「宝島30」 1996.1
先月号で、私は独自に入手した「早川ノート」の原文コピーにもとづき、オウムがこの95年11月に、東京上空からヘリ等によって、大量のサリンを散布し、日本の政治・行政・治安機構の中枢を完全に破壊すると同時に、東京都民を皆殺しにするという狂気のテロ計画を企てていた、と述べた。実際、今年3月に行われた強制捜査があと半年ほど遅れていたら、この計画が実行に移されていたことはまず間違いない。サリン原料の調達・製造・運搬・そしてヘリのチャーターに至るまで、オウムはこの計画に必要な準備のすべてをすでに完了していたのである。
<’95 11月→戦争>。「早川ノート」に書きつけてあったこの言葉の意味を、今一度、私たちはかみしめてみる必要がある。オウムは、都心上空からのサリン散布を皮切りに、カラシニコフ自動小銃で武装した自前の戦闘部隊によって、ひとまず国家の転覆と支配をもくろみ、その後は戦域の拡大と戦争の強度のエスカレーションによって、核兵器の使用をも含めた第三次世界大戦の勃発を狙っていた可能性がきわめて高い。先月号の前編に引き続き、今回の後編では、「早川ノート」をもとに彼らの武装計画の実態に肉薄すると同時に、前編で簡単に触れた「内乱予備罪でオウムを起訴すべき」という私の主張の論拠を述べていきたい。
その前にまずは、<’95 11月→戦争>という記述が、早川個人の思いつきの走り書きなのか、それともオウムが組織の総力をあげて取り組んでいたプログラムの端的な表現であるのかという点について、確認のためにも検証しておきたい。
「早川ノート」の記述を引用しよう。
<2/9 全体ミーティング
三宝=グル><修行(省庁決意をしっかりとなえる)(どの省庁も基本的に同じ)>
「三宝」(さんぽう)とは、仏教の用語で、「仏・法・僧」を意味し、仏教徒は宗派を問わず、この三つに敬意を払い、帰依することを求められる。<三宝=グル>とはつまり、仏教徒の帰依の対象である「三宝」が、オウムにおいてはグル即ち麻原彰晃一人の存在に集約される、ということを意味している。要するに、麻原への個人崇拝の強制である。<2/9 全体ミーティング>では、麻原へのグロテスクな個人崇拝が再度、強調されたということなのであろう。と同時にこの日は、<省庁決意をしっかりとなえる>という<修行>を徹底する指示が下された。オウムが省庁制を導入したのは、94年6月。したがって、この2月8日という日付は95年以外にはありえない。組織全体で、何らかの意思確認が行われた気配が濃厚である。では、彼らはどんな「決意」を確認したのか――。
実は、この記述にすぐ続いて、同じ頁に早川は次のように書きつけているのである。
<すでにハルマゲドンがはじまっている
(11月までに、北海道・東北・関東)
今後の計画(防衛庁)
体を大事にすること(浄化ではない)
(修行の土台、救済の時期が迫っている)>要するに、「すでに始まっているハルマゲドン」のため、各省庁がそれぞれの任務を徹底して遂行するようにハッパをかけられたのが、この<2/9 全体ミーティング>なのだ。<救済の時期がせまっている>とはつまり、サリンを我々の頭上からふらせる時期が迫っている、ということに他ならない。
この全体ミーティングの約1か月後に発売された麻原彰晃の著書『日出づる国、災い近し』の中には、こんなくだりがある。
「95年の終わりから一気に日本は大きな変化へといざなわれるのである。この大きな変化はまさにハルマゲドン、そして第三次世界大戦へと動いていく」
また、同じ3月に発売されたオウムの機関誌『ヴァジラヤーナ・サッチャ』8号の特集「世紀末サバイバル」の冒頭では、「この日本は1996年の終わりを契機として大きな変換に至る。その前に多くの殺戮がなされる」
「たとえ国外に脱出したとしても、もはや安住の地を得られるような時代ではない」「第三次大戦で使われる兵器は、原爆や水爆のようなチャチなおもちゃではない」などの麻原の予言を引用し、くどいほどに「来るべき人類最終戦争(ハルマゲドン)」について記されている。彼らは「言行一致」を心掛けていた。少なくとも、<’95 11月→戦争>の計画に関しては――。
