告知しておりました回線工事が一段落致しました。
回線工事は17:00までとなっているのと、別に本日は強風による停電リスクがあるため余談は許さない状態ですが、一旦不通状態は終了致しました。
ご協力ありがとうございました。
告知しておりました回線工事が一段落致しました。
回線工事は17:00までとなっているのと、別に本日は強風による停電リスクがあるため余談は許さない状態ですが、一旦不通状態は終了致しました。
ご協力ありがとうございました。
4月7日(土)の午前0時より、ウェブ魚拓およびウェブ石碑のメンテナンスを行います。
作業内容は、利用しているホスティング会社のプラン変更に伴うサーバの入れ替えになります。
4~8時間程度を予定しています。終わり次第、順次サービスを復旧させます。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
地震後に公民館に避難した人々は、世間話をしていた。
逃げなかった人もおのおのゆっくりしていた。
■ここで運悪く、
地震で防災無線は完全に故障していた。
津波が来るという警報はならない。
暫く経った後、公民館に入った人々がぞろぞろと出てきた。
車で移動移動する人々、歩く人々。
■ここで運悪く、
公民館の職員は「ここは2階までしかない。津波が来るときの避難所ではない、中学校に移動してほしい」 と溜まっている人々を閖上中学校に送ってしまっていた。
市では大津波の際、最低でも3階の建物に避難させるという方針があったという。
結論から言うと、2階に居れば助かった。しかし、本震災の平均生存者避難階数は2.9F(ウェザーニューズら)。市は大津波への避難所の周知が徹底していなかったという点で問題があるものの、2Fで助かったのは結果論かもしれない。
津波に実感を持てない逃げなかった人々は立ち話などゆっくりと話していた。
■ここで運悪く、
中学校へ向かう車道は渋滞していた。
その先の交通量が非常に多い交差点のそばで死亡事故が発生していたためである。
公民館から閖上中学校は地味に距離がある。
非常に広大な平地である仙台平野の移動の常として、自動車が使われる。
信号は停電で当然全て機能していない。
このとき既に水門にいて海の変化を見た人、マンホールから水が吹き出しているのを見た人は我に返っていた。
この街がすでに海のものであるという現実に気付いたように。
町内で叫びながら避難、あるいは説得した。
大津波が来るぞ、逃げろと言っても全く信じて貰えず、自動車のドアを開け、ラジオを最大にして訴えた人も居た。
後の生存者はその時、
「あの人は(頭が)大丈夫か」
と思ったという。
「車から降りろ、逃げろ!」
降りて逃げる人もいたが、
「渋滞中に交通違反するわけにもいけない」
と車内にとどまった人もいた。
「海の方に煙が見えるよ」
そう子供がつぶやいたとき、閖上は―BBCの表現を借りると―「水拭き」された。
閖上地区の死者は人口の1割を超えた。
家路につくときの事故渋滞なら、ツイてないで済んだが・・・
(防災無線の故障原因などには調査結果がかなり妙なこともあるのですが、深く突っ込めないのでここでは記述しません)
―
貞観13年
この海岸にありがたい十一面観音像が
波に「ゆりあげ」られていたのを漁師が見つけた
それ以来この土地を
ゆりあげ浜と呼ぶようになった
海を去ること数十百里
どこから陸でどこから海か
原野も道路も すべて蒼
船に乗るにもいとまあらず
山に登るにも及びがたし
溺死するもの千ばかり
資産苗稼
何も残らず
(日本三代実録)
それはこの貞観11年の大津波とあまりに近い。
―
参考
NHK 巨大津波 その時ひとはどう動いたか
河北新報 2011/8/3 証言
NTT様の復興工事のため、4/4 9:00-17:00の間、回線が60分ほど利用できず、しばらくの間サービスが停止します。お手数おかけしますが、よろしくおねがいします。
(復興工事という言い回しは、原文のままです)
「ここに二つ市があったはずだね。名取市と、仙台市。なんというか、松島まで見えそうだ」
砂を靴で噛みながら閖上の神社に立つと、あまりにも見晴らしの良いその光景は、今後生まれてきた子供にここに街があったと言っても信じてもらえないのではないかと思えるものだ。
