シルバーバーチとは

シルバーバーチ(Silver Birch)は、英国において1920年から約60年間に渡って、人類最高の宝である「霊的真理」を語り続けた霊界のメッセンジャーです。今から3000年ほど前に地上生活を送ったという、霊界でも指導的な立場にある霊団の高級霊です。このシルバーバーチから届けられたメッセージは、その後「シルバーバーチの霊訓」として知られるようになり、現在でも世界中で愛読され、人々に勇気と感動を与え続けています。

「私たちがお届けするメッセージには重大な目的があるのです。世界中の人間に例外なく宿る宇宙の大霊、すなわち神の崇高な資質を顕現させることを目的としているのです。まず第一に、人生を支配している法則――物的生活・精神的生活・霊的生活を支配している法則の存在を説かなければなりません。

続いて人生の目的、地上に生まれてきた理由、内部に宿るすばらしい能力、潜在的神性、人間に為しうる貢献度、目指すべき理想的世界、身につけるべき知識、到達できる極致を理解させなければなりません。

私たちの説く真理は、最後は地上のすべての人間、それも地上に生きているうちに実生活に応用することによって実地に学ばせるために、地上のすみずみに至るまで広められるべき使命を担っているのです。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)  p.160

「シルバーバーチ霊言」誕生まで

シルバーバーチの決意

シルバーバーチの地上への働きかけは、シルバーバーチ自身が打ち明けているように、高級霊界の神庁において、ある要請を受けたことから始まります。それは、「地球人類の霊的浄化」(スピリチュアリズム)の一環として可能な限り地上圏に近づき、指導霊のメッセンジャーとして「霊的真理を語ってくれないか」というものでした。その役目は高級指導霊の教えを、一人でも多く、受け入れる用意の出来た地上人に届けることでした。この歴史的な仕事を成し遂げるために、シルバーバーチはまず「シルバーバーチ霊団」を組織し、同時に霊的真理を地上にもたらすために必要な霊媒をさがすことになりました。そして「霊界の記録簿」を調べ、これから誕生する人物のうち、この仕事に最もふさわしい者を選び出したのです。それが、実際に地上の霊媒となるイギリス人「モーリス・バーバネル(Maurice Barbanell)」です。シルバーバーチはバーバネルが母体に宿る瞬間から彼を見守り、その使命を果たすための「霊言霊媒」として、育て上げる準備を始めたのです。

「シルバーバーチの霊訓」は、この「モーリス・バーバネル」だけを専属の霊媒としています。他の霊媒が代わって使われるということはありませんでした。バーバネルは、この仕事のためにシルバーバーチ霊団によって準備された霊媒でした。シルバーバーチはその性格やクセ、特徴を全て知り尽くし、まさに手塩にかけて彼を養成したのです。

霊媒「モーリス・バーバネル」と「シルバーバーチ霊言」の誕生

「モーリス・バーバネル」は、ごく普通の人間でした。特別な霊的体験を持っていた訳ではありません。彼は無神論者で、宗教や信仰を嫌悪する傾向すらありました。バイブルは一度も読んだことがありませんでした。彼が初めて霊的なものと関わりを持つきっかけとなったのは、18歳のとき無報酬で司会役を務めていた社交クラブでのできごとでした。ある日、そのクラブの講演者がスピリチュアリズムの話題を持ち出したのです。バーバネルは、彼の役目として講演の内容にかかわらず反論することになっていました。しかし、その日に限って彼は反論する気になれず、「こうした問題にはそれなりの体験がなくてはならない。従ってそれをまったく持ち合わせない私の意見では価値がないと思う」と言ったのです。そして講演が終わった後、バーバネルはその講演者から「交霊会」に出席することを勧められたのです。

