉沢往還・大山道・荻野野甲州道などが合流し、風光明媚、人馬往来の激しい、繁盛している町であった。(中略)。厚木の港町は繁盛し盛況であった。津久井、丹沢諸山からまき、炭を厚木の豪商が買い取り、帆船で平塚へ出して、そこからは海船で相模湾を通り江戸新川掘へ運び商いをした。また塩や干しいわしなどを房総諸州からこの地に運んで販売したり、山梨、長野の山中にまで販売する。厚木は水路の終点、港町であるとともに陸路の交わるところでもあった」、と。陸路の要衝というだけでなく、相模川、中津川、小鮎川が合流するこの地は水運・海運の要衝でもあった、ということ、か。
厚木と言えば、津久井とか清川村にある幕府の直轄林(御留山)から相模川水系に流した「木々を集めた」ところであり、ために「あつぎ」と呼ばれた。これが厚木の地名の由来。今回の散歩のメモをはじめるまで、厚木については、この程度のことしか知らなかった。ちょっと深堀すると当然のことながらあれこれ出てくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」とのお散歩メモのルーティン化を改めて確認。ともあれ、散歩に出かける。

千頭橋際
飯山観音行きのバス停を探す。三増合戦の地、三増峠や志田峠へと向かう愛川町の三増や半原行きのバス乗り場は、駅から少し離れたバスセンターであった。今回の飯山観音行きのバス乗り場は、駅北口にあった。バスに乗り、林、千頭橋際を経て飯山観音前に向かう。林は文字通り、林が多かったから。『風土記稿』に「古松林多かりし土地なれば村名とする」とある。千頭(せんず)って、面白い名前。由来は定かではないが、ともあれ、「数多い」って意味だろう。近くに小鮎川も流れており、その川筋が千路に乱れていた故なのか、近くに数多くの湧水がある故なのか、はてさて。
バス路線は千頭橋際交差点で県道63号線と交差する。交差点南の県道63号線の道筋は秦野の矢名へと続いていた昔の小田原街道・矢名街道の道筋だろう、か。一方、交差点から北に進む道筋は、交差点の少し先で伊勢原の糟谷から愛甲、恩名と上ってきた糟谷道と合わさり、国道412号線荻野新宿交差点に進む。この糟谷道は大山参詣道のひとつ。荻野新宿交差点から先は、三田小学校脇を通り中津川を渡り依知の長坂へと進んでいた、ようだ。坂東札所の巡礼道もこの交差点の北を東西に進んでおいる。往古、このあたりは交通の要衝ではあったのだろう。

飯山観音前バス停・庫裏橋
バスは小鮎川に沿って進む。小鮎って、鮎がたくさん採れたから、とも。相模川も鮎で有名であり鮎川とも呼ばれたわけだから、それなりの納得感もあるが、小鮎>小合、との説もある。小さな川が合わさった、との意。これまた捨てがたい。地名は昔の姿を伝えるのでメモに少々こだわるのだが、それにしても地名由来の定説ってほとんど、ない。音が先にあり、それに「文字知り」が文字表記。その文字に「物識り」が蘊蓄を加えるわけであろうから、諸説乱れて定まることなし、となるのだろう、か。
飯山観音前バス停で下車。小鮎川に赤く塗られた庫裏橋が架かる。幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真がある。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。

金剛寺
橋を渡り飯山観音に進む。道の左に金剛寺。なんとなく気になり、ちょっと立ち寄り。古き山門、その左に同じく古き大師堂。野趣豊か、というか、少々手入れ少なしの、なりゆきの、まま。最近再建されたような本堂と、いまひとつアンバランス。それはともあれ、このお寺は往古、七堂伽藍が甍を並べたであろう古刹。開山は大同2年と言うから、807年。行基による、と。
文書にはじめて登場するのは養和2年(1182年)。『吾妻鏡』にこの寺のことが記されている。金剛寺の僧から将軍に対する訴状。地域役人の横暴を非難している。そこに「謂われある山寺」、と。鎌倉・室町期の仏教教学研究の中心寺院であった、とも。
この寺には国指定重要文化財の木造阿弥陀如来坐像が伝わる。平安期の作風を残す11世紀頃の作と。また、この寺には木造地蔵菩薩坐像が伝わる。県指定文化財。身代わり地蔵とも、黒地蔵とも呼ばれる。もともとは庫裏橋のあたりの堂宇に、白地蔵と黒地蔵の二体があったとのことだが、白地蔵は不明。胎内に残る朱文によれば1299年の作と。身代わり地蔵の由来は、賊に襲われた堂守りの刀傷を文字通り肩代わりした、ため。頭部に刀傷が残る、とか。境内には頼朝挙兵の時の頼朝側近安達藤九郎盛長の墓も。

