20563 「日本人が被害者」論はいい加減にやめよう 森永和彦 2003/05/20

沖縄戦の悲劇は事実です。しかし、沖縄において日本の他地域よりも反戦運動が強力だったという証拠もなく、沖縄県民はしょせん「アジア侵略に荷担した日本人」なのも事実です。

また、沖縄県民は台湾など植民地出身者に対する差別意識が強かったことは戦前の地方紙からもわかります。戦前の沖縄地方紙は台湾からの移住者を「南京虫」と呼んで駆除の対象にしていました。

沖縄県民が、あたかも一方的な被害者であるかのような論調はやめるべきだと思います。沖縄戦にしろ、ヒロシマ・ナガサキにしろ、日本人の自業自得なのです。日本人を被害者とするところから、藤岡信勝が生み出される土壌が生まれたのだと思います。

話は変わりますが、沖縄戦を持ち出して「日本人に被害が及ぶ」というのは、上記の問題点だけでなく、非現実的という難点があります。現代の戦争は、第二次大戦の時代とは完全に変わって、ハイテク兵器による「一方的ななぶり殺し」に近いものとなりつつあります。日本人はその加害者の側に立っているのです。「殺す側」の国民一人一人が、その加害者性を自覚し、「殺す側」から「殺される側」に移っていくことでしか民衆が覚醒することはないと思います。「沖縄戦の悲劇」などを持ち出すと、かえって「二度と殺されないために強者米国の側につくべきだ」というような議論を加速しかねません。


20576 Re:ちょっと・・・ 森永和彦 2003/05/21

> 始めまして・・・
> 沖縄県民ですが、戦前は生きていないので分かりませんが、
>
> >沖縄地方紙は台湾からの移住者を「南京虫」と呼んで駆除の対象にしていました。
>
> これ、本当ですか? まったく初めて聞く言葉です。

八重山毎日新聞より。
記事がwebから消滅してしまっているので全文引用します。

 −八重山毎日新聞創刊50周年企画−
きらめきの21世紀

混乱期から新時代へ
−24−
  偏見と差別の中で・・・
苦難の道を歩んだ台湾からの入植者
敗戦で日本国民から外国人へ
  就職、進学に壁、厳しかった帰化申請
驚異的な開墾に「占領される」 地元反発
  水牛・農機具、パイン導入で市の農業を改革

台湾人差別は当時の新聞の見出しにも

 「戦争が1人の人間の人生を大きく左右するという話はよく聞くことだが、戦前台湾から移住してきた人たちもまた、日本が敗戦したことで苦難の道を歩んだ」。これは嵩田公民館50周年の歩みに記された島田長政氏の書き出しである。クワひとつの原始的な八重山の農業に水牛や農耕機具を導入、パイン産業、熱帯果樹の隆盛を築いたのは台湾からの入植者だった。しかし、日本の占領下の昭和初期に日本国民として台湾から石垣島へ渡った人々の中には差別と厳しい生活環境に耐えきれず、国へ戻った人も少なくない。さらに終戦で一転、外国人扱いされて苦難の道を歩んだ1、2世たち。これは戦争にほんろうされたもうひとつの戦後史でもある。

 ■地元民を驚かせた開墾

 台湾からの移住は定かでないが、西表信氏の「南嶋昭和誌」によると、最初の移住者は台北県樹林鎮出身の劉福氏(1981年没)といわれる。同氏は基隆市で商売をしていたが、昭和4年に石垣島へ渡り、台湾から日用雑貨を取り寄せて販売。商売がうまくいくと、数人の友人などを呼び寄せて同じように商売を始めさせたという。
 このあと昭和8年ごろから、台中出身者を中心に約600人が名蔵に移り住み、開墾を始めた。
 当時、地元の大半の農家がクワひとつで畑を耕しており、水牛や農機具を使った台湾入植者の農地開発に驚いた。
 平均4、5反の農地しか耕作出来なかった地元農家に対し、入植者は1戸平均4、5町歩、約10倍もの農地を持つようになった。しかも名蔵地区は当時、悪性マラリアの有病地として恐れられており、地元民からするとすさまじく驚異的な開墾だった。
 入植者たちはマラリアから身を守る手段として鶏やアヒル、豚、ヤギなどを多く飼って十分なタンパク源を取り、山野に自生する豊富な薬草を使って1人の犠牲者も出さなかったという。十分に栄養を取ることでマラリアを伝搬するハマダラカなどに刺されても、発症しにくかったというわけだ。
 そのころ地元民はマラリア感染を警戒し、名蔵地区に燃料のマキを取りに行くのは昼間、蚊が活発に活動する夕方には山を下りて帰るというパターンで、入植者の多くが昼は昼寝をしており、翌日来ると開墾面積が目に見えて増えているのに驚いたという。
 入植者にとっては、暑い昼間は水牛が動かずに作業能率があがらないため、夕方から朝方にかけて夜のうちに開墾を行っていた。
 この急ピッチの農地開発は地元民からは「八重山の土地は台湾人のものになる」と反発の声が高まり、入植阻止や排斥機運が広がった。

