ある意見交換会に参加して
先日、これからの教育を考える意見交換会に参加してきました。
提言、すごくおもしろかったです。熱く、真摯に考えようとしている姿勢、共感を持ちました。「方法」よりも「あり方」であること、あらためて強く共感できました。 ただ、教育の目標を自律ととらえているといいながらも、日々の授業の目標を学力、テストに置き換えてしまっているところは少なからず問題点を感じました。
テストで評価できる学力をつけていけば自律ができるのか? という意味でです。
しかし全体として、この会を参加して、多くの教師たちがはまっている負のスパイラルから、抜け出る光を見いだせたような気がしました。
ぼく自身も悩んでいました。「あり方」で、そして示されている「方法」がずれている感じで。
美術の中では、ハーバート・リードによって著された「Education through Art(邦題:芸術による教育) 」を模して以下のような議論があります。
Education through art か Education of art か
つまり、「美術をとおしての教育」か「美術の教育」かというものです。
美術はすでに教科の名前からして「方法」の教科のように受け止められていることが多々あります。子どもたちにとっても、図工や美術の授業は、あくまでも子どもたちの目には「美術の授業」でしかありません。 それで長らく美術教師の中で議論があったそうです。
また、さまざまな場面で、特に手法がドラスティックだったり、パワフルだったりする時など、「あり方」が先か「方法」が先かという議論が持ち上がります。 美術で言うなら、表したいものが先か、技術が先かという議論です。 人間の叡知をひも解かなくても、大きな視野で見るなら、当然「あり方」が先でしょう。しかし、局所的な視野では時として「技術」が先になる場合もあるでしょう。学校現場、授業の中では「技術」が先な授業が往々にしておこなわれているように…です。
では「あり方」と「方法」議論が生まれる時、人はどのように見えるのでしょう。 多くは、「あり方」と「方法」が等価のように見えてしまうようです。
「あり方」の価値の大切さは理解でき、「あり方」が先と思えても、とても遠くにあるようで、一朝一夕に実現しにくいもの、ととらえられていると思います。
一方「方法」は、具体的で、目に見え、即効性があり、悩んでいればいるほど、手を伸ばしやすいように思えてしまいやすいのではないかと思います。
ぼく自身も、ずっと遠くにある「あり方」と目に見えてラディカルな「方法」の間で、模索することが続いていました。
そして、また「あり方」自体に対しても、あまりにも大きすぎ、抽象的で、遠過ぎて、今おこなっていることがつながっているのか、なかなか確信が持てないでいたところもあったように思えます。
「人格の完成」?「自立」?
正直に言えば、よくわかりません。
大人ってみな人格が完成しているのでしょうか。大人ってみな自立できているのでしょうか。
もし、わかったような気になったとしても、それまでの自身の経験に基づくしか、これまで学校でおこなわれてきたことを信じることしかなありませんでした。しかし、それは、自分がそうだったから子どもたちもそうであろうという予定調和の論理のみの話であり、そうすることで学校教育による学校教育のための学校教育という再生産をただおこなってきただけという指摘をぬぐうものではないと思ってきました。
自分なりの答えはもっていたつもりでした。
ぼくは、「生きる力」を「(人が人としてよりよく)生き(ていこうとす)る力」だと考え、それなりに「人として」とは?「よりよく」とは?と実践を重ねてきました。
震災以降、たくさんのことを感じ、考えさせられてきたからかもしれません。
ずっと前から取り組んできたことでもありましたし、少し前まで漠然とながら気づいていたことでしたが、ひょんなことから自分なりの解決策(というか確信)を見つけることができました。
解決の糸口は、やはり「あり方」が抽象性に問題があったのです。 見えずらかったら、もっと実感できるものにすればよかったのです。
ぼくの考える、教育の目標は、結局は、すごく単純で、すごく当たり前のことでした。
質問させてください。
「学んで、楽しかったこと、うれしかったこと、心から、本当に、心からそう思えた経験、どんなものがありますか?」
質問によって出てきた思い、経験は、何でしたか?
