『登校戦記』  そのとき平井白虎が心配したのは、皆勤賞がフイになるかどうかということだった。  小学生のある日。  いつものように学校へとむかっていた彼は、地が波打って上空へはじき飛ばされ、爆風でビルの壁面に叩きつけられた。なにか分からない破片が壁面に突き刺さり、あたり一面に降りそそいでいた。  傾いたビルから滑りおちるようにして着地した白虎は、それまでの町並が一瞬にして瓦礫の山になっているのを目の当たりにした。  晴れていたはずの空は暗雲渦巻き、雲の底を稲妻がはいずっていた。  地鳴りはまだ続いていて、近くに遠くに悲鳴や叫びが聞こえていた。  そんななか、白虎は、ため息をつきながら思ったのだった。  ――遅刻したらどうしよう。皆勤賞もらえなくなるかも。  白虎は、あまり学校が好きではない。勉強もそんなにはできない。だからこそ、せめて無遅刻無欠席だけでも通してやろうと思っていたのだ。  ため息をつきながらも、頭のてっぺんから足の先までさわり、ケガのないことを確かめた。肩と腰に打ち身があったが、痺れたようになっていて、あまり痛みを感じない。  遠くで、サイレンが鳴っている。これは防災警報だ。たまに遠くの街区で鳴っているのを聞いたことがある。  この森羅市において、もっとも避難すべき災厄が起こったのだ。  地面は何万枚もの砕けたアスファルトを乱雑にバラまいたようだった。いつかの社会の時間に写真を見たことがある、宮崎県は青島にある鬼の洗濯板という名勝を思わせるような、ささくれだったものになっていた。平坦さは失われ、歩くだけでも大変そうだ。  ビルや建物はことごとく傾き、なにか、とほうもない力が地面を揺らし、すべての建造物を基礎ごと持ちあげて、「同じ方向に」傾けようだった。  叫びや悲鳴はいつしか遠くなっていた。警報をうけて、避難……全力で逃走しているのだ。  白虎は、とりあえず学校に行こうと歩きはじめた。  地面はメチャクチャで、もう山登りで岩場を移動しているようなものだった。まくれあがったアスファルトを登ったり降りたり、崩壊した建物を迂回したり乗りこえたり……  町の破壊はいよいよひどくなり、ビルが倒れて道をふさぎ、地面は荒れ狂う海をそのまま固めたように波打っている。  そうしているうちに、警報が、背後から聞こえてくることに気がついた。  そのときは、「よかった、警報の出ている地点から遠ざかってるんだ」と安心したが、それはまったく逆だった。  つまり……  進もうとしている先には、警報を出す機械さえなくなっていたのだ。  横転したビルを迂回して、白虎の足が止まった。  ないのだ。  町が。  破壊された、どころではない。  大地から巨大な円筒を抜き取ったように、地面がなくなっていた。ものすごい大穴が開いていたのだ。  対岸までは数百メートルはありそうで、断ち切られた水道管や下水管から、糸のように水が流れ落ちているのが見えた。  すっぱりと断ち切られた垂直な断面が、下はどこまで続いているのかも分からない。  その影響か、空は灰色の雲が沸騰するように荒れ、尋常ではない速度で渦巻いている。  目の前には底なしの大穴。  白虎は、まるでこの世を踏み外し、立ち入ってはならない異世界に迷い込んだような気がした。もしかしたら自分しか生き残っていないのではないかとさえ思った。  だから声が聞こえたとき飛びあがってしまい、あやうく穴に落ちるところだった。  底なしの穴に吸いこまれかけた白虎は、ランドセルのベルトをつかまれ、引き上げられ、地面に投げだされた。  助かった、と思ったとたん、仰向けになった胸を踏みつけられ、息がつまった。 「わたしに用なのか?」  それはまだ色気づいていない少年にも、きっと美人だろうと思わせる怜悧な声だった。白虎が目に涙をうかべて首を振る。胸にかかっていた足はのけられ、疲れたような、気の抜けた声がした。 「なんだ、ちがうのか……」  白虎があえぎながら起きあがると、女性が、瓦礫に腰をおろしたところだった。短めの髪に、ノースリーブのブラウスに、黒のパンツというシンプルな服装だった。  白虎は、ここが夢ではなないのかと、半口をあけて呆然としていた。  本当の美貌というものは、心の時間を止めてしまうものだ。  この、灰色に渦巻く雲と底なしの穴、壊滅した町という異常な風景の中にあって、彼女の、この世ならざる美しさは、あまりにも調和していた。彼女はまさに超日常の存在であって、これが普通の街角なら、むしろどうしようもない違和感があったことだろう。  女性、というのは明らかに胸があったからで、もし体型のわかりにくい冬服なら、美青年と思ったかもしれない。スッキリとした、中性的な美貌だった。  彼女は、白のノースリーブの右肩に、大きな赤い模様を散らしていた。押さえる左手も赤くまだらになっている。ケガをしているのだ。おそらく、この大惨事に巻き込まれてケガをしたのだ、と白虎は思った。  この町の、通学中の子どもなら必ずもってる応急セットを取り出すと、さしだした。  女性はむしろ疑わしげに眉をひそめた。 「君はわたしを知らないのか?」  白虎はふつうに知らなかったので、素直に答えた。 「知らない」  女性は、ちょっと小首をかしげて白虎の目をのぞき込んでいたが、やがて笑い出した。 「フフフッ、このわたしが、この町の人間に気遣われるとは。媚びられもせず、ただのケガ人あつかい。なんという衝撃だ。これはもう屈辱さえ筋違い、喜劇をも超え、いかんとも判別しがたい事態だな。この世は退屈だと思っていたが、案外、案外……フフフッ、面白いかもしれない」  そういうと、白虎に右肩をつきだしてみせた。 「君に巻いてもらおう。血が落ちるとごらんの通り大変なのでね。それになにせ血を流したのは生まれて初めてだ。手当の仕方など知らない」  傷は明らかに銃創だった。かなりの大口径の銃で撃たれたようだった。ただ、貫通はしてなかったし、弾もすでに取りのぞかれていた。なにより傷が妙に浅い。かろうじて筋肉に達したていどのようだった。  くわしい事情はきかなかった。なにをどうきいていいのか、見当もつかなかった。ただケガをしている人がいて、手当をしなければ、とだけしか頭がまわらなかった。白虎という少年は、基本的に善良でやさしかった。  保健の時間に学んだとおり傷口に保護フィルムをあて、クッション代わりのガーゼでおさえ、止血のために包帯をきつめに巻いた。マネキンを思わせるほどにつるつるのきれいな肌で、本当に人間なのかと疑ったほどだった。手当が終わると、出血はほぼ止まった。 「ふむ。気取ったところで、しょせん人が身。手当もそれ相応で「可」か……」  女性は謎めいたつぶやきをもらし、手についた血のしずくをなめとった。その舌の動きが妙に淫靡で、小学生の少年をして、体の底をざわつかわせるものがあった。 「じつは、わたしにも君ほどの年齢の子がいてね。これがまた不出来で内気で、まともに人と話もできない」  右手を握ったり開いたりし、肘をうごかし、支障ないか確かめながら、女性はひとりでしゃべりはじめた。 「この町に住んでいるなら、そのうち会うこともあろう。そのときは、そうだな……なにか願いを叶えるように命令しておく。なにがいい?」  子どもに、命令? 不思議で不穏な言葉だった。しかしこの町ならそういうこともあるのだ。だからなるべく平穏なものをと白虎は考えた。 「普通の友達になれたら、それでいいです」  女性は爆笑した。 「ふ、ふつうの、と、ともだち? あははははは! そ、それはいい、ともだち! あははっ、そうか、それは思いつかなかっ、痛……!」  右肩を押さえて苦悶しながら、さらに笑った。 「フフフッ、わたしは子どもが嫌いだが、君は面白いな。いや、今日が面白い日なのか。我々は頂点という地位に甘え、変化や進化というものを忘れすぎていたようだ。だからあんな単純な手に引っかかる。今日は出会うもの皆が、よってたかって破壊の化身が地位を守るこっけいさを思い出させてくれた。そうだ、我らは概念をも蹂躙せねばならない。なるほど町を壊すだけが破壊ではない」  女性は、無邪気なまでに楽しげにほほえむと、うきうきと立ちあがった。  いたずらっぽく輝く瞳で、白虎を好ましげに見下ろした。 「いや、実をいうとね、わたしはさっきまで落ちこんでいたのさ。生まれて初めて血を流させられた屈辱に打ちのめされてね。だが、君のおかげで気が晴れた」  空へむかい、大きく息を吹きかける。  そのせいではあるまいが、厚くたれこめていた暗雲に穴が開き、陽光が二人を照らした。雲はさらに散っていき、青空が広がっていく。 「フフフッ、情など虫の戯れと踏みつぶすのは楽なものだが、小さな恩讐に湿っぽくこだわるのもまた味があるかもしれない。君、名を聞こう」  女性がなにを言っているのかまるで理解できなかったものの、白虎はとりあえず名乗った。 「いいだろう。我が子に伝えておこう。平井白虎と、ともだちになってやれと。そして、一つの恩に応えるていどには、義理堅く育てることにしよう」  それから白虎は、女性にかかえられ、廃墟の町を疾走した。  地面の凹凸も転倒した車も意に介さず、ビルからビルに飛びうつり、一直線に目的地近くまで運んでくれたのだ。ケガをしてるとは思えないし、それどころか人であるとさえ思えなかった。  あとから回想するたびに、夢だったのでは、と白虎はいつも思うのだが、ランドセルに女性の血がついていて、ぬぐっても落ちないのは事実なのだった。  人のいない路地で彼をおろすと、女性は白虎の背を押して、行くようにうながした。 「あまり人に姿をさらしたくないのでね。とくにこんなナリでは」  彼女は、包帯にそっと指を這わせ、ブラウスの血の輪郭をなぞった。  そして女性はあっという間に姿を消した。  これがのちに、「20世紀クレーター」と呼ばれる大穴が誕生したとき、もっとも近くにいた二人の会話だ。記録も残っていない。二人だけの会話。  これは、のちの歴史を変える出会い……だったのかもしれない。  ちなみにこの穴、誕生したのは厳密には20世紀ではない。ただ「古い時代の産物」という意味をこめて、「20世紀クレーター」と呼ばれている。 「ちょっと待ってください! そんなの絶対無理……、いや、いや、そうじゃなくて、実力とか、自信がないとか、そんなレベルの問題じゃないですから!  とにかく引き受けられませんよ。  そもそも、これは、通学支援のための特別校則に引っかかりますよね?  第四条、通学支援は地区間の対立を助長する行為を禁ず、第十二条、利害関係にあるものの支援はこれを禁ず、このあたりに思いっきり抵触しますよね?  それどころか、序文の『通学支援とは、児童の学ぶ権利を守り、森羅市の安寧を守るものである』という理念にも反してませんか?  ……、いや、監理、あんたが屁理屈こねても、どのみちオレはヒドイ目に遭いますから! このまえに監理の屁理屈でだまされて、虚の出身地区の対象者を通学支援したときなんて、久津城に殺されかけたんですよ! しかも虚には嫌われるし……  いえ、違います。ぜんぜん違います。べつに虚が好きとか嫌いとか、そういうのじゃないです。またそうやって話をそらす気だろ。舌打ち聞こえてますから。話もどしますよ。  これって、ほとんど爆弾輸送でしょう……いや、うまくないですから! そのまんまでしょう! 拍手とかムカつく!  このラスボス城下町で、その対象者に通学支援するのは、爆弾輸送そのものですよ!  しかも、どうして虚とコンビなんですか! オレ、監理に言いましたよね? このまえの支援で、オレは虚に避けられてるって! 間がもたないから、ほかの寮生の通学支援を回してください……全員出払ってるんですか? 本当に?  今日は入学式だから、忙しいのは分かりますけど、今年度、そんなに通学支援が必要な生徒っていましたっけ……いや、虚がオレと組みたがってるとか、絶対にない……、だから虚はツンデレじゃないですから。いつもテンション低いし。しかもこの前の件で、避けられているというか、怖がられてるんですよ。暴力とか嫌いな性格だから。通学支援は荒っぽくなりがちで……  別につきあってません。……ストーカーでもないから。……虚に詳しくなったのは、あんたのせいだ、あんたの! あんたがしょっちゅう虚とコンビ組ませるから! おかげでどんどん嫌われて……、だから、好感度上げるチャンスとか、そういうのはもういいって言ってっだろ、この年増高校生が!  とにかく虚とは組まないからな! え? うしろ?」  平井白虎(十五歳)は、ちらっと背後を見た。  ここは公園、通称「緩衝公園」の中だ。通学時間帯より一時間も早い、こんな時間には、まず人が通らない場所なのだが――  背後には、外ハネが多い髪をした少女が立っていた。そこそこ以上に可愛いのだが、無愛想なのでかなり損をしている顔だちだ。  背丈はふつうだが、手足が折れそうに細い。  大きめの、キャンバス地のかばんをたすきがけにしている。あの中には、教科書などは、入っていない。なぜか駄菓子がめいっぱい詰まっているのだ。本人いわく、「食料」らしい。  白虎とおなじく、まっさらな高校の制服で、右腕には緑の腕章。白文字で「通学支援」と書いてある。  この町特有の、ボランティアとも仕事とも、学校の係ともつかない役職、「通学支援」の腕章だ。  ちなみに白虎の右腕にも、おなじ腕章がつけられている。  どうも通話を聞かれたようで、虚はいつもの無愛想ではなく、かなり不機嫌に見えた。虚は朝に弱いせいだからだと思いたいが、ぜったい違うだろう。  白虎のほうが背丈はかなりあるのだが、下から見下ろされている気分だった。  白虎は「通学支援」だ。そのへんの不良相手ならどうってことはない。だが、虚の機嫌をすすんでそこねるほど命知らずではない。よって、言い訳をする。 「組まないというのは、それはつまり、虚の心情を斟酌してのことであって、おれの個人的な好悪の感情の問題ではないということをまずあいさつにかえて伝えたぐわあ!」  虚の頭突きにみぞおちを直撃され、白虎はうずくまった。虚の、機嫌が悪いときのクセというか攻撃手段だ。  とりあえずの一撃で、虚は機嫌がなおったらしい。 「べつに好かれようとは思ってないけど……これ」  カバンを探り、細い手をさしだしてくる。  指先には、銀紙につつまれた、のどあめ。  白虎が手を伸ばすと、ぽと、と、のどあめを落とした。  虚はどうも知り合いにお菓子を配るのが生きがいらしい。ちなみに「のどあめ」は、いちばん最初のあいさつだ。  基本的につきあいが長くなるといいものをくれるようになる。白虎は、ここ半年くらいのつきあいでもらえるお菓子が4ランクくらい上昇したような記憶があった。(のどあめ→包みの両端をねじった丸い飴→包みの両端をねじったチョコレート→安いクッキー)  どうやらこの前の一件と、さっきの電話の立ち聞きで好感度がリセットされたらしい。  別に虚とフラグを立てたいワケではないのだが、妙に落ちこむ扱いだ。  白虎がのどあめに複雑な感慨をいだいていると、虚が言った。 「通学支援の対象者、どこ?」  白虎は携帯電話を示した。 「指定ポイントを通過したら、目的位置をメールで送ってくる」  通学支援に支給されている携帯の位置は、つねに学校にある支援本部が把握している。それを利用して、特定の場所を通過するとメールを送ってくることがある。 「あ、支援Aなんだ」  虚は、まじめな顔になった。  緩衝公園は市の中心部にあって、市街地の大半が見渡せた。  森羅市は、北に山、南に平野という、教科書に出てきそうな扇状地にある。  人口は百五十万。  かなりの面積を誇る森羅市は、大きなタテカン(市内縦貫国道)によって四つに区切られている。  細かい住宅や小さなビルが道沿いに密集しており、田畑野原のほうが広い東地区。  大きいが無骨なビルや、ビルほどもある直方体の妙なモニュメントや、廃墟じみた町並み、果てはクレーターまである、全体的に殺風景な南地区。  整理された街区に高層ビルが建ち並び、遅れてきた未来都市みたいに朝日をぎらぎら反射している西地区。  ここからでは見えないが、山地がメインの北地区。  そしてこの森羅市で、なにより重要視されているのが、この公園だ。  正確には、直径一キロの公園、その中心にある、とある一軒の家。 「なあ虚」  白虎は、虚に声をかけた。白虎の横を、いつもどおり、体重のないような、へろへろとした危なっかしい足取りで歩いている。 「べつに怒ってないから」 「いやそうじゃなくてだな。どう思う? その……あれ」  森羅市で「あれ」と言いながら空を指させば、まず確実に激しい反応を招く。  東地区なら怯えながら考え、南地区なら怒りに目を光らせ、西地区なら興味深げに、北地区ならウンザリされる。  この町において、それはこの公園の中心にある「あの家」「かの一族」を示すサインだからだ。  虚は南地区の出身だが、怒りもやる気も見せずに、北地区的な、「うんざり」を見せた。 「もういいよ、関係ないから」  虚は、「かの一族」に関わることを嫌った「亡命組」だ。だから当たり前といえば当たり前の反応だった。まえからおなじ反応なのだが、今回はそれでは困るのだ。 「いや、関係ない、じゃなくてだな……」  今回の通学支援対象が誰なのか、虚は聞かされていないらしい。  白虎から説明しろということだろう。  意を決して、通学支援対象を告げようとした白虎は、寸前で口をふさいだ。  前方の茂みに、なにか不自然な気配を感じたからだ。  通学支援は恨みを買うこともある。白虎たちが待ち伏せされている可能性もないではない。 「そこの茂みにいる誰か。おれたちは通学支援だ。できたら顔を見せてくれ」  虚も立ち止まり、へろへろと茂みを指さしている。 「わかった、顔を見せる! 撃つなよ!」  大声をあげて、両手をあげて出てきたのは、ショートカットの、精悍な印象の少女だった。迷彩の戦闘服に、右手にはアサルトライフルをもっている。おそらく本物だろう。この町では銃器など珍しくない。 「なんだ白虎かよ。こんな時間に何してんだ? デート? じゃないよな、腕章つけてるし」  ショートカットで迷彩服の少女は、ボーイッシュをとおりこして、がさつな口調だった。  虚は無表情に釘切を指さしたままだ。その意味を知る者はごく少ない。釘切は知らないのだろう。だから平気でいられる。 「虚、知り合いだ。釘切八貴、中学で同級生だった。たぶん高校でもおなじクラスだと思う」 「うつ……ああ、無色虚。知ってるよ。亡命寮生だ。聞いたより可愛いね。よろしく」  釘切は、虚に握手を求めた。指ぬきグローブに包まれた手は大きく、男子の白虎よりがっしりしてるかもしれない。  虚は、すこし考え、その手にのどあめを乗せた。 「同学年だから、これ……」  釘切は、おおげさに驚いてみせた。 「へえー、あたしみたいな人間でも相手にしてくれるんだ? 意外だね。もっと見下してるのかと思ってたよ。ありがたいね」  肉食獣系の笑顔で、おもしろそうに言う。虚はちょっと気圧されたようだった。こういう、力強そうな相手は苦手なのだ。  握力ありそうな人さし指と親指でのどあめを、くっ、と挟むと、包み紙から飴が飛びだし、釘切の口に飛びこんだ。ガリガリとかみ砕いて飲みこむ。 「ごっそさん。あたしらはこのあたりに用があるんだ。じゃあな」  そういうと、手をあげ、白虎らに背中をむけて、茂みのなかに戻っていった。 「おい釘切、入学式には出るんだろうな!」 「ああ、たぶんね」 「ちゃんと学校に来いよ」 「週四日は行く。もういけよ白虎。あたしはしばらくここで隠れなきゃならないから」  それきり、白虎が話しかけても返事はなかった。  釘切と別れ、公園の奥につづく森の坂道をしばらく登る。メール受信場所まで、あとすこしだ。  ここまで来たら、たいていの人間は不安になってくる。通学支援だろうが誰だろうが、公園のこんなところまではまず踏みこまない。命の危険があるからだ。森の中に野生動物がいるが、そんな話ではない。  半径一キロの緩衝公園の外側は、幅数百メートルの緩衝街区。そして、ひたすら公園の中心へと向かっている。  となれば、支援対象がどんな人間なのか、だいたい感づくはずだ。  白虎は、もう言わないことにした。どうせ会えば一発で分かることだ。無駄な労力は使わないにこしたことはない。おそらくこの先、とんでもない苦労をすることになるだろうから。  虚もうすうす気づいているようで、気配が鋭くなっていた。  おもに白虎自身の緊張をほぐすため、虚に話しかけてみた。 「よかったな虚、知り合いが増えて。釘切はああ見えて顔が広いから、いろいろ頼りに――」  虚は足をとめ、横目で白虎を見た。 「ひょっとして、知り合いがすくないかわいそうな子だと思ってる?」 「いやっ、それは……」正直、ちょっと思っていた。通学支援としては一緒に行動するが、私生活はほとんど知らないのだ。  口ごもっていると、虚が頭をふりあげた。頭突きのモーションだった。 「待て待て、メール来たから待て!」 「……」  虚は不機嫌そうだ。携帯がかかってきたフリをして立ち去りたくなるのをこらえながら、白虎はメールを確認する。  通学支援を統括する学園監理補佐からのメールは、簡素なものだった。 「……『前を見ろ』……?」  公園というより、ほとんど森の中だ。前方には森がつづき、先のほうに森の出口が見えている。あそこまで行くと、いろいろマズイ。この森羅市の人間は、この森の先になにがあるのか知っている。 「おやおや、気づかれてしまいましたか」  急に声をかけられて、虚と白虎はとびあがった。  虚は反射的に相手を指さし、白虎も相手の周囲を観察してしまう。  すぐそばの木の裏から現れたのは、小柄な老人だった。  こんな森には場違いな、いかにもな執事の恰好をした、小柄な老人。白髪に、丸メガネに、口ひげ、蝶ネクタイに、タキシード。  人畜無害な笑顔を向けられて、白虎の全身の毛が逆立った。 「あんた……! 『使用人』の真木坂だな?!」  その顔と名は、森羅市に住む人間なら全員が知っている。  真木坂不覚、六十歳。 「そんな」  虚も絶句していた。 「誤解なきようお断りいたしておきますと、学校に行くのはこの真木坂ではございませんぞ」 「よかっ……」 「いや思わないから」  虚と白虎の声が、中途半端に重なった。 「……」  白虎と目が合うと、虚はうつむいて、もじもじした。 「このじいさんが学校に行くと思ってたのか……うおっ」  ヤケクソぎみの頭突きを回避する。 「おちつけ虚、それどころじゃないだろ!」 「ううっ」  よっぽど恥ずかしかったのか、虚はちょっと涙目だ。 「ああ、よろしいですかな」 「はいなんで痛っ」  脇腹に頭突きされながら、白虎はつとめてニコヤカに対応する。 「では……ぼっちゃま、おいでください。昨日お話いたしました、通学支援の方々をご紹介いたしますぞ」  執事の白手袋の手招きで、木陰から、白虎らとおなじ高校の制服を着た、少年? があらわれた。  「?」が付くのは、パッと見、少女か少年かイマイチよく分からないからだった。  小柄で、なんだか可愛い感じの子だった。女子の制服を着せれば美少女に見えただろうし、男子の制服を着ているいまは美少年に見える。 「お二方が、ぼっちゃまのお世話をしていただける、通学支援の方々でございますよ」  執事っぽい老人が、人の良さそうな笑顔で話しかけてる。  虚はわきにどいて、そっぽを向いている。いつもそうだ。交渉は白虎まかせだ。信頼されているというより、雑用を押しつけられている。白虎はもう慣れた。 「そうですが、そちらの……何と呼んだらいいんです?」  少年が前に出た。小柄で、幼い雰囲気だった。中学生か、あるいは小学生と言われても納得してしまいそうだった。 「森羅天地」  彼、森羅天地の声は、まだ声変わりしていない少年の高音だった。けして不快ではない声に――  虚と白虎は凍りついた。  虚が、こわばった顔で、白虎に目配せしてくる。  これはヤバイ。  いますぐこの場から全力逃走しよう。  虚の目線は、そう告げていた。  むかしむかし。  あるラスボスが、この地に住み着いた。  元からの住人は迷惑したが、なにしろラスボス。あまりに強く、どうしようもない。  そうこうしているうちに、ラスボスを狙う刺客たちが、周囲に野営をはじめた。なにしろラスボス一族。世界中に敵をつくっていたので、世界中から刺客が集まってきた。  野営地は月日とともに大きくなり、やがて食料調達のため牧畜・農耕がはじまり、野営地はいくつもの村となった。  さらに月日がたつと、村と村がくっついて、町となった。  町は成長し、町どうしがくっついて、広大な市街を形成した。  そうして、人口百二十万の都市、森羅市が誕生したのだった。  そう。 『ラスボス城下町』の住人は、ラスボスの部下ではない。  ラスボスねらいの刺客の子孫であり、現役の刺客なのだ。  そして現在。  この町のラスボス一族に跡取りができたという噂は、かなりまえから流れていた。  一族には使用人がいて、町にいろいろ買い出しに来る。  彼らの買い物はあちこちの諜報機関がチェックしている。買っているものを見れば、家族構成がわかるというわけだった。  白虎も、中学のころから噂は聞いていた。自分と同い年らしい……という話は、学校でもたまに出た。  この町は刺客の町だ。かなり教育に悪い。なので、市内に学校はなく、市外に「森羅市の子どもが通う学校」がある。白虎もそこに通っている。  その学校では、森羅市内とおなじく、ラスボス一族の跡取りに関する、さまざまな噂が飛び交っていた。  先代の美貌と性別を受け継いだ美少女という結論が出た翌日には、なぞめいた美少年だという声が高まり、次の日にはアキバ系だと主張する一団が現れる。  ようは、誰も知らないのだ。それでも、跡取りに関する話題は尽きることがなかった。  ここはラスボス城下町。住民のほとんどはラスボス一族の首が目当てだ。市外の学校に通っている子供たちも、ほとんどは親の意思をついでいる。  なにしろラスボス一族の首には途方もない賞金がかかっている。賞金として各組織が代々にわたって積み立ててきた「ラスボス基金」は、天文学的なものになっている。  もし一族の一人でも倒せれば、一生遊んで暮らせるどころではない。国家予算級の賞金を手にできる。  そのうえ、ラスボス以上の存在として、世界に名を知らしめることができるのだ。  金銭欲と名誉欲にかられた町中の人間が先祖代々努力してきたものの、いままでラスボス打倒に成功したものはいない。賞金は毎年積み立てられていく一方だ。  でも白虎は、「そんな賞金を手にしたって、面倒なだけだ」と思っていた。  家から、「緩衝公園」をはさんで直線距離で1500メートルのところに住んでいる「おとなりさん」に興味はなかった。  それよりは、平穏な生活を守ることのほうが大事に思えたからだ。  白虎は、すこしだけ余裕があったので、自分だけでなく、他人の平穏も守るため、通学支援という活動をすることにした。  所属組織の都合や、隣接する地区と抗争している組織の子供たちを、無事に登下校させ、ことによったら学校の寮へ「亡命」させる仕事だ。  だが、今回は……  この町の中心的存在、ラスボス一族の名字は、「森羅」である。  この町で、森羅という名字をもつということは、つまり。 「わたくしは、森羅の執事でございます。街は危険だからと、お止めいたしたのですが。ぼっちゃんが、どうしても、とおっしゃるもので。学校までの道案内、ぜひ、お引き受け願いたく存じます」  老人は、深々と頭を下げた。  少年……森羅天地は、にこにこしている。柴の子犬を思わせる、人なつっこい雰囲気だった。  これが、ラスボス一族の跡取り……?  あの、歩けば地震、振り向けば嵐が起きるという一族の……?  歳に似合わないほど修羅場をくぐっている自負のある白虎をして、逃げ腰にならざるをえない。虚は、とっくに距離をおき、ことあらば即逃亡の構えだ。  森羅市南地区にある大きな穴、直径三百メートルにおよぶ「二十世紀クレーター」。  どこかの組織が一族当主を罠にかけ、暗殺しようとしたとき、思いっきり反撃された痕跡だった。周囲の街区もなぎ倒され、いまだに復興がすすんでいない。周辺は深くまで地盤が砕けており、そうとうに基礎を入れないと建物が倒れてしまうからだという。  そういう痕跡を町のいたるところに残しているのが、一族なのだ。  強大な力を有していながら短気ですぐ暴れる。暴れているというより、力がありすぎて、何をしても破壊をもたらすという説もあるが、巻き込まれる側にとってはおなじこと。  とにかく迷惑なのだ。  その一族の子を護衛する……白虎は腰が引けていたが、執事は気づかないのか、穏和な雰囲気のまま、説明を続けた。 「ぼっちゃまのご両親は、ご存じのとおり偉大なお方々。ゆえに、ぼっちゃまはそのことを気にしておいでございます。ぼっちゃまの前では、ご両親、あるいはご両親の話題を連想させる話題は控えていただきたいのです」 「いえ、それ以前にですね、どうして学校へ? 森羅一族は家内で勉強して育つと聞いていますが」  一族の者には、莫大な賞金がかかっているため、それなりに育つまで家から出さないのが、森羅家のならわしなのだ。  執事は首をふった。 「どうしても行くと。なにしろぼっちゃまは一族の後継者ゆえ、わたくしごときでは止められませぬ。とりあえず一度、学校へ行けば納得なさるのではと」 「通学支援いらないんじゃ……」  そもそも通学支援は、この町で安全な登下校をサポートするためのもの。最強一族の子をサポートする必要があるのかどうか…… 「ぼっちゃまは家の外に出られたことがないのでございます。ゆえに、道案内がいなければ、おそらく学校までたどり着けますまい。とにかくぼっちゃんを学校に送り届けてくだされば、あとはどうでもよろしいのです」 「なるほど」  白虎はうなずいた。今回は変則的だが、彼は通学支援。この町の特殊性によって通学できずに困っている生徒たちを、無事に登下校させるのが、彼の使命だった。  虚が短く口笛を吹いた。白虎は緊張し、周囲に視線を走らせる。 「わかりました。すぐ出発したいのですが」 「さようでございますか。ではぼっちゃま、これを」  執事は、携帯電話をうやうやしく捧げ持った。 「学生たるものの、必需品だそうでございます」  少年は、どことなく柴の子犬を思わせる足取りで「とことこ」と寄ってくると、両手をおわんのようにして、そこへ携帯電話を乗せてもらった。それを、じーっと見ている。  遠くで虚が腕をぶんぶん振り回し、大声を上げた。 「はーやーくー!」 「じゃあ、そういうことで、行きますね、えーと、執事さんも、気をつけてください!」 「ついてきて!」  白虎は、声をかける。ぼっちゃまは執事と白虎に視線を往復させるが、執事がうなずくとニッコリ笑って、白虎を追いかけていった。 「よろしくお願いいたしますよ……」  老人は見えなくなるまで彼らに頭を下げていた。  あくまでも、笑顔で。  少年は、手をおわん状にして、そこへ携帯電話を乗せたまま走っていた。 「な、なにしてんだ?! ポケットに入れて、落とすから!」  きょとん、としたようすで白虎を見る。 「だから、これを、こう!」  白虎が学生服のポケットに突っ込んでやると、『ああ、なるほど』という顔で、大きくうなずいた。  なんだか妙な子だな、と白虎は思った。  見た目は可愛いが、意志疎通にかなりの難ありだ。一族の跡取りなのだから、普通でなくて当然なのかもしれないが。  いや、いまは意志疎通はあとまわしだ。白虎は、虚に声をかけた。 「公園の阻止構造を利用してまく。たぶん十人くらい、脅威度は……Kくらいかな」  ABCDEFGHIJKのKだから、かなり下の方だ。  通学支援の相手にはならないだろうが、できるだけ危険を避けるのが通学支援だ。  白虎、天地、虚の順になって、歩道から植え込みのなかに踏みこんでいく。虚は黙ってついてくる。このあたりのチームワークは手慣れたものだった。通学支援していると、寮費と学費が無料になるので、寮生の虚は比較的真面目にやってくれる。白虎のことは、いろいろあってあまり好意をもってないらしいが。 「こっちだ」  白虎は走るペースを落として、階段を下り、巨大なU字溝に入った。コンクリート製の塹壕の一つで、排水路もかねている。さいわい底は渇いていた。  この公園は、森羅一族を都市から隔離する、緩衝地区だ。一族の進行を遅延させるための塹壕や胸壁がいたるところにある。  ゆるやかな傾斜路をおりていく。襲撃者の気配は遠ざかっている。 「どうすんの?」  虚の声に、 「まず公園を抜けて、市街区に――」  そのとき、遠くないところで銃声がした。この町で、あの音をカンシャク玉や爆竹と聞きまちがう高校生はまずいない。 「ああもう追いつかれた」  白虎は舌打ちし、虚は、はあ、とため息をついた。  天地は、二人を交互に見て、首をかしげた。  釘切八貴(くぎりやつき)は、ふつうの家に生まれた。  この町でふつうといえば基本的に暗殺者か戦闘者で、八貴も物心ついたころ、釘切八貴はすでに傭兵だった。傭兵というとおおげさかもしれない。とりあえず、銃を撃って生活する一家の一員だった。  彼女の一家は十五代も前から森羅市に住んでいる。出身は南地区、暗殺に積極な組織があつまっている地区だ。代々、銃戦闘による一族打倒をめざし、研鑽を積んできた。八貴も小学校の前から銃火器のあつかいを学び、この町の大半の子どもたちと同じように、昼は学校、夜は戦闘訓練という生活を送ってきた。  八貴はこの生活を、不思議に思ったことはない。彼女の家は二十世紀クレーターの近くにあり、あの大穴ができたときのことは、当時三歳であったのだが、八貴は記憶していた。  瞬時にして見慣れた街区が更地となり、白い皿みたいな衝撃波が曇天に触れ、雲が消え青空の穴が開いたあの光景。いまでもはっきりと思い出せる。彼女の背中に残る傷跡はそのときについたのだと両親は語っていた。  あれをなしたのが、この町の成立する根本となった「かの一族」であり、最近では「ラスボス一家」と呼ばれることも多い森羅の一族だと教えられて育った八貴にとって、あれを倒すのは、いわば血に刻まれた宿命にして、彼女の願いそのものだった。  この町に住む子どもの大半にとってはそうだろう。外の子がサッカー選手を目指すように、野球選手を目指すように、アイドルを目指すように――それらよりはるかに確実で、堅実で、名実ともに誰からも疑うことなく認められる地位のあかしとして、この町の住人は「かの一族」の命を狙っているのだった。  