「上杉隆=自由報道協会のすべて」という乱暴なくくり方を進めていくと、行き着く先は「上杉隆=日本人のすべて」 - Togetter http://goo.gl/GGDMQ
自由報道協会もBLOGOSも両方ともネット言論の属性が強いが、カオス。こなれてないんだろうと思う。
一見すると、例の上杉さんのWSJ記者発言誤報(捏造?本人から説明ない)騒動にしろ、池田さんのいつもの厨房ぷりにせよ、新しいメディアというかネット言論の中にいる人の粗さばかり目立って、だからダメなんだってことに帰結しやすいけど、こういうのは黎明期において不可避なのかな?
なっかなか既得権益というかエスタブリッシュメントというか既存のメディアの中の人の品質もいただけたものではない(特にTV局の報道関係)わけで、着実に時間をかけてシステムが構築され、持ちつ持たれつで狡猾に表面上は上手く回り始める、ドンパチはしないが同じウェイトで腐敗とかかな。
僕、2年くらい前はもうちょっと事が単純だと思っていて、すでに既存メディアの歪はその時点で大いに蓄積されており、だーっとネットメディアの台頭と共に駆逐されてしまうものだとばかり思っていた。
もちろんネットメディアのバネとなるソーシャルネットワークの筆頭格がTwitterで、ああこれだったのか、ってキーストーンを発見した気でもいたのだけど、まあ特に震災後だね、あれ?違うのか、と気づき始めて混乱して、正直今は何がなんやらさっぱりわからなくなってしまった。
ブログではトラックバックという仕組みがあっても、相互のリンケージが弱すぎて言論の相乗効果があまり期待できない、ことがここ10年くらいわかってきた、というより当初ブログこそがネット言論の雄で、というのは云われるほどでもなかったという観察。
Twitterは距離が近すぎる。身内でXX食べました、どこどこ行きました、一緒に遊ぼうとかわいわいやるにはいいが、アカウントの存在がどんどん軽くなる、軽いとわかってるから変なの多いし、重い設定ではじめた人でも触ったらどんどん軽くさせられる、感覚マヒしてドンパチはじまる、血の匂いを嗅ぎつけてTogetterで晒される、また言論が軽くなり、その軽さを馬鹿にする変なのが集まってというネガティブフィードバック形成されて、もうネット言論のプラットフォームとしては到底機能しない、トピックが震災のように重くてもそうなることを確認してもう終わってると追認。
Facebookは実名メディアでホームポジションとしては十分な重さが担保されており、軽い変なのに絡まれて軽くなりTogetterで晒されてまた軽くなってというネガティブフィードバックは形成されないけども、あれはクラスタ化が激しいし、ホームポジションとして重いだけに隔たりが大きい。
Twitterよりもソーシャルネットワークの距離感としては重さとして妥当なのかな?
Mixiのエコの広がりにくさからTwitterの広がりやすさへ一旦針が触れ切って、そのデメリットが明らかになりまたゆり戻しがきたという感じがする。
各人の交友のためのソーシャルネットワークの具合としたら、まあどんどん最適値に向かっているのだろうし、じゃあFacebookでそれで最後なのか?という極めて微妙な問題もあるけれども、マスメディアの後釜としてのソーシャルネットワークか?といえばそうなのかな?違うのかな?
Blogosにも埋めこまれているFBのソーシャルプラグインはちょうどいい距離感だとおもうけども、重いホームポジションがあり、適時そこから出張して絡みあうという仕組みは秀逸だと思った。まあそれでもなお混乱しているのには変わりはなく、20年後ネット言論ってどうなってるのか?それは想像の範囲外。
言論っていうのは腐っても言論であるわけで(個人的には一応境界線はあって2chは言論として断じて認めないが)この国は法治国家として言論の自由が担保されているし、それはあらゆる自由を担保するための生命線。今回警視庁が鳴り物入りで徹底的に踏むまで随分時間がかかったのは、そこだと思う。
2chを言論とするならば、それは根本的に対象物を毀損するための言論だと思う。自分以外のもの自分以外の世界の対象物すべてを毀損し、どうにもならない自分自身や社会的立場を相対的にマシにしたいと目論む毀損したい人間が集まるし、そこからは生まれるのはせいぜい上手に出来たAAくらいだろう。
Twitterは「まっとうな」ソーシャルネットワークであり、言論としては2chとはひと味違うと勘違いしていたが、どうやらそうでもなかったらしい。もうやっぱり場のオーラというかステージというのはそれ相応の人を配置するわけで、2chヲチ≒Togetterとなったのが証左。あくまで言論としてね。
まっとうな交友関係を広げるというのは、それは2chとは全然違うと思う。ただひとつ疑問なのは、ここで仕事の繋がりができて、一緒に成功したという感じの人達は果たしてどの程度いるのか?とそこは疑問に思う。飲み友達や恋愛や結婚は普通にあるだろうと思うけど。
楽しい遊び場、サロンとしては多いに機能しているが、言論という観点では、Twitterも2ch同様、毀損するだけ、されるだけのメディアなんじゃないか?と感じる。何か建設的な議論が波及して皆が参加してどんどん質が高まり、という現象は見たことがない。
