私はつまづいてゴロゴロゴロゴロと転がりました。階段から落っこちたようです。人の声がします。「なんだあれ」 ああ恥ずかしい。うつぶせのまま起き上がりたくありません。横になっていると犬の鳴き声が聞こえてきました。野良犬の群れのようです。血のにおいを嗅ぎ付けて私を食べに来たのだと思いました。私はどこも痛くありません。落ちるときの力の抜け方が気持ちよかったくらいです。だからきっと動こうと思えば動けるのですが、まあいいか、この際だ、と思い食べられてみることにしました。耳元で犬達がうなり声を上げて互いに牽制しながら私の体に近づいてきます。♪ けんかをやめて 二人をとめて 私のために 争わないで もうこれ以上 ♪ 私は目を閉じてその声、息使いを聞いています。頭に噛み付かれたようで髪の毛が引っ張っられて少し痛いです。そして首筋に湿った生温かい息がかかり、初めて恐ろしさを覚えました。今、手をかざしたらどうなるだろう……と体を動かそうとしたら目が覚めました。髪の毛を後ろでしばったまま眠ったので「髪の毛が引っ張っられて少し痛い」と思ったのかもしれません。
「たとえ一度でも民衆の苦悩に心を痛めたことのある、人類の真の友なら、わが国の民衆が漬かっている、足も踏み込めぬような堪えがたい泥濘を理解し、赦して、その泥濘の中にダイヤモンドを見つけだすことができるはずだ。くり返して言うが、ロシアの民衆を判断するには、彼らがしばしばやってのける醜行によってではなく、その醜悪のただ中でさえ彼らがたえず憧れている偉大な神聖なものを基準とせねばならない」(『作家の日記』)
カラマーゾフの兄弟 解説
→翌朝追記。これですね、ここだけ抜粋すると民衆とは醜行ばっかりやってる醜悪なものだけど…みたいに読めないこともないけど、ドスト・F・スキーさんはそうじゃなく、苦しむ民衆はその美しさゆえに苦しんでいる、貴族や役人がその身分の違いで見下せるものではない、全体の幸福を願うならまず民衆の中にある美しさを尊び学ばねばならない、みたいな感じだったように思う。それを読んだとき、私は他人へ寄せる好意というものがわからなかったので目からうろこが落ちたように感じた。そうか、目に見えることではなくその中にあるダイヤモンドか、と。言葉は難しい。ではこれから朝食です。くずきり(鍋用)をうどんみたいにして食いますけんね。
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好意と忠告について考えている。
何も余計なことを言わなくても、その源流の水はいつかきちんと下流に流れていくだろう。でもそこまでにゴミや下水が流れ込んでたりする。心無い者(例えば私ね)が電池やテレビや冷蔵庫や車を不法投棄していく。せっかく水が流れてきてもこんな状態では川はよどんでしまう。そのゴミに気付いたなら川の管理者にそれを伝えて、時間があるなら一緒にゴミ拾いすることは、その川を美しく保つために悪いことではないだろう。川に塩素を投げ入れたり、川筋を変えるのとは違う。
が、しかーし。ゴミを拾う者が家庭排水を捨てている。拾ったゴミをまた別のところに不法投棄している。キリがない。だけどゴミを拾わなければ汚れるだけだ。ゴミはゴミ箱に。ゴミが落ちてるのに気付いたら拾う。その川は時にこちらの川へ流れ込んだり海に流れ出たりするわけだから、私にとっても自分の川の水質を保ち、よどみなく流すために必要なことだ。
好意はその源流を守りたい、大切にしようと思う気持ち? それなら私にもないことはない。
久々の深夜散歩に行ってきたら、私の中のキムタクが「やベーやべー」と連呼するくらい月がすんばらしくて(あと、手袋持ってかなかったので指が冷たくて)すっかり目がさえてしまったので改めて日記を書きます。
今日は歯医者。奥歯に銀歯をかぶせてもらった。ガンガン叩かれてちょっと痛かった。絶対このひと試行錯誤しながらやってるよ。つーわけで好感度アップ。次回は明日。あと1本、時間のかかるのが残っているそうな。できるだけ早くやってるつもりだから、とか言われた。そんなこと言わないで。私、あなたのこと責めてるわけじゃないのよ。
歯医者が終わり、今日こそは何か買うぞ、と思ってスーパー入店。でも買いたい物がないんだよな。物を目の前にすると物欲がやってこない。自販機じゃ買えない物を、と思って豆乳と乳液を買った。乳。