どんな映像が浮かんできたでしょうか?
どんな音が呼び起こされてきたでしょうか?
そして、なんだか不思議と身体がほんわかあたたかくなってはこなかったでしょうか?
教師だったら、一つや二つ、あるのだと思います。だから、教師になったのだと思います(たぶん…)。
そんな思いを子どもたちにもさせたい、そんな経験を子どもたちにもさせたい… それが、自身の教師になろうとした、すごく根っこの経験になっているのではないかと思います。 それが、自身の教育哲学の礎(の一つ)となっているのではないかと思います。
ぼく自分自身に問いかけた時、湧き上がってきた思いとともに、これって(ぼくが考えてきた)教育の目標じゃない?!と気づかされました。
そして、とても簡単に、シンプルな言葉で出てきました。
“勉強してよかった! 勉強して楽しかった!と心から思える経験”
強迫観念ではなく、強制でもなく、心から”心地よい”と思える経験です。
誰かに強制させられるのではなく、自分から、心から「!」と思える経験です。 ずっと経ったあとでも、思い出そうとすれば鮮明にイメージできる、あの時の仲間の声や歓声が聞こえてくる、そして達成感、高揚感が再度湧き上がってくるような経験です。
心からそのような感情が溢れ出てくれば、人はもっとしたくなります。そして他の人にも伝えたくなります。
人から強制されなくても、うながされなくても…です。
結果はおのずからついてきます。
心から学び続けていきたい!と思える強い心情こそが、初等教育でも、それ以降の中等、高等教育でも、そして”学校”を卒業したあとでもずっと学び続けていきたい!と思えるような心情なのだと思うのです。
教師が教師たるゆえんは、専門的な難しい知識を持っているからとかではなく(そりゃあった方がいいですし、学び続けてきた結果として身に付けてきたものであるので否定することはまったくないです)、この「!」な思いを経験しているから教師でい続けられるのだと思います。
そんな教室には、授業には、ブレない教師の説諭なんてなくてもいいのです。「みんな」を強制しなくてもいいのです。それに商業施設にようなお客様に楽しんでいただく授業をつくることを指し示しているのでもありません。
だって、 “勉強してよかった!勉強して楽しかった!と心から思える経験” ができたら、友だちにもこのよろこびを伝えたくなるし、もっとやりたくなるし、だれかをばかにすることもありません。
教師だって、あれをしなくちゃいいけないではなく、「心から」願えばいいだけです。「心から」願えば、自然と必要なことが見えてきます。自然と見取っていけるようになります。スーパーティーチャーでなくても、誰でもできます。
そんな授業、見取り、言葉かけ…、振り返ってみると、たとえ意識はしていなかったものの、けっこうやってきていたはずです。
それを、あらためて思い出して、やっていってみることって、すごく大きな価値があることではないかと思うのです。
今の教師って、”欲”だったり、”目的”のために行動することが多く、「心から」願って行動することの割合が少なくなっているのだと思います。
今まで考えられていた目標は、見えなかっただけではなく、実感もしずらかったものでした。
目に見えると思われるものだけを見ようとし、理解できるものと思われるものだけを理解しようとしていたことに間違いがあったのです。
そして、
人それぞれ、心の中に、”承認のコップ”というものを持っています。
材質も、形も、大きさも、入っているものも、違います。 悲しくなったり、不安になったり、怒られたり、寂しくなったり、バカにされたり、比べられたり、否定されたり、無視されたりすると、あっという間になくなっていきます。
逆に、うれしいこと、ほめられたこと、うまくいったこと、みとめられたことがあると少しずつ溜まっていきます。
今の社会、そして学校で、人は承認のコップ、溜められているでしょうか。
学校は安全の場、安心の場と言われます。
教師が自信をもって、よろこびをもって子どもたちと接することができているでしょうか。安心して尊いその仕事に打ち込めているでしょうか。