いま、八貴は歓喜をおさえられない、  一家の情報担当、三女の三火が、すごいネタをつかんだのだ。  かの一族の子が、町に出たというのだ。顔はわからないが、一族につかえる執事、笛千殿と行動しているという。  一族とはいえしょせんは人間、銃火の一撃で傷つくことは知られている。  二十世紀クレーターができたのは、一人のスナイパーが「かの一族」の当主の肩を打ち抜いたことが原因だったというのは、町では広く知られた話だった。もしあの千年だれもなしえなかった奇跡の一撃が首筋にあたっていれば、この町の歴史はそこで大きく変わっていただろう。  かの一族はこの町において世界の頂点だ。きわめて強力だが届かないわけではない。町の誰もが信じてる。千年たっても信じている。いつかは届くと。  そして八貴はいま、「かの一族」の子を、射程の範囲におさめようとしていた。  春休みを利用し、緩衝公園で泊まりがけの戦闘演習に来ていたのがよかった。情報が流れたとき、自分たちが、いちばん近くにいたと知った。そのとき八貴らは早朝訓練をおえ、完全装備のままだった。なんという幸運か。天の意志が自分たちを選んだのではないかと夢見心地じみた気持ちで、両親とその子らは弾薬を補給し、追跡をはじめた。  デジタル森林迷彩のプロテクターに身を包み、足下はコンバットブーツ。顔はヘルメット。八貴の、精悍ともいえる顔には迷彩ペインティングをほどこしていた。  手にはM4。カービンタイプのコンパクトな自動小銃だ。近距離戦闘にさいし取り回しがよく、ライフル弾ならではの高い貫通制圧力をもつ。予備弾薬は三十発弾倉一個のみ。  弾数は、それほどいらないだろう。  標的は一人、かつ超危険人物だ。初撃でし損じたら、銃も捨てて逃げる予定になっている。 『こちら九真。八貴姉、そのまま走って、先に虚チームがいる!』  インカムから斥候――弟である九真の声。まだ中学生だが、銃のあつかいは八人の姉を超える素質をみせている。  植え込みから林に逃げたのは、ほとんど予想通りだった。虚チームの行動パターンは、八貴がそこそこ知っている。チームのアタッカーである平井白虎は、八貴の同級生で、けっこう目立つ容姿だから、……よく知っている。  コンバットブーツで落ち葉下草を踏みしだしながら、八貴は巨大なU字溝に飛びおりた。 『こちら七幸。八貴、突出しすぎ。すこし退いて』  インカムから、一つ上の姉、七幸の冷静な声。七女なのに、一家の司令塔である。 「でも! タレコミがマジなら、誰かに獲物かっさらわれるぞ!」 『あたしたちが一番乗り。それは間違いない』  七幸になだめられ、八貴は、はやる心をおさえて移動ペースを落とした。  もし成功すればどれほどの名誉と報酬があることか。ああ、明日から学校はどうしよう? 学校の友だちにお裾分けをしなきゃ……数発の銃弾で買えるかもしれない途方もない未来を妄想し、八貴は興奮してきた。 『八貴、父さんが先に回り込んだ。足止めに撃ちまくるから、背後から標的をヒット』 「了解」  はやる心のそのままに、八貴ははじかれるように加速した。十五代にわたって培ってきた戦闘技術、それがようやく本来の用途に使われるのだ。  もし標的を仕留めたとしたら、莫大な富が約束されている。  買えないものなどないだろう。国がいくつか買える額なのだ。  この町では、「ラスボス税」という市民税が存在する。基本的に、収入の5%。その用途は、一族を倒した者への賞金だ。百五十万人、数千の組織が存在するこの町だ。ラスボス税は年額で兆単位となり、積立金はまさにバベルの塔のごとく積み上がっていた。現行紙幣で積みあげたなら、月まで届くと言われている。  長い大型U字溝の先に、三人の姿をとらえたとき、八貴の指はごく自然にM4の安全装置を解除していた。 「こちら八貴。ターゲットチームを視認」 『こちら七幸。発砲を許可する。ここは緩衝地区、つまり治法外区。すべての事故は自己責任。すべてが許される。ただし通学支援には当てないこと』 「こちら八貴了解。アタックを試みる」  通学支援は平井白虎。中学でおなじクラス、高校でもおなじ学校だから、もしかするとクラスも一緒かも……。彼の仕事を妨害するのは気が引けたが、しかたがない。  森羅一族の打倒は、この森羅市百五十万人の悲願なのだから。  高揚にうるんだ眼で倍率4×32のスコープに標的をとらえたとき、八貴は息をのんだ。 「あれが……?」  白虎より頭半分低い虚よりさらに小柄、小学生でも通用しそうな体格の、男でも女でも通用しそうな可愛らしい子だった。一番下の弟、中学一年の十也とそう変わらないように見えた。  本当にあれが一族の一員なのか?  スコープの先に揺るぎなくとらえていた。たまに虚で隠れるが、撃てるチャンスは幾度もあって、なのに指は引鉄にかかったまま動かなかった。  三人は遠ざかっていく。撃てなかった。高揚は去り、汗が気持ち悪く冷えてきた。 「……こちら八貴。射線が確保できない」 『こちら七幸。了解、父さんと六月がアタックする。八貴は間隔をあけて追跡』  八貴は、撃てなかったのだろう。下の子らは、マインドセットが不十分であり、初対面の人間を問答無用に射殺することに抵抗があるらしい。  釘切丸太は子らのことを、普通の父親のようにではないが、それなりには理解しているつもりだ。年頃の子は甘い夢を見たがるものだ。シビアな現実に直面させるのは、高校を卒業してからでいい、と思っていた。  完成されていなくてもいい。それでも獲物を追い立てる勢子の役には立つ。  釘切丸太は四十五歳、父として十児を育ててきた。  ただの銃使いがこの町で胸を張って生きて行くには、卓越したセンスとたゆまざる鍛錬が必要となる。この町に多くみられる超人たちも、四六時中鉄壁の守りを固めているわけではない。ただの人間にもチャンスがないわけではないことは、丸太がよく知っていた。超人たちの多くは、不意打ちの狙撃に沈む。  彼はこの町の、普通の家族の父として、与えられるすべてを子供たちに与えてきた。銃のあつかいから、追跡の方法、接敵のコツ。野営の方法。山林や市街での食料調達法。年ごろの娘が憶えるべきではない戦闘メソッドを徹底的に教えてきた。そうやって戦いをきわめれば、かならず世界の頂点に手が届くと信じていたからだ。  娘息子たちは、たまには不平を言うが、優秀な戦士として育っている。  いま、一家は、究極からひとつ下の目標を追っている。  彼の一族の子だ。仕留めれば子孫七代遊んで暮らせるていどの金を手にできる。子らは金のもつ本当の力を知らない。自分がどれほどの幸せへの切符を手にしているのか、明白に把握できないまま、漠然とした幸福の予感に血をたぎらせていることだろう。  ゆっくり時間をかけて、ほとんど音をさせずに銃を安定させ、スコープをのぞきこむ。  無色虚と平井白虎のコンビは、通学支援の中では有名なほうだ。  虚は、南区でもっとも過激な組織、第八の黎明からの逃亡者であり、その実力は町でも上位二十位に入るだろう。  第八の黎明が作り出した最終兵器、11+4s第八の忌まれしもの、久津城太慈とやりあって、要支援者を守り抜いている。世界の頂点にもっとも近い十五人のうちの一人を相手に、死なず死なさず逃げ切ったのだから、大したものだ。丸太には、自分たち一家十二人がかりでも、久津城相手に人を守れる自信はない。  だが、釘切丸太は、4倍のスコープ越しに確信してる。  なにも守れずとも、銃弾を当てることはできる。  構える大型対物狙撃銃XM109は、全長およそ120センチ。25ミリという大口径を活かして多目的炸裂弾も撃てる次世代型の対物ライフルだ。15キログラムもの重量は、かついで歩くには少々重いが、運搬する価値は充分以上にあった。すでに薬室へ装填されている弾は、タングステン弾芯のフルメタルジャケット。ただの人間相手にはオーバースペックな銃弾……いや砲弾だ。防弾チョッキなどちり紙みたいに突き抜け、相手が装甲車の中にいても射殺できる。  白虎と、虚と、もう一人は、巨大なU字溝、緩衝区塹壕で隠れていた。  彼の一族と町は、この緩衝公園によって遮られている。彼らが町へ出てくるならば、かならずこの公園を通過しなければならない。そのときに阻止し、あるいは暗殺するため、公園には隠れる場所が無数にある。  彼らのいる溝もその一つであり、丸太がいる待避壕もその一つだ。強化コンクリートの小さな要塞で、四方にポストのように細く切られた窓が開いている。  そのひとつから、虚チームがはっきりと見えていた。狙うにもちょうどいい。  距離およそ200メートル。やや撃ちおろし。ほぼ無風。湿度は低く、気温も二十度前後。理想的な環境だった。  口径25×薬莢長59ミリ、恐るべき力を秘めた大型弾薬が装填されたXM109の銃口に睨まれているとも知らず、三人は完全に油断しているようだった。  わざとゆるめた包囲によって、「安心させられている」とは知らず、何かを話し合っている。  白虎は、頭をかきむしっていた。 「だからー、無理言うな。 そんなことをしたら、評価に響く」 「べつにいいよ。あたし評価いつもDだから。学費と寮費がとれればそれでいいんだし……」 「おれは連続成功記録を伸ばして、評価Aを貰って、就職につなげたいんだが」 「やだよめんどくさい。だいたい、この子を通学支援するのは無理だし」  虚がこんなにかたくななのは、めずらしいことだった。  いつもやる気なさげに防御を担当し、白虎のあとをついて歩くだけだったのに。やる気がなくても防御は最強クラスなので、白虎も文句は言わなかったが。 「この子を学校まで連れていける自信ない。今回は断りたい」  今回はこんなことを言う。弱気というのでもない、不安がっているようだった。 「まだ何もおこってないだろ!」  白虎の大声に、ちょっとうつむいた。虚は、大声に弱い。 「でも、公園を出たら、町がまるごと敵になるし」 「大丈夫だって、まだ顔が知られてないから。町の情報網にも、まだコイツの顔は流れてないだろ。市外に出てしまえば、不戦協定がある。『森羅市市民は、市外における戦闘を禁ず。これに違反した者は、森羅市有志により厳罰に処す』。だから、うかつには攻撃できない」  二人のあいだで、少年は、やりとりをきょとんとして聞いていた。自分の話をされていることが、まるで分かってないようだった。 「ちょっと、どうして学校に行きたいのかきいてみて」  虚は交渉ごとをすぐ白虎に任せてくるのだが、これも断れない……いろいろあったので。 「えー、森羅、天地くん? どうして学校に行きたいのかな?」  少年は、白虎を凝視した。アーモンド型で黒目がちの瞳は宝石のように美しく澄みきり、目を合わせていると吸い込まれそうだ。  白虎が言葉を失っていると、虚がつま先でふくらはぎを蹴ってきた。 「もしもし? 学校に行く理由。言葉がわかる?」  うんうんとうなずく。 「しゃべれないのかな?」  ふるふると首を横にふった。  どうも、「声を出してはいけない理由」があるようなのだが、それをどうやって聞き出すのか……筆談してるヒマもない。さっきの連中は、たぶんまたアタックしてくる。 「天地くん? えっと……外に出るといろいろあるのは、わかるよね? それでも?」  力強くうなずく。  仕草がなんだか同学年とは思えない。小学生、それも低学年を相手にしているような気がしてきた。 「どうやら意思が固そうだぞ」 「それでも、なんとかしてほしいし」 「おれは通学支援で、まわりが抵抗しても学校に連れて行くのが仕事だもんで、行くなと説得するのはちょっと……」  歯切れ悪く言い訳していると、虚が言った。 「くるよ」  釘切丸太は、バーコード頭と黒縁メガネが特徴の、痩せた中年男だった。あまりにもさえない風貌は、一番上の毒舌娘、夏零に「一緒に歩くときは知らない人のフリをしてほしい」とまで言われたこともある。  中肉中背、目立たずさえない釘切丸太だが、人に負けない特技を、いくつかもっていた。  たとえば、市街戦における、接敵能力。  その気になれば、気づかれずナイフの距離まで近づける。  あるいは、野戦における迅速な狙撃だ。まわりの草や、あるいは標的の髪や衣服のはためきから、風向や風速を読みとり、最適弾道を瞬時に把握できる。五百メートル以内であるならば、スコープに的をとらえ、三秒観察すれば、まず当たる。  この特技は、すばらしく役に立つもので、娘や息子にぜひ伝授したいのだが、難易度がきわめて高く、なかなか習得してくれないのだった。  スコープに標的をとらえ、慎重を期して、五秒、観察した。  そして、息を吐きながらトリガーを引いた。  朝日のなか、マズルブレーキから青白い煙が噴出し、巨弾の発射反動を殺した。  相手がただの人間ならば、終わっていたはずだ。  銃声のこだまが消えないうちから、釘切丸太は、手元の糸をたぐりよせた。トーチカの周辺に仕掛けた発煙筒のピンがまとめて外れる。  チャンスは一回。二射目はない。もたもたすれば、虚の反撃でトーチカごと粉砕される。森羅一族の反撃をうけたら、公園の形が変わるだろう。  銃は放棄。トーチカから抜け出すと、発煙筒の噴きあげる煙にまぎれ全力逃走を開始した。 「やはり体育会系科学者は、凡人には荷が重い!」  ぼやきつつ木々をかわし、塹壕やトンネルをくぐってひたすら逃げる。  発砲のタイミングは、完璧ではないにせよ、そこそこのものだった。あの距離、あの撃ち慣れた銃で外すわけはない。  通学支援さえいなければ、彼の一族の子であろうと思われる少年の心臓……少なくとも、みぞおちの左上にあたったはずなのだ。  その瞬間。透明な、屈折率が違うなにかが空中に浮かび上がった。幾何学的なクラゲとでもいうべき空間の変質だった。  それに当たった瞬間、弾道が直角に曲がった。少年ではなくコンクリートに突き刺さり、ラーメン鉢ほどの大穴を開けた。 「平井白虎、空間派歪曲式だったか……通学支援は手強いねえ」  おそらく子供たちは撤退をはじめているだろう。一発目の銃声から、二発目も、連絡もないということは、し損じたか、反撃を受けたと判断するはずだ。森羅一族へのアタックのさいは、そうするように教えてある。  襲撃は失敗し、バラ色の人生を手に入れそこなった。次の機会はいつになるやら。宝くじの当たり番号を知っていながら買えなかったような悔しさが、釘切丸太の劣勢な毛根をイヤな感じで刺激した。 「あとはこの情報が、いくらで売れるか」  丸太の手にあるデジカメには、三人の顔が写っている。  彼の一族の子がはじめて写真をとられた瞬間だった。  白虎は観測を止めた。  空間に浮かんだひずみが、人に観測されない気ままなふるまい――つまり通常に戻っていく。 「あのバーコードは、釘切のおじさんだったような」  虚が平坦な声で言った。自分のまわりをガチガチに観測し、波動関数を思いっきり偏らせている。この状態の虚は、通常兵器相手なら無敵の防御力を誇る。  白虎は肩をおとした。 「あー、おれ、たぶん釘切八貴と同じクラスになるんだよなー……顔合わすのやだなー」 「市外に出たらノーサイドが基本だけど」 「そうはいうが。久津城とか、めちゃくちゃ引きずってるし……あ」  虚が不機嫌になった。久津城は、もともと虚と同じ組織出身で、白虎といろいろあったのだ。 「……あのときは悪かったと思ってるよ」 「そういう問題じゃないし」  それにはさわるなと言いたいようだった。  森羅天地が、左右を見まわし、なにを思ったか、歩きはじめた。 「どこへ行くんだ?」  天地はふりかえり、わたわたと手でなにかを表現した。どうも、なんらかの箱のようなもとを自分にくれと言いたいようだった。  意味をつかみかねた白虎が、救いを求める目を向けると、虚はため息をついて解説した。 「ようするに学校に行きたいんでしょ」  天地が、ビッ、と虚を指さした。正解らしい。意思の疎通に成功した喜びにあふれたようすで、また歩きだす。  ところで、この巨大U字溝だが。小高い丘の上から中腹にいたる公園に設置されている。  いままで水平方向の部分を移動してきたのだが、斜面の垂直方向、排水と斜面移動のために、半分が階段、半分が水の流れる傾斜路になっている部分もある。  階段つきすべり台のようなものだ。 「あ――っ! 待て待て、そっちは!」  白虎が大声をあげたときにはもう遅い。  森羅家の跡取りは、傾斜水路へ踏みこんだ瞬間、すっころんで、バンザイしたまま滑り落ちていった。 「あちゃー。ここからだと、南地区の市街地まで落ちていくし」  のんきに解説する虚を放置して、虚は傾斜路わきの階段を駆けおりていった。  プリントアウトされた紙は軽いものだった。手に入れるため支払った札束にくらべ、まさに紙切れだ。だが、そこに写っているのは、まぎれもなく値千金のものだった。 「大佐、家族経営の連中のネタを信用なさるおつもりで?」  副官の皮肉げな声に、男はベレー帽をなおしつつ、笑いをかえした。 「釘切は信用できる男だ。昔はよくわたしとあちこちの戦場を渡り歩いたものだ」 「それは失礼」 「というか君の父親なのでは」 「いろいろございますので」  腕を後ろに組み、微動だにしない副官は、軍服をもとにした制服がじつによく似合っている。あまりに美人なので、大佐との間にあらぬ噂を立てられることもある。  初見の客は、大佐と副官を見比べて、何かを察したような笑顔を見せるのが少なくない。初老の傭兵あがりがうまくやったな、とでもいうような。  もっとも、その笑顔は、副官の容赦ない毒舌と、とりつくしまもない言動を知るにつれ、大佐への同情の顔に変わるのが常だ。  夏零は、大佐の古い知り合いの娘だ。もちろん縁故だけではない。有能だから採用したのだ。毒舌は計算外だった。  ちなみに大佐、というのは、あだ名である。ほんとうは南森羅警備保障という会社の社長なのだが、むかしに大佐だったので、社内のみなが大佐と呼ぶ。  この南森羅警備保障は、この森羅市におけるふつうの会社、つまり森羅一族打倒を社是とする会社だった。  警備保障などと名乗ってはいるが、そのじつはモロに傭兵である。それも釘切一家のような個人営業ではない。この森羅市で訓練し、各地の紛争地帯にも進出し、必要とあらば政情不安をあおり戦場を作り出すことさえやってのける。  森羅市にはこういう警備会社が二十はあると言われている。  銃火器をもち、戦闘訓練をつみ、戦闘ヘリまで保有する戦闘集団。 「町の外では、誰が信じるだろうな、そんな我らが――」  大佐は、コーヒーカップに口をつけた。 「この町では「安全なほう」だと言われているなどと」 「そんなことはどーでもいいので、さっさと作戦行動を指示してください」  老将の複雑な感慨など、この若い副官にはなんの興味もないらしかった。 「現在、標的は緩衝公園を抜け、南地区の北端、阻止街区へと進行中。われら南警保の管理する阻止街区です」 「きみは、金に興味があるかね」 「もちろん」 「まあ、こんな商売をやっているのだから、そうだろうな。だが金を手にして、それでどうする?」 「無駄話をしない上司をネットオークションで探します」 「ネットオークションで上司を売ってるのか。なるほど、これが文明社会というものか」 「売ってるわけないでしょう。冗談を真にうけるとは、大佐はいわゆるバカですか?」 「バカとはひどいな。こう見えても今から十五年前には、」 「いま聞きたいのは、配置だけです。むしろゴーサインだけ出していただければ、あとはすべてわたしが仕切りますので、ぜひそうしてください」  ボロカスだった。  大佐は、コーヒーを飲み干すと、静かにカップをおいた。 「ならばコード♯を発動だ。総力戦で行く」 「待ってください、対象者が本物かどうか確認はまだとれておりません」  副官が、めずらしくあわてた様子で言った。  大佐は副官の杞憂に、失笑した。 「確認? 砲弾を撃ち込んでみればわかる。なに、もし誰が死んでも、我々の地区内であるならば、それはNothing Happenedが起こるということだ、フフフッ」  大佐の、明るいのに妙に空虚な笑顔に、副官は身を堅くした。それこそは傭兵の顔、陽気に歌いながらみずからの作りだした死人の山を踏みこえていける男の笑顔だ。 「さ、我らNSGCが対森羅用に研鑽してきた「凡人の卑怯なやりかた」を、存分に試してみようじゃないか」  虚は、あまり階段をおりるのが好きではない。  斜面をくだる巨大U字溝の底に刻まれた階段をおりながら、虚は、いつものように、すこしいやな気持ちになっていた。  第八の黎明にいたころは、階段をおりるということは訓練させられることを意味し、それはいつもつらいことだった。たった一年すこし前のことだ。  だいたい、彼女の最初の記憶も、階段を下るものだった。気がついたら第八の黎明の訓練施設にいて、毎日、認識と関数収縮の訓練をさせられていた。  いつしか、階段の下のほうには、かならず、いやなことや、よくないこと、さらには悪いことが待ちかまえているのだと刷り込まれてしまった。勉強嫌いの子が、学校への道に嫌悪をもつように。  耐えられたのは、仲間がいたからだ。  第八の黎明において、無色虚は特別だった。能力が特別であり、ということは扱いも特別だった。彼女がいたころ、組織は彼女を中心にして回っていた。研究者や、組織の幹部はこぞって虚に期待していた。きみこそは希望だ、きみこそは未来だ、きみこそは我らの誇りだ……大人たちの賛辞は、しかし虚の心を満たすことなく素通りした。  虚には仲間がいた。  しかし、特別扱いされる彼女に、仲間はあまりなかよくしてくれなかった。組織の人間が虚を賞賛し、虚のようになれと号令をかけるたび、彼女と仲間の距離は遠ざかっていった。  それでも仲間なのだと虚は思っていた。すこし上から、かなり下まで、年齢もバラバラな子供たち。年齢が近く、境遇も近い仲間。  才能を磨き、仲間をリードしていくのが自分の使命だと、虚は思いこんでいた。  仲間に、久津城太慈という少年がいた。同い年で、あまり素質に恵まれていなかった。彼女は意識していなかったが、久津城は虚を意識していたようだ。  霞宮という少女もいた。ちょっと性格が悪かったが、虚にいちばんよく話しかけてくれた。ほかにもいたが、フルネームをはっきり憶えているのは彼らをふくめた数人だけだ。仲間と言いながら、関係はそれほどに薄かった。  虚は、エリートで、期待されていたので、さまざまな優待を受けていた。訓練を減らすことはできなかったが、頼めば贅沢なお菓子を口にできた。  それらを仲間に配るのが、ひそかな喜びだった。みんなとおなじものを、おなじだけ食べるという「儀式」。仲間は、お菓子ほしさに虚のまわりへ集まってきた。  人付き合いが得意ではない虚にとって、そうやってお菓子をふるまうのが、できるつきあいのすべてだったし、それで仲間が表面上にせよ笑ってくれるなら、明日もまたがんばれるのだった。  そうやって虚がすがっていた、深まらない、薄いつながりは、唐突に断ち切られた。  最後の日、虚自身が、「階段の下に待ちかまえる悪いこと」になると知らされた。  組織の未来を背負うためには、善良な少女であってはいけなかった。手を仲間の血に染めてでも目的――すなわち森羅一族の殺害――を果たせなければならなかったのだ。  最終テストの内容を聞かされた虚は、空間を観測し、関数を収縮させ、導き出された結果によって厚い扉を破って逃げた。階段を駆け上がって裸足のまま町へ出て、そして――  いろいろあって、こうして通学支援などをしている。  U字溝の、かなり下の方に見える白虎は、恩人といえないこともない。半年くらい前までは恩人だと思っていたし、信用もしていた。通学支援のコンビを組むことも抵抗がなかった。  だが、いまは、白虎が信じられない。  市外学園の寮生であるからには、何らかのバイトをしなくてはならない。通学支援というのは、労働時間が短いわりには、学費寮費免除かつお小遣いももらえるという、なかなかおいしいバイトだ。断るわけにはいかない。  だから、我慢して白虎と組んできた。  でも―― 「そろそろ限界かなー……」  ただの通学支援なら、まだガマンできる。助けを必要とする人間を守る仕事。やりがいはある。  それが、なぜ?  よりによって、森羅の子を学校に送る?  なにを考えているのだろう、あの男は。  そんなことをして、いったい誰のためになるのだろう。古くは荒神、近くは魔王、最近ではチートを使ったラスボスと呼ばれる森羅一族を、学校に通わせるというのは、どう考えても問題だし迷惑だ。  階段は長い。この通路は斜面をくだり、公園の敷地から南地区の水路につながっている。 さっき、公園敷地の境界標を横目に、さらに下ってきている。  森羅一族にもっとも敵対的で、もっとも面積が広く、もっとも士気の高い南地区。  一族打倒に燃える集団が集まっている、戦術地区に踏みこんでいるのだ。  天地は、傾斜がゆるやかになっているところで止まっていた。  白虎が近づくと、ほい、と立ちあがる。怪我はしていないらしい。 「大丈夫なのか?」  うなづく。あいかわらず声に出して返事しない。なにか理由があるのだろう、と白虎は普通に考えていた。この町には、ふしぎな習性のある人間が多い。  白虎は携帯の地図で現在位置を確認する。  すでに緩衝公園を出てしまい、南地区一条七坊に入っている。  この町は、おおざっぱに言えば、同心円上に広がる迷路だ。  四本の六車線国道、通称「縦貫」が町を四分し、その縦貫を同心円状の横幹(横幹線道)がつないでいる。さらに横幹を、何本もの第二(第二縦貫)がつなぐ。  そうして横幹と第二で区切られた区画がひとつの町になっている。  天地と白虎が滑りおちてきたのも、そういう区画のひとつだった。  携帯の地図で見ると、住所は森羅市、南地区一条七坊、NSGC敷地内とある。  さらにNSGCで検索すると、「警備会社。市外では民間警備会社、すなわち傭兵」と出た。 「えらいところに出てしまった……」  白虎は頭をかかえた。  この町は、森羅一族を狙う刺客たちの町、刺客の集団ごとに各区画を占拠している。彼らは独自の町内会規則で区画内を統治している。  いわば、数百の国家が、半径五キロに集約しているようなものだ。  縦貫と横幹は誰でも通れるが、第二縦貫や各区画内は、基本的に組織の許可がないと入れない。無許可では、自警団(といっても軍隊や、それよりとんでもないの)に追い出されてしまう。  白虎たちはいま、無許可で地区に進入した状態だった。  NSGCのサイトを検索し、区画立ち入り許可を申請してみる。  通学支援は特権があって、各区画内に立ち入れるが、状況によってはひどい目にあわされることもある。たとえば、その区画の子どもを学校に連れて行こうとするときなどだ。  この森羅市でも、就学年齢になった児童は、市外学校へ通わせることになっている。しかし、そんな世俗の学業より、森羅一族打倒のほうが大事だという組織はいっぱいあって、そういう組織は学校へ行かせることに反対する。  そういう子どもを力づくで学校へ連れて行くのが通学支援の役目だった。  ちなみに通学支援の正式名称は「就学年齢児童通学支援員」で、森羅市の教育委員会が発行する免許資格である。森羅市に学校はないのに、なぜか教育委員会だけはあるのだ。  通学支援の持つ携帯電話には、さまざまな機能とともに、個人識別チップが組み込まれていて、これを使えば区画立ち入り許可はすぐに出るのだが……  返ってきたのは、『許可保留』のメールだった。 「なんでだよ! 通過するだけだぞ! 横幹か第二へ抜けるだけなのに!」 「あー、むりむり。NSGCの社長は、釘切のオヤジと知り合いだから。たぶん、もう連絡行ってる」  ようやく追いついてきた虚が、白虎の独り言にこたえた。彼女は階段を降りるのが苦手といっていたが、ようするに体力がないのだろうと白虎は思っていた。だって、手足、あんなに細っこいし。 「まさか全市に回ってないだろうな」 「それはないでしょ。森羅一族に関わる情報は、どこの組織も独占したがるし。釘切とNSGCみたいなのは例外。たいてい隣人と情報めぐって戦争するから」  南地区の、武闘派筆頭みたいな組織から逃げてきた虚がいうのだから、まず間違いはないだろう。 「ここからなら、区画のど真ん中をつっきって横幹二条へ出るのが最短だ。たった二百メートルで済む」 「ここ、阻止街区だよ。引き返したら?」 「ダメだ、引き返したら釘切一家とまたぶつかる。もたもたしていて、公園周辺に住んでる連中が集まってきたら面倒なことになる。ここを突っ切ろう」  白虎は、携帯をポケットにいれた。 「じゃ、いつものように、防御おねがいします」 「やっぱり……」  虚はため息をついた。  副官、NSGCの専務にして指揮代行、釘切夏零は、インカムへささやきかけた。 「安全装置解除」  NSGCの用語だ。意味するところは「戦闘開始」。  大型バスほどの戦闘指揮車には、専務の彼女をトップとした、戦術部長が詰めていた。車内壁面には、監視カメラからの映像や、配備状況を映した表示パネルが並んでいる。 「01小隊、誘導射撃開始」  淡々と戦闘を開始する。その指令のもと、部下たちが銃弾を撃ちこむ相手が、妹たちと同じ学校に通う生徒であることなど知った上でだ。  彼女は、この世について、ひとつの認識を持っている。  それは、この世界が平等ではないということだ。  幸福も不幸もすさまじくかたより、生死すら不平等であるということ。  銃弾は等しく人を倒す。いかなる勇者も、一発の銃弾の前には老いて目も見えぬ老犬と区別なく死す……という、市外で信じられている「事実」さえ、この町のなかではいびつとなる。  自分たち凡人にはおよびもつかない世界を見ている連中が、この町にはいくらでもいるからだ。  自分に向かう銃弾が致死でなく、放った銃弾が必殺ではない世界に生きる連中。  その筆頭が「あれ」とつぶやき空を指さすことで示される、あの一族。  名を口にすることさえためらわれる魔人。かつて世界に惑星規模の大打撃をあたえた、魔王とも称された彼ら。この町が生まれる原因となった天変地異級の災厄。  あの、人知を越えた、人の形をした暴威のことを思うと、凡人である夏零は、その秀麗な顔におびえをあらわさないよう努力しなければならなかった。  20世紀クレーター生成の衝撃は、彼女の心の奥底に癒えない大穴を開けていた。 「あれ」はまさに絶望だった。この世のすべてを破壊する、理不尽な現実そのものであった。  と同時に、希望でもあった、  あれに手が届きさえすれば、おおよそこの世で手にはいるほとんどの物を買えるほどの金が転がりこんでくる。怯えながらも、命を賭けて手を伸ばす価値があると、この町の多くの人間が信じていた。夏零もまたその一人だ。  だが、自分の手が届くのかと問われれば、唇を噛み、矜持を傷つけられてうつむくしかなかった。  この世の頂点を目のまえにしながら、身動きすらできなかった数年前の自分が、心の底で泣きじゃくりながら無理だと言っていた。  さらに加えて、この町の武闘派の主流、拡張自我の観測者たちは、彼女に、どうあがいても追いつけない挫折感をあたえていた。 「あれ」を狙うべく育てられた超人たち。  量子学的不確定未来を観察技法によって固定し、望むままの未来を観測する、拡張自我の脅威。  それらの、凡人ならぬものたちに怯え、自分がみじめな凡人であることを思い知らされてきたある日、夏零は大佐に出会ったのだ。  そして彼女はここにいる。凡人個人の技量で、魔王を、観測者たちを撃破するという父親の思想ではなく。  凡人集団の戦術で、超人を押しつぶすという大佐の思想に共鳴して。  初めて会った日、大佐は言った。  彼らとて、人間でしかないことだと。銃弾を防ぎ、奇跡の技をいともたやすく使う彼らとて、しょせんは、どうあがいても、その肉体も、その精神も、どこまでいっても人間でしかないのだと。その一言と、乾いた笑顔に惹かれて、夏零はこのNSGCに入社したのだった。  そして今日がきた。「あれ」の子に手が届くかもしれない日。高揚と恐怖の入り交じった緊張に、彼女は体を熱くしていた。  緩衝街区に仕掛けられた監視カメラには、三人の高校生の姿が映っている。  南地区出身、かの一族を狙い、命を奪うことで名声と富を得ようとする組織の一つ、第八の黎明が生み出した超人、無色虚。  北地区出身、かの一族到来まえよりこの地に住んでいた、そして彼の一族を隣人として暮らし続けることを選んだものたちの末裔、平井白虎。  そして、一歩歩けば大地を揺るがし、その吐息は雲を割り、流れる血潮は火山の溶岩と謳われた、「あれ」の一族の子……と推測される少年。  平井白虎はともかくとして、無色虚は火砲の天敵だ。彼女に関する断片的なデータからすると、凡人の生み出した必殺の武器である銃火器を完全に無効化する。まさに難攻不落、歩く要塞だ。 「あれ」の子がどれほどのものかは不明だが、のこのこと出てくるからには無力とは思えない。  だが、このメンツがそろっていてさえ、凡人である自分たちになお勝算があるのだと、大佐は真面目に言うのだった。  頼もしい、と思わざるをえない。 「01小隊、標的を街区R・AからR・Bに誘導中」  部下の声で夏零は我に返った。  三人の少年少女は、大佐の構築した罠のあぎとに踏みこみつつあった。いやむしろ、加速していく。 「中央突破ねらいか」  戦術的には悪くない。  地区をつっきって横幹に出られてしまうと、戦闘継続は難しくなる。  隣接する、他の組織が統治する街区に流れ弾が飛びこむと、また補償やらなんやらでもめることになるからだ。  とくに南の街区には「6140部隊」と呼ばれる、どこぞの大国が派遣してきた実験部隊が陣取っていて、似たような凡人集団戦術をとるNSGCを敵視している。  だから、横幹二条に出られてしまえば、もう戦闘は終了ということになる。  NSGCの街区は、南地区ヨコカン横幹一条・二条間に位置し、三本の第二タテカンをとりこんでいる。東西六百メートル、南北二百メートルほどのやや大きい街区だ。  その中で仕留められれば問題はない。  二百メートルの強行軍は、予想以上に難航した。  虚の足が遅いのは分かっていたことだったが、それより天地が問題だった。  気がつくと、おいてけぼりになっている。そして町の風景を物珍しそうに観察している。白虎と虚のあいだにはさんでいるのだが、天地が止まってしまうと、どうにもならない。そのたび虚は長めの口笛で呼び、白虎がもどって天地をうながすくりかえしだ。  広めの道路の左右には、6階建てほどの、窓の小さなビルがならんでいる。  出入り口も、コンクリ打ちっ放しの四角い口が開いているだけ、ドアさえなく、朝日のとどかない暗がりをのぞかせている。  