転げ落ちたお山の大将
岡倉天心は東京美術学校長、帝国博物館美術部長として、あるいはまた国内外で行われた博覧会の監査官や美術展の審査委員長を務めるなど、明治20年代の日本の美術行政から芸術家育成分野、古社寺および美術品の保存事業に至るまで精力的に活動した。堂々たる体格と容貌も加わって、まさに日本美術界のドンとも言うべき存在になった。
しかしそうした自信たっぷりの、強引とも思える天心のやり方は少なからず「敵」も作った。東京美術学校に洋画科を置かなかったのも、いかにも天心らしい考え方である。古代インド、中国を源流とする東洋美術が日本で花開いたが、その日本絵画彫刻は今やすっかり力を失っている。それを再興して全世界に素晴らしい日本美術を見せることがとりもなおさず日本の国際的地位の向上につながる──これが天心の考え方だった。だからこそ西洋の真似事を教える洋画科など不要として、東京美術学校は日本画専門校としてスタートした。
この過激な思想は当然、その頃ようやく力をつけてきた洋画界の猛反発を受けた。工部美術学校で洋画を学んだ小山正太郎、浅井忠といった日本洋画界の草分けたちは団結して天心に対抗するようになった。そこへフランスで本格的に絵画修行した黒田清輝、久米桂一郎らの新進気鋭が次々に帰国した。さらに当時の日本は欧米先進国の進んだ文物を積極的に取り入れて、1日も早く彼らに追いつこうという気運が強かった。そうした空気に押されて、1896(明治29)年に東京美術学校に洋画科が誕生、黒田、久米が教授として迎え入れられた。
これによって「天心一家」とも言うべき美術学校の雰囲気が大きく変化したことは間違いないだろう。それまで天心の強大な力の前に沈黙を守ってきた不満分子のうごめきも徐々に目立つようになる。しかしお山の大将天心は相変わらずの天衣無縫ぶりで、学校運営の狭い枠におさまっていられずに東奔西走の毎日を送っているうちに足をすくわれてしまう。
ことに致命的だったのは、天心の良き理解者だった文部省の上司九鬼驤齟j爵夫人との恋愛事件だった。その他にも女性にもてた天心には数々の艶聞がつきまとっていた。そうした問題を暴き出す怪文書が文部省はじめ関係者に送りつけられるようになり、ついに98(明治31)年3月、天心は帝国博物館理事・美術部長と東京美術学校長の職を投げ出した。まだ35歳の若さだった。
堂々男子は・・・
天心が東京美術学校長を辞職することになると、美校の教員のうち黒田ら洋画科をのぞく36名がそろって辞表を提出した。文部省側などによる切り崩し工作もあり、撤回する者が続々出たが、それでも橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら17名は天心と行を共にすることになった。
天心の行動は素早く、7月には弟子たちと「日本美術院」を設立、その後わずか3ヶ月で東京・谷中に研究所と付属舎宅を完成させ、10月15日に大々的な開院式と第1回日本美術院展(院展)の開幕という離れ業を見せた。この展覧会には横山大観が歴史画の名作「屈原」を出品し大評判になった。
この開院式には内外の有名人が多数集まり、多額の寄付金も寄せられた。特に天心の友人でボストン美術館理事ビゲローは美術院の賛助会員となり1万ドル(2万円)を寄付したという。
日本美術院は機関誌「日本美術」を発行する学術部と、絵画、彫刻、漆工、金工、図案の5部構成の実技部からなり、正員は雅邦、大観、観山、春草等26名だった。大観、観山等はあてがわれた舎宅に家族とともに住み、毎日向かいの研究所に通い画業に励んだ。春秋2回の院展開催と共に仙台、盛岡、秋田、大阪、広島、福岡など各地で巡回展を開催、新時代の日本画の粋を広く地方にも知らしめた。今でこそ巡回展はめずらしくもないが、明治30年代の地方都市では美術展など見たこともない人の方が多かったから、この試みは各地で大歓迎された。
「そのせいで大観や春草などの初期の名作が地方にちらばっているのです」と小泉晋弥茨城大学教授は言う。たとえば大観の「屈原」は広島の厳島神社の所蔵であり、春草の「王昭君」は山形の善宝寺蔵である。「天心は各地で巡回展を開催し、地方での美術啓蒙運動を行うかたわら、出品作を地元の有力者に売り、それを美術院の収入にするという方法をとったのです」という。
とにかくこの頃が天心の絶頂期だったようである。アイデアマンであると同時に実行力を兼ね備えた天心は、野に下った今、持ち前の馬力で日本美術院の事業を活発に進めた。