子どもたちは、心から安全で、安心していられるでしょうか。身体的な安全だけのことを言っているのではありません。表面的な安心を言っているのではありません。本来ならできていないのに、さも表面的な安全さ、安心さだけで、現状を肯定していないでしょうか。現状肯定の器の中のオルタナティブではいけないと思います。
あらためて、自分の立ち位置、そして歩むべき道をもう一度見定めてみてもいいかなと思っています。
この発展形、必要なこと、これから少しずつ書き足していきたいと思います。
もしよかったらおつきあいください。
対話型観賞の授業を参観して
先日、図工で観賞を取り上げた授業を参観させていただきました。
先生の発話に食いついて多様な発想を発露させる子どもたち。子どもたちがどんどん先生の引っ張りについていく授業でした。
先生の巧みな話術、高い子どもの意識、素晴らしかったです。
そこで気になったのが、
鑑賞の授業を他教科では当たり前過ぎる旧来の一斉授業でやって一点の疑いもなく満足げに語っていました。
「対話型鑑賞」の姿なのでしょうか。これまでやってきた、うんちくを教師が子どもたちに注入?することを否定して、子どもたちの言葉を紡いでいく…と言いながら一斉授業をすることなのでしょうか。
他教科の多くでは、一斉授業への疑問点から、一斉授業をベースにしながらも多様な展開過程が開発・実践されています。
子どもたちの活動を細切れにして、強引に誘導して、教師の思いを長々と語って押し付けて(長々とというところが問題点)、他の教科ですでにずうっと前からやっていることを、さも新しい取り組み、すごいだろ!っていっているところ、ちょっと悲しい感じがしました。
アフォーダンスっていう言葉があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9
ぼくの理想とする授業は、
教材、課題を含む題材自体が魅力を持っていて、子どもが今もっている力で教材をアフォードして子どもが自ら気づき、自ら(作品も活動も)つくり上げていく…教師はそれを修正し、サポートしていく…そんな子どものシームレスな活動が本当の図工だし(本来の図工だし)、図工だけじゃない授業なのだと思っています。観賞の授業であっても同じことです。
やってみたい!話し手みたい!って思える気持ちのコップが溢れるような授業、模索していきたいなぁと思っています。
BAMBOO STYLUS + 7note mini for iPhone
shilogyのshipさん絶賛のiPadアプリの7noteとSu-pen。
スタイラスは面倒…と思ってなかなか手を出していませんでした。7noteも購入はしたもののあまり使っていませんでした。
でもSu-pen試してみようかな?と思い、近くのヨドバシカメラに行ったところ在庫なし。取り扱っていないみたい。で、タブレットで有名なWacomのBamboo Stylus
を購入してみました。
試してみたら、結構いい感じ。指よりも細いので、ペン先のかいたところの確認もしやすいのがいい感じでした。指よりも手書き文字は早くできるかな。
7noteの認識も満足行きそうなレベル。
いい感じです。
手書きを即デジタルにしてしまうの、それもテキストファイルになるのは、ワンソース・マルチユースの観点からも最適です。
このごろのApple人生。(^^)
(Appleのサイトより)
いろいろ悩んだ揚げ句、Apple MacBook Air 11inchを購入しました。どうしても軽くて小さなモバイルマシンがほしかったためです。
購入はヨドバシカメラにしました。アカデミックはありませんでしたが、割り引きと5%OFFでAppleよりも割安だったことと、ポイントがちょっと貯まっていたので合わせ技での購入です。
AppleCareへは、MacBook Pro、iPhoneは即時購入しましたが、今回のMBAはもしかすると入らない…かな?と少し考えています。スピンドルのない分故障が少ないことに期待です。ま、本体購入後1年以内に加入すればいいので、もうしばらく検討しようと思います。
