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20120331

[]詭弁で嘘ライフハックをでっちあげました

 はてなのトップページって比較的よく見るんですよ。そんでほんとに料理かライフハックか、じゃなきゃ画像集めたスレとかばっかだなーと思うんですけど、そのなかでも、ライフハック記事ってあれほんとに斜め下から突撃したくなるんですよね。だって「そうだね、そうできればよかったね」みたいなのばっかじゃないですか。できるだけ早起きすればいいことあるよねってそれ「早起きは三文の徳」っていうことわざずいぶん昔からありますよね。生活にルールを作るって、夏休みの計画表ってみんな作らされましたよね。人はなぜそんなわかりきったことを読みたがるのかっていうと、そりゃあらためて「こうすれば捗るよ」って言葉にされれば、ああじゃあちょっとは俺も捗ってみようかなとか思ったりする効果があるのかもしんないですけど、そんなんやる人はやるしやらない人はやらない。そんだけっすよ。というわけで、俺はいまから巷によくあるようなライフハック記事のだいなしにするようなことを心にもない詭弁を弄しまくって語ろうかなーと思いました。


・早起きとかはまじでクソ

 早起きはいいとか時間を有効活用とかいいますけどね、冷静になって考えてみてくださいよ。そのぶん睡眠時間が減るんですよ。なんでこんな単純なことにみんな気づかないんですかね。このあいだ5時間睡眠を実現する方法なんてのをどこかで見かけましたけど、5時間ですよ? 眠いじゃないですか。それって睡眠は必要悪って考えかたにもとづいてるわけでしょう。そんなはずないじゃないですか。三大欲求をなんてよくいいますけど、人間の生命を維持するための根本的な条件のひとつでしょう。それを削ってどうすんですか。そりゃ朝にちょっと時間の余裕をつくって、その日一日の計画を立てれば効率は上がるかもしれません。なにごとも段取りですからね。

 で、それで?

 自分の仕事だけが効率よくかたづいて、それで拘束時間が劇的に減るとでも?

 フリーで仕事してたり、俺みたいに自営でやってる人間はそりゃそうかもしれない。それだって不測の事態なんてのはよく起こることですけど、そこまで考えてたらなにごとも一般化はできませんよ。仮に作業にかける時間そのものが減ったとしましょう。余分の時間ができた。その時間をさらに未来の効率に向けて使えるとしましょう。

 ほんとに使えます?

 そのぶんいろんな雑事が入ってくるんじゃないですか?

 現状の仕事でいっぱいいっぱいで、おろそかにしていた部分、見て見なかったふりをしていた部分、そういうものがここぞとばかりに束になって襲いかかってくる。組織における自分の責任は有限です。忙しいという理由で背負わなくて済んでいた部分が、ここぞとばかりに束になって襲いかかってくるんじゃないですか? 有能なんて思われたら身の破滅ですよ。それで正当に評価してくれる組織なら話は別です。有能大いにけっこう。妬みと仕事ばかりが降りかかってくるような状態で、効率的であることになんの意味があると?

 だいたい人間ってやつは習慣の動物です。早起きできなくても、苦しいと思っていても、それでも、現在その人を取り巻く環境に対して、その人なりになんらかの最適化はなされていると考えているほうが自然です。仮にそうでなかったとしても、環境の変化というのはそれ自体がストレスです。そのストレスと、早起きによる時間の有効活用、これを天秤にかけてどちらによりデメリットが少ないのかを考えてみればいいでしょう。

 回答はなかば出ていると思いますね。

 早寝がいいとかいうけどさあ、確かに人は翌朝になると寝不足の状態のなかで「なぜ早く寝なかったんだろう」って後悔するかもしんないんだけど、でもその「無駄で」「さしたる意味もない」夜ふかしの時間のなかで、そのときだけは自分は自由だと、なににも縛られずに自分の好きなことをやってるんだと、そういう安心感を得ている人は決して少なくはないんじゃないでしょうか。だとしたらそれは本質的には無駄じゃないです。

