多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

そのⅦ そして、高学年

Posted By taga on 2012年4月6日

いわゆる思春期に足を突っこみ始めます。

今日は、話の半分は思春期の話にしています。

それは、おそらく一番みなさんが手を焼く年代ではないかと、思うからです。

思春期って、なんなのでしょうか。

 

五年生になったら、ハイ、思春期です。

なんてことは、ありません。

でも、中学校になれば、ほとんどが思春期に入っていると考えてもいいのです。

 

では、いつからどこから思春期に入るのかは、千差万別。

しかも、今から思春期だ、なんていうはっきりとした境界はありません。

 

思春期とは、子どもから大人へと変わっていく途中の時期だと考えています。

10才~30才を思春期だという方もおられます。

十才くらいでもう大人に片足をつっこんでしまう子どももいれば、

中学生になってもまだまだガキンチョのこどももいます。

 

ボクのようにいつまでも大人になりきれない人間は、

ひょっとしたら、まだ思春期かも知れませんね。

 

思春期に入ってくると、体の変化が起こってきます。

第二次性徴というものですね。

体が変わるから心が変化していくのか、心が変化して体が変わっていくのかは、卵と鶏みたいなもので、どちらが先とは言えません。

 

とにかく、思春期には体の変化が起こってくるのです。

それで、体が変化するというのは、我々大人はもう分からない感覚なのですが、

すごく不安なものですね。

例えば、背が急に伸びると、目の高さも当然高くなります。

見える物が急に増えて視野が広がるのですから、なんとなく不安な気持ちになるものです。

 

思春期には、ホルモンの分泌もさかんになります。

身長だけでなく、ありとあらゆる体の部分が成長をはじめるのです。

体がざわざわとうごめいているようなものですから、落ち着かないでしょうね。

 

そう。思春期とは、落ち着かない時期なのです。

 

思春期の子どもは、自立しようともがきます。

大人から自立しようとする子どもというものは、かわいげがありません。

自分から離れようとするわけですから、大人の側からはうれしいことではありません。

 

小学校の担任をしていると、よく、

「あの子は、低学年のころは素直だったのになあ。」

なんて言う先生がいますが、それはおかしい。

高学年になっても低学年と同じような素直さのままだというのは、

本当は自然なことではない。

ボクはそう思っています。

大人から離れようとするくせに、まだ大人になりきれていないわけですから、べったりと大人に依存してくることもあります。

そうかそうかと思っていたら、また突然、大人びたことを言い出したり、逆らったりして、自立しようとします。

そう言うことを繰り返すからこそ、思春期なのですね。

大人にしたら、腹立ちますよね。

でも、そういう状態なのだと思いましょう。

人間はまっすぐ直線的に成長したりはしないものです。

でこぼこと、アップダウンを繰り返しながら、成長する子どもたちを見守ってやりたいものです。

 

さて、この時期の子どもたちは、先ほど述べたように、とても不安定です。

ちょっとしたことで、かなり動揺します。

感受性も強くなってきていますから、我々が思いもよらないことで、

心理的な動揺をしている場合があるのです。

 

・・・・・・・・

 

講演の一部だけ紹介してきた。

実際は、実践を加えながら、

この10倍の話をした。

 

そのⅥ 悪口ばっかり

Posted By taga on 2012年4月5日

この時期の子どもたちは、他人の悪口ばっかり言います。

それが自然です。

なんにも他人の悪口を言わない子どもの方が心配ですよ。

「人のことばっかり、言いなさんな。」

と、僕も一応叱りますが、人のことばっかりが見えてくるものなんですよ、この時期は。

 

このとき、人の文句や悪口の言い方を考えさせることが必要です。

例えば、子どもはよく「みんなが、いじめてきた」というような言い方をしますね。

 

みんなのはずがないでしょう。

そこで、誰と誰がいじめてきたのか、その人数をはっきりと語らせることです。

きちんと数えたら三人しかいなかった、というのがだいたいのところでしょう。

 