「早川ノート」の記述は、大半が実務の記録である。淡々としていて愛想はないが、それだけにまた、行間から静かな凄みも伝わってくる。興味深いのはこのノートと、麻原の説法の記録を重ねあわせて読んでいくと、両者の動きが緊密に連動し、シクロナイズしていることが、手にとるようにわかることだ。麻原の説法の裏で動き回る早川の姿が目に浮かぶようである。すべては到底紹介しきれないが、2,3の例をあげておこう。
92年12月18日、松本支部での説法で、麻原は次のように語っている。
「1993年10月以降オウム真理教の教団そのものが、信徒数および質を含めて飛躍的に発展するであろう。それは、いまのたとえば10倍とか20倍とかいわれるような数字ではなく、劇的な変化を遂げるはずである」
「93年10月」という日付に、麻原は何を期待していたのだろうか。
この謎は、早川が合計22回も渡航していたロシアに目を向けてみると、合点がゆく。この説法回が行なわれた時期にはロシアでは、エリツィンを頂点とする大統領府の権力と、最高会議の権力との対立が尖鋭化し、和解も妥協も不可能なレベルにまで深まりつつあった。実際、その1年後の「93年10月」には、二つの権力の対立は武装衝突にまで至り、最高会議サイドは、ホワイト・ハウスと呼ばれる同会議ビルに籠城し、それをまた、エリツィン側は戦車の砲弾で吹き飛ばすという事件――というよりも小規模の内戦――が起きた。いわゆる「モスクワ騒乱事件」である。先に引用した麻原の「予言」めいた言葉が、ロシアの政変と無関係であったとはまず考えられない。
注目すべきはこの92年の時点で麻原が、はっきりと「93年10月」という日付を口にしていたことだ。オウムはエリツィンの側近の一人である、安全保障会議書記のロボフに食い込むと同時に、最高会議サイドのリーダーであるハズブラートフ最高会議議長と、ルツコイ副大統領にも接触を試み、成功している。対立する二つのパワー・センターのどちらが勝利してもいいように、双方に食い込み、「保険」をかけると同時に、ロシアの政情について精度の高い情報を得ていたのだろう。
そしてオウムがこれだけ深く、ロシア権力の内懐に食い込むことが可能となったのは、早川の「活躍」を抜きにしてはあり得ない。「早川ノート」の中にも、93年10月のロシア政変に関する記述を見出すことができる。
<尊師→10月の訪ロ延期した方がよい
大ものと会うことができないし、何がおきるかわからない>この記述は、麻原がロシアへ渡航しようとしていたが、あまりに危険なため中断をすすめた、ということを物語っている。「政変」が起こることまではわかっていたが、それがまさかマシンガンと戦車によってもたらされるとまでは麻原も予測しなかったに違いない。
また、次のような記述も、93年10月のモスクワ騒乱事件に関してものだと思われる。
<武装かいじょ><電話、電気がとめられている><支持者約100人が国会前に***れるのみ><CiS会議OK…支持>
(註・*は判読不能箇所・以下同)ロシアという国では何でも起こりうる。革命でも内戦でもクーデターでも、そして革命後の大粛清という大量殺戮も――。
オウムでは固定観念を打破することを「観念くずし」と称していたが、麻原を含めてオウムの人間達は、ロシアと関わるうちに、自らの固定観念が崩壊する「観念くずし」の経験を味わったことだろう。
ロシアを舞台に、早川が馬力にまかせて押し進めていた武装化計画の中には、通常兵器の密造・密輸にとどまらず、BC兵器や核の開発をうかがわせるものがある。そのうちのひとつを引用しよう。
<<メンデレーフ科学研究所>
*学部長・・
(講義を受けたい。)
↓ 28日
((シュミノフと連絡)) マイトレーヤ正
- 製造法
- ・RDX
- ・HMX
- ・PETN
- ・TNT(DNT)
