これはウィキペディアではありません。ソースは全部自分。だからウソはないが漏れや間違い・意図的に触れない事実はあるかもしれない。俺が言ってるだけだから、誰かが公式にインタビューでもするか自叙伝でも発行しない限り検証は不可能。文体を真似ようとしているので敬称略してます。この項目は雑多な書き込みで読みづらくなっています。表示に関してスマホを考慮に入れてません。 |
御米椎(みよねしい)(1963.8.8-)は、日本の漫画家・イラスト描き。北海道札幌市出身。男性。別ペンネームはみよね椎、飯閃澪。血液型はO型。英語表記(ローマ字のサイン)の場合、御米椎は「miyonescy」、飯閃澪は「e1000m.y.o」となる。札幌市在住。
御米椎
|
|
本名 | ○吉○春 |
生誕 | 1963年8月8日 日本・北海道札幌市 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1992年 - |
ジャンル | 宇宙漫画・青年漫画・成年漫画 |
代表作 | 『宇宙課々付EVALADY(エヴァレディ)』 『宇宙戦艦ヤマモトヨーコRemix』 |
賞罰 | 無し。免許無し。工学士ではある |
公式サイト | miyonestar pavilion |
目次 2.経歴 2-1.北海道時代
|
1992年1月、『コミックガンマ』(竹書房)でデビュー、創刊号から20号まで『宇宙課々付EVALADY(エヴァレディ)』連載。当初、会社員と二足のわらじだったが94年ガンマが季刊から隔月刊へ移行したと同時に退職する。
1995年〜96年に『ヤングキングOurs(アワーズ)』(少年画報社)にて読み切り数本、「Texture Heroine」短期連載。
1997年、編プロ「コミックハウス」経由で飯閃澪名義で成年向け漫画に進出。
2000年頃より鬱を発症し、2001年入院。その後ぽつぽつと漫画を描くも、気分の波があり闘病中。2011年秋よりやや寛解。
札幌市編入前の手稲町出身だが、小学校から高校卒業まで江別市大麻団地で過ごす。父は北海道庁職員。4人兄弟の長男(妹・妹・弟)。
学校から帰ってくると家で大学ノートにメカ類の落書きをしていた。外には余り出ず、友達も積極的には作らなかった。自閉的・引っ込み思案で対人恐怖症の傾向があり、人と話すのが苦手だったが、ペーパーテストはできたため、特に問題視はされなかった。体育は苦手で理科・算数(数学)・図工(美術)が得意科目。ただし、美術でも彫塑系は苦手としていた。(現在でも3DCG系ソフトをうまく扱えない)
幼稚園の時にアポロ11号月面着陸。その翌年は大阪万博と、幼少期は鉄腕アトムの記憶も相まって、輝ける夢の21世紀が来ることを確信し、待ちわびていた。(処女作EVALADYではその憧れが色濃く出ている)
小学校の時やってきたオカルトブームに乗せられ、後にオカルト雑誌を好んで読むようになり、陰謀史観的な思考の影響は1995年まで続いた。
おとなしい性格を突かれ、小5、6年時いじめを受ける。
漫画は専ら「小学○年生」と床屋や歯医者の待合室にある雑誌で読んでおり、同学年なら当然話題にする「仮面ライダー」「マジンガーZ」「デビルマン」等にはほとんど触れないままであった。共有体験はウルトラシリーズとドリフくらいである。
家では夜7時台のTVは基本「NHKニュース」と決まっていたため主要なアニメやヒーローものは見逃しており、観られる番組は5〜6時台の、あるいは夏休みや冬休みに集中して流される再放送枠[1]に限られた。11歳の時、日曜7時半の「宇宙戦艦ヤマト」は、壊れかけた小型白黒テレビで何とか観続けた。(ライバルの裏番組はハイジでも猿の軍団でもなく「三波伸介のお笑いオンステージ(減点パパ)」だった)
中学の時、劇場版ヤマトが公開されるや、学校中がヤマトにかぶれ、文化祭の出し物がヤマトだらけになるも、リアルタイムで観ていた本人は「何を今頃」と冷ややかに見ていた。しかしその翌年に「さらば宇宙戦艦ヤマト」を観てどっぷりはまってしまうことになる。(その一ヶ月前にはスターウォーズを観て衝撃を受けたが、さらばのために霞んでしまった)同時期、再放送で「ジャングル大帝(1965年版)」を観て、ストーリーの深さに感動し、その頃ちょうど刊行され始めた「手塚治虫漫画全集」の漫画版を読み込む。続けて火の鳥もむさぼり読んで漫画の深さ広さを知る。妹が「なかよし」を読んでいたため、アニメと合わせ「キャンディキャンディ」を知る。
中3の時「生活体験文」(「青年の主張」のようなもの)でクラス代表になる。元来国語系は嫌いであったが、意外と作文力があるらしい、と気付く。同時期、文化祭の全校企画である、体育館の壁面に掲げる「貼り絵壁画」(分割されたパネルに各クラスが指定通りに色紙をちぎって貼り、それを繋げて作る)の図案に、火の鳥をモチーフにしたものを下絵として描き提案したところ、採用される。
学区外枠で札幌北高校に合格(担任の学力評価では合格率は半々だった)。高校時代は漫画アニメーション研究会[2]に入部。少し離れた後輩(面識はあまりない)におかだまつおかがいる。その後、機動戦士ガンダムの8話をたまたま観て大いにはまる。
高校はみんな頭が良い受験校だったので埋没しその他大勢的存在だったが、文化祭(北高祭と呼ぶ)の恒例行事「行灯行列」(ねぶたのようなものをクラスごとに作って周辺市街地を練り歩く)でガンダムねぶた作りに参加(デザインと頭部の製作)、また体育祭のクラブ対抗リレーでガンダムの着ぐるみ(これも主に頭部)を製作、自ら着てトラックを回った。
研究会の活動ではそれまでに2冊"ENDLESS"という「肉筆回覧誌」を作っていたが、2年の終わりに初めてオフセット誌を出すことになり、生まれて初めてコマを割ってペン(日光のGペン)で描いた漫画を製作。6ページでネタはパロディ(ユニコ+イデオン)。スクリーントーン不使用。切って貼る、上からこするという基本的使用法を知らなかったため。
アニメージュ、OUT、アニメックを愛読し、「アニパロ」「同人誌」「コミケ」と言うものを知り、初めて上京指向が生まれる。1981年3月のアニメ新世紀宣言の時は本当に現地に行って加わりたい思いにかられた。アニメを「自分たちのための文化」と感じ「アニメファン」という見えないコミュニティの一員であるように自覚し、一人でテンションを上げていた。
2年の終わり頃、年に一回生徒主導で発行する「学校誌」の編集に呼ばれ記事やカットなどで手伝ったが、全校生徒から無記名で回収した生活に関するアンケートの項目に下ネタを書いてくる奴がたくさんおり、純粋純朴な御米はそれを他意無く正直に記事にしたところ職員室で大問題に発展し、他校への配布禁止になった。(その頃の倫理基準がOUTのアニパロ(悩ましのアルテイシア以降)だったので、その時点で世間一般とずれていた可能性あり)
大学受験のため3年の秋にアニメ雑誌を断つようにしていたが、時を同じくしてアニメ「うる星やつら」が始まってしまい、またしても尋常ならざるはまり方をする。手塚作品以外で初めて単行本を買う。それまで私的に描いていたキャラクターは手塚+松本零士のようなイメージだったのが急激にうる星風に変化した。ヤマトと富野アニメで「人類愛とは」「生命とは」などと鼻持ちならない上から目線でほざく「清く正しいアニメファン」と言う自意識が虎縞ビキニの前に完全に瓦解し、軟派なオタクに成り下がった。
当時流行りだしたガンプラは「Hobby Japan」の改造記事などに触発され自分もやってみようと試みたが、高い理想と現実の技術レベルが一致せず、素組したところで根気が無くなり完成させた例がなかった。
大学進学は「みんな進学するから」と言う程度の意識で、近場の国立大である北大を受験するも2連続不合格、浪人生活の中、甘い考えを正す必要に迫られた。[3]具体的目標を持とうと、蛍雪時代のキャンパス紹介などで「ロボットの研究をしているところ」に興味を持ち、さらに赤本で「アニメサークルのあるところ」を見繕って、東京(関東)の大学を受けると決める。親の反対をかわすため、「新聞奨学生」に応募した。これなら仕送りも住むところの問題も生まれないからである。
84年、千葉大学工学部電子工学科Bコースに合格する。[4][5]
浪人中、月刊OUTに一度うる星ネタで投稿して、採用されたことがある。(マスコット募集にも何枚か投稿した)。また、ヤマト完結編公開の直後、西崎Pがゲストで出るというラジオアニメックに、作品に批判的な投書をしたことがある。
18歳の時に改姓している。(結婚や養子縁組ではない)