街路樹も、植え込みもない、殺風景なコンクリートとアスファルトだけの町なみ。  道路標識も信号もない。電柱もなければ携帯アンテナもない。人の気配さえしない。  まるで作りかけの模型じみた街区だった。  阻止街区……かの一族が出てきたとき、砲爆撃して区画ごと吹き飛ばすために作られた、足止めのための町だ。  白虎は天地の手を引きながら先を急ぐ。  すでに周囲のビルの内部に、いくつもの動体を感知している。俊敏な動きをくりかえす人間。おそらく装甲服と銃火器を装備。 小走りに移動していた気配が止まり、荷物をおろし、作業をしている。 「そろそろくるぞ!」  白虎がさけんだ瞬間、爆竹のはぜるような音が街路に響いた。  反射的に頭をさげ、あたりを観測する。  前方左のビルの六階で、小さな光がまたたいた。  白虎は、反射的に空間の曲折を観測した。不確定な未来を拡張抽象的自我の観測により強引に収縮させ、空間にゆらぎを生じさせたのだ。  弾丸は空間のゆがみにしたがって、ほとんど真横にそれた。横手のビルに弾痕が生じるのを確認もせず、白虎はさらに前進する。 「あー、信頼されてないんだ」  うしろから、失望したような声。 「いや、いまのはついうっかり防御しただけだから!」 「べつにいいけどさ……」  ぜんぜんよくなさそうな声に、白虎はぐぐぐ……となる。すぐ気をとりなおした。 「撃ってくるのは、とおってほしくない方向だと思うか?!」 「この配置だと、そういうの関係ないよ」  道は迷路のようになっていて、すぐT字路にぶつかった。  白虎は、あいている片手で携帯をいじり、衛星写真をもとに作成された地図で、最短ルートを確認する。 「右のほうが近道だが!」 「じゃあ右でいいじゃん」 「あからさまに罠なんですけど」  そっちには、隠れた人間の気配がやたらと多い。見た目は無人だが。 「べつに罠でもいいし」 「それもそうか……」  白虎は、右に進んだ。さっきまでと、まるでおなじ風景だ。  と、左右のビル一面、すべての窓で閃光がまたたいた。まるでビルを電飾しているようだった。  一般人であるならば、そのすべてが銃火であると気づくまえに蜂の巣だっただろう。  量子力学によると、分子レベル以下の極小世界においては、観測したとき状態が決定される。  観測されるまで、結果は一定範囲の可能性として散在しているのだ。  ならば、望む可能性を観測してしまえば、波動関数を、任意の状態に収縮させる観測技術を編み出せば、望みの結果が決定されるのではないかという仮説が立てられた。  それは、初期条件と法則の累積が結果を生み出すという、古典力学から導き出される科学像とは真逆。  望みの結果を観測することによって、現象を規定するという呪術的な発想であった。  その仮説――『希望的観測の実現』と仮に名付けられた――に従い、フォン・ノイマンの提唱した抽象的自我の概念をベースにした、人間の意識の変容拡張、いわゆる拡張抽象的自我が研究され、いくつかの成果が生み出された。  分子レベルの「可能性」から、望みの結果を観測する技術が生み出されたのだ。  ただしそれは科学と呼べるかどうか、微妙なものであった。  というのも、再現性がきわめて低いのだ。個々人の技量によって結果が大きく変わってしまう。そのため、科学の「誰がやろうとも、同じ機材で、同じ手順を踏めば、同じ結果が得られる」という原則にあてはまらなくなったのである。  だが、研究者たちからは、そもそも、結果を観測するという行為自体が、素粒子レベルにおいては「同じ機材で、同じ手順」ではなくなってしまっていることが指摘された。  すなわち、一時間前と現在では、実験機材の部品の分子運動や、電子の位置などが変わっており、素粒子レベルで完全に同一ということはありえない。量子レベルでは、完全に同じ条件下での再現実験という発想そのものが成立しないのだ。  まっとうな科学者の多くは、それを「誤差」や「錯覚」として切り捨てた。  だが、まっとうでない、もしくはある種の真理に近いものたちは、それを拾いあげ、たんねんにつなぎ合わせていった。  現象が存在するのなら、そしてそれを不完全であれ、まれにであれ再現できるのならば、それは科学として扱うべきだ。正統な科学の道を乗りこえた研究者たちは、そう結論づけたのだった。 『希望的観測の実現』。  観測だけで現象を引き起こす科学の技。  道具もなしで、観測技術の鍛錬さえ積めば、生身の人間だけで結果を導きだすその科学は、理論と機械によって行われる従来の理系科学とは区別され、こう呼ばれた――  体育会系科学。  そのなかでも、白虎と虚は、おおまかには空間派に分類される。白虎は空間曲折派、虚は空間次元派だ。  空間派は、空間そのものの観測と可能性の収縮に適正があるものたちだ。  両側のビルが派手に電飾しているなかを、無防備に駆けぬけていくのは心臓に悪い。  しかし、銃撃音のほかに、なんの害もなかった。  周囲には虚の観測界が広がっている。  体育会系科学の観測者たちは、認識し、関数を収縮させうる範囲を、観測界と呼ぶ。それはそのまま、力のおよんでいる範囲でもある。  観測界にとびこんできた一定エネルギーを持つ物体が、高次元に折り畳まれている状態を観測することができる。  研究者のあいだでは、虚が空間と物体のどちらを観測しているのかで意見が分かれたが、結論は出なかった。  虚にしてみれば、「それがそのようであるように感じたら、そのようになっていた」としか言いようがない。「観測範囲でベクトルで選別して軸を何本か突き刺した状態で確定して……」と説明しても、実感として理解できるものはいなかった。  とにかく観測界に入った一定以上の速度と質量をもつ物体はすべて折り畳む。  次元の軸を増やされたことで体積は指数関数的に減少し、さらに通常の物質空間では存在できないサイズにまで縮んでしまう。  結果として、銃弾はすべて消滅した。  どこへいったのかは、虚も知らない。ただ量子的な可能性の範囲で、その現実を観測して確定させただけだ。  あくまでも彼女は希望的未来の観測者であって、力をつかって次元圧縮しているわけではない。「一定以上のベクトルを持つ物質が高次元圧縮される現実」を観測し、事実として確定させているだけだ。  体育会系科学を利用するものは、「観測者」や「記録」、「関数収縮技師」と呼ばれる。彼らはあくまでも「結果を観測する」だけなのだ。  奇跡のような現象の結果を。  ビルの両側から放たれる無数の銃弾はことごとく消滅し、虚ら三人は、銃声のやかましさと明滅する光に顔をしかめるだけで進み続けることができた。  反撃はしない。通学支援は、あくまでも「生徒を無事に通学させる」ものだ。  無用な戦闘は、たとえしかけられても避けるのが規則だった。  とはいえ、ここまで必殺の攻撃を連発されるのは、ふつうはありえない。子どもの奪回だけが目的なら、こんな銃殺陣形をとるはずはない。  白虎は住民の本気を肌で感じ、イヤな汗をかいていた。 「あと百メートル!」  角を曲がるたび銃撃は飛んできた。効果がないことは分かっているはずなのに、武器の変更もしない。おそらくアサルトライフルの、それも三点バーストを叩きこんでくる。あまりにも単調で、ほんとうにやる気があるのか疑わしくなってくる。  これは凡人の限界なのか。あるいは、ほかに目的があるのか。  白虎が疑問を感じはじめたそのとき――  左右のビルの屋上から、人影が降ってきた。  その数、数十。 「なんだ?!」  白虎の見上げた上空で、閃光弾が炸裂した。  白虎と虚は目を閉じて顔をそむける。  目を閉じても、松果体を通じて空間把握できるから、問題はない。  はずだったのだが。 「なんだこれ?!」  周囲に、いくつもの人影が把握できた。一瞬にして数十人に囲まれている?  銃火器が通じないとみて、白兵戦に切りかえたのか。だが、白兵戦なら白虎の世界だ。近距離の空間観測を得意とする白虎は、空間そのものを武器として戦える。  まわりの空間に歪みを観測し、強引に希望的観測を実現させていく。  だが、地面にころがり、あるいは立っている人影は、ぴくりとも動かなかった。  虚の背後に立つ、一人をのぞいては。 (恐ろしい力をもってはいるが、しょせんは子どもか)  大佐は、まるで散歩する気安さで、第八の黎明がつくりあげた怪物少女の背後に忍び寄った。  彼は、地下から来た。  虚の背後にあったマンホールが、エレベーターとなっていたのだ。阻止街区には、こういう仕掛けが無数にある。  大佐の腕は流れるように虚の首へまわされ、一呼吸のうちに締め落とした。  体育会系科学の観測者には、いくつか弱点がある。  得意な観測対象のほかには、影響をおよぼせないということだ。  虚なら高速移動する物体。白虎なら、自分の周囲の空間。  そしてなにより、観測界にむらがあること。なにかに気を取られると、そちらの観測が濃くなり、ほかが手薄になる。  つまり、「びっくりさせてからの肉弾戦」が、あんがい効く。  虚を音もなく横たえる。殺してはいない。少女の首は大佐の上腕より細いくらいだ。その気になればどうとでもできたが、第八の黎明には現在、無色虚に匹敵、あるいは凌駕する怪物が育ちつつある。無用な火種を作るべきではないと判断してのことだった。  周囲のビルから部下が散発的な銃撃を続けている。いずれもあさっての方向に弾痕を刻んでいた。殺傷が目的ではない。音で感覚を攪乱するのが目的だ。  先頭の白虎は、まだ背後の異変に気づいていない。  おそらく、周辺に降りそそいだ数十体のマネキンを、敵の集団だと誤認しているのだろう。注意が完全にそちらへ向いている。  大佐は、ナイフを抜いた。紙のように薄いが、ダイヤ焼結刃は、理屈のうえでは「かの一族」を傷つけることができるはずだった。  目のまえで、背を見せて立っている小柄な少年の首筋へ、なんの感慨もなく刃を走らせる。  これでもし倒せれば巨万の富が、などとはいっさい考えない。ただこの一瞬をうまくやることだけに心を研ぎ澄ませて、静かに、慣れた手つきで、焼結ダイヤの刃を頸動脈に――  少年の手がはねあがった。手の甲でナイフをはじいた。  ナイフを持つ手にすさまじい衝撃があった。  大佐は半回転し、数歩よろめいた。流れ弾があたったのかと思った。肩が外れかかっている。それをはめなおし、エレベーターに撤退する。なにをされたか分からない。とにかく逃げる。初撃がしくじればそれで終わりだ。凡人が超人と正面切って戦えるわけがない。大佐は逃げをためらわない。逃げるのは恥でもなければ罪でもない。命を拾うための、必須不可欠の戦術だと考えている。  ただ一瞬ふりむいた視界に、少年の、手の甲に、赤い線が走っているのが見えた。大佐の握るナイフは刃がひん曲がっていたが、血らしきものが、かすかに付着していた。たしかに傷つけることはできたのだ。仕留められずとも、充分だった。  手が届かないわけではない。そのことを再確認し、大佐は血がたぎるのを感じた。  大佐がエレベーターに飛び乗り、床にあるボタンを踏むのと、白虎がふりかえるのはほぼ同時だった。  大佐には、彼に手をあげてあいさつする余裕すらあった。  白虎は空間を構成する因子のずれを観測した。接近戦では防御不能な空間攻撃だが、射程が短い。  マンホールのフタが切断され、鏡のような断面をさらすが、大佐はとっくに地下道だ。どうせ地下はトラップ満載、追えるものではなかった。 「くそっ、あのジジイ! 虚、おい大丈夫か!」  白虎が活をいれると、虚はあっさり目をあけた。 「え? あれ? なに?」  自分の身になにが起こったのかさえ理解していない。あの男がその気なら死んでいただろう。手かげんされたのだ。怒りや恐怖より、まず安心した。ここで虚に死なれては困る。 「防御してくれ!」  それだけいうと、天地のほうに駆けよる。  少年は立ったまま、手の甲についた傷を、無表情に眺めていた。長さは五センチほど、皮一枚の傷だ。 「痛くないか……?」  血のしずくが盛りあがり、ゆっくりと流れだしたとき、天地はあわてはじめた。傷口をすばやく押さえ、左右をうかがう。さらに、じいっ、と空を見る。  敵を警戒している……にしては、妙な動作だった。むしろ、天候をうかがっているような感じだ。 「……?」  白虎が空を見る。雲の流れがやや速いような気もするが、あやしいところはない。 「手当を……」  白虎が手をさしだすと、天地は首を振って手を引いた。そして、傷口をぺろぺろなめた。まるで子犬だ。 「大佐が「あれ」に傷をつけた。我々でも届くぞ!」  夏零が興奮した声をあげた。指揮車の中は、明るさと熱気をおびはじめていた。体育会系科学の観測者、そのうちの一人をあっさり無力化し、かの一族と思われる少年に手傷を負わせたのだ。凡人の集団である彼らにとって、まるで奇跡のような現実だった。  夏零の声はうわずっていた。 「倒せる、倒せるぞ! 六坊のビルを爆破して道をふさげ。やつらを足止めする!」  勝利の予感、栄光の未来を脳裏に描き、夏零は矢継ぎ早に指示を出す。  このとき、夏零は肝心なことを忘れていた。  かの一族の少年が、まだ反撃していないという、きわめて簡単なことに。  天地が、泣きそうな顔で白虎を見た。痛がっているのかと声をかけようとすると――  天地が、背伸びした。つま先で立ち、かかとを浮かせた。 「跳んで!」  虚の悲鳴じみた叫びが響いた。  反射的に跳躍した白虎たちといれかわりに、天地のかかとが、地面を叩いた。  白虎は、そのかかとから、なにか――はっきりとは分からないが、量子レベルの因果律に、揺らぎが広がるのを察知した。まるでドミノ倒しだった。原子のレベルから倒れはじめた因果のドミノは、あっという間に分子、粒子、そして構造物に波及し、分子構造に不可視の揺らぎを与えていった。  次の瞬間、天地を中心に、地面が波うった。水面に石を投げこんだように、アスファルトに高さ50センチの波紋が生じたのだ。  ひび割れ、めくりあげながら、円上に広がっていった。  もし跳躍していなければ、白虎もマンホールの切れ端のように五メートルも上空へはじき飛ばされていただろう。波紋は両断されてさえ数十キロもある鉄板を軽々と宙に舞わせたのだ。  それだけではない。波紋はビルをも持ち上げた。地面ごと隆起し、ビルがひずんだ。基礎が砕け、傾き、壁面に亀裂が走るや、次々と崩壊を始めたのである。  それは地震にも似ていた。たった一度の揺れ、大地の歪みが、かかとの一撃から広がって駆けぬけていく。周囲の建造物は持ち上あがり、傾き、ひずみに耐えきれず砕けていく。  わずか数秒、いや半秒。ジャンプして、着地するまでの一瞬で、周囲は壊滅していた。アスファルトはまくれあがり、裏返り、荒地となっていた。  背の低いビルはことごとく砕けて瓦礫の山となり、ねじくれた鉄筋の骨が突きだしている。  いまごろ落ちてきたマンホールの切れ端が、派手な音をたてる。 「な、な、……」  一変した風景に、白虎は言葉を失っていた。  魔王と呼ばれ、歩く天変地異と呼ばれていた一族だ。  超人的な体術や強力な武器ていどで倒せない、とは聞いていた。体育会系科学でもおよばないと知ってはいた。  だが、これはさすがに想定外だ。  単にかかとを浮かせ、地面を踏みつけただけの一撃が、町並を一変させた。 「体育会系科学、分子派、バタフライ効果力学だよ……」  虚が、呆然とつぶやいた。  バタフライ効果力学。  体育会系科学の、もう一つの「解」。  地球の裏側で蝶が羽ばたく。その気流の乱れがさまざまな因子と絡み合い、地球のこちらで嵐となる――世界の物理法則の不可思議さをあらわしたカオス理論のたとえ話だ。  その最初の羽ばたきを、意図的に起こせたら、どうなるか。  どこで羽ばたけば、どこで嵐が起こるのかを知ることができたら。  どこを蹴れば、地震を引き起こすのかを知ることができたら。  蹴った地点の分子を叩き、その分子は隣の分子を叩く。ここまでは普通と同じだが、彼らの血は、その次がある。すなわち、分子振動に上手く同調させることにより、分子衝突の連鎖を巨大な一つのエネルギーとしてまとめ上げ、表出させることができるのだ。  与えたエネルギー以上が放出されるように見えるが、そうではない。  かかとは、あくまでも、ドミノ倒しの最初の一押しにすぎない。  各分子に内在され、ランダムに放出されつづけるエネルギーに方向性を与え、同じ方向に振動させるだけだ。ビリヤードの連鎖とドミノ倒しを同時に行うようなものだった。  虚の話によると、かの一族は、周囲の分子の流れを常に把握し、どこに力を撃ちこめば、その場に壊滅的破壊をもたらことができるのか、常に把握している――らしい。 「うちの研究者は、「破壊の歩み」って言ってたけど……」  説明を受けながらの前進は、もう誰にも阻まれることはなかった。 「各組織は、一族との戦闘データを解析していて、一族の力もあるていどまでは判明してるんだけど、ぜったいに外には漏らさない。一族の研究は、どこでも最高機密だから」 「俺に話してもいいのかよ」 「聞きたくないなら黙ってるけど……この先のこともあるし、話しておいたほうがいいと思う」  アスファルトがべらべらに剥がれて、耕されたようになって歩きにくい。建物も崩壊したり、かしいだりしている。襲撃側も大打撃を受けただろう。人が移動する気配はあるが、遠ざかるものばかりで、反撃の兆候はない。 「バタフライ効果力学は、原因を観測するタイプ。観測するのは、解にいたる最初の蝶のはばたき。体育会系科学の一種だけど、結果を確定する観測型とは逆のアプローチ。原因を確定するタイプで……」  天地の手には、止血テープを貼ってやった。いま、どことなくしょんぼりとしている。怪我をしたせいというより、町をぶっ壊したことで落ちこんでいるようだった。 「原因に必要な力を加えて、予測された結果をもたらすわけ。バタフライ効果力学じたいはほかにも使える人がいるけど、そのやり方がすごく上手いのが森羅一族」 「うまいとかいうレベルじゃないぞ……」  足を踏み下ろすだけで、街区を壊滅させる爆弾になるとは。  なるほど、町が一つできるだけのことはある。そして百五十万の刺客に囲まれても平然と町の中心に住み続けるだけのことはある。  ただの人間では、まず殺せないだろう。天地が血をみて動揺したのも、彼らを傷つけることなんて、ふつうは無理だからだろう。だから怪我をして驚いた…… 「でも、彼らが本当に恐いのは、バタフライ効果力学のほうじゃなくて……」  そこまで言った虚が、ぴたりと止まった。  彼女の視線が止まっている方向を見て――白虎は飛び上がった。 「うわっ?! なんでだよ?!」  天地の腕を引いて、瓦礫に隠す。  それから道路に立ったまま凍りついていた虚の、手、いや直接接触はアレなので、カバンのベルトをつかんで隠れさせた。 「うひょっひゃ〜、これはスゴイ、スゴイですよ久津城くん!」  両手を飛行機の翼のように広げて走っていた少女は、新品のスカートをひるがえし、急旋回した。 「20世紀クレーターほどではないにしても、南地区十条八坊、『鉛同盟』の幽霊街区くらいには逝っちゃったですか、これは?」  虚とおなじ女子の制服だが、カバンも持っていない。小柄で、両手を広げて走りまわる姿は、高校生には見えない。  髪は短めで、小学生といっても通りそうな童顔だったが、彼女を見たら、たいていの人間はぎょっとするだろう。  少女の右目には、黒いアイパッチがかかっていたのだ。キラキラ光るスパンコールでウィンクした目を描いたアイパッチ。 「すっごい光景感想いかがですかー久津城くん!」  エアマイクを持った手(つまり素手)を、かたわらの少年につきつける。  長身の少年は、鋭い目をしていた。刃物のような、というよりは、もっと獰猛な目つき。彼を知る者は、こう表現する――鮫の目つきだと。  かれの制服は改造制服で、あえて分類するなら長ランというものになるだろう。  かといって、往年の番長とはまるで違う。。  神父。  一番近い印象は、それだった。  百九十ちかい細身の長身を、神父じみた改造制服で包んでいる。  細面の顔はそれなりに整っていたが、薄い唇と、鮫の目のおかげで、大の大人でも五秒と目を合わせていられない凄みが漂っていた。 「久津城くーん?」  少女の底抜けに明るい声に、神父じみた少年は答えない。 「こーたーえーろー」  少女は背伸びして、手をめいっぱい伸ばして、久津城と呼んだ少年の頬を指でぐりぐりした。  少年を知る者が見れば、少女のあまりの無謀さに血の気が引いたことだろう。  彼こそは、第八の黎明と、その協力組織が作り上げた終末兵器、「虚実の門」無色虚の後継者にして、おそらくは彼の一族を倒しうるであろう超人中の超人。  この森羅市には、ほかにはない三種類の警報がある。  一つ目は、森羅警報。台風と同等のあつかいで、進路をつねに市内の情報ネットに流すことになっている。  二つ目が、集団戦闘警報。街区間での戦闘をしらせ、流れ弾に注意をうながす。  そして三つ目が、11+3s警報。この町で作られた、超人の中の超人が戦闘もしくは破壊活動しているときに流される警報だ。  久津城がもし本気で動けば、この三つ目の警報が流される。まず止められない。住人は、森羅警報とおなじように避難することしかできない。  11+3sの一人。第八の忌まれし者、久津城太慈。  さらにこの久津城、気が短いことでも有名だ。彼に対する回答に、五秒以上かかれば命がないといわれている。  その選び抜かれた超人の頬を、人さし指でぐりぐりする……命知らずにもほどがあった。 「おーい、ぎゃああああですか?!」  久津城は黙って歩き、少女のつま先を踏んでにじった。 「な、なにするですか?!」  片目涙目の少女に、久津城は鮫の目線を降りそそがせた。 「黙れ霞宮(かすみや)。背丈を半分にしてやろうか」 「ああっひどいですそれは! システムがオプションにいう言葉ですか」 「おまえがいなくても、代わりはいる」  それだけ言い捨てると、久津城は、破壊された街区へと踏みこんでいった。 「殺す。絶対に殺す……」  その頬には獰猛な笑みが刻まれ、その背にはどれほど楽天的な人間でも、話しかけるのをためらわせる鬼気が漂っていた。  のだが、霞宮はあまり気にせず、足を踏まれた涙目のまま言った。 「はーいちゃっちゃーと片づけて、そんでもってラスボス一族もついでにブッ飛ばして、我らsystem8.81がラスボスになりかわっちゃいますか!」  両手を翼のように広げ、クルクル回る霞宮を無視し、久津城はつぶやいた。 「平井白虎……貴様だけは!」 「ちょっとちょっと、我らが目標はあっちのラスボス一家のガキらしき子ですが! スンゴイ勢いで私情に走ってる久津城くんの未来はどっちですか!」 「う……」  夏零は、意識をとりもどした。 『……か、聞こえるか、本部! 撤退しろ、これは命令だ、コードマイナス、全面退却だ、こちら大佐、命令が届いた者は、手近な負傷者を回収し撤退、予定場所に集合せよ……』  通信機からは緊急時の非暗号通信が垂れ流されている。どうやら大佐は生きているらしい。額の血をぬぐいながら、体を起こす。部下たちもうめきながら、起きあがろうとしていた。 「なんだ……いまのは」  指揮車が、ガツンと突き上げられ、あとは記憶が飛んでいる。  どうやら車は横倒しになっているようだった。四十五トンもある装甲トレーラーが横転するとは…… 「こちら指揮車。釘切専務です。大佐、ご無事でしたか」 『ああ、釘切君は生きていたか。こちらはいま地下道を移動中だ。あやうく生き埋めになるところだった』 「我々は攻撃されたのですか」 『そうだ。ただし、本気かどうかは微妙だがね。コードマイナスだ。すぐ退却して再集結。移動中の戦闘は許可しない』 「了解」  衝撃でゆがんだドアを蹴りあけ、外に出た夏零は、崩壊した町並に呆然とした。  指揮車のまわりには、部下たちが集まってきている。 「なにがあったのです、専務」 「わからない。だが、コードマイナスだ。退却して再集結。動ける者は負傷者を回収し――」  指示を出そうとした瞬間、離れたところにいた部下が、いきなりへたりこんだ。  夏零になにかを伝えようとするのだが、頭が下がっていく。体が動かないらしかった。  どうした、と言う前に、倒れた部下たちのむこうから、低い声が届いた。 「何も言うな虫ケラども」  百九十に近い長身。鮫の目つきに、薄い唇。  神父のようなファッションだが、どうやら改造制服らしい。  回覧板に、『この顔に、ぴんときたら逃げましょう』と書かれているうちの一人。  彼が近づいてくると、部下たちは次々とへたりこんだ。  部下がなにかをされている。そのことに夏零は激高し、拳銃をぬいて相手に突きつけ、さけんだ。 「久津城! おまえの所属は「第八の黎明」だろう! 我らNSGCと非戦協定を結んでいるはずだ。これはどういうことだ?! 事情によっては上に報告させて――」  怒りの抗議を、久津城は一言で断ち切った。 「ひれ伏せ」  あまりにも唐突な言葉だった。会話になっていない。  夏零は、怒りよりも薄気味悪さにとらわれた。 (なにを言ってるんだ……?)  放電銃をかまえて久津城に向かっていた隊員が、夏零を見た。指示を求めている。  特殊な力があろうとも、不意打ちで倒してしまえば問題ない。  どれほどに個々の力がまさろうと、一人の超人は集団に屈する。NSGCはその信念のもと、対超人戦術を練ってきた。さっきはいいところまでいった。最後に不覚をとったが、つぎはより洗練された戦術を使い、いつかはラスボスに手が届くだろう。  今回もそうだ。無防備な思い上がった超人を、不意打ちで倒すのは、NSGCの美学なのだ。  夏零は二度まばたきした。  隊員は脇をしめ、放電銃を久津城に向け、そして――  すとん、と、体を沈めた。放電銃は地面にむけられ、動かない。隊員は、さらに頭を下げていく。  おそらくなにかをされたのだ。普通の人間では察知できないやりかたで。 「俺はただ、歩くだけだ」  久津城は、はるか前方に目をすえたまま、つぶやいた。NSGCなど、視線をくれてやる手間もないのだった。  久津城が一歩、踏み出す。  隊員たちは動揺し、後退した。ただし、久津城の背後にいた者だけ。  前方にいたものは、次々とひざまずき、うつむいてしまう。LOSTサインが出ないから、生きていることだけは確かだ。  久津城は、しずかに歩を進める。 「それだけで、この世のすべては頭を垂れる」  傲慢きわまる言葉だった。  だがそれは事実だった。  久津城が近づけば、NSGCの隊員たちは、ことごとくが膝をついた。例外はない。だれ一人としてあらがえぬまま。戦うどころではない。逃げることさえできない。ただただひざまずき、神に対峙したかのように頭をたれた。  なにが起こっているのか?  なにをされているのか?  現実が夏零の理解を超えていた。  なにひとつ把握できないまま、夏零は銃を構えた。その機械のもたらす暴力が、彼女の最後のよりどころだった。久津城の背に照準する。  ここはラスボス城下町だ。ラスボス一族を倒すべく、腕に、武器に覚えのある者がつどう町。  永きにわたる世界中からの挑戦もむなしく、まだラスボスは健在である。  いっこうにらちがあかない現実を打破すべく、複数の組織が協力し、ある計画を始めた。  それはさまざまに名を変えながら数百年にわたって継続された。  プロジェクト11+3s。  いまではそう呼ばれる計画群は、ついにこの町でもっともラスボス一族に近いと言われる存在を生み出すことに成功した。  隊員たちをひれ伏させるこの少年は、そのうちの一人。  久津城太慈。  夏零の銃が火を噴いた。意図したものではなかった。緊張によって硬直した筋肉が、痙攣的に引鉄をひいたのだ。  曳光弾の混じった弾列は、久津城の背に迫り――  急角度で地面に落ちた。  彼には誰も近づけない。弾丸すらも地に這わす。  振り向きもせず。  工夫すれば届く? 冗談ではない。この背は、人間がとどくものではない。その事実を思い知らされ、夏零は、膝をついた。なにをされるまでもない。心を折られて屈したのだ。  両脇を、久津城の従者たちが歩いていく。夏零は、動けなかった。よりどころである銃を、あそこまであっさり無効化されて、立つ気力も失っていた。  できるのは、ただ呆然と、つぶやくことだけだ。 「プロジェクト11+3sの申し子、第八の忌まれしもの、system8.81久津城……!」  賞賛も感嘆もなかった。その圧倒的存在には、恐怖さえふさわしくなかった。人知によって生み出され、人知を超えた存在には、人間ごときの感情など寄せつけない。  超人に、虚飾の修辞は必要ない。  彼らは事実で世界を打ちのめす。 「冗談じゃねー!」  かなり離れた廃墟の陰で、白虎は青ざめていた。 「なんであいつらがここに来るんだ! 第八の黎明は十五条十三坊、南地区の外周部だろ。ここまで五キロくらいあるのに……何しに来たんだ!」  しかも、他の組織の街区に踏みこんできている。  ふつう、街区ごとに統治組織が違うため、他の街区の人間が入ってくることはまずない。ましてや久津城は超有名人だ。どこの街区であれ、すんなり入れるわけがなかった。もし通行許可を出しても、案内という名の監視役がつくはずだ。 「しかもオプションは霞宮かよ……」  背後の虚の気配が恐い。霞宮は虚の古い友人だ。ちょっとまえ、第八の黎明といざこざがあったとき、白虎は霞宮に大怪我をさせてしまった。右目のアイパッチがそのあとだ。  虚がまともに戦えなくなったのは、そのとき以来だ。白虎と虚のあいだがらは複雑で、虚と久津城・霞宮の関係も複雑なのだ。 「とにかく見つからないように移動して、なんとか隣の区画にまぎれこもう」  白虎が言ったとき、携帯電話が鳴った。  虚と白虎があわてて自分のを見るが、どちらも鳴ってない。  天地は自分のポケットを不思議そうにながめていた。呼び出し音はそこからだ。 「とるぞ」  いちおう断った。また足踏みされたらどうしよう、と、おっかなびっくり天地のポケットに手をいれる。天地は目でおうだけで、じっとしていた。携帯を引っぱりだす。  発信元を見ると――真木坂。森羅執事。 「あのジジイ、こんなときに! ほら、執事の人から電話だ」  白虎がさしだしても、天地は首をかしげるだけだ。 「もしかして、電話を知らない?」  きいてみると、うなづいた。とんだ箱入り息子だ。  しょうがないので白虎が出る。 「こちら通学支援、平井白虎です。なにか御用ですか」 『おお、ご無事でしたか』  遠くに目をやると、久津城・霞宮コンビは、こちらに向かってくるようだった。 「あんまり無事でもないですね。面倒なやつと遭遇してますから」 『ははぁ、久津城氏でございますな。そして先ほどの局地地震はまさしく森羅一族のもの。バタフライ効果力学の震い踏みでございましょう。高台からようく見え……』 「いいから何の用なんだよ!」 『足下にマンホールがございますでしょう』 「ある」 『そこは地下通路の入り口にございます。まっすぐ南に進めば横幹に出られますぞ』  虚がまず持ち上げようとしたが、ビクともしない。白虎も加勢したが、浮きもしなかった。  白虎は虚に動画撮影を頼むと、マンホールを指さして言った。 「通学支援、平井白虎、森羅市特例にもとづき、通学支援の必要ありとしてこのマンホールを破壊します。久津城たちをうつして」  虚は、瓦礫のはしから携帯をちらっと出して、久津城らの姿をうつした。 「追跡者を回避するための緊急避難措置です、以上」  白虎は、空間を観測した。歪みがある状態を連続的に観測し、ゆらぎの幅のゆるすかぎり望みの結果を観測しつづける。  空間を構成する最小因子にズレが生じ、そのズレに物質が耐えきれず切断される。マンホールのフタはいくつもの金属片となって落ちこんでいった。中には、U字型の鉄骨がはしごのようにならんでいて、底は乾いた通路のようだった。  まず白虎が飛びこみ、天地を虚が押しこむ。  中は真っ暗だったが、携帯の画面を照明がわりに、なんとか進むことができた。あちこちに新しい亀裂が走っている。天地の足踏みは地下にまで打撃をあたえているらしい。  やがてつきあたりになった。壁に、U字金具のはしごが埋め込まれている。  ここでまた空間観測の出番だ。いちばん上の手すりと、天井のマンホールのあいだにある空間の、今度は密度を観測。強引に距離を作りだし、マンホールを上に跳ねあげた。  鏡面になってる携帯のカバーで周囲をみる。もし車道の真ん中で、顔を出したとたん車にひかれたら困るし、敵に囲まれていても困る。  どちらでもなく、歩道の真ん中だった。しかも、ヨコカン国道の歩道だ。  三人が外に出ると、遠くの交差点を、装甲車が横滑りしながら走ってくるのが見えた。NSGCのロゴがついている。運転しているのは、白虎の知らない女性だった。 「うわっ、国道でフリーバトルする気か! 走れ!」  国道を横切り、南側の歩道に入る。こちらがわの街区、「6140部隊駐屯地」は高い壁に囲まれており、四百メートル四方の街区に入り口は六つしかない。  しかも、どれも物々しいゲートだ。戦車の突撃を阻止できる、要塞みたいなやつだった。  すぐ近くの入り口まで走ると、受付の防弾ガラス越しに、白虎は通学支援の証明書である携帯を示した。 「通学支援、平井白虎だ! この地区を通過させてほしい」  同時に電子文書を発信。受付の、軍服姿の黒人は、卓上のディスプレイを見ていたが、やがてうなづくと、キーボードを叩いた。  受付横の通用口が開いた。  飛びこみ、厚さ二十センチもあるドアを閉める。  NSGCも、さすがにここまでは攻めてこない。それをやると街区間の戦争になってしまう。  コンクリートの曲がりくねった道には、鋼鉄製のシャッターがあり、さらに出口にはまた分厚いドアがあった。  その向こうは、広大な広場だ。朝の訓練をする、千人近い兵士の姿があった。人種もさまざまで、号令に合わせて規律正しく行動するすがたは、ある種のマスゲーム的な美しさがあった。 「ようこそ、通学支援。わたしは当駐屯地の、当面の最高責任者です」  出口の近くには、部下(軍服で銃を持っている)二人を背後につれた、背広姿の白人がいて、白虎に握手を求めてきた。  とりあえず握手しようとする。手はサビで汚れていた。白人はアメリカンスマイルを浮かべると、ハンカチを白虎にさしだしてきた。 「ずいぶんとお忙しいようだ。地区を通過するまで、わたしがご案内いたしましょう」  この6140部隊駐屯地には、子どもはいない。