僕は、そういうとき、こういいます。

「みんなか。みんなというと、先生も入るんか。先生は君をいじめてないよ。」

すると、

「先生は入ってない。」

と言います。

「じゃあ、又よし君は?綾部君は?」

と、絶対にそういうことをその子にしない子どもの名前を出して、たずねます。

 

そんなふうにして、だんだんと追いつめていって、

誰と誰と誰の三人だけであることを、はっきりさせます。

 

これって、重要なんですよ。

三人にいじめられたことを「みんな」と言うのは、事実に反しているだけではなくて、精神的にもみんなからやられたという負担が増えてしまいます。

「なんだ。本当は三人だけの話だったんだな。」

なんて思ってくれたら、心は軽くなりますね。

 

もちろん、その三人について話をきちんとしていかねば、子どもの信頼は得られませんが。

 

中学年の子どもは基本的に前に傾いていて、

自分の反省なんて、できないものです。僕はいつも三年生の保護者会で、こう言います。

「この時期の子どもの反省は、サルの反省だと思っていてください。反省って、かっこうだけするけど、本当に心から反省できないんです。」

 

それで、そうやって他人をきちんと見るトレーニングをしていると、高学年以上になって、自分を振り返ることのできる時期が来ると、そのきちんと事実を見る目で、自分のことを見ることができるようになるのです。

これこそ、本当の反省になりますね。

 

そのⅤ 中学年は、変革期

Posted By taga on 2012年4月4日

 

中学年です。

ここは、大きな変革期です。

心理学って、いろんな会派があって、考え方がそれぞれ違います。

そのいろんな会派が、みんな九才のところに大きな転換期があると言っています。

理由はいろいろなんですけれどもね。

 

よく言われるのが、具体から抽象へと移る時期だということです。

なんだか分かりにくい言葉なんですね、具体と抽象って。

 

ものすごく簡単に言うと、目に見えるものが具体。目には見えないものが抽象。

九才までの子どもたちは、目に見えないところのものは、よく分かりません。

花、犬、机、ハンカチ、走る、だまる。

等の見えるもののことしか、分かりません。

ですから、この時期の子どもたちに何かを教えるときは、

具体的に書いたりして、目で見せながらする方が、効果的です。

 

それが、九才を越える頃になってくると、

しだいに、目に見えない概念みたいなものが、分かるようになってきます。

目に見えないものって、大事なものばかりでしょ。

 

さわやかさ、ブルー、思いやり、心遣い、すがすがしさ、反省、ぬくもり、友情など、

実は、目に見えないものこそが、人間にとって必要なものなのですね。

目に見えないのだから、それが分かるためには、言葉を使うしかありません。

 

言葉が重要になり始めますが、国語の話は、ここでするものではないので、ちょっと視点をかえて。

 

 

「親塾」、やってみます。

Posted By taga on 2012年4月3日

「親 塾」

 

■ 主 旨

子育てをしていると、いろいろなことにぶつかります。不安もあり、自分のしていることに迷ったりもするでしょう。子育ては、楽しく、かつ、難しいものです。

「じっくりと子どもをどう育てるかという話をして下さい。」

という言葉をいただくことが多いので、それなら、僕の知識や子育てへのヒントを伝えてみようかと、考えています。

「また、絵本の話を聞かせて下さい。」という言葉もいただきます。

まずは、やってみるというのが、僕の信条です。今ならば、平日に時間を作ることも可能なので、はじめてみたいと思います。

「教師多賀塾」と同じように、「親塾」というタイトルにします。

まず、1回目をして、不評ならば、最初で最後。次回もという声に合わせて回数を増やしたいと思っています。

どなたでも参加できます。お知り合いにも、声をかけて下さい。希望の方は、下記のメアドまでご連絡願います。登録して、以後の連絡にも使わせていただきます。

 

■ 日 時 4月25日(水) 10時~12時

 

■ 場 所 兵庫私学会館 【078-331-6623】

JR元町駅 北側 徒歩3分

駐車場は、少しなら、タイムスがすぐ前にあります。

 