RDX、HMX、PETN、TNT(DNT)はすべて軍事用爆薬の記号である。RDX爆薬は、TNT爆薬の1・5倍の威力があり、TNTと混合して砲弾に充填して用いられるほか、誘導・非誘導のミサイルにも使用されうる。PETNもTNTと混合して爆薬として使用される、破壊力の大きい爆薬である。さらにいえば、HMXやTNTの用途は、通常兵器だけに限定されるのではない。核爆発の起爆剤の主成分としても、用いられるのだ。「ノート」の別のくだりには<TNT 10トン>という記述もある。大量のTNTを手に入れたあと、彼らは何に使おうと考えていたのだろうか。
また、このメモの中の「マイトレーヤ正」が、「マイトレーヤ正大師」こと上祐史浩のことを指しているのはほぼ間違いない。ロシアの科学研究所での、おそらくは化学兵器製造に関すると思われる「講義」という記述と、核兵器の起爆剤にも使用可能な爆薬の記述の間にはさまれて記された上祐の名前は、何を意味するのだろうか。これまで、教団の武装化についてはまったく関知していないと繰り返してきた上祐の発言に、大きな疑問がわく。
確認できる限りでは、麻原がサリンという言葉を一般信徒の前で口にしたのは、93年4月9日高知支部での説法会においてである。
「日本の再軍備は(中略)ABC兵器である。(中略)例えば、ちょっと古くなるけどサリン系のものとか、まあいろいろある」
この後、「オウムは毒ガス攻撃で被害を受けている」という説法が繰り返されていくのは周知の通りだが、麻原が「サリン」に言及したこの同じ4月に、オウムは、化学薬品購入のためのダミー会社を設立しており、「早川ノート」にも<××化学代表 ×××× 東神田×丁目×番×号 長谷川ケミカル(株) 新宿区新宿×丁目×××番×号 代表 長谷川茂之(24才)>と記されている(固有名詞・住所の記述は一部伏せる)。
さらに、この年に書かれた別の頁のメモには、以下のようなものもある。
<*NGを作るときのノズル 噴霧器が見たい→形と構造 寸法入りのもの>
<服 プレハブをつくる 新規をかう つちや 化学>
<NH3とH2SO4 HNO3 14日 工場見学理解できるまで 販売会社をつくるバックアップ>
すでに開かれた公判でも明らかになりつつあるように、オウム真理教は、93年の早い時期から化学兵器、細菌兵器の研究にとりかかっている。<プレハブをつくる><つちや><バックアップ>等の語からもわかるように、早川という男は、系統の異なる科学関係の毒ガス開発に関しても、具体的に関与していたことがうかがえる。麻原が信者を前にして語る言葉は、妄想にとりつかれた教祖の単なる戯言なのではない。その裏には、早川を含む幹部たちの、具体的な行動が存在するのだ。
ウランを採掘し、濃縮から核兵器までの一連の工業過程を自前で行なうことの困難に直面したのか、94年にはいると、「早川ノート」では核兵器の自主開発に関わる記述は格段に減る。そのかわりというわけだろうか、毒ガスや細菌兵器に関するメモが目立って増えていく。
オウムがサリンを製造したと決定づける決め手になったといわれる、次の記述を紹介しよう。
<目的、まほうプラント
第1 亜リン酸トリメチル
第2
メチルホスジメチル第3 ジクロ
第4 ジフロ
第5 サチャン>
現在では広く知られているとおり、<サチャン>とは、オウム真理教ないでサリンを呼ぶ際の隠語であり、<まほうプラント>は、その製造プラントを指す符牒である。また、第1から第4までは、サリン生成プロセスで生じる中間生成物質を示している。略記された第2から第4までが示しているのは、それぞれ「メチルホスホン酸ジメチル」「メチルホスホン酸ジクロライド」「メチルホスホン酸ジフロライド」であり、この五段階の生成過程は、捜査当局が化学プラントの工程を特定した結果と一致したとされている。ちなみに、もっとも早くこの頁の内容をスクープした『文藝春秋』6月号の「白河レポート」では、第1が「トリメチル」、第2が「チメチン」、第5が「サッチャン」とされているが、これは取材過程で生じたミスであろうと思われる。