十八歳以上の、本国で優秀な成績をおさめた兵士だけが住んでいるという。もし子どもが生まれても本国に送られ、この国の教育を受けることはない。通学させるべき子どもがいないのだ。  だから通学支援の白虎は、この地区に足を踏み入れたことがなかった。  広い街区はきれいに整地され、まばらに建物がある。カマボコ型の格納庫や、盛り土に囲まれた弾薬庫。滑走路はないが、広いヘリポートがあった。  まさに正規軍の軍事基地だ。阻止街区を構築し、森羅一族を街区に引き込んでのゲリラ戦をめざしていたNSGCの街区とはまるで違う。ここは装備をととのえ、部隊を編成し、攻めこんでいくための前線基地なのだ。  森羅一族を倒すための。  噂では、垂直離着陸機を呼び寄せるか、あるいはここから十キロほどのところにある海に空母を回すかして、森羅邸を空爆することを検討しているらしいと聞くが、基地内をみるかぎり、その手の航空機は見あたらない。話は進んでいないようだった。  昔、森羅邸に地対地ロケット弾を撃ちこんでみた街区があった。  現在、「『鉛同盟』の幽霊街区」と呼ばれる廃墟となっている。森羅への長距離砲爆撃は効果がないどころか、猛烈な反撃をまねくのだ。  ちなみにそのとき、森羅邸はなんの被害もなかったらしい。ロケット弾はなぜかすべて空中で炸裂し、周囲の街区に破片が降りそそいだという。 「北に住む野蛮人どもに追い回されていたそうで、心中お察しいたしますよ」  背広姿の男は、白虎らの前を歩きながら、流暢な日本語で言った。  非正規・ゲリラ戦を得意とする傭兵部隊のNSGCと、どっかの国の正規軍のエリート部隊である6140部隊駐屯地は、犬猿の仲なのだ。市外、外国のどこかの国でもやり合ったことがあるらしい。 「この地区にも、たまに通学支援の方がいらっしゃるのです。子どもを強奪するという忌まわしい依頼を受けた北のごろつきどもに追われてね。もちろん保護し、安全なヨコカン三条にお送りしてさし上げています。平井通学支援も、なにかあったらご連絡ください。我々は装備練度ともにあの連中をはるかに凌駕しておりますので、引けをとることなどありえません」  白人男性は、自信満々に広場をしめした。  百メートル四方ほどの中で、千人がいっせいに腕立てしている姿は、なんとも言えないコミカルなものだった。  白虎たちは、その広場のはしを歩いていく。戦闘に背広の白人、白虎、天地、虚、そして後ろに銃を持った軍服の二人。 「ヘリポート、ああ、いま教練を行っている場ですが、その真ん中をつっきれば多少は早くなるのです。ですが我々にも都合というものがございまして。多少回り道になりますが、ご容赦願いたい」 「いえいえ、おれは気にしませんから」  白虎には、もっと他のことが気になっていた。NSGCが6140部隊に情報を渡すわけはないが、もし6140部隊が通信傍受していたら。資金は潤沢だし、本国のバックアップも受けられるのだ。NSGCの暗号通信を解読していても不思議ではない。  もし彼らに情報が行き渡っていて、襲いかかられたら……白虎はおもわず身を堅くした。  さらに、天地がまた「足踏み」でもしようものなら……  ふと気になって、白虎はきいた。 「そういえば、さっき、揺れませんでしたか?」 「いいえ。隣の街区で大きな爆音がしましたが、揺れのようなものは」  天地の「足踏み」は、効果範囲を制限できるようだ。どういう原理なのか、よくわからないが。  いっぽう、6140部隊駐屯地を囲む壁の外側、第二縦貫三坊を歩く二人組があった。久津城と、霞宮だ。 「どーします久津城くん」  霞宮は両手を広げ、壊れた時計のようにくるくる回っていた。 「測距します? きっと効果範囲内!」 「しなくていい」  どうせ彼らは南に進むしかない。学校に行くというのなら、南へ抜けるしかない。東地区は道が細かすぎて突破に時間がかかるし、西地区は南地区以上に攻めがきびしい。移動するなら、公道か、あるいは南地区を縫っていくと読んでいた。  その読みどおりなら、南下していれば、どこかでまた『次の情報』がきて、白虎らを捕捉できるはずだった。  久津城は銃火器のすべてを凌駕したいまでさえ、虚に勝てると思っていない。  基本的に、空間派の殺傷能力は桁違いだ。ありとあらゆる防御を超絶し、対象を確実に破壊できる。能力射程から逃れるしか、助かるすべはない。  ラスボス一族にもっとも近いのは空間派、というのが、この町の通説だ。  その空間派の中でも、虚は特別だった。  空間派は、攻撃か防御、どちらかにかたよる。空間制御が難しく、攻守を両立させにくいからだ。とくに白虎のようなタイプは、一点への破壊力はすさまじいが、広範囲の防御は、ないに等しい。多数の銃器で同時狙撃すれば、それだけで倒せる。  しかし虚の力、コードネーム「虚実の門」は、「力の向きを切り替える」だけで防御と攻撃ができる。かなり強力な防御と、絶対的な攻撃力を両立させているのだ。  この町の空間派では、おそらくトップクラスの素質だろう。  その気になれば、ラスボス一族でも倒しうるはずだ。  第八の黎明はそう信じていたし、プロジェクト11+3Sも、そう考えていた。  なのに……  うしろ姿でも、すぐわかる。その、外ハネの多い髪を見ていると、久津城はいつもイライラしてくる。  いったい、なにをしているのか。  弱っちい連中を守る「通学支援」だと。才能の無駄遣いもいいところだ。たかが護衛に、「虚実の門」は、強力すぎる。  虚はもっと、自分を活かせる場所にいるべきだ。  それだけではない。虚は、ここ数年の学生ごっこで、戦闘も訓練もしていない。虚の力は錆びつきいているだろう。  すくなくとも、先の戦闘跡を見るかぎり、力の成長が止まっているように思われた。  久津城の目には、最初は憧れに引かれ、いまは怒りと憎しみに押されて追いかけてきた虚の背中が、思ったより近くに思えた。 「あのーもしもーし、たぶん確実に虚ちゃんのことを考えてるですか?」 「よし、このまま横幹三条に抜けて連中を迎え撃つ」 「ごまかした! なにかをごまかした!」  背広の白人男性は、格納庫のまえを通り、弾薬庫の盛り土わきを抜けて、何の障害もなく、南側のゲートまでやってきた。 「ここを出れば、横幹三条、南五坊のあたりです。向かい側は「剣の使徒」の街区で、あまりオススメは……おっと、平井通学支援には釈迦に説法ですか。では、わたしはこれで。御武運を」  白虎は、大きなため息をついた。 「案内ありがとうございます。ところで、おれたちが通学支援なのはご存じですよね」  通学支援への過度な攻撃は、市の条例により、街区へのインフラ停止というペナルティを受けることがある。  電気ガス上下水道の停止、さらに街区住人のクレジットカードの停止、街区の出入り口周辺への対戦車地雷などの敷設というかなり過激なものである。  男性は、芝居がかった笑顔でこたえた。 「もし成功すれば、ペナルティなど意味をなしません。我々が頂点となるのですから」  白虎はがっくりとため息をついた。 「やっぱなあ! 情報だだ漏れだ! 虚! ゲートをブチ抜け! あんたらも死にたくなかったら逃げてくれ!」  言われるまでもなく、男性は護衛の二人とともに全速力で逃げていた。 「まわりに人いない? あと、記録は?」 「いない! 記録はいい、攻撃に対する反撃だから! 横幹三条の向かい側は「剣の使徒」だ! 流れ弾くらいでどうこうなる連中じゃない! 安心して――」  教練場にはいつのまにか人影はなく、カマボコ型の格納庫からは戦車が顔を出している。一台、二台、三台……五台目が出てきて、さらに増えそうだ。  しかも、兵員輸送装甲車と随伴歩兵まで出てくる。腕立てしていた千人が、ほんの数分で準備を整えて出てきたのだ。なるほど練度は高そうだった。 「はやく! 白兵戦しかけられたら、また面倒なことになる!」  白虎は空間を観測し、斥力場で、自分、虚、天地をガードする。天地の頭をかかえこみ、自分の耳もふさいだ。虚もヘッドホン型の耳栓をする。  斥力場は、ゲートにむけて展開されていた。  戦車の迫る側には、必要ないからだ。  虚は、右手でゲートを指さした。  戦車の砲撃と虚の攻撃は、ほとんど同時だった。  戦車砲弾は、虚の観測界に入った瞬間、高次元圧縮されて消滅した。  それらを観測し、圧縮された状態に観測しつつ、虚は、これまで圧縮してきた砲弾のいくつかを、ベクトルもろとも低次元展開した。  虚空に突如として出現した二発の203ミリ榴弾が、強化ベトンと鉄塊のゲートを超音速で直撃。  巨大なゲートを一撃でくの字に曲げ、二発目でへし折って車道に叩きだした。  合計100トンもあるゲートは、強化ベトンを飛び散らせ、歩道のガードレールをぺしゃんこにしてまだ滑り、四車線のうち、二車線をふさいでしまった。対向車線にも、一抱えもある破片がいくつも転がっていく。  203ミリ砲弾の威力はすさまじかった。白虎の観測した斥力場の内と外で、一センチほどの段差ができていた。衝撃と爆風が整地した地面を削っていったのだ。  無色虚、識別コード「虚実の門」。  銃砲撃のすべてを防御するのみならず、そのすべてを攻撃に使える。その防御力と攻撃力は、ほとんど反則の域だった。  その気になれば火力を際限なく増大させられることから、森羅一族にたいする有効な戦力だと期待されていたのだが…… 「いろいろあってやる気なくした(本人談)」  のだそうだ。詳しい話はしてくれない。きっと、話せないようなことが、いろいろあったんだろう、と、白虎は触れないようにしていた。  完全武装の歩兵たちは、立ちすくんでいた。戦車も動きを止めている。  無理もない。少女が指さすだけで、100トンもあるゲートが吹っ飛んだのだ。  かれらもこの町の住人、体育会系科学のことはよく知っている。その、凡人からすれば奇跡を超えた暴威についても。  そして、目の前の、外ハネのおおい髪をした、大きなカンバス地のカバンを袈裟がけにかけている、華奢で手足が折れそうに細い少女が、その暴威の具現者であることも理解したはずだ。  虚がふりかえる。人も戦車も、飛びあがった。部隊指揮官らしい人間の号令で、かろうじて踏みとどまっているあたりに練度と忠誠心を感じた。だが前進してくる者はほどんどいない。いても上官と虚への恐怖を天秤にかけながらのおっかなびっくりだ。  勇敢さより恐怖にかられての散発的な狙撃があったが、対する虚の反応は―― 「嫌われちゃった」  高速飛翔体の圧縮を観測しながら、寂しそうに肩を落とすだけだった。気持ちは分かるがそれどころではないだろと白虎は思ったが、黙っておいた。  天地をつれて、6140部隊駐屯地を出る。外は四車線の公道、南横幹三条だ。 「このまま入る街区ごとに戦闘してたら身が持たないな」 「この町でこの子を連れて歩くのは、最初から無理な話だと思ってたけど……」 「顔が知られていないから行けるかと思ったんだがなあ……」  ぼやきながら道路を横切る。次の街区も壁に囲まれているが、こちらは石組みで、中世の城壁のようだった。  剣の使徒の支配街区だ。  遠くに見える入り口も、石のアーチと鉄格子の、雰囲気あるものだった。  と、兵員装甲車が駐屯地から飛びだしてきた。兵士がばらばらと降りてきて、白虎らを扇型に囲んだ。  兵員装甲車に乗っていて、虚の砲撃をじかに見ていなかった連中だろう。おびえもなく銃を向けてくる。 「フリーズ!」 「ああもう! あんたたちじゃかなわないんだから、おとなしくしていてくれよ!」  さけびながら、白虎は身構えた。  と、その袖を、虚が引っぱった。 「あのさー」 「なんだよ?!」 「あの、あれ」  横幹のほうを指さす。白虎らと、6140部隊以外には、車も人通りも……否。  白虎は顔を引きつらせた。 「なんであいつがここにいるんだよ!」  その叫びを合図に、6140部隊の兵士が引鉄を引く。  だが、不発だった。  それどころか、銃が動かない。  理由は、白虎にはわかっていた。 「はやく逃げろ!」  武装集団にむかって叫んだが、言葉が通じないらしい。白虎は虚に叫んだ。 「威嚇射撃で追いはらってくれ!」 「やだ」 「なんでだよ! 俺に対してなにか怒ってるのか?!」 「そうじゃなくて、そんな細かいことできない。人に当たったらやだし」  一理はあるが、努力はしてくれてもいいだろうと白虎は思った。たとえば、むかいの駐屯地の高い壁に銃弾を撃ちこんでみるとか。  だが白虎の努力もむなしく、脅威の主が、6140部隊の背後に立った。  彼らは振り返ろうとして、……できない。銃が空中に張り付いたようになっていて、ビクともしないのだ。手を離しても落ちなかった。拳銃も、ホルスターから引き抜けない。 「やめろお嬢、おれたちはそんなに困っていない!」  白虎は、せっぱ詰まって叫んだ。このままでは大惨事になりかねない。体育会系科学の観測者たちは、観測行為に躊躇しないのだ。  叫びに、脅威の主、背の高い少女が、おっとりとした声で答えた。 「あら。白虎さんに血をお見せする気はございませんので、ご安心を」  穏やかなセリフの直後に、凶悪な金属音が地を這った。  鎖だった。ドーナツほどの輪を連ねた、巨大な鎖だった。いつの間にか少女の足下から鎖が四方にのび、それが時計の針のように地面を薙いだのだ。  足を払われ、鎌に刈られる青草の軽さで男たちは転がった。  転倒しながら、幾人かが少女に銃を撃った。人間相手なら射殺できただろう。  白虎は惨劇を覚悟した。少女の、ではない。  少女のもたらす惨劇だ。  だが、白虎に血を見せないという宣言は本気だったらしい。  鎖が風を白く切りながら起きあがり、おそろしい速度でのたうった。銃弾は鎖にことごとく阻まれ火花を散らし、はたき落とされる。  そして鉄鎖は、少女の長いスカートの中へ吸いこまれた。すくなくともそう見えた。とうていスカートにおさまる量ではなかったのだが。  呆然と地面に転がっている男たちを見渡し、背の高い少女は、にっこりと笑った。 「すこし、下がっていただけません? みなさま、お邪魔なので……」  この期におよんで踏みとどまるものはいなかった。銃器を捨てて、駐屯地へ逃げこんでいった。  白虎は、安堵に肩を落とした。死人が出なかったからだ。  鎖を舞わせ、弾丸を派手に叩き落としたのは、べつにそれが防御手段だからではない。できるだけ派手に見せかけて、相手の戦意を殺ぐためだ。鎖で打ちのめし、退却させたのは、むしろ優しさだった。  この少女が本気になれば、襲撃者は、まばたきより早く殲滅されただろう。  少女は背が高い。白虎や虚とおなじ学校の制服だが、スカートは膝下まで伸び、編み上げ靴がのぞいている。  彼女には独特の上品な雰囲気があった。すらりと背の高いモデルのような体型や、櫛を通された艶やかに長い髪。落ち着いて洗練された仕草。端麗な顔に、わずかに浮かぶ笑み……すべてが完璧に組み合わさって、制服すら特注の服と錯覚してしまうような、特別な存在感を醸していた。  明鏡院遊南(めいきょういんゆな)という名前より、「お嬢」というアダ名がしっくりくる。  彼女は、じつに品良く、親しげに頭を下げた。  白虎も虚も、天地さえも、つられてお辞儀した。 「みなさま、おはようございます。すこし涼しゅうございますけれども、ほんとうに、よい朝ですわね。このような心地よい空ならば、今日はきっと良い日になるでしょう」  いうことも、浮世離れしていた。  虚は、静かに後退していた。観測そのものを現象と化す体育会系科学にとって、距離は最悪の障壁だ。距離さえあれば観測精度は落ちる。観測界とよばれる、半数因子観測制御界を出てしまえば、生存率は飛躍的に高まる。  体育会系科学の観測者どうしの戦いは、まず距離をおくことから始まるのだ。  その虚から、短く区切った二回連続の口笛。すぐに下がれの合図。だが白虎は動けないでいた。  もし相手が本気なら、とっくに終わってるからだ。  お嬢は、この町の有名人だ。  かの一族を殺すため、複数の組織が協力して作り上げた最終兵器。  プロジェクト11+3S  第六の鋳造者、Object:6.00、明鏡院遊南。  体育会系科学の一、原子派、重金属分式の観測者。重金属の観測と関数収縮に特性を示す。  その戦闘能力は別格、いや、もはや異質だ。  殺意を持って彼女と対峙し、生き延びられる人間は、おそらくいない。  理論上、人間ではお嬢に勝てないと言われている。  銃火器の弾もナイフも重金属だ。これらもすべて観測界に入ったが最後、彼女の望むままに関数を収縮させられ、意のままに操られるだろう。  さらに人は体内に金属をもつ。これらが致命的状態であることを観測されてしまえば、即死させられてしまう。  虚にちょっかいをかける人間ならいないでもないが、お嬢と知って手出しするものは、絶対にいない。  かの一族を倒しうる二十名に順位をつけたなら、虚より上位にくるだろう。  その脅威の存在が、もし、天地を狙ってきたのなら…… 「お嬢。おれは通学支援として、この子を学校まで送り届けなきゃならない。邪魔をしないでくれ」  お嬢は、人さし指を頬にあてた。 「あら心外……邪魔なんていたしませんわよ。とくに、白虎さんの邪魔は。恩知らずとそしられるのは性に合いませんもの」  過去にちょっとしたことがあって、お嬢と白虎の中は悪くはない。とくにお嬢は、白虎を妙に意識しているフシがあった。 「お嬢の家は西地区だろ。南地区に用はないはずだ。どうしてここにいるんだ」  西地区は、研究機関が多くある。  森羅市の広報ビデオに出てくる、ビルの立ち並ぶ近代的な町並みは、この西地区のものだ。森羅の力と、それに対抗する力を研究する――と称して、兵器開発や、市外ではできない違法な研究が行われている。研究の成果は市外に「輸出」されることもあるという。  そして西地区と南地区は、伝統的に仲が悪い。知性を重んじる研究の西地区に対し、実行を重んじる戦闘の南地区では、そりがあわないのだ。  西地区最大の成果のひとつであり、いまだ成長途上の決闘者は、静かにほほえんだ。 「この町に、君臨なさるけれども支配なさらない、かの一族の子息がいらっしゃるのでしょう? この町に住むなら一度はご尊顔を拝したいと望むものですわよ」  目的は天地のようだ。 「どこで情報が漏れたんだ……」 「それは申しあげるわけには……わたしとて恥というものを存じあげております。この恩義には沈黙をもって応えるのが人の道と心得ておりますので」  やはりくるか? 白虎は身構える。  体育会系科学の観測攻撃は、体の動きからでは判断できない。本人の脳内と、可能性の収縮した結果だけしかないからだ。波動関数の収縮が始まらないと、何を観測しているのかさえわからない。  一般人ならなすすべがない。白虎でも、瞬時気を抜けば地に伏すだろう。  お嬢が手をあげたとき、白虎は耳鳴りするほどの緊張にとらわれたが、お嬢はかるく手を振っただけだった。 「大恩ある白虎さんにこんなことを申しあげるのは心苦しいのですけれども、すこしのいてくださらない? 跡継ぎさまにご挨拶をさせてくださいな」  白虎は、すこし横によけた。全神経を空間に集中し、観測による関数の変動を警戒する。  髪が逆立つほど緊張している白虎をまるで無視し、お嬢は、ごく自然にスカートをつまみ、中世のお姫様のように一礼した。 「初めまして、森羅の跡継ぎさま。わたくし、明鏡院遊南と申します。親しい方々には「お嬢」と呼ばれております。以後、お見知りおきを」  白虎は、お嬢がなにをしようとしているのか、まったく理解できなかった。  ただ、なにかわからないが、危険な気がした。背後から短く口笛。虚も撤退をもとめている。  お嬢は、天地をじっと見つめ、あくまでも真摯に、よくとおる声で語りかけてきた。 「わたくしは、あなたがた森羅一族を害するために生み出され、そのやり方ばかり習ってまいりました。さながら許嫁を待つ乙女の、花嫁修業のように。あなた方のことを思わない日は一日たりとてなかったのです。今日、お会いできて光栄ですわ、跡継ぎさま。ほんとうでしたなら、いまここで積年の思い遂げさせていただくべきなのでしょうけれども、長く思い焦がれているからとて、初めてお会いした方といきなり殺し合いをいたすのも、慎みがないことだとは思いません?」  そういうと、やや陰のある笑顔をみせて、近づいてきた。  白虎の背後で、虚がさらに距離をとる気配がする。  お嬢の観測界に入ったら、まず勝ち目はない。おそらくすでに天地も白虎も、お嬢の観測界に入っているだろう。白虎は、もしものときは、奥の手を使って、相討ちにもっていくつもりだった。  優しい笑顔のお嬢に、白虎は悪寒すら感じてきた。白虎の知るお嬢は、すこし変わっていて、自分を狙うものには冷徹なこともあるが、けして悪人ではない。  しかし、この町の人間なのだ。西地区の研究機関が作りだした傑作。森羅一族のために生み出され、一族を殺すためだけに生きてきた存在が、天地をまえに行動しないわけがない。  白虎は天地の袖をひっぱったが、逆に手を払われた。なんらかの理由で、お嬢に興味をもっているらしい。 「やめとけ天地。お嬢は原子派、重金属分式だ。ヘモグロビン引っこ抜かれるぞ」 「あら心外。白虎さんにはご信頼いただけてないのかしら」  お嬢はすこしすねたように言った。  力みも殺意もなく、モデルかなにかのような、きれいな歩き方で、天地のまえまできた。  小柄な天地より、頭一つ分以上、背が高い。  白磁のティーカップが似合いそうな白い手が、天地の頬をはさみこむ。  子犬にするように顔を上向かせて、お嬢は天地の目をのぞきこんだ。 「あら意外、ちっとも警戒なさらないのね。わたくしなど、とるに足らないと? それとも信頼をいただいているのかしら?」  天地はどちらの選択肢にも反応しなかった。 「こうも無邪気に見つめられますと、なんだか恥ずかしくなってきますわね」  この距離、おたがい必殺の間合いのはず。だが、両者に敵意はなかった。お嬢にもだ。森羅一族を倒すため作られた第六の鋳造者が、生きる目的そのものを手にしながら、その意図がないらしい。白虎には、こっちも何を考えているのかわからなかった。  お嬢は、愛玩動物か、あるいは子どもをあやすように天地の髪をやさしく撫でつける。手探りでなにかを確かめているようだった。  そして不意に、それまでより強い笑みを浮かべた。納得のような、安堵のような。 「跡継ぎさま、少しの工夫をいたしましたなら、わたくしでも届かないほどではなさそうなのですよ。いかがです、時満ちるまえに、ここで脅威を取り除かれては」  天地は、一瞬、混乱した。お嬢のいっている意味を、むしろ理解したからこそだった。  未来の脅威となる自分を、いまここで殺してはどうかと進言しているのだ。言ってることはわかるが、考えていることがわからない。死にたいとでもいうのか。あるいは、ここで決着させようというのか。 「やめろ」  どちらに向けられたともつかない言葉に、お嬢だけが反応した。天地からはなれる。 「わたくしはこれで失うものの存在を観測いたしました。時きたりなば、心おきなく、わたくしの思いを遂げさせていただきましょう」  あまりにも丁寧な殺害宣言だった。  それがあまりにおだやかすぎて、白虎はつい、きいてしまった。 「戦わない、というわけにはいかないのか。たとえば、おれや、虚みたいに」  お嬢は、すこし困ったような笑顔をみせた。 「あら心外。わたくしが、命を賭けられないほどに臆病で、わたしに願いをかけた方々を裏切るほどに卑怯だと? 他の方がそのような無礼を口にいたせば相応の報いを差し上げるところですけれども、白虎さんにそのような失礼を働くわけにはまいりませんわね」 「道はあると思うんだ」  白虎の、確信に欠けた言葉へ、お嬢は揺るぎなく返答する。 「素敵なことですけれども、それはわたくしの歩む道ではございません。それにわたくし、前々より、贅沢に生きてみたいと願っておりますのよ。かなうなら、この世の方の誰よりも」  表現は穏やかでも、その心はまさしく鋼のように揺るぎなかった。矜持と、実利が、不退転の決意をさせているのだった。  それはなにもお嬢だけの特別なものではない。  この町はまさにこの決意によって動き、成長してきたのだ。お嬢もまた、その町の人間なのだった。 「白虎さん、いさかいを避けるのはご立派ですけれども、そのためにのみ生まれてきた者たちの心、どうぞ推し量りいただきますよう、切にお願いいたしますわよ」  打倒森羅の名のもとに、生きる意味も死ぬ意義も、生まれるまえから定められてきたような彼女たちだ。打倒森羅の道を捨てることは、死ぬこととおなじなのだろう。  北地区の白虎には、軽々しく入り込める世界ではないのだと、お嬢は告げていた。  そうして西地区屈指の超人は去った。  白虎はへたりこみそうになった。もしお嬢がその気になっていたならば、はっきりいって二千回は死んでいただろう。白虎の射程は短すぎるし、虚の能力はお嬢と相性がよくない。  なぜなにもしてこなかったのかも不思議だったが、それ以上の疑問があった。 「なあ、さっき、どうして何もせず頭をなでられていたんだ?」  白虎の質問に、天地は『自分でもわからない』という感じで、首をかしげた。  虚は、つまらなさそうに言った。 「単に美人が好きなだけじゃないの。あと、おっぱいとか。お嬢おっきいし」  意外にそうかもしれんなあ、と妙に納得しかけた白虎だったが。 「いや、胸は関係ないだろ。だって虚にも懐いているように見えうわあ!」  虚が白虎の背中に頭突きした。  駐屯地の壁にもたれ、久津城は一部始終を見ていた。霞宮が、両手で久津城を指さす。 「お嬢は苦手ですか!」 「相性が悪い」  久津城は渋い表情をした。いくら久津城が超人であっても、赤い血を持つ人間であることにかわりはない。  血が赤いかぎり――もし青くても――お嬢とは絶対的に相性が悪いのだ。  せめて相手の観測界がどこまでか判別できれば、アウトレンジからの攻撃ができるのだが、それも分からないのでは、徹底的に距離を置くしかないのだ。  それに、11+3s同士が戦うときは、確実に殺し合いになる。彼らの観測がもたらす結果はつねに致命的だ。そこまで確実に必殺だからこそ、彼らはかの一族に手が届くとされているのだから。 「国道を避け、街区内を通って行く気か……面倒だな」 「街区で仕掛けようとか、無茶なこと考えてるですか? 戦争ですか戦争!」 「戦争」  久津城は、その言葉をさもおかしげに繰り返した。 「戦争か。それもいい」 「いやいやいやいや! まずいです! でも、最近いろいろ溜まってるんで、ドカンとやっちゃいましょうか!」  いさめてるのかけしかけているのか、霞宮は好き勝手なことを言った。  久津城は凶暴な笑みを浮かべて宣告した。 「System8.81オプション「GRA」、霞宮再起動。効果半径五十、第一防御、十層反転障壁をプリセット、第二防御+4ロード、ATAロードセット」  呪文じみた言葉を聞いて、霞宮はうなずいた。 「りょーかいです! 剣の使徒とガチンコですか! 前に立ちふさがるものみな傷つけちゃいますか!」  中世の城門をくぐると、そこはコスプレの国だった。  いや、本人たちはきわめてマジだ。RPGに出てきそうな服装や鎧をまとい、腰に背中に剣を装備している。  彼らの戦闘能力は、きわめて高い。住人のほとんどは、いにしえより伝わりし秘技珍技の奥義を究めている。また、体育会系科学をも取り込んだ独自の剣術をも開発し、その刃はかの一族にすら届くのではとさえ囁かれている。  また、組織全体の倫理性も高く、「剣の使徒」は市のボランティア自警団にも多くの人間を送りこんでいることでも有名だ。 「自警団、銃持ってるなら恐くない、剣持ってたら逃げろ」がこの町の不良の合い言葉である。  ただ、この「剣の使徒」街区の最大の特徴は、剣ではない。  体型である。  町の住人のほとんどが小太りなのだ。  体力筋力反射神経を増進する秘伝の料理があるらしいのだが、それのせいで小太り体型になるのだという。  さらにいうなら、人間工学的にいうと、小太り、もしくは堅太りこそ、闘士として理想の体型であると彼らは主張する。  急所である首はあくまでも短く、腕は太く、胸板は厚く。運動の基点にして肉体の要である腰まわりは、腹筋もふくめてより太く。重心を低くすることで移動速度を高めるため、足は屈強にして短いものが望ましい。  また、適度な脂肪は体力となり、長時間の戦闘にはかかせない。  スレンダーで手足の長く、腰の細いのは恰好がよいが、そういうのはたいてい腰を痛める。運動力学的には力士体型こそが闘士のいたるべき姿である、この街区の住人はそう力説する。  たしかに柔道家や、格闘家にはそのような堅太り体型が多いのだが……  西洋中世の町に似せた、石造りふうの町なみに、小太りのおじさんおばさんが、RPGに出てくる服装や鎧をまとって闊歩しているさまは、一種異様な異世界であった。  ついたあだ名が「ドワーフの町」。  見た目やあだ名はこうだが、かれらは千年もまえから、かの一族をつけねらっている。名門というか老舗というか、この町でかなりの古顔であるのはまちがいない。  門番に通学支援の携帯を示すと、樽のように丸いフルプレートアーマーにハルバート、本来なら馬上専用、地上ではまともに身動きできないであろう重装備のおじさんが、軽々とやってきて、頬当てを上げた。 「ああ、通学支援? おつかれさん。なんだか派手にやってるらしいね。どっかーんどっかーんって聞こえたよ。北のお隣さんともめる通学支援なんて珍しいね。あそこは子どもいないのに」 「ええ、まあ……」 「うちの地区なら通ってもいいよ。やっぱね、子どもは学校に通わせるべきなんだよ。小さい頃から修行修行たってさあ、あの一族に勝てなかったら就職しなきゃダメでしょ。一生戦い続けるなんて無理だから。どっかで就職しないと。就職ね。学歴なかったら、一生フリーターでしょいまの世の中。西地区の連中はでっかい研究機関から金が出るからいいけどさ。東地区とか農業やってて、国から農業支援とかもらっちゃって、兼業刺客だもんね。いいよね、土地があるって。うちら南地区のガチンコ派は、やっぱ将来キツイから。北隣の基地なんかだとね、どこぞからお金もらえるからいいけどさ。うちみたいな大きな後ろ盾のない武術結社系のはね、やっぱちゃんと地に足をつけて、勉強して、それから修行して、就職して、もし余裕があったら頂点狙う、ってのが街区のスタイルだから。だからやっぱり子どもは勉強。ね。だからうちは通学支援を応援してるし、うちの街区からも通学支援の子、いっぱい出してるからね。子どもはやっぱりね、勉強ね、勉強が大事だよ」 (話なげぇええええ!)  白虎はなんとか逃げようとした。 「あー、あの、急いでるんで」 「ああ、そう。じゃ、通過許可出すからね。このリボンね。緑のリボン。これを通学腕章のところに巻いてね、出るときには返してね。これ、この紋章ボタンのところにICチップがね。最新のICチップだよ。これねぇ、位置情報が分かるんだね。すごいよね、科学だよ科学。こんな小さいのに科学がね、ぎゅっと詰まってるんだね」  永遠というものがあるとしたら、このオッサンの話がそれだろうと思った。 「ああああ、わかりました、わかりましたから。ありがとうございます!」 「案内にね、うちの子つけるから。うちの子。通学支援やっててね、飛猪新(あらた)っていうんだけど。生まれたときは新生児だったからね、新たってつけたんだけど、よく考えたら子どもって成長するんだよ。成長」 「いえ知ってますから。新って、中学のとき、同じクラスでしたから」 「ああ、そうなんだ。でね、気がついたらもう高校生。子どもって成長速いねぇ。今年で高校生だよ。でもね、ついこないだまで小学生だったんだよ。こんなに小さくてガリガリで。そうそう、この子くらいのときなんてね」  分厚い金属でおおわれた籠手で、天地をしめす。 「この子が支援対象かい。ずいぶん可愛い子だねぇ。名前はなんていうの」  白虎は天地の口をふさいだ。 「どこでどんなことになるか分からないから、支援対象者の名前は言わない約束なんです」 「ああ、そうなのかい。この町は、アレだから。いろいろあるから。うちの子もね、大変だってぼやいて、ああ来たよ。おーい新、この子らの案内してやって」 「あれー、白虎じゃん」  さっそうとマントをなびかせてやってきたのは、恰好は勇者で中身は若いころのトルネ○といった少年だった。  勇者トル○コは、虚を見ておどろいた。 「あ、無色さんだ。無色さん高校になっても通学支援するですか?」 「監理に無理に呼び出された」 「ああ、そうですか……でもまあ、無色さんがいるなら、恐いものナシですよね」  飛猪新は、虚と話すと、なぜか敬語になる。 「これ……」  虚が、のど飴をさしだした。どうやら新をちゃんとした仲間と認定したようだ。 「えっそんな……これがフラグというものでしょうか」 「ちがう」 「やっぱり……そうだよね。無色さんと僕じゃ月と豚なんだ、肉の厚みは三次元との距離なのさ。でもいい、僕には二次元しかフロンティアが」  ブツブツいう勇者に、虚は冷静に言った。 「いやそうじゃなくて。個人的に、恋人とかいらないから」 「なんでだよ」  むしろ白虎が問いただす。 「えーとね、恋人とかになったら、最終的に子どもとかできるじゃん」  ちょっと気になる女の子にそんなことを言われたら、男二人、なんとも言えない雰囲気である。 「それが困る。わたしの立場的に。だから恋人とかいらない」  これはどう反応するべきか? もっとふかく問いただすべきか? それとも、さらっと流しておくところなのか? 勇者と白虎の視線通信がかわされ、結論が出た。  自分たちには、希望が必要だと。くわしく問いただして、虚とのあいだに決定的な断絶を作ってしまうのは、自分たちの将来にとってよくないと。ならここは、てきとうにごまかして、将来への希望を自分たちのなかでつないでおこう……  負け犬的発想で共鳴する二人のあいだに無駄な友情が生まれた。 「いいからはやく行こう。追われてるんだ」  白虎は、新をせかした。  虚の意味深な言葉はともかくとして、さっきから、妙な予感が背筋をビリビリと刺激していたのだ。どうも天地も、そういう感覚にとらわれているらしく、しきりに背後を気にしはじめている。  新は、飴を口にいれて、きいてきた。 「誰に追われてるんだい」 「久津城」 「ぶっ」  飴を吹きだした。その飴を空中でつかみとる反射神経、勇者トルネコはただ者ではない。再度口に放り込むのは、虚への愛がなせるわざか。 