校長室より 平成23年度 of 横浜国際高校

校長室より 平成23年度

2月

オーストラリア姉妹校交流



 本校の前身校のひとつである外語高校は、今から47年前に誕生しました。外国語教育に力をいれていた学校の特色から海外に憧れを抱いた生徒達が多く入学してきましたが、当時の高校生にとって海外に行くことは夢のまた夢といった時代でした。それでも教員達は、生徒達に何とか海外の体験をさせたいと、修学旅行の際に神戸まで東海道で下り、神戸港から南米航路の船に乗り込み、横浜港まで乗船して国際感覚を磨いたり(船は、横浜港からブラジルに向かう)、芦ノ湖のバンガローと中学校の空き教室を使わせてもらって英語合宿(English Camp)を実施したりと、疑似海外体験をさせるためのアイディアをひねり出しました。
 それから30年余りが経過し、県立高校生にも海外渡航のチャンスが訪れました。神奈川県とアメリカのメリーランド州が友好県州の提携を結び、その関係で双方の高校生同士が交流を目指そうということになりました。外語高校は、メリーランド州のウォーカーズビル高校と姉妹校交流が始まりました。しかし、2年に1回の交流では渡米できる生徒の数は高が知れ、「海外交流を目指して外語高校に入ったのに、なぜ姉妹校交流に行けないのですか」といった生徒・保護者の声が日毎に高まりました。ちょうどその時、外語高校で国際交流の仕事をしていた私に、留学や姉妹校交流の仕事をするある交流団体からオーストラリアの高校交流の話がありました。当時の山本明徳校長と細部を調整し、夏季休業中に渡豪する計画を発表しました。予想通り大人気となり、希望者は77人になりました。ところが、私はここで大きな失敗をしてしまいました。「希望者が多いときは抽選等の選抜を行う」という一言を言い忘れたために、77人の生徒達は全員オーストラリアに行けるものと思い込んでしまいました。
 生徒達に「77人はちょっと無理だよな・・・」と私が口を滑らしたところ、保護者から「先生、うちの子は絶対にオーストラリアに行けますよね」「子どもが楽しみにしています」といった電話がかかってきました。「直接お目にかかりたい」という保護者もおりました。今更「抽選にします」とは口が裂けても言えない状況になってきました。交流団体と何回も話し合い、当初予定した学校以外にさらに3校が加わり、77人全員がオーストラリアに行けることになりました。引率教員は全部で9名、教科に関係なく職員一人ひとりに声をかけ必死で引率をお願いしたことを思い出します。

 記念すべき第1回のオーストラリア姉妹校交流は、Bethel Christian School、Servite College 、Swan Christian College 、Narrogin Senior High School、Lilydale Adventist Academy の5校でスタートしました。1999年のことです。
 私は、Bethel Christian Schoolのグループを引率しましたが、帰る時に当時のロビンソン校長が、「この手紙を山本校長に渡して欲しい。もう2度と来ないでくれという手紙だから」と笑いながら私にその手紙を手渡しました。来ないでくれはもちろん冗談で、生徒達のプレゼンテーションがBethel Christian Schoolの生徒達に良い影響を与えてくれるので来年も是非来て欲しい、というのが手紙の主旨でした。 
 私が第1回、第2回と連続で引率したBethel Christian Schoolとは、その後もずっと交流が続きました。2008年に、私は9年ぶりにBethel Christian Schoolを訪問し、現在のバトラー校長と姉妹校の調印を行い、横浜国際高校とBethel Christian Schoolは正式な姉妹校となりました。今年の夏は14回目の訪問団をBethel Christian Schoolに送ることになります。

 言葉は、話す人達の文化・歴史・習慣・風俗・自然と表裏一体です。お互い先進国でありながらその地理的環境、歴史、国民性などにより、日本とオーストラリアは違いがあります。また、Bethel Christian Schoolはじめ、毎年訪問するPerthの学校は私立のChristian Schoolですから、公立高校とは異なる面があります。しかし、お互いの違いを理解し、自ら寄って立つところを見直すことが「国際理解教育」であるならば、こんなに素晴らしい交流はないと私は考えます。
 下記は今まで本校と前身の外語高校が積み重ねてきオーストラリア姉妹校交流の実績です。

  • ◆ ベセル クリスチャン スクール他
    • 第1回  1999年7月31日~8月10日 参加生徒数77名
    • 第2回  2000年7月29日~8月12日 参加生徒数40名
    • 第3回  2001年8月1日~13日   参加生徒数38名
    • 第4回  2002年7月28日~8月9日  参加生徒数38名
    • 第5回  2003年7月30日~8月11日 参加生徒数40名
    • 第6回  2004年7月28日~8月9日  参加生徒数38名
    • 第7回  2005年7月29日~8月8日  参加生徒数38名
    • 第8回  2006年7月26日~8月7日  参加生徒数38名
    • 第9回  2007年7月25日~8月6日  参加生徒数79名
    • 第10回  2008年7月24日~8月5日  参加生徒数38名
    • 第11回  2010年3月18日~29日   参加生徒数29名
    • 第12回  2010年7月26日~8月7日  参加生徒人数31名
    • 第13回  2011年7月27日~8月8日  参加生徒人数31名  のべ555名