それまで前を向いて歩いていても民家の多いところに来るとうつむく自分に気付いて、山の景色、田舎の景色というやつはすごいんだなと思った。都会なんかじゃとても暮らせないなあ、と思った。
んで。今、月を見てきて、私は希望や期待に頼らずに自給自足しなければならないと思った。そうすることで与えられたものを素直に喜べるようになるんじゃないかな。
図書館へ。『白痴』は結局1ページも読まなかった。もう一度改めて借りようかと思ったけど、ドストさんとは別のタイプの文章が読みたい気分だったので今日のところは返して別の本を借りる。この図書館、もっとちゃんと見ればいろんな本があることに気付いた。新刊だけ納めてある棚があることを知った。あと、ここは古い図書館でコンピューターとか導入しておらず、借り出すときには自分一人で手続きを行うので何を借りたのか誰にも見られないところがいいと思った。次の3点は本日借りた本。
図書館の次は歯医者。少し痛いけど虫歯がひどい所なので仕方ない。けど、歯医者に行こうか行くまいか悩んでいた頃に考えていたほどの痛みはない。前回、前々回と出血したけど全然痛くなかった。注射も痛くない。口の中ってあんまり痛み感じないのね。これってまさか私だけということはないよね。確かに痛みには鈍感なほうだけどさ。だから他人にそれを強制したり出来るんだろうな。今日は血はなし。次回は明後日、7日土曜日。
今日は1日中雪が降っていた。母親は天気予報の雪マークにうんざりしているけど、私は傘を差していたほうが背筋を伸ばして歩けるので毎日降ってくれたほうがいい。だがそれを願うなら母親の分も雪かきしなけりゃうそだろ。ということで今日は自分から雪かき。音楽聴きながらで楽しい。帰ってきた母親にありがとうと言われた。そんなもの求めてないさ。この人を甘やかさないでくれよ。と言いつつ音楽なきゃやんないんだけどね。
1回更新した日記を書き換えすぎ。下のはまだ頭がはっきりしてたときに書いたもの。
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人生を楽しく生きることを学びなさい(じゃないと終われないの) by ポネットのママ
これだけはやっとかないと終わるに終われない(つってもそのときゃそのときなんだが)リスト。長くいるほど心残りは増えるんだけどそこは目をつぶらなきゃどうにもこうにも。あ、あともう一つ。大事な人達に私が楽しんで生きたことをわかってもらう。そのために何ができるか考えよう。自分にとって何が楽しいのかは大体わかった。その楽しさを最後まで持続するには何をしなければならないか。その義務のさなかも楽しめるように。
昨日のポネットのママの言葉は結構ぐさっと来る。終わることもできないのかと。親だから言える言葉なんだろうなあ、と思う。そうでなければ、終わることもゆるして(ゆるすもゆるさないもないんだけど)その上で、でもよかったら続けてほしいんですよ、という率直な感想を述べるくらいだろうなあ、と。小説を読めば(あるいは映画を観れば)ポネットに感情移入してるから受け入れるしかないって思えるんだけど(と思うんだけど)ここだけ書き出したのは間違いだったかも。でも本探したけどなかったのさ。広島に置いてきたのかしらん。
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昨日、Sさんからメールが着て、水曜日に会うことになった。待ち合わせの時間が12時だったので、よかったらお昼を一緒に食べましょう、とか書いてしまった。喜んでもらえたけど、どうなんだろうな。顔の傷のある私と一緒にどこかの店に入るってことですよ。もし恥ずかしければいいからねと言おうか、とか、でもそんな卑屈なこと言ったら気を使われて無理して付き合ってくれるんじゃないか、とか。これはずっと付きまとって来るんだろうな。上等っすよ。とっても私らしい。一人でいればいいんだし問題はない。
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んじゃ歯医者行ってきます。
外は結構雪が積もっている。どうしようか迷ったけど、行く道を制限されるのがいやなので見た目が悪いことは百も承知で男物の長靴をはいて行くことにする。玄関を出て、傘を差して、ブカブカの長靴で雪を踏みしめて歩いてると、とてもイイ!と思う。伝わりやすい言葉を選ぶならば「ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん」て感じ。つまり童心に帰ったのだね。