予定通り、サンケイ(現・産経)新聞の奨学生として千葉の配達店に住み込む事になったが、配達業務は予想を超えて大きな試練であった。午前2時起きで新聞にチラシを挟み商用自転車に満載して出るのだが、読売・朝日と違って購読者密度が薄いため、より広範囲に回らねばならなかった。おまけに造成され比較的平らな団地で育った身には、急峻な坂がたくさんある土地に慣れていなかった。早期に原付免許を取る事を要求されたが、結局その前に辞める。キャンパスから徒歩15分のところ(作草部町)に6畳一間トイレ共同の部屋(築30年ほど)を月14000円で借りた。経済的自立の計画は序盤で頓挫する。
入学後、サークルの勧誘期間に、まず「アニメーション研究会」をのぞき、半ば入会を決めていたが、もう一つ、「漫研の半サークル内サークル」の「アニメ同好会」(以下、アニ同)の存在を知り、結局そちらに入会した。理由は、「大作主義のアニ研では自分は下っ端で終わるような気がしたから」。当時の同好会の先輩(歳は同じ)には法田恵が、一つ年上の先輩には後にTVチャンピオン・ラーメン王選手権準優勝のグルメ評論家・くわはらひろと(漫画家・桑原真也の実兄でもある)がいた。また後に入部する後輩にスズキ自動車でバイク「チョイノリ」をデザインする事になる大西勇二がいる。当初は漫研には入っていなかったが2年次から在籍。(漫研における、所謂学漫活動には余り積極的に参加していない。)漫研での後輩にはあ〜る・こが、たいらはじめがいた。なお、ある時先輩が名前を呼ぶとき言い間違えたのが「みよねしい」というペンネームの由来である。
当時は8oシネフィルム(例えば富士写真フイルムのシングル8)で映像作品を作るのが普通(ビデオでコマ撮りはできず16oフィルムは高価すぎる)であり、カメラも映写機も備品ではなく個人持ちで撮影台は創部者の手作りであった。金銭的余裕はなくセルアニメなど到底作り得ないつつましい環境であったが、個人単位で好きができることからペーパーアニメ(主に「PLOT SERIES」と称される短編)を年に二回(5月の教養祭と11月の大学祭)製作。
アニ同はメンバーに特撮フリークが複数おり、御米の入学前に一つ自主製作特撮ヒーローものを作っていた。この時期は「宇宙刑事ギャバン」に始まるメタルヒーローものがトレンドで、1985年の大学祭での公開を目標に宇宙刑事物を製作することが決まり、御米はヒーローのデザインと着ぐるみ製作、そしてちょい役で参加。タイトルは「魔獣ハンターチャバン」。2年後、これを3部作構成として(キャストは入れ替えて)第2部、3部を監督する。正味1時間のフィルムはビデオ化して幕張メッセ時代のコミケ(1990年頃)で少量領布された。
3年次の春、教養祭に訪れた千葉工大のアニ研部員の誘いを受け、千葉工業大学祭に行き、彼らの作品を観る機会を得る。共同製作、個人製作とも高レベルで刺激を受ける。さらに「アニ研連合同上映会」を紹介され、関東の様々な大学の作品に触れ、井の中の蛙状態だった自分のアニメ作画能力の限界を感じ始める。また、この半年前から御米は「コミケ狙いの漫画同人活動」に軸足を移しており、アニメーション製作にかける情熱が下降線をたどっていた。
同人では「β-capsule」と言うサークルに1985年冬(コミケ29)より参加(一般参加は1年前の27が最初)、主に「特撮をリスペクトした創作漫画」を描く。このサークルの母体と言える「MANUFACTURE(まにゅふぁくちゅあ)」発行の本の手伝いもする。この活動は卒業後も継続する(後述)。
4年次、卒業研究のため電気第二講座に入る。大学選択時のポイントであった「ロボットの研究」については、色々あって卒業研究では選ばなかった。卒論のテーマは「付加体を用いた紫外線レーザ光によるII-VI族化合物半導体の結晶成長」[6]。無事4年で卒業する。
卒業後の進路について、4年次になってもほとんど考えていなかった。アニメーターになるには能力不足を感じていた上に業界の厳しい現実も漏れ聞こえていた。まして漫画家など絶対無理と思われた。ここは順当に電気の仕事をするのが良かろうと思い、それならフィルム、カメラに親しんできたのだから、そういう方面のメーカーにしようと漠然と考え、まずキャノンの面接を受けたが、消極的対応を見破られたのか落ちてしまう。次に小西六(現・コニカミノルタ)を志望して、こちらは内定を取り付けた。(父はこの時Uターン就職を想定しいくつか考えていたらしいのだが、御米にはその選択は全く頭になかった。同人仲間から離れたくなかったからである)
職場は八王子市であった。会社には独身寮があったのだが、初年度は二人部屋であり、御米は漫画同人活動を続けるつもりで、それを周りに知られたくなかったため、寮に入らずアパートを借りた。引っ越したのは入社式の三日前で、その直前まで「チャバン」第3部の編集作業をしており、学生気分が抜けずにいた。
生来の引っ込み思案な性格も災いし、絵を描く事とも無縁な職場においては早々に”使えない奴””心を開かず何を考えてるのかわからない”という評価が定着し、孤立した。真っ当な社会人になる矯正の努力がうまくいかず、居場所無くいたたまれない平日のストレスから逃れるため、しばらくは週末ごとに千葉のキャンパスに通っていた。一年間は現役同様に作品を出す。(故に、在籍4年なのに作品は5年分あるのである)コミュニケーションを取れるのは「漫画アニメ特撮コミケ」の限定された箱庭世界の中だけで「過去の(小さな)栄光・つながり」にすがることで精神破綻を免れていたのでますます同人に没入した。
仕事の内容は機器組み込み型マイコンのプログラム(レンズ駆動制御)や小型の回路設計、量産品の不良対策の手伝いなど。人との連携がうまく取れないため、一人でする仕事が多かった。
仕事で使うパソコンは最初グリーンディスプレイのPCでCP/Mを苦心して操作していたが、すぐにPC9801シリーズに変わる。また、一時期MacintoshIIciと、その上で動くPhotoshop1.0をいじったことがある。
1989年、サークル「MANUFACTURE」の新刊「MANUAL 2」向けに自己最長の30ページ描く。冬コミ直前、入稿期限ギリギリの追い込み時には練馬区(西武線江古田駅界隈)にある法田恵(このとき既に漫画家として活躍し、同時にゆうきまさみのアシスタントをしていた)のアパートの一室に何日も缶詰になって編集ページ作業を続け、そこから八王子に出勤した。
法田恵は部屋の長期占領状況を嫌がってその後の部屋提供に難色を示し、サークルメンバーが社会人で居住地もバラバラになっていた現状を踏まえ、活動継続には「新たな部室」たる場所が必要だと考えたサークル代表(岡嶋幸夫の項参照)は、翌1990年、江戸川区小岩に共同でアパートを借りた。
アニ同の世代交代が進み千葉に行きづらくなっていた御米はこの場所の確保を歓迎し、寸暇を惜しんで描き続けると同時に、他のメンバーにも高い創造的活動意欲を暗に期待したが、普通の社会人となっていった彼らと思惑はすれ違い始める。本業を犠牲にしてでもサークルとして新作を間断無く出し続けることに固執する極端な姿勢を取る御米は一人空回りし、ここでも孤立の度を深め、誰もついてこないことに苛立って場の空気をギクシャクさせていった。
1991年夏、その場所でオカルトを題材に描いた漫画が、コミケにて竹書房の編集の目にとまり、デビューのきっかけをつかむ。(最初乗り気ではなく、自分にできるわけがないと思っていたが、編集の熱意に押しきられる形で最終的に受ける。創刊誌「コミックガンマ」は当初季刊であり1話に3ヶ月かけられるので、会社と両立できなくもない、と言うのが理由の一つ)。
御米は仮にこのタイミングでデビュー話が来ていなかった場合、孤立化で社会人同人活動への希望が萎み、30代を前にしてもう潮時と考え、諦めて「自己総括のための個人誌」を次のコミケで一冊出した上で、漫画同人から足を洗い、余計なことを考えず真面目に一会社員として生きる心づもりであった。(内容もタイトルも決めて、一冊目の個人誌で予告もしていた)その同人誌が出ることはついになく、原稿は修正・描き替え途中で放置されたまま棚の中で眠っている。
1992年1月17日デビュー。直後に立川市の西武拝島線沿線、畑だらけの所にある2DKに転居(よく吟味しないまま不動産屋に煽られて決めてしまった)。下の妹が上京してきて女子美術短期大学に入学したため、2年間同居した。
「自分には引き出しがない」と常々不安に思っていたため、描いている漫画のキーワードである「火星」がタイトルに付いた小説を色々読み始める。(火星のプリンセス、火星の砂、火星人ゴーホーム、火星人の方法、など)アシモフの短編が特に気に入る。
編集との打ち合わせ時、「人前であがる」せいで何を言われたか(何を言ったのか)覚えておらず、要求と違うコンテを出すことがたびたびあった。