龍蔵神社
道に戻る。ゆるやかな坂道に沿って温泉宿がいくつか続く。飯山温泉と呼ばれる。1979年に最初の掘削が行われた、比較的新しい温泉である。先に進むと龍蔵神社。もとは井山神社龍蔵大権現と呼ばれる。神亀2年(725)、行基菩薩により勧請された、と。治承4年(1180年)、頼朝の願により相模六十一社となり、江戸期は家康により社領二国の朱印が与えられる。
井山神社の「井山」はこのあたりの地名・飯山の表記バリエーション、から。平安時代の承平元年(931)に源順が編纂した『倭名類聚抄』には、印山郷(いんやま)と。後に「いやま」と呼ばれ、嘉禄3年(1227)には「相模国飯山」と記されている。鎌倉期には「鋳山」と表記される。このあたりは鋳物師で有名であったため。「井山」と表されたのは元正17年(1589)の頃、と言われる。龍蔵は大乗経典のこと。竜宮にあったとの故事による。

それはそうと「井山神社」って表記だが、「++神社」という表記は明治以降のもの。座間にある龍蔵神社が往古、龍蔵大権現と呼ばれていたようなので、この地も「井山龍蔵大権現」といったものではなかったのだろう、か。勝手な解釈。根拠なし。ちなみに、「権現」って。仏が神という仮の姿で現れた(権現)とする神仏習合の呼び名。『新編相模風土記』によれば、ご神体は石一願、本地仏は阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音が祀られていた、とのことである。

飯山観音
坂道から離れ脇にある石段を上る。仁王門には阿吽の金剛力士像。お像を遮る金網がないのは、いい。さらに石段を上る。厚木市の天然記念物のイヌマキの木。石段を上り切ったところに本堂がある。開山は神亀2年(725年)。行基による、と。
本尊は行基作と伝えられる十一面観音菩薩。大同2年(807年)には弘法密教の道場となる。 銅鐘は室町中期、飯山の鋳物師・清原(物部)国光の作。物部姓鋳物師は河内国にいた鋳物師集団。建長4年(1252年)、鎌倉大仏鋳造のため鎌倉に下る。その後毛利庄に定住し多くの梵鐘をつくる。金剛寺もそうだったし、鎌倉の建長寺や円覚寺も飯山の鋳物師集団の作、という。飯山の地名の由来が、鋳山から、と言われる所以である。
飯山観音こと飯上山長谷寺は坂東三十三観音巡礼の札所六番。坂東三十三観音巡礼は鎌倉の杉本寺を一番札所とし、東京・埼玉・群馬・栃木・茨城をへて千葉県館山の那古寺まで、その全行程は1300キロに及ぶ。坂東三十三観音巡礼は鎌倉幕府の成立とともに始まった。発願は頼朝、三代将軍実朝の時に地域武将の推挙する寺をもとに三十三の寺が定められた、とも。

そもそも、観音巡礼は大和長谷寺の徳道上人が発願。花山法皇が性空上人を先達として観音巡礼を発展させる。で、近畿に広がる三十三ケ所の観音霊場をネットワークしたものが西国三十三ケ所観音札所。近江三井寺の覚忠上人が制定した、と言う。
坂東にも観音札所巡礼を、と考えたのは関東の武将達。都に往来し、西国札所の盛り上がりを目にした、おらが鎌倉にも札所を、といったノリでその機運が盛り上がってきたのだろう。発願は頼朝とメモした。鎌倉幕府が開かれた建久3年(1192年)、頼朝は後白河法皇の追悼法要を開催する。求めに応じて集まった坂東各地の僧侶100の内、21の寺院がその後坂東三十三観音札所となっている。こういった事実も相まって観音信仰篤き頼朝に花を持たせた、というのが頼朝発願、ということ、かも。