 人は機械じゃない。機械じゃないからこそ苦しんだり後悔したりするわけですし、生活を改善するなら、そのことを「あらかじめ」前提条件にしたうえでないと、うまく行くはずがありません。


・まず身近な目標を持って着実に実行していくとかは嘘。大目標を持たないとなにごとも達成できない

 小さな目標を持って、ひとつひとつ達成していく。その成功体験が人間を成長させる。

 そんなん嘘に決まってるじゃないですか。

 もちろん効果がないとはいいません。いいませんが、それ、自己満足とどう違うんですかね。そもそも達成ってなんですか。仕事をする人にとっての達成って、大きくみれば社会的に意味があることじゃないとだめでしょう。小さくみれば会社組織、さらにいえば部署の目標、そんなものですよ。自分が設定して自分が達成した。ああそうですか。よかったですね。それが社会ってもんでしょう。

 だいたい自分で目標を設定させたりするのがもう、嘘くさいったらありゃしないですね。求道者じゃないんですから。なんでも結果ですよ。目標がいちばんシンプルなのは、たとえばスポーツの世界なんかですけど、そのときに自分だけの目標を設定してなんの意味があるんですかね。勝利でもいい、記録でもいい。これはあくまで外部に対して「これだけのことができた」という結果の明示です。その過程で「これだけはできた」という小さな成功は当然あってもいい。けれどそれは遠大な目標への一里塚でしかありません。

 そして、そうだな、たとえば俺くらい(41歳ですが)の年齢になれば、いいかげん理解せざるを得ないことですが、人生って長いようで短い。その時間を使って「最終的に」自分が満足できるだけのものって、せいぜい一つか二つも達成できりゃいいほうでしょう。そしてその人生の大半は仕事なんですよ。

 仕事を通じての自己実現、いいですね。それを否定するのは現実を見てない人間の妄言です。もし否定するのなら問いたい。ならば、なにを実現すると?

 究極的に自己実現っていうのは「これだけのことをやった」という満足感です。ならばその「これだけ」というのはどこから来るのか。みずからを満足させるだけのものは。これがね、自分で設定した目標に対しての実現なんてのは、まずありえないですよ。それ「己とはなんなのか」っていう果てしない問いのはてにしかありえない。いったいどれだけの人間がそんな苦行に耐えられるんだろう。そもそも問う必要すらないくらい自明なのが「己」です。日々メシを食って、働いて、まあときには楽しみもちょっとあって、そうした生活の総体が「己」なのであって、そこを突き抜けてどこかに行くのは一部の哲学的な体質を持つ人間だけです。そういえばかっこいいような気もしますが、社会的にはそういう人って単なる変人です。

 結局、自己実現って社会的成功とほとんどイコールなんです。その事実をごまかしてもなにも始まらない。

 有名になりたい? いいでしょう。金持ちになりたい? 当然ですね。

 そうやって明確で、かつ大きな目標を持ったときに、人は自分の努力の成果を初めて視認できるようになるんです。


・物事を為すにあたって、別にモチベーションとかいらない

 歴史にはさまざまな人物が登場します。いい印象で把握されている人から、よくない印象の人、まあ実にさまさまです。さて、それでは、歴史に名を残した人と、名を残さなかった人ではどちらが多いでしょう。

 考えるまでもないですね。

 じゃあそれらの名を残した人々と、そうでなかった人たちはいったいなにが違ったのか。

 俺はこう思います。運と、わずかな往生際の悪さではないか、と。

 人が大きなことを為すときに、そこに運の要素が皆無だったと断言できる人なんて、はたしているんでしょうか。そりゃまあもっともらしいことを言うことはできると思いますよ。積み重ねってのが大事だってのはそりゃ真実ですから。だけど「それ以上」となると話は別です。運という言葉が気に入らないのなら、環境の圧力と言い換えてもいい。家柄やら経済的事情やら、これって恵まれていることもひとつの環境的圧力だと俺は思うわけです。だってその状況じゃある程度は否応なしに成功する人生のルートを「歩まされる」わけじゃないですか。当人の意志が介在する余地はあったとしても、それでも恵まれた環境に「育たざるを得なかった」というのは、その人の精神的風土に多大な影響を与えずにはおきません。