バーバネルは婚約中のシルビアと共に、ロンドンの貧民街で催されていた交霊会にひやかし半分で出席しました。ブロースタインという中年の女性霊媒の交霊会でした。当時のバーバネルは、その霊媒の口を借りて代わるがわる霊たちが話す様子を見て、ばかばかしいと思っていました。しかし、2度目に訪れたこの交霊会の場で、彼はうっかり居眠りをしてしまったのです。バーバネルが目を覚まし、あわてて謝ると「あなたは居眠りをなさっていたのではありません。インディアンがあなたの口を使って話しましたよ。あなたの指導霊が名前を名のってから、今日までずっとあなたを指導してきて、間もなくスピリチュアリストの集会で講演するようになると言っておられました」と、すぐ隣の出席者から聞かされたのです。これが霊界で約束したバーバネルの本当の仕事の始まりでした。そして、ここから約60年間に渡る「シルバーバーチ霊言」の歩みが始まることになるのです。

「ずいぶん前の話になりますが、他の多くの指導霊と同じように私も、地上圏に降りて協力者の一団を集め、霊的メッセージを地上界へ届ける仕事を引き受けてくれないかとの懇請を受けた時、私はそれを使命としてお引き受けしました。

そのためにはメッセージを受け取ってくれる霊媒を探し出す必要があることも知らされました。そこで私は霊界の記録簿を調べ、この霊媒に白羽の矢を立てました。

それはこの霊媒がまだ母胎に宿る前の話です。私はその母胎に宿る一瞬を注意深く待ち、いよいよ宿って自我を発現し始めた瞬間――と言っても、まだほのかな明り程度のものに過ぎませんでしたが――から私なりの影響力を行使し、今日まで続いている一体関係がその時から始まったのです。

私はこの人間の霊とその小さな精神の形成に関与しました。誕生後も日常生活のあらゆる側面を細かく観察し、互いの一体関係を促進し、物の考え方や身体上の癖を呑み込むように努めました。つまり私はこの霊媒を霊と精神と肉体の三面から徹底的に研究したわけです。

次に私がしなければならなかったことは、この霊媒を霊的真理の理解へ向けて指導することでした。まず地上の宗教を数多く勉強させました。そして最終的には彼はそのいずれにも反発を覚えて、いわゆる無神論者になってしまいました。が、それはそれなりに当人の精神的開発にとって意味があったのです。これで霊言霊媒となるべき一通りの準備が整いました。

ある日私は、周到な準備のもとに初めて彼を交霊会へ出席させ、彼の口を使って私の意思を発言してみました。いかにもぎこちなく、内容もつまらないものでしたが、私にとっては実に意義深い体験だったのです。その後は回を追うごとにコントロールがうまくなり、今ご覧の通りにまでなりました。今ではこの霊媒の潜在意識に邪魔されることなく、私の考えを百パーセント伝えることが出来ます。」

『シルバーバーチは語る』(スピリチュアリズム普及会)  p.22

霊界側の霊媒(レッド・インディアン)

シルバーバーチの霊界通信では、地上の霊媒だけではなく、霊界側の霊媒も準備されました。シルバーバーチ自身が高級霊界に所属しているため、その次元からは直接地上界と接触を持つことができなかったのです。そこで中継役として、かつて地上時代にレッド・インディアンだった霊の霊的身体が使われたのです。

「私の名はシルバーバーチではありません。これは私がバイブレーションを下げて地上世界とコンタクトすることを可能にしてくれる一種の変圧器の役目をしている、かつて地上時代でインディアンだった霊の名前です。

いずれにしても名前はどうでもよいことです。私に関するかぎり名前は何の価値もありません。これまで一度も地上時代の名を明かしたことはありません。

地上時代の私はレッド(アメリカン)インディアンではありません。このインディアンよりはるかに古い時代の別の民族の者です。霊的進化の末に二度と地上世界へ生身に宿って戻ってくる必要のない段階まで到達いたしました。

(中略)私にとって困ったことが一つありました。地上との接触には霊界の霊媒が必要だということです。私自身が直接地上の霊媒と接触することは不可能だったのです。それは、私が到達した進化の階梯と霊媒のそれとが違いすぎて波長が合わないからです。そこで私はもう一人、変圧器に相当する者を必要としたのです。