千頭橋のところでもメモしたが、観音巡礼と言えば、六番札所であるここ飯山観音から八番札所である座間の星谷寺へと続く巡礼道があった、と言う。飯山観音を下り、小鮎川に沿ってゴルフ場の南側を東へと進み、荻野新宿点前で糟谷大山道と交差。及川地区を進み清水小学校脇の妻田薬師裏を通り、中津川を渡り依知の台地をへて座間に至る。
それにしても札所七番は?札所をチェックすると札所五番は小田原・飯泉観音。六番はここ飯山観音。七番は平塚の金目観音。八番は座間の星谷寺。札所の順番通りでは小田原>厚木>平塚>座間、となり、小田原から厚木に上り、一度平塚に下り、また厚木から座間へとなる。いかにも段取りが悪い。江戸時代の、十返舍一九の『金草鞋』にも「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。ということで、西国巡礼とは異なり、坂東札所巡礼は順に頓着しない巡礼であった、よう。六番から八番といった巡礼道も、これで納得。

白山神社
飯山観音を離れ白山巡礼峠道に向かう。小高い尾根道や峠を越えて七沢に続く3キロほどのコース。最高点の白山で283m、200m前後の尾根道を3キロ程度歩くことになる。峠道への登山口は観音堂脇から続く。コースは男道と女道のふたつある。尾根筋を直登する男道を上ること15分で稜線に上る。上り切ったところに休憩用のテーブルがあったのだが、先客がいる。邪魔をしないようにと、尾根道を左に進むと、ほどなく白山神社に。
現在では小さな祠といった社ではあるが、歴史は古い。享和年間、というから19世紀初頭、龍蔵院別隆光は山頂で修行中にこの地に秋葉権現と蔵王権現を勧請すべし、との夢を見る。で、近郷の人々の協力を得て勧請したのがこの社のはじまり、と。江戸時代にこのあたりで平安時代の鏡や古瓶も発掘されている。これを龍蔵神社の宝物として現在も神社に保管している、と。
社の前に直径1mほどの池。いかなる干ばつにも水が枯れたことがない、と言う。縁起によれば、往古行基がこの池を見て、霊水の湧き出る霊地と定め、加賀国の白山妙理大権現を勧請した、とする。干ばつの時には付近の農民が集まり、この池の水を干した、と言う。この池は付近の山に住む白龍の水飲み場であり、この池の水が無くなると仕方なく白龍が雨を降らすため、との伝説からである。なかなかに面白いストーリー。

白山山頂展望台

白山神社を離れて巡礼峠へと向かう。道案内がない。神社の廻りに道を探す。神社の先北端に尾根を下る道がある。案内がないので、少々不安ではあるが、とりあえず急な尾根道を下る。その後いくつかアップダウンを繰り返し先に進むが結局行き止まり。小鮎川に北に突き出した尾根筋であり、巡礼峠とは真逆の方向。白山神社まで引き返す。
白山神社まで戻り、休憩テーブルのところに巡礼峠への道案内。ハイカーに遠慮したため見落とした、よう。少し先に進むと白山山頂展望台があった。眼下に相模の国、大山・丹沢の山塊を眺め少々休憩。

御門橋分岐
展望台からは南西方向へ尾根道を下る。ほどなく北側の御門集落から上る道と合流。御門橋まで800m、白山まで400mの標識がある。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、治承の頃、毛利の庄を治めた毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。

狢坂(むじなさか)峠
分岐点から先が「関東ふれあいの道」となる。少し上り返すと「むじな坂峠」。狢坂峠とも書かれているが、由来はどうも獣の狢でないようだ。六っの地名(白山橋・長坂・花立峠・月待場・京塚・細入江)>「むつな」が「ムジナ」に転化した、とか。現在では峠道は残っていないようだが、その昔は厚木と北の清川村を結ぶ重要な往還であったのだろう。

物見峠
尾根道を進むと物見峠。峠とはいうものの、通常の峠で見るような鞍部という雰囲気はない。先日奥多摩から秩父に歩いた時の仙元峠のような、峰頭(山の突起)系>ドッケ系峠なのだろう。東側の眺望はなかなか、いい。物見にはいい場所ではある。とはいうものの、この物見峠って地名は昔の記録には登場しないようで、結構最近命名されたもの、かも。白山から1キロ。巡礼峠まで1.7キロ地点である。

