紙面から(3月2日)/福島第一冷温停止への道 第1回
「建屋カバー」で放射性物質飛散防止
2012/03/30
2011年3月12日、水素爆発で原子炉建屋が損傷した東京電力福島第一原子力発電所1号機。 原子炉冷却や汚染水処理に苦しむ3月下旬、放射性物質の飛散を何とか食い止めようと原子炉建屋カバーの建設プロジェクトが立ち上がった。 設計・施工を手掛ける清水建設JV (共同企業体) が考案したのは、ボルトを一切使わずに部材を組み立てる型破りの工法。 日本古来の伝統建築技術と最新鋭の計測技術の融合により、巨大建築物の省人化施工を実現した。 日本中が注視した、前人未到の建設プロジェクトの全ぼうをひもとく。 (この記事は3月2日の電気新聞に掲載されました。 4月16日に第2回が掲載される予定です)
■ 前代未聞の構想
東京電力福島第一原子力発電所は、3月11日に襲来した巨大津波により冷却手段を失った。 1、3号機では炉心損傷による水素爆発が発生し、原子炉建屋が損壊。 「冷やす」 に続き、 「閉じ込める」 ことさえままならない状態に陥った。
水素爆発で上部がむき出しになった1号機(東京電力提供)
事故発生から2週間がたった3月27日、東電は放射性物質の飛散を抑制するため、一つのプロジェクトを立ち上げる。 爆発した原子炉建屋を、カバーですっぽり覆うという前代未聞の構想だった。
これで何とかアイデアを出してほしい--。 清水建設の印藤正裕が東電から手渡されたのは、航空写真と古い図面のみだった。 情報が不足していると感じた印藤はすぐに3Dレーザースキャンを手配した。 2日後の日曜日、装置を自社ビルに搬入。隣のビルを使って性能を確かめ、使えるとの手応えをつかんだ。
印藤はカバーを設計するため、思い浮かんだアイデアを片っ端からノートに書き込んでいった。 最も頭を悩ませたのが、福島第一原子力発電所内の作業環境だった。
4月からカバープロジェクトの担当になった東電の木ノ下英雄は 「原子炉建屋周囲の線量データはほとんどなかった。 いずれにしても、高線量下であることを前提に、考えざるを得なかった」 と話す。
当時、福島第一原子力発電所では1~3号機ともに原子炉温度が100度を超え、原子炉建屋から約500メートルの距離にある事務本館の空間線量は毎時1・6ミリシーベルトを記録していた。
通常の建設作業を行えば、作業員が大量に被ばくすることが目に見えている。 印藤は足場を建てて施工する従来の方法を断念した。 「このやり方では (実人数で) 6千~8千人が必要になる。 これだけの人数はとても集められない。 人を入れずに、どう造るか」 (印藤)。
■ 伝統工芸がヒントに
原子炉建屋にカバーをかけるには、40メートル四方を超える建造物を建てなければならない。 それだけの規模のものを無人で造るには、接合部の省人化と巨大な重機が不可欠だった。
接合部のヒントになったのは日本に古くから伝わる伝統工法、仕口だ。 「これなら人がいなくてもやれる」 (同) 。 印藤は仕口を参考にしながら、建材の重みで自動的にずれを補正しながら組む工法の着想を固めていった。
この工法を実現するには750トン級のタワークレーンが2台必要なことも分かった。 だが、この大きさのクレーンは日本に14台しかなく、そのうち2台は海外製だった。
印藤は部品調達とメンテナンスがしやすいように国内製に絞り、1台の調達にめどをつけた。 もう1台は東電の常陸那珂火力発電所にあったものを取り寄せた。
■ 「本当にできるのか」
3月28日の朝、印藤は社長や副社長が列席する 「御前会議」 でカバープロジェクトを説明。 社長はその場でプロジェクトに全社を挙げて取り組む事を指示した。
だが、その施工法は、数々の建築を手掛けてきた印藤でさえ 「ほとんどがやったことのないものだった」 という空前絶後の代物。 原子力発電所のプロジェクトにかかわったことのない印藤にとって、放射能との闘いは未知の領域でもある。
本当にできるのか--首脳部からは幾度もこんな声が飛んだ。 印藤はそのたびに解決策を示し、必ずできると首脳部の懸念を一つ一つ確信に導いた。
印藤は5月初めの発注開始を目標に据えた。 残された時間は1カ月余りだった。