(1)現在では、中国や朝日系・毎日系メディアの主張する(かって主張していた?)「30万人虐殺」説については、もは や信じる者は国内では少ないものと思われます。 (2)問題は、規模はずっと小さいが通常の戦闘行為とは別に数百人から数万人規模の市民虐殺があった、とする説です。 保守派の一部や当サイトの閲覧者にも、この説を信じ込む者が相当数見受けられます。 (3)更に、"日本は中国に侵略戦争を行ったのだから、事実関係や人数に関わらず日本は中国の言い分を(事実とは限ら なくとも)無批判に肯認せよ"とする論調もあります。現在の朝日系・毎日系メディアの基調はこちらと思われます。以下、史実に即して(2)及び(3)の当否を論証します。
1 | 昭和11年(1936) | 10月 | 共産党延安に移転 | 蒋介石の討伐を避けるため、江西省瑞金から陝西省延安に移転 |
2 | 12月12日 | 西安事件 | 共産党討伐軍督励のため西安に入った蒋介石が、旧満州軍閥の張学良に拘禁され助命と交換に共産党への攻撃停止を呑まされた事件 | |
3 | 昭和12年(1937) | 7月7日 | 北支事変勃発(※但し日本は戦線不拡大方針) | |
4 | 7月29日 | |||
5 | 8月13日 | 上海租界が中国軍に攻撃される。日本の意に反して華中に戦線拡大 | ||
6 | 9月 | 第二次国共合作 | 12月7日には、国民政府(蒋介石)重慶に移転 | |
7 | 12月13日 | 日本軍南京攻略 | 直後から「南京虐殺」のプロパガンダ始まる(欧米、特に米国に対して日本に制裁を加えるよう政治工作) |
中共の工作により起きた盧溝橋事件の3週間後に、北京近郊の通州で中国兵による日本人居留民(実際には朝鮮系民間人多数含む※朝鮮人は当時は日本人)虐殺事件(通州事件)がおき、日本国内の世論が激高。
更にその2週間後に、今度は上海の居留地に中国軍の攻撃があり、遂に日本は居留民保護と中国懲罰のため本格的軍事行動に出ざるを得なくなった。
いわば、9.11テロに襲われたアメリカが、世論激高してアフガニスタンに軍事"侵攻"するに至った状況に相当。 (中国軍が上海の日本租界に"侵略"したために勃発した、という意味で国際法上「中国の侵略戦争」と言ってもいい)
昭和12(1937)年7月29日、北京の東方は、冀東(きとう)防共自治政府の首都・通州(下写真は当時の通州)で「大虐殺」がなされました。いわゆる「通州事件」と呼ばれるものです。「南京大虐殺」が大々的に取り上げられるのとは反対に、何故か、意図的に年表からも削除されている事が多く、教科書にも全く取り上げられる事の無い、この「通州事件」について、今回は書いてみたいと思います。◆
「通州事件」 ── 又の名を「通州大虐殺」とも呼ばれるこの事件は、「廬溝橋事件」の3週間後、起こりました。当時、通州には、「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子や朝鮮人(当時は日本国籍だった)を含む日本人居留民、天津特務機関長・細木繁中佐ら軍人等200余人が住んでいました。通州には、日本軍の守備隊も駐屯していたのですが、たまたま、主力が南苑攻撃の為、町を離れ、僅か110名の留守部隊しか残っていなかった所へ、支那保安隊千数百名が襲撃を掛けたのです。
通州を襲撃した支那保安隊は、多勢にものを言わせて日本軍守備隊を全滅させ、余勢を駆って、何とあろう事か、日本人居留民をも「標的」にしたのです。支那保安隊は、日本人居留民を通州城内に全員集め、城門を閉めた上で(要は城外へ逃げられない様にして)、日本人居留民の住宅一軒々々に火を放ち、女性には暴行を加えた上で局部に丸太を突き刺す等して殺害、子供は両手・両足を切断し、男性には首に縄を巻き付けた上で引き回す等、「残虐」の限りを尽くしたのです。前回のコラム(『83.「日本軍国主義」の象徴 ── 「南京大虐殺」等あり得ない!!』)で指摘した「屠城」。正にその「屠城」が現実のものとして、支那保安隊によって繰り広げられた訳です。