プロとしての自覚がまだ希薄で、デビュー作連載が終わるまで小岩の「部室」でメンバーにタダ同然でアシスタントをやらせていた。
バブル崩壊後のこの頃から、親の借金の肩代わりを強いられ[7]、経済的に不安定となり、「会社に留まっても生活が安定しないなら、続けても意味がない」と考えるようになる。さらに1993年3月に利き手の後骨間神経麻痺(疲れで手に頭を乗せた形で机に突っ伏して居眠りしたら神経を潰したらしい)で一ヶ月何も描けなくなり、「描けないことがいかに自分にとって重大なことか」を再認識し、治ったら専業になる、と決心する。夏頃退職の意思を上司に伝え、1994年5月に正式に退職する。妹が卒業・独立したことから、なるべく安い家賃の物件を求め、国立市の外れにある古いアパート(木造1K)に引っ越す(結果的にまた物件探しで失敗した)。
1994年、笹本祐一著作の「妖精作戦」(シリーズ4巻)新装版の表紙と挿絵の仕事を受け、それ以来、笹本の紹介であさりよしとお、園田健一との繋がりを得る。また数年後「宇宙作家クラブ」に加わる(現在幽霊会員状態)。国分寺の居酒屋で、当時エヴァンゲリオン準備中だったはずの庵野秀明と同席したこともあったが話すきっかけを持てず。
1995年3月、連載最終回の原稿を渡したその足で種子島に向かい、H-IIロケット3号機の打ち上げに立ち会う。巨大なロケットの轟音を体に浴びて興奮気味に帰宅し寝て起きると、霞ヶ関でサリン事件が起きていた。
その数ヶ月後、読み切りを一本描く予定でオカルトを題材にすることに決めていたが、マスコミが連日オウムの話題に溢れていた当時、「彼らと、「ムー」なんかを喜んで読んでいた自分との間に、果たして本質的な違いがあるのだろうか?」と言う命題に直面し、悩み苦しんでコンテが切れなくなる。時間が切迫したため苦し紛れに何とか上げたものの、納得がいかず、最終的に「反社会的行為に及んだか否か」以外、精神構造的に違いはないという結論に達した。ムーがこの件で被害者面した事も合わせ、この「言いっぱなしで責任を取らない世界」にひどく幻滅を覚え、以後オカルト的思考とは決別することを心に決める。(反動で、オカルトをネタとして楽しむことも許容できなくなっている)
国立のアパートは、空気の流れが悪いため湿気がこもり、ダニやカビが発生しやすく、入居一年半後ついにアレルギーを発症し全身に「殺人的に痒い」発疹が、足には大きな水泡ができ、歩行に障害をきたす。別の出版社(少年画報社「ヤングキングアワーズ」)から新たに仕事のオファーが得られ、また1996年春からの連載[8]も決まっていたため、当面は収入的に大丈夫であろうと判断して、漫画家が集中して居住しているといわれる(ある意味聖地である)江古田に12月に引っ越すと決める。[9]
が、1996年、連載開始直前のタイミングで掲載誌「ガンマ」休刊決定。以後、「アワーズ」の読み切り・短期連載などでしのぐが定着できず、1997年3月を最後に仕事が途絶え、初めて無職状態に至る。高い家賃に買ったばかりのパソコン(PowerMacintosh7300/166)のローンものしかかり、何とか事態を打開しようと5月頃連絡した「コミックハウス」の編集[10]のすすめで成年漫画を始める。飯閃澪という名は「miyonesii」の並べ替えだが「ero専のみよね」の意味もある。この頃自分のウェブサイトをオープン。
飯閃澪のデビューから、カラー原稿にはMacを使うようになる。(ただし、アワーズの原稿を中心に集めた単行本「TEXTURE HEROINE」版元・大都社の編集長はCGを好まず、アナログ彩色である)しかし、どうしても板タブレット(ArtPad2)の操作感に慣れることができず、後にワコムから「液晶タブレット」が出たと知ったとき迷わず入手した。ペン入れまでデジタル化したのは2002年以降、「ComicStudio Aqua」リリース後(「まほろリンクス」以降)である。[11]
やがて、元々御米をスカウトした元「ガンマ」編集長が富士見書房「コミックドラゴン」に移籍し、一端切れた繋がりが復活して短編読み切りシリーズを描く。この時ペンネームについて「御米では読みにくい」と言う理由でひらがなに変更。飯閃の方も順調にこなしていたが、1997年12月、札幌で父が車にはねられる(ひき逃げ)事件が起きる。一報は事故の数時間後の早朝にもたらされたが、その時締め切りを二つ抱えており、穴を開けられないため5日間帰郷が遅れ、周りからそのことを責められた。父は一時重体から回復したが、腰椎を折って下半身に重い障害が残った。(この時父が死んでいたら、葬式にも間に合わず一生薄情者とそしられ続けたはずである)
翌1998年には「ドラゴン」で連載。飯閃の方でもビブロスの「カラフル萬福星」定期掲載が始まり、1999年には「ドラゴンマガジン」に読み切り一本、「ドラゴンジュニア」と辰巳出版「ヤングペンギン」で連載開始。その準備の最中、親族が関わるある事件が起きたことが理由で再び家族が長く苦しいストレスにさらされた。(詳細は伏せるが)御米は動けない父の名代として行動せねばならず、漫画に神経を集中させることが難しくなった。さらに「ジュニア」連載が事実上初めての原作付き仕事だったことから、かつて無い重圧の中で乗り切らねばならなかった。この状況は2000年まで続いたが、とにかく自分を鼓舞し、テンションを引き上げ、鞭を打ち続けた(もちろん当時は後に鬱になるなど考えもしなかった)。
1999年と2000年には原作者庄司卓の招きでSF大会に参加している。
例の予言の日である1999年7月が過ぎたら五島勉は「豊田商事」会長のような仕打ちを受けると御米は確信して(あるいは期待して)いたのだが、実際にはそんなことにはならなかった。[12]山のように売れても「真に受ける奴」は少数派だったのだ、と昔の自分をアホみたいに感じる。
この冬のコミケ抽選でβ-Capsuleおよびβ-cap電子版が落選したことを機に、15年余り続いた同サークルの活動が完全に終息する。(やや前後するがMANUFACTUREの方もフェードアウトしてゆく。ある時、代表者による個人コピー誌の後書きを読んだところによれば、「MANUAL2」完全版を1992年に出した段階でサークルの目標(「サークルVTOL」(後述・園田健一の項参照)に追いつくと言うこと)は達成され、満足したので、もうモチベーションが残っていなかったようである)
2000年、連載終了後に体の変調を自覚する。内容は「冷や汗を伴う悪夢」「頭の中が不安で一杯になりじっとしていられない」「考えが動かず呆けたようになる」「突然、今にも死ぬような気がする」など。飯閃の方で2、3作やりつつ次の「ドラゴン」連載開始まで半年の余裕があったにもかかわらず、何一つ思いつかないという異常事態になり、その年の暮れ、池袋の精神科を訪ね「抗うつ剤」と「抗不安薬」を処方される。
2001年、服薬3週間後にやや改善したため連載開始するも精神的不調の波が繰り返し襲い、更に前年のストレス状況(ゴタゴタ)が4月頃再燃し、限界を感じてついに執筆を断念。作者都合による休止になる。母の説得によりしばらく帰郷することにし、札幌(このとき両親は札幌市南区に住んでいた。ただし、父は後遺症・褥瘡で入退院を繰り返している)で精神科クリニックに通院しつつ療養する。が、あるきっかけで7月に急速に悪化、入院する。(一ヶ月で退院)
治療の継続性から「良くなるまではとりあえず札幌に留まる」ことにし、さらに癒しの目的で猫を飼い始める。[13]
9月、少年画報社の別の編集から打診があり、2ヶ月後「ヤングコミック・ギャル缶」に読み切りを描く。猫をつれて一時的に仕事道具のある江古田へ戻る。この時点から、「本調子ではないが、描ける状態ではある」レベルがしばらく続く事になる。2002年「ヤングコミック」に隔号連載。札幌に仕事場&生活拠点を移し、江古田から撤退する。[14]その後挿絵、双葉社「メンズヤング」に読み切りなどぽつぽつこなす。休止した連載を復活させる気もあったが、やろうとすると調子の悪いときの「フラッシュバック」が起きてどうしてもできなかった。2003年にはオリジナルイラストを大量に加えてウェブサイトのリニューアルを敢行する。年末に「ヤングキング」に猫をテーマにした読み切りを描く。
2004年は調子は良く、自信を取り戻しつつあったので、春に原作(脚本)付き長編読み切りの話が来たとき、躊躇する理由はなかった。この仕事が再浮上のきっかけになるはずだと意気込んでいたが、実際始めてみると想像を越える大きなプレッシャーがかかり、思惑とは反対にどんどん体調が悪くなった。下書きが遅れに遅れ、100ページ以上のペン入れと仕上げに2週間しか許されない状況にまで自分を追い込んでしまう。[15]環境上アシスタントを何人も使うこともできず(オンラインアシスタントという仕組みがわかっていなかったこともある)、極限状態で(当然編集サイドも同様であったろう)なんとか最悪の事態は免れた。しかしその代償として、2000年のレベルまで病状が戻ってしまう。再発であった。