歯医者へ。ここはいつも医師の奥さんが受付業務をしているんだけど、今日は医師が一人で受付業務まで請け負っていた。治療の過程の説明がいつもは奥さんを通して伝えられるのに今日はなかったことや、おつりの返し方を見て接客が苦手なんだなあ、と思う。再び好感度アップ。影ながら応援しております。でも私がいることで息苦しさを感じさせているのはわかっているのです。だから奥さん、客が一人だからってテレビ見てないでここに座っててあげなよ。次回は9日月曜日。
歯医者が終わって向かいのスーパーへ。長靴で入店! 漢っぷり急上昇中です。餃子とチンゲン菜(半額シール付)を買う。311円。
帰り道、全品100円自販機の「あったか〜い」のところにポカリスエットがあってびびった。戦慄を覚えた。本当に温かいポカリが出てくるのか買って確かめてみようと思ったけど、ポカリは意外とカロリー高いし、大体お金の無駄だと止めた。でも今こうやって書いてるとその結果を報告したくなる。おそらく次見たら買ってしまうだろう。
昨年11月からずっと言っていた町営のスポーツジムの申し込みを今日こそするぞと思い、スーパーの袋を提げたままジムのある建物に入ってみる。 ……どこに申し込めばいいんだろう。壁を見ると最初の申し込みは電話でもいいと書いてあったので、その言葉に甘えて帰ることにする。敗北感いっぱいだけど、ここまで一人で来たことが進歩なんだと思おう。
歩いている道々、「だけどそれを行動しない言い訳にしちゃいけない。それじゃ本当に失礼だし、その失礼を気にしないとしても脳内フレンズは悲しむ。そして本当に一人ぼっちだ」と気持ちを引き締める。
家に着くとハローワークの求人情報の冊子とにらめっこ。迷いに迷ったけど今日じゃないと気持ちが萎えそうだったので電話することにした。まずコンビニ。時間帯が深夜で、昼間は好きなことができそうだと思った。しかし接客はねえ……ってそんなこと言わないで面接受けるだけ受けて向こうに判断してもらおうよ。電話だけでもしてみようよ。それにどうせ深夜は女なんか雇わないから安心して、ほれ。ということで受話器を取る。「あ、あ、アルバイトのことで電話したんですけど…」「あー、アルバイトね、もう決まったんですよ、ごめんねえ」「いえ、全然、ありがとうございました」。うあー、ホッとしたぜ。勢いに任せて次は夜間清掃員。一体何の掃除をするのかなー? ……留守電の声「明日は9時からの営業となっております」。お次は木工所の軽作業員。 ……誰も電話に出ねー!
すみません、今とてもホッとしております。また来週電話できると良いのですが。
日曜日くらいから調子が悪かった(=過食している。動きたくない。何も考えたくない。打開策とか考えるの面倒。時間があっという間に過ぎていく。ああ、ああ、ああ、って言ってる間に過ぎていく。ああ、とりあえず何か食っとこ)。月曜日に予約していた歯医者も行かなかった。なので今日のSさんとの約束もぶったぎってしまおうかと思ったけど、しなかった。すごーい。やっぱ罪人意識があると違うのかしら。
今日の総評:楽しかった。ちょっと心配していた傷のなめ合い(又はえぐり合い)にはならなかった。終始笑顔で近況を報告し合った。私の顔の傷のことはSさんからは何も言われず、喫茶店に入ってしばらくして私が言い出した。このまぬけっぷり、とくとご覧ください、みたいな感じで笑いながら。反応は「うん、うん、へぇー」。流された。ホッとした。その後、湯水のごとく消費活動。金を稼ぐということを真面目に考える。ううむ。できれば自分の欲望に突き動かされて始めたいのですが。つまりこれは自分の欲望ではない。いつか自分のものになるんだろうか。いや、もちろん働く気はありますよ。ナシだと思ってる人にそれってアリ!と言いたいなあ、という欲望があるので、その言葉に説得力を持たせるためには、とりあえず働かなきゃ。
んで、Sさんとはまた会う約束をした。多分、次の日曜日。次回、今日出された課題を一つでもクリアして、より幸福な関係の構築とその継続を目指します。 ……ってこんな固いことを言ってるうちはまだまだなんですよ。
こんな感じで明日は歯医者に行きましょう。ラジャー。
