Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から―

曹洞宗現代教学研究センター研究報告

Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から―

曹洞宗現代教学研究センター編


 

目 次
            

 1、オウム真理教の教えについて概要を説明して下さい。
 2、オウム真理教はなぜ若者達を惹きつけたのでしょうか。
 3、オウム真理教の布施と宗門の布施とはどうちがうのでしょうか。
 4、ハルマゲドンと仏教の末法思想とは関連はあるのでしょうか。
 5、オウム真理教のマインド・コントロールをどう受けとめたらよいでしょうか。
 6、仏教を自称するのに、なぜオウム真理教は無差別テロを行ったのですか。
 7、オウム真理教の悟り(解脱)と仏陀の悟りと同じなのですか。
 8、オウムのヨガ的瞑想(蓮華坐)と坐禅(只管打坐)のちがいを教えて下さい。
 9、ホーリーネームと戒名にはどんな関連がありますか。
10、オウム真理教で説く地獄と仏教の業論はどうちがうのでしょうか。
11、オウム真理教の「出家」と仏教の出家との違いを教えてください。
12、宗門の正信とオウム真理教信者の信仰の違いは何でしょうか。
13、イニシエーションとは何ですか。仏教や曹洞宗にもあるものなのでしょうか。
14、オウムの最終解脱と宗門の修行のめざすものとの違いを教えてください。
15、オウム真理教関係年表

 

質問1
 オウム真理教の教えについて概要を説明して下さい。


 はじめに結論的なことを申しますと、オウム真理教の教えは一見仏教的ですが、「個人の尊厳」と「生命」をないがしろにするこのような教えは、けっして仏教であるとは言えません。
 オウム真理教は1980年代半ばに、「ただ一人の最終解脱者」を自称する麻原彰晃(本名・松本智津夫)教祖が15人ほどのメンバーとともにヨガ道場を始めたことに端を発する「新宗教」と称される新しい宗教団体です。オウム真理教の教えは、インドの思想を底流にしながら様々な宗教の教えを取り込みつつ、日本人にも馴染みの深い仏教的な観念を現代風にアレンジしたもの、といえます。

 オウム真理教における最高の神はシヴァ神です。シヴァ神は本来ヒンズー教の神ですが、オウム真理教においてはそれと同一ではなく、世界における唯一最高なる神であり、キリスト教でいう「ゴッド」も、仏教でいう「大日如来」もこのシヴァ神と同じであると説明されています。麻原教祖はこのシヴァ神から、超能力を得た民による理想世界「シャンバラ王国」を築くことを命じられた、といいます。

 オウム真理教で説かれる「真理」とは、「大宇宙の構造」「カルマの法則」「輪廻転生」の三つをさすようです。その宇宙観は、仏教でいう「三界(欲界・色界・無色界)」を基本として、「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)」や「須弥山」の世界観などを独自の解釈で盛り込み、構築されています。そして、ここでいわれる「大宇宙」において魂が「輪廻転生」を繰り返すと説かれています。また、過去・現在・未来を支配する絶対的真理といわれる「カルマの法則」は善因は必ず喜びとしての果報を受け、悪因は必ず苦しみとしての果報を受けると説かれます。その行為によって生ずるエネルギーともいえる「カルマ」は、その「輪廻転生」する魂に蓄積される性質を持つようです。

 オウム真理教の教えは教団の発展とともに変化しています。それは、個人の悟りと解脱だけを目標とする「小乗の教え」から他者の救済を目標とする「大乗の教え」への変化、「大乗の教え」から最高の教義である「秘密金剛乗(タントラヴァジラヤーナ)の教え」(現在、オウム真理教ではその金剛乗の教えを否定し、テキストであった『ヴァジラヤーナ教学システム教本』は回収、焼却されました)への変化といえるでしょう。

 また、教義は基本的に「悟り」「解脱」「救済」という三つの要素から構成されていると考えられます。「悟り」は原始仏教の教えに基づいて説かれているようです。「悟り」は、自分の心の動きを客観的に理解できる状態をさし、「大宇宙の構造」「カルマの法則」「輪廻転生」を理解することともいえます。その「悟り」を得るためには教義を知識的にしっかりと理解する方法と、ヨーガ的方法によって得る方法があるそうです。
「解脱」は何日もの断食や瞑想をしたり、マントラ(真言)を何万回も唱えたり、五体投地を何時間もするなどの厳しい修行を通して、現世的な富や名誉に束縛されない真の自分を得ることだとしています。それは「心の本質への到達」「あなたの本来の姿」であり、「絶対自由」「絶対幸福」などといわれています。「解脱」には様々なステージ(段階)があり、またそれには何らかの神秘体験がともなうとされています。また、ステージを上げるために様々な「イニシエーション(秘儀)」や「布施」が必要であるといわれています。

 「救済」は、他者の「救済」のために自らを犠牲にしつつ奉仕する「大乗の修行」をすることを意味するようです。「救済」には「人々を病苦から解放する」「現世の苦悩からの解放」「解脱・悟りへ至らせるための救済」という「三つの救済」があります。そして「三つの救済」は、四つの偉大なる心である「四無量心」で行わなければならないとされています。「四無量心」とは、すべての魂に本当に真埋の実践をしてほしいと思う「聖慈愛」、真理を知らないことや否定することを哀れむ「聖哀れみ」、自分より徳や智慧の優れている人を心から称賛する「聖称賛」、自分に対する非難などを含め一切の現象に対して頓着しない「聖無頓着」の四つとされています。

 また、この「大乗の修行」では最終解脱はなかなかできないとされ、「金剛乗」の教えにもとづくものであれば必ずできるとされました。その「金剛乗」の教えによれば、魂の救済のためならば殺人も善である、ということになります。麻原教祖は説教の中で、悟りを得た人が悪事を重ねる人を殺した場合を例に挙げ、「すべてを知っていて、生かしておくと悪業を積み、地獄へ落ちてしまうと。ここで生命を断たせた方がいいんだと考え、ポア(魂を高い世界へ移し変えること)させたと。客観的にみるならばこれは殺生です。しかしヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、これは立派なポアです」と述べています。麻原教祖はこの教えによって、地下鉄サリン事件などの残虐な殺人行為を「善行」として肯定したのではないでしょうか。

 このオウム真理教の「救済」は、当初「個人の魂の救済」だったのですが、キリスト教の聖書から「ハルマゲドン」という終末思想を取り込んだことにより「人類の救済」へと変わっていきました。「人類の救済」はオウム真理教の教えによって全人類をハルマゲドンの危機から救う、というものです。しかしその救済も、全人類の救済から「選ばれた者=解脱者」の生き残りへと変化していきました。そして、その変化の過程においてオウム真理教は様々な社会的な問題を引き起こしてきたのです。