数ヶ月の間を置いて、その仕事の続き(サイドストーリー的なもの)が控えていた。御米は「そのうちまた上向くだろう」と構えていたが、期待に反し悪化した頭のまま時間だけが過ぎる。作業が遅延し、進捗せず、原作者を「原作を引き上げる」と怒らせてしまった。[16]最終的には色々振り絞って(一時的に少し薬が効いた)完成にこぎ着けたが、脳神経は前回以上に頑固で低空飛行のままなかなか良くならず、同時期、画報社の編集から連載企画を振られたのに何らアイディアが出せないうち人事異動で話が流れる。
単行本表紙を上げた後、2005年後半には挿絵一つを最後に仕事の繋がりが完全に絶え、すぐに蓄えも底を突いたため、借金生活に。困り果てた末に社会保険事務所に申請して、2006年より、精神障害者2級として年金を支給される身の上になる。この立場を御米は大変な恥辱と感じている。住む部屋も田舎の方(実家近く)に変える。親の年金からも家賃の補助をしてもらう。サブのスキャナやデジカメやPC周辺機器、モデルガン、ピースコン、スライド映写機など手持ちの売れそうなものを片っ端からオークションに出し、CDやDVDや単行本ををブックオフに、古いプレミアが付いていそうな同人誌はとらのあなに売却して生活費を捻出する。とにかく情けなく気は焦るが、頭も手も思うように動かない状態が続く。
2007年に一つオファーがあったがコンテできず。
以降、処方薬を色々変えて試し、短期間(2008年など)改善することはあったが、基本的には1999年より前のレベルには至っておらず、慢性化。
2009年、ある個人(大学教授)の依頼で宇宙が舞台の漫画(原作脚本有り)をゆっくりしたペース(特に締め切りはないが月に10p前後)で描き、130ページ余りまで進行しているが2010年6月より中断。公開予定、公開方法も現時点で不明。(稿料は10p単位で受け取っている)また、2010年11月より12月にかけて同じ個人の著作(専門書)の挿絵・説明図を要請され描いたが、原稿が揃った後で出版計画が頓挫。
この年の夏に新たに創刊誌での仕事の話が舞い込み1本コンテを切ったが、その後創刊の話自体が無くなる。
2010年12月に父死去。この直前に、父に頼まれて「陸軍少将の父」「海軍大将の父」「海軍航空兵の父」「満州で中学生だったときの父」を描いて見せた。
2011年、やや改善の兆しがあり、持ち込みを意図して60p書き下ろすが、出来上がりに不満でセルフ没。落ち込みどん底の後薬を変えて、9月頃には2003年レベルまで回復、12月中に改めて持ち込み用32pを描く。
2011年10月、「Jコミ」にて、「宇宙課々付EVALADY(エヴァレディ)」無償公開開始。
2012年、営業開始。
・初期においては、「ニュートン」の記事や、学研の「最新科学論シリーズ」のムックをガジェットの元ネタにすることが多かった。
・話における「発生するトラブルの内容と深刻度」と「その解決方法」が、ともに日常的尺度で測れない事が多くわかりづらいとの指摘があった。
・宇宙飛行士を描くのは珍しいだろうと思っていたが、沖一の「ASTRONAUTS」という先例があったのを連載終了後に知る。
・飯閃の漫画では、「本当は両想いなのに男の方がそれに気付いていない」と言う構図がたびたび用いられる。
・製作の順序は一定していないが、大体、雑誌記事やテレビで聞きかじったことを核とし、打ち合わせで膨らませて、それからキャラと舞台を設定する。キャラの絵は、ちょうどその頃に買った同人誌の影響を受けやすい。メカは何となく、星野之宣とぬえの影響下にある。1997年頃のホンダの「P2」発表以来、ガジェットとして(巨大でない)二足歩行ロボットを好むようになる。
・宇宙戦艦ヤマモトヨーコRemixはTVアニメ連動企画だが製作サイドとの意思疎通が無かったため、絵(の設定)は借りたが話は準拠していない。
・何かネタを決めたとき、まず行うのは大きな書店に行って資料を買い込むことである。そういうときが一番楽しい。最近は経済的理由によりgoogleとwikipediaで済ませてしまうこともある。
・壮大なスケールの漫画・小説・映画が好きであるが、自分でそれが描けない(それだけの器がない)ことに悩みジリジリしている。基本的にキャラ萌え系の作品は嫌いだが、それは自分が「受けるキャラ起て」を出来ないことに対するコンプレックス故である。
・漫画家として常に最先端にいなければ、という欲求が常にあるが、現実が「自分が望む形(自分が望んだ未来像)」と全然違うことに苛立って、漫画やアニメから遠ざかってしまっている。望んでいないことにある程度迎合しなければ生きていけないジレンマの中にいる。
・とにかく手が遅い(ギリギリにならないとやらない、思いつかない)。売れてもいないのに入稿スケジュールを混乱させるので(言ってみれば「平社員のくせに重役出勤する」みたいなもの)、関わった編集の間で悪評が広まっているらしい。この点については御米は大いに反省しており、今(2011年11月以降)は自己スケジュールの中で前倒し気味にやっている。
(作風の項目は自分で書くと自爆行為に繋がるためこの位にとどめる。)
〜小さい頃から色白でモヤシと呼ばれ、学生時身長180p体重58sのひょろひょろ体型であったが、江古田時代からファミレスで食べる機会が増え、さらに基礎代謝の下がる中年期にさしかかり、35sほど増量し腹回りが急激に増加(100に近い)した。中性脂肪とコレステロールの値が高く薬を服用中。14歳から近視で眼鏡が欠かせないが、最近1年あまり、加えて老眼の傾向が進む。
〜細かいことを気にして引きずる。一方忘れっぽい。興味のあることには些細なことにもこだわるが、それ以外は全くがさつで、極端である。自分では「アスペルガー症候群」ではないかと疑っているが、医師による裏付けはない。まれに、相手の会話が突然「音の連なり」になって言語認識が不能になることがある。言語野(ウェルニッケ野)がサボタージュを起こすらしい。それは突発的に起こり、短時間で治る。
〜カナヅチである。また、北国出身にもかかわらずスキーもスケートも苦手である。
〜酒は全く飲めない。タバコも吸わない。関東の空気に触れるとしょっちゅう目(の粘膜)が痛くなり、涙が止まらなくなる。また、引っ越すたびに数週間喘息になる。
〜どういうわけかじゃんけんが弱い。また、くじ運が一番良かったのは画報社新年会でコピックマーカーセットが当たったときである。ギャンブルには全く興味がない。
〜相当な音痴であり、カラオケが苦手である。自分の歌声を聞くなど身の毛もよだつ。それが理由で小・中では合唱に消極的で、「まじめにやっていない」と音楽教師に怒られ続けた。幼少期にヤマハ音楽教室に通わされたが、全然何も身についていない。
〜卒業研究発表会や、新入社員の教育期間後の業務報告会など、大勢の前で演台に立つと「意外に肝が据わって堂々と発表している」と言うイメージが外から見るとあるらしいのだが、本人的には「入念に作った台本通りに演じているだけ」で頭真っ白である。会社員であることに失敗した例があるように、基本的に「集団の中での立ち居振る舞い」に関する能力が著しく不足しており、空気が読めず自分からは何もしない傾向がある。
〜かつての経験からFLASHアニメーションにも興味を持っていたが、技能的に不足を感じ動き出していない。
〜ガンダムの時の一部の論争がトラウマになっており、自分の描いているものが「SFの範疇に入っているのかどうか」については極力自分から言わないようにしている。
〜偵察衛星の保有を正当化するために、日本の宇宙開発政策から「平和目的に限る」と言う部分が削除されたとき、たいそう失望した。軍事には使わない、と言う点が我が国独自の宇宙利用・開発行為において他国に誇るべき要素だと思っていたので、ショックが大きかった。[17]
〜一度だけ画報社の新年会に出て、柴田昌弘と握手してもらったことがあり、その時は漫画家になって良かったと思った。
〜一時Giant Reviveというリカンベント自転車に乗っていたが、上り坂に滅法弱い(自分の脚力では)と言う点がどうにも不都合で、アシスト自転車に変えた。
〜iTunesに入っているのはもっぱら古今のアニソンと特ソンとサントラとビートルズ、そしていくつかの70年代の邦楽である。サントラはヤマト関係をよく聴く。
ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン
「帰ってきた-」は ほぼ唯一リアルタイムで観た作品であり、セブンは成田亨のメカデザイン・発進シークエンスに惹かれた。同じ理由でジェリー・アンダーソン作品のサンダーバード[18]、謎の円盤UFOも好みである。なお、ウルトラシリーズにおいて放映と同時並行して「小学○年生」に掲載されていたウルトラ兄弟の独自設定には子供心に「本編と矛盾している」と違和感を覚えていた。[19]
宇宙大作戦及びスタートレックネクストジェネレーション
中学の時の宇宙大作戦が強く記憶に残っているが、TNGも観ている内に受け入れられるようになった。そんなに深くはまっていないが一応DS9やVOYやENTもいくつか見ている。
魔法少女もののアニメ
特に「アッコちゃん」「マコちゃん」「チャッピー」「メグちゃん」。再放送で視聴。時に社会批判を含む重いストーリーが語られた。
ゴジラ対ヘドラ
銀幕で観たのはこれと「ビオランテ」「GMK」だけである 。グロテスクな破壊力では一番と思っている。ゴジラが飛ぶところは目をつぶる
宇宙戦艦ヤマト
一作目が 別格だが「さらば」の衝撃も絶大であった。「永遠に」以降は(特にガンダムと比較して「古典的大芝居」なところで)複雑な心境を持つ。毒喰らわば何とやらで完結編も復活編も観たが、キムタク版は観ていない。
ジャングル大帝(1965年版アニメ、および全集版の漫画)
普通に考えればライオンが人間的思考をして食物連鎖を否定するのはどうかとは思うが。 ちなみに、89年版アニメも良い回はあるし、特にEDはとてもいい。近年スペシャルとして製作されたものは、完全に別物である。
機動戦士ガンダム
アムロと同年代であり、自閉的で理系、と言うところで重ねるところが多かった。「めぐりあい宇宙」より後は見ないふり(観た記憶を消去)をしている。オリジンも読んでいない。現在は「ガンダム」と言う単語自体聞きたくなくなっている。なお、イデオン「発動編」も一時的にはまった。
うる星やつら
原作も押井版アニメ(ビューティフルドリーマー含む)も好みである。
少年漫画でレギュラーの女の子がたくさんいてしかも全員露出度が高い(のにそれが日常のように描かれる)、と言う点で当時としては革命的であった。押井作品については、うる星を離れた後のものに対する評価は微妙である。
帰ってきたウルトラマン、DAICON OPアニメ(ダイコンフィルム)
アマチュアフィルム製作者の憧れであり目標であった。 今で言えば新海誠とか機動戦士のんちゃんとかやわらか戦車とかになるのかもしれないが。
おもいっきり探偵団覇悪怒組
1987年、日曜朝にやっていた「ロボット8ちゃん」や「ペットントン」「もりもりぼっくん」の枠(一応原作・石ノ森章太郎)だが、シリーズ初の少年探偵団ものである。かつてのケンちゃんシリーズやNHK少年ドラマシリーズを彷彿とさせるジュブナイル的で秀逸なエピソードが多い。当時サークル数名でファンクラブに入会した。手帳は今でも持っている。(メンバーズNo.00033)この年は本作とメタルヒーロー枠「メタルダー」、あと新枠で「ライダーBlack」があり特撮的に豊作であった。
鳥人戦隊ジェットマン
戦隊シリーズで好きな作品の1、2を争う。もう一つ好きなのは作風の全く違う激走戦隊カーレンジャーである。最近では2009年のシンケンジャーや2011年のゴーカイジャーも割合観ている。
エルデガイン
1990年頃、「コミックコンプ」 で一番次回が楽しみだった漫画である。作者は今どうしているのだろう(mixiに何年か前までいたようなのだが…)。
中空知防衛軍
最初に触れたのは同人誌版ではなく「(旧)リュウ」版である。 きっかけは「舞台が北海道だったから」。学生時作ったペーパーアニメにはホゲラや宇宙家族カールビンソンのキャラがしばしば登場する。現在においても、吹き出しの形や描き文字などに影響の痕跡がある。
燃えよペン
売れない漫画家にはない苦労がある。アオイホノオも好き。
ガメラ 大怪獣空中決戦
どこに出しても恥ずかしくない特撮映画を久しぶりに観た
新世紀エヴァンゲリオン
個人的影響で言うとそんなでもないのだが、もっと若い頃に観ていれば 、はるかに深くはまっていただろう。
君が望む永遠(PCゲーム)
ドロドロがたまらない。恋愛AVGなんて(そもそもゲーム自体)ほとんどやらないが、あるきっかけでゲーム誌の付録で第一章をやって大はまりした。
手塚治虫
特に説明不要
アイザック・アシモフ
発想と、サクサクすすむ小気味よさがある。
星野 之宣
2001夜、残像、ブルーワールド、ムーンロストなど。最初に読んだのはSFマガジン別冊かなにかの「灼ける男」である。
岩崎一彰(賀都彰)
天体細密画の大家。 「テティスから見た土星」に代表されるエアブラシを使った超リアルな天体画はEVALADYの宇宙描写の手本である。1998年頃、伊豆高原にある天体観測ドーム付き美術館で一度本人に会ったことがある。
実相寺昭雄
レンズ歪みによる異空間的絵作り
ゆうきまさみ
アニパロ漫画というものが面白いものだ、と最初に気付かせてくれた。1980年代前半くらいの月刊OUTの執筆陣には多かれ少なかれ全員から影響を受けている。
川嶋晃
編集者。御米をスカウトした張本人であり、長い間、有形無形問わずなにかと世話になり、足を向けて寝られないほどの恩があるが、 5年前、あるきっかけで関係が途切れたままになっている。(この点、悪いのはこっちなので修復したいとは思っている。)。燃えよペンで「梅書房の川中島さん」と呼ばれていた人物のモデル。ある人をして「変身前の仮面ライダー」と言わせるほど熱いものを持っている。
大石宏児
編集者。脚注[10]参照
笹本祐一
一人でこもっていた御米にいろいろな繋がりを取り持ってくれた恩人。現状、札幌で作家で知人と言ったら彼一人しかいない。 フットワークの軽さと守備範囲の広さ、行動力は尊敬に値する。
園田健一
学生時から参加していた同人サークル「MANUFACTURE」が同人誌づくりの理想・目標としていたのが1980年代前半の園田健一率いる「サークルVTOL」だった。作業部屋(くわはらひろとのアパート)には同人誌「VTOL」「STOL」「メカオペ」などが無造作に置かれており、御米もしょっちゅう読んでいたので間接的に影響を受けている。なお2002年より、サークル「元祖園田屋」発行の「メガトンパンチ」シリーズに、主に飯閃名義で原稿を出している。
トニーたけざき
「VTOL」メンバー(嶽崎千尋)として以前より存在は知っていたが、「岸和田博士の科学的愛情」など超絶的作画水準とパロディの切り口が最高。ガンダムオリジンは読んでいないのに、氏のガンダムまんが(単行本)は読んだ。
岡嶋幸夫
現・裁判所勤務の公務員。サークル 「MANUFACTURE」代表&メイン執筆者として、妥協のない緻密な作画に影響を受けた。小岩の部屋を引き払った後ほとんど交流がないが、その後はビデオ撮影とその編集が趣味の中心であるらしい。「MANUAL2」内の彼の漫画は途中で(次回に引っ張る形で)終わっており、続きが期待されたが永遠に未完のようである。彼にとっては漫画単体よりも「その同人誌全体が一つの世界観を表現する」事が最重要であったようだ。
ALBERT COMPANY あるいは E=mc2
当時同人作家・イラストレーター。1993年頃の絵柄にかなり影響を受けている。
大槍葦人
ここ5年くらいの少女絵ではそのセンスの良さにおいて筆頭と思っている 。影響と言うより、すでに「真似られないレベル」である。同じような憧れの対象としては、けろりん、村田蓮爾 などがいる。
☆は御米椎名義、●はみよね椎名義、◎は飯閃澪名義であることを示す。単行本未収録の単体作品は■を付す。
・宇宙課々付EVALADY(エヴァレディ)全2巻(竹書房バンブーコミックス)
1994/4-第1巻初版発行、
1995/8-第2巻初版発行☆「コミックガンマ」連載1992〜1995(20回)
・TEXTURE HEROINE(テクスチャーヒロイン)全1巻(大都社ハードコミックス)
1998/4初版発行☆表題作「ヤングキングアワーズ」連載1996〜1997(5回)、他読み切り数点(1995〜1997)少量増刷
・よい筐体には (HeartMark)を! 全1巻(富士美出版フジミコミックス)
1999/3初版発行◎「ナチュラルハイ」掲載の読み切り短編集1997〜1998
・それいけ!宇宙戦艦ヤマモトヨーコRemix (原作・庄司卓)全2巻(角川書店カドカワコミックスドラゴンジュニア)
2000/1-第1巻初版発行、
2000/7-第2巻初版発行●「ドラゴンジュニア」連載1999〜2000(13回)
・ハコイリ (HeartMark)全1巻(蒼竜社プラザコミックス)
2002/3初版発行◎読み切り短編集1997〜2002。内容は「良い筐体には〜」と重複多し