広島で原爆被害にあった女性。中国新聞社より。
■被災面積を数値で比較
・第二次世界大戦のヒロシマ・ナガサキ含む空襲被害総面積 640平方キロメートル
・東日本大震災の浸水地域 561平方キロメートル
・福島原発居住禁止区域 約1100平方キロメートル
冒頭の写真は名取市閖上地区の神社より北方面を撮影。壮大な地平線がある。
仙台湾を襲った津波は内陸6kmまで到達。沿岸のことごとくをさらった。
これは原爆被害に遭った女性が語ったとおり、被害面積という意味では原爆を圧倒する。
この神社は象徴的な場所である。
Japanese town of Yuriage ‘wiped from the map’
ユリアゲは地図から”水拭き”された – BBC イギリス
■
神社は津波から残った、やっぱり先達はすごい!という意見はある。ただ本当に昔からある、津波を避ける位置のもの以外結局流れた。
古くからあって生存していったものが残るというものもあれば、ここまで津波が来るぞという本当に目安となる(津神社、浪分神社などモロな名前が付いている)ものもある。
それは歴史に詳しくないと判断が難しい。避難の時の目安にするのは危険である。高い所に逃げよ!(まあ私もお堂に居たわけだが・・・)
■
ちょっと考えて見ることにしよう・・
海岸から自動車を使わずに避難できるだろうか・・
もしくは、する気になるだろうか・・
市は自動車での避難は推奨していないが、結局自動車しかないという広大さが仙台平野には多分にある。
様々な要素で閖上の人的被害は拡大する。
「松島はもう観光再開しているみたいだぜ」
松島は日本三景と呼ばれる観光地である。三景にそれぞれ割り当てられる「雪月花」の「月」を担当する。
やや家屋には浸水のあとの泥の線があるが窓などが割れていないところを見ると、緩やかに上がって緩やかに下がった程度であると言える。
松島町
死者:2
行方不明者:0
建物の被害:0
(宮城県発表)
対面にある東松島町は苛烈な破壊を受けている。
そこから見ると松島はかなり平和なようだ。
少々距離的に飛ぶが、車を走らせていると普代村も目につく。
「まるで被害がないな」
「多少漁港の建物が破壊されているけど、他の場所に比べれば何も無かったかのようだね」
普代村と呼ばれる場所は、岩手県の北の北にある非常に小さい町だ。人口も約3000人と少ない。
普代村を守る、巨大な壁
岩手県普代村
死者:0
行方不明者:1
建物の被害:0
(岩手県発表)
本震災で例外的にこの2つの町はほとんど被害がない。
松島は海底の地形と天然の島々が津波を防いだと言われている。
観光客は速やかに避難をしたという。観光客は「あずかりもの」なので避難させる意識も高かったのかもしれない・・・
普代村は明治、昭和の大津波双方で壊滅している。地形は波を増幅させる三陸そのものだ。
世界最高の防波堤と言われていた釜石の防波堤が破壊され、津波太郎の万里の長城と言われた高さ10mの田老町防波堤も突破された。
(両方の防波堤は全く無力では無かったといわれてはいるが)防波堤よりも、高台移転、人間が逃げるというのに力を入れていこうという方向に傾いた。
田老町は明治三陸大津波で15mの津波に襲われているが、残念ながら参考にしたのは10mの津波であった昭和三陸大津波のようだ。
釜石市近辺にある防波堤の一つ。助手席から撮影したので正確な位置がわからないが、かなり巨大な防波堤が木っ端みじんに粉砕されている。切り取られた階段が虚しい。
そんな中、この津波に耐えきった防潮堤と水門が普代村にある。
その高さは15m超という、類を見ないものだ。
この防潮堤を作った当時の村長は、明治の普代を襲った津波は15mあったという言い伝えを信じ、15m超の防潮堤を作るのに奔走したという。
「田老でも10mなのに、その15mという数字はどうにかなりませんか」
というやり取りがあったのは間違いない。村の中でも反対はあっただろう。
しかし村長は作った。そして耐えた。
普代村にとどまらず、三陸の英雄としてこの村長は高く評価されることになった。