「廬溝橋事件」は、日本軍と支那・国民党軍と言う軍隊同士による軍事衝突でした。しかし、「通州事件」は、支那保安隊による日本人居留民 ── 「民間人」への殺戮行為でした。これは、明らかに国際法違反です。しかも、その殺害方法が、正に「屠城」そのものであり、残虐極まりないものであった事も重要です。支那は現在も、ありもしなかった「南京大虐殺」を持ち出しますが、こと「通州事件」については、自らの過ちであるにも関わらず、謝罪も補償も一向にする気がありません。支那が「正しい歴史認識」と言うのであるならば、虚構の「南京大虐殺」を主張する前に、まず「通州事件」における日本人居留民虐殺について明確に謝罪すべきです。
この人はいわゆる「中帰連」運動家で 悪名高い「撫順戦犯管理所」で中共の思想教育を受け 帰国後一貫して日本の戦争犯罪を糾弾し続けている。
731部隊にも参加して 慰安婦性奴隷狩りもやって 南京大虐殺もこの人がやって コレラ菌や毒ガスもばらまいたと証言している
およそ史実とされる旧日本軍の戦争犯罪には すべて1枚噛んでいると言っていいほど証言している
入隊が40年なのに南京攻略が37年なのはご愛嬌「俺は全部やった!日本は謝罪しろ!」まさにスーパー日本兵
なにしろマスコミが旧日本軍の悪事について書きたいと思ったら みんなとりあえず結論ありきでこの人のところに行く。
そして金子が「俺たち日本軍はこんな悪事を働いた!」と証言し それが新聞や雑誌・TVで無批判に報道され それが海外にまで伝わり 「ほらみろ、やっぱりやってるじゃないか!」という外圧となる。
もう完全に出来上がった図式である。
●検証日本人は普通は中国語を全く話せません。簡単な文体と人称代名詞を覚えたあと筆談で中国人と意思疎通を図るのが普通です。検証①を読んだだけで、これは日本人の犯行ではないな、と分かるはずです。それから検証②は実際にあった虐殺事件「通州事件」を想起させます。
①賊が「なかに入れろ」と要求したら、馬氏が戸を開けた。
夏氏が犯人に懇願し馬夫人が犯人に質問しており、会話をしているのだから犯人は支那人。
②婦人が強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれ、赤ん坊は銃剣で刺殺され、他の少女も刺殺され、膣に杖が押し込まれた…
犯行手口から犯人は支那人。
③戸を開けた者を直ちに撃ち殺す連中の前に別の者が跪いて他の者を殺さないように懇願したなんて有り得ない。
④8歳の子供が犯行日時は12月13日9~10時と認識し、更に14日間も経って記憶していたなんて有り得ない。
⑤事件後、向かいが日本軍の宿泊所になり、日本兵が家の庭を通る足音が聞こえる都度布団に隠れ、兵士達が毎日来て家から物を持って行ったのに、4歳の妹も泣き喚いたりせず二人で古シーツの下に隠れていたので発見されなかったなんて有り得ない。
⑥傷を負い這っていた8歳の夏淑琴が、銃殺された母の死体が横たわる部屋で、誰にも見つからず14日間も4歳の妹と生き続けたなんて有り得ない。
⑦12月1日に南京市長、12月8日に支那軍司令長官が、全市民に安全区に移るよう命令し、警察や支那軍による強制退去が行われ、12月13日には安全区以外の南京には誰も居なかった。
犯行は13日より前に支那軍か支那人盗賊が行った。
⑧仮に12月13日の犯行だとしても、南京は前夜から本格的な戦闘状態に突入しており、近所の連中が当該事件に恐れて避難したなんて有り得ない。
⑨安全区国際委員会のマギーが日本軍による犯行だと考えれば、現場の日本軍憲兵隊に通報しなければならなかったのに通報しなかった。
●結論
犯人は支那軍か支那人盗賊であり、犯行は日本軍が入城した12月13日よりも前に行なわれていた。日本軍には、アリバイがあった(中略)
マギーの解説書によれば、当時8歳の夏淑琴は犯行日時を12月13日9~10時と証言していた。
しかし、12月13日9~10時に日本軍はまだ犯行現場に行き着いていなかった。
アリバイがあった以上、夏淑琴事件の犯人はやはり支那軍か支那人盗賊のだったことになる。
中国側が「南京大虐殺」があったと主張するならば、せめて犠牲者数百名を出した通州事件と同等の客観性を持った資料 を示すべきです。 それさえ出来ないのですから、「南京攻略戦から攻略後における死傷者は通常の戦闘行為における範囲を超えない」とい う結論にしか成り得ません。 結局、「南京大虐殺」というのは、①通州事件で日本人民間人を実際に虐殺し、また②戦後にチベットで大虐殺を続けて いる中国が、「自分が日本軍の立場だったら南京で実行した」であろう行為を「日本軍が行った」として展開した、中国 ならではのプロパガンダに過ぎません。※参考中国の歴史・中国文明
