A.明治が出発した台地 |
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A1. 海に面していた2つの台地 約6000年前、今より気温は2℃くらい高く海面も3〜6m程度高かった。いわゆる縄文海進と呼ばれるその時代、東京は南では高輪台、麻布台、北では本郷台と上野台が東京湾の海面に接していた。(下図参照)これらの台地の周辺からはたくさんの貝塚が発見されており、日当たりよく食料となる貝や魚が豊富に採れる海に接し、快適で住みやすい古代人の居住地であったろうと推察される。江戸期は幕府の重臣たちの屋敷群として活用されていたが、明治になってもその環境を高級官僚、文化人が引継いで新しい国づくりが始まった。 |
■海を望む日当たりのよい台地とその間に流れる川の両岸の湿地帯は弥生人達の生活に適した居住地であったろう |
A2.ラッキーなアメリカ人と日本考古学の出発点 貝塚は古くから各地で発見されていたが、それが古代、海浜に住んでいた人々の貝殻捨場であることを日本人が知ったのは明治10年に来日したエドワード・S.モースによる。横浜に入港したモースは翌日汽車で東京に向かう途中、大森駅を出たところで左手の車窓から崖に散在する貝殻の集積を発見する。司馬さんは「炯眼と幸運は、しばしば一つのもの」と言っているが、大森貝塚はモースとの出会いを待っていたようである。アメリカで貧しく、無学歴で育ったモースが独学で動物学、博物学を身につけ、たまたま開校したばかりの東京帝国大学に招聘されていたアメリカの友人を訪ねて日本を訪れたその日、後に日本の考古学の先駆けとなる貝塚を発見する。さらにモースは帝国大学で動物学の講義を依頼され、その評判からそのまま教師として雇われるという幸運が続き、他のお雇い外国人たちとともに政府が本郷前田邸跡地に用意した官舎で暮らすことになる。 その後明治17年、かつて大学予備門の頃モースの講演を聞いて影響を受けていた学生達3人が向ケ岡弥生町から縄文土器とは全く異なる古代の土器を発見する。 場所は現在の東大農学部敷地に近いところで、江戸期は前田邸に続く水戸藩の中屋敷跡地であった。 明治になって町の名前を付けるときに、たまたまその廃園の中に水戸斉昭(烈公)の歌碑があって、そこに 「ことし文政十(とを)余り一とせというふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という詞書きがあったことから、そのやよひ(弥生)をとり、向ヶ岡弥生町という町名なった。そして発見された土器は弥生式土器と命名された。弥は「いや」で、弥栄(いやさか)というようにますますという前進的な意味がある。生は「生(お)ひ」で生育するという意味だから、草木ますます生うるという稲作を中心とする弥生文化にぴったりの言葉であった。弥生人たちは本郷台地の東西両側に流れる川沿いの湿地帯を水田として利用し大きな収穫を得て、丘の上で豊かな生活を送っていたものと想像できる。明治が始まったとたんに幸運な外国人教師が現れ、そこに住み、そこにできたばかりの国立大学で教え、かつその教え子が歴史的な発見をするということが一挙にこの本郷台地で起こったこという因縁は感慨深いものを感じる。 |
A3.不忍池の上を飛んだ益次郎の砲弾 不忍池を挟んで本郷台地と上野台地は向かい合い、ともにかつては森の様相を呈していたものと思われる。幕末、上野の山にこもった彰義隊と官軍との戦争は大村益次郎(村田蔵六)の卓抜な戦略によってほぼ一日で決着が付くことになる。大村は向かい側の本郷台地にあった加賀藩、大聖寺藩、富山藩の三つの前田家の藩邸敷地に2台のアームストロング砲を設置し、容赦なく砲弾を飛ばした。この攻撃のすさまじさが彰義隊を壊走させたのが契機となる。当時、この火砲を所有していたのは世界で英国軍と肥前鍋島藩だけで、その鍋島藩から大村が借りてきたものである。谷を越えて大きな砲弾が飛んでくるというのは、現代の人がミサイルの攻撃を受けるのと同じように、どんなにか恐ろしい攻撃であったことだろう。 ■明治20年参謀本部陸軍部測量図 ■現在の東大医学部敷地北東部より池之端に建つ高層マンションのわずかな隙間から見える上野東照宮の五重塔 A4.心あるオランダ人医師の助言で残された上野の森 維新後、上野の山に病院を造ろうという計画が持ち上がった。現在は三井記念病院がある下谷泉橋通りに幕府の医学所(後の東大医学部)があったが、幕府が瓦解してから官軍がそこを接収し、隣の藤堂藩邸と合わせて大病院を設置した。