その他、「早川ノート」の94年分の記述には、<(1)検査器 神経ガス((A)Sarin(B)Soman(C)tabun(D)VX)(2)検査紙 (3)マスク (4)服 (5)除染液 (6)除染器>と毒ガス防御のために必要なものがリストアップされ、さらに別の頁では、次のように、それぞれについての特記事項が詳しく記されている。
<分析機器 調合用…2、
1、検査器 神経 ガスSarin、Soman、Tabun、VXに反応するもの。単なるアラームではなく、濃度がわかるものがのぞましい。できれば2台
2、検査紙 上記のガスの反応する紙。ガスがあると色が変わる。
3、マスク 生物、化学両方に使えるもの。これと附属して交換用の活性炭 4つ ひげがあってもつかえるやつ
3−1、マスクと顔面の密着度をチェックするチェッカー(リークチェッカーと呼ばれる)
4、防護服(L)選択しても防護能(ママ)が落ちないもの(繊維状活性炭では、たかだか数回の洗たくにしか耐えない)→西側では1社の製品を除き、洗たくによって能力が落ちる。 2 2 球状活性炭を使っている服サラトガ(数十回洗OK)
5、除染液 ガスが付着した体や衣服からガスを除く液、人体用と衣服に使用するものどちらも 50kg
6、除染器 除染液をふきかけるポンプ 4人分 携たい可のもの 室の除染器1つ高圧の除染液をふきかけても毛穴からガスを侵入させないためのノウハウ>
三番目の「マスク」という項目にある「ひげがあってもつかえるやつ」とは、麻原の使用を念頭においての記述であろう。
興味深いのは、同様の毒ガスの防御について書かれた頁の記述である。
<教祖がねらわれている
○防毒マスク 1こ 5万円
○毒ガス検ちき 1こ
○毒ガス検地(ママ)試験紙
○防毒スーツ
○中除洗(ママ)用のせんざい>
これはどう読んでも、麻原が毒ガスで狙われているので、一人分の防毒マスクと、ガス検知器その他の装備を緊急に購入しようとしたときの記述としか読みとれない。これはどう解釈したらいいのか。外部の勢力から毒ガスを噴霧されたという、麻原のでたらめな主張を、早川が信じていた、ということなのか。まさか――。
早川がこうしたメモを書きつけていた同じ94年の3月11日、仙台支部で行った説法で、麻原は、日本の国家権力が自分およびオウム真理教に対して弾圧を加えるため、毒ガス攻撃をかけている、と主張している。
「内閣調査室と呼ばれる、この日本を闇からコントロールしている組織や、あるいはそれと連動する国家公安委員会、警察の公安等が、いままでオウム真理教に対してどのような弾圧をなしてきたか(中略)話をしたいと思う」
「わたしの目が失明に向かい、そして病にかかりだしたのは89年の初めからである。(中略)神経ガス、あるいは精神錯乱剤と呼ばれるものがオウム真理教に対して(中略)噴霧され続けてきたことは間違いない事実である」
「もともとわたしは修行者である。したがってじっと耐え、いままでこのような国家に対する対決の姿勢を示したことはない。しかし、示さなければわたしとわたしの弟子たちは滅んでしまう」
オウムの武装計画の実行リーダーであった早川という人物をめぐる報道の中には、さまざまな憶測が散見される。
「早川は麻原から精神的に独立した人物であり、彼と彼の部下はオウム本体とは別に、独自の分派活動を行っていた」とか、「早川はオウムという組織を利用しつつ、早川個人の個人的利益を追求していた」等々――。
「早川は宣伝チラシを折っているとき、その仕事を一緒に手伝っていた麻原の折り方が悪いと言って叱りつけていた」などという元信者の目撃談も報じられた。
だが、早川は麻原から精神的に独立していた――つまりは「洗脳」から免れていた――唯一の人物だったという評価は、本当に正しいのだろうか。「早川ノート」を読み込んでいくと、そうした「評価」が次第に揺らぎ、かなり怪しいものであると思われてくる。
「ノート」から、例の<’95 11月→戦争>という言葉が書きつけられている頁を、全文引用しよう。
<遊びの救済は終った
自分の能力を検討すべき
サマナのむだず(ママ)かいをするな!!