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質問2
 オウム真理教はなぜ若者たちを惹きつけたのでしょうか。

 
 1995年春現在で、オウム真理教の出家修行者1,114人。そのうち20代が47.5%。20代と30代を合わせると実に75・4%になるといわれます。「なぜかくも若者が?」。だれもが知りたいことですが、残念ながら全体を見通したうえでの、誰もがなるほどと納得できるような答えは、まだ出ていません。
以下に述べる事柄は、これまで出された諸情報の要約であることを、あらかじめお断りしておきたいと思います。

 第一に現在20~30代の若者が育ってきたこの国の社会-文化的状況があります。70年~80年代の豊かな社会の豊かな日常のなかで育った人たちのなかには、近代合理主義や消費主義のライフ・スタイルに不満と空しさを覚え超(脱)現実的な世界を憧憬する者たちも少なくありません。こうした思想や感覚に呼応するように、70年代以降神秘や不可思議な現象を強調するオカルティズムが盛んになりました。「現実を超えたい!」と思念する若者たちにオウム真理教は超現実的な神秘をみずから体験できる身体技法なるものを提供したのです(『超能力・秘密の開発法』)。

 第二に若者たちの超常的ニーズに応えたオウム真理教のナウい教化法をあげることができましょう。

 「だれでも修行すれば超能力者になれ、生の濃密なリアリティを体験できる!」。こうした主張を何のてらいもなく堂々と主張できる既成教団はけだし稀有ではないでしょうか。神秘主義と体験主義の強調と若者の積極的参与。これが可能になったのは、オウム真理教の特質が現代の”若者たちの宗教“であること、そして他面それ以外のものではないことを物語っているとも言えましょう。ある大学院生は、蓮華座を組んで呼吸法を実践したら、とたんに身体が飛ぶのを感覚し、オウムの技法の力に驚いたと告白しています。この大学院生の体験と同じような体験をさせる施設は、ヨガ修行所やトランスパーソナル研究所など大都市に少なくないことも、若者たちのこうした領域への関心を高めるのに一役かっていることは事実でしょう。

 第三に宗教観をめぐる親子間のギャップがあると思います。息子や娘がオウム真理教に出家を決意した際、あるいは出家してしまった後に、彼らを引きとめ、連れ戻そうと必死になった両親や親族の話は、よく知られています。「宗教や人生についていくら説得しても駄目だった。」と述懐する親たち。ある種の神秘を体験し、人生の根元的意味を強く主張する子供たちに対し、その信念と論理に真っ向から対決するだけの宗教的論理を具えた親はどれだけいるでしょうか。親と子の宗教をめぐるギャップは、総じて伝統的宗教習俗に基盤をおく中年以上の人たちの宗教と、既成の宗教的枠組みを超えようとする若者たちの宗教とのギャップでもあることに注意すべきでしょう。

 第四に若者たちの宗教文化一般についての知識不足を数えることができます。オカルティズムも神秘体験も呪術も広義の宗教文化の構成要素であることは言うまでもありません。しかし、これだけが宗教である訳ではありません。科学や学問には優秀な若者たちも、その成長過程で宗教教育を受ける機会がほとんどないわが国では、”宗教“にたいして無菌状態であることを免れません。彼らのなかには”超常現象=宗教“と短絡的に捉えた人たちも少なくないと思われるからです。

 最後に、若者たちのニーズに現実に応ええなかった既成諸宗教の宗教的対応の問題があると思います。オウム真理教教団がわが国宗教史上稀に見る”例外的教団“であることは、もはや自明と言えましょう。だからと言ってわれわれには無関係と言って済ます訳にはいきません。オウム真理教が出現し、若者を夢中にさせたこと自体、現代の宗教文化の地殻変動が起こっている証左かもしれないのです。既成の伝統と路線に添っていればそれでよいとする守旧的態度は、オウム真理教問題を契機に深く反省されなければなりません。既成教団に属するわれわれもまた、オウム真理教の出現に間接的に関わっているのだという自覚のもとに、変動激しい現代宗教への眼ざしを鋭くしていくことが、いま社会から強く期待されているのではないでしょうか。また、若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。

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質問3
 オウム真理教の布施と宗門の布施とはどうちがうのでしょうか。


 宗門の布施は、大乗仏教で強調された利他行を説く、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)や四摂法(布施・愛語・利行・同事)の第一に挙げられているもっとも重要な実践行です。『修証義』第四章発願利生の冒頭に、「菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり」と示されているように、自分が理想に到達するよりも先に他の人びとを理想に到達させようと、自ら誓いをおこしてそれを実行することなのです。この他の人びとのためにする具体的な実践法として、他の行法に先立って説かれているのが布施行であり、その布施の基本的な意義を、『修証義』では、「布施といふは貪らざるなり………其物の軽きを嫌わず其功の実なるべきなり」と示しています。すなわち、ここで布施というのは、貪りの心を捨ててなされる純粋行であること、たといどんな軽少なものでもそれを拒むものではなく、布施をする行為そのものに真実の意義と価値のあることが強調されているのです。また、施者、受者、施物のいずれにもとらわれのない三輪空寂が理想の布施とされ、とかく見返りを期待して布施がされがちですが、それは有所得の行為として退けられ、「但彼が報謝を貪らず、自からが力を頒つなり」と説かれているように、いかなる見返りも果報をも求めることのない、無所得の行為こそ宗門の布施の特色とされているのです。

 それに対してオウム真理教では、言葉こそ仏教と同じ「布施」を用いていますが、その言葉を教団に都合のいい意味にすりかえており、信者に対して、大は土地や家屋等の不動産から、小はテレホンカードに至るまで、自分の財産を教団に「布施」することが、その人の業(カルマ)を高め、より高い境地(解脱)に近づくことができると説き、そのように思いこませて信者の財産を教団に吸いあげる典型的な有所得の布施なのです。

 しかもこうして教団に吸いあげられた資金が、純粋な宗教活動に生かされているかというとけっしてそうではなく、その多くは教祖の終末的危機感に立ったハルマゲドン(最終戦争)に備えるために、武器や毒ガスを製造するのに必要な設備の建設や材料の調達に使用されたことも明らかにされました。当然、まとまった多額の資金が必要となり、財産や不動産を持っている病気がちな一人暮らしの老人などが標的にされ、しかも財産をとられたことを忘れさせるために、薬物や電気ショックを与えて記憶を喪失させるような非人道的な行為までしており、大きな社会問題にもなったのです。信者にしてみれば、自分の”布施“がそんなことに使われるとは思ってもいなかったでしょうが、実はそれがオウム真理教の”布施“の内容とその使途の実態なのです。