昨日の日記に書いた宣言どおり、歯医者行きやした。今は左下の奥歯。固定するためなのか左あごから右肩を抱え込まれた、ガシッと。わーお。なんつーか、あれだ、とても心地良い。まいったね。こういうの弱いねん。ありがとうございます。と、んなこと思ってる間にプスプス刺される麻酔注射。相変わらず痛くない。そういえば私は口の中以外でも痛い注射を受けたことがないんだよね。運がいいのか、痛みに対する耐性があるのか、まさか痛点がないとか。次回は14日土曜日。2月中に終わるといいなあ。
帰り、小学校の前を通るとランドセルの群れと遭遇したけど、そこを早足で通り過ぎたら後ろにも前にも誰もいない道をいつもどおりのんびり歩くことができた。景色を見る。雪原、雪原、また雪原。とっても素敵だけどまぶしーっす。
歩いてると色々考える。人付き合いというのは私にとって「毒を喰らわば皿まで」なのかなあ。毒を喰らいたいのか? 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とか。どうして虎子を得たいなんて思うんだろう。「人を呪わば穴二つ」。何をするにも私の行動は呪っているようなものだ。だからこれくらいの覚悟をしておかないと何もできない。バランスを取れないのならばどちらかに偏る覚悟をしなきゃ。と、こんなこと考えたのはきっとCoccoを聴いていたせいですね。説得力のある声してるよなあ。
おはようさん。今朝はすごくいい夢を見た。どんな夢だったか忘れたけど、私は浅いなあと反省していた。眠る前、『“It”と呼ばれた子 幼年期』を読み終えた。ここまでだと思わなかった。私は痛みなんて言葉を軽々しく使うべきじゃないと思った。反省した。しょんぼりして眠った。で、翌朝も見た夢に同じように反省したんだけど、なんかすっきりしていた。全然オッケー。以後気をつけます!(猿を馬鹿にしちゃいけないよ)
最近たわし(小亀)で体を洗っている。力を入れると痛いのでそっと動かしているうちに自然と体をいたわる気持ちになる。こうしているとSMプレイとは互いへの愛と信頼がなきゃ出来ないのだ、とたわしに教えられる。しかし他人にはおすすめしない。だってやっぱ痛いから。あ、そういえば中学の卒業文集のこれからの自分に一言!みたいな欄に、4月から一人暮らしを始めることになっていた私は「部屋とYシャツとたわし」と書いたっけ。若気のいたり。というか今も変わっていません。いやむしろ(略
風呂から上がり、眉毛を微調節し、ブルーハーツ聴きながら歯医者へ。今日は受付に奥さんがいなくて、医師一人で治療から清算まで全部をやっていた。今日は珍しく客が多くて、医師は接客苦手な人のようだから大変だろうなと思ったけど、あんまりにもあわただしくて、苦手なんですぅ〜とか言ってる場合じゃねえんだよオラオラ〜、って感じの毅然とした態度で接客していた。レジの向こうに漢を見ました(いや、正確には声を聞いただけ)。治療は特にこれと言ったことはなし。今日の治療費は100円ちょっとだから次回まとめて払えばよいそうだ。次は17日火曜日。用事があって出ているので帰ってくる頃に(いつもより1時間ほど遅く)来てくれとのこと。しゃあねえなあ。
家に帰ると、家の前に置いてあるトヨタ車の中に母親の恋人さんがいた。実は今まで恋人さんが家に来ても、母親の気遣いでさっさと二階に行ってくれるので会ったことなかった。というか、今日も目が合ったのに声もかけないで、あいまいに会釈して通り過ぎてしまっただけなので「もう会いました」とも言えない。見て、見られた、というそれだけ。写真で見ていたより若い感じだったな。
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明日またSさんと会ってくる。前回も入ったカラオケ屋の前で待ち合わせ。Sさんはいわゆるジャニヲタなのでジャニーズ系に関しては振りが出来たりアルバム収録曲とか知ってたりですごいんだけど、私と一緒に歌える曲は少ない。いや、一緒に歌う必要はまったくないんだけど、なぜだか前回は一緒に歌える曲を選ぶのに頑張ってしまって、最後のほうは自分が歌えないものまで何となく合わせてて疲れた。今度はお互い自分が歌いたい曲を選びましょう、より幸福な関係の構築とその継続のために。しかし…、1時間2,000円って高いよなあ。