 現在横浜国際高校は、オーストラリア、フランス、ドイツ、中国、スペイン、韓国の学校と交流をおこなっています。本校は英語の他に6つの外国語を選択科目においていますが、アラビア語圏の姉妹校ができれば、6つの外国語を使うそれぞれの国に姉妹校を持つことになります。今年は是非アラビア語圏の高校と交流をしたいものです。

バドラー校長と

調印式を終えて(2008年8月)

集合写真

1999年のBethelグループ




1月

明けましておめでとうございます。



 平成24年辰年がスタートした。昨年の暮れは家人に数年間塗装していないウッドデッキのペンキ塗りを厳命され、寒風吹き荒ぶ中、南極越冬隊員といい勝負ができそうな出で立ちで卯年から辰年にかけてペンキの刷毛を握りしめた。新年早々にペンキの刷毛を握りしめた校長がいったい日本に何人いるのだろうか? おかげで今年の冬の読書は散々だった(実はあまり本を読めなかったという言い訳です)。
 その乏しい読書の中で、今年は『散るぞ悲しきー硫黄島総指揮官・栗林忠道ー』(梯 久美子 新潮社)を紐解くことができた。私の好きなバロン西こと西 竹一(にし たけいち)大佐もこの硫黄島で戦ったことから、栗林忠道(くりばやし ただみち)の名前は以前から知っていたが、『散るぞ悲しき』で初めて彼の詳細に触れることができた。この本は、中身はもちろんだが、巻末の柳田邦男氏の解説も良い。「いい本は、2度読むと、はじめて読んだ時より感動する場面や文章表現がぐんと増え、3度読むと感動がいちだんと深くなってくる。私は、よくそう思う。」読書百遍義自ら見るという意味か。
 『散るぞ悲しき』は、戦史としての見方、栗林忠道の人となりを知る見方など色々な読み方があるが、私は極限の中、組織をどう動かしたのかを学べる好著と思っている。「結論に行き着くや具体的な計画を立て、万難を排してただちに実行に移すという迅速さ」「観察するに細心で、実行するに大胆」「定石や先例を鵜呑みにせず、現場に立って自分の目で確かめる」等、栗林の考え方に学ぶことは多い。

 本題からははずれる話だが、陸軍中将だった栗林は、硫黄島守備の功績により戦地での死後大将に叙せられた。しかし残された家族の生活は、厳しい現実に立ち向かわざるをえなかった。栗林の妻は戦後、干したイカを仕入れて露天で売ったり、保険の外交員、紡績会社の寮母をしながら子ども達を大学に通わせたそうだ。それでも硫黄島で亡くなった将兵の家族がお金を借りに来ると「今、このくらいしかないのですが・・・」と謝りながら、できる限りの金額を渡したそうである。

 さて、図書委員会が発行する会報『礼(らい)ぶらり』で、図書委員の生徒達が同世代に読んで欲しい本の紹介と書評を掲載した。題名や著者を次に記すが、今時の高校生の好みがわかり、興味ある内容である。

  • ・『りかさん』 梨木香歩  新潮文庫
  • ・『小説 聖書』 Walter Wargerin 中村明子訳  徳間書店
  • ・『テンペスト 上 若夏の巻』 『テンペスト 下 花風の巻』 池上永一  角川書店
  • ・『その英語 ネイティブにはこう聞こえます』 David A. Thayne  小池信孝 主婦の友社
  • ・『夢のアンソロジー』 スティーヴン・ブルック編 誠信書房
  • ・『桃色トワイライト』 三浦しをん 太田出版
  • ・『悪ノ娘 黄のクロアテュール』  悪ノP〈mothy(モッチー)〉 PHP研究所
  • ・『サヨナライツカ』 辻仁成  幻冬舎文庫
  • ・『地球の食卓』 ピーター・メンツェル  フェイス・ダルージオ  TOTO出版
  • ・『モリー先生との火曜日』 ミッチ・アルボム  別宮貞徳訳 NHK出版




12月

智樹ありがとう



「最長寿ギネス犬、プースケ大往生 ―26歳8か月― 」
 新聞を読んでいたらこんな見出しが目に入った。プースケは栃木県さくら市に住まいがある篠原さんの飼い犬で、生存する世界最長寿の犬としてギネス世界記録に認定されていたそうだ。

