2011年3月21日14時30分
東日本大震災で県外に避難する人の多くは、事故が起きた福島第一原子力発電所の周辺住民らだ。身の回りの品もほとんど持たずに住まいを離れた人たちは、先の見えない不安の中にいる。
原発20〜30キロ圏内の屋内退避区域に住む、福島県南相馬市の郵便局非常勤職員、清水正人さん(60)は、家族9人で青森県八戸市の海上自衛隊第2航空群司令部の体育館に避難した。原発の事故が明らかになったあと、周囲の住民たちは次々と避難した。食料も尽きかける中、知人の助言で避難を決めた。
「ちょっとだけ我慢して」――。家を出るとき、車に乗るまでの間、1歳、4歳、6歳の3人の孫をポリ袋で完全に包んだ。「絶対に孫は被曝(ひばく)させたくなかった」
15、16日に車2台で出発し、日本海側を回るなどして約13時間かけ、約400キロ北の八戸市に着いた。青森近くに来たときも「いわき」「福島」ナンバーの多くの車が北をめざしていた。
家には、犬2匹とネコ2匹を残してきた。4月に小学校入学を控える孫の遥輝君(6)のランドセルも自宅に置いたままだ。
「とにかく見えない放射線はこわい」と正人さん。
福島県双葉町から「役場」や多くの住民らが避難してきた、さいたま市中央区の「さいたまスーパーアリーナ」。
双葉町の会社員の男性(50)の4人家族は、福島第一原発から3、4キロのところで暮らしていた。最初に避難した際、原発が問題になるとは思わず、何も持たずに出てきてしまったという。妻(44)は「子どもの学校は無期休校。長女は小学校の卒業式もなく、中学の制服も受け取っていない。果たして帰れるかどうか」と話した。
同町の歯科医師川崎良輔さん(63)は、家族4人で福井県坂井市の知人宅に移った。自宅は福島第一原発から約2キロ。地震直後に近くの中学校に避難したが、12日朝、「西へ避難してください」という指示で、すぐに車で逃げ出した。
持ち出せたのは携帯電話と充電器、ペットボトルの水(2リットル)、ソーセージなどのわずかな食料品。市営住宅への入居が決まったが、川崎さんと妻の葉子さん(60)のそれぞれの母親は、原発事故で避難指示が出た地域にいて連絡がとれていないという。
葉子さんは「地震、津波に放射能の三重苦。双葉町に戻れるかもわからない。ここに移っても仕事を探さないといけないし、どうなるのか不安だ」と話した。
和歌山市の市営住宅にも、福島第一原発から30キロ圏内にある福島県南相馬市の3家族が着の身着のままで避難し、19日に入居した。自動車修理業の男性(67)は「事故がおさまり次第、帰りたいが、南相馬市はゴーストタウンのようだ」と嘆いた。
福島第一原発の破綻を背景に、政府、官僚、東京電力、そして住民それぞれに迫った、記者たちの真実のリポート