トップの者のエゴによりサマナが使われている。
ユダヤ世界せいは**まもなく
経済学
最高の科学者→優秀な兵器
数あつめ
平和→怒りの行相(ママ)にフォームをかえる
(調和を**)
’95 11月→戦争
<サリン・イペリット・マイク口波・マスコミこうせい>**わかっていることである
尊師にとって 敗ぼくは→死である
仏教をささえて*るは*ヨーガ
仏教のめつぼうはヨーガのめつぼうを意味する
重力から解放されるテクニックを使いはじめている
尊師のエネルギーが強くなっている>
有名になってしまったもうひとつの語句<もう戦うしかない>が記されている頁も、全文引用する。
<生まれてから死ぬまでは、ほぼ決定されている→バルドーが投影されている
過去生から今生へ*******
**以外の高いデータを入れられるかどうか
尊師の解脱――自分の意志
解脱
カルマからの自由
カルマの解放*************
もう戦うしかない
救済には四**
ヒナヤーナ
マハーヤーナ
タントラヤーナ
ヴァジラヤーナ
一読して明らかであろう。これらは実務メモではない。麻原の語った言葉を聞き取ったものか、さもなくば麻原の言葉をいったん自分の中に取り込んで消化し、自分の覚書きとして書きつけたものであろう。
ここには「重力から解放されるテクニック」といった超能力じみた表現や、「ユダヤの世界制覇」といった陰謀論的要素、そして「仏教の滅亡はヨーガの滅亡」「生まれてから死ぬまでは、ほぼ決定されている」「解脱、カルマからの自由」など、神秘主義的な宗教思想の破片のごとき言葉が、ランダムに書きつらねられている。そうした言葉に混じって、<’95 11月→戦争>や<もう戦うしかない>というフレーズが書きつけられているのだ。ここには、早川紀代秀という人物が何者であるかをうかがい知る手がかりが、無防備に投げ出されているように思われる。
オウムの出家者たちの大半が、いわゆる「オカルトおたく」であったことはよく知られている。出家する前の上祐史浩の自宅に遊びにいった友人の話によると、彼の部屋にはオカルト雑誌『ムー』が、創刊号から全巻そろえられて書棚に並べられていたという。いかにも「新世代」然とした上祐が「オカルトおたく」であったと聞いても、誰もさして驚きを覚えないだろうが、実は「旧世代」のイメージの濃い早川もまた、似たような「オカルトおたく」的要素を抱えもつ人物であった。
オウムの機関紙『マハーヤーナ』89年3月号に掲載された手記によると、入信前の早川は、TM瞑想やシルバー・マインド・コントロール、仙道に関心を抱いて実践するほか、超能力やハルマゲドンを扱ったSF小説をむさぼり読んでいたという。
「ノストラダムスとか、ピラミッド・パワーとか、何か不思議なものに対してね、特に、ハルマゲドンに関しては、『絶対このままでは起こるん違うかなあ』いうような気持ちがあったから、通常の仕事に頑張りたいと思うものの、『仕事だけやっててほんとにいいんかな』っていう気持ちが心のどっかにいつもあったわけね」
4月19日深夜、強制捜査以降、はじめて姿を現した早川は、富士山総本部から中継を通じてTBSの「ニュース23」に生出演し、その直後に逮捕された。同番組のキャスターの筑紫哲也氏は、ハヤカワへのインタビュー後、「今までオウムといえば、幼い印象の人物ばかりでしたが、はじめて本当の『大人』の人物を見た気がしますね」とコメントしていた。