 実は・・・先月末、我が家の飼い犬「智樹」は心臓病で息を引き取った。享年10歳4か月。詳細は不明だが、飼い主が飼育を放棄して、身寄りのない犬の縁を結ぶボランティア団体の手によって3歳の時に我が家にやってきた。
 散歩の時に、小学校高学年くらいの女の子と母親のペアを見つけると、リードをグイグイ引っ張ってその方向へ行こうとする。これは想像だが、元の飼い主の家族構成が忘れられなかったのかもしれない。飼い主が最後まで責任を取らないと犬はかわいそうなことになる。
 ようやく我が家にも慣れた頃、白内障が見つかった。目に詳しいといわれる動物病院で診てもらったが、病気の進行を止めることはできなかった。その時はまだ4歳、犬にとっては充実した壮年期だが、日ごとに両目が白濁していった。

 当時我が家は駅のそばのマンションに住んでいた。ペット飼育が認められ、住人も良い人ばかりであったが、駅に近いということは目が見えない犬にとって最適な住環境とは言えなかった。周辺に公園もなく、交通量の多い道路を不自由な目で散歩させるにはあまりにも可哀想である。陽当たりも良く便利なマンションだが、売却して引っ越すことにした。引っ越し先の条件は一つだけ、家の近所に公園があること。最初の家族から飼育を放棄され、今度は目が不自由になった犬にしてあげられることは、見えなくとも思い切り遊べる公園だと考えたからだ。
 条件の家はほどなく見つかった。通勤には不便だがそれは我慢した。問題はマンションの売却だった。バブルはとうにはじけ、買った時の価格では買い手がつかなかった。一方で公園のそばの家は値段が高かった。売却と購入の差は貯金を取り崩し、さらに足りないところは住宅ローンを組むことにした。多少は悩んだが、「智樹」が人間の子どもだったら、いくらかかっても親は治療費を払うだろう。目の治療費と考えて決断した。「智樹」は家族だったからだ。 
 公園ではたくさんの友達ができた。喧嘩を好まず、飼い主が教えたわけではないが、他犬と出会うとお座りをして尻尾をフリフリする。そんな友好的な犬だった。一度も吠え声を聞いたことがなく、トイレは外派で、ご飯よりも散歩が大好きだった。雨の日も、風の日も、雪の日も、台風の時も、一日3回私達は「智樹」の散歩=トイレに付き合った。この面では頑固な犬だった。

 それなのに・・・今年の10月初旬から食欲がなくなり、僧帽弁閉鎖不全症(そうぼうべんへいさふぜんしょう)から肺水腫を併発し、次第に痩せてきた。6年間、家の中でトイレを一度も失敗したことがなかった犬がおむつをするようになった。おむつの中に排泄してしまうと「あれ変だな?」という顔をして、見えない目で私を見上げた。自分の体を自分でコントロールできないことが不思議だったようだ。死ぬまでの数日間、ヨレヨレになりながらも、「智樹」らしく最後まで頑固な一面を貫き通した。トイレのために外に出ようとしたが、体はついていけず何度も貧血をおこし、外で排泄した途端、その場で失神したこともある。生きるということはかっこ良いものではない。生きるとは、愚直で、真剣で、泥臭いことなのだと犬から学んだ。

 篠原さんは、「26年一緒にいて、自分の子どもみたいな存在だった。今まで生きてくれてありがとう」と話していたそうだ。私も「智樹」にこんな言葉を贈りたい。「一生懸命生きてくれてありがとう。もうしばらく虹の橋で待っていて欲しい。」犬は、天国に行く途中、虹の橋と呼ばれるところで飼い主がやってくるのを待つそうだ。私がそこに行くのは多分もう少し先のことだろう。
 それでは、「智樹」が若く元気だったころの笑顔とともに笑門来福。良いお年をお迎えください。


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在りし日の智樹




11月

SUN-MAID NATURAL CALIFORNIA RAISINS 続き



 9月の校長室で、SUN-MAID NATURAL CALIFORNIA RAISINSにまつわる話を書きました。それを英文に認め、SUN-MAID社へ送ったところ、驚いたことにDirector of International Salesの方から丁寧なお返事を戴きました。それを読んでさらに驚いたのは、その方が日本人だったことです(お名前は伏せてあります)。日本人が海外の会社で働くことは珍しくないことですが、Directorという重責を担って世界を相手に営業活動をされている方ともなるとそう多くはいないでしょう。
 YIS生も将来はこの方のように世界を舞台に活躍してほしいものです。何と言っても本校のモットーは SOAR TO THE WORLD です。私は皆さんに期待しています。
 先日のことです。出張から帰ると校長室のノブに紙袋がぶら下がっておりました。中から短いメッセージと共に、SUN-MAID NATURAL CALIFORNIA RAISINSの赤い箱が見えました。2年生のある生徒からのプレゼントです。日頃生徒達とはふれあう機会の少ない校長職ですが、このHPの「校長室より」を読んでくれていることを知りうれしくなりました。