 これは私事ですけども、どちらかというとあんまりよろしくない家庭環境、経済環境に育った俺には、ことのほかそのことがよくわかるんです。俺自身がいかに高いプライドを持ち、昂然と胸を張って生きたとしても、それでも恵まれた環境に育ち、それなりの教養を身につけ、きちんとした企業で働き、みたいな人を見ると「見上げるしかない」という気分になることがある。それはもう能力の問題ですらない。ただ「違う」んだということです。背負っている背景が違うというのは、それくらいにどうにもならないことです。

 で、この状況において、モチベーションってなんの役に立つんだ、というのが俺の問いです。

 ほとんどの人間は日々の生活のために働いてるわけですよ。社会的意義もなにもない。やりたくもねえ仕事をやってるわけです。毎日の仕事なんて「どうやってやり過ごすか」ですよ。モチベーションだかなんだか知らないですけど、そんな高邁なもんは、ノーブレス・オブリージュじゃないですけど、成功すべく、より高いところを目指すべく育成された層に任せておけばいいです。大多数の人たちにできることは、与えられた仕事をこなすこと。そうじゃないですか。そこにどんな喜びがあるっていうのか。せいぜいが給料日のささやかな喜びだけですよ。

 ただそうは言っても、仕事にまったく喜びがないっていうのも、これまた嘘です。

 どんな仕事であっても、きっとわずかには喜びの報酬はあるはずです。それがゼロなら、辞めるか病むかの二択です。問題は平凡な日々のなかにそうした喜びが埋没してしまうこと。だいたい一様に灰色の世界のなかに、わずかな色彩があったとしても、視界の大半が灰色なら、見過ごしてしまうかもしれない。

 だから、探すことです。モチベーションは「自分でどうにかして」作り上げるものじゃない。探して、出会って、そのときにようやく発生してくるもんなんです。やりたくないことをやるために捻出するモチベーションなんざ、クソの役にも立たないですよ。


 飽きた。

 ひどいことになりました。

20120322

[]組み立てられていく世界

 滅多にないこと実家に行ってきた。車で2時間ばかりの場所にあるのだが、ああいうのは一度疎遠になるとどんどん敷居が高くなるもので、まして俺の場合、もともと親との折り合いがかなりよくなかった過去がある、ということもある。

 現在実家には、俺の両親と妹夫婦が同居している。妹にはいつのまにか子供ができていて、俺にとっては甥と姪にあたる人間がこの世に出現していたわけだ。甥は3歳で、一度見たことがある。姪は1歳で、こちらは見たことすらなかった。というより、名前もよく覚えていない。俺がそういう人間だと知っているから、母親も妹もそのことでは文句は言わない。

 折り合いが悪いといっても、いちおうは和解しているし、半日同じ家にいるくらいならそうまで険悪にもならない。いいかげん俺もおっさんですし。

 しかし、こうやってひさしぶりに血縁に会ってみると、いったい、なにゆえあそこまであの家庭のなかで暮らすことがつらかったのかがよくわからなくなっているのだが、しばらくいるうちにすぐわかった。単純にいって、俺はこの人たちと相性が悪い。そういうことなんだと思った。そういう部分を含めてわかりあえるものが家族なのだ、という考えかたもあるのだろうが、こういうのはそれ以前の問題なんじゃないかと思う。