・リケイくん開発しましょ 全1巻(蒼竜社プラザコミックス)
2002/8初版発行◎読み切り短編集1998〜2000。「カラフル萬福星」掲載の読み切り中心
・まほろリンクス(天国山猫)全1巻(少年画報社YCコミックス)
2003/11初版発行☆「ヤングコミック」連載2002〜2003(6回)、読み切り2点(2001、2003)
・暴君ティラノさん(原作・真鍋譲治)全1巻(角川書店カドカワコミックスドラゴンジュニア)
2005/7初版発行●「ドラゴンエイジ」単発2話2004、2005
・■タロウの夏(コミックドラゴン)16p●1997/8※2000年同人誌にまとめて領布
・■タイフーン・イド(コミックドラゴン)16p●1997/9※2000年同人誌にまとめて領布
・■ウォーカーP7(コミックドラゴン)16p●1997/10※2000年同人誌にまとめて領布
・■地底潜艦(コミックドラゴン)16p●1997/11※2000年同人誌にまとめて領布
・■コズミッククライマーズ(コミックドラゴン)全6話190p●1998これも同人誌にまとめる意思があったものの、版元から原稿引き上げを断られた。[20]
・■遠き声より近くの宇宙(ドラゴンマガジン)16p●1999
・■回路な問題 4話で中断(ヤングペンギン)◎1999飯閃名義だが非成年。ゴタゴタで時間が取れず休止している間に休刊、描く場所が無くなる。ヒロインの顔が誰かに似ている(というか、似せた)
・■珠玉あとらす 4話で中断(コミックドラゴン)●2001既述の通り、鬱により未完
・■N.C(メンズヤング)20p☆2003/11
・■小悪魔の肉球(ヤングキング)26p☆2004/1
・■OverHole(桃姫)16p◎2007/12
・■AmuseRegend(桃姫)16p◎2008/1
・■ご奉公人(メンズヤング)20p◎2008/9
・■若妻データ(メンズヤング)4p◎2008/10。カラー
(2008年暮れ、ビームに30p投稿したが選外。)
(2009〜2010年、個人依頼により脚本付きを134pまで進むも中断中)
(2011年持ち込み用に60p。自己判断でお蔵入り)
(2011年暮れに32p、翌1月に持ち込み→どこも没)
・妖精作戦(シリーズ全4巻の新装版。笹本祐一著。ソノラマ文庫(朝日ソノラマ))☆1994/10〜11 カバー・口絵・挿絵。アナログ
・ふわふわの泉(野尻抱介著。ファミ通文庫(エンターブレイン))☆2001/4カバー・口絵・挿絵。デジタル彩色。(第33回星雲賞日本長編部門受賞作)
・宇宙へのパスポート(笹本祐一著。朝日ソノラマ)☆2002ロケット解説図モノクロ。(第34回星雲賞ノンフィクション部門受賞作)
・宇宙へのパスポート2(笹本祐一著。朝日ソノラマ)☆2003ロケット解説図カラー・モノクロ。(第35回星雲賞ノンフィクション部門受賞作)
・ぬすまれたタイムマシン(レイ・カミングス著、南山宏訳。岩崎書店冒険ファンタジー名作選5)☆2003表紙・挿絵 ※旧題・時間超特急
・逃げたロボット(レスター・デル・レイ著、中尾明訳。岩崎書店冒険ファンタジー名作選15)☆2004表紙・挿絵
・百万の太陽(福島正実著。岩崎書店SF名作コレクション9)☆2005表紙・挿絵
・(2010年、学術専門書の挿絵、解説図など32点描くも出版中止)
・[コラム]飯閃澪のCG奮闘記(ビブロス カラフル萬福星)◎1998〜2002
・[コラム]いきなり飯閃澪のおすすめ!(富士美出版 ヤングペンギン)◎1999 「宇宙戦艦ヤマトを知っていますか?」など。主にSFX映画の宣伝。
・イラスト(自己紹介・単行本宣伝)(みのり書房 月刊OUT)☆1994.8 半ページ1枚。翌年の休刊時(最終号)にもはがきサイズのメッセージを提供。
・作例イラスト(MODE、デジターボ POWERTONE2)☆1999 1点
・マーク(月周回衛星SELENE計画のミッションパッチ案)→没。1999
・イラスト提供(SF大会DAICON7)☆2008 絵はがき用カラー1点、冊子表紙用モノクロ2点
・写真起こし作例イラスト(「女の子キャラ練習帳「基本デッサン」」大泉書店。東京アニメーター学院監修)☆2008 カラーと、その線画状態のもの各7点、計14点
---------------------
・[個人誌]EPITAXY☆1991 1988年暫定版(EPITAXY 1/2)を出している。学漫・同人でそれまで描いたものにオープニング漫画や記事を加えたもの
・[個人誌]nanoHeart☆1992 コピー誌。EVALADYセルフパロ4コマ漫画など
・[個人誌]ESCAPISM METHOD☆1992 「×××SEASON」シリーズに描いた3作をまとめたもの
・[個人誌]脳細胞自滅☆1996 えう゛ぁんかぷせる の補足記事などのコピー誌
・[個人誌]タロウの夏☆2000 コミックドラゴンの1997年の4作をまとめたもの
(他「CooSooBook(1988)」「M's(1987)」「That's shoo new!(1996)」など、ラフを集めた個人コピー誌がいくつか存在)
※以下、個人誌に収録済みの漫画は★を付す。
・[サークル同人誌] CAPSULE 1☆1985「サークル・β-capsule」漫画1本19p(コミケ向け創作一作目)この漫画の敵役の頭部造形は偶然だが10年後のエヴァ初号機に似ている。[22][23]
・[サークル同人誌] CAPSULE 2☆1986「サークル・β-capsule」★漫画1本12p(前年に作った特撮フィルムの後日談漫画)
・[サークル同人誌] CAPSULE 3☆1987「サークル・β-capsule」表紙と★漫画1本13p(前回のキャラクターを使ってメンバーが競作する企画もの)あと座談会。
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.1☆1986「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙+予告漫画・文
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.2☆1987「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙+★4コマ・文(思いっきり探偵団覇悪怒組+超人機メタルダー本)
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.3☆1987「サークル・β-capsule」コピー誌。絵+文(円谷本)
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.4☆1988「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙+絵+文(帰ってきたウルトラマン本)
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.5☆1989「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙+絵+文(自主製作アニメ本)
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.6☆1991「サークル・β-capsule」コピー誌。設定絵(地球防衛軍本)
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.7☆1992「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙+絵+文(「私の考えたウルトラマン」本)
・[サークル同人誌] CAPSULE jr.8☆1993「サークル・β-capsule」コピー誌。絵+文(有言実行シュシュトリアン本)
・[サークル同人誌]JUNKTION☆1987「サークル・MANUFACTURE」カット数点・編集ページ(人間写植)
・[サークル同人誌]MANUAL 2☆1989「サークル・MANUFACTURE」漫画1本30p+編集ページ(カットなど)+裏表紙。1992年に編集ページなど大幅加筆した完全版が出る。そのアンケート回答者プレゼントとして小冊子を出す予定で5枚ほど描いたが、出ずに終わる。
・[サークル同人誌]CONCEPTION☆1989「サークル・MANUFACTURE」コピー誌。表紙・MANUAL2の予告漫画
・[サークル同人誌]HOP SEASON☆1990「サークル・MANUFACTURE」表紙+★漫画1本16p。