【私がSUN-MAID社に送った文】
 I ran into “someone” who I really miss at a supermarket in California. A girl holding grapes with a smile. It has been over 50 years since the first time we met.
 The story dates back to my childhood. In those days, snacks for our family were Karinto (deep-fat fried and sweetened), Senbei (Japanese cracker), Konpeito (small ball-shaped candy with horn-like prongs on the surface made from sugar and flavored liquids), all Japanese traditional snacks were written in Kanji (Chinese characters). Under such circumstances, for some reason, raisins from California arrived to our home once a year. It is now difficult to know the whole truth, but my grandfather’s friend has moved to California to run a plantation, it might have been sent from him. At that time it was very rare to have imports received by the Hanyuda’s family. On the Chabudai (traditional low dining table) there was a vivid red box with a girl holding grapes with a smile. Foreign-made taste and sweet smell spread throughout the mouth made me feel like being in this world’s heaven. Since then raisins became my favorite. The name of the red box is “SUN-MAID NATURAL CALIFORNIA RAISINS”. I was able to meet her again.
 50 years ago Japan was a modest country. The average starting pay of college graduates in 1961 was about ¥16,000 (now it is about ¥200,000). The rate of exchange was 360 yen to the dollar. It was necessary to pay ¥360 to purchase a $1.00 product at that age. Now it is less than ¥80. The value between dollar and yen has changed dramatically since 1961.
 There is a novelist who wrote about exporting Japanese thermometers. Of course those were not the digital ones, but the rod-shaped glass thermometer with mercury inside. When those thermometers were imported by America, the first thing which took place by the importer was to cut off the “MADE IN JAPAN” sign from the product. The novelist says that it was the end justifying the means because Japanese products were said “What costs little is usually valued little” and the sales went down when people recognize that the products were made in Japan.
When Japan started to export cars to America, they raced at highway speeds against Germany which already had an experience exporting cars, to check the efficiency. Cars were speed tested and just when I thought things were pretty good, the hood opened because of the pressure of wind and the driver couldn’t see ahead. The video made me burst into the laughter, but that was how the car industry started in Japan. Nowadays young generations can hardly believe this fact.
 It is an undeniable fact that the recent 50 years has brought a large revolution to Japan. I myself and surroundings have changed a lot. For all that, getting the red box after 50 years’ absence which hasn’t changed at all (the color, the design, the smile of the girl) made me think earnestly about my half a century. Taking a break is sometimes nice.

【SUN-MAID社からの返事】
Dear Mr. Hanyuda:
We appreciate you taking the time to write to us about your memories of Sun-Maid and what our product means to you.
I, myself was born in Japan in the early 1970s and raised in Tokyo during the modernization era. My parents have always told me how life in Japan was difficult especially during and immediately after the war in the 1940s. Yet, they fondly remember the little treats that the American soldiers handed out to them.
We are touched by your wonderful story and hope you will continue to enjoy our raisins for years to come.
Kind regards,

Director of International Sales
Sun-Maid Growers of California
13525 South Bethel Avenue
Kingsburg, CA 93631-9232 USA
Web: www.sunmaid.com





10月

プリンセングラハト263番地



 プリンセングラハト263番地と聞いて、ピンと来る人は、ヨーロッパ現代史に相当精通している人であると私は思います。それは、第二次世界大戦中、『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクとその家族が住んでいた隠れ家の住所であるからです。当時の隠れ家は、現在アンネ・フランク財団が管理する博物館になっており、誰でも見学ができます。
 私は、若い頃KLMオランダ航空のマイレージ会員であることを利用して、ヨーロッパに行く時はできるだけオランダのアムステルダムに一泊し、アンネ・フランクの隠れ家であった博物館に行くことにしていました。泊まる所はオランダ東インド会社の倉庫を改装した小さなホテルと決めており、そこからアムス駅と反対方向にしばらく歩いて右に曲がり、運河を3つ渡って、左に折れるとすぐにプリンセングラハト263番地にたどり着きます。5回も通っていますので道順はしっかり頭に入っています。初めてオランダに行った時は、アンネの隠れ家から直接入場できましたが、現在は財団が所有する隣の建物(博物館)から入場することになっています(私が最後に行ったのは7年前ですから、入場方法は変わっているかも知れません)。
 私が『アンネの日記』を初めて読んだのは中学生の時です。その頃は、隠れ家には沢山の食料をしまっていたのかな?といった程度の印象でしたが、ヨーロッパ史の勉強から、『アンネの日記』を再読した時、実はアンネの隠れ家は父親のかつての職場の屋根裏部屋で、家族達は支援者によって支えられていたことが分かりました。ナチスの政策により、強制収容所に送られて命を奪われるユダヤ人を救うということは命がけの行動です。アンネら8人の生活を2年余りにわたって支え続け、彼らが連行された後は、床に散らばっていたアンネの日記を拾い集め、戦後彼女の父親が戻るまでその日記を保管をしておいたミープ・ヒースという女性も勇気ある支援者の一人でした。その他に、ペップ・フォスカュル、フィクトル・クグラー、ヨハンネス・クライマンといった人たちの支援がありました。

