聞き取りにくい声
April 9, 2012
1
人間には数学的な想像力が著しく欠ける、というのは数字を扱うひとが等しく実感することである。
Birthday problemという有名な問題がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/Birthday_problem#Calculating_the_probability
人間の確率的直感がいかにええ加減、というか確率でなんかゆわれても人間には絶対に「実感できない」ことを説明するためによく使われる。
ひとつの部屋に366人の人がいれば(2月29日生まれのひとは勘案しないとして)100%同じ部屋に同じ誕生日の人がいるのは当たり前だが、57人いれば99%の確率で誕生日が同じひとがいる、というのはかなり人間の感覚を裏切っている。
23人の乗客がいる地下鉄の車内には同じ誕生日の乗客がいる確率は50%もある。
フクシマのあとで、やたらと確率的数字を述べ立てて「ダイジョーブだ、安全だ」という科学者がたくさんいたが、科学の世界ではユーメイな数字自体が人間の感覚に対してもつ詐術を知っていてトリックを使用した確信犯というべきで、わしにはそういう人間に科学者と自称されるのでは社会のほうで困るだろう、という気持ちがある。
少なくとも醜悪な行為で、科学者がこんなに恥知らずな国、というのも、ほんまに珍しいんちゃうか、と考える。
2
フクシマのあと、わしの「日本語eメールアカウント」には、ものすごい数のメールが来た。なんだか情緒的に聞こえるかもしれないが、ときどき読み返してみると、悩み、苦しみ、たくさんの眠れない夜や、窓の外を黙ってじっと見つめた時間がいっぱいこもっているような、長い文面のものばかりだった。
わしは、いまでも何回も読み直してみる。
ジュラさんからのメールもあれば、SD、狐茶、ナス、Akiraさん、というような他の、もともとネットで知り合った友達のものもある。トーダイおじさんたちや若い役人の友達、医師達、大学生、若い研究者、いろいろなひとたちが、日本のひと特有の、と呼びたくなる、内面の淵を垂直に見下ろして暗い影の奥に目をこらしているような、おおきな沈黙が反響しているような、あの不思議な調子の言葉で自分が考えて悩んだことどもを述べている。
日本語で考えている人というのは内面と外に向かって発される言葉が分離していて、そのふたつの言語の体系が直截の関係をもっていないように見える。
誰もが思い詰めているのに、思い詰めた魂から突き放されてでもいるような「明るく振る舞う自分」が外に向かって宣伝活動を行っている。
ふたつに引き裂かれた情緒が自己に対して復讐の機会を窺っている、とでもいうような不穏さがある。
日本の人が時に、人が変わったような激怒をみせるのは、そのせいだろう。
あれは本人が見失っていた自分の情緒が突然自分に見える場所に戻ってきたときに起きる爆発的な反応なのであるに違いない。
もしかすると、日本のひとは、そういう激情の瞬間にだけ自分の存在の真実性を感じているのかもしれない、と思う事がある。
ほかの自分はウソだ、と思っているのではなかろーか。
3
もう疲れた。
もうダメだと思う。
希望というものがほんとうになくなることがある。
メールの文言を見ながら、「暗い性格」というような表現で、「ほんとうのこと」を言う習慣をひとから奪ってしまった日本社会の習慣、ということを考える。
明るくないと、出世に響く、という人に会ったこともあったが、なんだか日本の社会ではほんとうのことでありうるように見える。
放射能を怖れる側が「放射能を怖れるな」という社会の側に言うのではなくて、放射能を怖れずに逃げずに暮らせと命じている社会の側が個人の側に「放射能が危ないというなら、それを証明しろ」というのに典型的だが、日本ではものごとを眺めるパースペクティブの視点が、なぜかいつもほぼ自動的に社会の側にある。
個人の側からものごとを眺める、というふうにならないのは玄妙なほどである。
昨日食べた昼食がうまかった、と(あたりまえだが)個人の立場から述べていたひとが話題が政治のことになると、あっというまに自動的に支配層の立場にたって物事を述べはじめる。
日本でだけ見られる特異な光景であると思います。
英語の世界では、福島県のタクシーの運転手は「原発事故で観光客が減って困る」とは言うが、「放射脳の人間が増えて社会を脅かしている」とは言わない。
そんなことは、おれのしったこっちゃねーよ、というのがロンドンのタクシーの運転手の視点というもので、それ以上踏み出して政治家のような口を利くのは余程あたまのわるい、オッチョコチョイの運転手であると思われる。
わしはなぜか日本では「紳士的」という不思議な評価になっているロンドンのタクシーの運転手に較べれば日本のタクシーの運転手のほうが倍は人間としての質がよいと請け合えるが、日本人の友達と一緒に乗ると、ときどき始まる政治談義はくだらなさすぎて涙がでる、と思う。