噂によると村長の墓参りに訪れる人は後を絶たないという・・・・
-
一方これを知ると、じゃあなんで高い防潮堤を作らないのか、という声が聞こえてくる。
そちらは至極ごもっともであり、簡単に説明させていただく。
一度でも普代村を見ていただければわかるが、普代村は非常に小さい。防波堤の延長も非常にわずかで済んでいる。防潮堤は130m、水門は205mにすぎない。
田老は2.4kmであり、文字通りケタが違う。しかも、普代村と異なり、たとえば大船渡や宮古なら高さが40mが必要という結果が出るかも知れない。金額も兆に達するだろう。
その金を工面するのは難しい。高台移転の方が安い。真似しろとは一概に言えないのである。
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松島はただ在るだけで津波を防いだ。紛れもない日本三景である。
そして普代村は一人の村長の執念で津波を返した。
私は周囲の反対という孤独の中15m超を譲らなかったであろう村長にこの言葉を思い出す。
「一頭のライオンが指揮する百頭の羊は、一頭の羊が指揮する百頭のライオンに勝つだろう」
カール・フォン・クラウゼヴィッツ 戦争論
中心が私なのは、同期で並ぶと身長が大きい者が真ん中というしきたりがあるらしいからだ(その時初めて知ったが)
手短に説明しておくと、応援団はその個体数も少なく、野球やサッカーと違い友人でやっていたという人も少ないので解りづらいとは思う。
しかしこれは津波と異なり、大体想像通りであっている。
廃団となった危険な応援団もあれば、安全な応援団もある。私が1年生の時に4年が「今後一切の暴力を禁ずる」といった穏健派であったため、平和な方だった。
こういった古風な格好をすると、ややお年を召した方々や、意外にも若い娘たちにも受けは良いのである。
チアリーダーは応援団員目当てで始めるといった理由がかなり多い。(残念ながら、他校の、とかが付いたりするわけだが・・・)
5人もいると3人と違い、太鼓と大団旗と呼ばれる巨大な旗を立てても人数が少なすぎないギリギリの人数である。
エールはなかなか好評だったらしく、地元ローカル新聞も大きい紙面で取り上げてくれたと言う事だ。どんな様子だったかの写真は無いわけだが・・・
復興グッズもお店の方々から戴いた。
有志たちを東京で下ろす。
彼らも昔に戻ったような錯覚に入ったようで、満足したようだ。
「本当にありがとう。感謝している」
「おお、また呼んでくれよ」
「おいおい本当かよ。なんか2週間後?も○○であるらしいけど。次は向かえにいけねーぞ」
「に、2週間後かよ」
そんなやり取りをする。
しかしというか、春から続く様々なイベントやら見舞金やらは着実に(もともと大して無いが・・・)貯金を圧迫するのである。
・・・新沼さん・・・市の○○が使いづらくてさ、どうにかして改善したいんだけど・・・
・・・○○使えばコンビニで全部終わりますよ。そんなに複雑にはならないはずです・・・
・・・本当か、助かるよ・・・予算○○円引っ張れるから、話が決まったら頼むよ・・・
・・・新沼君、今度、うちの大学で助教を探してるんだ。○○教授が年でおやめになるのでね・・准教授になれる人を探してるんだよ。やってみないかい・・・
・・・いいですね・・・
・・・じゃあちょっと説明するよ・・・
―
・・・10kg、痩せた・・みんな流されて、車を流されちゃってね。食事より先に車を買わなきゃいけない。田舎は仕事をするにも車が無いとね・・・
「・・・・・まあ、いいけど」
青くて巨大な財布でも買って完全に貯金リセットから始めることにしよう。
なんとなく、津波にのまれたって感じがするし・・・
自分の会社のため、給与支払い遅延がないというのが解っているため、大して恐ろしい事ではないのである。
もちろん津波を意識して高台に職場や家を置いたから守られるのは自然の流れなのだが、何となくこんな中ヌクヌクとしすぎているのも気持ち悪いものだ。
「一泊3000万の、高い部屋だったよ」
(引っ越した翌日に家を流された被災者の言葉。「被災地の本当の話をしよう」戸羽太(陸前高田市市長) ワニブックス)
そんな話を聞くとちょっと使いたくもなるだろ?
さて貯金でもしようか。