早川はたしかに「大人」びて映る。実際、社会経験もあり、世智に長けてもいた。教団内の若い信者からは「オヤジ」と呼ばれ、慕われていたといわれている。しかし、考えてみれば、「オヤジ的」な人物は「オカルトおたく」ではありえないと決めつけることには、何の根拠もない。すれっからしの「オヤジ」と無邪気な「オカルトおたく」という、表面的には矛盾して見える要素は、早川という人間の内部では共存していたのである。再び『マハーヤーナ』の手記から引用する――。
「世の中、今絶対ということはもうないといわれていますよね。現世におる人は、真理っていうのをわかってないでしょ。そういう人がすっごいかわいそうになってきたんですね。
ところが、今の自分には、とにかく絶対的なものがある。それはグルであり、真理であるわけでしょう。そういうものを持ってるというのは、すっごい幸せやなあと、そう思ってきて、ガーッと涙が出てきそうな感情に襲われてきたんですね」
私はここで、世代論でオウムを論じることや、外的なイメージで人を判断することの愚をあげつらいたいのではない。
重要なことは、こういうことだ。
早川は、他のオウム信者たちと同様に、麻原の妄想に冒され、呑み込まれていた。表層的なふるまいや印象は別として、精神の核の部分は間違いなく、「オウム的」な人物、つまりはこのニッポンのサブカルチャーにどっぷりつかって培養された、本質的には「無邪気」な「ロマンチスト」だったのだ。
「11月戦争」計画の実態も、それを力づくで実現しようとしてきた早川という男の像も、不完全ながらほぼ、みえてきたように思う。では、この計画を、私たちはどのような性格のものであると定義すべきだろうか。革命か?クーデターか?それとも内乱だおるか?
オウムの計画の定義づけが厳密に行なわれたことは、実は今までにほとんどない。各メディアも、メディアに登場してきたさまざまな分野の有識者たちも、「革命」と「クーデター」と「内乱」とをそれぞれ峻別することなく、曖昧に混同して用いている。しかし、これらは本来、まったく別のものである。国家転覆や既存の体勢の妥当、権力の簒奪を目的としている点では似通っていても、その手段とプロセス、そして権力掌握後の行動はまったく違ってくるのだ。オウムの計画は、定義すれば何に該当するのか、ここで考えてみたい。
まず、フランス語で「国家への一撃」を意味する「クーデター」。これは国家の統治形態そのものの変革を、目的とはしない。担い手は主として国家内部のインサイダー、特に軍人であることが多い。政治権力の中枢にいる人物を狙って、拘束ないしは殺害し、最小限の実力行使で権力を掌握する。国家の統治機構である行政官僚機構や治安機関に対しては、抵抗があった場合に粉砕するだけにとどめて、不必要に多くのダメージを与えることは避ける。権力奪取後、その機構の上に立って、これを国民統治に利用していくからである。
すなわち、クーデターは、現在の体勢を「悪」とみなして否定するのではなく、その体勢の上に君臨する政治指導部のみを「悪」と判断する武装蜂起なのである。5・15事件や2・26事件は、まさにクーデターに該当する。オウムの「11月戦争」計画は、政治家だけではなく、官僚全員を標的とし、日本の中枢を完全に消滅することを最初から目的としており、現体制の統治機構の温存と利用をまったく考えていない。そういう意味で、これはクーデターではない。
クーデターではないなら、「革命」だろうか。
結論からいえば、これも当てはまらない。革命は、体制そのものの急進的な変革を目的とし、そのための理念をあらかじめ掲げて、大衆の支持を募り、これを動員する。フランス革命は絶対主義王制を打倒して共和制の実現を目的として行われたのであり、ロシア革命は、皇帝の支配を打ち破って急進的に社会主義体制の実現をはかるものだった。