 まあ、納得したところでなにが変わるでもない。とりあえず俺は黙って本を読んでいた。


 コンビニで仕事をしていると、あらゆる種類の人間を見る。それこそ、下は10円玉を握りしめてうまい棒を買いに来る5歳の子供から、上は店にたどりつくのがやっと、という90歳の老人までだ。それで俺はあらゆる人間を見ているつもりになっているが、考えてみれば、それは見ているだけだ。客と店員、という以上の関係はない。一度店を離れると、ほぼ人間関係と呼べるものがない。仕事関連の用事で出かけることを除けば、俺にとってプライベートの時間は、一人で過ごすか、うちの奥さまと過ごすか、その二択しかなかったわけだ。それが俺にとっての「日常」なので、ふだんはそのことを意識しない。ひさしぶりに実家に帰ってみて「そういえば生活ってこんなもんだったけっか」と思った。

 子供のいる空間というのは不思議だ。実感がない。生活がコスプレをしているように見える。

 今日半日見ていただけでもわかるが、子供というのはなにをやるかわからない。とても手間のかかるものだ。だから、子供がいることがあたりまえであれば、その世話に忙殺されてなにも考えずに済むに違いない。しかし闖入者の俺はそうではない。つい、観察してしまう。

 3歳になる甥がテレビを見ている。「おかあさんといっしょ」だ。ものすごい集中力だ。瞬きの回数が減っている。微動だにしない。その顔に表情らしきものはない。おもしろいのかつまらないのかすらわからない。魅入られている、という言葉がしっくり来るかもしれない。子供の学習能力というものは大したものであるらしいが、あの姿を見ていればそれも当然なんじゃないかと思えてくる。3歳の子供にとって、世界は未知だ。あらゆるものが刺激になりうる。比喩的に考えて、脳が箱のようなものだとするなら、41歳の俺の脳と、3歳の子供の脳では空き容量が違う。もし人間に本能があるのだとすれば、広大な空き容量を埋めることそのものなんじゃないかとすら思う。知らないことが目の前で起これば、脳に格納する。そういうプログラミングがなされているいきものであるかのように、子供はテレビを見ていた。

 自分の記憶のことを考えてみる。俺には6歳から前の記憶がほとんどない。親によると、どうやらそれくらいの年齢まで物心というやつがついていなかったらしい。言葉を覚えたのもかなり遅かったようだ。しかし覚えていないだけで、実際にはそのころに覚えたことはいまの俺まで連続しているはずだし、7歳以降の記憶は断片的とはいえ確かにあって、そうした記憶のいくつかは、決定的に現在の自分までつながっているのだろうな、と思えるものもある。

 3歳の子供はそれを知らない。そのことが、たとえようもなく不思議だ。なにが彼を「人間」にするのかわからない。まだ、定まっていない。自力で歯を磨くことすらできないいきものが、やがては学校にひとりで通うことができるようにもなり、バスや電車に乗ることもできるようになり、複雑極まりない社会の見取図とやらを手に入れる。それはもちろん、ほとんどの人間はそうして20歳になり、30歳になり、俺のように41歳にもなったりする。未知であふれていたはずの世界は、いつか既知のもので埋め尽くされる。

 俺は思想として「世界は未知のもので常にあふれている」と考えている。思想だから、現実的に自分の見るものが未知であるかどうかはあまり関係がない。毎日のように行き来する徒歩5分の道のりですらも既知で埋め尽くすことはできない「はずである」と考えるわけだ。どんなに見慣れても、ブロック塀のひび割れのひとつひとつまで記憶することはできない。梅雨にはカビも生えるだろう。翌年の梅雨にはまた別のカビの生えかたをするに違いない。とはいえ、そう感じるためには、認識の転換作業が必要になる。俺はそれがカビであることを知っている。知っているのだが「しかし俺はそれを本当に知っているのか」という疑問をしいて発掘することで「未知にする」という作業を繰り返している。

 いつもそんなことを考えているのは、人間の「既知にする」能力というのはべらぼうなものがあると感じているからだと思う。なんとなれば、人間はなにも知らない。「知る」ということをどう定義するかにもよるが、俺は、自分の目で見て、手で触れたもの以外は信用できない。人間の知識の体系を援用しつつ、対象となる事物が「そういうものらしい」と推測する。しかしそれはあくまで推測に過ぎず、決定的に「知る」ためには、事物と自分がある種の「契約」のようなものを結ばなければならないと思っている。なんだかよくわかんないこと言ってるけど気にしないでください。妄想です。