もうちょっと微細なところをいうと、2chからはみ出てきた毀損したい連中にとっては、そのちょうど毀損したい感じに言論が完結できるので、彼らにとってはちょうど素晴らしい塩梅となっている。起点がいかなるものであれ、どういう言論であれ、1点でも隙があれば毀損されてまとまり終わる。
このようにひとりで勝手にだらだらTWしてる限りにおいては安全。そりゃひとりだからね。運良く真っ当な論者とやりとりする1次のレベルではOK。でもこのTWだってヲチしてる連中はいてその1次のレベルではどうせ毀損されて終了。前者の1次でOKでも、2次でも毀損される、3次でも、、と。
世の中には毀損され慣れていて対処しつづける事ができる強者がいる。たとえば乙武さん。あの人はもうすごいハンディキャップをお持ちであるので、悪意ある者たちより毀損されることを常時克服していく必要に迫られているだろうし、そのスキルが半端無いレベル。
もうあのくらいになったら、2次でも3次でも関係ないわけ。毀損したいと考える連中をうまく無力化することさえできる。それを人徳であると表現することもできる。そして人徳は議論の質とは関係ない。メディアの健全性とも関係ない。それはあくまで人徳であり、プラットフォームの話ではない。
人徳が高いと、それは毀損したい連中を上手にたしなめることになる。それはつまり啓蒙であり、議論ではない。最初から高い位置にあるものが低い位置にあるものを諭す、啓蒙する。これは議論ではない。それなりの位置にいるものがお互い話しあって高い位置に登る。これが議論。
Twitterとは、ここ数年当事者として身を投じならがら観察した結論として、言論を毀損するメディアであり、議論可能なネット言論にはなりえない。これは140文字の制限とかいう事は全く関係ない。原理として2chと変わりない。
Twitterの使い方としては、原理的に言論、議論以外の二通りしかない。ひとつは仲間内で楽しくわいわいやること。もうひとつは、ひたすら高い位置を維持し相手を啓蒙したりたしなめることだ。後者は難易度は高くほとんどの人は「無視」することでそれを実現している。
僕はソーシャルネットワークに多大な期待を寄せているし、その辺の動向を観察していくのはライフワークでもある。面白い時代を生きていると思うから、それは観察して吟味しないともったいないと思っている。期待が過剰なだけに、なかなかこういう帰結に気付けないし、失望も大きい。
2年前に見極められていたらな、って心底思う。無駄なことであると。毀損であると。
自由報道協会の話に戻る。
自由報道協会にしろBLOGOSのことにせよ、上杉さんひとりの資質で、どうかなったり、江川さんひとり脱退して、津田さん二人目脱退して、それが大きな騒ぎとなるという、不安定な状況自体が何とかならないか、と思う。時期尚早なのか?いつまで時期尚早なんだろう?
青山繁晴さんが常日頃からおっしゃっているのだけど、最近政治の世界で好んで使われる言葉「維新」、明治維新の立役者は皆、功名心でなく、国のためを思う公の心でやった。
大阪維新の会にせよ、政治家を目指す諸君は私心(わたくしごころ)で動いているのではないか?もしそうなら辞めて欲しい、今の既得権益と同じ事であり、維新を名乗る資格などない!と。
もちろん、僕は勉強不足であるので、青山さんが仰るように明治維新の彼らに、ほんとうに功名心や私心がなかったのか?そこまでは事実関係を追認できないが、青山さんご自身が実際功名心も私心もない稀有な方なので、主張される内容の説得力は100%ある。
報道というのは公のものでり、自由報道協会が本来の理念とするように、自由な報道の会見の場を、透明なプラットフォームを提供するというのであれば、発起人もできるだけ透明に私心を捨てさり裏方に徹するべきなのだろう。
その点、上杉さんはいろいろ記者クラブへのルサンチマンが強すぎてそれが表に出やすかったり、これまでの言動からも功名心、私心が多く感じられたり、いい加減な嘘ついちゃったり、今回まるまる、その辺で足を取られたのだろうな、ってとても残念に思う。
もう筋が悪くなってしまったので、いっかい自由報道協会は解散してしまって、しばらく空白のインターバルがあって、別の誰かがまた再度チャレンジするのを待つしか無いのか?
あるいは、自由報道協会を維持してこのまま復興を狙うのならば、上杉さんはもうスパっと身を引いてしまったほうがいいんじゃないかな?自分から。
すでに立派に役目は果たされたと思うし、功名心も私心もないのならば、発起して問題起こして、足引っ張るだけになったので身は綺麗に引くというのは自由報道協会の次に繋がる良い手だと思うんだけど、どうだろうか。
ただたた、彼らが泥船として沈もうとしているところをニヤニヤ眺めて拍手喝采している連中には僕は同調しないし、彼ら個人個人の資質がどうであれ、その理念と理想は共有するし、果敢に行動し挑戦した功績は功績としてちゃんと評価したいと思う。
毀損、ただただ潰したいだけの批判なんて誰でもできるし、一見、世の中のために批判しているように見せかけて、対象を毀損し溜飲を下げているだけ、っていうのが、おぞましい。
こういう大きな仕事って、自分自身は切られてそのまま終わってもいいじゃないか、次に繋がるのならば、っていうくらいの志じゃないと、成功しないみたいだし、いずれにせよ切られるよね。
切られたっていいんだっていう本気のその覚悟がみえたら、切ろうとするほうに自然と世の批判は行って守られるんじゃないだろうか。人徳だね。