・[サークル同人誌]STEP SEASON☆1990「サークル・MANUFACTURE」表紙+★漫画1本16p
・[サークル同人誌]FINAL SEASON☆1991「サークル・MANUFACTURE」表紙+★漫画1本23p
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 1☆1994「サークル・β-capsule」表紙と漫画と文章。(ヒーロー本)
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 2☆1995「サークル・β-capsule」表紙と漫画と文章。(ヒロイン本)
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 3☆1995「サークル・β-capsule」表紙と漫画1本4p。(冒険もの本)
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 4☆1996「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙と漫画1本(最終回本)
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 5(えう゛ぁんかぷせる)☆1996「サークル・β-capsule」表紙・裏表紙と漫画1本12p+4コマ4本。(エヴァンゲリオン本) ※HYPER CAPSULE 6の時は帰郷のため参加していない
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 7☆1999「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙と絵と文章。(ベターマン本)
・[サークル同人誌]HYPER CAPSULE 8☆2000「サークル・β-capsule」コピー誌。表紙とヤマモトヨーコ関係の4コマと文章。事実上サークル最終号
・[サークル同人誌]MACHINERY PACKAGING Vol0.5E 動物と機械☆1993「サークル・琴平商店」★漫画1本4p。琴平商店とは大西勇二のサークルである。
・[サークル同人誌]MACHINERY PACKAGING Vol0.5H HYPER ROBOTS WAR☆1996「サークル・琴平商店」漫画1本2p(ロボットアニメ本)
・[サークル同人誌]エンジェル☆リンクス エピソード0 ☆1999「サークル・天環書房」イラスト1点。作者である伊吹秀明本人による同人誌である。
・[サークル同人誌]Capriccio! ☆1997「サークル・綾椎企画」漫画1本 鷹司綾との二人誌。2002年に改訂増補版を出す。学漫誌PANDORA 10の合作企画で登場した鷹司綾デザインのキャラを使った本
・[サークル同人誌]綾椎妃宝館◎2004「サークル・綾椎企画」漫画1本+絵。鷹司綾との二人誌。成年向け。
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 1☆◎2002「サークル・元祖園田屋」漫画2本7p+イラスト(設定)2p、カット2点(テーマ・ヤマト)描いたのはちょびッツなど
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 2☆◎2002「サークル・元祖園田屋」漫画8p(テーマ・バイオハザード)描いたのは夢幻紳士スチャラカ編
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 3☆◎2003「サークル・元祖園田屋」漫画4p(テーマ・園田健一)描いたのはラムロイド+キングゲイナー
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 4☆◎2003「サークル・元祖園田屋」漫画2本2p(テーマ・エマ&シャーリー)
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 5☆◎2004「サークル・元祖園田屋」漫画2本6p、イラスト2p(テーマ・エマ) ※2004冬〜2006は不参加
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 9☆◎2007「サークル・元祖園田屋」カット2点(テーマ・らきすた)
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 10☆◎2007「サークル・元祖園田屋」漫画2本10p、イラスト1p(テーマ・電脳コイル)
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 11◎2008「サークル・元祖園田屋」漫画2本6p(テーマ・神様キャラ)描いたのはかみちゅ+009
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 12◎2009「サークル・元祖園田屋」漫画6p、イラスト1p(テーマ・自動車)描いたのはスーパージェッター
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 13◎2010「サークル・元祖園田屋」漫画7p、カット1点(テーマ・食)描いたのはミスター味っ子
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 14◎2011「サークル・元祖園田屋」漫画6p、イラスト1p、カット1点(テーマ・魔法少女)描いたのはパステルユーミ
・[サークル同人誌]メガトンパンチ 15◎2011「サークル・元祖園田屋」漫画8p、カット1点(テーマ・gdgd妖精s)
・[サークル同人誌]朝鮮飴 Ver.21☆2009 「サークル・元祖園田屋」漫画7p(テーマ・本当の朝鮮飴)描いたのは「ねぎぼうずのあさたろう」+ご当地ゆるキャラ
あとサークル名・誌名を失念したが1989年と1990年に1本ずつ(17p+8p)描いている。このうちの1本は、神経麻痺を起こしたときのEVALADY短縮回の穴埋めに使われた。
***
・[学漫機関誌]PANDORA 13「千葉大漫研」1985 イラスト一点
・[学漫機関誌]PANDORA 14「千葉大漫研」1985 ★漫画1本6p
・[学漫機関誌]PANDORA 15「千葉大漫研」1986 ★漫画1本4p
・[学漫機関誌]PANDORA 16「千葉大漫研」1986 ★漫画1本17p、表紙
・[学漫機関誌]PANDORA 17「千葉大漫研」1987 ★漫画1本2p、企画「しりとり合作漫画」1話目
・[学漫機関誌]PANDORA 18「千葉大漫研」1987 ★漫画1本2p
・[学漫機関誌]PANDORA 19「千葉大漫研」1988 ★漫画1本6p
・[学漫機関誌]PANDORA 20「千葉大漫研」1988 漫画1本2p
・[学漫・別冊]少女倶楽部 「千葉大漫研(有志)」☆1988 ★漫画1本6p
他に、アニ同有志による「少女漫画同好会」発行コピー誌にイラスト及び漫画数本(1985〜86。未完)。アニ同部内コピー誌(1984〜88)に記事、絵 多数(100枚以上)。
***
・[アニメーション]PLOT SERIES (1〜8)「アニメ同好会」1984〜1988 8oペーパーアニメ。一部切り抜きアニメ。マーカー着色。8作ではなく、1、2、3、4、5、6、6.5、7、8 の9作である。6.5は合作
・[アニメーション]戦後派 「アニメ同好会」1985 8oペーパーアニメ。マーカー着色。合作(一部のカットを委託)。PLOT 2.5と数えることもある。
・[アニメーション]1985年度新入生勧誘用オープニングアニメ「アニメ同好会」1985 8oペーパーアニメ。マーカー着色。合作(一部のカットを委託)。版権キャラだらけでストーリー無し。。作中、ハドソン夫人のガンアクションがあるが、アニメックのグラビアの分解写真の模写である。
他に、毎回企画される「しりとりアニメ」に1984年秋より参加。OBになってもしばらく続ける。また、紙芝居的フィルムとして、「カンパのお願い」「1987年春EDテロップ」あり。生涯動画作画枚数は大体3000枚程度(作品で2400枚+しりとり)。作品集フィルムの実写OP(1986秋)実験フィルム(1987春)あり。
***
・「自主製作特撮フィルム」魔獣ハンター チャバン 第1部(約15分) ☆1985 「特撮同好会」ヒーローデザイン、着ぐるみ製作、機電。特撮同好会はアニ同有志による集団。