■ 内 容

① 子どもの心の受け止め方 -その1―

② 絵本の世界

 

■ 参加費 1000円 会場費と資料代

 

※ 連絡先      taga169@sage.ocn.ne.jp    多賀一郎

 

そのⅣ 子どものすることには、その子なりの意味がある

Posted By taga on 2012年4月3日

「マルマルモリモリ」でブレークした芦田まなちゃんと鈴木福くんは、

一見、すごくしっかりしていますよね。

確かに達者な子どもたちですが、あの子たち程度の一年生は、ざらにいます。

そんなに特別な子どもたちではありません。

その辺をイメージして聴いて下さいね。

この時期の子どもをよく表している絵本を一冊、読みましょう。

◆「おこだでませんように」を読む。

子どものすることには、全てその子なりの意味があるのです。

低学年であろうと、何かを考えて行動しています。

でも、その行動が、なかなか世間の常識に合わないことも多いのですね。

子どものした結果だけでなく、

なぜそうしたのかという背景を読み取ってあげないと、

子どもたちのことは理解できません。

ところで、低学年の子どもって、本来は勢いよく泣くものですね。

自分の心にブレーキをかけられないので、

どんって泣いてしまいます。

その代わり下まで一気に落ちて、その勢いで上に上がっていきます。

つまり、立ち直りが速いのです。

泣いた子どもが、もう笑ったというのは、子どもの持つすばらしさですね。

大人に近づけば近づくほど、こうはいきません。

大人は、心にブレーキをかけてがまんしながら、ゆっくりと落ち込んでいきます。

そして、底まで落ちた時には、もう、上に上がるパワーがなくなってしまっているのです。

だから、大人は、落ち込みが長いのです。

子どもはすぐに立ち直ります。

もちろん、個人差があって、PTSDなどのきつい子どもは、なかなか立ち上がれませんよ。

それから、誰かの頭をなでてやれば、それを見ている子どもは、必ずいます。

特に低学年は、じっと見て、「自分もしてほしいなあ」って、思います。

それは、甘えたいという心なんですね。

例えば、擦り傷をつくった子どもの足にバンドエイドを貼ってあげていたら、

じいっと見ていたりします。

自分も貼ってほしそうにします。

そんな子には、貼ってあげればいいんですよ。

「あなたも貼ってあげようか。」

なんてね。

もったいないことは、ありません。

そのバンドエイドは、子どもの心のバンドエイドになって、

子どもの心が落ち着くのですからね。

 

達人セミナー、終了

Posted By taga on 2012年4月2日

一日の達人セミナーには、スタッフをのぞいて40人の方が集まった。

70分が一本、60分が三本は、正直、少し疲れた。

東京、愛知、富山、金沢、京都、滋賀、大阪、和歌山、奈良、広島、兵庫、広い範囲から集まって来られた。

 

 

「セミナーの手応えはどうでしたか。」

と、たまに聞かれるのだが、僕にはよく分からない。

手応えはあるし、メッセージからも思いが伝わってくるので、してよかったとは思っている。

自分自身の講座については、精一杯やりきった感はあるのだが、その評価は正確にはできない。

セミナーって、そういうものだと思う。

参加者のメッセージのうち、許可を頂いたものを一部だけ掲載して、その場のムードを伝えたい。

 

● 二年生を担任するので、東田先生のお話から低学年の特徴、心理を聞くことができて、準備の上ですごく参考になりました。プーさんやマイクを使うことは、スイッチを換えるという意図がおたとは、驚きでした。声のダイヤルでは、子どもたちは適当な声の大きさを知らないのだから、何度も話して学ばせていく必要があると感じました。

多賀先生は、初めの話がすごく心にひびきました。これからの一ヶ月間は、くたくたになってでも、周到な準備をして、教師主導で学級をつくりあげていきたいと思います。

また、アイドリングで臨んだ先生のエピソードなど具体例があって分かりやすかったです。国語のミニネタは、すごく集中して考えることができました。

 