指導霊が用意してくれたトランスは地上でレッド・インディアンに属していた霊の霊体でした。私に授けられる教えを地上へ伝達するための中間の媒体として、それが一番適切だったのです。」

『シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.12〜13

世界に広がる「シルバーバーチの霊訓」

ハンネン・スワッハーの登場

1920年から10年余りは、バーバネルのアパートの応接間で不定期に交霊会が行われていました。その頃は数人の知人や友人が出席するだけで、霊言の記録も取られていませんでした。しかしその後、この交霊会に大きな転機が訪れます。当時「フリート街の法王」と呼ばれていた世界的なジャーナリスト「ハンネン・スワッハー(Hannen Swaffer)」がその会に出席したことで、事態は一変したのです。シルバーバーチの霊言のただならぬ質の高さに感銘したスワッハーは、会場を彼の自宅に移し正式に「ハンネン・スワッハー・ホームサークル(Hannen Swaffer's home circle)」として毎週金曜日の夜に定期的に交霊会を催すことにしたのです。そして、その時から速記によって霊言を記録することになったのです。

このホームサークルの記録が霊言としてまとめられ、『Teachings of Silver Birch(シルバーバーチの教え)』というタイトルで1938年に刊行されました。その後、1993年までに16冊が刊行されています。

シルバーバーチの交霊会が正式なホームサークルとして発足してから、スワッハーは各界における顔の広さを利用して、さまざまな人たちをこの交霊会に招待しています。

霊媒「モーリス・バーバネル」の職業は、当時のサイキック・ニューズ紙(Psychic News)とツー・ワールズ紙(Two Worlds)の主筆であり社長でした。彼は、シルバーバーチの霊言をサイキック・ニューズ紙に掲載する際、大いに悩みました。それは「もしも自分がその霊媒であることを打ち開ければ、霊言を掲載するのは私の見栄からだという批判を受けかねない」という思いがあったからです。そのため1930年代の初めには、霊言はまだサイキック・ニューズ紙に連載されていませんでした。しかし、嫌がるバーバネルをハンネン・スワッハーが、霊媒が誰であるかを絶対に公表しないことを条件に説得し、紙上に連載するようになったのです(その後1959年には霊媒がバーバネルであることも公表されました)。

しかしこうしたバーバネルの心配をよそに、「シルバーバーチの霊訓」は掲載当初から大反響となり、英国はもとより全世界にその存在が知られ、愛読されるようになっていったのです。

戦時下でも続けられた交霊会と、シルバーバーチの使命観

第2次大戦中は、あまりの戦火の激しさに霊的波長が乱れ通信回線が混乱して、時には連絡網が途切れてしまいそうになることもありました。回線の補修をしながらどうにか通信を維持しているという状況でした。そのため霊団の中には「もう無理です。当分中止しましょう」と進言する霊もいたようです。しかし、シルバーバーチは「地上人類は歴史上かつてない危機にひんしている。こうした時こそ私たちの存在意義がある」と主張し、週1回の交霊会を決して休むことなく霊的真理を語り続け、その使命をまっとうしていきました。

「雰囲気が悪いと、私と霊媒とのつながりが弱くなり、私と霊界との連絡も困難となります。わずか二、三本の連絡網によってどうにか交信を保つということもあります。そのうち霊媒が反応を見せなくなります。そうなると私は手の施しようがなくなり、すべてを断念して引き上げざるを得なくなります。

私は当初から、こうした問題が生じることは覚悟しておりました。一時は、果たしてこのまま地上との接触を維持することが賢明か否かを、霊団の者たちと議論したこともありました。しかし私は、たとえわずかとはいえ、私が携えてきた知識を伝えることにより、力と希望と勇気を必要としている人々にとって、私の素朴な霊訓が生きる拠り所となるはずだと決断しました。

今、私は、もしも私たちがお届けした霊的真理が無かったら今なお苦難と絶望の中で喘いでいるかも知れない人々の慰めと力になってあげることができたことを、うれしく思っております。」

