福島第1原発事故に対処する現地指揮官として派遣された陸上自衛隊中央即応集団(CRF)副司令官の今浦勇紀(52)が、原発から4キロ先の政府現地対策本部のオフサイトセンター(福島県大熊町)に到着したのは昨年3月14日午後4時過ぎだった。
3号機の水素爆発でセンター内は混乱していた。国、東京電力、福島県などから約150人が集まり、それぞれが動いていたが、誰が束ねているのか分からない。次々と各機関の長と会うことで、首脳陣は経済産業副大臣の池田元久(70)をトップに東電常務、県副知事ら約10人と分かり、「これからは私が自衛隊の指揮を執る」と伝えた。
さっそく要請されたのは、原子炉への注水継続や作業員の除染など4項目。CRF司令部を通じて判断を仰ぎ、注水については3号機爆発で作業中の自衛官にけが人が出て、いつまた爆発するか分からないため断った。
午後6時過ぎ、首脳陣の会議で、今度は「2号機が危ない」との報告が入る。燃料棒が水面から露出し、炉心溶融(メルトダウン)によって再臨界の恐れもあった。「最悪の事態を迎える」。今浦は思った。顔ぶれを見ると、危機管理のプロは自分だけ。「離脱を含めた対応を考えないといけません。人命優先です」。センターからの「退去」を切り出したのは今浦だった。
午後8時、センター2階の会議室。退去と福島県庁への移転の方針が伝えられ、先発隊の出発が指示された。しかし、政府の決断はまだ。池田は逐次、経産相の海江田万里(62)と連絡を取るが、「政府内にオフサイトセンターを捨てることになるとの懸念があった」(政府関係者)。
政府が躊躇(ちゅうちょ)する一方で、センター屋上の放射線量は1ミリシーベルトを超えた。平時の一般人の年間被ばく量限度(1ミリシーベルト)に1時間で達するもので、東電幹部が「あり得ない数字だ」と漏らす。15日未明には防護衣とマスクの着用が指示され、ヨウ素剤の服用も徹底された。午前6時過ぎ、「ドーン」という爆発音が2回響き、遅れて振動も来た。「2号機か、3号機か」。館内は騒然となった。「逃げたいやつは逃げろ」。東電側がそう言ったとの情報も飛び交った。
政府がセンターに退避命令を出したのは15日午前10時59分。高い放射線量でとどまるのは限界だった。「東日本にはもう人が住めないかもしれない……」。今浦は「私が最後です」とCRF司令官の宮島俊信(57)に電話で伝え、センターを後にした。(敬称略、肩書と年齢は当時)
2012年3月18日
「メディア・プロダクション・スタディーズ」の研究を始めた五嶋正治准教授に聞く。