朝日新聞の天声人語をもっと読む大学入試問題に非常に多くつかわれる朝日新聞の天声人語。読んだり書きうつしたりすることで、国語や小論文に必要な論理性を身につけることが出来ます。
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肉料理を書いてうならせる本は多い。近刊ではカナダの旅行作家、マーク・シャツカー氏の『ステーキ! 世界一の牛肉を探す旅』(中央公論新社)だろう。例えば神戸牛はこう描かれる▼「牛肉ならではの甘くて木の実のような風味がしたものの、温かいバターでコーティングした絹糸よりもなめらかな食感と比べると、それすら付け足しみたいなもの」(野口深雪訳)。この幸せ、肉を焼くという手に気づいた先人のお陰である▼アフリカ南部の洞窟で、100万年前の原人が肉を焼いた跡が見つかった。シャツカー氏の母校でもあるトロント大などのチームが古代の地層を調べ、狩りの獲物とみられる燃えた骨、草木の灰を確認したという▼調理の証拠としては、従来の説を約30万年さかのぼるらしい。火の使用と、焼いて刻む「料理」の発明は、モグモグの作業を短縮し、食以外に回せる時間を生んだ。皆で炎と食料を囲む日常は、より進んだ集団生活をもたらしただろう▼むろん加熱だけが進化ではなく、生(なま)を貴ぶ食習慣が各国に息づく。政府が法律で禁じるというレバ刺しの滋味は、火を通せば消えてしまう。そもそも食い道楽は自己責任を旨とすべきで、国の出る幕とも思えない▼肉食はタブーと偏見に満ちている。食べる食べないに始まり、動物の序列や調理法は万別だ。だが〈味わいは議論の外にある〉ともいう。食の始末はまず、自分の舌と胃袋に任せたい。地球で一枚目のステーキを焼いた、無名の原人のように。