「それを先に言えバカ」 「肉弾と言弾で口を挟むスキがなかったんだよバカ」 「パパ、第二種警報準備して。久津城が来たら警報出して。戦わなくていいから。人の避難最優先で」  勇者トル○コは、さすがに通学支援だけあって、てきぱきと指示を出した。  トルネ○父は、感激に目を潤ませた。 「いやあ、うちの息子も成長したねぇ。新も昔は小さくて、よくおねしょしては泣いていたのにねぇ。そういえば先週のことなんだけど」  町人Aのセリフが長くなりそうなので、無視して先へ進むことにした。  この森羅市は、おおざっぱにいうと同心円状に広がっている。  刺客の集団がどんどん外に住みついて、木の年輪のように広がっていった町だからだ。  百年ほどまえの「豆腐事件」によって四本の縦貫が誕生し、町は四つの扇型の地区に分けられた。  町の住人は、同心円状の横貫道を「条」、それをつなぐ放射状の道、第二縦貫を「坊」と呼んでいる。  円形なので、外周にいくにしたがって広がって、横幹をつなぐ「坊」の数が増えていく。  一条と二条の間は五坊しかないが、二条と三条は七坊まで、三条から四条は十坊まで、最外周の二十五条から二十六条のあいだには、三十坊まであるのだ。  ちなみに坊はけっこうてきとうに配置されているので、幾何学的なつじつまはあわない。  この街区は、南地区三条から五条、三坊から八坊にまたがる、かなり広い街区だ。面積でいうと、十ヘクタールほど。  広大な街区に中世風の町並みが広がり、街区の中心部には城さえ建っている。  もちろん、それ風にしただけのコンクリート建築だが。  早朝なので、RPGキャラの中に背広のサラリーマンも混じっていた。勇者トルネコは、何人かにあいさつしている。顔見知りなのだろう。  ごくまれに痩せ体型のコスプレもいて、文字通り肩身が狭そうにしている。他人とスタイルが違うと、きっといろいろあるのだろう。 「白虎、こんな時間から支援ってことは、ずっと歩きでいくのかい」  勇者トルネコがたずねてきた。 「そうするつもりだ。うかつに公道に出て、襲撃受けたら困る」 「縦貫の通学バスを使ったら? 通学時間帯は屋根の上に自警団が十人乗るんだけど、それでもダメかい」 「ダメだな。自警団では信用できない」 「その子、よっぽど過激な連中に狙われてるんだねぇ」  過激っつーか、全市民にな、と白虎は心のなかでつぶやいた。  ヘタをしたら、自警団もまとめて敵になりかねない。  なにしろ支援対象は町の最終目標、森羅家のご子息だ。  いまさらながら無謀なことをしているなあ、と感慨深い白虎である。 「久津城は、アレ? やっぱりまだ無色さんを追いかけてるのかい」 「知らね。あいつと話したことないから」 「無色さんに聞いてみたら……」 「俺、あいつに恨まれてるみたいなんだよ……もともと久津城って虚の知り合いだろ。しかもこないだ、虚の友だちにケガさせちゃって」 「霞宮さん? あれはしょうがないよ。僕も久津城と霞宮のオプションと遭遇したことあるんだけど、あの子、なんかもう命知らずでさ。ガンガン突っ込んでくるから。しかもやたら攻撃的だし、ちょっとバカなんじゃないかなうわ?」  勇者トルネコは、虚に頭突きをくらった。  ただし勇者はマントの下に鎧を着込んでいた。硬質な金属音とともに、虚は涙目で頭をかかえてうずくまった。  天地は、虚と、勇者を見くらべて、首をかしげていた。  うめいている虚と、驚いている勇者。  白虎の錯覚か、天地の、勇者への視線が、ちょっときつくなったような気がした。  ぞわり、と、白虎の背筋に寒気が走った。  それは直感だった。なにかわからない、どう考えているのかもわからないが、とにかく天地がなにかをしようとしている気がしたのだ。 「なにもするな!」  天地の肩をつかむ。白虎を見上げる視線が、どこか鋭い。 「おまえ、虚がいじめられたとか、そういうことを考えてなかったか?」  天地は、まばたきして、うなずいた。 「さっきのかかとのやつか?」  首を横にふる。 「別な攻撃なんだな?」  肯定。  どうやら虚を仲間と認識しているっぽい。そして、虚が痛がっているので、攻撃をうけたと考えて、反撃を考えていた……  白虎には、天地の行動原理がなんとなく見えた気がした。  おそらく、とんでもなく単純なのだ。  やられたら、やりかえす。  虚は(おそらく白虎も)、道案内しているから味方。  だから、虚がやられたら、やりかえす。  それだけだ。周囲のことなんて考えていないだろう。  それと、状況認識が、かなりトロい。  NSGCの大佐に襲われたときは、ケガをして、しばらくしないと反応しなかった。  今回も、虚が頭をぶつけてうずくまり、しばらく眺めていた。  反撃に移るまで、かなり時間がかかるのだ。ただし、いったん反撃すれば、おそらくとんでもない被害が出るだろう。 「いいか、おまえはなにもしなくていい。いいな?」  天地はきょとんとしていた。理解しているのかしていないのかもわからない。 (意志疎通がむずかしい……)  白虎は、虚に頼んで飴をもらい、それを見せながら、言った。 「自分の身を守ることだけ考えてくれ。俺たちは自分でなんとかするから。飴をやるから分かってくれ」  飴を手にのせる。天地は、それを、じーっと見ていた。そして白虎を見上げる。  なにがなんだかわからない、という顔だった。 「飴だよ飴。知らないの?」  そう言っても、首をかしげるだけだ。 (マジでどんな生活してきたんだろう……)  刺客の町の真ん中で、平然と暮らしているような一族だ。一般市民には日常生活など想像もできないが、それにしても、この世間知らずぶりは度がすぎる。  白虎がどうしたものかと悩んでいると、虚が天地の手から、飴玉をひょいと奪っていった。天地はそれを目で追う。  虚はかわりにクッキーを割って、半分を天地の手に乗せる。  残り半分を、虚が食べてみせた。  天地は、それでようやく、手に乗せられたものが食べ物だと認識したらしい。手のひらに顔を押しつけるようにして、クッキーを口に入れた。  勇者トルネコがしみじみと言った。 「なんというか……未知との遭遇って感じだねぇ」  この町には、社会性のない子どもがかなり多いので、天地の行動も、それほど不審には思われてないようだ。 「さっきの話、自分の身を守ることだけ考えて、こっちは自分でなんとかするから、って、わかった?」  虚がいうと、天地はあっさりうなずいた。 「うおすげえ! 瞬時に意志疎通が成立」  白虎は感動した。 「困った子のあつかいは、けっこう慣れてるから」  そのむかし、虚は、あの久津城や霞宮と仲がよかったらしい。ということは、相当な意志疎通スキルを持ってるのだろうなあと白虎は納得した。  勇者トルネコは腕組みして、しみじみ言った。 「人間は食べ物、真心は食べ物」 「それはどうだろう……」  久津城が笑みとともにつぶやく。 「さあ、ここからは本当の殺し合いだ、平井白虎」 「やっぱり白虎しか見てないし! 虚姉はどーすんですか!」 「そのへんは白虎を殺してからだ。行くぞ」  久津城は歩きはじめる。霞宮は、すぐ横を歩いた。離れすぎると圏外になってしまうのだ。  路上には、破壊されたゲートがあったが、関係がない。  コンクリートの塊は、まず持ち上がり、ついで粉々になって噴きあげられた。  そしてすぐ地面に降りそそぎ、アスファルトにめりこんで固まる。久津城と霞宮を中心に対流現象が起こっているかのような光景だった。だが相手は鉄とコンクリートの塊なのだ。それが霧のように砕け、地に落ちて固まっていく。  巻き込まれたものは、空き缶でも道路標識でもおなじことだった。すべて破砕され、地面に食い込んで平らになる。  なんぴとたりとも、彼のまえに立ちはだかることはできない。平時であればみな膝を屈し、その気になればすべてを等しく塵芥として均してしまう。  この森羅市において、頂点にもっとも近い11+3sが一人。  System8.81a久津城、第八の忌まれし者が、ついにその真価を発揮しようとしていた。  剣の使徒の街区、それを囲む壁に歩みよる。  関係ない。花崗岩とコンクリート、そして鉄筋でできた分厚い壁が砕け、巻き上げられ、そしてまた地に突き刺さる。久津城の歩みはすべてを破砕する。  ファンタジーじみた町なみも、久津城にはなんの感銘もあたえなかった。単に進路をさえぎるだけの、いや、それどころか、単に視界を遮るだけの紙切れも同然だった。  見る間に建物が砕け散り、久津城は後ろに幅二十メートルの道を刻みながら街区を蹂躙していく。  壁が破壊されたため、警報が鳴り響いていた。第二種警報。かの一族に次ぐ脅威に対してのみ鳴らされる警報。  久津城は、歯を噛みしめた。そう、自分が町をいくら壊そうが、13+3sと畏怖されようが、意味などない。この町では、かの一族の「下」でしかない。  それが久津城には我慢ならない。死の危険をかえりみず人体実験に志願した八十一番目の男。理論上、無限の可能性を得た超人となったはずの自分が、まだ誰かの下でしかないことが、どうしても納得できない。  この町に鳴り響く第一種警報を自分のBGMとし、畏敬と羨望、嫉妬と憎悪、そしてなにより頂点であるという認識をもって見られる日を、彼は望んでいた。  そしてそのとき、自分の構成するシステムの一つとして、無色虚が必要だと考えていた。  彼女の能力は、際限なく破壊力を増すことができる。彼女の限界は彼女の記憶総量に等しく、そしてそれはまだ5%も使われてないと「第八の黎明」は結論づけている。さらに脳の全領域を使い尽くしたとしても、脳になんらかの記憶素子を直結させてやれば、無色虚は事実上、全世界の弾薬を保有する、究極の弾薬庫となりえる潜在能力を有している。そのための記憶拡張方式も、11+3sにおいて、ほとんど実用段階まで来ている。  力は、正しく使えば、この町の誰をもうち倒せるはずだと久津城は信じていた。  彼女はすでに、一国の軍隊と渡り合えるほどの高速移動体を圧縮し、いつでも使用可能な状態としているはずだ。  それだけの戦力でありながら、この町の頂点、第一種警報の一族に手が届くはずでありながら、なにを血迷って通学支援などをしているのか。自分らを見捨ててまでやりたかったのが、そんなくだらないことだという事実に久津城は腹が立つ。  虚は逃げるべきではなかった。自分らを殺してでも戦い、そして頂点に立つべきだった。そうすれば、すべては望みのままではないのか。君臨すれども統治せずの無責任な一族にかわり、実力でもってこの町を理想郷にでも作り替えればいいではないか。  それを、よりによって北地区などという、一族との共存を訴える腰抜けどもの地区出身である平井白虎と通学支援などをして遊んでいる。  しかも、能力をまともに使っていない。威嚇射撃にさえ使っていない。防御のみだ。  銃砲撃を意に介さないといえば聞こえはいいが、白兵戦を挑まれたらどうする気なのか。  虚は、肉体的にはかなりひ弱な部類である。そのへんのチンピラに一発殴られたら、それだけで行動不能になってしまうだろう。  だからこそ、近づかれるまえに攻撃する必要があるというのに。  もし、と久津城は考える。  自分と一緒に行動していれば、その心配もない。彼のまえで立っていられる人間など存在しない。半径2メートル内にいるかぎり、自分と、オプション以外の、この世の誰をも近づけることはないだろうに。  虚はなにからなにまで選択をまちがえている。彼女の行く道はそちらではない。弱き者を守るなど、論外だ。そちらに彼女の幸福などない。  力あるものが弱き者と戯れたところで、誰も幸せになりはしない。それが久津城の信条だった。  剣の使徒の街区を100メートルほど蹂躙したところで、自治会らしき連中が行く手をさえぎった。  総じて屈強な短躯だが、現代社会ではデブで一括される体型だ。ケンカでは強かろうが、女性人気はとれそうにないメンツが十数名、ファンタジックな鎧に身を包み、整列し、顔のまえに立てた抜き身の剣を朝日に輝かせている。全員、面頬をあげ、顔をさらしていた。  兜に赤い羽根飾りをつけた男が、一歩まえに出た。白銀に輝く鎧のうえに、「自治会見回り隊長」というたすきをかけている。  メガホンで声をかけてきた。 「そこまでだ久津城太慈! 他街区不可侵の原則を忘れたのか? ことと次第によっては、我ら『剣の使徒』結社は、おまえの所属である『第八の黎明』にそれ相応の報復をすることになるぞ」  久津城は、前進した。一九世紀のガス灯っぽい街灯が砕けちり、地中の配線が引きちぎれて火花を散らす。それもすぐ粉々になり、地面に刺さって銀色のシミになった。 「聞いてるのか、おいこら! なんだ、校舎の窓ガラス割って回りたい年頃なのはわかるが、これはやりすぎだろう。被害額がいくらくらいになると思ってる? すでに五十棟をこえる家屋に被害が、おい、止まれ!」  止まる気もなければ、会話する気もない。この町に用すらない。ただまえに進むのに邪魔だから更地にしているだけだった。  久津城は、「自治会見回り隊長」を、鮫のような、鋭いが感情を含まない目で凝視していた。家であろうが人であろうが、立ちはだかるなら整地するまでだった。 「警告はした。いくぞ!」  隊長がいうと、見回り隊は面頬をおろした。戦闘行動だ。かれらは体型からは想像できない、異様にすばやい動きで散開した。  久津城はこたえない。ただ、横を歩く霞宮にだけ聞こえる小声で、なにかをつぶやいていた。  隊長は、さきほどまでとは異質な、かなり凶悪な笑みを浮かべて言った。 「おまえ、11+3sだからって、死なないとでも思ってないだろうな?」  霞宮が片目を輝かせてぴょんぴょんジャンプした。 「挑発されてますか? されてますね! なんか言い返しますか!」  久津城はうっとうしそうに鼻から短く息を吐いた。 「おまえは目の前に転がってきたコンビニの空袋に話しかけるのか?」 「なんのかんのいいつつ決めゼリフっぽいですが!」  そのあいだにも街区は破壊されるが、人の気配がない。すでに避難は完了しているようだった。  そもそも町をぶっ壊す超人一族を中心に発展した町だ。この程度の街区破壊は日常として織りこまれているのだろう。  隊長は、剣を天にかかげた。  反射した陽光に顔を照らされ、久津城は舌打ちして手をかざす。 「みせてやろう。剣の使徒街区、自治会見回り隊長、楮鷲夫! わが必殺の一撃を!」  久津城は、汚らわしく愚かしいどうぶつを見下す顔で、隊長を見た。  体育会系科学の観測者が戦うとき、まず必要なのはスピードだ。これがもうすべてを決する。先に相手にとって致命的な希望的観測をしてしまえば、それで勝つ。  それをのんきに名乗りなど。無意味にもほどがある。頭の中に贅肉でも詰まってるのかと思わざるをえない。  隊長は、剣を、振り下ろした。  彼の流派は電磁派光子分式。  剣にあたる朝日の光子を観測し、数秒分の光をとどめて一万分の一秒に圧縮して照射したのだ。  たった五秒の光を、一点に、かつ一万分の一秒に圧縮して照射するだけで、即死レベルの攻撃となる。しかも光の速度で到達し、回避など不可能。  雨や曇りの日はどうするんだとか素朴な疑問を感じる間もない。  久津城が攻撃を受けたと察知するまえに、閃光が久津城の直前で右に屈折。  破壊された家屋に命中。建材を気化爆発させ、周囲も巻き込んで倒壊させた。  絶句する隊長に、久津城が憐れむように声をかけた。 「光すら、おれに道をあける」  久津城の前進に、隊長は後退……しようとして、動けなかった。  鮫の目をした少年、神父を思わせる改造制服に身を包んだ少年は、隊長を指さし、その指を下にむけて、命じた。 「ひざまづけ、豚」  白虎たちがRPGの町をしばらく行くと、遠くから爆音が聞こえてきた。同時に、建物のガーゴイルの彫像風装飾に仕込まれた防災スピーカーが鳴りはじめる。 『第二種警報が発令されました。11+3s、System8久津城の襲撃を確認。住民は第二種行動をとってください。くりかえします、住人は第二種……』  白虎がふりかえると、盛大な土煙の柱が高々と上がった。地面に揺れが伝わってくる。 「ムチャクチャしてやがる」 「街区に攻めてくるなんて無謀だねぇ」 「すまん。巻き込んだ。まさかこの街区に突っ込んでくるとは思わなかった」  うしろめたい気持ちで白虎が頭を下げると、勇者トルネコは手をふった。 「いいよべつに。あいつをあしらえないようじゃ、「アレ(といって空を指さした)」と戦うどころか、この町の治安も守れないからねぇ」  さすが千年の歴史をもつ老舗組織の人間は言うことがちがう。  しかも―― 「あ、電話だねぇ」  勇者トルネコは、それだけは普通の携帯電話をとりだした。 「はい? ああ、はいはい、あ、はい? ええ、ああ、はいはいです」  白虎は緊張した。  もしいまの電話で情報がきて、新が敵に回ることを想定したのだ。 「ちょっと遠回りになるけどいいかい」  虚も、さりげなく天地の手を引いて、距離をとる。 「なぜ?」 「うちの自治会から連絡がきて、取り壊したい区画を通ってくれって。あいつが通ると地盤締まるから、ちょうどいいって」  これが千年の歴史というものか。突発的脅威すら織り込んで生活し、あまつさえ積極的に利用するとは。虚もあきれるほどしたたかであった。 「はーい、どんどん更地にしちゃいますか!」  両手を握りしめた霞宮は、嬉しそうに上半身を左右に振っていた。踊っているように見える。  久津城は無視して歩を進めた。そのたびに、建物の壁が持ち上がり、粉々になって降りそそぎ、地面にめりこんで平らとなっていった。  コンクリートはすべて破砕され、砕ききれなかった鉄筋も、久津城の二十歩ほど手前に落ち、地面に食い込んで平らにされていく。  住人は遠巻きに包囲し、久津城とともに移動していくが、手出ししてくる気配はない。  さすがに、あの見回り隊長が最強なわけはないだろう。  久津城も、この街区にいる、もっと強いヤツの噂を聞いている。話を総合すると、そいつが戦うより、「久津城が町を破壊していく方が被害が少ない」レベルであるらしい。  興味がないではないが、それより白虎に追いつくのが先だった。  家屋だかビルだかを十ほど更地にしたところで、霞宮が前方を指さした。 「虚姉はっけーん! 距離100、方位178度52分01秒! 『疾走』したら間に合いますか!」 「誰が走るものか。どんな相手でも、歩いて追いつめるのがオレの流儀だ」 「余裕カマしてると逃げられますが!」 「かならず追いつく」 「そう言い続けてはや3年、虚姉はどんどん遠くへ!」  久津城は表情に険を増し、やや早足になった。 「意識してますか? してますね?」  二人の前で車が潰され、街灯が潰され、さらに建物が粉砕されていく。通ったあとは幅二十メートルほどの平坦な道が完成していた。  ロードローラーで発泡スチロールの箱を潰していくようなものだ。  家屋は引きちぎられたような断面を晒し、内装も家具もめちゃくちゃになっている。  損害は相当なものになっているはずだが、遠巻きにしている小太りな連中は、武器も抜かず、久津城にあわせて移動していくだけだ。 「誰もつっかかってこないんですが……」  霞宮は不服そうだった。  だが久津城はもう、まわりなど見ていない。彼方に見える少女の姿を凝視し、そちらへ向かって歩くだけだ。吸い寄せられるように。  足下に目をやらなくても、つまづくことはない。彼の前方は、すべて平滑に整地されていく。  彼女は、この世の脅威を寄せ付けなかった。  百基の自動機銃が、あるだけの弾薬を吐き出すとき、彼女は煙たそうにしていた。  戦車砲を前にして、緊張すらせず、つまらなさそうに立っていた。  彼女は、銃弾も、爆撃も、多相空間に封じ込めて届かせない。  そのくせ、指さすだけで、彼女の敵意はすべての防御を超越し、対象を確実に破壊する。  銃火砲撃が彼女を傷つけることは絶対にできない。彼女が望まない限りは。  第八の黎明が見いだした空間派の観測者は、文字通り最強だった。  きっと、彼女は頂点まで行く。  第八の黎明はそう判断し、彼女に最上級の待遇を与えた。彼女のわがままはたいてい通った。彼女が、実験体の処遇を改善してほしいと望めば、そのとおりになった。  久津城もまた、彼女の「わがまま」で新しい服と一日三度の食事を得た。  はじめて見たときから、久津城は彼女にあこがれていた。いつか、ああなりたいと思った。  所在なげに立つだけで、この世のすべてを寄せつけず、物憂げに伸ばした指先は、ありとあらゆる強者をうち倒す。彼女のようになりたいと、魂の底から願った。  なのに彼女は裏切った。  久津城を、組織を期待を裏切った。  圧倒的な力を得ながら、傷つけることを拒否した。  動物実験において、標的の豚を瞬時に血煙と変えたことに怯え、最後の訓練において久津城をはじめとした「欠資者」を標的として消費することができなかった。  実戦試技の前日、十三歳になっていた彼女は、訓練所から逃走。そのまま市外の学校の寮生となり、帰ってこなかった。  その日、おそらくは死をもたらしたであろう戦闘訓練が、彼女の逃亡によって中止されたとき、仲間の多くは生き延びた喜びに泣いていた。呆然としてへたりこむ者もいた。一人を除いて、彼女の「わがまま」に感謝していた。  久津城だけは、違った。彼は、怒っていた。  彼女は、自分たちへの同情で、その輝かしい未来を捨てたのだ。自分たちが彼女の足を引っぱったのだと久津城は確信し、自分に激しい憤りを感じた。彼女が、その優柔不断さによって自分たちを「見捨てた」ことに激怒した。  押し殺していた死への恐怖は怒りとなり、彼女に向けられた感情は反転して憎しみとなった。  目指すべき目標は、うち倒すべき標的に変わった。  怒りと憎しみに突き動かされ、プロジェクト11+3sの危険な実験に志願した久津城は、そこで潜在能力を開花させ――第八の忌まれし者が生まれたのだった。  虚も許しがたいが、もっと許せないヤツがいる。  平井白虎だ。  そもそも久津城が無色虚を恨むことになったのは、平井白虎というガキが、虚を市外に亡命させたからだ。この北地区出身の、正義の味方気取りの大馬鹿者が、研究施設から脱走した虚を保護しなければ、こんなことにはならなかったはずだ。  虚は組織に連れ戻されたことだろう。久津城も霞宮も死んでいて面倒はなにもなくなっていただろう。虚は11+3sの成功例のひとつ、第三の空撃者として名をあげ、もしかすると今ごろ、かの一族をうち倒していたかもしれないのに。  外から見れば、平井白虎に助けられた形になっているのが、もっと許せない。勝手なことをしやがってと思う。善意の名のもとに人の運命を変え、恩を売っているつもりかと恨みがつのる。なにより、北地区という、向上心のカケラもない連中の巣窟に転がってる一般人に、選ばれしものであるはずの自分たちが救われたということに腹が立つ。  強き者の糧として死ぬことを許容していた久津城が、惰弱な同情によって生かされたのだ。平井白虎は、久津城から生きる理由も死ぬ理由も奪った大罪人だった。  そして虚から未来を奪った。  血ぬられつつも誰より輝いたはずの未来を。  建造物の壁が消え去ると、大きな通りに出た。かなり前に戦闘があったらしく、荒廃した通りだ。窓ガラスが割れ、地面には亀裂が走っている。  それほど遠くないところに、四人がいた。 「見えましたか! 虚姉、それから白虎と、あと、誰か知らないけど二人いますが」 「あいつか……」  久津城は、四人のうちの一人、男子の制服を着てはいるが、男子とも女子ともつかない可愛らしい子を、「観察」した。  鮫の目が、ぎりっ、と細められる。 「あれが「量子発勁」……体育会系科学の完成形か。バタフライ効果力学と、量子系の複合式……想像以上だ」  霞宮は、めずらしく肩をおとした。 「はあ……Systemカーネルの久津城くんは、観測者の観測対象を観測できるから便利ですが、こっちはただの観測者ですので。できれば状態を説明して欲しいのですが」 「自分の無傷という「最初の羽ばたき」でもって、周囲を強引に安定させている。傷つけば回りを崩壊に巻き込むかたちだ。なるほど、こういう構造か……」  久津城にしてはめずらしく、興奮したようすだった。かなり早足になって一行にせまっていく。 「それって、攻撃できないってことですか?」 「血を流させずに倒せば、あるいは……いや、それでも無理か? 最強一族は、手負いになることも織り込み済みで練っていやがるか。これは……」  霞宮は首をかしげ、両手で一行をゆびさした。 「なんだかわからないですが! どーします? 誰に仕掛けますか? いきなり頂点いっちゃいますか!」 「今日はラスボス一族は無視する。まずは……平井白虎!」  久津城の大声は、一行にもとどいたようだった。 「もう追いつかれた……」  白虎は、久津城の背後へまっすぐ続く幅二十メートルの道を見てげんなりした。  天地を背後にかばい、言い聞かせる。 「いいか、何もするなよ。おまえと久津城がぶつかったら、どこまで被害が広がるか分からない」  天地はすなおにうなづいた。 「派手に壊してくれたねぇ……さすがにこれは街区間の問題だね。戦争だよ戦争」  新はむしろうきうきした様子だった。「剣の使徒」結社は、その屈強な体型から女性人気にとぼしく、学校でも揶揄されがちだ。その鬱屈がたまっていて、暴れる機会を狙っている者が多い。  勇者トルネコは、剣を抜いて、久津城にむきなおった。 「とりあえず、三人は先に行くといいよ」 「相手するのか? 無茶だ!」 「それはどうかねぇ……僕はまだすべての力を見せてはいないからね!」 「いや、いうほどの力がないのは知ってるから! 虚のまえだからって無理すんな!」  二人がうだうだやっていると。  虚が、久津城を指さした。  久津城が、足を止めた。誰をまえにしても止まらなかった歩みが、虚のまえではじめて止まった。 「無色、その指、ようやく、上に登る決心がついたのか?」  久津城の声は、静かだが、張りつめていた。命のかかっている人間の発する声。 「撃ってこいよ無色。いまのおれなら、一撃で殺せるだろう。無色にはそれだけの力がある。力があるなら義務があるはずだ」  虚は、自信なさげにあとずさった。  そのぶん、久津城も踏みこんでくる。 「ほんの少しの勇気があれば、こんなことにはならなかったはずだ。こんなところで、こんな豚のような連中とたわむれるような生活をくりかえす必要はなかったはずだ。ほんのわずかの決意さえあれば、すくなくとも第八の黎明を支配し、あわよくばこの町の頂点に立てたはずだ」  久津城は、静かに、暗い響きの声で語りかけてくる。  虚は、ただ黙って聞いていた。 「おれは無色を恨んでいる」  そう言われたとき、虚は反応した。それでも久津城を直視できず、その足下に視線を落としたまま、つぶやいた。 「な……なぜ?」 「くだらない同情心をかけられて、おれが喜ぶと思ったか無色。おれが命を惜しんでいると思っていたのか。それとも他の連中のせいか。無能なせいで死ぬことを余儀なくされ、泣きわめいていたくずどもに心を揺らされたのか」 「そんなのじゃないよ……」 「ならどうして逃げた」  その答えは、白虎も聞いたことがない。おそらく虚自身もはっきりとは認識していないのだろう。ただ、後ろめたげに視線をそらすだけだった。 「おやつが……」  虚が、口ごもりながら、言った。 「ただ、みんなでおやつを食べられたらいいな、って」  なんともいえない沈黙があった。虚にとっては重要なことなのだろう。だが、その本当の重みを感じられる人間は、その場にはいなかった。 「はい、意味が分かりません!」  霞宮が、超空気読めてない大声を出した。 「おやつ? そんなの世界のテッペンとったらお菓子で家が建ちますが!」 「そうじゃなくて」  虚の声は、霞宮の無駄に元気な声でかきけされた。 「だいたいあのお菓子特権は、力の代償として手に入れたもののはずですが! 力をしめさずして手に入るものではないんじゃないんですか? それを放棄して、あとどうする気だったですか? わたしたちがどうなるか考えたことあるですか? 単に「虚姉に殺されなかっただけ」ですが! 自分の手を汚さなければ誰も傷つかないと思ってますか? なんならみんなのその後をレポートしま」 「必要ない」  久津城が、霞宮の頭をつかみ、そのまま片手で持ちあげて、移動させた。 「無色虚。おまえはこちらに立つべき人間だ。綺麗事を語るのではなく、その手を血に染めて栄光を勝ち取る側の、持てる者の権利を行使し、義務を負う側の人間だ。戻ってこい。第八の黎明に。誰も責めはしない。それどころか歓迎するだろう。細かいことは、頂点に立ってから考えればいい」 「あ、あーれー? 久津城君、なんかナンパに入ってますが! あれ? 虚姉を恨んでませんでしたか?」 「無色が、信念をもって敵対していると思っていた。だが、これではただの家出だ。なら、戻ってきさえすればもういい」  鮫の目を、白虎にむけた。 「あとはあのクソ野郎をブチ殺すだけで話は終わりだ」  白虎はため息をついた。 「おまえになんで恨まれてるのかよく分かんないんだけど、あれか? 恋愛三角関係のもつれとか、そういう解釈でいいのか?」 「ああ、なるほど! それならしっくり痛い痛い痛い」  ポンと手をうった霞宮を、久津城がアイアンクローで吊し上げた。 「恨みがなくても貴様のようなヤツは、殺しておくべきだと初めて会ったときに感じただけだ。向上心もない、惰弱な豚の守護者など」 「もうちょい論理的に生きた方がよくないか?」 「人生に論理などあるものか。生きることに意味がないのなら、死ぬことにも意味はない。死は生とおなじく、万人に、無意味にただ降りそそぐ」  話の途中で、いきなり勇者トルネコが剣をふるった。 「油断大敵――!」  久津城は、霞宮をアイアンクローしたまま数メートルとびのく。  さっきまでいた位置を銀光が薙ぎ、消えた。  空間派転移分式。  「そこにそれがあること」を観測してしまう転移分式は、暗殺に最適といわれている。相手の急所に直接凶器を叩きこめる。かつ観測を止めると元の位置に戻るため、証拠も残りにくい。  いま、勇者は振りまわした刃の存在を久津城の首筋の横に観測したのである。  回避不能なはずの一撃を。久津城はたやすく回避した。 「あ、あれ? ズレた? タイムラグが出たよ?」  勇者トルネコは刃を観測停止し、剣の同一性を再構築した。失われていた刀身がもとに戻る……が、微妙に歪んでいた。観測が正確でないため、転移先で変形した状態で観測され、それがそのまま戻ってきているのだ。 「ひざまづけ!」  久津城が勇者をゆびさし、指を下に向けたが、地面に落ちたのはマントだけだった。  勇者はビックリするほどの速度で逃げていた。  虚も白虎もおいてけぼりだった。 「おおおおい?! ちょっと待てよ!」  白虎は天地と虚の手を引いて、勇者のあとを追った。 「うちのばあい、一発目が外れたらまず逃げるのが鉄則なんだよね!」 「出オチ一発芸かよ! 力のすべてを見せろよ!」 「これが僕の力!」  勇者トルネコはさらに加速。白虎らを引き離していく。 「逃げ足だけかよ!」 「転移分式を併用し、進行方向に装備を転移させていくことにより、筋力以上の加速を得られるんだよね。推力7%増し」 「そんだけのことして7%かよ! テレポートとかしろよ!」 「観測先で有機分子の構造を再現できないから、飛ばせるのは均質な金属だけなんだよね。ほかにも制約多いし」 「役に立つんだか立たないんだか!」 「殺傷力だけなら白虎の空間派歪曲分式のほうが数段上だけど、こっちは武器を「とばせる」からねぇ」 「しかもさりげなく「おれのほうがちょっと上なとこもあるぜ」的アピールを!」  そうこうしているうちに、街区の出口が近づいてきた。  あいかわらず中世風の城門だ。しかもこちらには濠があって、跳ね橋がおりていた。 「じゃあ、あそこ抜けたら南五条だから」 「気をつけろよ! 久津城は理屈通じないぞあいつ!」 「ああ、心配しないで。遭遇したら戦わず、そのまま黙って通すからね。いまは白虎らを案内する責任があるから足止め狙っただけで、外に出たあとなんて知らないことだよ」 「……」  久津城と戦ってもらう理由がない以上、あたりまえのことなのだが、なんだか不条理に感じてしまう白虎だった。  南五条の向こう側は、平凡な住宅地だった。  城壁もなければゲートもない。あちこちに、住宅地へ入れる路地が開いている。  たいていの街区が、壁やフェンス、濠で囲まれている森羅市。  そのなかにある、あまりに平和で、普通の街区だ。  だが、この都市の住人は、口をそろえて、こう言う。 『平和そうな街区ほどヤバイ』  尋常でない連中がそろっているこの森羅市で、壁もないのに、平穏な町並みがたもたれている……  それはつまり、そこには尋常ではない以上に尋常ではない超人たちが住んでいるということなのだから。 「ホントに通るの?」  虚は不安そうにしていた。 「ここをまっすぐ突っ切れたら、五条から八条まで一直線だ。しかも、三坊から十二坊まで広がってる。追跡をまくならここを通るのが一番いい」  白虎は、携帯を切った。この街区、「南地区原子町」の自治会に通過許可を申請していたのだ。 「ここの住人は苦手だなあ……」 「シッ。聞かれたらどうする」  白虎が指さすと、街区の奥から、エプロン姿の中年女性が、ゴミ袋を手にこちらへむかってくるところだった。寝起きのせいか目つきが悪い。白虎は、できるかぎりの笑顔をつくり、ごあいさつした。 「おはようございます」  女性は、じろじろと三人を観察した。 「あんたら、この街区の人じゃないね?」 「俺たちは通学支援で、いまこの「原子町」の通過許可がおりるのを待ってるところなんです」  携帯を見せるが、女性は答えず、ゴミの集積所のほうへ歩いていった。  そして――  ゴミ袋が、浮いた。  形容しがたい音を立てながら、袋が分解されていく。内容物もまたロウ細工のように溶けて形を失い、黒い粉や、キラキラ光る銀色の粉になっていく。さらにそれぞれが集まり、いくつかの立方体になった。  立方体は、それぞれ、「可燃物」「アルミ」「ガラス」などと書かれた分別箱に落ちていった。  ゴミの各元素を観測し、それぞれがまとまりになった状態を観測しているのだ。  物質の原子分解と、再構成。  やってることはおそろしいまでに高度なのだが、意味があるのだろうか。そんなことしなくても手で分ければ、いやむしろ、最初から分別して袋に入れたらいいんじゃないのかなど、さまざまなツッコミを視線にこめて、白虎は女性の背中を凝視していた。  