 そういうような「おまえいったいなに考えてんだ」みたいな、わけのわからない作業をしないと、世界はすぐに「既知」に埋没する。既知はつまらん。既知になってしまうと、それは静止してしまうので。まあ、そうやって静止した事物を前提にしないと人間なんも考えられんですよ、ということはあるんだけども、そこまでして思想の大伽藍を築いて、存在してるんだかしてないんだかわかんないような微細なものに届きたいわけでもないしなー。だったら「わーこれ知らねー」ってゆって喜んでるほうが好きだっていうか。

 子供ってのはすごいもので、天然でその状態なわけだ。ばらばらに存在している断片に過ぎないものが、子供の脳内でおそろしい勢いで組み立てられていく。見ているものが違う以上、人間の数だけ世界観は存在するわけで、ということは、実質的には、世界は人間の数だけ存在するといってもいい。

 3歳の子供を見たとき俺が感じた「不思議さ」というのは、そうした性質のものだと思う。いってみれば幻覚だ。広大な白紙に、いまこの瞬間から新しく組み立てられていく世界。そんなものを幻視したのだと思う。

20120320

[]「樅ノ木は残った」読了

 んー、小説読もうかなーと思ったんですよね。図書館の本棚見ながら。

 いざ選ぼうと思ったら、小説なんかたくさんありすぎてなに読んでいいのかぜんぜんわかんないんすよ。すげえなあ日本人こんなに小説読むのかーと思ってびっくりしたんだけど、とりあえず夏で廃線でボーイミーツガールだ!とか思って探すんだけど、そんな都合のいいもの見つかりゃしねえ。あーそれっぽいなーと思って開くんだけど、今度はそこには俺とまず無縁な「僕」とか「君」とかいたりしてそんなもん読みたくないっすよ。

 で、考えてみるに、どうも現代ものって基本ダメなんですよね。まあ読み始めればたいていなんでも読むし、お話がおもしろければ言うことなしって部分はあるんですけど、なんか敷居が高いんですよ。会社とか仕事とか学校とか友人とかもうそういうのきつい。リアルに近いものとかお話のなかでまで読みたくない。ラノベだったら現代ものでもまあ読めるっていうのは、ありゃ基本的には夢物語だからです。

 んじゃファンタジーでも読みゃいいじゃんってことで、今度は外国文学のそれっぽい棚を見てみるんですけど、こっちは日本の小説に輪をかけてなんだかわかんね。

 そんで図書館のなかをぐるぐる放浪して、たどりついたのが文学全集のコーナー。歴史小説をまとめたような選集があって、ああそうだ、歴史ものなら読めるな、と。だってほら、俺、司馬遼信者だし。


 よし、じゃあ歴史小説だと。どれ読もっかなーっと物色しはじめてから気がついた。俺、歴史小説って司馬遼太郎以外ほとんど読んだことねえ。司馬遼太郎以外だと、海音寺潮五郎と黒岩重吾、あと新田次郎なんかを数冊読んだことがあるくらいで……あー時代ものって括りだと柴田錬三郎も読んだことあったか、ま、なんにせよ俺は歴史小説好きというよりは、司馬遼太郎という作家が好きだった、というだけのことらしいです。

 司馬遼太郎の作品でなにがいいって、まず単純に主人公がかっこいいですな。テーマ的には、個人と組織の関係だとか、あるいは個人の思想と時代の思想の対立だとか、そんなようなものが多いと思うんです。んでその組織というものが、非常に整理された「わかりやすい」時代背景との絡みで説明される。司馬作品って、時代の転換期みたいなのを舞台にしたものが多いわけですけど、転換期のなかでも「特異点」みたいな個人ですよね、これを主人公とすることで成立してる。そうすることで、個人、組織、時代背景が有機的につながっていって、ひとつの風景を作る。この「わかりやすい」ダイナミズムこそが司馬作品の特徴だと俺は思ってます。それゆえに揶揄もされるわけですけども。あと司馬作品で忘れちゃいけないのは、アクションシーンの描写だと思います。あれすげえかっこいい。

