合格したので。
結果は、午前76点午後84点で合計160点。
ちなみに自己採点より10点低くギャップの大きさが意外だったが、今年の問題の傾向に何かが起きていたのかどうかについては分析できない。あくまで学生にとって主観的な「基本的には合格するまで受験するが、一度受かれば繰り返し受験する必要のない試験」について、自分が勉強をどう進めたか振り返ってみる。
当然ながら、国試対策は養成校のカリキュラムに組込まれている。その拘束時間がどれくらいになるかは学校によって、あるいは学生によって異なるだろうが、特に受験日が近づくにつれ割合は増え最も多くなるものだと思う。これは「利用しつくす」ことに限る。講義の時間内に話を流れとして理解してキーワードも暗記してしまおうとする。質問もする。そしてそれを反復する。それしかない。実際、どれだけ過去問を解いた学生でも「試験のヤマを張る」ことはできても「試験に出るポイントを適切に押さえる」ことは不可能に近い。そうするためには出題範囲を網羅し、そのうえで出題傾向を読み解くという作業が必要になるからだ。
つまり、「試験に出るポイント」は与えられるものでありカリキュラムに含まれているから、それをしゃぶりつくそう。今だから言えるが、大抵はそれだけで十分合格できるはずだ。少なくとも焦りから「自分で勉強する時間がない」と感じてしまう事態は避けなければならない。しかし、自分でコントロールできる範囲の勉強もあるので、ここで取り上げる範囲はそこに限られる。
また、長期実習に行ったあとは、実習やそこから想像できる臨床と国家試験の出題内容との共通点や相違点について、いくらか実感を持つことができた。そのうえでここで書きたいこととは、「出題内容や問題の善し悪しによらず5択として提示された問題200問を、トータルで捉えて120問以上正答する」という課題をクリアするために必要な技術である。といっても自分がいろいろと試してみた結果、カリキュラムに付け加えてもいいのではないかと感じたことはひとつだけだ。
問題は繰り返し解く、一度めは問題文を、二度めは選択肢を
教室のチャイムが鳴ってプリントが回ってきた。どこかで誰かと解いたような気もする問題をまた解くよう言われる。問題を解き終えた頃合いを見計らって解説を聞くことになる、というよくある講義風景。
学生にとって過去問を解くという行為は、5つの選択肢のうち1つを選ぶ作業と等しい。そのため、1〜5またはa〜eまでの選択肢を見比べることに意識は集中しがちだ。
ここで思い出してもらいたいのは、自分が間違った問題の解説を聞いたあとに「そっちか……」と「言われてみれば納得できる」という感覚、もしくは休み時間にクラスメイトから「私はこういう理由で選択肢を1としたが解答は5らしいのだけれどどうしてだろう」と尋かれて「確かに言われてみれば自分も1だと思う、なぜこれが5になるのだろう」という感覚だ。
過去問の解説は、まず教員が問題文と選択肢を読み上げることから始まる。続いて正答の番号を言ってから解説を始めるのかと思いきや、いったん手を止めて問題文の解釈を述べることが多くないだろうか(そして答えを早く言わないことにヤキモキしたり、集中が切れて答えを聞き逃したりする)。例えば、「この問題文からはこのような情報が読み取れます」とか「この問題文はこのような表現を用いていますがこんな知識について尋ねています」とか言う。そしてそれを聞いた瞬間に、視線を落としていた先にある自分が選んだ選択肢が誤っていたことに気付き、同時にどれが正答もわかる。
つまり、出題者はどの選択肢が正しいかを知っているだけでなく、どの選択肢を正答にするかという文脈を握っているのである。問題によってはその文脈が明示されていない場合もあり、まず出題者の意図する文脈を理解することが求められる。
そして、その作業の先にしか正答は存在しない。もし、そういった問題で問題文の解釈がずれてしまえば、学生が考える論理がいくら筋道だったものでも正答に至らないし、自分では正しい選択肢を選んだと思っているから見直しの時間に誤りにも気付きにくい。そういう意味では「わからなかった問題」よりも厄介であるし、だからこそ解説が必要とされるのである。
問題を解く順序を変えなくてはならない。選択肢の検討より先に「問題文を解く」作業が必要である。そのためには、選択肢へ集中しがちだった注意を問題文に向けるという意識的な変化が求められる。そして、何より重要なのは、これを問題を解く手順へと落とし込むことである。
選択肢に偏っていた意識を問題文へと移動させる。問題文から推測される出題者の意図に沿う文脈を選択的に解釈する。そのうえで、選択肢のなかから文脈と一致するものを選択する。これが「問題文を繰り返しよく読め!!」と繰り返されるやや中身に欠ける号令に、自分なりの解釈を詰め込んだものだ。
これは「言われてみればわかる」ことの中身でもあると思う。言われてみてわかった瞬間、出題者が指定する文脈と自分の文脈が一致したはずだ。上のクラスメイトの例では、文脈は学生間で一致しているが出題者とは一致していない、ということになる。
だから、(結局これに気付いたのが試験直前だったので自分で試すことはなかったが)例えばクラスメイトと問題文の解釈だけ擦り合わせてから、実際に解く作業は各個人で行うということを繰り返せば、問題文の解釈のズレは徐々に是正されるのではないか、という気がする。
「あなたがたには国家試験合格という小さな目標がある」
とある授業で言われたこのセリフこそが、国家試験というものを正しく位置付けている。わたしたちには国家試験という小さな目標の先に、共通点や相違点はあれどそれよりも大きな目標が必ずあるべきだろう。だから、国試に特化した勉強というものは「ここは出ないだろうから割り切っていこう」というような心境も含めてなるべく妥協しないように心がけてきたつもりだし(サボらなかったといえばまた別ではあるが)、どうせ勉強するなら働いてからも継続してできる方法でしようと試みてきた。