女性は、フンッ、と満足げな鼻息をつくと、ふりかえった。 「分別は面倒でね。まとめて袋にいれて、こうやって観測するのがいちばん早いのさ」  ソーデスカ、と白虎は返事しておいた。ゴミをあっさり原子分解できるのだ。その気になれば、人間が相手でも、簡単だろう。この中年女性もこの町の住人……森羅一族を狙う刺客の一人なのだ。  そしてこの街区、ただの主婦で、このレベルだ。  この町が小綺麗なのも、住人が毎日、原子レベルで清掃しているからである。  家の建て替えなども、住民が自分の「自力」でやってしまうという。  それだけの住人が、もし天地を狙って戦闘をはじめればどうなるか……考えるだけでも背筋が冷える白虎であった。  自治会からの返事は、なかなか返ってこなかった。  女性が去ってさらに五分。自治会からの返事が来ない。  そろそろ久津城に追いつかれるのではないかと不安になってきたころ、着信があった。 「もしもし、こちら通学支援の平井白虎です、そちらは原子町の自治会の……」 『いえいえ、わたくしでございます。真木坂でございますよ』 「執事さん? なんですか?」 『原子町の自治会は、おそらく通過許可を出しませんぞ。あそこは、町の作りはオープンなのに排他的でございますからな』 「まえに通ったことがあるんですが」 『今回は無理かと存じます。ですから平井様、その街区の、ご友人に連絡をとられてはいかがでしょう。通学支援とは、ご学友どうしの互助の形をとっておりますゆえ、ご学友が通過してよしとおっしゃれば、それで通れましょう?』  白虎は、すこし考えて、言った。 「執事さん。どうしておれらがここで通過許可を待ってると知ったんですか?」 『坊ちゃんにお渡しした携帯を通じて位置を把握させていただいております。ながく立ち止まっておいでですので、おそらくそうではないかと』  あの人の良さそうな執事真木坂は、きっと心配性なのだろう。そう思った白虎は、この街区にいる、知り合いに電話することにした。 「恩とか義理とかで生きていけるとでも思ってるのかあ? あぁ〜ん?」  この都市の頂点にもっとも近い11+3sの一人、Object10.00、第十の連鎖者は、思いっきりチンピラ風にガンを飛ばしまくった。  眉間にありったけのしわをよせ、口は可能なかぎりゆがめ、ムリヤリ下からのぞきあげてくるさまは、チンピラの中のチンピラであった。  白虎がこの原子町街区において、頼れそうな知り合いは、コイツだけだ。ほかにもまともな知り合いはいるが、久津城の相手になれるのは、この兵衛三太だけだった。  そのむかし、いじめられっ子だった彼を、白虎は何度か助けたことがあり、その恩義でなんとかなるかと思ったのだが……  取り巻きを十二人も連れてきた彼は、いじめられっ子だった時代とは別人のようだった。赤く染めて逆立てた頭はむかしといっしょだが、顔は自信、というより増長が満ち満ちて、チンピラぶりは三倍増しになっていた。  白虎がうんざりして黙っているのを、ビビッたと思ったのか、満足げに背を伸ばした。櫛を手に、気取ったしぐさで、真っ赤に染めて逆立てた、髪の毛を、さらに逆立てはじめる。 「そりゃあな、ほんの三年ほどまえ、そうオレが中坊のころはよ? 平井白虎っつったら、あの無色虚を第八の黎明から救い出した、とんでもねぇガキだったさ。11+3sの第三の空撃者と呼ばれるはずだった無色虚を守る男。まさに雲上人。そのころのオレだって、まあガキ同士のケンカじゃあ、ちょっとしたもんだったが、空間系の観測者にケンカ売れるほどじゃあなかった……」  指先で器用に櫛を回し、ビシリと止めて白虎を指し示す。 「だがおれは変わった! おれに秘められし能力が大・覚・醒! いまじゃどうだ? 頂点まであと一歩だ! この町ベストテンなら、上位ランクイン確実な実力者! 量子派ニュートリノ分派の観測者だ! 指先一つでダウンどころの話じゃあねぇ、視線一つで核爆発! この無敵に勝てるヤツなんてなあ、いねえなあ!」  両手を広げてワキワキさせると、とりまきが拍手した。やる気のなさそうな拍手だ。  白虎が言った。 「久津城に追われてるんだ」  兵衛の顔が、七変化した。まず恐怖。そしてそれを覆い隠そうと顔をゆがめ、笑おうとして失敗し、酸っぱいモノを食べたような感じになって、視線がめまぐるしく周囲を踊った。なんとか笑顔になったものの、頬が派手に引きつっている。  兵衛は、久津城にケンカを売ったことがある。それも、市外学園でだ。そこなら観測合戦にならないと踏んでの、素手でのタイマン勝負。それまで兵衛は、タメ年との殴りあいならそれなりに自信があった。  甘かった。  結果は全治三ヶ月。  それも、たった一発。  久津城の拳をガードしただけで、兵衛の腕と、その下の肋骨三本がへし折れたのだ。  それ以来、兵衛は久津城の名をきくだけでビビるようになってしまった。 「マ、マジですか?」  口調も、昔、白虎を「アニキ」と呼んでいた時代に逆戻りだ。 「オプションに霞宮連れて、さっき「剣の使徒」の街区を壊滅させた」  白虎の背後、「剣の使徒」街区で派手にたちのぼる土煙を目にし、第十の連鎖者は、どんどん情けない顔になっていった。 「11+3s同士なら、町の中でも不戦の不文律があるだろう。久津城を説得してほしいんだ。このまま街区の破壊を続けられてインフラに被害が出たら、「アレ」が出てきて収拾がつかなくなるかもしれない。そのまえに久津城を止めたいんだ」  第十の連鎖者は、逃げ道をさがすネズミの目つきで左右を見まわし、すばらしいことを発見したような口調で言った。 「お嬢、お嬢がいる。お嬢は白虎のこと好きだろ。頼んだらきっとさあ……」  もうすっかり弱腰だった。久津城との直接対面を避けることしか考えていなかった。 「お嬢はダメなんだ。ちょっといろいろあって……今回は、11+3sで頼れそうなのは、兵衛しかいないんだ」  兵衛は、どっと汗をかいた。目だけを背後にやり、取り巻きに見つめられていることを知り、さらに追いつめられた顔になった。取り巻きの手前、あんまりみっともない姿は見せられない、それだけが兵衛を支えていた。  兵衛の量子派ニュートリノ分式は、各種ニュートリノを観測し、中性子の崩壊を誘発する。電子と陽子、もしくは陽電子と陽子を放出させ、対象を内部から破壊することができるのだ。殺傷力はきわめて高いが、兵衛本人も放射線被曝の危険がある。そのため、単体で使えないとされ、核子派と電磁派のとりまきと組まされている。  とりまきはべつに彼の人望によって集まったのではない。組織が用意した、兵衛の観測の副作用を防御する担当なのだ。かれらも、一人一人ではかの一族に対抗できないため、しぶしぶ兵衛に付き従っているにすぎない。  あまり弱腰なところを見せると「とりまきが他に乗り換えてしまうかも」という恐怖が、兵衛に虚勢を張らせているのだった。  虚が、チョコレートクッキーをさしだした。 「わたしからもおねがい」  これでもう退路は断たれた。  女の子、しかも無色虚に頼まれて、拒否するなど、兵衛には不可能だった。  チョコレートクッキーを受け取ると。それを泣き笑いの顔でほおばる。 「ま、任せておいてくれ……なあ?」  すがるように取り巻きを振り返ると、全員が視線をそらした。  兵衛は、ガンを飛ばしていた。すくなくとも本人はそのつもりだった。  だが、まわりからは、怯えているようにしか見られていなかった。  久津城はいつもの鮫の目つきである。  兵衛が必死で眉間にしわを寄せているのとは対称的に、のっぺりとした無表情で、まるで石か空き缶でも見る目であった。路上のガムのほうがまだ感情をこめて見られるであろうほどに、相手になんら価値を認めていない目だ。踏みつぶしても、三秒後には忘れているていどの存在を見る目。 「お、おう、久津城。この街区じゃあ、おまえにはデカイ顔をさせねぇぞ? わかってんのか、ああん?」  顔をかたむけて近づける。精一杯の三白眼も、久津城の、変に底光りする普通の目より迫力がない。  霞宮は、久津城の背後にかくれていた。  もし二人が戦闘になれば、まず狙われるのが霞宮だ。兵衛は久津城の観測種別を知っている。久津城に弱点といえるものがあるとすれば、それはオプションなのである。つまりいま、霞宮こそが久津城の弱点なのだ。  しかし観測戦闘にはならない。なぜならば、久津城の観測種別は、敵対するものたちにとって桁違いに脅威だからだ。  威力の問題ではない。種類が問題だった。  微動だにしない久津城を、兵衛は挑発しはじめた。 「なあ久津城よお、てめえ、無色を白虎にとられたんだって? だから白虎を恨んでんだろ? 女をとられるような腰抜けが、いつまでも威張ってんじゃねーぞコラ」  ケンカの場数自体なら、おそらく兵衛が上だろう。  だが、精神のありようの質が違うのだ。  兵衛は、相手が降参すれば見逃してやるし、負けそうになったら逃げるし、つかまったら土下座する。許してくださいと泣きわめくのは、けっこう得意だ。戦績は勝ち負け半々といったところか。降参した相手には勝ち誇り、うち負かされればゴマをすりつつリベンジを狙うのが、彼の世界だった。  久津城は違う。  久津城は、自分の命に、たいした価値を感じていない。それはつまり、自分以外のすべての命もおなじくらいに軽いということだった。  だから、降参するとか降参しないとかいう次元に生きていない。精神性をそぎおとした物質の世界、相手が自分の射程範囲にいるかどうかだけの世界に生きている。  ガンをとばして言葉で威嚇するようなマネはしない。  久津城は一言も発しないまま、いきなり兵衛の顔を殴りつけた。  ふらふらと後退した兵衛は、顔をおおった手のすきまから鼻血をだらだら流しながら、うめくように言った。 「て、てめ、やる気かコ、お、ああっやめてやめて」  すごもうとした兵衛の襟首を、久津城がつかんで引き寄せたのだ。鼻が触れるほどの距離で、久津城は無表情に言った。 「おれは、11+3sというものには、それなりの敬意を払っているつもりだ……この町の人間にもな」 「ど、どこが……」  鼻が血でつまり、兵衛は口で大きく息をした。 「だが、おれたちと無色の関係について、くだらん解釈をするな。無色はそういう存在ではない。この世がまちがっていないのならば、無色は第三の空撃者として、おれたちと名を連ねていたはずだ。どこかで歯車が狂った。狂わせたのは平井白虎だ。だからおれたちはヤツを憎む」 「ずいぶん、しゃべるじゃねぇかよ」 「ヤツに追いつくため、街区を通過させてもらうぞ。迂回したら追いつけない」 「こ、ここまでやっておきながらよお、行かせると、お、思うか」  血の混じったツバを吐き、なけなしの勇気をかきあつめて、久津城と視線を合わせる。 「11+3sの不文律により、観測能力による決闘はしない。だが、素手でのケンカは禁止されていない」 「素手でケンカなんかよお、してられるかっつーの! おれたちゃ11+3sだぜ! そのへんの一般ピープルといっしょにされてたまるか!」 「おまえがしなくても、おれはやる」  久津城の手に力がこもる。襟をつかんだ右手だけで、兵衛の足を地面から浮かせた。単純な腕力だった。  久津城は、残った手で兵衛の頭をつかんだ。中指を耳の穴にかけ、親指を目に入れてきた。目をえぐろうというのだ。  原子の操作や空間超越の奇跡より圧倒的で、直截的な恐怖。兵衛は反射的に叫んでいた。 「わ、わかった、と、通してやんよ、ただ通るだけだ、なにもすんなよ! この街区で戦闘したら、てめぇ、こ、殺すぞ」  久津城は兵衛をわきのブロック塀に叩きつけた。むせながら、鼻をおさえながら、兵衛は顔をあげられない。口では威勢のいいことを言ったが、顔を見上げることもできなかった。  とりまきも、久津城(と霞宮)が進むと道をあけた。 「ヒドイ目にあってなきゃいいんだが……」  白虎は、何度目かの不安を口にした。  虚と白虎は汗だくである。天地は涼しい顔をしていた。  最初は早足で歩いていたのだが、途中からとある事情で全力疾走するハメになったのだ。  おかげで、予定の半分の時間で「原子町街区」を通過した。  いまは市を四分する大通りの一つ、タテカン乾ぞいのバス停にいる。 「タテカン乾・南八条停留所」とある。タテカン乾と、ヨコカン南八条が交わる角にあるバス停だ。  ちなみに南は一条あたり約二百メートル、二十六条まであるから、市街地だけで五キロ。緩衝公園やら外郭広場をあわせると、森羅家から市の境界までは七キロある。  「タテカン乾・南八条停留所」は、直線で森羅家からおよそ二キロとすこし。  学校までの道のりを、三分の一まで踏破したことになる。  で、これだけいろいろあったが、信じられないことに、出発からまだ三十分もたっていない。  いろいろあるだろうと見越して、かなり早めに出発しておいたので、まだ朝は早い。  バス停には、三人の他には誰もいなかった。 「明鏡院さんって、白虎には親切だよね」  汗だくの虚が言うと、白虎は汗だくの上に、脂汗を流した。 「とくに好かれるようなことをした覚えはないんだが……」 「なにかにつけて親切にしてたじゃん」 「いや、それは、あいつが荷物を持ってるときにかぎっておれにぶつかってくるから、それを拾ってやったら感謝され、バスの切符を落としたと言うから金貸してやったら感謝され……」 「それってアタックされてるってことだよね」 「……あまり考えたくはないが、そうかもしれん……」  白虎は頭を抱えた。  明鏡院遊南はすごい美人でスタイルもいいのだが、学校においては、 『付き合って幸せになる未来像が浮かばない女子生徒ランキング第五位』  の地位を占めている。白虎も、遊南と二人で楽しくデートする光景は、どうやっても想像できなかった。  虚あたりだと、お菓子の買い出しに付き合ったりして、それなりに普通にデートらしい行動がとれそうな気がするのだが…… 「あの人って、どうしてだか、みんなから腹黒いって思われてるよね」 「陰があって天然なのは事実だが、そんなに腹黒いとは思わないんだが、なんだろうな、あのなんともいえない感じ」  言ってるうちに、バスが来た。  白虎はさらに脂汗を流す。  バスは、大型のシャトルバスというやつだ。  だが、走ってきたのはいいが、エンジンがかかっていない。  しかも、運転手が乗っていなかった。  バスの屋根は手すりに囲まれており、通学時間にはここに自警団が乗ってにらみをきかせているのだが、それもいない。  ただ、乗客が一人だけ。  バスの中ほどの席でにっこりとほほえんでいるのは、明鏡院遊南だった。 『お困りでしょう? バスを都合いたしましたので、途中までご一緒しません?』  お嬢……明鏡院遊南からいきなり電話がかかってきたのが五分前。  都合って、どうやって? とか、遠慮しますとか、そういうことを言うと、なんだかあとが恐そうで断れなかった。『跡継ぎさまもご一緒にお送りいたします。五分後にタテカン乾の八条バス停でお待ちしております』というのを黙ってきいているほかなかった。  たぶん純粋に好意からの行動ではないだろう。なにかされるのは確実だった。  かといって、無視するのはもっと恐い。もし怒らせでもしたら、冗談抜きで生きていられないかもしれない。  お嬢が怒ったところを見た人間はいないという。  怒ったところを見て生き残った人間がいないというのが、この町の定説だった。  お嬢は原子派重金属分式だが、その観測界の広さと精度は桁外れだ。食事をしながら、百メートルはなれた十人の耳に、正確にピアスを付け外しできるという。  11+3s、Object6.00、第六の鋳造者の名は伊達ではない。  その彼女のお誘いを断るなど不可能であり、待たせるのも論外である。  というわけで、三人は必死こいてここまで走ってきたのだった。 「罠じゃないといいね」  虚がささやいてくるのを、白虎は必死で「しーっ」と黙らせた。 「聞こえたらどうすんだよ!」 「あら。罠なんてそんな下品なこといたしません。かの一族との決着をつけるときは、ご挨拶の言葉と時と場所をしるしたお手紙をさしあげてから、正々堂々と立ち会うつもりでおりますのに」 「思いっきり聞こえてるよ……怒らないでくれ」 「あら心外。そんなことで怒ったりはいたしません。とくに白虎さんですもの」 「ソーデスカ……」  白虎と虚がビクビクしていると、天地が動きをみせた。二人とお嬢を見くらべだしたのだ。白虎と虚の反応から、相手が敵か味方か区別しようとしてる動きだ。 「味方だからな、虚、クッキーで教えてあげて」  お菓子と情報をあたえ、敵か味方かをはっきりさせておく。  バスのドアは、音もなく開いた。これが夜中なら、幽霊バスとして都市伝説になったことだろう。  ここのシャトルバスは電車とおなじく、窓ぎわに長い座席が設置してある。  白虎らは、お嬢のしめすとおりに、右に白虎、左に天地が座った。虚は思いっきり離れたはしっこに陣取り、窓の外をながめている。 「あいつはひとりが好きだから」  白虎がフォローすると、 「あら。わたくしと同じですわね」  と返された。  バスは音もなく発車する。エンジンが動いていないのだから当然だ。  お嬢がバスの車体を構成する金属原子、そのベクトルを自在に観測してバスを操っているのだ。バスを走らせるていどなら、呼吸とおなじくらいに楽だという。 「どうしてこんな……その、送ってくれるんだ?」 「わたくしは、跡継ぎさまを大切に思っております。足がなくて困っておいでのようでしたので、都合させていただきました」 「どうしてそれを?」 「いろいろ情報網がございます」  はぐらかされる。白虎はしかたなく、直球で行った。 「それはつまり、この森羅天地の行動情報がどこかに流れていると?」 「……いえ、わたくしが追っておりますのは、白虎さんのほうですわよ」  嘘だな、と白虎は直感した。お嬢は、あんがい嘘が下手な気がした。 「おれの情報に誰でもアクセスできるとは思えないんだが」 「ええ、限られた者だけのようですわね」 「何人くらい?」 「さあ……」  このあたりに嘘はないように思えた。天地の情報は、ほんの一部にしか流れていないのだ。  剣の使徒街区でも、原子町街区でも、天地の情報は流れていなかった。  久津城と、お嬢には流れている。釘切一家と、NSGCも知っていた。6140部隊はNSGCの通信を傍受して知ったようだ。  白虎は、窓から外をのぞいた。監視や尾行がついていないかさりげなく探るが、なさそうだ。 ・釘切一家があちこちに情報を流し、それでマークされている。 ・通学支援本部がリークしている。 ・天地の携帯を通じて、執事が情報を流している。  可能性は三つほど考えられるが、二つ目はない。通学支援の制度が崩壊してしまう。  三つ目もない。意味がない。  自分の仕える一族の子を襲撃させる意味がなさすぎる。  お嬢は、天地をぺたぺた触っていた。  天地はされるがままになっている。『おっぱいが大きい人になつく』という虚の仮説が正しいのか、それとも別な理由があるのか…… 「あら跡継ぎ様、さっきから黙ってらっしゃいますけど、ご気分でも悪いのかしら」 「なんだかよく分からないんだけど、喋ったらダメらしいんだ」 「量子発勁とバタフライ効果力学でしたわね。なにか関係があるのかしら? どうなのでしょう、跡継ぎ様?」  目をのぞきこみながら優しく言うが、天地はとくに肯定も否定もしない。  もしかすると、将来に敵となることを見越して、情報をあたえまいとしているのかもしれない。天地の思考は単純なようだが、愚かではないようだった。  お嬢は、柔らかい手つきで天地を引きよせて寝かせ、膝枕した。天地は抵抗しない。 「あら、おねむなのかしら」 「そうでもないと思うが……」  天地はきょとんとした顔をしている。状況の把握に困っているようだ。  お嬢はしばらく天地の頭をなでていたが、やがて白虎を見た。  ……陰のある大きな瞳で、白虎を見つめた。  もうそれだけで、分かってしまった。お嬢がなにをしようとしているのかを。  言わせていいものか迷い、言っていいものか迷う二人、白虎が機先を制した。 「おたがい、辛い立場だな」  お嬢は視線を落とし、下唇を甘く噛んだ。 「あら、そんなに優しくされると、泣いてしまいそうになります」 「おたがい、だよ」  すでに白虎はチリチリするような集中観測をはじめていた。  だが、お嬢は、幸せそうに、天地の頭をなでるだけだった。 「わたくしをなじらず、しかもおたがい、だなんて……そこまで気を使っていただけるなんて。では約束いたしましょう。跡継ぎさまは、ちゃんと無傷で連れて帰ると。それでいかがかしら?」  お嬢の言葉、提案でも懇願でも要請でもない。  最後通牒だ。  白虎に気をつかってはいる。だが、退く気はない。  その証拠に、白虎の指先は、すでに真っ白になって痺れてきている。ヘモグロビン内の鉄分を観測され、酸素や二酸化炭素との結合が阻害されているのだ。  このバス全体がお嬢の高密度な観測界であるため、すでに波動関数が大きく偏っており、攻撃の予兆である波動関数の微細な偏向を察知できない。  虚もお嬢を指さしてはいるが、白虎や天地との距離が近すぎてためらっているようだった。  じつは、虚とお嬢の相性は、思われているほど悪くない。虚がその気になりさえすれば、お嬢は一撃で即死するだろう。  ただし、お嬢を即死させないと、虚は負ける。  11+3s同士の戦いは、シンプルだ。「先手で即死させた側の勝ち」。それだけだ。  虚は、精神的な問題解決……つまり人にむけて躊躇なく「銃弾解凍」ができれば、いますぐにでも11+3sに名をつらねることができる。  いまここでお嬢をうちたおせば、その瞬間、第三の空撃者が誕生するのだ。  お嬢は、静かに微笑み、聖母のように天地の頭を撫でていた。  緊張はない。だが、その指先の動きは、しだいに堅くなっていく。  やがて虚は――  指を下げた。  無理なものは無理なのだ。  すがるような目を白虎にむけてくる。  白虎とて、すでに両手が動かなくなっていた。正座したときのようなしびれが、腕を這い上がってくる。これが心臓にまで到達すれば、たぶん死ぬだろう。炭酸ガス交換が阻害されていることで、貧血のようになり、目の前が暗くなってきた。空間観測もほとんどできない。 「白虎さん、そろそろ、お返事いただけるかしら」  選択の余地はない。だが、認めるわけにはいかない。  天地を本格的に攻撃したらなにが起こるのか、予想もつかないからだ。  さっきは一街区だけですんだ。  だが、一街区壊滅させても、天地は本気ではなかった。  本気になったらどれほどか……想像もできない。20世紀クレーター再現の可能性すらある。  お嬢に誠意があるのは疑いない。しかし、お嬢に誘拐を指示した人間に誠意があるとは、とうてい思えなかった。  しびれは肘をこえ、肩にせまってきた。お嬢の瞳がかすかに揺れ、冷たい光を帯びる。  このままでは殺される、と白虎は思った。  だが、救いは意外なところから現れた。 『いつまでもうだうだうだうだ! あんた話長いっつーの!』  バスの無線機だ。とつぜん電源が入り、誰かの大声が聞こえてきた。  お嬢は無表情に無線機を見た。 「あら、邪魔をしないでいただけません?」  返事に回転の速いカン高い声が飛びだしてきた。 『いーからさっさと連れてこいっつーの こっちも好きでそっちと組んでるわけじゃないっつーの! さっさと終わらせたいっつーの! どーして言うとおりに強奪してこないんだっつーの! つーの!』 「それは……わたくし、あなたが嫌いなので……」  白虎は身震いした。第六の錬成者に嫌いと明言されて、心穏やかでいられる人間などいないだろう…… 『バーカバーカバーカ、気取ってんじゃないよバーカ! こっちはもっとそっち嫌いだっつーの! つーの!』  いた。無線機のむこうに。  ピキィッ! と、バスに異音が走った。お嬢の精神が乱れ、観測界に、かなりのむらが出た。それでバスが「ひずんだ」のだ。  救いかと思ったら、火に油を注ぐ敵だった。  天地も身を起こし、お嬢と無線機を交互に見た。  お嬢の気配が硬化し、きっぱりと言った。 「やはり跡継ぎさまの引き渡しはお断りいたします。もとよりあまり気が進みませんでしたし」 『はぁああああ? いまさらなーに言いだすっつーの! 話ちがうじゃんバーカ! 論理的理由を説明しろっつーの! つーの!』 「論理的理由……」  お嬢は、頬に人さし指をあて、すこしうえを見て数秒ほど考え、言った。 「ございませんわね」 『ございませんっつーな! ござれ! ござれ論理! 感情で生きるなっつーの!』 「でもやっぱり、誘拐にもムードというものが大切ではございません?」 『誘拐にそんな上品なもんございませんっつーの! バーカバーカバーカ、もういいっつーのバーカ! じゃ、ポチッとなっつーの』 「お嬢、相手だれだ?!」  思わず白虎はさけんだ。予想が正しければ、11+3sの誰かだ。 「名前を口にするのも気が重いのですけれども……」 「西条だな? 11+3s、Object12.03、第十二の理創者!」 「ええ、残念ながらその通りでございますわね」 「仕掛けてくるぞ! あいつはマッドサイエンティストだ!」  西条。11+3sの一人、第十二の理創者。  生物分子内功派、大脳生理分式。  お嬢は、自分もふくめた、周囲や他者の観測を得意とする両功派、白虎や虚は周囲の観測を基本とする外功派だ。  それに対し、内功派は、自分の体内の観測に特化している。  西条秀子の、生物分子内功派、大脳生理分式は、自分の脳神経を構成する生体分子の観測に優れている。  自分の脳を理想的な状態に観測し、思考力を強化、その思考力をさらに脳の観測に回して……という内功循環強化により、この世のすべてのコンピューターに匹敵する演算能力と、常人ではありえない発想能力を獲得しているという。  そのせいかどうかは知らないが、性格にきわめて難があり、つねに人を困らせる発明をおこなっているとか。  バスを、閃光と異音が輪切りにした。  お嬢と天地のあいだに、細い溝ができていた。その溝は、壁・天井・壁・床と一周し、天井の溝からは空が、床の溝からは流れ去る路面がのぞいていた。  さらに閃光。  今度は、お嬢と反対側の、天地の横に溝。車内に溶接の煙と異臭がたちこめた。お嬢がハンカチで口元をおおい、窓を開けた。 「電磁外功派光学分式、いや、レーザー砲だ!」  窓からあたりを見まわすと、上空をゆく飛行船があった。その下部ゴンドラに、いかにも怪しげなメカが搭載されていて、こちらの動きを追尾していた。  閃光と異音が連続し、バスを縦横無尽に解体しはじめた。 『二百五十六基のガスレーザー同時照射だっつーの最大合計出力2048KWだっつーの切断板厚最大1300ミリだっつーの電力は地上から送信するタイプだからガス欠はねーっつーの廃熱を気球の浮力に利用だっつーの新型防空システムの試作品だっつーの!、つーの! はー、はー、シュコー、シュコー』  最後のほうは息切れし、酸素吸入している音だった。西条、体はそんなに頑丈ではない。  お嬢がバスの車体の分子状態を変化させ、外壁を鏡面にした。  跳弾したレーザーが路面を焼き切り、爆炎とともに深い溝を刻んだ。 『そこまで切り刻んだら、ふつうバラバラになってるっつーの! この観測バカ、バーカ!』 「いくら切り刻んでも、このバスは止まりませんわよ。わたくしが観測しつづけるかぎり。それとも、わたくしをお狙いになります?」  お嬢が挑発している。動揺していた。守りにまわると弱いタイプだった。 『シュコー、そっち殺ったら他の11+3sに狙われるっつーの! それより今日のビックリメカ登場だっつーの、つーの!』  バスの横に、象ほどもある大きな蜘蛛が「着地」した。  多脚車両。八本の足の先端に車輪がついており、整地路面は車輪で走る構造だ。  バスに併走すると、窓ガラスをブチ破って、普通乗用車ほどのタイヤがついた「足」を突っ込んできた。いや、一本が腕ほどもある巨大な指が五本あるから、手なのだろうか。  お嬢は重金属の観測にすぐれる。金属を含まないガラスは強化も操作もできない。  さらに――  多脚車両をにらんだお嬢は、ハッとして顔をこわばらせた。  無線機が楽しげに叫びまくる。 『バーカバーカ、無人操縦かつそっちの観測外の軽金属とプラスチックだけで作ってあるっつーの! 水平リーベ僕の船、なーにまがあたりの! アルミ以降はやばそうだから除外したっつーの! 重金属原子を徹底除去したカーボンファイバーとプラチックとマグネシウム合金のフレーム、重金属観測バカのそっちには、手も足も出ないじゃろーがーシュコー』  セリフが長くなると酸素吸入が必要らしい。  アームが、天地へ伸びていく。 『でもこっちは手足が八本あるっつーの!』  天地は、アームによって襟首をつままれた。きょとんとしたまま、ぷらん、と猫の子のようにつまみ上げられる。  お嬢はバスの構造材を剣に変え、アームに叩きつけた。  観測で原子を固定してやれば、切れ味は桁ちがいに増す。さらにベクトル観測で加速すれば、車でも一撃で両断できる。  だが、耳に痛い異音がし、剣が弾かれ天井に刺さった。刃が欠けていた。 『炭化ホウ素装甲だっつーの! そのへんのバスの構造材とは物が違うんだっつーの! つーの!』  多脚車両を指さしていた虚も躊躇した。お嬢の剣すら弾くなら、銃弾はまず効かない。跳弾が車内の人間を吹き飛ばしかねない。  となると、頼みは白虎の空間派歪曲分式なのだが。  指先から肩までしびれ、貧血状態のままだ。 「お嬢、おれへの観測を解いてくれ!」  返事はない。お嬢は動揺し、頭に血がのぼっているようだった。あるいは白虎と組織を天秤にかけているのか。  天地は、窓の外につまみ出された。多脚車両の上部が開き、妙に座り心地のよさそうな座席へ天地をおさめた。  座席にはありとあらゆるリラクゼーションメカが完備されていた。精神を弛緩させる優しい照明から心地よい音楽から落ち着くアロマ。さらに座席はマッサージ機能つき。天地がきょとんとしているうちに、それらがフル稼働、精神を落ち着けた。  ハッチが閉じる。なにもおこらない。天地はリラックスしてしまった。 『イヤッハー、いただいたっつーの!』 「させませんわよ」  お嬢の目が、暗い光をおびた。レーザーでさんざん輪切りにされ、ズタボロになったバスは、地獄の幽鬼の凄みで多脚車両の追跡にかかる。 『バーカバーカ、アディオスだっつーの! つーの!』  多脚車両が、跳んだ。対向車線に入り、さらに跳ぶ。  脚力にバーニアを加え、象ほどの巨体が月面歩行か水中遊泳の軽さで、ふわーり、ふわーりと移動する。  尋常ではない機動性だった。この森羅市きっての天才マッドサイエンティストの作品は、現代科学の限界をたやすく越える。  多脚車両は西地区のビル壁を飛び越え、街区に入ってしまった。  追跡は不可能だった。  バスは路傍に停車した。  お嬢の落胆そのままに、車体が崩壊していく。ばらばらに切り刻まれた車体を、お嬢の観測だけで支えていたのだ。  残骸の山となったバスのよこで重い吐息をつくと、お嬢はうつむいたまま言った。 「白虎さんには、大恩に報いることもかなわず、負債ばかり……いつかこの埋め合わせはさせていただきますから、今日は、……」  お嬢は泣きそうに息を震わせ、その先を言いよどんだ。  お嬢は、本気で落ちこんでいた。  白虎と共闘すれば、なんとかなったかもしれないのだ。  11+3sは頂点をめざしているがゆえに、共闘という概念が薄い。強力すぎて、他人がついてこれない、あるいは巻き込んでしまうからだ。基本的に、一人で戦わねばならない。だからこそ、いまのお嬢のように動揺して判断を誤ると、脆い。  さらに、11+3sの作品とはいえ、ただの物質で構成された多脚車両に11+3sである自分が敗北した、その事実が、お嬢をより落胆させていた。  なにより、白虎に責められると思って、怯えさえしていた。白虎の邪魔をしようとしたのはたしかだし、攻撃もした。  だが、白虎には、お嬢を責める気などない。  彼は通学支援だ。街の住人との対立はいつものことだ。この街にはいろんな人間が、いろんな利害を背負って生きている。それをいちいちうらんでいては、身が持たないし、益もない。 「じゃ、また学校で」とだけ言って、白虎と虚はその場をはなれた。 「どうするの?」  虚の問いかけに、白虎は額に手をあて、ため息をついた。  どうにも手がなかった。どこにさらわれていったか、それもわからない。  かといって放置はぜったいにできない。このままでは大惨事になりかねない。なんとしてでも天地を回収しなければならなかった。  とりあえず西地区に向かう。  西地区は、ビッシリならんだ五階から十階建てほどのビルが壁になっている。  西地区の住人にいわせると、 「無駄な壁など場所と労力の無駄、ビルなら厚みが稼げるからただの壁より阻止力が高く、さらに内部を利用できて経済的」  なのだそうだ。  窓はあるが、たいてい厚い防弾ガラスだ。ビルだが壁でもあるので、入り口は極端に少ない。  西地区は常人の研究者が多いので、南地区のような荒くれた緊張感はない。  経済的にも豊かで、ヨコカンも第二タテカンも清潔。道ばたに街路樹や噴水があることもある。  住人の車保有率が高いのも特徴だ。西地区では、やたら車が目につく。  そういった近代的な街並みも、二人の目にはほとんどはいっていなかった。  天地のことで頭がいっぱいだった。  やみくもに探しても見つからないだろう。  西条秀子はその才能から、複数の街区で優遇されているらしい。  心当たりのある街区を片端からあたるしかない。白虎は地図を確認するため携帯を出した。 「そうだ!」  白虎が声をあげると、虚も気づいたようで、ハッとした。 「執事に電話して、位置を確認できないかきいてみ――」  携帯を耳にあて、笑顔で虚をふりかえって、白虎の声がとまった。  虚の背後に、視線が釘付けになる。  久津城と霞宮が、こちらへ向かってくるところだった。 「追いついた……」  久津城は、平井白虎に焦点を合わせた。 「届くか?」  よこにいる霞宮に、鋭い声で問う。霞宮は、やや疲れたようすで、だらっと立っていた。 「わたしの観測界は、縦方向には伸びるんですけど、水平は弱くて」 「なら寝ろ」 「いえ、姿勢じゃなくて、地球のほうとのかねあいですが、って、アレ? 昔の顔合わせのときに特性説明しましたが? まさか忘れましたか? 久津城くんのばあい、わたしの特性を知ってもらってないと困るんですが!」  久津城は、黙って前進をはじめた。霞宮もついていく。 