 ■差  別

 当時の新聞投稿の一部を抜粋すると、「南京虫はあらゆる消毒液を使っても退治できない。根強くはびこってからは駆逐できず、悔いを将来に残す。八重山では無条件に小学校に入学させているが、台湾人の子弟は義務教育ではない。南島の宝庫を文化の程度の低い彼らに占領されないように郷里を守ってほしい」とある。
 さらに差別はマスコミ、行政まで及んだ。新聞の見出しには「不都合な台湾人!家畜放し田を荒らす 排撃の声轟然と巻き起こる」「乱暴な台湾人 断固放逐されん」、「またもや台湾人が乱暴極まる傷害事件 断固たる処置を要望」が載り、県が病気を理由に水牛の移入を禁止したケースもあった。
 昭和8年に名蔵へ入植した横山長発さんは当時11歳。3歳で父親、8歳で母親を亡くし、45歳の義兄に伴われて石垣島に渡った。「当時は名蔵で農業をしていて島の人と接する機会が少なかったが、青年らに会うとチャンコロと呼ばれた」という。
 台湾出身者の子弟がいくら優秀であっても級長や副級長に任命されることはなかった。

 ■茶山事件

 このような社会的背景下で起きたのが昭和14年の茶山事件である。
 事件は入植者の1人が焼き畑用に山林を伐採し、積んであったマキを地元の青年数人が取り、言葉が通じないために口論、ケンカとなったもの。
 入植者は空手の達人だったため青年らはかなわず、住民に訴えて約2000人ほどが棒や山刀を持って名蔵に集結、これに入植者たちは女性と子供を倉庫にかくまい、男子は刀を持って応戦しようとしていた。
 このとき入植者リーダーの林発氏、八重山在郷軍人連合会長だった潮平寛保氏の両氏が話し合い、「トラブルの原因となった両方の当事者を警察の手にゆだねる」として双方を説得、集団騒動事件は衝突せずに解散した。
 だがその後しばらく地元住民と入植者の感情対立が続き、登野城小学校に登下校する入植者の児童を青年らが殴ったりするトラブルも起き、名蔵と石垣を往来するには集団で行動した時期もあった。
 ただ当時の差別問題を論じた行政資料や書籍は極めて少なく、南嶋昭和誌著者の西表信氏は「沖縄人が第2次大戦時や戦前において日本国民でありながら、同じ国民から極度な差別を受けたという告発をよく見受けるが、われわれ沖縄人が琉球人として異端視されたことは事実としても、われわれ沖縄人が台湾人や朝鮮人を差別し、弾圧したことにはまったくふれられることなく蓋(ふた)をされ、また民衆の中にもその告発の傾向がないのは不思議である」と差別問題を指摘している。

 ■日本国民から外国人へ

 終戦と共に台湾は日本の植民地支配を解かれ、入植者たちは日本国籍から除籍された。
 これにより公民権はなくなり、開墾した畑は石垣市へ返還を余儀なくされた。
 また在留許可証を持ち歩くことを義務付けられ、金融公庫など公的資金が使えず、さらに結婚、就職、進学などさまざまな面で困難が生じた。
 途方に暮れた入植者は旧大浜町の町有地・嵩田地区に新天地を求め、街に移る人、帰国する人とそれぞれの道を選択した。