 したがって、家庭の崩壊をもたらしたり、社会問題を引き起こすような布施は宗門にはありません。

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質問4
 ハルマゲドンと仏教の末法思想とは、関連はあるのでしょうか。


 ハルマゲドン(Har-Magedon)とは、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」第16章第16節に表れる地名ですから、仏教とは全く関係はありません。この「ヨハネ黙示録」とは、神からキリストを経て、僕ヨハネに伝えた天啓・予言の書で、そのなかで7人の使者が次々と、ラッパを吹くたびに天災地変が起こり、最後にこの世が主とキリストの国になるというのです。

 その間、憶病者・不信者・殺人・姦淫者・呪術者・偶像礼拜者たちは、その報いとして火と硫黄の燃える池に堕ちるとされています。そして、これら悪霊が全能なる神と戦いをする為めに諸王を召集したのが、ハルマゲドンという所であるというのです。

 ハルマゲドンは、地中海沿岸から内陸に入ったイスラエルの地で、古来たびたび戦場となった処で、元来はヘブライ語でメギドの丘という意味のハルメギドが訛ったものだといい、神の軍勢と悪霊の決戦場になるということから、この世の終末戦争の意に用いられたのです。

 殊にオウム真理教は、これを捉えてハルマゲドンの時代には、この世界を受け継いでいくのは、独りオウム中心の人々で、他の不要な者は殺すことも認められるとしたのです。このハルマゲドンが、はじめは2006年頃に起こるとしていたが、だんだん速められ1997年にも起こるとあおり、ハルマゲドンに備えるのでなく、積極的に自作自演しようとしたのが、いわゆるサリン事件だとみなされています。

 なるほど、宇宙変化のサイクルについて、仏教でも成・住・壊・空の四劫とか、末法ということが諸経典に説かれています。ただ末法とは、あくまで法を中心とし、釈尊の入滅後、正法千年のあとは、形式化してしまう像法千年とし、以下は末法の世で万年とされ、鎌倉期の各宗祖師は末法相応の宗旨を開示しました。

 末法とはハルマゲドンのような殺戮を伴う現象をさすのではなく、法を中心とした自覚の衰退を戒めたのみです。ましてや道元禅師は『正法眼藏随聞記』四-一二にあるように「世間の人多分云く『学道のこころざしあれども世は末世なり、人は下劣なり、如法の修行にはたゆべからず、只随分にやすきにつきて結縁を思ひ、他生に開悟を期すべし』と、今まいふ、此の言は全く非なり。仏教に正像末を立つること暫く一途の方便なり」とし、また『正法眼藏辧道話』では「教家に名相をこととせるに、なお大乗実教には、正像末をわくことなし、修すればみな得度す」と示され、独り末法という考えをも否定された方であります。

 末法については、釈尊の入滅年をいつとみるかが問題となりますが、伝承では中国の周の穆王53年(紀元前984)とされたから、日本では永承7年(1052)には末法の世となり、法然・親鸞・日蓮など、12世紀から13世紀に生まれた祖師たちは、末法の世の人といえましょう。しかし、その後の研究から、仏滅は紀元前486年か、同386年頃とされ、末法の世は足利時代の永承12年(1515)の頃以降ということになります。

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質問5
 オウム真理教のマインド・コントロールをどう受けとめたらよいでしょうか。


 マインド・コントロールを広く「こころの統御」と解すれば、特別に異常なことではなく、古今東西の諸宗教において煩惱を抑制し精神を統一する修行方法として広く実践されているものです。特に身心一体観に立って、身体の「行」を通して精神を調御する東洋の宗教、なかでも禅仏教はその典型といえます。

 「こころ(マインド)」とは何か。もともと「こころ」という観念的な実体があるわけではなく、「こころ」は常に自意識との関連においてのみ存在すると言えるならば、それは正に常に自意識の制御下にあるということです。したがって心理科学者の中には、コントロールされていない「こころ」などないと言う人もおります。多くの宗教が「こころ」の問題を取り上げ、身心つまり「こころ」の修養・修行を重視するのはこの理由からです。

 それは『法句経』の「おのれこそ、おのれのよるべ、良く整えしおのれこそ…」という有名な一句を見ても明らかです。

 坐禅はもちろん、僧堂安居の修行もまた、広義の自主的マインド・コントロールがなければ成り立たないといえます。したがってマインド・コントロールは多義的であり、広義に解すれば宗教活動上の積極的意義を評価しなければならないと思います。

 しかし今日、世間の注目を浴びているマインド・コントロールは、オウム真理教事件に端を発した反社会的・非人道的犯罪行為に関連した問題としてであり、明らかに前述のものから区別されねばなりません。一般に今日では、この限定された狭義のものをマインド・コントロールと呼んでいます。

 この狭義のマインド・コントロールを一口で言えば、一種の思想改造と言えます。

 思想改造は全体主義の独裁国家などでしばしば見られますが、閉ざされた特殊な神秘的儀礼集団であるカルト宗教教団でも行われることがあります。その集団の中で、個人の自由な意志による思考や行動が不可能にされてしまうシステムをマインド・コントロールと言います。厳密には、当初から露骨な物理的圧迫や干渉を伴う洗脳と区別する人もおりますが、主として催眠術や薬物の使用、巧みな集団力学による意識・思想・行動・情報などの操作によって、大衆を意図する方向へリード統制することにあります。

 すでにオウム真理教ではLSDをはじめ幻覚剤や告白剤その他反社会的な薬物や器具が使用されており、サティアン内での修行生活は食事から作業・睡眠に至るまで日常性を拘束した非合理的規制があり、違反すれば死を含む罰則の存在も知られています。ここには超能力の獲得・信念の強化・秘密保持・教団の強化等を意図して異常なほどのマインド・コントロールがおこなわれていました。

 その影響力の大きさは、有為な若者をして理性的判断を喪失させ、サリン事件その他の独善的暴挙に走らせたことからも推測されます。今なお、マインド・コントロールから解除されない残留信徒の社会復帰やその家族への対応策などが、新たなる問題として宗教人に課せられているといえます。

 「こころ」をコントロールし、それによって自己実現をはかることが仏教徒本来の姿であるとすれば、オウム真理教は仏教に依存しながら、世紀末の危機感から近代主義を否定し、最終戦争を予言して不安をあおり、薬物や電子機器の疑似科学的手法をマインド・コントロールに利用して、遂には毒ガスや武器使用も辞さない狂信的犯罪集団に転落したことは、仮にオウム真理教を宗教集団と認めても、そこから本質的に逸脱したものというほかありません。

 これに対する批判に応えるためにも、伝統的修行集団である宗門は、自己コントロールの正しいあり方を宗の内外に示す必要があると言えます。

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質問6
 仏教を自称するのに、なぜオウム真理教は無差別テロを行ったのですか。

