表題の元ネタは内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎 How I Became a Christian』です。それはともかく、なぜ明治学院大学国際学部国際学科・原武史教授を批判するかというと、彼の書いた『大正天皇』と『昭和天皇』は世紀の駄作であり、学者失格としか言いようが無いからであります。ちなみに、『大正天皇』で第55回毎日出版文化賞を取り、『昭和天皇』で第12回司馬遼太郎賞を取ったそうです。まあ、上に挙げた彼の著書を読むより(私は原氏の本は読みましたよ)、日本大学文理学部の古川隆久教授が著した『大正天皇』『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』及び、小林よしのり先生の『天皇論』を読まれた方が良い。私自身も原氏のゼミに所属することも考えたが、小林よしのり先生の『天皇論』を読み、「この人のゼミだけはまずい」と思い、また、古川先生の著書も読ませて頂き、奇遇なことに前のバイト先に古川先生の大学院の方がいらっしゃったので、一度古川先生にもお会いしたことがある。温厚篤実な方であり、新書に参考文献を大量に載せるという研究熱心な方であると思っている。以上のような経緯で、原氏の学術的デタラメを確信したのであります。ちなみに、今回のブログを書くにあたって、『昭和天皇独白録』も目を通した。また、書架が穢れるということで原ゼミの可愛い女の子に原氏の『大正天皇』『昭和天皇』を譲った。たとえ、本の中身がどうしょうもなくとも本そのものに罪はありませんからね。なので今回は、大学の図書館で原氏の『昭和天皇』のみ借りてきました。
2、宮中祭祀廃止論批判
天皇とは「神道の祭祀王」である。これはなにも近代以降の話でなく、高校の古典で習っていれば高校生でも分かることだが、大嘗祭や新嘗祭は古代からある。ちなみに、11月23日の勤労感謝の日は「祝日」でなく、本来は、「祭日」の新嘗祭なのである。それを原氏は「こうした祭祀、新嘗祭を除くほとんどが、宮中三殿と同じく明治になってつくられたもので、1908(明治41)年に皇室祭祀令で定められた 8頁」とあるが、全くのデタラメである。皇室祭祀は古代以来の伝統を踏まえて整備して、 1908(明治41)年に皇室祭祀令で定められたのである。小林よしのり先生が『天皇論』で「そもそも伝統とは、昔のある時点の「形式」を型どおりになぞることではない。それでは因習になりかねない。左翼学者は「伝統」とは何かが全然分かっていないのだ。「伝統」とは、歴史の積み重ねの中から醸成される「国民の安寧のための智慧・バランス感覚」のことであり、時代と共に柔軟に表現を変えながらも受け継がれていく「魂・エートス」こそが肝要なのだ。 98頁」である。また、高校時代に使っていた古典の参考書を引っ張ってきたが、七草粥の人日や、お雛様の上巳など、神道関係の宮中における年中行事は平安時代からあったのである。原氏は生半可の知識でよく東京大学に合格したと思う。
そして、「月刊現代」平成20年5月号にて、「宮中祭祀の大部分は明治以降につくられたものであるから、宮中祭祀をなくしたとしても、皇室の姿が明治以降から明治以前に戻るだけである」と先ほど述べたような悪辣なデマを流し、「宮中祭祀の代わりにネットカフェ難民を皇室に招いたり、皇太子夫妻がネットカフェに泊まったりして直接貧困層を「救済」するような、新たな「神話」を作るべきだ」と唱えています。天皇は「公」の存在であって「権威」しかなく「権力はない」のであります。ただ、国民の安寧を祈るだけが務めなのです。そこを弁えず、「天皇をボランティアの代表と誤解する」原氏はあまりにも幼稚な左翼としか言いようがありません。
3、究極の不敬罪
「「三種の神器」の確保が第一 だが、天皇が戦争を終結させようとした究極の目的は、「三種の神器」の確保にあった。(中略) 敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。(前掲『昭和天皇独白録』) (中略) 「三種神器」が一、「国民」が二という順序は変わっていない。 148頁」
『昭和天皇』原武史、岩波新書、
まず、抜き出してきている『昭和天皇独白録』が氏の主張に都合良くするために一部しか抜粋していないのである。ここに全文を抜粋する。「当時私の決心は第一に、このままでは日本民族は滅びてしまう、私は赤子を保護することが出来ない。第二には国体護持のことで木戸も同意見であったが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」である。当然だが、「究極の選択として、”人”か”大事な物”かと言えば、当然”人”を選択する」ものである。原のやったことは昭和天皇に対する不敬であり侮辱としか言えない。私としては、このような不敬な輩は本当だったら刺し殺しているところである。