朝からずっと大粒の雪が降っている。■傘を差していると守られているよう。傘の下から見える景色はモノクロのサイレントムービー。白を基調とした影絵。手袋をしているせいか周りは吹雪いている割にとてもあったかい。だけど顔は冷たくて気持ちいい。■祈るなら歩くのが一番だ。足を踏み出すことに集中していると自然とそんな気持ちになれる。歩くのは楽しい。■そして無性に悔しくなる。私は何も変わっていないのだ。■だけど悔しさを感じるようになった、そこだけは変わったのかも。そう思いたい。ま、どちらにしても「心を痛めながら、最善を尽くす」しかないのか。■1時間ほど歩いたところで寒さのせいか珍しく頭が痛くなる。顔を上げるとそこらじゅう白くて悲しくなる。■人目を避けてショッピングセンターの裏を通ったら2mくらいの巨大なつららを目にして思わずにんまり。真新しい雪を踏みしめて歩くと自分が新天地を切り開いているようで何だかわくわく。■あんまりにも美しいものを見ると悲しくなる。悲しみはそのほとんどがとても美しい。と誰かが言っていた言葉を思い出して、ほんとにそういうものなんですねえ、と歩きながら一人うなずく。■帰り道はくたびれてしまって前を向いてるのがいやになった。前を向いて歩くのは強い意志がいる。疲れる。回れ右をして後ろ歩き(自分の後ろ側に足を踏み出す)。らくちん。■人通りの少ない農道だから後ろ向きでも恥も危険も気にせずいられる。これってすごい恵まれていることなんだろうな。こういうのを他人と分け合うことは出来ないんだろうか。私にその能力はないんだろうか。■しばらくそうやって歩いて、家が近くなったところでまた回れ右して前を向く。家に着いたらSさんに「ただいま」メールを送らなきゃ。
私は軽蔑されているんじゃないか。と、いつも何となく思っている。この顔に「私は卑怯者です」と書いてあるんじゃないか。この日記の行間に自分の醜さが現れているんじゃないか。うれしいことがあっても素直に喜べない。自分がそれに値しないから。と言い、それを自分の力にして前に進んでいくことから逃げている。進まなきゃ価値はないままだ。……ていうか、価値なんてなくていい。誰にも好かれなくていい。軽蔑されてていい。何も得られなくていい。こんなものはどれもどうせ一時的なものなんだ。そうやってすべて諦めたと思っても、まだ諦められないことがある。それだけでいい。大体、好かれようが軽蔑されようが私の能力も限界も好き嫌いも変えることはできない。たとえ私がそれを望んでもだ。
んー、やっぱりこういう結論が出るってことは元々が苦しんでないってことなんだろうな。どんなに卑屈な言葉を使うことがあったって私は私を軽蔑していない。たとえ泥濘や肥溜めでうごめいてる醜悪な生き物であろうとも、未だにこの場所でのダイヤモンド発掘の夢を諦めていないことについて、何時でも一定の評価をしてやれる。そりゃバカだとは思うけど、私にしてみりゃ愛すべきバカです。
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先週水曜日、本屋に決死の入店を果たして買ってきた『ひきこもり文化論』。今朝やっとこ前書きだけ読み終わった。長い前書きだった。私はどこに位置したいかなあと考える。私は状態とか別にどうでもいい。生も死もただの状態であって、私はそこにある感情が気になる。苦しんで生きるのも悲しんで死ぬのもいやだ。あ、いや違うな、苦しみも悲しみもあって結構だけど、一緒に喜びや楽しさがあって欲しい。でも喜びや楽しさは他の感情や状態に埋もれやすい。その人の動きを鈍らせる。本当に楽しいことを見つけられたらそれは原動力になるだろう。でも「本当に楽しいこと」を見つけるのはなかなか難しい。そこで私はその手助けができたらいいなと思う。いやいや、宗教とか新しく作ったりとかしませんから、まったくほんとに一人が好きなんですから。というかその前に邪魔になりたくないですから。いや、どうしたって邪魔になるときはなるのかな。それでもやるときはやるでしょう。その「やるとき」の見極めが難しいんだけど。おそらくそれが私にとっての「本当に楽しいこと」につながる。だといいね。また読み進んだら感想書きます。
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仕事から帰ってきた母親に「歯医者が終わったら寮付きの工場に短期で出稼ぎに行こうと思ってる」みたいなことを言ったら、ちょっと困ると言われた。あと1ヶ月くらいは母親の仕事がたまにぐっと忙しくなるのでその手伝い(書類作成)をしてほしいそうな。ふむ。まあ一度手を付けたことなんでしゃあないか。んで、これまた母親がやってる副業(役所等に書類を取りに行き、その書類を委託業者へFAXで送信するバイト)を代わりにやらないかと言われた。自転車買ってあげるから、って。んー、やってみようかな。外に出る練習になりそう。ついでにやせるね! だね。家にいて自分を律してるよりは効果ありそうだね。