 
 オウム真理教が行ったとされる殺人の対象は、(一)信徒、(二)特定の人物、(三)一般大衆、の三者にわけられます。
 
(一)については、教団の入信者や脱会希望者に対する暴力的「修行」や監禁などによる殺害です。これは、信者の増大と強権的内部統制のための一連の残酷な虐待行為といえます。

 (二)は、教団の非合法的な行為に正面から立ち向かった特定の人物を、教団が激しく憎悪し敵視しての殺害です。これは、教団が手段を選ばず勢力の伸張拡大を意図して、外部社会に対して行った攻撃といえます。

 (三)は、教団と直接無関係な一般大衆に対する無差別の殺人で、影響はきわめて大きく、いわば大衆全般に対する攻撃といえるものです。

 これら三種類の殺人行為は、原因的には教団が一般社会との間に自ら不信関係を募らせた内閉性によるものであり、手段的にはいずれも薬物や化学薬品の使用という教団特有の「科学」的方法がとられているのが特徴です。いま、質問の対象は右三種のうちの(三)ですが、この無差別テロの場合は右の内閉性のみならず、教団が内包する特異な教理との関係が指摘されています。

 すなわち、麻原教祖はチベット密教で説かれる祕密金剛乗(タントラ・ヴァジラヤーナ)の教えを重視し、小乗や大乗よりも優位とランクづけます。そして、その中にみられる救済のためにはあえて悪をなすことも肯定するという教えを援用し、悪人は悪業ばかり重ねて転生(生まれかわり)を悪くする一方だから、早くポア(魂をより高い位置に移すこと)してやったほうがその人のためになり、また殺すという行為で金剛乗の教えを実践する者には、最終解脱という果報が約束されると説いています。

 これに加えて、教祖は切迫したハルマゲドンという名の世界最終戦争から生き残れるのはオウムの熱心な信者のみであるとし、不要な者はシヴァ神が殺すことを認めているとも説いています。生き残りのためにさまざまな兵器を購入し製造をはかるなど、戦争準備に狂奔した教祖としては、その前哨戦で多くの人々が殺されるのを、こうした教理や理論づけによって「必然化」「正当化」しようとしたのでしょう。

 要するに、カルト教団の特徴であるカリスマ的な教祖の独善的な妄想と、その教祖の教えや命令を絶対視する信者たちの狂信、特に学究者のエリートに多い非社会性、などの複合的な原因が相まって、サリン事件のような恐るべき無差別テロが行われたとみられます。一方では信者にゴキブリも殺させずに不潔な「道場」や生活を強制する反面、人類の救済を旨とすべき宗教が反社会的・非人道的もはなはだしい無差別テロを行なうなどは、仏教の教えからはもとより、一般常識からも到底許されるべきではありません。

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質問7
 オウム真理教の悟り(解脱)と仏陀の悟りと同じなのですか。
                          


 オウム真理教の麻原教祖は、自ら「最終解脱」に到達したと言っています。「解脱」とはどのようなものでしょうか。
 仏教でいう「解脱」とは、自我の煩悩に基づく愚かさの繰り返しから解放されることです。したがって①自我と煩悩が良く見えていなければなりませんし、②自我と煩悩に対する強い批判精神と論理が必要です。そして③自我が完全に静寂になる涅槃を実現することです。それは「九次第定」の『滅尽定』として実現しました。仏陀のこうした涅槃・解脱は完全に静寂な自我になることですが、それは現実をあるがままに受容するための身心の原点になることです。④したがって、現実を大切に生きるというところに戻ることが重要であって、現実から逃避することではないのです。よって現実の生活において悪を犯さないということは救い・悟りの基本です。⑤解脱は完全に自我が無いということですから、自分の解脱を解脱したと「自己主張」するということは矛盾になります。したがって、それは本人が決めるのではなく、師が判定することになります。⑥しかし、その解脱・涅槃・悟りを「体験しなければ分からない」というように思考停止したら、それは自分勝手になる危険がありますから必ず教えとして言葉で表現しなければなりません。したがってお釈迦様は悟りの世界を言葉で語っているのです。言葉で語ることによって弟子たちの悟りを正しく指導し、確かめ証明することができるのです。

 麻原教祖の修行は、仏教だけでなくヨガの一つであるクンダリニー・ヨガのようです。からだの中に意識を集中して、日常的な自我を超えた「超常体験」という経験をしたようです。それを最終解脱を得たと自分で言ったのです。麻原教祖は「最終的には、経験そのものが完全に浮いてこない、全くそこには空間、平穏しか存在しない状態である経験と、そしてイメージと、全ての心の働きが完全に静止した状態、つまりマハー・ニルバーナへと到達するわけです」「完璧なる虚空三味の状態といっていいかもしれません。そのとき時間は完全に静止し、空間のみが存在している経験をします」というのです。「時間が静止し」というのは外界から遮断した神秘体験として理解しているようです。静寂とは外界の刺激に蓋をするのではなく、刺激は聞こえているがそれに反応しないでいられる状態ですから、過去の意識を続けないという意味では時間はないように見えますが、時間を否定したらそれは外界から遮断した神秘体験ということになります。このように麻原教祖の解脱が神秘体験であるということは、「カルマ落とし」というように神秘的な支配力を神秘的な力で超越しようという主張にも現れています。

 神秘体験というものは自我の延長上のものであります。その証拠は、第一に、オウム教団作製のアニメーション映画で説明される解脱の世界は経験的世界の異状な幻覚にすぎないからです。第二に、幻覚による異常体験の解脱であるからLSD等の薬物によって実現しようとしていました。第三に、信者に解脱を体験させられなくなった段階で「世界救済」ということを言い出して、信者の目を外に向けさせようとしたのです。第四に、「世界救済」という考え方と、終末観と、社会は悪だという主張と結び付いて、信じない者と自分達に都合の悪い者を抹殺するという最悪な「自我の主張」をしているのです。このことから教祖の最終解脱は仏陀の解脱と全く違うことが分かります。

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質問8
 オウム真理教のヨガ的瞑想(蓮華坐)と坐禅(只管打坐<しかんたざ>)のちがいを教えて下さい。                          

 
 オウム真理教の蓮華座といわれる修行法は、一般的に行われているヨガの冥想法と基本的には同じものと思います。

 その冥想の特徴は、修行によって尾てい骨のところにあるクンダリニーという霊的なエネルギーを覚醒させ、それを九段階につぎつぎに上昇させていくことにあります。上部にいくほど次元が高まり、最終的に頭頂まで昇華させ、神我一体、あるいは梵我一体の解脱境に到達するのを目標としています。