巡礼峠
物見峠を越えると急な坂を下となる。昔は鎖場であったようだが、現在ははちゃんとした階段に整備されている。急坂を下りきった後は、クヌギやコナラの林の中、小刻みなアップダウンを繰り返す尾根道となる。ところどころに見晴らしのいい場所もあり、ベンチなども整備されている。竹塀やヒノキの植林帯を抜け、里山の雰囲気のある雑木林といった尾根道をくだり巡礼峠に。
巡礼峠にはお地蔵さまが佇む。昔此の峠で惨殺された巡礼の老人とその娘の霊をなぐさめるため地元の人が建てた、とか。巡礼峠って、「巡礼」といった言葉の響きから、もう少々昼なお暗き、ってイメージではあったのだが、以外と明るい。周囲が公園として整備されているからだろう、か。もっとも、巡礼峠の由来には、小田原北条の間者が巡礼姿に身を隠し、峠の東にある七沢城を偵察した、って話があるわけで、そうとなれば、結構さばさばした物語であり、それらしき峠の風情である。
巡礼峠の名前の由来は、坂東三十三観音巡礼の五番札所である飯泉観音(小田原の勝福寺)から六番札所の飯山観音へ向かう道筋であった、ため。西側の七沢からこの峠を越え東の上古沢へと抜ける道があった。恩曽川の最上流部である上古沢の野竹沢集落に抜ける、と言う。
とはいうものの、何故小田原からわざわざこの山裾の地・七沢まで来るのだろうかと少々気になった。チェックすると札所五番から六番へのコースはいくつかバリエーションがある、よう。五番札所から大山>日向薬師>六番飯山観音。このコースであれば七沢を通るのは道理。が、五番から下曽我>六本松>井ノ口>遠藤原>南矢名>神戸>西富岡>七沢ってコースもある。このコースがよくわからない。中世には七沢にお城があったと、言う。それなりに開けた宿があったのだろう、か。近くに小野の小町の生誕地との伝説のある小野がある。古き社の小野神社の御参りをかねて七沢まで上ったのだろう、か。はたまた、七沢の地にある七沢温泉って、江戸末期には湯治場として賑わっていたとのことでもあるので、それが七沢まで北上した理由だろう、か。はてさて。

巡礼峠から七沢へと下る。峠から幾筋も道があり、どれがどれだかはっきりしない。とりあえず成り行きで道を下る。途中、ほとんど道を下り終えたあたりに柵があり、通行止め。道をそれで柵を越えようとしたが先に進めない。再び柵まで戻りじっくり見ると、内側からチェーンを外せるようになっていた。鹿除けの柵であった。

七沢
七沢の集落に出る。里をのんびり成り行きで進み、日向林道のある七沢温泉方面に進む。玉川を渡り、県道64号線を越え、里を進む。道の左手の丘にある病院は昔の七沢城の跡。病院の敷地を見てもなあ、ということで遠くから眺めやり、で済ますことに。この城は伊勢原の糟谷館に居を構えた扇谷上杉家の戦闘拠点。糟谷館って、山内上杉家の讒言に惑わされ扇谷上杉の家宰であった太田道灌を惨殺した館。道灌なき後、扇谷上杉と山内上杉は骨肉の争いを繰り返す。七沢城はその戦場にもなっている。で、互いの消耗戦の間隙をぬって台頭した小田原北条。扇谷上杉も駆逐され、七沢城は小田原北条の支城となった、と。七沢の地名の由来は村内に七つの沢があった、とのことから。

薬師林道
七沢温泉の道筋を先に進む。林道とはいうものの、車道であり道に迷うことはなさそう。ときどき車も走る。途中展望台の案内もあるのだが、展望は得られず。木々が覆い緑のトンネルのようになっているところもある。野生のサルにも出会う。日向山への案内もある。日向山は標高404m。山を越えて広沢寺温泉へのハイキングコースもあるようだ。広沢寺には、七沢城主であった上杉定正がねむる、と言う。隠れ湯っぽい名前ではあるが、温泉自体は昭和初期になって開湯した、と。先に進み案内に従い駐車場のところから林道を離れ日向薬師に。