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言葉の使い方がわからん。自分の言葉の軽さが気になる。いや、軽いとかの前に言葉を知らないからなのかな。それってこれから身に付けられるものなのかな。知っている言葉にとらわれず、伝えるべき相手に伝えたいことを伝わる言葉を選び取って使える人に憧れる。英語はそういうもの(簡単な言葉を使って伝えることが良いとされ、小難しい言葉を使うと「インテリぶっちゃって」とかってバカにされる。まじっすか)らしいのでそっちからアプローチしたほうが遠回りのように見えて実は近道なのかも。
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真夜中に散歩のち居間の掃除。夜でも何でもやることをやれば気分はいい。掃除は昼間やるより集中してできるかも。つーか昼間にやらなきゃいけないと思ってたからなかなか手をつけられなかった。昼夜逆転してることに罪悪感を抱くのは昼間しかできないことが多いからだけど、夜もできるんだと思えば昼間焦りながら動けない、なんてこともなくなるかもしれない。今度は昼夜関係なしに起きてる間中そういう感じになる可能性もあるけど。いや、でも日が落ちて部屋が暗くなっていくのをビシビシ感じて、うわああ今日も何もできないまま幕が降りてしまいますよ!なんて思うことはないだろう。まあ何にしても自分の中の既成概念を一つ打破できたということは何よりです。
歯医者。次回は24日火曜日。次で治療はすべて終了する。これでいつでもどこでも行ける。あとは自分次第。
聴いて行った音楽はアギレラさんの Stripped 。 Beautiful は雪の降る日にぴったりだなあ…と、東京のマツモトキヨシで買ったビニール傘(500円)ごしに落ちていく雪を見ながら思う。このアルバムは前半の流れがかっちょよすぎて聴いてるとツバとかその他色々出てくる。しかし、もったいないことに一つのCDに20曲も入れるもんだから後半は飽きてしまう。いやあ、購入するときには20曲入ってたことが魅力だったんだけどね。ほんとにほんとにどの曲もいいんだけどね。
図書館から借りている『ヨガ入門』をもうじき返してしまうので、以下に気になったところだけ書き出しておく。書いてあることは参考になったけどヨガのポーズ自体はあまりする気にならなかった。やってみて思ったのは、ヨガはあったかい土地で暮らす人のためのものなんだろ?ってこと。インド産だし、血圧を低下させる効果があるらしいし。得意なのはやってるけど。次は気功法(だったか太極拳だったか)の入門本を借りてこよう。
このことばは、もともと“結びつける”という意味をもっていますが、ヨガでは、結合・集中・制御・準備・活動といった意味を含んでいます。
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ヨガを上手に行うコツは、のびのびと、ゆっくりと体を動かすことにあります。
背伸びをしながらアクビをしたことがあると思いますが、あのときのように行うのです。
胸を前に突き出すようにして、両手をゆっくりと頭のほうへ伸ばします。そして、伸びきったところからさらに一段と体を伸ばしてみましょう。もちろん、気持ちよく感じるところで止めてください。
――いかがですか。ヨガは、そうした要領で行うのです。
【意志力、精神力を強化する呼吸法】
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【消化を促進し、腹部の脂肪をとり、性欲を制御する呼吸法】
瞑想に入りやすくするためのヒントについて説明しましょう。それは音、あるいは視覚に集中するという方法です。
音から入るならば、それは時計の音とか、部屋の外から聞こえてくる音(足音・エンジン音・子どもの声)など、身近にある音に集中するのです。
視覚から入る場合は、ろうそくの炎とか、電球の光などがよいのですが、目を痛めるような強い光線はさけ、その一点に焦点を合わせて、じっと見つめます。そして、静かに目を閉じます。すると、網膜に映された、その光の色や大きさが、次第に変化していきます。