 これに対し、只管打坐は段階を認めず、一切の観想を排し、最初から非思量の参究をいたします。いわば仏さんの広大な掌中にあって仏の行を行ずることが建前になっております。

 道元禅師は『辧道話』のなかで、「教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」と言っておられます。

 これは只管打坐が上等とか、ヨガの冥想が劣っているとか、修行の方法の問題よりも、その修行を通じて「自我を捨てる」方向にむいているか、それとも「自我を育てる」方向に向いているかを、明確に吟味することが大切であると強調されています。

 いかに高祖道の只管打坐を行じているつもりでも、漫然としたボンヤリ禅になっている人もあるし、「只管打坐という坐禅」を修行している人もあります。これらは、常識的な「我見」を温存させたままの修行で、道元禅師の身心脱落<しんじんだつらく>の禅とは似ているが違います。

 非思量の参究とは、本来空の自分が、空ながらの行を行じている不染汚の修証<ふぜんなのしゅしょう>を明確に自覚しながらの精進であるべきです。

 麻原教祖の場合は「真理」を求める動機から不純なものがあったのだと思います。修行を積めば積むほど「自我」を育て、自分の妄想を誇大化していったのです。いろいろな経典の聖句を自己流に解釈し、自分の思想体系を権威づけていったのでしょう。

 そのうえ、ヨガの修練によって多少のスーパーマン的能力を身につけることによって人々を引きつけ納得させていったものと思います。

 発心が正しければ、それにふさわしい正しい師匠を求めることになります。

 ヨガの冥想でも、梵我一体の本当の解脱者の正しい指導によって行じていけば、やがて求める境界に至ることができると思います。

 只管打坐にせよ、ヨガの冥想にせよ、それを修行しようとする人の動機が正しいか、正しくないかによって、将来、天と地ほどの差が出ることになります。

 只管打坐とヨガ的冥想のちがいを問題にするよりも、それを行ずる人の「道心」が問題であることを指摘したいと思います。

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質問9
 ホーリーネームと戒名にはどんな関連がありますか。
                               


 ホーリーネームは、オウム真理教で用いる教団内の個人名で、出家修行が一定レベルに達したとき、教祖が命名し、授与するといわれ、極めて名誉的なこととされ、出家者の一部の人々がこれを受けています。

 その命名は、サンスクリット語をもじった言葉で、片仮名で表記され、教祖の妻松本知子には、もとマハーマーヤ(釈尊の母の名)を与えていたが、のちにヤソーダラ(釈尊の出家前の妻の名)に改称されました。かの「科学技術省」のトップであった故村井氏にはマンジュシュリー・ミトラ(文珠菩薩)、すでに逮捕されている「諜報省」幹部の井上嘉浩にはアーナンダ(阿難尊者)、テレビによく登場した上祐史浩にはマイトレーヤ(弥勒菩薩)というホーリーネームが与えられています。

 これらのホーリーネームは、一見、目新しく、魅力的にも聞こえますが、教祖自身、自らを開祖釈尊になぞらえて、尊師と呼ばしめ、授与するホーリーネームに崇拝対象である菩薩名や尊崇する祖師名を付するなど、仏教側から見れば到底、受け入れ難い命名であります。

 しかも、このホーリーネームは、修行のステージとして、教祖を尊師と呼び、以下、正大師、正悟師、師長、師、沙門の位階を定め、この位階と絡ませ、言わば、論功行賞の機能を持たせています。

 そしてこれらの位階には、それぞれの階級ごとに与えられる特典や権利があり、上層幹部には結婚の自由すら認められていたといわれます。最近の報道によれば、さらにその機能をみたすため、従来の6位階を16に増やしたと伝えています。

 そもそも、仏教の戒名は、戒師が戒弟に受戒の”あかし“として等しく授けるもので、特定の者に教祖自身が論功行賞の目途をもって授けるオウム真理教のホーリーネームとは全く異質であると言わなければなりません。

 さらに付言すれば、宗門の戒名(出家者の場合、出家得度を受けて、法諱・法名が安名にされる)には、戒師が戒弟それぞれに”かく修行してほしい“ という期待をこめて命名し、戒弟はそれを受けて、己れの生き方のよりどころとして生きるという意味あいと機能があります。本来であれば、このように生前受戒が原則ですが、歴史の経緯の中で、生前受戒の縁が結ばれずに逝去する人が多くなっています。この場合でも「没後受戒」の儀式を通して戒名が授けられます。

このようにみれば、特定の人に、論功行賞として授けるオウム真理教のホーリーネームと宗門の戒名には、その意味・機能においても、全く関連がないと言いきることができます。

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質問10
オウム真理教で説く地獄と仏教の業論はどうちがうのでしょうか。

 
 オウム真理教では、インド的な業、輪廻説をほぼそのまま認めています。

 すなわち、人間には魂があり、それは生前の善悪の業に応じて楽苦の世界に生まれ変わっていく実体です。死後に転生する世界は、仏教の六道に独自の名称と意味を付しています。「激苦地獄」(仏教の地獄)、「動物界」、「低級霊域」(餓鬼)、「人間世界」、「意識堕落天」(アスラ)と「戯れ堕落天」(六欲天)です。

 オウム真理教では、業のはたらきはきわめて物理的に受け取られています。たとえば、人や動物を殺すと、殺される対象の苦という心の状態がそのまま殺害者にプリントされ、悪いカルマを積みます。善業についても同様で、他人を幸福にし、喜ばせ、衆生を喜ばせると、その喜びがこちらにもどって、私も幸福になります。(『絶対幸福への道』)。

 カルマは必ず戻ってくるものですから、早くザンゲと瞑想を中心とする修行によって悪いカルマを落とし、切らなければなりません。早いほど、カルマの返る比率は少なくなり、たとえば殺生した人でも、修行すると、痛みとかケガという形で返ることができ、邪淫の人は対人関係が悪くなるという形で返る、などと説かれます。

 したがって、今、何かの事情で苦しんでいるのは、カルマが早く返ってきているのだから、喜ぶべきです。また、法施、財施、信施の布施は、相手の喜びのボールが自分に返ってくる行為ですが、しかし、相手により意味が異なります。魂を下降させるような組織に布施したら、地獄に落ちます。すでにそういう布施をしていたら、心あらため、「真理に対する財施」を含めた真理の実践によって、天に至ることができる、と説いています。(『絶対の真理』)

 こうした業論では、まず、現在の状況を安易に過去(世)の同タイプの行為に直結しています。自分が大病しても、それを自分の前世の具体的な業に結びつけるのは恣意的ですし、これは第三者によって現在の状況が勝手に説明され、恫喝的に特定のつぐないを強要する行為に連なりかねません。また、ザンゲと瞑想といっても、その中身は便宜的なもので、これはオウムで強調する「布施」がどのようなものであったかを見るだけで、その非宗教性は明らかです。