明治3年になって医学校を本格的に造るため湿地帯であった泉橋から上野の山に移そうという計画を森鴎外の上司であった石黒忠悳(ただのり)らが提案し、オランダ人医師ボードワンに相談した。現地を案内されたボードワンは上野の山の景観の幽邃さに感心してしまい、こんな見事な都市森林をつぶそうというのはなにごとかと石黒らに説教する。西洋ではパルクというものがあり、市中に森がなければわざわざ造林するほど重要なものだと説明し政府に上野の丘に病院を造る計画を断念させ公園として整備することを決意させた。もともとボードワンは長崎のオランダ医師ポンペの後任として幕府に呼ばれ、その後幕府が本格的医学校を設立するための手伝いをすることになっていた。しかし幕府は倒れ、新政府は日本の医学をドイツ方式転換することを決めたため失意のうちに帰国することになっていた。そういう状況の中で石黒に上野の病院計画について相談され、半分は怒りと失望感でまともに話を聞くような心境ではないはずのところを真剣に日本の将来のためを思ってアドバイスを授けたボードワンの人柄が偲ばれる。寛永寺住職浦井正明氏は『「上野」時空遊行』の中で石黒がボードワンを上野の山へ案内したのは 月末の桜の季節だったのではないかと推定している。あまりの桜の美しさに思わず心の広さを取り戻したのかも知れない。その後、医学校と病院は明治9年に本郷台地の加賀藩邸跡に建てられるが、周囲はまだまだ鬱蒼とした緑が取り巻き同じ敷地に用意された官舎に住んだお雇い外国人も感心するほど自然の緑の多い環境であった。 |
■上野公園内にあるボードワン(A.F.Baudwin)像 |
A5. 鴨や狐が活躍するお雇い外国人村 前田家百万石(実際は102万5千石)、その分家として越中富山十万石の前田氏、大聖寺絹や九谷焼(吉田屋窯)で有名な大聖寺七万石の前田氏の三つの前田家が隣接し一緒になっていたのが本郷の前田邸の敷地である。明治初年、文部省が一括して買い上げ、中央に東京大学医学部の前身である医学校と病院が置かれた。その周辺には、お雇い外国人の官舎が十数棟建てられ、小さな西洋人村を形成していた。ベルツ水や草津温泉での活躍で有名なドイツ人医師ベルツ博士の夫人・花によるとその官舎のまわりには、キツネがたくさん棲んでいて、ときにネコとけんかをしていたり、不忍池の方から飛んできた鴨が三四郎池で子供を育て、ヒナをつれてぞろぞろと家の中に入ってきて、台所のストーブのそばでうずくまり、あったまっていたりしたという。官舎は南西の部分と北の森川町よりに合計17棟くらいあったという。一番館にアメリカ人、E・F・フェノロサ(1853〜1908)、17番館は、ドイツ人、G・ワグネル(1831〜1892、東大の前身・開成学校で理化学を教えた)。5番館にアメリカ人、エドワード・S・モース(1838〜1925)。12番館にドイツ人、E・V・ベルツ(1849〜1913)。という具合に入居しており、周囲は樹木が多く、気分のいい場所だったと述べている。モースが官舎のスケッチを残している。神田明神下で生まれてたベルツ夫人・花については、鹿島卯女(鹿島守之助夫人)著『ベルツ花』という伝記がある。 |
■モースのスケッチした前田邸内のお雇い外国人教師館 ■ベルツ博士と夫人ハナと長男トク |
A6. 西洋油絵を広めた画家たちが愛した不忍池 徳川家康に重用された天台僧天海が1625年(寛永2)上野の地に寛永寺を建立した際、不忍池を琵琶湖になぞらえ、池中の島を竹生島に見立て、ここに弁財天を祀ったことから、不忍池は江戸名所として賑わいをみせるようになり、歌川広重をはじめとする江戸の画人たちによって多く描かれることとなる。 幕末にフランスに渡り西洋油絵を本格的に学び、明治の日本に西洋画の礎を築いた高橋由一。黒田清輝の師でもある高橋は「鮭」の絵で有名だが不忍池の風景画も残している。彼が洋画の先駆者として崇敬した司馬江漢や小田野直武も不忍池を題材に優品を遺している。 由一が大きな影響を受けたイタリア人画家フォンタネージは明治9年に工部美術学校の教師として来日したが、やはり写生の地としてこの地を好んだ。 不忍池南岸から弁天堂を望む下の作品は、1880年8月の天絵社月例油絵展に出品された《池の端暮景(不忍ノ暮景)》と推定されているもので、淡紅色に耀く雲、速筆で描かれた風に揺らぐ柳枝、巧みな遠近表現などにフォンタネージから学んだ跡が歴然とし、名所絵の伝統を背景に有しながら、近代風景画の誕生を告げるものとなっている。 |