こうして、光の場合も、視覚による場合でも、やがて頭部に温かさを感じるようになり、瞑想の状態に入っていることができるようになります。
そして、後日、瞑想をする場合には、同じ音あるいは色から瞑想に入るようにします。すると、その音あるいは色があなたのものとなり、やがては、最初に見た色あるいは音を呼びもどすだけで、楽に瞑想に入ることができるようになります。
*
たとえば、歌をうたっている場合、歌に集中していて、その他の雑念をなにももたないとき、あるいはゴルフで、カップインをねらうパットの瞬間というように、人間にはときとして「集中だけ」の世界ということがあります。この「集中だけ」の状態を、ヨガではサマディと呼んでいるのです。
しかし、こういう場合だけでなく、サマディは、あなたの生活のなかにいろいろな形で存在しています。たとえば、あなたの趣味を十分にいかしてみてください。音楽をきくとか、絵をみる、あるいは絵をかくなど、これらを無心に行うこともすべて、サマディの領域なのです。
面白いんだがね、この弱小な頭には入ってかない。けど無理矢理押し込む。再読したほうがよさげ。
精神分析の立場は、私たちすべてが言葉を話すことによって自然の調和からは決定的にずれてしまった存在としてとらえます。つまり私たちはみな、健康にみえようが病的にみえようが、「神経症」であるという点では同じことなのです。ですから異なっているのはその「症状」、つまり、不安などの感情や欲望、行動などの現れ方だけ、ということになります。(p.88)
「神経症」とか「対人恐怖」とか言葉が出てきてもようわからん。ネットで検索して説明読んでもわからん。自分とまったく違えば文章を読んだだけでわかるような気がするんだが、しかし気持ちが何となく何とな〜くわかり、だけど自分のは「恐怖」とは多分違うよなあ、というときは… まあ、とりあえずはわからんということを忘れないように。
元々が内向的な人のほうが淋しさや苦しみは少ないような気がする。少ないというか、それを観察して楽しんでいる? 私に限ってはそうかも。……ん? ていうか内向的じゃない人っているのかしら。内向すればこそ外に向かえたりしないか。外に向かったら内へフィードバックしないか。いや、でも苦しくひきこもってるときに内向するのって、きっとしんどいな。
ひきこもりの人はひきこもり状態で安定しているのだそうな。その安定を欠くことはつまり治癒か死に傾くことだと。ひきこもりやメンタルヘルスの悩みを持っている人に限らず、他人と関わるということはどんなにソフトなやり方であっても、その人を壊してしまうかもしれないという怖さがある。人を呪わば。虎穴に入らずんば。私にその覚悟はあるだろうか。考えすぎ? だよね。覚悟があってもなくても、考えても考えなくても、なるようにしかならない。私がそれだけは諦められないでいるのも、そういうことなんだ。
ひきこもり問題は、言うまでもなく私の手段です。私の生活、私の専門性は彼らの存在に負うところがきわめて大きい。だからこそ、私は彼らを目的としなければなりません。(p.96)
↑ブラックジャックみたいでかっこいい!(ブラックジャックはアニメも漫画もドラマも見たことないけど) 私もこういうのがいい。ていうか私はこんな感じでしか人と関わろうと思わない。そしてその試みのほとんどは失敗している。でも懲りてません、ごめんなさいよ。
背景画像はまなざしの工房さんから。こういうかすれたような色に惹かれる。日本伝統の色。というか色よりもこの織り模様が好きなのかも。これは「よもやま」から頂いたものだけど、「あそび」の、いよっ着物だね!(?)って感じのも捨てがたい。てかどれも私に捨てる権利はないから安心せよ。
→3/2追記。壁紙やめちゃった。色があるってやっぱなんか違和感あって。