 じゃあほかの人の作品ってどうなんだろうなー、あーなんかこれ有名だし名前聞いたことがあるし、読んでみっかなーと思って手に取ったのが、この「樅ノ木は残った」です。

 感想はですねー、ひとくちでいうと「ものすげえおもしろかった」です。

 いやもうほんと、おもしろいとしか言えない。長編の醍醐味ってあるじゃないですか。わーって読んでどかーんってなってぎゃーーーってなって「終わった……」みたいな虚脱する感じ。あれですね。

 まあ俺、小説はあんまり読まない人なんで、そういう人間の妄言だと思って聞いていただければ気楽なんですけど、長編のおもしろさって大雑把に分けると二つのパターンがあると思ってるんです。ひとつは魅力的なキャラが出てきて大活躍したり波乱万丈だったり、とにかくなんかよくわからんけどストーリーがうねってる、とにかく先読みたくてしかたねえみたいなタイプ。

 もうひとつは、この作品がそのタイプだと思うんですが、さまざまな登場人物、事件なんかがいっぱい起こって、それがラストに向かってどんどん収束していって、最後にどかーんと爆発するタイプ。俺、この小説を読んでるときに、なんとなく「鍋のお湯が沸騰するような感じ」がしてたんですよね。とっつきは悪いんですよ。鍋だから。いきなり水どーんって張ってあって、鍋の形の説明から入ったりするじゃないですか。でもお話が進むにつれ、なんかぼこぼこと泡が出てくる。盛り上がって参りましたよ?みたいな気分になってきて、終盤じゃもうぐつぐついってとんでもないことになってる。そんで、その沸騰した鍋のお湯をですね、最後、流しに捨てると、すんげえ湯気上がって、お湯は冷えるわけじゃないですか。そうやって、読んでるこっちは「終わったー」みたいな満足感を得ることができる。

 今回つくづく思ったのは、有名で、読み継がれてる作品って伊達や酔狂じゃないんだなってことですね。熱というか、力というか、とにかくエネルギーが違う。

 こういう作品を、なんも考えずに一気に読むのは無上の快楽ですね。丁寧に読むわけじゃない。もう、ただおもしろい。読む速度もガンガン上がってきて、細かいとこなんか読めてなかったりするんですけど、それでも急く気分のまま一気呵成に読みきって「はぁぁぁぁぁぁ」とでっかいため息なんかつきつつ、体の節々を伸ばしてみたりする。

 読書の楽しみがあるとしたら、俺にとってはまさにこれですね。うっかり忘れてましたよ。小説ってほんとにおもしろい。


 さて、作品の内容ですけども、ぐぐればあらすじとかいっぱい出てくるでしょう。伊達騒動という、実在(らしい。詳しくは知らん)の事件に題材を採った小説です。実在の事件なんで、お話の結末とかは変えられないわけですけども、俺はこれ、伊達騒動っていうものについて予備知識がまったくなかった、ということが、よりおもしろく読めた理由のひとつじゃないかと思ってます。まあ「ふつうの解釈」ではこの事件がどう扱われてるのか知ってたほうが、より作者の解釈を味わえておもしろい、ということもあるのかもしんないですが、今回の俺にとっては「先がわからん」というのはものすごいエンジンになってた気がします。

 キャラはよかったですねー。比較の対象が司馬作品しかないんでアレなんですが、司馬遼太郎が取り上げる人物ってのは、なんらかの点において奇人とか変人の類です。時代という大きなものに限らず、状況の特異点みたいな人物を好んで取り上げれば、必然的にそうなります。かっこよくても奇人です。「胡蝶の夢」の伊之助みたいな真性の奇人みたいなのもよく取り上げますよね。