● 今日、来ていなかったら、子どもたちの大事な一年をだめにしてしまうところでした。4月は、よく考えて、よーく準備して、何でもやってみようと思います。

子どもたちが興味を持ち、いつの間にか頭を使っているような教材提示をするためには、教師の意図がしっかりしていないといけないことが分かりました。

それをまとめられなければ、自分も子どもの一部になってしまいます。それでいい場合もあると私は思うけれど、そうじゃない場合もあると気づき、自分の存在になんか自信を持てました。うれしい。

 

● 実例をたくさん紹介して頂き、始業を迎えるのが楽しみになりました。まだまだ知識も浅く、経験もない三年目なのですが、子どもたちが「楽しい」と思える授業づくり、学級づくりを目指していきたいと思います。

本当にありがとうございました。北陸地域でも、ぜひ開催をお願いします。

 

● 今回初めて教育の達人セミナーに参加させていただきました。どの講座も、60分があっという間に感じました。4月から始めて担任を持つため、今何をすべきか迷っていましたが、セミナーを受けて自分のするべきことが少し分かりました。始業式に向けて、自分なりに準備していこうと思います。ありがとうございました。

 

そのⅢ 子どもの言葉には深い意味がある

Posted By taga on 2012年4月2日

 

小さい子の未熟な表現を、大人は、真面目に一生懸命に聞いてあげることが、大切です。

「この子は、何が言いたいのかな。」

と、耳を傾けるのです。

目を見て。

 

子どもたちは集中して話すことが、恐ろしいほど、できません。

すぐに気持ちが散ってしまいます。

できれば、手を握って聞きましょう。

そうすれば、気がそれないし、手のぬくもりを持って話すことができるからです。

 

この時期の子どもたちに必要なのは、大人に甘えきることです。

残念ながら、ここにいらっしゃるお子さんたちは、

それが十分ではないかも知れません。

十分に甘えきった経験が少ないかも知れません。

 

甘えが足りないとき、人はいつも、落ち着かず、

不安な感覚を持ち続けることになります。

 

そんなときは、膝において絵本を読んであげると、

とても甘えた気分になって、落ち着きますね。

 

 

さよなら、甲南

Posted By taga on 2012年4月1日

3月いっぱい、で甲南小学校を退職しました。

31年間勤めた大好きな学校を道半ばで去るのは

断腸の思いです。

 

いろいろ取りざたされるのは嫌なので、理由を一度だけ、書きます。

 

精神的な苦痛に耐えられなくなったことです。

ずっとがまんしてきましたが、もう無理かなと思いました。

ここ数年、ずっと考えてきました。

ことあるごとに、邪魔され、攻撃されてきました。

法的な手段も視野に入れましたが

自分の人生の残り時間をそんなことに使いたくは、ありませんでした。

仲間は気にしないでがんばってほしいと言ってくれましたが、

個人の人格を職員会議という場で否定されるに至って、

決意しました。

 

教室にギターを置いて弾くこともできない。

学級文庫として僕の本たちを並べて子どもたちに読ませることもできない。

そういう中で、自分の教育を続けていくのは、難しいものでした。

 

「うちの学校には、優秀な教師はいらないんや。」

とも言われました。

僕が子どもや親の立場に立って行動したときに、

「お前は、学校と親や子どものどっちを向いて仕事してるんや。」

と、どなられたこともあります。

そのとき、家に帰ってその話をしたら、家族は、

「それって、あなたに対する最高の褒め言葉よ。」

と、言ってくれました。

 

その家族が、

「もう、いいんじゃないの。」

と、言ってくれました。

 

4月からは、ただのプー太郎になってしまいますが、

僕のようなものでも求めてくれるところがあるかも知れません。

体は元気なので、がんばります。

明日から、サンデー毎日です。

そのⅡ 発達段階をふまえよ

Posted By taga on 2012年3月31日

さて、その小さな人間である子どもは、発達段階によって、大きくちがっています。

やはり、年代に応じて、接し方を考えていかねばなりません。

当たり前ですよね。三才の子と14才の子どもが同じはずはない。

同じことをしても、意味が違ってきますよね。

三才の子どもが若い女性に「おっぱいちょうだい。」と言っても、笑えますが、

14才の男の子がそんなこと言ったら・・・・、怖いですよね。

 