 私が何度もプリンセングラハト263番地に通ったのは、(1)一歩も外に出られないといった極限の中で、波風はあったにせよ8人が希望を失わずに頑張ったこと。(2)自らの命を省みず、ユダヤ人を救おうと勇気を持って立ち上がった人たちがいたこと。(3)ナチズムに立ち向かったのは、一人ひとりの市井の人たちであったこと。(4)13歳の少女がキティと名付けた日記帳にすべてを語り、2年後に無念の思いでこの世を去ったこと。そういった世界史の現場に立ちたいという素朴な気持ちからです。

 現在のEUを語るには、カール大帝の時代まで遡るには少々古すぎるかも知れませんが、少なくとも第一次世界大戦から現代までのヨーロッパ史を押さえる必要があると私は思います。第二次世界大戦以降、世界全体を巻き込んだ大規模な戦争は起きていません。人類が世界史から学んだとすれば喜ばしいことです。しかし、テロや局地戦はいまだに無くなりません。世界平和に向けて人類が知恵を出しあうことは大切なことです。その原点がプリンセングラハト263番地にあると言ったら言い過ぎになるでしょうか。



【参考図書】
  *『アンネの日記』 アンネ・フランク   皆藤幸蔵訳   文藝春秋社
  *『アンネの日記』 アンネ・フランク   深町眞理子訳  文春文庫
  *『思い出のアンネ・フランク』  
            ミープ・ヒース  
            アリスン・レスリー・ゴールド  深町眞理子訳   文春文庫
  *『未来へ向けての歴史の叫び アンネ・フランク』  アンネフランク財団 
  * A Museum with a Story Anne Frank House Amsterdam


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アンネ・フランクが使った日記帳





9月

SUN-MAID NATURAL CALIFORNIA RAISINS



 カリフォルニアのスーパーマーケットに行った時、懐かしい「人」にばったり出会った。ブドウを抱えてニッコリ笑う女の子、実に50年ぶりの再会だ。
 話は私が子どもの頃に遡る。当時我が家のおやつと言えば、花林糖、煎餅、金平糖と漢字ものしかない時代に、どういうわけか、年に一度カリフォルニア産の干しブドウが到来した。今となっては確かめようがないが、祖父の友人がカリフォルニアに入植していたので、ひょっとするとそこから送られてきたものかもしれない。輸入品が手に入ることはまずあり得ない羽入田家のちゃぶ台に、ブドウを抱えた女の子がにっこり微笑む真っ赤な箱が置いてあり、口の中にひろがる舶来の味と香りに、この世の天国を感じたものだ。それ以来干しブドウは私の大好物となった。その赤い箱の名前は“SUN-MAID NATURAL CALIFORNIA RAISINS”彼女と再会できたのだ。

 50年前、日本はつましい国だった。1961(昭和36)年の 大学卒業生の初任給は、約16,000円(現在は約200,000円)。1ドルは360円、つまりアメリカの1ドルの商品を購入するのに、360円も払わなければならない時代だった、今は80円弱。米ドルが9分の2の価値になってしまったと言うべきか、日本円の価値が4.5倍になったと言うべきか・・・。
 ある作家の小説に、日本の温度計をアメリカへ輸出する話がある。温度計といってももちろんデジタルではない。赤色に着色したアルコールが入ったガラス棒タイプのものだ。アメリカに荷揚げをした時に、そのガラス棒をくくりつけた板に印刷されたMADE IN JAPANの文字を切り取ることが輸入業者の最初の仕事だった。日本製品は「安かろう、悪かろう」と言われ、日本製品とわかると売れないための方便だったとその作家は書いている。
 日本の車をアメリカに輸出する時に、その性能を確かめるため、すでに輸出を開始したドイツ車と高速道路で競争した。ぐんぐんスピードが上がり、当時の日本車もなかなかやるなと思った瞬間、風圧でボンネットが跳ね上がり、前が全く見えなくなった。この映像を見た私は爆笑してしまったが、そんな代物から日本の自動車産業はスタートしたのだった。今の若い人には信じられない話ではないだろうか。

 日本にとってこの50年間は極めて大きな変革の時代だったことは間違いない。私自身も、私の回りも随分と変わってしまった。そのような中、色も、デザインも、女の子の笑顔も全く変わらない赤い箱を50年ぶりに手に入れて、自分の半世紀とはいったい何だったのか、いつになく真面目に振り返ることができた。時には一服も良いものだ。

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※ 私の子どもの頃から変わらない色とデザイン。
もちろん企業のPRではない(笑)。