■高橋由一1880画 上野山側から竹生島の弁財天と向岸の池之端の集落及び本郷台地を描いたもの ■池之端側から上野山の精養軒を見たところ。白い建物は精養軒。上野公園が開園された時、岩倉具視が既に築地で開業していた精養軒に上野の土地を永久貸与するから出店しないかとの要請に応えたもの。 |
■小絲源太郎画 昭和8年(1933) 手摺にかかる手ぬぐいにある「あげだし(揚げ出し)」が彼の生家の料理屋の名前。不忍池東南のほとりにあった。そこの2階から不忍池越しに本郷台地を眺めたところ。中央に富士山が見える。その左にはニコライ堂、右には岩崎邸が見える。そのさらに右には関東大震災後に工事中の東大病院、時計台のある安田講堂などが見える。 |
A7. 上野に京の名所を夢見た天海僧正 寛永寺の執事で現龍院住職の浦井正明氏は著書の中で上野の山を庶民の行楽の地として整備するという天海僧正の夢について語っている。家康に気に入られ江戸に入った天台宗の僧・天海は二代将軍秀忠から寄進された上野の山の造成とかなりの部分の堂宇を自らの資金と努力で整備し、寛永寺を造り上げたらしい。つまり寛永寺は初めから徳川家の菩提寺とか幕府お抱えの官営の寺であったわけではないということ。家康は江戸に入城した時に既に鬼門の方角あった浅草寺を徳川家の祈祷寺とし、もともと浄土宗の徳川家が江戸城近くに持っていた菩提寺を城の拡張時に芝に移転して増上寺としていたから特に新しい寺は必要としなかった。 天海はよく「黒衣の宰相」として徳川政権と密着していたように誤解されているが実は極めて純粋で一途な宗教家であったのではないかというのが浦井住職の説である。宗教的論議がさわやかでわかりやすいことが家康に気に入られ、何かの相談を受けてはいるが、本人は政治とは一線を画し、癒着をさけていた。従って寛永寺を造成するときも最小限の寄進により、ほとんど孤軍奮闘で、しかも自らの構想により寛永寺を造った。それはかつて修行をしていた比叡山延暦寺を中心とする近江・山城地方すなわち京滋(京都・滋賀)の名所を上野の山に見立て、その写しをつくることであった。 当時江戸はまだ街づくりが始まったばかりで庶民の行楽の地は少なかった。京都清水寺の舞台を模した清水観音堂、京都八坂の祇園様(現・八坂神社)に倣った祇園堂、東山方広寺大仏を模した大仏、琵琶湖竹生島の弁財天を写した不忍池の弁天堂などで、その本尊もわざわざ現地から勧請してきているほどのこだわりぶりである。京都奈良の名刹が僧侶の修行の場であるとともに、行楽をも伴った庶民の素朴な信仰心を受け入れる場であることを天海は意識し、しかも出来うる限り自分の力でこれを造り上げたことは宗教家としての大きな夢の実現であった。清水観音堂の最近の解体修理で使われている材料が上野の山に自生していた松をそのまま使用したような明らかに二流のものであることがわかり、おそらく幕府の援助を頼まず、天海の自費ですべて行ったことを浦井氏は確信したという。 天海死後、五代将軍綱吉の時代になって寛永寺は名実ともに幕府の官寺となっていく。そして圧倒的な大伽藍を誇るようになった寛永寺は幕末の上野戦争において彰義隊が境内にたてこもったため官軍に攻撃を受け、そのほとんどを焼失する運命となった。 |
■中古倭風俗旧幕大藩の姫君上野清水御花見之図 歌川国貞/浦井正明氏所蔵 清水観音堂からは不忍池のパノラマ・ビューが楽しめた。明治期には池の周りで競馬を楽しんだ図がある。 |
■現在の清水観音堂は周囲の樹木が大きくなり、不忍池は見渡せない。 A8. 「革命」の象徴として上野に立つ西郷さん ところで幸田露伴の五重塔には、腕はあるのに気の利かない、人付き合いに不器用な大工「のっそり十兵衛」が主人公としてでてくる。下手くそだが口のうまい連中が自分のやりたい仕事を皆とっていってしまうのに悔しがる毎日を送っている。ある日、夢の中で恐ろしい悪魔のようなものにお前は十分な腕があるのだから五重塔の仕事を立派にやり遂げろとそそのかされる。憑かれたように十兵衛は感応寺の住職に五重塔の仕事を願い出る。ここから先の言動はエゴイズム丸出しの単なるいやな奴・十兵衛を十二分に表現しているように見えるが、実はそうではない。人間性の極限をめざす人間像を露伴は、この大工の中に表現したと解説の桶谷秀昭氏は言う。確かに人間の崇高な理想を受け止めるには五重塔という建造物はうってつけ対象物であり、五重塔の存在があったからこそ、露伴はこうした際だった人間性を表現する気になったのではなかろうか。 ■谷中天王寺の五重塔昭和32年まで ■放火により炎上 ■無残な残骸 以上 浦井正明『上野 時空遊行』より |
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