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過去ログの整理をしていて昔の日記を読んだ。とても恥ずかしかった。どうして君はその状況下でそのような調子に乗った文章をつらつら書けるのかしらね、と問い詰めたくなった。でもその状況だったからこその文章だったということはわかっている。でもやっぱり問い詰めたい。あのとき何を思っていたのかを調子に乗っている/いないとは関係のない言葉で教えてほしい。きっと、たった今書いてるこの文章も、しばらくして読めば恥ずかしくて書き換えや削除したいものになるのは確実だ(というかアップしたその瞬間もう既に削除したくなってる。いや、ここで書いてるのはそういう意味の恥ずかしさじゃないんですけどね)。それでも今の私は、あのときの気持ちを一番わかっている人間として、これまでの記録をメンテだけして書き換えも削除もしないから、これをいつか読み返す私もどうか同じようにしてくれろ。もしもまさかすごく賢くなっていい身分になってたくさん友達ができて迷いもなく楽しく充実した日々を過ごせるようになったとしても、今の私を忘れないでくれろ。あんなアホなこと考えてたっけなあ、こんな些細なことで悩んでたなあ、とたまには懐かしんでくれろ。たまにと言わず毎日毎晩いつも懐かしんでセンチになってくれろ。じゃなきゃ自分がマシになれるチャンスが来ても素直に喜べんですよ。
『ひきこもり文化論』とりあえず読了。わからないところがたくさんあったのでこれからまた読み直します。読み直しても完全な理解はできないと思うけど、そのつど色んなことを思うだろうからそれを目当てに。ということで、以下は『「ひきこもり」の周辺』にあった『治療法としての地域通貨』に自分を照らし合わせて考えたこと。
母親との距離が近すぎる。人間としての恥部を晒しすぎている。私はそろそろ突き放されるべきだ。でも本当にされたらヤダ。母親はそれをわかっているからしないんだろう。ってか、そういう感じのことは言われてるんだけど、恥部を晒せる相手なので深く考えもせず「それはむり!」とか言ってしまう。余裕があるとき(いつもです)でも家のことを何もしない。ここ最近何とか他人を思いやって行動することができるようになったと思うけど、母親にはその気持ちからして忘れてしまう。この大切にしたいものを大切にしないでいる自分を何とかしたい。
そこに「家庭内地域通貨」のお話。今の自分にぴったりだと思うけど、近頃お疲れな母親に、こういうこと一緒にやってください、とは言えそうにない。自分の行動は自分で評価できるタチなので、言う必要性も感じない。一人でやって一人で完結するものなので通貨なんて呼べず、それが貯まったからと言って、それを使って何ができるわけでもない。こんなの意味あるんだろうか。意味なんか別に必要ないけど、欲望をかきたててくれなきゃ続かないかもしれない(つーか大体、欲望って何だろね。欲し望む? これをしたいからする、じゃダメなの? それを本当に自分がしたいと思ってやってるかが問題なの? じゃあ本当って何なのさ)。でもやってみる。TVゲームみたいに点数を稼いでレベルアップして喜ぶようなもんだ。この家にいるのは多分3月いっぱいだから、だましだましで最後まで続けられるといいな。
筋トレ等の自分をわかりやすく向上させるものは続けてることを実感するとしんどくなるので後回しにして、母親とこの家に対して自分が何を出来たか、を評価の中心に据えていく。単位は「1H」。「H」は『ひきこもり文化論』の中で言われていたような「ひきこもり」の「H」ではなくて、「ハウス」「ホーム」の「H」。「ヘンタイ」の「H」じゃないよ、否定も肯定もできないけれど。
どれくらい貯まったら何ができるようになるんだろう。人間的成長を目指すのならばレベルアップするのはいつ? ……まあいいや、人間的成長とか言ってると、「ワタクシたった今レベル10になりましてよ! あらまあ、あなたまだレベル7なの? なんてお可哀相なのかしら! オーホッホッホ」みたいなことになりかねない。それじゃ意味ない。マイナスになっちゃいますことよ。
んで、今これを書きながら母親の仕事と副業の手伝いについて話しかけた(100H get!)ら、母親さんがふすまの陰で泣いちゃったよ。泣かせちゃったよ。わけがわからん。どうやら今の仕事はよっぽどつらいようだ。最近職場から帰ってくるといつも沈んでいる。以前、職場の様子を聞いた感じでは楽しそうだったんだけどな。つらいなら辞めればいいのに、と逃げまくってきた私は思うんだけど社会人は違うのね。納得できるまで続けられるといいね、と思うんだけど、そう思いながら今の私は邪魔してばかりなので何とかせねばと思い、このような策を講じてみた次第でございます。んー、それでもやっぱり、何をしても私という人間は邪魔になるような気がするんだけど… いやいや、邪魔でも何でもやるんですけどね。