ついでにケースも…といろいろ探しましたが、以前iPhoneのカバーで気に入っていたIncaseのincase Perforated Snap Case for iPhone 4 Black CL59780というのがとても気に入ったので、MacBook Air用のパンチアウトした同じ形状の新品 Incase Perforated Hardshell Case for MacBook Airというもの(上記写真参照)を購入しました。ケースよりもこっちの方がいい感じ。コネクタ類への干渉もまったくなく、ジャストフィットでたわみも歪みもありません。
で、ついでに母艦のMacBook Pro用のも…と思い、Incase 15inch Perforated Hardshell Case for MacBook Proを注文しました。amazon、ヨドバシ.comともなく、オンラインのApple Storeで、2〜3週間ご到着のようです。
(同じくAppleのサイトより)
あ、iPhoneのケースは、incase Perforated Snap Case for iPhone 4 Black CL59780だったのを、どうしてもバッテリ付きがほしいということで、Mophie Juice Pack Air バッテリーケース for iPhone (White)を使用しています。この賞品はApple Store限定だそうです。
iPhone 3Gの時も使っていました。あの時はマイクロUSBのコネクタが内部で壊れてしまいましたが、今回は大丈夫のよう。1.5倍くらい持ちがよくなりました。快適に使っています。
岩手県胆沢地区図画工作研究会ウィンタセミナーでお話をしてきました
2012年1月10日(火)岩手県奥州市立水沢小学校を会場に岩手県胆沢地区図画工作研究会ウィンタセミナーでお話をさせていただいてきました。冬休み中の中、胆沢地区の熱心な先生方がお集まりしての半日、2時間半の時間をいただきお話と模擬授業です。
オファーの段階から、どのように授業(題材)づくりをしているのか、そして授業の中のコミュニケーションについて話をしてほしい、実技研修も入れてほしいというオーダーを受けていたので、これまでぼくが考えてきたこと/取り組んできたことの一端を紹介させていただきました。
演題は「ひと・もの・ことと出会い、かかわり続けようとする子どもたちを育む図工の授業づくり」で、ぼくなりの授業づくりのノウハウ、それに授業の中でのコミュニケーションのあり方をお話しました。また、実技研修だったら、ぼくの授業のおおまかな流れを知ってもらえればと、模擬授業形式で進めることができました。模擬授業は、現行の教科書にも掲載されている「間伐材テープを使ったオブジェづくり」です。
やさしく、熱心な先生方。穏やかな冬の午後、暖房が効いた室内…なのに(^^ゞ、笑顔で、うなずきながら聴いてくださり、とても勇気づけられました。こちらも乗せられて予想以上に熱くお話をさせていただくことができました。
セミナーの後研究の柱になるものがほしかった、いい方向性になるヒントをもらったと言っていただけたこと、とてもうれしく思いました。
また、授業の中でのコミュニケーションについて、コーチングの初歩的なところを少し紹介させていただきました。こちらもとても反応がよく、ニーズがあることをあらためて確認することができました。
2時間半、話す内容はほぼ時間内に収まったものの、話したかったことはまだまだありました。授業づくり、コミュニケーション、どちらにしろよりブラッシュアップできるように、今後取り組んでいこうと思えました。
会場校の校長先生で図工部長の高橋先生、来年度の大会実行委員長の那須川先生をはじめ、事務局の先生方、図工・美術教育への熱い思いをお持ちでとてもすてきな先生方でした。このような先生方がいるの研究会、とてもすてきだと思いました。このような先生方がいらっしゃるから、参会の先生方が意欲的に楽しんで参加する雰囲気がつくれているのだと思いました。ありがとうございました。
事務局は情報教育などで以前から親交のあった佐藤正寿先生。社会と情報教育のスペシャルな先生とばかり思っていましたが、来年度の県大会の会場地区ということで図工の事務局をされているとのこと、丁寧な準備、運営をしていただきました。ありがとうございました。
今年の7月31日に岩手県大会が開催されるとのこと、ぜひ参加していきたいと思っています。