8月

16年ぶりの大韓民国



 日本と韓国で交互に開催されています「日韓教育文化交流」が今年は韓国で開催されるため、全日本中学校長会の大江会長を団長に、全日本小学校長会の露木会長、全国高等学校長協会の青山会長、島田事務局次長とともに、韓国に行ってまいりました。相互の交流は今年で27回目になります。今回は総勢14名の訪問団ですが、日本の小学校、中学校、高等学校をまとめるそれぞれの全国校長会の会長(校長)が参加していますので、韓国の教育関係者には随分と気を遣っていただきました。
 会議のテーマは「学校週5日制定着成功のための課題」で、韓国側はソウル高等学校のジャン・チョン校長、日本側は新宿区立津久戸小学校の堀竹校長が発表し、討議を行いました。日本ではすでに定着している「学校週5日制」ですが、韓国では2012年からの完全学校週5日制(すでに月1~2回の土曜休みを実施)に向けて計画が進んでいるそうです。討議の合間には、地元の小学校の見学もあり、子ども達の笑顔は万国共通であると思いました。

 さて、私が最後に韓国に行ったのは平成7年(1995年)なので、16年ぶり、3回目の訪韓になります。景福宮前にあった国立中央博物館は移転し、道路も整備されていましたが、その分交通量も随分増えたように思いました。火災で甚大な被害を受けた南大門は修復中で、早く修理が終わることを祈念します。
 私は、韓国料理(イタリア料理も)が大好きです。意外に思われるかも知れませんが、毎日のようにキムチを食べています。日本にも美味しいキムチがありますが、本場の味は格別です。特に、魚介の味付けの韓国キムチは大好きで、向こうでは食事ごとに出してくれますので、すっかり堪能しました。また、せっかく訪韓したのだからと、討議が終わった夜に冷麺を食べに出かけました。従業員の方が、丼の中の麺をはさみでジョキジョキと切ってくれました。そういった何気ない作法が韓国に来たという感を強くします。もちろん味は言うまでもありません。スープまでしっかりと飲み干しました。

 昨年、ソウル近郊にある東豆川(ドンドチョン)外国語学校の生徒20名が本校を訪問し、両校の間で姉妹校交流が始まりました。来年の1月には、今度は本校の生徒が東豆川(ドンドチョン)外国語学校を訪問します。
 偶然のことですが、この8月には韓国の高校生が編入試験に合格し、9月1日より正式に本校の生徒になることが決まりました。飛行機に乗れば1時間45分で着いてしまう日本に最も近い外国です。これからも交流がますます盛んになれば良いと思っています。

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「日韓教育文化交流」の会場  本場のビビンバ
 (キムチも写っています。)

7月

Yokohama Senior High School of International Studies



     The Principals’ message (校長室) for this month is to introduce the YIS background in depth for those who are still unfamiliar with our school.


Introduction
Yokohama Senior High School of International Studies (YIS) was established in April 2008. YIS has a specialized curriculum and is based on credit-hour system. Our objective is to train our students in foreign language and information communication technology skills so that they can play an active role in the future as leaders not only in Japanese society but also in the international community. YIS is designated by the Kanagawa Prefectural Board of Education as a high school which emphasizes academic achievement and advancement to higher education. We offer TOEIC-IP testing and special summer programs to give students practical experience. YIS contracted a School Partnership with Tokyo University of Foreign Studies in March 2010.



Educational Features
1. High-level English Education

  • Smaller classes allow teachers to give students more individualized attention. Classes are staffed with many well-experienced native teachers. Various educational materials are used to challenge the students and raise their language skills. In three years, English skills improve significantly.



2. Foreign Languages

  • We approach international understanding not only through English but also through other languages. First grade students must learn a second foreign language. They can choose from German, French, Spanish, Chinese, Korean and Arabic, which are taught by some of 23 native teachers. YIS is the first public high school in Japan to offer Arabic classes.



3. High-quality ICT Education

  • Various computer classes are also provided. Other courses also use the computer equipment in order to facilitate learning. ICT education program provides the basic skills necessary to exchange opinions throughout the international community in addition to information communication technology skills.



4. Variety of International Exchange Programs

  • YIS has sister school programs with high schools in Australia, Germany, China, Korea, France and Spain. Students not only study at the schools, but also have opportunities to communicate with host families through home stay programs. When sister school students visit Japan, our students reciprocate by being host families. Short-term and long-term exchange students are always welcome at YIS. We put an emphasis on creating a variety of quality activities for international communication.



5. Characteristics of our School

  • 【School Schedule】
  • YIS operates under a semester system. Various elective courses are available. The school day consists of seven 45-minute periods. YIS is a small-scale high school with only four classes in each grade which in itself allows for more individualized attention from the faculty and staff.


  • 【Advancement to Higher Education】
  • In order that all students may achieve their goals, YIS offers supplementary classes after school, Saturdays and during long vacations. In addition, there is individualized guidance counseling, practice examinations, and advice talks from recent graduates.



6. Unique Events and Activities

  • 【English Camp】
  • 1st grade students have four full days of English Camp. Each group led by a native teacher, has only 10 students. Living in a 24-hour English-only environment improves their English skills, communication ability and understanding of different cultures.