「あのー、久津城くん」 「なんだ」 「虚姉には、もうちょっと他の方法でアプローチするほうが効果的だと思うのですが。たとえば靴箱に手紙を入れてみるのはどうですか?」  久津城は、理解しがたい、という困惑顔で霞宮を見下ろした。 「なんだ、それは?」 「なんだって、虚姉へのアプローチですが」 「手紙で伝わるものか。とりあえず平井白虎をブッ飛ばして、無色を連れて帰る」 「あー……だから、女心が分かってないといいますか」 「そんなものは、世界の頂点をとってからでいい。いま必要なのは力だ」 「久津城くんの観測対象からすると、もうちょっと人付き合いというものを身につけたほうがいいと思うのですが!」  久津城は鼻で笑った。 「言うことを聞かないやつは殴ってやるだけだ」 「そーゆー性格だから虚姉が逃げるブツブツ」 「なんだ? 聞こえないぞ。言いたいことがあるなら聞いてやる。カンに触れば殴るがな」 「ならむしろ聞かれたらこまるんですが」 「なに?」 「いえなんでもないです……が?」  霞宮が真上を指さす。久津城も見上げた。  その先に浮かんでいた飛行船が、二百五十六基のガスレーザー同時照射の最大合計出力2048KWを久津城めがけて照射した。  爆炎が二人を覆いかくした。   『ヒャッハー、直撃したっつーの!』  飛行船の指向性スピーカーが、回転の速いカン高い声を地上に照射した。 『久津城、こっちにちょっかい出したら、こんなもんじゃすまないっつーの! こっちの超科学による最大殺傷力実体験コースだっつーの!』  爆煙ただよう街路に、西条の声だけが響きわたる。  煙が晴れると、鮫の目に殺気をまとわせた久津城と、うんざりした霞宮が無傷で立っていた。  今度は非殺傷の、可視光線レーザーが放たれた。  光線は久津城のまわりで弧をえがき、あるいは散って路面壁面をなめる。 『なるへろ。ま、11+3s相手じゃこんなもんでは決まらないと思ってたっつーの』  上空から声が降ってくる。距離は三百メートル以上あるのに、クリアな音質だ。特殊なスピーカーを使い、音をビーム状にして伝えている。この手の機械の設計は、西条なら寝ていてもできる。 「おれを見下ろすな」  久津城は、人さし指で飛行船を指さす。  と、どのような作用か、頭上高度三百メートルほどにある飛行船が、じりじりと高度を落としはじめた。 『えっとどく? まさか観測界が300メートル超えてるっつーの? しまった、うわーっうわーっ、バカバカ壊すなバーカ、それ引き渡し前の試作品だっつーの!』 「壊しはしない。壊れるだけだ」  久津城のサディスティックなつぶやきを、集音マイクで拾ったらしい。飛行船がわめきかえした。 『論理にはそっちが壊してるんだっつーの!』 「だから?」  久津城は嗜虐の笑みを濃くしただけだ。  飛行船はすでに高度百メートルを切った。 『わかったわかったっつーの! 話し合い、話し合いしようっつーの!』  先に撃ちまくり挑発したあげく話し合いとは。すがすがしいほどずうずうしい。  久津城は鼻で笑いながら、言った。 「ラスボスのガキはどこにいる」  逡巡。  久津城が人さし指を、くっ、と曲げると、飛行船がガクンと高度を下げた。 『わーわー、西地区二十二条四十五坊、しらぬい研究街区だっつーの! そ』  スピーカーから轟音が響き、通信が切れた。  同時に、そう遠くない場所で、なにか……目に見えない波のようなものが生じた。  ふと見ると、離れたところにいた白虎と虚が、なぜかジャンプしていた。  白虎と虚はそろって飛んだ。あの不可視の波は、天地のバタフライ効果力学派のものだ。ただの足踏みを、地震にする連鎖反応の予兆。  やや遠くでビルの崩壊のような轟音が響きわたった。だが、地面は揺れなかった。  破壊範囲が完全に制御されている。  まちがいない。  天地の攻撃だ。 「このあたりは西地区二十一条の四十六坊だ、しらぬい研究街区は近いぞ!」  ふたたびなにかが広がり、轟音が――さっきより大きな轟音が響きわたった。 「あれ、あれ、」  虚が指さす先に、もくもくと土煙がたちのぼっていく。尋常ではない規模だった。まるで爆撃でも受けたような…… 「あそこだー!」  白虎と虚は全力で駆けだした。  止めなければ。もしこのまま天地が暴れれば。「かかと踏み下ろし」や、あるいはそれ以上の技を繰り出したら。  町が、滅ぶ危険性があった。こどもでも、かの一族の一員だ。その破壊力は想像を絶する。また二十世紀クレーターみたいなものが生じたら、被害は、はかりしれない。いくら覚悟ある刺客たちが集まる街とはいえ、白虎や虚としては、あんな惨事は避けたかった。  なんとか確保し、なんとか落ち着かせなければ。それだけが頭にあって、久津城のことが飛んでしまっていた。 「平井白虎ォオオ!」  怒号とともに、久津城が手をふった。それにつられて飛行船が急加速。ビルほどもある巨体が、あっさり音速を突破して白虎らにせまった。  それが、とつぜん消えた。激情にかられて加速しすぎたため、虚の観測界に入った瞬間、高次元圧縮されてしまったのだ。  久津城は舌打ちする。 「くそ!」  霞宮は地面にしゃがみこんだ。疲れた顔をしている。 「もう今日はあきらめますか? 出力100%超でそろそろ限界ですが」 「うるさい黙れついてこい」  傲慢きわまる命令をくだすと、久津城は霞宮を脇にかかえて走り出した。  優しい音楽が止まり、ハッチが開いた。  多脚車両の座席から、ひょこっと天地が顔を出した。一周見渡し、首をかしげる。  そこは、巨大なドーム内だった。野球場ほどの広さがある。観客スタンドはなく、絶壁になっている壁の高い位置にガラス窓がならんでいるだけだった。  壁には何度か補修されたあとがあり、ここではなにか荒っぽいことが行われているのを暗示していた。  多脚車両は、巨大な手で天地の襟首をつまむと、ぷらん、と子猫のようにぶらさげ、地面に立たせた。そうしておいて、さっさとローラーダッシュで立ち去る。 『目が覚めたかっつーの!』  どこかのスピーカーから、カン高い、回転の速い声が響いてきた。  天地は、こくこくとうなずく。 『じゃ、さっそく実験実験! メカ倒したら帰してやるっつーの』  勝手にさらってきて、好き放題に言い放題。西条はフリーダムだ。  ドーム内に警報音が鳴り響いた。  壁の赤色灯が回転し、壁のいっぽうに作られた、25メートルプールを横にしたほどの巨大な扉がスライドしていく。  多脚車両と入れちがいに出てきたのは、高さで五倍、幅で三倍、長さにいたっては十倍もある、恐竜じみた機械だった。多脚車両もたいがい大きかったが、それとならぶと、ずいぶん小さく見えた。  太い足は、足首から先だけで軽自動車ほどもあって、そんな足が六本もある。  背中と肩口には回転式の砲塔が設置され、くるくるまわりながら獲物を探していた。  恐ろしい巨体と無骨な装甲に覆われているのに、動きは気持ち悪いほどなめらかでだった。 『対ラスボス一族、威力偵察専用六脚自走無人要塞、トーチカセブン!』  カン高い声が、叫ぶ。  天地は、うむ、というようにうなずいた。  トーチカセブンが動きを止めた。  しばし、沈黙があった。 『六脚なのにどうしてセブンなんだーって、つっこめっつーの』  天地は腕を組み、んー? と首をかしげた。ギャグとかダジャレは理解できないのだ。 『もういいっつーの! じゃ、実験開始!』  肩口の砲塔が、天地に照準した。  それをきょとんと見上げる天地。 『バカバカバーカ! ぼんやり立ってるんじゃないっつーの! その右肩の機関砲は軽ガス銃っつって、音速の約十倍で弾丸を打ち出すんだっつーの! 回避とか防御とか攻撃とか、なんかしないと死ぬんだっつーの!』  天地は、ああ、というように、ぽんと手をうった。 『やりにくいっつーの! もうちょい危機感持てっつーの! これ、ホントにあの一族の一人?』  スピーカーのむこうで、数人がざわざわと議論している。 『我々ではなんとも……』 『せめて血液採取だけでもさせてもらえれば、三日以内に結果が』 『それより本当に一族の子なら、人質にしたほうがいいのでは?』 『ああうるさい、一発撃ってみればわかるっつーの』  数人が驚きの声をあげるなか、軽ガス銃が火を噴いた。  水素やヘリウムといった軽いガスは、分子運動速度が速い。通常の火薬で軽ガスを圧縮、その圧縮軽ガスで弾体を加速すれば、通常よりはるかに高い発射速度をえることができる。  秒速三千五百メートル、音速の十倍という圧倒的速度で射出されたホウ素化合物の弾体で傷つかない物体など、この世にはおそらくないだろう。  着弾音は超音波と化してドーム内を駆けめぐった。中に人がいれば、その音だけで昏倒したかもしれない。  秒速三千五百メートル、隕石の速度だ。その速度で衝突すれば、プラスチックすら鋼鉄をえぐる。この銃の、口径六ミリ、LD比三十、つまり全長百八十ミリの弾体が直撃すれば、人など血煙と散るだろう。  なのに天地は、まだ立っていた。顔の前に手をかざしている。その手のひらには、超高速衝突特有の、放射状の痕跡が残っていた。  手のひらをかえし、「ふっ」と吹くと、砕けちった弾体の粉末が飛んでいった。手のひらの真ん中が、すこし赤くなってるだけだった。 『うお……これが量子発勁っつーの? インパクトの瞬間、自分を構成する素粒子の位置を観測し、物理的影響をゼロにする量子発勁の防御、座標固定勁……』  さすがの西条も、驚きを隠せなかった。ほかの連中は絶句しているようだ。  天地は、明白な意思をもって、トーチカセブンを見つめた。  ようやく敵と認識したのだ。 『あ、久津城……あのバカ、また街を壊しに来たのかっつーの。ちょっと防君零号(ぼーくんぜろごう)で……ヒャッハー、直撃したっつーの!』  スピーカーの向こうでは、なにかやってるようだったが、天地はまったく気にしていない。ただ周囲の状況を観測し、目の前のトーチカセブンを観測する。自分から世界につながる量子的因果を読み解き、相手のところで嵐となる最初の羽ばたきを探す。最小の力で最大の破壊力が得られるポイントを見定めていく。 『論理にはそっちが壊してるんだっつーの!』  天地は、胸元に手を引きつけ――拍手をしはじめた。  一度ではない。二度三度と、小さく手をうちならす。  その動きと、手のうち合わされる音が、空気分子の衝突をうながす。衝突はさらに衝突を呼ぶ。その連鎖は、このドームの形をも利用して、空気分子の運動方向を調整していった。  空気分子というものは、ふだんは乱雑に運動している。  窒素分子や酸素分子は、およそ秒速五百メートル。  水蒸気は、秒速六百四十メートル。  それだけの速度でも、小さな分子が乱雑に衝突するだけでは、気圧や風としてしか感じることはできない。  だが、ばらばらに衝突するそれらが、もし同時に、同じ方向から衝突すればどうなるか。  それはつまり、超音速の爆風を叩きつけられるに等しい。  天地の拍手は、衝突の連鎖によって空気分子の運動方向を調整していった。  そしてある時点で分子がそろい、一方向からトーチカセブンに衝突した。  トーチカセブンは百五十トン。戦車の十倍もの容積があるわりに軽いのは、軽量素材を多用したためだ。  秒速五百メートルの爆風が直撃すれば、戦車でも空を飛ぶ。軽量構造だからこそ、さらにたやすくブッ飛んだ。 『わーわー、西地区二十二条四十五坊、しらぬい研究街区だっつーの! そ』  トーチカセブンは、時速四百キロで絶壁に激突。厚さ三メートルの強化コンクリートに亀裂を走らせた。  衝撃で、壁上部の窓ガラスが真っ白にひび割れ、スピーカーも壊れた。  超音速の疾風は、天地の最後の拍手で相殺され、瞬時に消え去った。  この世のカオスを観測し、嵐をおこす最初の羽ばたきを見切り、嵐をしずめる最後の羽ばたきを悟る。それがバタフライ効果力学派。  それに加算して、量子発勁。肉体を構成する原子を量子レベルで観測し、瞬間的に強度や腕力を増す。蝶のはばたきが地球の裏で嵐となるカオスの世界では、初期値が大きければ大きいほど、導かれる嵐は凄まじいものとなるのだ。  ドーム内は壁が陥没し、天井もゆがんでいる。日光がもれているところを見ると、あそこから出られそうだ。  しかし、天地は待っていた。 「メカ倒したら帰してやる」の言葉を、律儀に信じていたからだ。 「だから、この街区にいるんですってば!」  西地区二十二条四十五坊、しらぬい研究街区の第三通行口で、白虎は足止めを食らっていた。ビルに道路が貫通していて、とちゅうに遮断機と警備室がある。  警備室の男は、ニヤニヤしながら、とぼけていた。 「いるといわれてもねー。そもそも、なんて名前の子? どうしてうちの街区にいるの? そこんとこハッキリしないと、通行許可は出せないんだよねー」  白虎はうめいた。  本来なら、とらわれている生徒の名前を出せば、学校側から街区に連絡がいって、たいていは通行許可が出るのだが。  天地の名前は、だせない。なにしろこの町の存在理由、最大の標的の子だ。 「通学支援の名前出したらなんでも通るなんて、思われちゃ困るよ」  これだからこどもは、と男は冷笑した。白虎はビキビキと血管が浮き上がりそうになりながら耐えた。虚はあいかわらず離れたところで我関せず。 「ホラホラ、子どもは学校行きなさいよ」  勝ち誇った男の顔が、急にこわばった。  入り口前に、長身の人影が立ったと同時に、警備室にある「観測信号」が青から赤にかわったからだ。波動関数の有意の偏向が検出されたのだ。つまり、誰かがこの警備室をふくむ一帯を観測し、攻撃をしているということだった。  それに気づいた虚が遮断機を指さした。轟音とともにハシゴ型の阻止バーが消し飛び、路面を転がっていく。  鋭い口笛をふいた。強行突破の合図だ。  警備員も、大慌てで逃げ出した。 「潰れろ!」  白虎のダッシュが一瞬おそかったら、落ちてきた天井の下敷きだったろう。  街区内に転がり出ると同時に、背後でビルが崩壊した。  それも、紙箱を見えない巨人が踏みつぶすような不自然な崩壊。べしゃっと潰れ、砂ぼこりが立たない。  虚はすでに、高層ビルのならぶ街区に走りこんでいる。外から見えた土煙の方へむかっていた。  白虎もかけだそうとして、膝をついた。体が動かない。 「しまった……!」  かろうじてふりかえると、鮫の目つきで笑う久津城が近づいてくるところだった。  小脇には、ぐったりした霞宮をかかえている。 「ようやく追いついたぞ、平井白虎……」 「逃げてる、気は、なかったんだが」  体にかかる重圧に、息さえ苦しい。 「正直、すこしだけ迷っている。殺した方がいいのか、それとも再起不能にしたほうがいいのか。どちらが無色を説得するのに有利なのか」  言いながら、一定距離で止まる。白虎の観測界には踏みこまない。  空間派の殺傷力は桁違いに高い。基本的に防御不能だからだ。白虎の歪曲分式なら、破壊できない物質は存在しない。  希望的観測の実現者たちの戦いは、根本的にはシンプルだ。より広く、より速く観測できるものが勝つ。  久津城の観測界は、去年は白虎より狭かった。  だが、いまは、白虎の観測界の外側にいながら、白虎の動きを封じている。  成長を続けているのだ。白虎を上回る速度で。  まともにやりあって勝てないことは、痛感している。だが、すでに観測界にとらわれた以上、戦わずして逃げることは不可能だ。 「もう、止めようよ」  虚の声がした。白虎の体がすこしだけ自由になる。顔をあげると、虚がもどってきていて、久津城を指さしていた。 「もう、わたしは世界の頂点を目指さない。だからもう、第八の黎明には戻らないし、久津城の仲間になる気もない」  久津城はアゴを引き、底光りのする鮫の目で虚を見つめた。 「持たざるものが一生かかっても届かない場所に生まれ、凡人の想像すら超えた力を得、あとはただ一歩を踏み出し手を伸ばすだけで届くところにまで到達していながら、何を言う。届くところに立ったものが頂点を得るのは、権利どころかもはや義務だ。誰もが無力に打ちひしがれているこの街で、ひときわ輝く高みを手にすることは、無色の義務だったはずだ」  その超えるべき一歩が自分の死であることを、久津城は忘れていない。 「無理だよ……」  虚の声には力がない。  彼女には、孤高であれる強さがない。ただ友だちと仲良くお菓子を食べることが至上の喜びであった虚に、それ以上の高みというものは予想もできないし、望みもしないことなのだから。 「無理ではない。無色にならできる。その力があれば、届くはずだ」  虚は首をふった。  届く力を得たがゆえに、彼女は知ってしまった。  そこに手を伸ばすことの恐ろしさを。どれほどの犠牲を払うことになるのかを。  手を伸ばすために仲間を死なせることには耐えられなかった。  しかも、もし虚がこの街の頂点、森羅一族をうちたおし、その地位を簒奪するならば、次に狙われるのは、虚自身だ。  無二の頂点であり続けられると信じられるほど、虚は自信家ではない。  自分が届くのならば、自分に届く者もいるだろう。いつかはきっとうち倒される。  血みどろの闘争の果てに敗れ、砕けちる。そんな人生は無理だと思った。  だから、頂点を目指すことを止めたのだ。  ただ、カバンにつまったお菓子を配れる人間を増やすことだけが、彼女の望みだった。破壊の力は、そのことのためにしか使う気はなかった。誰も傷つけたくなかったからだ。  そんな脆弱な心、久津城には理解できない。  本来ならすでに死んでいる身だ。目の前の少女が超えるべき最後の一線として立ちはだかり、うち砕かれているはずの存在だ。  失うものは何もない。命すら、すでに失われているべき「余分なもの」でしかないのだから。  だから久津城は、何も怖くない。何も感じず、何も見ず、前進できる。たとえ血みどろの旅路の果てに惨めな死が待っているとしても、ただひたすらに前へ進むことができる。それは勇気というより、想像力の欠如した虫の前進に近い。  虚は持てる者であり、久津城は持たざる者だった。  久津城は力のために仲間を求め、虚は力から逃れるために仲間を求めた。  虚は久津城にかすかな友情を感じ、久津城は虚に狂おしいまでの怒りと悔しさを感じている。 「撃ってこい無色。もう昔の俺じゃないことを見せてやる」 「わたしはもう、そういうのじゃないから」  永久に交わらない二人が対峙したところで、何も生まれない。二人には、おたがいに共感するものがない。にもかかわらず、なにもかもが反対であるがゆえに、おたがいを切り捨てきることができない。 「通学支援か……そんなことのために、おれたちを裏切ったのか。そんなことをしながら力を錆びさせ、無為に朽ちていくのか」  だから理解することもできず、説得することもできない。  そこに残るのは、ただの感情と行動だけだ。 「どうしても戻りもせず、頂点も目指さないんだな?」  久津城は、彼にしては真摯な表情で問うた。  虚はうなずく。 「いままでおれは、頂点とは無色のためにあるのだと思っていた。どうしても踏み出さず手を伸ばさないというのなら、おれが継ぐしかない……」  すでに薄れつつある土煙、天地のいるであろう方角へ、久津城は不吉なまでに静かな顔をむけた。 「通学支援などというお遊びの否定と、頂点への道行きがおなじ存在に集約されるという奇遇。無色のかわりに頂点を目指せと、世界の意思がおれの背中を押しているのかもしれない」 「待っ……」  虚が伸ばした手は、ひきとめる言葉もないまま宙に泳いだ。  すり鉢状に陥没した廃墟の中心で、動くものがあった。  天地だ。周囲の瓦礫が巨大すぎて、まるで蟻のように小さい。  隙間から、よっこらしょ、という感じで、出てきた。  破壊は半径100メートルほどに制限されている。分子制御の連鎖がそこで止まるよう、最初の羽ばたきを計算して踏み下ろしたのだ。  ねじくれた鉄骨や、割れたコンクリートを、あぶなっかしい足取りで登っていく。  半分くらいまできたとき、足下が盛りあがり、天地はコロコロ転がってすりばちの底に逆戻りした。  瓦礫を押しのけ姿を現したのは、六脚の巨大ロボット……トーチカセブンだった。銃火器は壊れていたし、動きもぎこちないが、まだ動けるらしい。  埋まっているスピーカーのひとつが吠えた。 『殺す気かっつーの!』  秒速3500メートルで銃撃した西条に非難する権利などないのだが。  天地は、ふるふると首をふった。  あたり一帯を崩壊はさせたが、殺す気はなかったようだ。  どっちもどっちだった。 『だがしかし、こういうこともあろうかと三歳のときから装着していたナノマシン群体によるきぐるみで無傷でしたっつーの!』  天地は腕を組み、よかったよかった風に、うんうんとうなずいた。 『これじゃそっちに全力を出させるのは無理っぽいけど、でも破壊してくれないとデータ取れないっつーの。だから、さっさと破壊、破壊!』  最初の一撃で失神させられたことも忘れ、あくまで上から目線で命令しまくる。  天地は、ちいさな拳をかため、胸元でちいさくガッツポーズしてうなずいた。がんばります、状態だった。  理不尽な攻撃を受けているというのに、悲壮感もなければ、苦痛も感じていないようだ。  それは、よく考えてみれば当然のことだった。  なにしろ天地の親は、この町で最強の存在だ。  脅威度、理不尽度は、このていどの攻撃など比ではない。不完全で、生身の襲撃者に傷つけられるような天地ですら、あっさり半径100メートルを崩壊させている。  これが完成された親となれば、破壊がどれほどのものになるか、想像もつかない。  そんな親と暮らしている天地だ。家の外に、恐れるものなどほとんどないだろう。  トーチカセブンの様子をうかがいながら、その存在自体に含まれるパラメーターを観測した天地は、拳をふーふーと吹きはじめた。  外功のバタフライ効果力学と、内功の量子発勁の合わせ技。量子発勁によって素粒子レベルで強化された拳を、吐息の羽ばたきにより分子レベルでさらに強化する。  森羅一族は、現代科学が量子力学を発見するより以前から、世界の不確定性を神通力として扱ってきた。彼らの技の基本は、複雑によりあわさり、つねに流転する世界の混沌を読み解き、最小の作用をあたえて望む未来を作り出すこと。  バタフライ効果力学は、最初の羽ばたきの数万倍以上にもなるエネルギーを生み出す。世界に内包された法則と、乱雑に浪費され相互にうち消し合っている分子の力に方向性をあたえることで、望みの結果を叩き出す。  さらに量子発勁による身体強化によって、「最初の羽ばたき」の出力を増大させることで、最終的にえられる結果を指数的に増大させているのだ。  自分の拳をしばらく観察していた天地は、うむ、と大きくうなずいた。  バタフライ効果力学は、最初の見切りと、効果が出るまでの連鎖の過程に時間がかかる。強力だが、溜めの長い技だ。かの一族は、溜めの隙をおぎなうため量子発勁をも身につけたのだが、天地はまだいろいろ未熟なので、なにからなにまで隙だらけだった。  だからだろう。  それの接近に、まったく気づかなかった。  三階建ての住宅ほどもあるトーチカセブンの巨体が動きを止めた。コンクリートが砕け、足首まで埋まる。  軽金属合金と炭素繊維の巨体が、沈んでいく。  最初は、地下の空洞を踏み抜いたのだと思っていた。  だが、ちがった。巨大なロボットは、異様なきしみ音を立てながら――  潰れていくのだ。  ビーチボールの空気を抜いていくように、へなへなと、だが強烈な破壊音を響かせながら。  鉄骨やコンクリート片をも陥没させながら潰れて沈んでいく巨体の背後に、一人の少年が立っていた。  背の高い少年だ。神父の服にも似た改造制服に、鮫の目つき。小脇には、ぐったりした少女をかかえている。 「頂点への第一歩として、森羅天地、おまえを殺す」  11+3s、第八の忌まれし者、System8.81a、久津城太慈。  この町の生み出した最上級の暴力だった。  久津城を見たとき、天地はきょとんとしていた。  とりあえず、前に出た。他人が壊してしまうまえに、言われたとおりに自分で破壊するつもりだった。  久津城の口元に、凄絶な笑みが浮かぶ。勝利を確信した、歪んだ笑顔だった。  数歩で、天地の足が地面にめりこんだ。動きが目に見えて鈍くなる。 「なんだと……?」  しかし驚愕の声を発したのは、久津城だった。  天地は、深い新雪に踏みこんだように、膝まで地面に埋めながら、さらに歩いていく。コンクリートを踏み砕く、歩行音とは思えない轟音を立てながら。 「まさか、これでも? おい、霞宮! 意識を保て、出力が落ちてるぞ!」  久津城は、襟首をつかんで霞宮をつりあげ、激しく揺さぶった。片目をウィンク絵柄の眼帯でおおった少女は、目の下に疲労のクマを浮かべ、ぐらぐらと揺らされていた。 「久津城くんと、組んでいるかぎり、出力が……落ちるなんて、ありえないんですが……でも、もう限界……これ以上やったら、死んじゃうんですが……」  声にはまるで生気がない。 「あと一息だ! 目の前にヤツがいる! ラスボス一族の子だぞ、仕留めたら、それだけで頂点に近づける!」 「観測を止めてくれないですか……もう頭が痛くて……」  意識がもうろうとしているようで、目の焦点も合っていなかった。極度に疲労しているようだ。  天地は、腰まで瓦礫に沈みながら、さらに前進してくる。  久津城の頬に、痙攣的な震えが走った。信じがたいものを見る目で天地を見る。 「こいつ……本当に化け物なのか?!」  天地が、ぴたりと動きを止めた。  久津城は、ビクッとして、霞宮をかかえ、後退した。なにかをしかけてくると思ったのだ。  天地は、自分を指さし、「自分?」と問いたげに首をかしげただけだった。 「ああそうだ。なぜ動ける? いや、なぜ潰れない!」  天地は、首をかしげるだけだ。 「霞宮は空間派重力分式、重力の加算を観測し、すべてを押しつぶす。おまえが立っているのは、1000Gを超える超重力場のはずだ! なぜ平気な顔をしている? 体重が1000倍だぞ! 自覚しろ、その異常さを!」  そう言われても理解できなかったので、天地はとりあえず「巨大ロボットの破壊」を優先した。  トーチカセブン破壊のためにチューニングした拳を、押しつぶされ、すでに分厚い板と化した残骸に叩きつける。  砕けちった破片が、久津城を襲った。それらは不自然な曲線を描いて地面に突き刺さる。 「なんて化け物だ。そもそも血管はどうなってる。1000G下で血液を足の先から頭まで循環させるためには、100気圧以上の血圧が必要なはずだ。ということは、全身の体組織を量子発勁とやらで強化……こいつを殺るには、やはり空間派歪曲分式か、次元派か……オプションの選択を誤ったか?」  久津城はさらに後退する。かの一族でも、人であるなら、霞宮の観測でひざまづかせることができると考えていた。  それがビルをも更地に変える超重力で阻止さえできないとは。  完全に想定外だ。  いっぽう、トーチカセブンの残骸を割った天地は、満足げだった。  あたりを見まわし、「できたよー」的にバンザイして手をふる。 『あーはいはいゴクローさん、もう帰っていいっつーの。久津城、人の邪魔すんなっつーの! せっかくの観測機会がフイになったっつーの!』 「黙れ」  あたりをにらみまわすが、カメラの位置すら分からないのでは、凄みようがない。 『うっせバーカバーカ、そっちをぶっコロス手なんて二百四十五もあるっつーの! ちょっとオシャレな観測技法を会得したからっつって、デカイ顔すんなっつーの! つーの!』 「貴様……」  西条は、お嬢や久津城の怒りを買うことを、まるで恐れていない。  つい最近、11+3sに名をつらねた久津城とはちがい、西条は生まれる前から第十三の理創者だった。  西条は、胎児の時代から脳神経を強化されていた。  生まれる三ヶ月も前から母親と会話ができた。  二ヶ月前には十カ国語を操り、誕生一ヶ月前には相対性理論を理解し、電磁気に関するいくつかの新理論を語りながら生まれてきたという。  生まれる前からの天才、11+3s最古参の一人でもある西条からすれば、「ポッと出」の久津城など、恐れるに足らないのだろう。  天地は足取り軽く(といってもあぶなっかしい足取りで)巨大ロボの残骸を乗りこえ、ようやく砕けていない地面に立った。ほー、と胸をなでおろす。  久津城に、あまりにも無防備な背を見せて、きょろきょろする。白虎らを探していた。  この好機を逃す久津城ではない。この状況で無視されれば怒る。背を見せれば、むしろ挑発と考える。 「霞宮、目を覚ませ!」 「ふぇ? もう朝ですか?」 「寝ぼけるな」 「頭がとてつもなく痛いんですが」 「どうってことはないだろう」 「なんたる人ごと。久津城くんにすこしでも優しさを期待したわたしがバカなんですか?」 「いいからさっさと観測しろ。ヤツを仕留める。いまなら隙だらけだ……」  ぴゅん、と、鳥のさえずるような音がした。 「……どうしても、おれの邪魔をするのか」  久津城は、笑いが壊れたような、複雑な表情をみせ、言った。 「無色虚」  虚は、迷っていた。  久津城への威嚇射撃も、何メートルもはずれた、絶対に当たらない弾道を選んだ。  なぜ久津城を止めるのか、理屈はなにもなかった。  そもそも、虚は争いを好まない。  でも。  森羅天地は、お菓子をあげた「仲間」だった。  お菓子をあげたみんなが争うのはイヤだ、言葉にすればそれだけだった。  虚が動く理由なんて、つまるところそれだけなのだ。 「仲間」を傷つけないために第八の黎明から逃げた。  いまも、「仲間」を増やすために通学支援をしている。  久津城を説得する言葉が見つからない。こういうとき、白虎や、安全な人間が相手なら、虚は頭突きで感情表現するのだが。久津城相手では、そうもいかない。  どうしよう、と思いながら、とりあえず威嚇射撃してみたが、止まる相手ではない。むしろ火に油を注ぐだけだろう。  虚は手加減ができない。一撃で吹き飛ばしてしまうか、それとも威嚇射撃にとどまるか。  手足に当てるのも不可能ではないが、それでも全治数ヶ月の重傷になってしまうだろう。  その気になれば、倒せないこともないが、倒すとはつまり、殺してしまうということだ。それだけは避けたかった。  どうしよう、とあたりを見回していると、白虎がビルのかげから、ハンドサインを出している。 『注意を引いておいてくれ、そのあいだに天地を連れて行く』  あの少年は、バカ正直にも、まだ天地を学校へ案内する気なのだ。  おそらく一日しか通えないだろう。学校で点呼をとれば、森羅一族の子だと一発でわかってしまう。それとも学校では偽名で通すのだろうか? そのあたりは虚の知ったことではないが……  思えば、初めて会ったときも、白虎は虚を学校へ連れて行ってくれた。  森羅市は、住人のほとんどが暗殺目的という特殊な街だ。教育にいいとはいえない。  そのため、森羅市外学園は、市内で居場所がなかったり、虐待されている子どもを寮生として保護している。もともと半分はその目的で作られた学校なのだ。  白虎が通学支援している理由を聞いたことはないが、白虎はどうもそれが使命だと思っているらしかった。それこそ、命を賭けるにたる使命。  だから街をうろついていた虚を、初対面にもかかわらず、何十人という武装警備隊を敵に回してまでかばってくれた。  組織の外で、はじめて見つけた「仲間」。  その白虎が望むなら、時間をかせいでもいいと思った。久津城を止めようとするあいまいな気持ちに、理由がつけられる。 「さっきの話だけど」  虚は、久津城に話しかける。 「なにか話すことでもあるのか?」  そう言いながら、久津城は虚を待った。なにか、自分の意に添う言葉が聞けるかもしれないと期待していた。 「わたし、朽ちてないよ。錆びてもいない」 「とてもそうは見えないが」 「そもそもわたしの力をどう見てるの?」 「高速移動する物体を高次元圧縮し、自在に解凍できる、だろう? いつでもどこでも、徒手空拳で、軍団に匹敵する銃砲撃が可能な力だ」 「それだけ?」  白虎が天地の手を引いて去っていく。白虎一人では心もとないが、市外はすぐそこだ。なんとかなるだろう。 「ほかにあるのか」  久津城は、期待に満ちていた。 「ほかっていうか……そうじゃない、かな。つまり……」  虚は適当な標的を探した。  その動きを食い入るように見つめていた久津城は、ハッとして、指を鳴らして叫んだ。 「出せ、西条。貴様のお得意の巨大ロボットを!」 『ハア? こっちがどんな義理と理由で出すんだっつーの!』 「虚が標的を欲しがっている。それで充分な理由だ」 『無色、なんもいってないっつーの!』 「いや、そのとおりなんだけどさ……」  なんでわかったんだろう、と虚は首をかしげた。  久津城は、熱に浮かされたように言った。 「おれは、見たい。無色の本気を。だから、出せ西条」 『なんだそりゃー! 自分の感情で人の物を使おうとすんなっつーの!』  街に警報が鳴り響き、交差点の真ん中に亀裂が走った。  噛み合っていたアスファルトと分厚い鋼板が開き、トーチカセブンと同系統らしい巨大ロボットがせり上がってくる。 『でもまあ、第三の空撃者のなりそこないが本気になったらどうなるか、興味がないといったらウソになるっつーか。いっとくけど、そっちのためじゃないっつーの!』  いわゆるツンデレな言動であった。  虚は、ため息をついた。 「いいけど……町がめちゃくちゃになっちゃうよ。手加減できないからさ」 『隣接街区の避難も終わってるっつーの。あ、NBC兵器禁止。あと地下攻撃禁止! いま核シェルターに待避したけど、そっちの能力が理論値どおりなら、核シェルターさえ無意味になるっつーの』 「弁償なんてしないから」 『街区ぶっ飛ばせるようなのに損害賠償迫るほど命知らずじゃないっつーの』 「わかった……あのさ」  虚は、久津城に向きなおった。 「わたしが、いま現在の力を見せたら、納得してくれる?」  久津城は、無表情にうなづいた。 「頂点も目指さないし、いっしょに戦ったりもしないけど、それでもいいの?」 「無色が頂点に近づいてさえいれば、なんの問題もない。必要なのは実力だ。心を縛る倫理など、状況でいかようにでも変わる」  久津城の意図は、虚には理解できない。とりあえず、向上心があれば認めてくれるのだろうか……?  白虎と天地は、もう姿も見えない。虚の携帯が一度だけ震えた。安全距離まで待避したサインだ。  六脚ロボットの巨体が、のしのしと向かってくる。 「壊すのもったいないなあ」  あまり裕福ではない亡命寮生の率直な感想であった。 