 さらに、釈尊や祖師方の説いたように、業を「自覚的」に受けとめ、自らの宗教的「意味」を見いだそうとする実存性に欠けています。業は自らを省み、未来に向かって自己を向上させていく契機となるものであって、けっして他者から恫喝的に言及さるべきものではないし、他人の業についても語りえないものでしょう。

 麻原教祖は、仏教、ヒンドゥー教、チベット密教等の教理を借用しながら、独自の教理体系を説いています。それだけに、一見、仏教に似ていても別個の内容が盛られ、「改釈」されている場合が少なくないので、注意すべきでしょう。

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質問11
 オウム真理教の「出家」と仏教の出家との違いを教えてください。
            


 道元禅師は「出家功徳」の中で、仏道を求める上では「出家」することが最大の要件であることを力説されます。またオウム真理教でも、「出家」が勧められています。出家した人は、「サマナ」と呼ばれ、サティアンと呼ばれる道場で、わずかな食事と睡眠で修行に励むとのことです。

 このようなオウムの出家者のありかたと、現在の日本仏教教団における僧侶の実態とを比べて見ると、オウムの「出家」の方が純粋で気高く、釈尊、そして道元禅師の説かれた世界を忠実に守っているように思えてきます。

 残念なことですが、釈尊や道元禅師の説かれた「出家」の姿と、現在の私たち僧侶の生活ぶりが大きく隔たっていることは否定できない事実です。そこにはさまざまな歴史があり、かぎられたスペースでは論じ切れません。宗門の現状をどう改革していくかという点は別の機会に論ずることとして、いまはオウムの説く「出家」が、釈尊や道元禅師の説かれた「出家」のありようと異なっていることだけを指摘しておきましょう。

 オウム真理教が「出家」を強調するようになったのは、教団が衆議院選挙で全員落選し、石垣島でセミナーを行って以後のこととされます。ここで教団はたくさんの信者に、すべての財産を教団に寄付して「出家」することを勧めます。形としては信者個人個人が、修行の増進を計るためには、精神的にも物質的にもできるだけ身軽な方がよいという教団の方針を受け入れて、財産を教団に寄付し、「自発的」に「出家」したということになっています。しかし実態は、閉鎖的な環境の中での「集団催眠」によって多くの「出家」が行われ、その結果、教団は経済的な逼塞状態を脱したという域を出ていないようです。

 その後のサティアンでの生活も、外からの情報を一切遮断して、教団にとって都合のいい情報だけを流し、脱会を認めず、逃げ出した者は無理矢理つれもどすといった強硬手段も日常的に行われていたといいます。このような教団の「出家」のありようは、どうみても釈尊や道元禅師の立場とは異なります。
たしかに宗教集団ですから、その宗教的な信条に基づく行為には、時には社会的な価値観と相容れないものがあります。釈尊の教団において、出家者の私有物が厳しく制限されたのも、いわゆる「社会的な常識」とは異なります。

 しかし釈尊当時のインドにおいては、「四時期」と総称される学生期・家長期・林棲期・遊行期の習慣がほぼ定着し、家庭的に後顧の憂いがなくなったら、人生の間題を解決するために「出家」することが社会的にも認められ、またそのような修行者を尊び援助する習慣が確立していたとされます。そこでは自分の所有する財産を教団に寄付する必要はありません。かえってあとに残した家族が十分に生活していけるよう、財産は家族に与える必要があります。自分の生活は、教えを信ずる人々が支えてくれるからです。

 また言うまでもなく、「出家」したのだから、世俗の価値観のすべてを否定してもよいとか、世俗の価値観よりも宗教的な価値観が勝るとして、反社会的な活動も許されるというのも誤りです。

 釈尊の説かれる「出家」とは、修行者が世間的な価値観に惑わされることなく、「自己を追求する」ために行われるものです。「社会」の中で生きないと同時に、「社会」に対して、できるだけ迷惑をかけない生活を営んでいこうというものだったと考えてよいでしょう。

 さらに出家者は、人々に対して「慈悲」のこころを持たなくてはなりません。「出家功徳」の言葉を借りるなら「それ出家の自性は憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起悪なり、身口相応なり」ということになります。「憐愍一切衆生、猶如赤子」の心は、そのまま「不起悪」、すなわち「悪」の起こりようがない心となります。

 勝手な思いこみで、さまざまな犯罪を犯しても反省の色すらみせない「出家者」が、「真の出家者」であるはずがありません。

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質問12
 宗門の正信とオウム真理教信者の信仰の違いは何でしょうか。
                               


 オウム真理教の公判で、ある被告が「俗世間から逃れたかった」と出家にあたっての心中を述べていました。家族や友人との希薄な関係、満ち足りていて刺激のない日常生活、でありながら断ち切ることのできない俗世間のしがらみ……、このような現実から逃避したいという若者たちが、オウム真理教に光を求めたのでしょう。

 また、ある被告は、「解脱したかった」と入信の動機を語りました。最終解脱者と自称する麻原教祖を信じ、なにかすばらしい心境になりたい、超能力を身につけたいと、オウム真理教に入信した若者もいました。

 「世間からの離脱」や「解脱」を求めた若者、しかしその実現は結局なされませんでした。

 さて、仏教も同様に、俗世間を離れ出家するものであり、解脱ということを体験するものであると言えましょう。伝記によれば釈尊は、29歳の時に城を出て出家し、35歳のときにブッダガヤーの菩提樹のもとで瞑想して「さとり」を開かれたのでありますし、道元禅師も幼少にして世の無常を観じて出家し、中国の如淨禅師のもとで厳しい修行をされて「身心脱落」されています。

 しかし、けっして、物質的にも精神的にも一般社会と隔絶した世界に住むことをめざしたのが仏教ではないということは、しっかり認識しておく必要があります。

 まず、現実の種々の苦悩からは完全に「逃れる」ことはできません。仏教では四苦八苦(生・老・病・死・愛別離・怨憎会・求不得・五蘊盛の八苦)を説きますが、「さとり」を得れば、これらの苦しみから完全に解放されるというのではありません。むしろ、これらの苦から「けっして逃れることができない」ことを自覚することが「さとり」であり、その自覚に促されて正しい生き方(八聖道)を志し実践するのが「さとり」の生活であるのです。

 また、「解脱したい」と真剣に道を求めることは、否定すべきことではありませんが、特別なすばらしい心境になることを求めたり、超人的な能力を得ることを目的としたならば、すでに道の方向をまちがっていると言えます。はじめにその方向をまちがったならば、努力すればするほど遠のいていくのは当然です。