ここで、国試を押さえつつその先も意識しながら自分がした手順をまとめておこうと思う。成功した人の体験は自分のものと違いすぎて参考にならないことが多く、むしろ偉い人の失敗談やそこから立ち直った経緯からのほうが役に立つ学べる点が多い。これはそのどちらでもなく、中間に位置付けられるかもしれない。結果的につまみ食いできるところがあれば、という程度のことだ。
過去問は、6年ぶんを受験前までにおよそ3週程度解いた。1度めは前年度の4月から2ヶ月ほどかけて、MacのBentoに入力したデータをiPhoneのBentoにシンクさせて、全ての問題を通学電車の行き帰りにiPhoneで解いた。
ここでは復習のための分類が目的で、明らかに解ける問題やもう一度解けばなんとかなりそうな問題を除いて、教科書に当たらなくては手も足も出ない問題に取り組むためだ。iPhoneに入れた理由は、それまで殊勝にも教科書を鞄に入れていた時期もあったが、電車内でついケイタイばかり見てしまうので、どうせならとそのケイタイに資料を入れて見る機会を演出しようとしてのことだ。結果は片手で持てる点がよかったのだろう、Twitterのタイムラインを消化し終えたあとなどに少しずつ取り組むことができた。2度め以降は調べた問題をもう一度解いたり大丈夫そうだと感じたらいったん除外したりした。
ちなみにBentoは暗記にも活用でき、これも主に電車内で取り組んだ。マインドマップもBentoと同じようにMindNodeをMacとiPhoneにインストールし、例えば「めまいを起こす疾患」や「頸部の筋肉」「血液の成分」など下位の要素を多く含む概念を整理するために用いた。Mac関連で言えば、今後は自分でまとめた資料はiBooks AutherにまとめてiPadに転送しようと考えている。
「教科書を辞書代わりに使えばよい」との助言を何度か頂くことがあったが、はじめからそうはしなかった。『言語聴覚士テキスト』や『臨床マニュアル』はほぼ一通り熟読したし、物足りなく感じた分野については、該当するより専門的な教科書を線を引いたり書き込みしたりBentoにまとめをつくったりしながら読み込んだ。
これには相当の時間を割いたのだが、単純に楽しめた。後で述べるが、国試の問題を解けるか解けないかはそのキーワードを知っているか知らないかにほぼ対応している。「知っている」裾野を広げる意味では一定の効果はあったと感じている。
過去問を解いたり模擬試験を受けるうちに、自分の得意分野や不得意な分野が出てくる。しばらくはその傾向を押さえて自覚することに意義があるだろうが、この傾向を変えるのは困難であり、復習の時間をワンパターンに過ごしがちになる。それが「いつもこの問題がわからない」という無用なプレッシャーに苦しめられる事態に陥りがちであった。
そこで、正答した理由と正答できなかった理由を分類してみる、ということをしてみた。基準は自分自身の直感程度の軽いものだ。
200問中、ケアレスミスは3〜5問程度は必ずあり、手順を見直してもこれ以上減らすことはできなかった。よくある「正しいものを選べ」なのに誤ったものを選んでしまったとか、「口蓋裂」と「口唇裂」を空目してしまったというやつだ。
この作業をしてみて自分でも意外だったのは、あるキーワードを知っていた場合は正答して知らなかった場合は正答できない、というパターンが最も多かったという点だ。問題文や選択肢の長さから言って、それほど複雑で微妙な概念を盛り込むことは難しい。「キーワードを自分の言葉で言い換えられる」程度の理解でよいので、その数を増やしていくことが得点するためには有効であると気付いた。これは先に述べた、教科書を読み込むという方法に繋がる。
また、あるキーワードを間違って覚えていたというパターンは実感よりも少なく、選択肢を2つまで絞り込んでからのほとんどヤマカンでの回答でも正答率は1/2を大きく超えていた。「やったことは意識されにくくても何らかのかたちで残っている」と感じることができ、受験直前の焦りがちな時期でも比較的落ち着いていられた。
合格率100%に含まれること
備忘録にと書き始めたら、あれもこれもと長くなった。学生生活では誤ちも犯したが、完璧ではないが環境はとても恵まれていた。可能性は合格率に限らず確かにある。「ある年の国試合格率が100%になることすら理論上は不可能ではない、そうすれば自分も必ず入っている、そうなればいい」と思っていたし、これからも「もし、そういうことが起きれば痛快だろうな」と夢想することはやめられないだろう。
それともうひとつ。このエントリを立てるに当たって「努力」や「能力」を強調することはしないでおこうと決めていた。受験生は努力しているので、努力をそれ以上強いることは酷である。同じ目標を持ち同じ学校に入学した集団に大きな能力差があるとは考えにくく、すでに国試合格程度の能力は有しているとみるべきだろう。よって、そのどちらも強調することに意味はない。努力が足りないと言われたり、自分で能力が足りない思ってしまうことは多々あるが、事実はどうあれ「何かがわかったりできるようになったとすればそれは教わったからだ」と考えて環境や手順を整えればいい。だから、わからなかったりできないときには教えを請えばいいし、それは努力不足や能力不足を意味しないし、環境や手順の調整に属すると考えている。誰かがしてきたことを自分もやろうとしている、ひとまずはそれだけのことだ。
“そろそろ言語聴覚士国家試験についてひとこと言っておくか” への0件のフィードバック