『そのシリーズは威力偵察にすらならんから、もう廃棄だっつーの! さっさと本気、本気!』 「うん、じゃあ……」  虚は、三階の窓すらおおいかくす巨大ロボットを指さした。  虚が組織からあたえられたのは、空間派次元分派の観測技法と、その観測界に撃ちこまれ高次元圧縮された、銃弾、砲弾、その他合計、約三百五十万発の凶器だ。  いま使うのは、そのうちの一つ。  一族相手に使うための、隠し玉。  音速の2倍で飛行している、2000ポンド爆弾二発をはじめとした爆装を施され、8トンの航空燃料を搭載し、無人操縦された――  Fー4Eファントム戦闘機。  当時の虚の観測界で圧縮できた最大サイズの「弾丸」だった。  直撃させれば空母でも一撃で沈む。  それだけでもじゅうぶんな脅威だが、虚の本領は単に「弾丸」を圧縮解凍できることではない。  真の脅威は、この先にある。  虚は、マッハ2・2、重量24トンの爆装された「弾丸」を――  巨大ロボットの「内部」で解凍した。  これが、第三の空撃者の真価だ。  防御不能の空間派の特徴と、大質量攻撃を行える次元派の利点を兼ね備えた、空間派次元分式ならではの、絶対的な殺傷破壊力。  すべての防御を超越し、超音速の大質量弾を、直接体内に叩きこめる。  人体相手におこなえば、誰であろうとほぼ確実に即死だろう。  解凍された物質が、高次元から三次元へ降りていくさいに完全剛体級の強度でもってロボット内部を押し開く。次元の差は絶対的な強度の差だ。通常物質は高次元物質に対抗できない。それだけで内部構造は破壊しつくされた。  そして完全に三次元にまで降りてきたとき、圧縮されていたベクトルまでもが解凍され――  巨大ロボは、膨らましすぎた水風船のように弾けた。  砕けちった100トン以上の金属片は、そのすべてが超音速であった。  正面にあったビルが、散弾を食らったケーキのようにズタズタに切り裂かれた。  さらに二〇〇〇ポンド爆弾の二重炸裂に基部を砕かれ、隣接するビルとともに沈んでいく。  吹き飛んだエンジンコアはビルをいくつか貫通してなお形をとどめ、最後には地面に激突して食い込んだ。  8000リットルの航空燃料がナパームと化し、広範な街区が炎上。黒煙は見る間に雲の高さにまで達した。  衝撃波が街区中の窓ガラスを真っ白に砕き、雨のように降りそそがせる。  久津城は見た。  降りそそぐガラスの雨の下、ただ自分と虚のまわりだけが無傷なのを。  降りそそぐガラスすら空中で圧縮されていくのを。  圧縮の閾値を下げ、破片からガラス、衝撃波に至るまで、すべてを圧縮して「弾丸」に変えていた。いまの虚にはそれができる。白虎と組んで通学支援をし、防御ばかりを追及してきた、いまの虚になら。  完全なる攻守一体。  最強の破壊と、完全な防御を兼ね備えたいまの虚は、久津城が夢にまで見た理想の無色虚だった。  その無色虚に、自分までもが守られている……その現実に、久津城は取り憑かれたような笑顔で虚を凝視していた。  その間、白虎は遊んでいたわけではない。  天地をつれて街区を出、タテカン乾と西地区二十六条の交差点にまできていた。  そこから先は街区がない。  幅三百メートルの緩衝区が広がり、そのさきには街を囲む壁……通称、「防波堤」がある。中と外の常識をそれぞれせき止めている防波堤だ。  あと三百メートル、道路と、その両側のガードレールのほかは、整地された広大な更地だけの緩衝区。ここを超えたら、タテカン乾につながるゲートにたどり着く。 「市外には非戦協定があって、そうそう戦闘は起こらない……はずだから、市外に出さえすれば、学校へたどり着けるぞ。たぶん」  そういわれ、天地は白虎をじーっと見つめていたが、おもむろに両手をあげ、にこやかな顔となった。  喜んでいるようだ。  歩道を歩きながら、白虎は話しかけた。 「なあ、どうして学校へ行きたいって思ったんだ?」  天地は猛烈に手足を使ってアピールしはじめた。パントマイムやゼスチャーで説明しているようなのだが、白虎にはまるで解読できない。  なにかが上から落ちてくるか、あるいは天地の頭を押さえているのが理由らしい。それをはねのける仕草をくりかえす。妄想の産物……というわけでもなさそうだった。もっと具体的なものらしい。 「空が落ちてくる?」  否定。 「上から押さえる……神様?」  否定。 「すまん、わからん」  天地は伝わらないもどかしさに頭をかかえ、うにうにと悶えた。 「ま、まあ、とにかく学校に行きたいんだな? うん、ちゃんと連れて行ってやるよ。意志疎通の手段をなんとかしなきゃな。手話はどうだ?」  手をぶんぶん振って否定。 「筆談は」  首をかしげ、ちいさく自信なさげに手で否定。 「意思を言語化して表明するとダメなのか……?」  こくこくと肯定。 「うーん……、ま、学校にはいろんなやつがいるからな。なんとかなるさ」  白虎はこれまで、いろんな同学年の人間を学校へ連れて行った。さまざまな理由でまったくしゃべらない人間も何人かいた。そのぜんぶではないが、半分以上はなんとかうまくやっている。  天地は、性格もよさそうだし、意志疎通を拒否しているわけでもない。ゼスチャーをうまく読みとれる人間と出会えれば、簡単に学校になじめそうだ。 「虚が適任かもな……」  手のかかる子のあつかいは、白虎よりはるかに上手だ。今回も、虚のほうが天地をうまくあつかっていた。  いや、そんなことより、今後どうするかを考えなければ。  毎日家から通わせるのは不可能だろう。11+3sにまで狙われている現状で、毎日となると、通学支援が何人いても無理だ。となると、亡命寮生として、寮に住まわせるしかないが……  そうなると、こんどは森羅一族の意向が問題になってくる。  どうも、親の了承を得ての通学ではないようだ。亡命寮生にしても、親が取りかえしに来たらとんでもないことになる。非戦協定は森羅市民の話だ。かの一族は加わっていない。  いちおう、かの一族が市外で暴れたら、森羅邸につながるインフラが停止されることになっている。いわば兵糧責めだ。地味だが、これがけっこう効くらしい。  しかし、本気で子どもを奪回しにきたら、そんな小技では止められないだろう。一族の跡継ぎのことだ。一族の命運がかかっている。電気ガス水道と一族の存亡なら、存亡のほうが重いだろう……たぶん。 「まあ、監理に相談だな……」  その先は、白虎の手にあまる。学園や、あるいは国家レベルの意思決定がなされることだろう。  歩道のわき、六車線のタテカン乾を、バスが走っていく。  そろそろ通学時間帯だ。バスにはそこそこの人間が乗っている。屋根の上には、血に飢えた自警団が乗っていた。  そこに、燕尾服の老人が乗っていた。と、老人は屋根から飛びおり、歩道に着地。  小柄な老人だった。  こんな所には場違いな、いかにもな執事の恰好をした、小柄な老人。白髪に、丸メガネに蝶ネクタイに、タキシード。  人畜無害な笑顔。  その顔と名は、森羅市に住む人間なら全員が知っている。  真木坂不覚、六十歳。  森羅家執事だ。  白虎は、大きなため息をついた。 「……こうなるんじゃないかと思ってたんだ。おれたちの足取りが11+3sに知られすぎていたからな」  執事は、人の良さそうな笑顔だった。 「さて、この真木坂めがネタばらしをするまえに、もう一手だけ打たせていただきましょうか」  執事が手で、白虎のうしろをしめす。 「駒がふがいなくて困っておりましたが、すこしは気骨のある方がおられたようす」  ふりかえると、青ざめた顔の虚が歩いてくるところだった。  背後には、霞宮をかついだ久津城。  久津城は、霞宮を地面に置いた。 「戦わせてもらうぞ。かのラスボス一族の嫡子と、11+3sが接触するのは初めてだが……これで終わりになるかもしれんが」  その自信も、あながち過剰とは言い切れない。あの虚がここまで青ざめるのは尋常ではない。防御不能の空間派次元分式、識別コードを与えられた百人のうちの一人、11+3sに列せられる実力を持つ虚が、無抵抗に従っているのも信じがたい。  白虎は、周囲の波動関数のひずみを察知しようと集中した。  久津城は、天地にむかって声をはりあげた。 「識別コードSystem8.81a、第八の忌まれし者、識別名「上位観測者(オーバーロード)」。久津城太慈だ!」  広げた両手の左右に、光と炎が宿った。 「この光景を観測しているオプションの観測域を観測し、各自が偏向させた波動関数をおれの望むままに収縮させることができる。それは白虎、貴様も、無色さえも例外じゃあない……この町の体育会系科学を使うすべての凡俗を超越し、おれは上位存在と化した」  天地は、ぽけーっと聞いている。理解しているのかいないのか、いまいちわからない。久津城が敵対者だと認識していないのかもしれない。なんだかわからない人がしゃべってる……くらいに見ている可能性が高かった。 「そして、ラスボス一族も波動関数収斂観測によって奇跡を引き起こすのなら、それすらもおれのエサだ」  閃光が走った。光学派光子分式のレーザー攻撃と、電磁派熱量分式の火炎攻撃。  白虎は歪曲空間の盾でそれらを逸らすつもりだった。だが――  空間のひずみが、瞬時に解消された。  白虎の眼前を閃光が薙ぎ、髪がチリチリッと丸まり、背中から地面に落ちた。  虚が頭突きで倒してくれなかったら、首から上が吹っ飛んでいただろう。  さらに虚は抱きついて、いっしょに地面を転がって回避する。 「空間観測を……横取りされた!」  白虎は顔面蒼白だった。  ささいとはいえ、その観測能力ですべての攻撃を弾き、障壁を切り倒してきた。空間派の防御を突破できるものはほとんどいない、空間派の攻撃を防御できるものはまずいない。ほぼ無敵の盾にして刃。白虎の自信のみなもとにして、自信のすべて。  それが、いとも簡単に無効化された。  久津城は、11+3sの中でも異質だった。お嬢や西条とはまったくタイプの違う観測域をもつ孤高の存在。  久津城単体では意味をなさない。だが、他の観測者と組めば、限界以上の効率で観測戦闘を行うことができる。  しかも、組む相手……オプションは、一人とは限らない。複数と組めば、完全に死角はなくなる。息を合わせるための訓練も必要がない。ただ限界まで観測していれば、久津城がおのおのの観測を組み合わせ、最適の攻撃や防御とする。  波動関数が偏在しさえすればいいのだから、敵の観測さえも利用できる。  誰も必要としない、誰とも馴染まない男が、より多くの味方を必要とする力を得たのは、ひどい皮肉だった。  虚は、白虎をかばうように立ちはだかった。  だが、何もできない。  虚の「虚実の門」もまた、久津城の前では無力だった。解凍を観測しはじめた瞬間に、それそのものを観測され、久津城の望むままに偏向させられてしまうだろう。  この期におよんで、天地がようやく反応をしめした。  両手で握りこぶしをつくり、それをふーふー吹きはじめたのだ。  トーチカセブンの残骸破壊を見ていない白虎は困惑したが、久津城は怖い笑みを浮かべた。 「ようやくやる気になったか? 本来なら準備など整えさせずに瞬殺だが、おまえはただの前哨戦。貴様らの出方を見たい。好きなだけ準備しろ」  久津城は、白虎を無視していた。白虎にかまって天地に背後からうたれる危険を考えているのだろう。  天地は、しばらく両手を吹いていた。やがて両手を見くらべ、大きくうなずく。  さいごにもういちど、白虎たちと久津城を見くらべる。本当に敵対者なのか、確認をしているようだった。 「さっさとかかってこい。おまえらの力をみせてみろ」  久津城は、余裕すらただよわせていた。  天地は、軽くジャンプすると、軽やかにスキップしはじめた。 「ふざけるな……!」  楽しげなスキップに、久津城の鮫の目がつりあがる。  天地はむっとしたが、説明することなくスキップを続行した。  白虎がその気持ちを代弁する。 「ふざけてなどいない! それはそいつの攻撃手段だ、どんなものかわからないが、メチャクチャな破壊力が来るぞ! うかつに食らったら即死しかねないレベルの!」  久津城が目を細める。あまり信じていないようだ。  天地のスキップは地面を構成する分子に衝撃をあたえ、その分子振動の方向をそろえはじめた。連鎖的な衝突が、さらなる振動方向の統一をもたらしていく。  あの、傭兵の街区や、西地区の研究街区を崩壊させた「かかと踏み下ろし」とおなじ原理だった。だが、最初の羽ばたきはスキップ。原因パラメーターのちがいは、そのまま結果のちがいとなって現れた。  分子の振動統一は次々と波及し、結果にむけて収斂していく。  振動方向がそろっていくにしたがって、地面の砂塵や小石がはじかれ、砂ぼこりがたちはじめた。  白虎と虚はとにかく距離をおいた。あの街区を壊滅させたやつが来たら、ジャンプして回避しなければならない。  久津城も異変を感じ、身構える。  天地は、希望的観測の実現によって異変を導いているのではない。その逆、異変が起こる最初の羽ばたきを逆算によって導きだし、自力で引き起こしているのだ。  だから久津城には見えない。天地のやっていることが。 「なんだか知らんが……」  久津城は、手を高く掲げた。光学派がその周囲を観測し、でたらめに光子の関数を偏向させる。それを久津城が上位観測。望むままに修正し、春の陽光を手のひらの一点に集束させていった。  久津城の思考はシンプルだ。  なにをたくらもうと、先手で焼き尽くせばいい。  それは正しいが、遅すぎた。バタフライ効果力学は、現象が現れはじめたときには、すでにほぼ終了しているのだから。  天地がスキップから両足をそろえたジャンプに変える。  着地した数瞬後。  方向のそろった振動が一点に集中、久津城の足下でエネルギーを解放。  久津城の立っていた場所が、爆発した。  対戦車地雷なみの破壊力は、久津城の長身を百メートル上空まではじき飛ばした。  まえもって身体を強化しておかなければ即死だったろう。  急上昇で視界がブラックアウトしかけたが、全身の筋肉を締めて耐える。  かすむ目が空にむけられ――鮫の目が驚愕に見開かれた。  天地がすでに、上空にいた。 (どうやって――!?)  戦闘中に敵から目をそらすという危険までおかして久津城は地面を一瞥。理解した。  原理は単純、久津城とおなじだった。天地は、最後の着地点も炸裂するよう羽ばたきを与えていた。着地と同時に久津城を吹き飛ばし、その一瞬後に自分も吹っ飛ぶ。地面からたちのぼる二本の土煙が証拠だ。  そして、久津城用に調整された拳は――  反射的にガードした久津城の右腕に衝撃。乾いた音がした。  分子派生化学分式の観測によって充分に強化していたはずの肉体、銃弾にも耐えうるはずの両腕が、わりばしほどにたやすくへし折られていた。  もう一発は、パーリングの要領でそらした。直撃されたら確実にどこかを折られる。天地の拳は、久津城の骨に照準を合わせていた。内臓、いや神経系へのダメージ優先なら、最初の一撃で即死していただろう。 (決意が甘い。しょせん子どもかッ)  あざ笑う久津城の左ジャブが、天地の顔面をとらえ――ない。足場も手すりもない空中で器用に回転し、よけてみせた。  久津城は総毛立った。 (なんてセンスしてやがる! 観測能力を完全に使いこなし、さらに体術ッ)  ラスボス一族の名は伊達ではなかった。  そして久津城は思い当たる。  地面は、安全か?  一度炸裂した地面。はたして優しく受け止めてくれるだろうか? 「霞宮! おれを見ろ!」  着地まで数秒。久津城の声は、かろうじて眼帯の少女にとどいた。  霞宮が漫然と観測した重力の偏向を、無理矢理まとめあげ、自重をマイナスにする。  久津城は空中に静止し、天地はそのまま落ちていった。  久津城の脂汗がしたたった真下の地面が、炸裂した。さっきよりは小規模だが、十メートルの高さにいる久津城に小石が痛いほどぶつかってくる。  地面の分子の振動方向をそろえておき、着地した瞬間、また上空へ吹き飛ばす仕掛けだった。 (だが、かわしたッ)  久津城は、無造作に落ちていく天地の頭を見下ろしながら、勝利の予感に笑みを浮かべようとして――  自分の致命的な判断ミスをさとった。  あわてて降下するがもう遅い。  天地が地面に足をつき――  地面が炸裂し――  アッパーカットの態勢で、久津城めがけて急上昇してくる!  しかも、炸裂による小石が久津城の顔に激突し、目を開けていられない。口にも入った。  久津城が吹き飛ばされようが、自分だけが再ジャンプしようが、どっちでもいける戦術を、最初のスキップからすでに組み立てていたのだ。 「こいつ、戦い慣れてやがる!」  箱入り息子だと甘く見た久津城の不覚だった。  考えてみれば当然だ。  天地の親は、森羅一族は、ただ武力をもって世界の脅威と化し、百五十万の暗殺者を招き寄せるような存在だ。そんなのと暮らしている直系の息子が凡人なわけはない。  しかも、久津城との相性は最悪だった。  久津城の観測域は、希望的観測による波動関数の偏向だ。  因果を見抜き、自力と連鎖で現象を引き起こしてしまうバタフライ効果力学は、久津城の天敵だった。 (それでも霞宮がいるかぎり、負けはない!)  重力の偏向を一点に集束する。  相討ちなら勝てないこともない。だが相討ちでは意味がない。生きのびなければなんの意味もない。だから防御した。  天地の拳を重力渦動で粉砕するつもりだった。小さいが、最大数万Gという高重力の渦。どんなものでも引き裂けるはずだ。  そして久津城は見た。  天地と、久津城のあいだに小石が浮いている。さっき天地の足下での炸裂ではじきとばされた小石。  天地は、その小石を指ではじいた。  狙いは――霞宮。  小石はただの小石だが、天地の指はラスボス一族の指だ。  ただの小石でも、まともに当たれば失神確実の指弾となる。  久津城は霞宮を守らないわけにはいかない。霞宮が失神し、重力観測が消えれば、盾が消える。  だが霞宮を守ると、久津城の防御がなくなってしまう。  さながらこれは詰め将棋。王手飛車取りの局面。しかも、飛車をまもったところで、次の一手が久津城を詰める。  歯を食いしばった久津城は、口内に駒を見つけた。  重力渦動で小石は粉砕され、久津城の防御は失われた。  久津城は頬を膨らませた。天地のちいさな拳が迫ってきて―― 「プッ」  久津城の唇から、米粒ほどの砂利が飛びだした。さっき入った砂利だ。天地の目を狙って飛ばした。 「ふっ!」  天地がおなじく息を吹き、砂利がそらされた。  すさまじい反射神経と機転。天地は、ふだんは鈍いが、目的をさだめたときの集中力は桁ちがいだった。 「そこまでやれるかっ」  うめきつつ飛ばした久津城の右ストレートは紙一重でかわされ、カウンターのアッパーが鳩尾に深々とめりこんだ。 「おやおや、存外頼りないものですなあ、11+3sとは」  霞宮に引きずられながら退場していく久津城に、執事は善人そのものの笑顔をむけた。 「頂点にもっとも近いと聞いておりましたが、これでは、とてもとても。ほっほっほ」  久津城がいなくなったことで、白虎たちはようやく執事に近づけた。 「あんたはいったい何がしたいんだ」 「森羅家のものが、ただの人間といっしょに通学など、不可能にきまっておりましょう。それに君臨する相手と仲良くしたところで寝首をかかれるだけ。そのことをぼっちゃまにお教えしてさしあげたかったのでございますよ」  忠義なのか嫌がらせなのか、その笑顔からは読みとれなかった。 「しかしどなたもぼっちゃまの心を変えることはできませんでしたな。あながたがお二人が裏切ってくださると話が早くて助かったのでございますが」  天地は、つま先立ちしてぴょんぴょん跳ねていた。地面にあたえた羽ばたきの影響をうち消しているのだろう。  たまにやりそこねて爆発し、上空に吹っ飛んでいた。 「かくなる上は、この不肖真木坂めが、なんとか説得するしかございませんな」 「学校はどうする」  執事は白虎に、しょうがない子どもにむけるような苦笑をみせた。 「そんなところに行かせられるはずはございますまい。最強であるためには、姿を現さず、研究されないことが肝要。惰弱な友だちづきあいなど、身を危険に晒す愚行でございますゆえに」  真木坂は、手をうしろで組み、まるで散歩するような足取りで天地に近づいた。 「さあぼっちゃま、お家に帰りますぞ」  天地はしゃがんで、地面をぺたぺた触っていた。後始末がおわったのか確認しているようだ。 「ぼっちゃま」  さらに声をかけると、しゃがみこんだまま、執事を見上げる。  そして、首を横にふった。 「わがままをおっしゃるものではございませんぞ。もうお遊びはおしまいでございます。奥様の留守をいいことにおいたをなさるのも、たいがいになさいませ」  真木坂はあくまでもにこやかだ。しかし天地は、あきらかに機嫌を悪くした。  すっくと立ちあがると、かかとを浮かせ――  白虎と天地が顔を引きつらせた。  アレだ。街区を破壊した「かかと踏みおろし」。  と、真木坂がつま先で小石を蹴った。  天地がかかとを踏みおろすまさにそのとき、かかとと地面のあいだに小石が転がりこんだ。  かかとは踏みおろされたが、何も起こらない。  天地は驚いたようにあたりを見まわした。 「最初の羽ばたきを制してしまえば、威力は封殺できますぞ」  バタフライ効果力学は、複雑なカオスのなか、結果へとつながる最初の羽ばたきを見いだし、自力で羽ばたきをおこなう。  その最初の羽ばたきは、場所やタイミング、わずかな強弱さえ間違ってはならない精密なものだ。  だから、最初の羽ばたきは、妨害に弱い。  しかし、妨害できるのは一瞬だ。踏みおろしてしまえば本人ですら止めることはできず、踏みおろすまえならやり直されてしまう。  その絶妙のタイミングで、あの街区崩壊の技を、小石一つで阻止するとは。森羅家執事、ただものではなかった。 「わたくしめですらこれだけのことが可能でございます。もっと熱心な人間がその気になれば、さらに効率的な封殺手段と、暗殺技法を見つけだすことでございましょう。現にそこな娘さんなら、ぼっちゃまをじゅうぶんに殺せますぞ」  真木坂の衷心よりの言葉に、天地はとまどう視線を虚へむけた。 「そちらの白虎どのも、その気になれば……空間派の観測攻撃は防御困難ゆえ、ぼっちゃまではひとたまりもございますまい」  とまどいが不安にかわっていく。いまさらながら、「町中から狙われる一族の子」という自分の立場を理解しはじめているようだった。  そして真木坂は、三人のあいだに芽生えた、ほのかな信頼関係を、事実の羅列だけで断ち切ろうとしていた。 「そして、お二方を信頼なさっておられるのなら、なおのこと、これ以上の迷惑はかけられないとおわかりでございましょう。今日だけで何度襲われましたかな」 「それはアンタのせいだろ?」 「いずれ情報は漏れましょう。森羅邸の監視者が、そこに出入りするぼっちゃまを見つけるのは時間の問題。となれば町中に顔写真が出回り、ぼっちゃまは家を一歩出た瞬間より百五十万の敵に狙われることとなるのでございます」  天地はすっかりしょんぼりしてしまった。自分の立場と、これから起こるであろうことを、想像しているのだろう。 「森羅家の跡継ぎとして、自覚をお持ちくださいませ」  執事は真摯に語りかける。限定された敵に情報を漏らしたのも、都市まるごとが襲いかかってくるという最悪の事態を避けるためだったのだろう。天地に現実を分からせるための。  しかし白虎は納得できない。  そもそも学校へ行きたいというのは、天地が望んだことだ。  執事のいうことには、たしかに理がある。この町における森羅家の立ち位置からすれば、なにひとつ間違っていないのは事実だ。  だが、その危険をおかしてまで望んだ天地の心はどうなるのか。  毎日通うのは無理として、せめて一日。あるいは一度。町の外に連れ出してやってもいいだろうに……  なにか言ってやろうと一歩踏み出した白虎に、執事は手を伸ばした。  影絵のキツネみたいな手つきをしている。 「それ以上近づかれますと、困りますな。白虎様の観測界は推定半径10メートル。その射程内にあっては、この真木坂など紙切れ同然。もしそこよりこちらへいらっしゃるのでしたなら、不肖真木坂、ささやかながら抵抗させていただきますぞ」  いまや執事は、明白な敵として立ちはだかっていた。  白虎は足止めされてしまった。真木坂の手の内が読めない。天地のかかと踏みおろしを無効化しただけがすべてではないだろう。  虚も、手を出しかねていた。やはり、一撃必殺の能力を行使して11+3sに名をつらねることはできないらしい。  それ以上に、虚に手出しさせるわけにはいかなかった。白虎は、ハンドサインで動かないよう指示を出す。 「通学支援をあんたが止められると思っているのか」  白虎の脅しに近い言葉に、執事は、ほっほっほと笑った。 「たかだか町の一般人を相手にしてきたていどの平凡な超人が、この町で最強の一族に仕える凡人たるこの真木坂をどうこうできるとでも?」  圧倒的自信。  いくら修羅場をくぐろうと、白虎は若干十五歳。その何倍もの時間、この町のすべてにつりあう脅威につかえてきた男のまえでは、まさに子どもだった。 「さ、ぼっちゃま、帰りますぞ」  執事は「キツネの手つき」で二人を威嚇しながら、天地の背を押した。  天地は、未練ありげに都市を囲む壁を見る。外に出ていきたいが、真木坂のいうことを否定することもできない……そんなようすだった。 「話はわかるけど、だがまてよ執事さん」  白虎が一歩、踏み出そうと動いた瞬間。 「警告はしましたぞ」  執事の「キツネの手つき」が変化した。いわば、安全装置解除。中指の爪を、親指の腹に押し当てて――  白虎が空間を観測。曲折させた。その空間は、光子から重力攻撃まで、すべてを受け流せる無敵の盾だ。  執事は、安全装置を解除した手つき……デコピンの構えで言った。 「初撃をしのいで後の先を狙う構えでございますか……しかしお考えが足りないのではございませんかな。バタフライ効果力学を封殺するには、機先を制する以外にございません。先の一瞬後。相手が動く前でも動いた後でも手遅れとなる刹那を掌握してこそ、かの一族の使用人として生きておれるのでございますぞ」 「くっ……!」  長ゼリフに、白虎はうめいた。  後の先狙いの観測防御を「外された」。防御をかわされ、時間切れを狙われた。  白虎の観測時間はそれほど長くない。せいぜい十秒で観測限界に達する。そのさきは不安定となり―― 「そこでございます」  執事が、指を弾いた。  観測防御は不安定になりつつあり、新たな防御も間に合わない、そんな隙間をねらい打ちだ。  とっさに腕でガードする。無駄だった。体ごとふきとばされた。  白虎は背中から落ち、勢いのまま転がって立ちあがった。  爆風にも似ていたが、正体がわからない。 「虚、見えたか?! 執事さんは、なにを観測したんだ?! 空気か?」  返事がない。白虎が虚を見ると、呆然としていた。 「観測攻撃じゃない……!」 「え?」 「いまの、体育会系科学じゃないんだよ!」 「左様」  執事は次弾装填……すなわち、ふたたび中指の爪を、親指の腹に押し当てた。 「これは単なる体術でございますよ。指で空気を弾いただけとお考えください」  な?! と驚愕して白虎が固まった瞬間、執事は中指を弾いた。  今度は爆風をまともにうけ、もろに地面をころがる。 「手加減させていただきました。ぼっちゃまは繊細なお方。すこしでも親しくした方が傷つくことに心をお痛めになるのでございます。不肖真木坂が転んだだけでもご心配してくださるほど」  天地は、執事と白虎を見くらべていたが、 「ご安心を。かるく転んでいただいただけゆえ、大事ございません」  その説明と、白虎が身を起こしたことで、ほっとしたようすだった。 「ただの使用人にすらかなわない白虎さまが、ぼっちゃまをいかほど守れましょう。おあきらめくださいませ。他者との絶縁と孤独こそは、森羅家の宿命……」 「いいや、あきらめないね」  白虎は、砂ぼこりをはたきながら、立ちあがった。  執事は、二つの点で白虎を圧倒していた。  ひとつは、タイミングの取り方。機先を制し、外すのが抜群に上手い。おそらく、まともに戦っても白虎ではどうかというところだろう。  そしてもうひとつ。読む力だ。心理を。関係性を。白虎が、執事を傷つけてしまうと、天地は白虎についていかないだろうと読んでいる。そしてそのことに白虎が気づいているのも知っている。  天地と白虎の関係は、それくらいだと見切っている。  虚の力をもってしても、どうしようもない領域……天地の心理をも読みきって、あえて体育会系科学者二人のまえに身をさらしているのだ。  久津城のような無鉄砲さではない。勝てると思ってるわけでもない。  そのまま天地を連れて帰れれば、よし。  たとえ白虎らに力勝負で負けようと、目的は達せられる。みずからの犠牲とひきかえに、一族と使用人以外への決定的な不信を、天地の心に植えつけることができる。  そこまで読み切って、ここにいるのだ。 「たいした人だよ、執事さんは」  ふつうに渡り合えば、白虎に分はないだろう。  それでも下がらない。  彼は通学支援だ。この特殊な町にあって、隣人、あるいは親兄弟からの反対を押し切ってでも、子供たちを学校に通わせるのが任務だ。誰かに言われたからやってるのではない。そうすることが正しいと信じたからだ。この町が総出でおこなっている、たったひとつの椅子をとりあうようなゲームに一生を捧げるよりはマシな生き方を提供できると信じているからだ。  それがたとえかの一族の子であったとしても、やることは変わらない。ましてや、本人から頼まれたのなら、なんとしてでもやり遂げてみせる。 「そいつを、学校まで連れて行くのは、おれの義務だ」 「まだおっしゃいますか」  執事の、一族に対する忠誠心は本物だ。裏の裏までは読めないが、それでも一族を守るため、身を危険にさらすことをいとわない。  だからこそ、白虎に勝算がある。  とはいえ、まだまだ五分五分以下だ。あのとき会ったのがまったく無関係な人間であったのなら、このハッタリは空振りに終わる。  だが、白虎にはかなりの自信があった。根拠は、天地の顔だ。  大きく息を吸い、静かに言った。 「こいつの母親に、世話をまかされたんだよ」  執事の気配が動揺した。 「いつ、どこでございますかな」 「二十世紀クレーターができた日に、だよ」  あのときの女性は、たしかに似ていた。  執事の笑みが、このとき、はじめて消えた。 「その日、白虎さまは、奥様になにかなさいましたかな」  探りを入れるような言葉。ここまでくれば、勝ったようなものだった。 「包帯を巻いてあげた。肩をケガしていたからな」  執事は顔をこわばらせた。  大当たりだ。  この瞬間、白虎は勝利を確信した。  だが、まだだ。あと一押し、たりない。 「なあ、天地」  天地は、自分に用? というように首をかしげて自分をゆびさした。 「学校に行きたいんだろ」  うん、とうなずく。  天地の強い決意が必要だった。  白虎は呼び水をさすにすぎない。執事の搦め手をふりほどくのは、天地自身がやるべきことだった。  天地のなかに、決意はすでにある。だからこそここまで来た。ならばその決意を思い出させ、強い一歩を踏み出させるだけでいい。 「どうして行きたいんだ? 執事さんは反対みたいだけど……」  そうすると、天地は猛然とパントマイムでなにかを表現しはじめた。地面をならすような手つきから、上から押さえられてるようなしぐさをして、どーんとはねのけてバンザイ。そして片手を腰にあて、もう片方でビシッと力強く市外を指さした。  なんのことか、わからない。 「虚、ちょっと翻訳してくれ」  白虎は、小声で虚に助けをもとめた。困った子のあつかいは虚の専門分野だ。  虚は、ためらいながら、言った。 「だぶんだけど……反抗期なんじゃないかな」 「反抗期?」  白虎が執事に目を戻すと、執事は、苦渋の表情でうなずいた。 「さようでございます。すこし前まで素直だったぼっちゃまが、最近、奥様のお言いつけに反抗を……いわゆるグレておいでなのでございます」 「反抗期でグレて、家の方針に反対して、敵しかいない町を突っ切って通学しようとしてんの?」  執事はうなずく。  グレて不登校ならわかるが、グレて学校へ通うとは……  かの一族おそるべし。 「しかしぼっちゃま、やはり不肖真木坂、ご通学には反対でございます」  執事がそういうと、天地は猛然とパントマイムをはじめた。  上から降ってくるなにかをあらわし、手を広げてウェーブして、頭をかかえてうにうにと悶えたあげく、ちゃぶ台をひっくり返すしぐさをした。  どうやら、いろいろあって鬱屈が溜まっているようだ。 「わかった、わかったよ天地。学校へ行こう」  白虎がそういうと、天地はバンザイして、ぴょんぴょんとスキップして飛びはねた。  執事は大きくため息をついた。 「不肖真木坂、どうなっても責任はとれませんぞ」 「まあ、通わせてみればなんとかなるもんだよ。天地は強いし」 「いえ、ぼっちゃまではなく、ご学友のほうが」 「大丈夫だって。なんせ……」  そのとき、虚がふらふらした。 「なんか揺れてきたよ?」  彼女は細っこいうえに、大きなカバンをもっているのでバランスが悪く、地面のわずかな揺れにも敏感なのだ。  揺れは、白虎にも感じられるほどになってきた。 「天地、落ち着け、喜びのダンスがたぶんなんらかのバタフライ効果力学のアレで地震を誘発しつつある!」  歩くだけで天変地異を引き起こすというかの一族の伝説は、本当らしかった。  ゲートを出て、市バスに乗って十五分。  森羅市外学園前で降りれば、学校はもうすぐそこだ。  まだ朝が早いので人影はすくないが、もうじきすれば、小規模な都市にも匹敵するほどの人数が登校してくる。  教育に悪い森羅市内には学校がない。その百五十万人都市の就学年齢児童たちが、この市外学園に通っている。 「ここが学校だ」  レンガ造りの、やや古風なつくりに見える市外学園を指さしながら、白虎は内心、冷や汗をかいていた。  むこうの校舎のかげに見える、長いスカートの、背の高い少女はお嬢だ。  校舎の三階の窓から、底光りのする目で見下ろしているのは、久津城だった。  ほかにも、小太りのファンタジー衣装の少年も、学校を目指してやってくる。  この市外学園は、森羅市内の就学年齢児童がすべて通う学校だ。  11+3sも、就学年齢にあるものは通ってくるのだ。  校内で市外不戦協定が守られることを祈りつつ、白虎、虚、そして天地の三人は校門をくぐった。