五浦六角堂から北へ1キロたらずのところにある茨城県天心記念五浦美術館には、この頃、天心が作り描いたという「日本美術院院歌」なる大判の色紙が展示されている。花咲く紅梅の枝に鶯が止まっている絵に、「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい。奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」と書いてある。何とも珍妙な戯れ歌だが、35歳の天心を中心に30歳になったばかりの大観、24、5歳の観山、春草等が取り巻き、飲んでは高歌放吟していた様子が目に浮かぶ。
こうして威勢良くスタートした日本美術院だが、わずか3年で急速にしぼんでしまう。ひらめきがあり、アイデアを実行に移す力に優れていた天心だが、出来上がった組織をうまく運営する経営力に問題があったらしい。たちまち財政破綻を来したのである。
小泉教授によると、天心は日本美術院を一種のコミュニティ(共同体)としたのだが、それがうまく機能しなかったというのだ。会員画家たちが描く作品は美術院が売り、それを美術院の運営費に回すとともに、会員には毎月決まった月給を支払う方式をとった。大観、観山、春草などの幹部クラスの月給は25円だったという。小学校教員の初任給が月給8円、上級官僚の初任給が50円という時代だから、新進画家の月給としてはまずまずといったところであろうか。
しかし問題は理想に走りすぎたコミュニティ・システムにあったようである。つまり、作品をせっせと仕上げる者も、何も描かない者も等しく月給がもらえるとなれば、必然的に生産性は落ちてしまう。これに不満を抱く会員も出て、櫛の歯が欠けるように1人2人と脱落者が出るようになった。
折から天心は、愛人の星崎波津子(九鬼男爵と離婚)との関係のもつれや基子夫人が嫉妬して実家に戻ってしまったこと、お手伝いの女性に子を産ませてしまったことなど個人的な問題が山積し、それから逃げるために内務省から仏教遺跡調査の委嘱を受けたのを幸いとインドに旅立ち、9ヶ月も日本を留守にしてまった。これで日本美術院は事実上崩壊した。
五浦での「晴釣雨読」
インド滞在中にアジア文明史の名著「東洋の理想」を書き上げ、帰国した天心は、1903年、五浦に土地家屋を求め、ここを再興日本美術院の本拠に定めた。
その間、天心は自らの経済基盤を固めるために大観、春草等を引き連れ渡米、ビゲローはじめ旧知の米国人と交流し、ボストン美術館の東洋美術のエキスパートとしての職を得た。以後、50歳で没するまでの10年間、五浦とボストンをほぼ半年交代で往来する暮らしが始まった。
五浦での天心は横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の4人の正員の画業を見守りながら、安田靫彦など若い画家を研究生として時折呼び寄せては指導した。天心の住まいから500メートルばかり離れた断崖にせり出すように建てられた日本美術院研究所には、大観はじめ4人の正員が敷地内の自宅から毎日通い制作に余念がない。若い安田は後年、その時の様子を述懐して「禅堂の座禅僧のようだった」と述べている。
天心はこうして弟子たちの画業を見守りながら、六角堂にこもり茶をたて、読書にふけり、瞑想した。そして自らを「五浦釣徒(いづらちょうと)」と名付け、晴れた日には必ず地元の漁師渡辺千代次を伴い六角堂の下の浜に置いてある釣り船に乗り沖釣に出かけた。天心に見出され日本彫刻界の第一人者となった平櫛田中は釣に出かける天心像「五浦釣人」を彫り上げ、五浦美術文化研究所内の天心記念館に置いた。
五浦時代の天心晩年の10年は国内では「天心の都落ち」などと言われ、20代、30代の華やかさは無くなっていた。しかし、英文で書かれた「亜細亜は一なり」の名文句で始まる「東洋の理想」をはじめ、「日本の覚醒」「茶の本」の3部作が海外で多大の評価を得て、国際人岡倉天心の名前が欧米知識人の間に広まっていった時期でもあった。
1913(大正3)年9月2日、天心は療養先の赤倉の山荘で亡くなる。享年50歳。五浦六角堂も長い眠りに入った。
文・大澤 水紀雄
五浦美術文化研究所の長屋門
制作にいそしむ大観、春草ら
(茨城大学五浦美術文化研究所提供)
天心の旧居
天心が設計した和洋折衷の釣り舟
亜細亜の碑