支配層のつもりの役を演じてみせているつもりにしても、大根役者であると考える。
あれのせいでクソ高い日本のタクシー料金が決まっているのだとしたら、是非、返してもらいたい、と降りてから考える。
とゆっても滅多に自分で払ったことはないが。
隣のクルマに幅寄せされたりすると、窓を開けてF言葉20連発なロンドンのタクシー運転手のほうが、その点では健全であると思われる。
実際、わしの友達はあるとき、運転手が政治について自分に意見を述べたので、ひどく傷ついた気持ちになった、と述べていた(^^)
「支配層になったつもり」で、口調まで真似して、愚にもつかない、としか言いようがない技術論(<−研究者になったつもり)、行政論(<ー役人になったつもり)で、それぞれボロを縫い合わせてつくった「教授に似せてつくった衣装」「役人に似せてつくった衣装」で三文芝居を繰り広げる人間の大群を横目でみながら、大半のふつーな日本人はため息をついてこの一年を暮らしてきたよーでした。
日本の歴史を通じての最も興味深い点は、日本では「普通の声」「自分自身で考えられた気持ち」というようなものは、ひどく聞き取りにくい低い声でしか語られないことで自信満々にオオウソを述べて、思い込みを自分なりにややピントがずれた理屈で満艦色に飾り立てた「証明」をして得々とする、声のおおきなマヌケだけがインターネットならインターネットの大通りを闊歩している。
その後ろを輪を掛けたオオマヌケがぞろぞろとついて歩く。
勇気をだして支配層の考えには合致しないが自分ではこうに違いないと考えたことを同じ日本人の誰かが述べると、じっと隙をうかがって、「これなら勝てる」と信じられる失策を相手が冒すと、頭の悪い人間の怖さというべきか、それがまったく本質的でなくても大集団で襲いかかって勝ち鬨をあげる。
落ち着いてみれば「議論」などどこにもないが、日本の社会では「議論」と「喧嘩」の区別といものがなく、「罵倒芸」というような馬が腰をぬかすようなチョー下品な表現があるくらいなので、どっちも似たようなもんだ、で終わっているのでしょう。
前に述べたように日本では科学者として放射能汚染の問題に関われたのは早川由起夫と児玉龍彦のふたりしかいなかった。
あとは「科学者なんですうー」という「タレント」という日本語とよく似た「科学者」という不思議な立場の大学教員たちが多分テレビのバラエティショーから学習したと思われるやりかたで議論を展開しただけだったが、早川由起夫のほうは東京大学教授でなくて群馬大学の教授だったのが悪かったのか、というのはひとの悪い冗談なので謝るが、「暴言癖がある」「もとから悪い評判のある学者だ」というようなことで散々に言われて、ありもしないことを勝手にでっちあげて既成事実化する、という近所の性悪ババアの茶飲み友達というような場ではよく使われる汚い手で葬られかけて、見ているわしは、ぶっくらこいてしまった。
考えてみれば、わしが遠くから眺めていたそういう事共を日本にいる日本の友達たちは間近に眺めていたわけで、それに思い当たれば、疲れないほうがどうかしている、とも言えます。
一年という時間が経って、日本の政府と支配層は完全にcredibilityを失ってしまった。
日本のひとはCNNだのFOXだの、あるいはBBC、Le Monde,
そういう大衆ブランドのマス・オピニオン生産所しか見ようとしないが、もっと小さな普通の声、英語人が何か問題が起きたときに、「そういう話のときは、あそこを見に行けばいいな」と思ってでかけるような場所、たとえが酷すぎるが日本語ならかつてはゲームの話なら青龍さんのサイトに観に行けばいいなとか、義理叔父は日経ミックスやニフティサーブの頃にはそういう信頼性がある場所があって、そういうフォーラムにでかけるために「パソコン通信」に高いオカネを払ったものだった、というようなことをいうが、義理叔父の常に美化される傾向の昔話がほんとうであるとすれば昔のパソコン通信フォーラムのような、でもよい、そういう場所を覗いてみれば一目瞭然に判ることです。
まして英語世界ではいまだに絶対の力をもつ会員のみの閉鎖型のフォーラムでは、日本への評判は少なくとも支配層についてはまるで違う国に対するもののように変わってしまった。
わしなどは、この軽蔑と冷笑に満ちた支配層への評価が日本国民全体の評価になる日がくるのではないか、とひやひやしてしまう。
考えてみれば、わしがひやひやするのはヘンだが、日本語の神様が頭のなかで、きゃあ、をするのでしょう。
考えるたびに、やばいんではなかろーかと思う。
聞き取りにくい声は、ついに世界の誰にも聞き取れなくて、「あの日本人」と指弾される日が来てしまうのではないか、と妄想することがあるのです。