しかし、オウムは、実現すべき社会理念を何も示していない。彼らは、体制変革を正当化するための思想や理念を、いちども公にしたことはないのだ。当然のことながら、彼らのプログラムは、大衆の支持も賛同も得ていない。得るつもりがはじめからなかった、といってもいい。サリンの不意撃ちをくらわせ、国家の中枢を破壊し、国民の大半を殺戮したあとで、野ざらしの死体だらけの荒野に立って、神聖オウム帝国の樹立を宣言するという彼らの妄想(プラン)の実行は、したがって革命などでは断じてない。
消去法で残るのは「内乱」である。適切であるかどうかはやや疑いも残るが、オウムのもくろみは、ひとまずこの「内乱」というくくりの中で理解するのが妥当である、といえるだろう。では、原稿の実定法では「内乱」はどう規定されているのか、みてみよう。
『大コメンタール刑法第4巻』(青林書院)の頁をめくると、「内乱罪」の成立要件について、こう書かれてある。
まずその「目的」である。
「日本国憲法にもとづく国家の政治的基本組織すなわち国家の基本統治組織を、不法に変革破壊する目的を持つこと」、そして「暴動行為によって、直接に統治組織を変革することを企図したものでなくてはならない」。
化学兵器や細菌兵器の製造、火器の密輸・密造など、オウムの一連の武装計画は、「暴動行為」によって「国家の基本的統治組織を不法に破壊する目的」を持っていたことは間違いない。
「手段」はどうか。この点については「その目的実現のための手段として暴動をすること。暴動の人的規模は、この目的を実現する可能性を持つ人的規模であることが必要」とされている。
こうした「内乱罪」の規定に、オウムの犯行は該当するだろうか。答えは「否」である。松本サリン事件は、教団の土地売買をめぐる民事の裁判を延期させるため、裁判官の殺害を狙ってひき起こされたもので、国家体制の転覆を企図したとまではいえない。また地下鉄サリン事件も、警察の強制捜査の情報を事前に入手したオウムが、その捜査妨害のために行なった苦し紛れのテロにすぎず、政府転覆が可能なほどの「人的規模」があったともいえないので、刑法上の「内乱罪」は、この二つのテロ事件では成立しないだろう。
「内乱罪」が成立しないならば、では「内乱予備罪」はどうだろうか。
刑法の第七十八条には「内乱の予備又は陰謀を為したる者は一年以上十年以下の禁錮に処す」とある。「予備」とは、内乱を計画し、その実行を準備すること、例えば武器、弾薬、糧食を調達し、同志を募るなどの行為を意味している。
オウムの武装計画がこれに相当することは、疑いようがない。つまり、内乱予備罪は成立しうるのだ。ただし、検察が起訴すれば、の話である。
不可解きわまりないのは、今のところ検察内部にオウムを「内乱予備罪」で起訴しようとする動きがほとんど見られないことである。
実は、地下鉄サリン事件直後の4月から5月はじめにかけての時期には、吉永検事総長以下の最高検首脳は、「内乱罪」あるいは「内乱予備罪」の適用を真剣に検討していたといわれている。また、この時期には、テレビの討論番組に出演するなどして、オウムのプロパガンダに一役買った在家信者の東大助手S・S氏の自宅(東大三鷹寮内の自室)から、神聖オウム帝国の憲法草案に相当する「真理国基本律」の草案が書き込まれたフロッピーディスクが、捜査当局によって押収されている。憲法草案を練っていたということは、当然のことながら、軍事行動のあとに新国家の樹立をもくろんでいたことを意味する。すなわち、押収されたこのフロッピーディスクは、「内乱予備罪」の構成要件を満たす確かな証拠なのである。