一方、どの年令の子どもにも通用することが、あります。

それを「不易」と呼びますが、不易の話は、後ほどしていきます。

今は、年令に応じた子どもの姿とその受け止め方の話をしましょう。

ただし、どの学年においても、十才になったら、全員がその学年のレベルになるなんてことは、あり得ませんね。

必ず個人差というものがあることを、頭に置いておきましょう。

 

まずは、幼児期。

 

この時期の子どもたちは、まだ、十分に表現できる力を持っていません。

つたない表現をします。

つたない表現をする子どもだからといって、軽く見ないこと。

僕は、三つくらいの時、近所のおばちゃんが

「ぼく、あんよ、じょうずやね。」

と言ったときに、

「大人のくせに、足のこと、あんよ やて。」

と言ったらしいです。とんでもないやつですよね。

 

まあ、そういうこまっしゃくれたガキは、ともかくとして、

小さい子どものつたない表現を、大人は笑いますよね。

かわいく思って笑います。

でも、その笑いを幼子は、どう感じているのでしょうか。

心の底に、からかわれた、適当に扱われた、そんな思いだけが残っていかないでしょうか。

 

いや、いくんですよ、これが。

幼児期の子どもは、言葉の力が弱いぶん、

顔色や態度から人の気持ちをぱっと感覚的につかむ力に、たけているんですよ。

言葉を持たない彼等にとっては、それが死活問題になるのですからね。

 

 

子どもの受け止め方

Posted By taga on 2012年3月30日

27日は、六甲にある児童擁護施設の職員の方に講演。

 

ここで話させていただくのは、三回目である。

「子どもの受け止め方」というタイトルで、

90分間、話させて頂いた。

その内容の一部を、これから7回に分けて紹介する。

講演では、「語り」というものが重要である。

僕は、敬体でいつも語るので、その形でここに載せていく。

 

・・・・・・・・・

 

みなさん、こんにちは。

住吉にある私立の小学校からまいりました、多賀と申します。

ここで話させて頂くのは、三度目ですが、いつも、僕のような者の話でいいのかなと思ってしまいます。

32年間、小学校で子どもたちと接してきたことしか伝えられませんが、

みなさんの貴重な時間を無駄にしないように努力します。90分間、おつきあい下さい。

何冊か、本も読みます。本の中には、子どもの姿が描かれています。子どもとくらしていくヒントがそこにあります。

何よりも、大人が本を読み聞かせしてもらうことは、あまりありませんから、それだけでも、心の栄養になるでしょう。どうか、リラックスして、お聞き下さい。

 

◆ 「子どもは、小さな人間なんやで」

――― 子ども理解は、人間理解。まずは、理解から。

子どもは小さな人間だという言葉は、尊敬する岡田崇先生に教わった言葉です。

 

「よくなあ、子ども理解、子ども理解って言うやろ。

ちがうで。子どもは小さな人間なんや。人間理解と言うべきなんや。」

 

そう教えられました。

子どもを見るときは、一人の人間として見るべきだ。

それが、岡田先生に教わったことでした。

確かに、われわれ大人は、子どもを単純にレベルが少し下の者だと見がちです。

見下したり、どなりつけたり、大人にならば決して使わない言葉を使ったりしてしまいます。

 

ぼくは、岡田先生にそう教えられて以来、上から子どもを見るのではなく、一個の人間として、見つめるように努力してきました。

そうすると、少しずつ、いろんなことが見えてきたような気がしています。

 

子どもに媚びる必要はありませんが、一度、子どもへの接し方を考え直してみることは、大切なことだと思われませんか。

子どもという小さな人間を、どう受け止めていけばいいのか、今日は、一緒に考えていきましょう。