 「さとり」とは、何か光り輝くものを獲得したいという世俗的な欲望の延長のなかで得られるものではありません。むしろ、そのような欲望を捨てることがその発心にあたって必要とされるものなのです。

 ところで、宗門の正信とは、『曹洞宗檀信徒必携』によれば、三宝に帰依し、一仏両祖の教えにしたがって仏心にめざめ、菩薩行を行ずることと言えます。その修行の中心は「只管打坐」であり、日常生活においても坐禅の精神で生活することが大切です。つまり、日常生活において、仏教の智慧に基づいて物事を見つめ、自己をよく明め、他をよく知り、ひとつひとつの行いを、仏の教えに叶い自分のためにも他人のためにも善きことであるかと常に反省しながら大切に行い、かつ、その行いに対して報酬を求めずに、ただひたすら実行すること。難しいみちではありますが、自覚することによってだれにでも実践できる道であるのです。

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質問13
 イニシエーションとは何ですか。仏教や曹洞宗にもあるものなのでしょうか。       
                              


 イニシエーションとは宗教学の用語であり、日本語に訳すと加入儀礼という意味です。

 イニシエーションについて宗教学の立場から説明すると、それまでの社会状況から新たな社会状況への加入・参加を許すための一連の行為体系をよぶのです。それは、多くの場合、儀礼や儀式を伴うので、一般にはイニシエーションを加入礼・加入式というのです。

 世界の多くの宗教・民族で行われているものであり、日本では成人式、および古くは元服式などがこれにあたります。

 また、宗教的にはユダヤ教の塗油式、キリスト教の洗礼式、仏教の潅頂式などがこれにあたります。

 では、オウム真理教はイニシエーションをどのように理解し、利用していたのでしょうか。

 オウム真理教では、麻原教祖が行う「イニシエーション=秘儀」により「ステージ=段階」が上がり、「悟り」への道が促進される重要な儀礼として位置づけられていました。そこでは、「血のイニシエーション」や、「尊師の髪の毛」、はては「入浴の湯」に見られるように、麻原教祖のエネルギーを直接信徒に注ぎ込もうとした儀礼が見られます。その時、あたかも科学的な根拠があるように述べていたことも周知のとおりです。

 一方では、そのために多くの「布施」を強要し、それに答えないと高い「ステージ」には上がれないとされていたのです。これは、一つの集金システムとして機能していたもので、極めて詐欺性が強いといわれています。

 以上のようにオウムで言うイニシエーションは、段階的であり、布施の高低により不平等であり、なによりも仏教の教えからかけ離れたものであり、とても認められるものではありません。

 また一方で、イニシエーションという目新しい用語を使用することにより神秘性を高め、本来の「加入儀礼」という意味を無視して、「イニシエーション=秘儀」というイメージを作り上げてしまったのです。

 ご質問の最後にある仏教との関係から見ると、加入儀礼という意味からは、潅頂式<かんじょうしき>が該当いたします。潅頂式は密教の秘儀で法を伝えたり、弟子になったり、仏縁を結ばせたりする時の重要な儀礼です。

 またこうした「加入儀礼」としては、曹洞宗では「入檀式」や「受戒会」、僧侶の儀礼としては、「得度式」「立職」「伝法」などが広い意味で該当するでしょう。

 しかし、これらの儀礼がオウムのそれと大きく異なるのは、檀信徒に平等であり、また仏様との縁を結ぶ自発的なもので、強制を伴ったり、ましてや何度も行うような性格のものではありません。

 イニシエーション自体が、何か誤った儀礼というわけではなく、その解釈をねじ曲げ、人々の心を混乱させたことが問題なのです。

 このように特殊な儀礼を行い、信徒を惑わし、神秘体験をさせるような宗教は、他の新宗教にも見られるものです。そのようなものに惑わされることのないような、正しい眼を持つことが求められているのです。 

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質問14
 オウム真理教の最終解脱と宗門の修行のめざすものとの違いを教えてください。

 
 まず最終解脱という考えは仏教にはありません。

 釈尊は六年にもおよぶ苦行のはてにそれを捨て、やがて菩提樹の下で縁起の理法を悟り、世間苦から解脱したといわれています。しかし、悟りを開かれて以後、80歳で入滅されるまでの一生は、やはり頭陀行を続ける修行の生涯だったのです。

 また禅宗の初祖菩提達磨は、嵩山少林寺で9年もの長い歳月坐禅をしたといわれていますが、禅の教えを広めるために中国に来たのですから、悟りを開くために坐禅をしていたとは考えられません。つまり、仏教では悟りを開く前も後も変わらない修行の生活が続くのです。

 道元禅師の坐禅観を余すところなく表明している『普勧坐禅儀』のなかに、「いわんや、かの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名なお聞こゆ。古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる」とあるのは、祇園精舎で説法する生来の知者である釈尊も、悟りを伝えに中国に来た達磨も、一貫して行じ続けてきたものは坐禅であることに学ぶべきであるとおっしゃっているのです。道元禅師はこの修行と悟りの関係を修証一如<しゅしょういちにょ>という言葉で示しておられます。それは、私たちにとって悟り(証)とは、仏の教えに導かれた生き方である日々の修行を離れてあるものではなく、これと一つであるということなのです。

 このことからすると、解脱(悟り)に最終点を設定した麻原教祖が、自ら最終解脱に達したと宣言し、その上に立ってあらゆる欲望を肯定した破戒無慚な生活を行い、教団内では妻子ともども絶対君主のような権勢をほしいままにしていたことは、おおよそ仏教の理想とはかけ離れた生き方といえます。

 では麻原教祖の解脱とはどのようなものでしょう。オウム真理教の修行は、ヨガの一つであるクンダリー・ヨガのようです。からだの中に意識を集中して、日常的な感覚を超えた「超常体験」といわれる神秘的経験をし、それを最終解脱を得たと称しているものと思われます。今では教団が修行の際、幻覚を生じさせる薬物を用いたことが明らかになっていますから、その解脱とは異常な心理状態で見る幻覚に類するものと考えて間違いないでしょう。

 しかし、禅は決して神秘体験をもとめる宗教ではありません。道元禅師は悟りを神秘体験ととらえることについて戒め、『普勧坐禅儀』のなかで「たとい、会に誇り、悟に豊かにして、瞥地<べっち>の智通を獲、道を得、心を明めて衝天の志気を挙し、入頭<にっとう>の辺量に逍遥すといえども、ほとんど、出身の活路を虧闕<きけつ>す」と示しておられます。どんなに悟りを得たと有頂天になり気持ちが昂揚したとしても、それはもっとも大切な「出身」という、悟りをも超える自由闊達な路を失ってしまっているのだというのです。そして私たちに「須く、回光返照<えこうへんしょう>の退歩を学すべし。」と示されています。それは外に向かおうとする心のはたらきを、一歩退いて自らの内側に回<めぐら>し返し、この現実の中で仏道にかなった生き方を実践していくことこそがもっとも大切であるということをおっしゃっているのです。