歴史を振り返るとき、常に私たち日本人の心の傷としてとらえざるをえないのが南京事件である。戦後教育を受 けた私は、長いあいだ、日本人は南京で虐殺行為をしたのだと思っていた。報道の分野で仕事をするようになっ て初めて南京大虐殺説に疑問を抱くようになった。かといって特に南京事件の調査をしてきたわけではないが、 外交問題の取材などに関連し幅広く書籍や資料を読むようになった。 その結果、中国側のいう30万人虐殺はありえないことなどは、比較的すぐに納得できた。 問題はそこから先である。南京での虐殺はなかったとする書籍や資料を読んでも、私にはなかなか、それは認め られなかった。30万人よりはずっと小規模ながら、一般市民の虐殺はあったのではないかとの見方をぬぐい去る ことができないできた。そんな私の目を大きく開かせる書籍が出た。
『「南京事件」の探究』(文春新書)である。著者の北村稔氏は立命館大学教授で団塊の世代、中国近・現代史の専門家だ。北村氏はできうる限り、イデオロギーを排除して客観的事実を掘り起こすことで南京事件を見詰めようとした。
南京虐殺が存在したと確定されたのが東京と南京で行なわれた戦争裁判の判決書によってであることから、北村氏は2つの判決書がどのような資料と証言によって作成されたかを調べ、それらを逐一、調査する手法をとった。その結果、驚くべきことが分かったのだ。
南京事件を最初に世界に知らしめたのは、オーストラリア国籍の記者、ティンパーリーの書いた What War Means:the Japanese Terror in Chinaという書籍である。南京事件の翌年の1938年に早くも出版された。 ちなみに彼は英国のマンチェスター・ガーディアンの中国特派員だった。 一流紙の特派員で、中国とも日本とも関係のない第三国の人物による書籍との触れ込みで、彼の書籍には信頼が 寄せられ、残虐行為の有力な証拠ともなった。南京大虐殺の日本断罪は、この書物から始まったともいえるのだ。北村氏が発掘した事実は、ティンパーリーの隠された素顔に関するものだ。じつは彼は公平なジャーナリストなどではなく、蒋介石の国民党の対外宣伝工作に従事していたというのである。
上の事実は『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社)を書いた鈴木明氏も指摘しているが、北村氏はさらに調査を進めてさらなる新資料にたどりついた。
そのうちの1つは国民党中央宣伝処の曾虚白処長の自伝だ。自伝のなかで曾は次のように書いている。
「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に 参加していた3人の重要人物のうちの1人であった。(中略) 我々は秘密裡に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝 においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならな いと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。 かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本 軍の大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、発行することを決定した」 こうして極めてタイムリーに日本断罪の書が出版されていった。公平な第三者の著作のはずが、じつは国民党宣伝部の資金を受けていた人物によって書かれたものだったのだ。それが
元になって南京大虐殺説が生まれてきた。となれば、南京大虐殺は存在しなかったのだ。
詳しくはこの書を読み、そのうえで、何が歴史の真実に近いのかを一人ひとりが考えてみてほしい。事実は目前に見えている。まさに歴史を見直すべき時なのだ。
◇おしゃべり◇ |
2012-04-09
2012-04-08
2012-04-07
2012-04-05
2012-04-04
2012-04-03