『古代霊シルバーバーチ 不滅の真理』(ハート出版)  p.20

シルバーバーチの歴史的使命の終焉

モーリス・バーバネルの死

1962年、シルバーバーチの霊訓を世界に広めた功労者ハンネン・スワッファーがこの世を去りました。彼の亡き後、ホームサークルの会場はバーバネルのアパートに移り、毎週行われていた交霊会は月1回となっていきましたが、シルバーバーチの霊言は変わりなく語り続けられました。

しかしその後、「ミスター・スピリチュアリズム」と呼ばれた霊媒モーリス・バーバネルが1981年7月17日、霊界へ旅立っていきました。交霊会には欠かすことのできない存在だった彼の死によって、シルバーバーチの霊界通信は幕を閉じました。そして、霊界で綿密に計画され、地上で約60年に渡って続けられた歴史的な仕事は、終焉を迎えたのです。

【写真−1】 バーバネルが住んでいたアパート(ロンドン)

バーバネルが住んでいたアパート

【写真−2】 バーバネル夫妻と、若き日のトニー・オーツセン

バーバネル夫妻と、若き日のトニー・オーツセン

シルバーバーチは、この霊界通信のために手塩にかけて養成した霊媒のモーリス・バーバネルとその奥さんのシルビア・バーバネルが、シルバーバーチ自身と同じインディビジュアリティー(類魂)に所属していることを霊訓の中で明らかにしています。(『シルバーバーチの霊訓(10)』(潮文社)  p.136)

2度と霊界通信をしない「シルバーバーチ」

シルバーバーチは交霊会での質問の中で、こうした霊界通信を2度と行うことがないことを表明しています。

そこでは、初期の「物質的心霊現象」と霊界通信に代表される「精神的心霊現象」の違いを明確にしています。具体的には、物質的心霊現象の時代は、霊媒が他界してしまった場合、指導霊は別の霊媒を探して仕事を続けたのに対して、支配霊と霊媒のつながりがはるかに緊密となる精神的心霊現象では、霊媒が他界した場合、同時に支配霊としての仕事も終わり、本来の所属界へ帰っていくと述べています。そして高度な通信になるほど、オーラの融合の問題・潜在的大我の一体化の問題・霊体と霊体、幽体と幽体の連携の問題・潜在意識のコントロールという問題など、様々な問題をクリアーしなければならない実状を説明しています。

「私の場合、この霊媒が私の世界へ来てしまえば、別の霊媒を通じて通信することはありませんし、通信を試みるつもりもありません。なぜならば、この霊媒を通じて語るための訓練に大変な年数を費やしてきましたので、同じことを初めからもう一度やり直す気にはなれません。」

『シルバーバーチの霊訓(8)』(潮文社)  p.28

「スピリットの中にはみずからの意志で地上救済の仕事を買って出る者がいます。またそうした仕事に携われる段階まで霊格が発達した者が神庁から申しつけられることもあります。私がその一人でした。私はみずから買って出た口ではないのです。しかし、依頼された時は快く引き受けました。

引き受けた当初、地上の状態はまさにお先まっ暗という感じでした。困難が山積しておりました。が、それも今では大部分が取り除かれました。まだまだ困難は残っておりますが、取り除かれたものに較べれば物の数ではありません。

私たちの願いは、あなた方に生き甲斐ある人生を送ってもらいたい。持てる知能と技能と才能とを存分に発揮させてあげたい。そうすることが地上に生をうけた真の目的を成就することにつながり、死とともに始まる次の段階の生活に備えることにもなる――そう願っているのです。(中略)

こちらでは霊性がすべてを決します。霊的自我こそすべてを律する実在なのです。(中略)

あなた方は、ついぞ、私の姿をご覧になりませんでした。この霊媒の口を使って語る声でしか私をご存知ないわけです。が、信じてください。私も物事を感じ、知り、そして愛することのできる能力を具えた、実在の人間です。こちらの世界こそ実在の世界であり、地上は実在の世界ではないのです。(中略)