こうした証拠があるにもかかわらず、なぜかその後、この話は立ち消えになってしまった。もれ伝わる消息によれば、ある検察の首脳はオフレコで、その事情をこう語ったという。「オウムの連中は『内乱予備罪』などという『高尚』な、『名誉ある罪』で裁かれるべきではない。ただの卑劣な人殺し集団にふさわしい罪で裁かれるべきだ」。
たしかにオウムが『人殺し集団』であることは事実である。しかし、単なる「人殺し」ではない。日本国民のジェノサイドを、本気で計画し、実行しようとしていたのである。そうした認識や危機感が、この検察首脳の発言には決定的に欠落してしまっている。
ある法律専門家は、検察が「内乱予備罪」で起訴しない「本当の理由」を推測して、私にこう説明してくれた。
「内乱予備罪が成立するかどうかについては、計画の実行に着手しようと思えばいつでも実行可能な程度の準備が整えられていることが、必要になるのです。そうなると、サリンが70トンで来ていて、ヘリが稼動可能であり、1,000丁のカラシニコフが現実に存在すれば、予備罪が成立することは間違いありません。
しかし、現実に存在する武器が、地下鉄サリン事件で使われた30キログラム程度のサリンと、火器は銃が二丁程度しかないとなれば、『実行に着手しうる程度の準備』といえるかどうかは微妙なところでしょう。日本の検察は、いったん起訴に踏み切ったらほとんど有罪に持ち込んできた。その確率の高さを誇ってきたんです。『内乱予備罪』で仮に起訴して有罪にも持ち込めなかった場合、沽券に関わると思い、慎重になっているのかもしれません」
おかしな話である。有罪になるかならないかは、法廷で争われるべきことだ。法技術上の問題で、結果として有罪判決が出なかったとしても、その真理の過程で、膨大な証拠や供述が法廷にもち出されれば、オウムの計画の輪郭がはっきりとみえてくるだろう。私たちの求めているのは、裁判によってオウムに罰を与えることではなく、何よりも「情報公開」なのである。
断っておくが、「殺人罪」その他に加えて、「内乱予備罪」を加えてオウムの容疑者・被告の科刑を重くしろ、と私は主張しているのではない。「内乱予備罪」の罰則は、「一年以上十年以下の禁固」である。殺人罪などと比べると、はるかに軽いものだ。復讐主義的な観点から、私はこれを主張しているのではない。子のままだとオウムのひき起こした一連の事件の全体像が明らかにされることなく終わってしまう、そのことを懸念しているのである。
強制捜査権があるわけでもないジャーナリストの独自調査には、自ずと限界がある。しかも10万点を超えるという膨大な証拠がすでに押収され、計画に関わった容疑者の大半が拘束されてしまっている現在、我々がオウムの計画の核心部分にアプローチする手だてはほとんど残されていないといっていい。個人的リスクを冒して「早川ノート」のようなマテリアルを「抜く」取材には、やはり限界がある(実際、先月号の前編発表後、某公安捜査官から「ガサ入れしてやる」等々、さんざん脅されたものだ)。「内乱予備罪」によって起訴されない限り、オウムの起こした犯罪計画の全容と目的・動機は、決して明らかになることはまずない。「11月戦争」から「ハルマゲドン」にいたるまでのオウムの構想が明らかにされることなく、麻原やオウム幹部が「殺人罪」によって極刑に処されてしまったとしたら、国民の中に司法当局に対する大きな不信感を呼び起こすことになるのは避けられない。
重ねて主張するが、オウムは「内乱予備罪」で裁かれるべきである。
オウムとは何であったのか、彼らのくわだてていた計画はどのようなものであり、何を目的としていて、どんな外部勢力がそこに関与していたのか、その全容をついに知ることなく終わってしまい、何の教訓をも引き出すことなく幕引きされる灰色のエンディング。それだけは、決して受け入れることはできない。