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15、オウム真理教関係年表

昭和30年(1955)二大政党対立の時代(55年体制)が始まる。
        3月 松本智津夫(麻原彰晃教祖)、熊本県八代市に生まれる。
昭和36年(1961)ケネディ大統領就任。ソ連人間衛星船打ち上げ成功。
        4月 麻原教祖、小学校入学、その後盲学校小学部に転校。
昭和45年(1970)大阪万国博覧会開幕。三島由紀夫、自衛隊で割腹自殺。
        4月 麻原教祖、盲学校高等部本科進学。
昭和51年(1976)ロッキード事件で田中角栄元首相逮捕。新ベトナム成立。
           麻原教祖、熊本市の鍼灸院に2カ月ほど勤める。
昭和52年(1977)円高と貿易黒字問題が起こる。王貞治世界新記録。
           麻原教祖、千葉県船橋市内で鍼灸師として治療に当たる。
           麻原教祖、仙道・ヨガ・仏教・密教などの修行に取り組みはじめる。
昭和53年(1978)新東京国際空港(成田)開港。
        1月 麻原教祖、結婚。
        7月 麻原教祖、船橋市内で「漢方亜細亜堂薬局」開業。
昭和56年(1981)警視庁初の校内暴力対策会議。レーガン大統領就任。
           麻原教祖、健康食品と漢方の店「BMA薬局」開業。阿含宗の「千座行」を続ける。クンダリニー覚醒を体験。
昭和57年(1982)参院選に比例代表制導入。フォークランド紛争起こる。
        6月 麻原教祖、薬事法違反容疑で逮捕。罰金20万円を科される。
昭和59年(1984)ファミコンブーム。グリコ事件起こる。新紙幣発行。
        2月 麻原教祖、東京都渋谷区でヨガの修行道場を始める。オウム神仙の会を発足。
昭和60年(1985)日航機群馬県山中に墜落。ソ連ゴルバチョフ書記長就任。
        2月 麻原教祖、「空中浮揚」を体験。
      4~5月 麻原教祖、神奈川県三浦海岸で「シャンバラ世界」を築くよう、シヴァ神の神託を受ける。
昭和61年(1986)チェルノブイリ原発事故。いじめで中野区の中学生自殺。
           麻原教祖、最終解脱。信徒数35人。
昭和62年(1987)国鉄分割民営化。大韓航空機ビルマ上空で爆破される。
        2月 麻原教祖、ダライ・ラマと会談。大阪本部を設置。信徒数600人。
        7月 オウム真理教に改称。信徒数1300人。
       12月 名古屋本部設置。 
昭和63年(1988)リクルート疑惑発覚。ソウルオリンピック。
           信徒数が3000人に、その後10000人にまで拡大。
       10月 静岡県に富士総本部完成。
平成 元年(1989)消費税施行。天安門事件。ベルリンの壁崩壊。
        8月 東京都、オウム真理教を宗教法人として認証。翌年の衆議院選挙のために「真理党」設立。山梨県上九一色村などで土地購入を開始。
       11月 坂本弁護士一家失跡事件起こる。
平成 2年(1990)日米経済摩擦激化。東西ドイツ統一。
        2月 総選挙に信徒25人が立候補して全員落選。
        4月 麻原教祖、日本沈没を予言して、信徒1270人と石垣島へ。
        5月 熊本県波野村に道場用地6ヘクタールを取得。
       10月 熊本・山梨両県警が国土法違反容疑などで、全国12ヵで一斉家宅捜査。4人を逮捕。
平成 3年(1991)雲仙普賢岳噴火。湾岸戦争。ソ連崩壊。
        7月 長野県松本支部の土地を取得。
平成 4年(1992)自衛隊カンボジアPKOへ。佐川急便疑惑。
        9月 麻原教祖、石川県の鉄工会社社長に就任。
           この頃モスクワ支部開設。
    10~11月 各地の国立大学で講演、近々に世界最終戦争が起こることを予言。
平成 5年(1993)北海道南西沖地震。細川政権発足。
        3月 1997年にハルマゲドンが起こると予言。
        6月 オーストラリアに牧場を購入。
       6・7月 亀戸の教団新東京総本部で悪臭騒ぎ。
平成 6年(1994)自・社・さきがけ連立内閣成立。大江氏ノーベル文学賞。
        3月 麻原章晃教祖、オウム真理教はハルマゲドンに対して、準備をしていると発言。
           毒ガス攻撃による被害を受けていると主張し始める。
        6月 松本サリン事件発生。
        7月 山梨県上九一色村の教団施設で悪臭騒ぎ。
        9月 宮崎県の旅館経営者が拉致、監禁されたと教団を告訴。
       12月 旧ソ連製の大型ヘリコプターを購入。
平成 7年(1995)阪神・淡路大震災。
        1月 上九一色村の教団施設周辺でサリン残留物が検出。
        2月 目黒公証役場事務長の仮谷清志さん拉致事件発生。
        3月 地下鉄サリン事件発生。
           山梨県上九一色村の教団施設など25ヵ所を一斉捜査。
        4月 教団「科学技術省」トップの村井秀夫氏刺殺される。
        5月 警視庁は地下鉄サリン事件で、麻原教祖を殺人・殺人未遂容疑で逮捕。

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執筆者一覧
 櫻井 秀雄(現代教学研究センター所長・駒澤大学総長)
 松田 文雄(同センター副所長・駒澤大学教授)
 松本 晧一(同センター主任研究員・駒澤大学講師)
 佐々木宏幹(同センター常任研究員・駒澤大学教授)
 奈良 康明(同センター常任研究員・駒澤大学学長)
 板橋 興宗(同センター常任研究員・大乘寺専門僧堂堂長・師家)
 田中 良昭(同センター常任研究員・駒澤大学教授)
 椎名 宏雄(同センター常任研究員・駒澤大学講師)
 中野 東禅(同センター常任研究員・可睡斎専門僧堂後堂) 
 永井 政之(同センター委託研究員・駒澤大学教授)
 角田 泰隆(同センター委託研究員・駒澤短期大学講師)
 尾崎 正善(同センター委託研究員・宗学研究所所員)
 森田 勝准(同センター委託研究員・教化研修所研究員)
 竹内 弘道(同センター事務局幹事・駒澤女子短期大学講師)
(順不同・敬称略、役職は平成7年12月現在)

 


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