では最後に皆さんと共に、こうして死の淵を隔てた二つの世界の者が幾多の障害をのり超えて、霊と霊、心と心で一体に結ばれる機会を得たことに対し、神に感謝の祈りを捧げましょう。」

『シルバーバーチの霊訓(9)』(潮文社)  p.223

シルバーバーチに関する年表

シルバーバーチに関する年表
出来事
1902年
霊媒「モーリス・バーバネル」誕生
無神論者の父親と敬虔なクリスチャンの母親の間に生まれる。二人が宗教の是非について議論するのを聞いて育ち宗教や信仰を嫌悪するようになるが、特別な霊的な経験もないごく普通の人間であった。
1914年〜1919年
第1次世界大戦
1920年
「シルバーバーチ」の出現
バーバネル(当時18歳)が女性霊媒ブロースタインの交霊会に2度目に出席したときに入神し、「シルバーバーチ」が初めて言葉を発する。このことをきっかけにその後、バーバネルの自宅で10年余りにわたって不定期に交霊会(ホームサークル)が催されるようになる。霊言は記録されていない。
1924年
ハンネン・スワッハーがスピリチュアリズムの真実性を確信
スワッハーが出席したデニス・ブラッドレーが司会を務める交霊会に、ジャーナリスト界の大先輩であるノースクリッフ卿が出現し、語りかけられる。その内容が二人しか知らないことだったため、死後存続を確信する。
1932年
バーバネルが「サイキック・ニューズ」紙を創刊
同紙は「シルバーバーチの霊訓」を世に送り出すために霊界によって準備されたものと言われている。バーバネルは当時商売をしていたが、編集長として心霊紙「サイキック・ニューズ」(週刊紙)の発行をするようになり、事実上廃業した。
1930年代前半
「ハンネン・スワッハー・ホームサークル」発足
シルバーバーチの霊言に感銘を受けたスワッハーは、交霊会の会場を自宅に移す。毎週1回・金曜の夜(約1時間半)定期的に交霊会を催し、速記によって霊言を記録するようになる。(後にテープにも録音されるが、市販を目的としたカセットテープは一つしか残っていない)
1935年頃(推定)
「サイキック・ニューズ」紙上に「シルバーバーチ霊言」の連載を開始(毎週定期的)
度重なるスワッハーの心霊紙への霊言掲載の進言に対して、バーバネルは「自分が霊媒であることを内密にする」という条件で連載を承諾した。また、バーバネルが同じく編集長を務める心霊紙「ツー・ワールズ」にも掲載される。(「ツー・ワールズ」は100年以上の歴史を誇る世界で最も権威ある心霊紙。当初は週刊紙、後に月刊誌となる)
1938年
『Teachings of Silver Birch(シルバーバーチは語る)』刊行
シルバーバーチの霊言が初めて霊言集としてまとめられ、サイキック・ニューズ社から刊行される。その後、現在(2006年)まで16冊の霊言集が刊行されている。
1939年〜1945年
第二次世界大戦
大戦勃発後、交霊会の開催は2週間に1回となるが、大戦中も中断することなく継続された。
1957年
「ツー・ワールズ」紙上でバーバネル自らが霊媒であることを公表
1962年
ハンネン・スワッハー他界(83歳)
その後、交霊会の開催はバーバネルの自宅へ移り、月1回となる。
1971年
トニー・オーツセンがサイキック・ニューズ社に入社(20歳)
バーバネルが最も信頼していた部下。20歳の誕生日プレゼントに初めてシルバーバーチの交霊会に招待される。(バーバネル亡き後、「サイキック・ニューズ」紙の編集長となる。いったん退社したが、2003年に再び編集長に就任する。「ツー・ワールズ」誌の編集長も務める)
交霊会の開催が不定期となる
1980年
近藤千雄氏の翻訳によるシルバーバーチ霊言集の出版
1981年7月17日
モーリス・バーバネル、自宅にて心臓発作で他界(79歳)
シルバーバーチの使命も終了する。