  • 【Summer Program】
  • Visiting embassies, the Japan International Cooperation Agency, and the Japanese Overseas Migration Museum; and refining western table manners are main events for “Summer Programs” held during the summer vacation season and open to all YIS students. Students prepare for the “YIS English Speech Contest”, which is judged by highly-respected researchers in the English language education field.


  • We offer a variety of sport- and culture-based after school activities.

6月

June Bride



 June Brideを直訳すると「6月の花嫁」。6月に結婚した花嫁は幸せになれるというヨーロッパの言い伝えですが、諸説あるようです。ギリシャ神話の女神ヘラ(英語名Juno)はゼウスの妻で、結婚・出産を司り、家庭・女性・子どもの守護神と云われています。そのヘラが守っている月が6月のため、この女神の月に結婚すれば、花嫁は幸せになれるとする説と、ヨーロッパの6月は1年中で最も雨が少なく、復活祭も行われる季節であることから、ヨーロッパ全体が祝福ムードに包まれ、6月の花嫁は幸せになれるとする説などがあるようです。


 さて、我が家では娘の蘭(らん)が嫁いでいきました・・・。と言っても実の子ではありません。犬の子です。私たち家族が犬の保護活動をしていることは、「平成22年 10月 校長室」の「日本のペットは幸せですか」で紹介しました。我が家で3頭目の保護犬が新しい飼い主さんのもとへ旅立った後、しばらくして某県の動物保護センターから、明日でガス室に送られる(処分される)という子犬を引き取りました。間に入ったボランティア団体の人は「本当に危ないところだった。」と話していました。


 我が家で子犬を育てるのは何と13年ぶりです。手当たり次第にものをかじる蘭に手を焼きつつも、「そうだ、子犬は何でもかじるのだった。」と、子犬を飼った時のことを思い出しながら、蘭を育てる醍醐味を味わっていました。例えて言うならば、やんちゃな孫の世話を頼まれて、久しぶりに子育てをしているおじいさんといった感じです。
 6月に入り、その子がとうとう新しい飼い主さんの家に行くことになりました。使っていたタオル、大好きなカジカジ棒、牛の蹄、歯磨きガム、雨の日に重宝したレインコート、真っ赤な胴輪におそろいの赤いリード。嫁入り道具(何と古めかしい言葉!)を持って家を出て行く娘のようでした。「お父さんお世話になりました」とはもちろん言いませんが、最後の散歩の後にはいつものようにペロペロと顔を舐めてくれました。それがお礼の代わりだったのでしょう。


 犬が混乱するといけないので、育てた人は不用意に新しい飼い主さんの所には行かないのが原則です。双方の距離もあり、蘭にはきっと二度と会えないでしょう。彼女のいたケージは主のいないぽっかりとした空間になりました。水飲み皿やご飯茶碗も片付けることができません。そんな気分になぜか浮かんだ言葉が「6月の花嫁」。そう、今の私はスペンサー・トレイシー(Spencer Tracy)です。今月は少々古すぎたかな・・・。


  • ※庭に出した時の蘭、6ヶ月の時です。

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枝をくわえるのが大好きです。実はシェパードの血が・・・

5月

肩関節周囲炎



 私の楽しみの一つは、飼い犬をつれて近所の公園でのんびりすることです。そこには立派な雲梯があり、俗に言う猿わたりや懸垂をして健康維持に努めていたのですが、昨年から雲梯にぶら下がると、左肩から上腕にかけて鈍い痛みが出て、だんだんとぶら下がることができなくなりました。筋肉痛かと思いそのままにしていたところ、ここ数日肩に激痛が走り、とうとう医者にみてもらうことになりました。その時のやり取りを再現するとこんな具合でした。


私  「先生、肩と上腕がものすごく痛いのですが・・・。」
医師 「はいはい、では、腕を上げて下さい。はい、では今度は腕を水平にして。」
「痛くてここまでしか上がらないのですよ。」
医師


「ふんふん、ではレントゲンを撮りましょう。」


医師 「(レントゲンを見ながら)ははあ、これは50肩ですね。いやー、まったくの
50肩ですよ。」
「50肩?・・・」
医師 「ある年齢になるとこうなる人が結構いるのですよ。1年くらいで大体直りますが、
関節の緩衝が悪くなり、動かすと神経に直にきて痛みがでます。でも痛みより、
筋肉を使わないとそこのところが固まってしまうのが怖いですね。」
「それは怖いですね。実はこの年ですが、まだちょっとスポーツ(乗馬のこと)を
やってまして・・・」
医師 「では、リハビリやりましょうか。」
「リハビリですか・・・。そんなに悪いのですか。」
医師 「50肩ですからね。」
「なるほど、50肩ですものね(この時は、50肩の意味がよく分かっていない)。」
医師 「そうですよ。」
「(50肩がわからないと言いにくくなったので)やっぱり、50歳になると何でも
大変ですよね。家族は私の言うことを聞かないし、そうそう、最近記憶力も落ち
てきています。」
医師 「だれでもそうですよ。心配はいりません。では、この紙持って、リハの係に渡し
て下さい。お大事に。」
「どうもありがとうございました。」