 ■2世たちの苦しみ

 突然の外国人扱いに最も困惑したのが2世たちだ。石垣島で生まれ育ち、父親の母国・台湾を知らない人が大半だったのである。
 島田長政氏は「八重農在学中、何度か農業発表会などで代表に選ばれたが、パスポートが取れずにダメだった」という。
 当時の沖縄は米国統治下にあり、中央大会に出場するために島田さんは台湾政府のパスポートを必要とした。しかし台湾に戸籍はなく、パスポートが取れなかったというのだ。
 島田さんはまた「仕事をするのに公的資金が使えずに苦労した。農協から信用融資を受けるのが精いっぱいで、それも100ドル借りるのに実際に受け取る額は利子を差し引いた75ドル。何事もこんな具合だった」という。
 また横山長発さんも「娘は大学に行きたいと言っていたが、難しかった。銀行への就職も内定したが、結果として出来なかった。どこの親も子どもの将来を考え、1日も早く日本人として帰化したいと思っていた」と話す。

 ■八重山華僑総会の設立

 集団騒動事件を契機に台友会が結成され、これは戦後「八重山華僑総会」と発展した。台湾政府が認めた民間団体で、ビザ発行手続きなどを行ったが、沖縄県内の手続きをすべてまかされ、かなりの収益があったが、これはその後、本島に権利譲渡され、琉球華僑総会八重山分会となったという。

 ■帰化申請

 就職や進学などの壁に突き当たった人々の帰化申請の動きは、昭和35年ごろから始まった。
 久米島に住んでいた書類作成が可能な知識人・呉倉生氏(故人)に嘆願して石垣島に移住してもらい、帰化希望者を募って具体的な作業に入った。
 帰化申請の手続きには台湾の国籍離脱証明が必要になる。しかしこれは困難を極めるものであり、日本政府に対する申請は戦前の国内渡航、敗戦による現在の状況を訴え、無国籍で受理するよう交渉が続いた。
 この要請に時間は要したものの、法務省が理解を示して沖縄の出先機関である南方連絡事務所の係官を派遣し、5家族の申請書類を受理。その家族は昭和39年に日本国籍取得を認められた。さらに翌年にも帰化申請が受理された。

 ■政府対応の硬化

 ところが、家族で上覇しての申請は大変だろうと職員を派遣するほど気配りを見せていた法務省の対応が一転、厳しくなった。5家族の帰化申請を認めたことで台湾当局から抗議と制裁措置を受けたというのだ。
 入植者の中には「祖先を捨てるのか」と帰化に反対する人もおり、ある1人が帰化実現の話を台湾政府に通報したという。
 以後、帰化申請は乗り越えることが出来ない大きな壁となった。
 台湾政府は帰化そのものを否定しないものの、台湾に出生届けを提出して戸籍をつくり、台湾に居住して3年間の兵役を受け、45歳になれば国籍離脱も可能−と回答したらしい。国としての立場からすると当然の条件だが、石垣島で生まれ育った者にとってはこの条件はまず満たせず、帰化の道は閉ざされた。

 ■帰化へのチャンス

 だが意外な出来事が運命を変えた。復帰前年の昭和46年10月27日夜(米国時間)、ニューヨークで開催されていた国連総会で中華人民共和国を中国として認め、それまで中国の代表としていた台湾を国連および関係機関から除外するとの発表があった。
 日本と国交の断絶が確定した台湾政府は、自国民をそのまま放置すれば自動的に中国国民の扱いにされると判断したようで、「帰化する意志のある者には国籍離脱を認める」と華僑総会に通知。
 ところが国交断絶後の国籍離脱証明は無効となり、時間はわずか2日間しかなかった。
 島田氏は「華僑総会に連絡があったのは土曜日、月曜日までに必要書類を東京まで持って来るようにとの指示であり、周林之助会長と私は内原英郎市長(故人)宅に行き、事情を説明した。市長はただちに職員に指示、休日返上で200人余りの書類を作ってくれた。そして周会長が書類を持って月曜日の朝一番でに上京、在京の台湾政府機関から国籍離脱証明を受けることが出来た」と回顧する。
 この証明書をもとに昭和48年から50年にかけて178人が次々と帰化を申請、晴れて日本人となった。
 さらに国籍を離脱したものの日本入国5年未満の人たちも期間を待って帰化を申請、認められた。
 この日本国籍取得で、戦争にほんろうされた1、2世たちのある意味でのひとつの戦後が幕を閉じたわけだが、戦前・戦後間もなくの時期に育った人の中には「タイファナー」といじめられ、「中には両親が台湾人だと絶対に言わない人もいる」とも。深い心の傷は長い歳月を経てもいえないのである。

八重山の農業に大きな影響を与えたパインの導入

 <参考・引用文献>
 ▽「嵩田50周年の歩み」、西表信著「南嶋昭和誌」
(黒島安隆記者)