 この作品におけるキャラはそういう感じじゃないです。主人公の原田甲斐はまあ変人っていっていいでしょうけど、これはつまり、この人が主人公であって、かつ作品そのものがこの人の生き様(いやな言葉ですが)を描いたものだからです。この長編を成立させるにふさわしい質量のあるキャラクターでなければならないからです。お話そのものの屋台骨を背負う人なんで、ちょっとその点では万能キャラ化しちゃってる節がないではないんですけども、説得力のない万能じゃないですね。

 そのほかのキャラは、その人なりの限界がある感じで描写されていて、そういう意味では人間くさいです。昭和33年の作品だし歴史ものだしっていう制約があるんで、そのまま現代人のキャラとして把握するのは無理ですけど、主要キャラはどいつもいい味出してます。そうだなあ、ふつうの人たちがけっこういる感じ。テーマとしては「原田甲斐」っていう主人公だし、侍どうあるべきかみたいな部分なんですけども、時代の大きなうねりみたいなのを描写するお話ではなく、伊達騒動っていう単発の事件を扱ってることもあるんでしょうが「しょーもないふつうの人間でも、その人の人生においては主人公であり、まぎれなくこの世界を構成する一要素である」っていうような作者の基本的な人間観があるような気がします。なんで、女の肉体に溺れて自堕落になっちゃうような人でも、その人なりにちゃんと立ち上がって自分の足で歩き出したりする。

 俺は基本キャラでお話読む人なんでそれが目につきますけども、いちばんすげえのはおそらく叙述力なんじゃないかなーと思います。もう、すげえの。力あって。長編読ますには文章の力って必須なんだなーってあらためて思いましたね。状況を説明するときの厳しい四角四面の文章、登場人物たちの物語が進行していくときの簡潔な文章、情緒的な場面では、やや嫋々とした和文っぽい文章。緩急自在って感じで、読んでてまず飽きるってことがないです。

 もちろん構成の緻密さもすごいです。ラストで起こる事件に向けて、すべての出来事が集約していくような構造になってるんですけど「あれがここにつながるか!」みたいな驚きがたくさん。あれは……茅田砂胡だったかなあ、あとがきで「物語を作ることは、織物を織ることに似ている」みたいこと書いてたの。それでいうと、一級品の織物ですよね、これは。まあ、偶然の出会いみたいなのは相当に多用してるんですけども、どっちかっていうと「あれがそこにつながるんだ!」みたいな素直な驚きのほうが俺は強かった。


 歴史小説を読むうえでの唯一のネックが女性キャラの扱いなんですよね。司馬作品の女性キャラの扱いのてきとーさはわりと有名ですが、そうでなくても、舞台が江戸時代ですからねー、その制約ってのはあるわけで、裏庭に回ったら水浴びしてる女の子がいて「……見られた。父上にも見られたことないのに……! ぜったい許さないんだから!」みたいなラッキースケベイベントはありません。ツンデレもいないです。ヒロインにあたる宇乃さんは素直ヤンデレっていうかなり難しいラインに到達してるようにも思いますが、それは萌えコンテンツに脳やられてる俺の妄想でしょう。

 そういう人間にとって「魅力的」といえる女性キャラは登場しませんでしたけども、まあそこそこ違和感なく読めました。原田甲斐の母ちゃんかっこいい。


 というわけで、なんかまとまりのない感じですけど、要は「おもしろかった」ということが言いたいだけです。作品のテーマについては、別に俺は感じるとこないですし。がっつりと読みごたえのある長編を読みたい方にはおすすめです。難点は登場人物すんげえわかりづらい。場面によって呼称がけっこうころころ変わるんで、それを把握するまでが一苦労。

 文章は……読みやすいのかなあ、俺は読みやすかったですけど、このへん趣味あるからなあ。

 あーそういえば、読めない漢字出てきました。

「劬り」

 これ読めます?

 いやまー、ぐぐればわかる話なんですけどね、紙の本だったもんで、コピペできなくて調べるのにちょっと手間取りました。いちおーブコメに答え書いておきます。