日向薬師
日向山霊山寺。寺歴は古い。霊亀2年(716年)、行基による開基との縁起がある。行基が熊野を旅していた時、薬師如来のお告げを受け、この地に霊山寺を建てた、と。「行基+熊野+薬師如来+(白髭明神)」の組み合わせの縁起は数多くあるようで、縁起は縁起とするとして、実際の開基は10世紀頃ではないかと。古いお寺さまである。本尊は薬師三尊。鉈彫りと呼ばれる、像の表面にノミ目を残す技法で彫られている。この本尊も含め仏像、単層茅葺きの本堂、鐘堂など数多くの国指定の重要文化財をもつ。
このお薬師さん、柴折薬師(高知県大豊市)、米山薬師(新潟県上越市)とともに日本三大薬師のひとつ。また、津久井の峰の薬師、高尾の薬王院、中野の新井薬師とともに武相四代薬師とも呼ばれる。薬師如来信仰って現世利益がキーワード。相模の国司大江公資の妻で歌人でもある相模の歌がある。「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」。眼病を患い薬師堂に籠り祈願した折に詠ったもの。11世紀初頭のこと。このころには日向薬師既に霊場として評価されていたようだ。『吾妻鏡』には建久3年(1192年)、北条政子の安産祈願の寺院として日向薬師の名前が挙げられている。建久4年(1193年)には娘・大姫の病平癒祈願のために頼朝が参詣した記録がある。日向薬師は中世以来、薬師如来の霊場として信仰を集めた。日向薬師の由来は、立地上東に日光を遮るものがなく「日向」であった、から。
多くの堂宇を誇った日向薬師ではあるが、廃仏毀釈の嵐に抗せず、多くの堂宇が失われ現在では本堂、鐘堂、仁王門などが残る、のみ。本堂でお参りをすませ頼朝参詣の折り旅装束を白小装束に着替えた「衣装場(いしょうば)」を通り日向薬師バス停に。20分ほど伊勢原駅で到着し、一路家路へと。

前から、なんとなく気になっていた日向薬師もやっとカバーした。山麓・山中にある薬師や不動と言うだけで、それだけでなんとなく有難く、気になるものである。津久井湖を臨む山麓にある峰の薬師に上ったのも、その流れではある。それはそれとして、日向薬師を訪ね終え、三つの大山参詣口にある三つの古刹をカバーした。伊勢原口の大山寺の不動明王、秦野・蓑毛口の大日堂の地蔵さま、そしてこの日向薬師のお薬師さま。この三つの古刹には共通の縁起がある、とイントロでメモした。役の行者にまつわる伝説である。
大山の東、愛川の八菅山にある八菅神社は古くから修験の地として知られていた。八菅山と大山を結ぶ回峰行の始点ともなっていた。その昔、役の行者が八菅山にて山岳修行。その折り、薬師・地蔵・不動の像を彫る。で、その像を投げたところ、薬師は日向に、地蔵が蓑毛に、不動が大山に落ちた、と言う。それがどうした、とは思うのだが、その縁起の地を実際に訪れ、あたりの風景を想い描けるだけで、なんとなく心嬉しい。

ついでのことながら、日向薬師の縁起で「行基+薬師如来+熊野」とともに白髭明神が登場した。白髭明神って高麗王・若光のこと。行基がこの地で薬師三尊を彫るに際し、よき良材を求めた。それに応えたのが高麗王・若光。香木を与え、日向薬師の開山に協力した、と。行基も渡来系帰化人。帰化人同士のコラボレーション縁起だろう、か。
関東各地には若光をまつった白髭神社がある。どこということではなく、どこを歩いても折に触れて白髭神社に出会う。伝説によれば、渡来人である高麗王・若光は東国開発の命を受け、大磯に上陸した、と言う。平塚と大磯の間、海に臨む地に高麗山がある。こんもりとしたその山容を渡海・上陸の目印としたのだろう。山裾には高来神社(こうらい)があった。
若光は大磯・平塚から相模川を遡り、この日向の地を経て、埼玉・高麗の地に移った、とか。日向薬師の参道に白髭神社がある。薬師の守護神として若光・白髭明神をまつるとともに、熊野権現を勧請し社を建てたもの。日向薬師で白髭明神・若光が出てくるとは思わなかった。熊野と薬師と行基の三大話の縁起は全国にある。どれも民衆受けするキーワードである。白髭明神とのコラボレーションは民衆受けする縁起の定石に、この地ならではの「有難さ」を組み合わせたもの、なのだろう、か。なんとなく、楽しいお話である。

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