 さて、50肩とは??? 正確には肩関節周囲炎というのだそうです。早速調べてみました。「壮年期以降の人に起きる肩関節の痛みと動きの制限を伴う病気の総称です。肩関節周辺にある肩峰下滑液包(けんぽうかかつえきほう)、腱板(けんばん)、関節包(かんせつほう)、上腕二頭筋長頭(じょうわんにとうきんちょうとう)、肩の結合織(けつごうしき)などが炎症をきたし、これらの症状をまとめて五十肩と言います。原因としては上肢の腱板という腱の血流が不足することや、肩峰という骨の突出した部分でこの腱が摩擦されることにより、関節包が縮こまって肩関節の動きが悪くなり、運動痛をおこすと考えられています。数ヶ月で自然に治ることが多いのですが、その理由も判っていません。

 うーん、要するに老化現象・・・。50歳台になると、記憶力や視力が衰えるだけかと思いきや意外な伏兵がおりました。しかしながら若い皆さん、人生は光陰矢のごとしです。いつも言っていることですが、若いうちにできることはきちんとやっておかないと、あっと言う間に今風に言えば、アラサーとかアラフォーになってしまいます。
 今のうちにやるべきこと、それはもちろん勉強、読書、適度なスポーツです。若い皆さんには何でもないことでしょうが、老眼鏡をかけ、50肩ともなってしまうと、勉強、読書、スポーツも若い頃のようにはいきません。ちょっと寂しい気がします。
 今月は(も)私のいつもの口癖「勉強、読書、適度なスポーツ」で締めくくります。


4月

余震が続く中で思うこと



 東日本大震災後1ヶ月が過ぎました。今尚、ご不便な生活を送られている被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
この度の東日本大震災では、130を超える国と多くの国際機関から支援の申し込みがあったということを聞きました。ある国では国家公務員が一日分の給与を集めて日本に寄付してくれたそうです。住民を勇気づけるために、被害を受けた土地でコンサートを開いた外国のロックグループもおりました。第2次世界大戦以来、未曾有の危機を迎えた日本に対して、世界が立ち上がってくれたことを嬉しく思っています。
 地震直後には、約1,000名の救援隊員と救助犬が日本に入り、被害者の救出に力を尽くしてくれました。救援隊員(と救助犬)の国籍は、アメリカ、イギリス、中国、インドネシア、ドイツ、スイス、オーストラリア、ニュージーランド、ロシア、南アフリカ、トルコ、韓国、台湾、モンゴル、メキシコ、フランス、シンガポールと多岐にわたり、日本の状況があまりにも厳しく、充分な救援活動ができずに帰国した国もあったようですが、世界は一つにつながっている、国境を超えて、人々は助け合い協力し合いながら、自然災害に立ち向かったことを実感した出来事でした。

 この大地震により、日本は世界から支えられる立場になりました。しかし、今までは、人道支援の援助額では日本は世界で3番目の国だったことを忘れて はなりません。日本の援助実績は1990年のイラン地震をスタートに、15カ国、延べ793名の援助隊員が海を渡っています。ODAはじめ、今までのこのような実績があったからこそ、世界が日本に目を向けてくれた面もあるでしょう。この災害を克服した暁には、日本が再び世界を支える番がくると私は思っています。

 東日本大震災後、姉妹校や本校を訪問した外国の方々から沢山のお見舞いを頂戴いたしました。心より御礼申し上げます。その中で、ドイツの姉妹校バードアイブリング・ギムナジウムのベルナー・フィービッグ校長先生から送られてきました手紙を紹介いたします。
 「日本からの大変なニュースを耳にして、私たちは大変ショックを受けております。私たち教職員、保護者、そして生徒の誰しもが姉妹校である貴校のある日本の状況に大変心配をしております。また、多くの保護者、生徒たちから何か援助出来る事はないかと多くの申し出を受けております。
 私たちの姉妹校プログラムの責任者であるフラウ・ビンマーが横浜に住む何人かの人達と連絡を取ったところ、横浜市ならびに貴校は無事と伺い、ひとまず安堵いたしました。私たちの学校の講堂には日本の国旗が掲げられ、掲示板には日々日本での状況を掲示しています。生徒たちは国際機関を通じて援助をしたいと考え、募金活動を始めました。私たちに出来ることがありましたら何なりとお知らせください。
 日本が一日も早く日常を取り戻せますように心よりお祈り申し上げます。そして私たちの素晴らしい姉妹校関係、姉妹校交流を続けられますように。
 末筆になりますが、皆様のご多幸をバードアイブリング・ギムナジウム 生徒・スタッフ一同、お祈り申し上げます。」

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