・「自主製作特撮フィルム」魔獣ハンター チャバン 第2部、第3部(約21分+28分) ☆1987〜1988 「特撮同好会」ヒーローデザイン、脚本、監督、撮影、音響、光学合成。
1.^北海道ローカルの再放送枠では「ウルトラシリーズ」「洋物SFドラマ(シービュー号の海底科学作戦、宇宙大作戦、謎の円盤UFO)」「トムとジェリー」を頻繁にやっていた。
2.^2001年の時点で、この部は既に(何年も前に)消滅していたことが判明した。入学時には3年生中心でセルアニメを制作中で、セル塗りを手伝わされたが中核メンバーの卒業で製作を継ぐものがおらず、完成せずに終わる。
3.^このとき一時受験を諦め、アニメ専門学校「国際アニメーション研究所」の願書を取り寄せ、審査用の絵を描き、記入を全部済ませたが、出す前に親にばれて止められた。
4.^同時に私立の千葉工業大学にも受かっていた。既述だがこの大学はアニメ研のレベルが高く、後に「LS-1」が生まれる。
5.^Bコースとは昼間就職しているものを対象に夜間中心のカリキュラムを組んでいる履修コースだが、制限(取得単位数)付きで朝昼の講義も受けられ、卒業時の資格も通常の履修コース(Aコース)と区別はないなど、いわゆる夜間部(二部)とは異なる。新聞配達するつもりだったとはいえ昼に働いていないのに選択したのは、ぶっちゃけこっちの方が合格ボーダーラインが低かったから(3度目の受験で少しでもリスクが低い方が良かった)である。なお、志望する学科としてはギリギリまで「工業意匠学科」とどちらにするか迷った。
6.^やってることは電気と言うよりほとんど化学であった。ちなみに、アニ同以外に交友関係を作れず部内に同じ学科の者がいなかったので、ノートを見せてくれる人もおらず自力に頼るしかない。よって大概講義には真面目に出ていたし、最低限単位を取るだけの勉強はしていた。ただでさえ遅れて入学したので留年はしたくなかったのだ。
7.^この借金は最終的に2002〜2003年にかけて返済されたが、仕事が減少し、やがて来なくなった期間に消費され(引っ越しと上京が多すぎたのだ)すぐに底を突いた。
8.^竹書房のスターウォーズ関連書籍・文庫展開の一環で、「後日談の小説(ティモシー・ザーン著)のコミカライズ」と言う仕事であった。デザインなどの制約、ルーカスフィルム側からの修正要求(リテイク)が多く、また映画公開と同時に単行本化すると決まっており、逆算で各話のノルマ枚数が多いことから、準備の時点で既に気が張り詰め、胃の痛くなる仕事になると予想された。3話コンテが先行し、1話のペン入れが進んでいたが、仮に連載がこのまま実現したとしても、果たして完遂できたのか自信のないところがある。(労力と時間の節約のため、メカは模型の写真加工で何とかしようと考え、ガレージキットも組んだ)ゆえに、休刊の報を受けたときは、まず張り詰めていたものが切れて「苦労が無駄になっちまった!」という憤りの一方、心のどこかで「ホッとした」のも偽らざる事実である。
9.^国立の部屋では、他に家電製品(TV、EDβのデッキ、SVHSデッキ、ワープロ、コンパクトカメラ)が一斉に故障した。アパートの真上に高圧電線が走っていたのだが因果関係は不明。ちなみに、江古田の不動産屋は漫画家を名乗り担当編集を保証人にしても二つ返事でOKである。対して、札幌では漫画家というと一定収入のある保証人を二人立てなければならない。江古田は漫画家には実に住みよい所であり、鬱が(家族のゴタゴタが)なければ、もっとずっと居たかった。いまだに、「あそこへ帰りたい」と思うことがある。
10.^大石宏児氏。初めて会った時はアフタヌーン・モーニングの契約編集だった。後にコミックハウスに移籍。飯閃澪の生みの親である。指摘が的確で創造的な打ち合わせになり、とても頼りになる(彼を慕う漫画家は数多い)人物だったが、肝臓がんにより2009年急逝。あまりにも早すぎる死であった。
11.^2006年、プラットフォームをWindows機に乗り換えた。しかし心情的にはApple信者と言っていい。ジョブズの死去はショックであった。
12.^何十万何百万の壺とかならともかく、たかだか本数冊分の出費で殺意を抱く人もいないだろう。が、彼と矢追純一には心の奥底で「与太話で人生を歪められた」と言う被害者的意識が存在する。
13.^名前はアトム(オス)。2002年(レオちゃん)と2006年(ピートくん)に増えて3匹になったが、アトムは腎不全により2009年3月死んでしまう。とても良い性格で一番賢く、子猫時代からの彼の成長と病状の回復がシンクロし「特別な絆」を感じていたので、その日は涙が止まらなかった。
14.^猫が二匹になって移送が大変になり、かといって札幌に残したまま長期間留守にするわけにも行かなくなったため。
15.^話が来る直前に「夏コミに新刊を出し、当日上京してブースで売る」事が既に決まっていた。当日とはデッドの締め切りの2週間前。そのため同人誌の方はかなり前倒しをして作ったが、それでも影響がなかったとは言えない。今思えば、優先順位を考えてあえて「新刊も上京もキャンセル」にする決断も必要だったのかもしれないが…
16.^こちら側にどんな理由や事情があるにせよ、プロとして受けた仕事を一定のクオリティできちんと納品するのは最低条件(できて当たり前)であり、出した結果に対して弁解の余地はない。この一連の件では非はこちらにあることは明らかで、編集にも原作者にも(クオリティが低いと感じられたなら読者にも)ひたすら謝るしかない。要は能力面での自己評価が楽観的すぎた(甘かった)ということであり、色んな力が不足していたのだ。病み上がりでもっとスローな助走が必要だったのである。
17.^かの隣国の脅威を過小評価する気はないが、それはそれ。
18.^デザイン的にはキャプテンスカーレットの方がスマートで好きだが、ストーリーの内容的に(ミステロンの「殺して再生する」描写や主人公の不死身設定を示すためやたら「死ぬような目に遭わせる、特攻的行為を繰り返す」生命軽視とも取れる描き方が)今ひとつのれない(サンダーバードの「ただ一人の命の為に最善を尽くす」姿勢と正反対)のである。
19.^兄弟設定を拡張し「劇中の時間(時代)」と放映時期を完全にイコールにしてしまったメビウスの世界設定は、どうしても容認できない。第二期シリーズ以降はまだ許せるが、マンとセブンは別格であり、永遠に「未来のお話」なのだ。尚、世界観が全く異なる「平成シリーズ(初期の3部作)」では、ティガとガイアが特に好みである。
20.^主役メカ(シャトル)含め結構なトンデモ的強引かつ無茶な状況設定があるが、シャトルがフェアリングに包まれて発射される件については(元々「ギララ」に出てくる宇宙艇を意識したのだが)当時、無意味とする指摘があったが現在軍用小型シャトル(無人)X-37Bがフェアリングに隠されて打ち上げられており、あながちデタラメでも無かったろう、と思っている。(こんなことでドヤ顔してもしょうもないことだが)
21.^関わった本の数は多いが、そのほとんどは16pに満たない短編(2〜6pが多い)であったので、デビュー当時、商業誌仕事の水準に耐える枚数を維持できるだけのストーリー構築のスキルは低い状態だった。(短編はネタ一つと勢いがあればどうにかなるものだ。)24p以上をコンスタントに上げる自信は皆無であった。
22.^と言っても完全オリジナルではなく、Zガンダムに出てくるMS「マラサイ」頭部モノアイのところに逆三角形の目を二つ入れ「ひょっとこ口」の下に金属質の”怪獣風”口を加えただけである。(首から下は「S2機関風球体」以外全然似ていない。恐らくあれのイメージソースはカラータイマーだろうから、やっぱり関係ない)。
23^「今TVで出てきたアレ、前に自分がやってたものだ」的思考は、いわゆる”関連妄想”の疑いがあるので、その分割り引いて考える必要があるが、もう一つだけ。1997年の「勇者王ガオガイガー」のヒロインの「下の名前」と、私服のデザインが、92年に出した個人誌に描いたものとほぼ同一に見える。全く無根拠というわけではなく、個人誌を出した頃に晴海ガメラ館壁際のブースでたまたま右隣のサークルと新刊を交換したのだが、そのサークルの執筆メンバーと同じ名前が、ガオガイガーのスタッフの中に存在するので、「もしかしたら…」と、ちょっと思っている、と言う話。真偽を確かめる気はない。
御米椎or飯閃澪のmurmur(mixiページ。ブログのようなもの。mixiメンバーに限り、同人アニメなどの画像が「アルバム画像集」をクリックすることで見ることができる)
文中敬称略。2012年2月更新。
このページはレンタルサーバー上にあるので、御米が死ぬかどうかして維持費が滞った時点で削除されます。とりあえず2013年1月までは残りますが。 |