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■ はじめに
知恵袋で活動中の「専門家」大澤眞知子が、エイプリルフールのネタらしきものを1日早く投稿したようだ。
■ 出典不明
彼女が投稿した『子供の知能の発達を助ける環境』には、以下のような文章が含まれている。
冒頭の表記によれば、どうやら「北アメリカ最新の発達心理学」に基づいた知見らしい。だが、直後には「と言っても誤解のないように」とのことだ。これが全否定だとすれば、IQ値が上がることを証明したのは「北アメリカ最新の発達心理学」なのだろうが、ストレスを自分でコントロールできなくなることを証明したのは誰なのかがわからなくなる。それとも、「と言っても誤解のないように」というのはあくまで部分否定であって、この表記以降の知見も「北アメリカ最新の発達心理学」に基づいたものなのだろうか。
いずれにしても、「証明されています」と述べているだけで、出典が明記されていない。このノートを読んだだけでは、誰がいつ発表した論文や著作なのかがわからない。大澤は「リサーチ結果」に依拠することで「間違った幼児教育をやってしまっているお母さんへのアドバイス」をしているらしいが、そもそもそのリサーチが間違っていないのかどうか確認しようがない。
■ 何故IQを取り上げたのか
そもそも大澤は、このノートで突拍子もなく「IQ」を取り上げている。だが、子供の教育に関する膨大な研究の中から、何故IQを取り上げていくことにしたのかがこのノートには明記されていない。
IQと言う概念は、一筋縄ではいかない難解な問題を孕んでいる。雑談や無駄話の最中に引き合いに出す分には構わないだろうが、「専門家」として他人にアドバイスする際には、注意を払わなければならない。
厳密に言えば、「知能指数:IQ」は客観的に知能を測定するための概念なのではない。知能指数は、政治的に導入された歴史的な概念であると同時に、進歩史観的な発達段階論とも相性の良い概念である。確かにIQが高ければ、IQという尺度を用いた場合の「頭の良さ」を計ることもできる。だがIQは、それと共に「政治的な都合の良さ」をも言い表しているのである。「知能」というものに関わる者は、このことを注意深く意識しておかなければならない。
■ ビネー・シモン検査
人類史上最も早くに知能測定に成功したのは、発達心理学者であり実験心理学者でもあったアルフレッド・ビネーであると言われている。ビネーは自身の二人の娘が同じ境遇で育てられたにも拘らず、能力や適性に差異があることから、発達の個人差に関心を持つようになっていた心理学者である。そのビネーが1905年に、フランス政府からの要請を受けたことによって、遂に「知能テスト」を開発したのであった。ビネーに依頼したのは、パリ市の教育当局であった。1881年に義務教育が制度化されて、普通教育に付いていくことのできない子どもの処遇が教育政策課題となっていた。そこで、普通教育における子どもの適性を識別するための知能測定尺度が必要となったのである。
とはいえ、ビネーの「知能テスト」は、もともと小学校の入学生の中から知的障害児を発見するために開発されたものだ。そこでビネーは、テオドール・シモンと協力することで、普通教育を受ける子どもたちの適性を見分ける測定尺度として、このテストを改良したのである。これがいわゆる「ビネー・シモン検査法」の発端である。発達課題論と同じように、知能が児童期から青年期にかけて「段階」的に「発達」していくという仮説に基づいている。ビネーとシモンは、この仮説を想定した上で、テスト問題の回答難易度に対応する「精神年齢(mental age)」の尺度を考案した。それは年齢ごとに分類されている。各年齢ごとに約6割から7割の正答率となる難易度の問題を年齢に相当する問題として捉えられている。知能の測定結果は、正解した問題数の合計から算出される。その表現は今で言う「知能指数(Intelligence Quotient : IQ)」とは全く異なり、「◆歳▲カ月」といった形式であった。この検査法では、子どもの実際の年齢と精神年齢の差を照合することによって、知能の進退を計測していたのである。
■ 知能指数:IQの測定
ビネー・シモン検査法は、その後もアメリカをはじめ、世界中に普及した。この検査法は少なからずIQの測定にも影響を与えている。IQそのものを創案したのはドイツの心理学者ヴィルヘルム・シュテルンである。だがIQの測定を初めて実施したのは、ルイス・ターマンというアメリカの心理学者であった。ターマンは、ビネー・シモン検査をスタンフォード大学で応用し、「スタンフォード・ビネー知能尺度」を開発することで、IQの測定を可能にしたのである。IQの測定は、基本的に精神年齢と実年齢の比較から導くと言う点において、ビネー・シモン検査法と類似している。ただし、差分から導くのでは、同じ精神年齢と実年齢の差であっても、各年齢ごとにその差が意味するところが変わってしまう。例えば、実年齢が「5歳0カ月」であり、精神年齢が「4歳0カ月」である人間と、実年齢が「15歳0カ月」であり、精神年齢が「14歳0カ月」である人間は、その差分が1歳0カ月であるという点で同一である。しかしこれでは、児童期の発達の遅延と青年期の発達の遅延を比較することができなくなる。発達段階論的に言えば、一般に年齢の若い時期の発達の遅延の方が深刻だ。その後の発達課題に連鎖的に支障をきたすためである。だから知能の発達を論じたければ、各時期における実年齢と精神年齢の対応関係を比較できるようにしておかなければならない。
そこでスタンフォード・ビネー検査法では、IQを「精神年齢÷実年齢×100」という比で表現することになった。こうすると各時期の知能発達を比較することが可能になる。例えば実年齢が「5歳0カ月」であり、精神年齢が「4歳0カ月」である人間ならば、知能指数は4÷5×100=80となる。一方実年齢が「15歳0カ月」であり、精神年齢が「14歳0カ月」である人間の場合、知能指数は14÷15×100=93.33となる。したがって、後者より前者の知能指数が低いこととなり、知能発達の遅延は前者の方が深刻だと言えるようになる。ターマンはこの検査法を普通の子どもと優秀な子どもを識別することにも応用できると考えた。高IQが優秀であるという神話が蔓延したのも、この検査法が切欠となっている。
■ 多重と創造性の差異:神童の無常化
こうして知能概念が普及すると、知能を単一の概念として一般化するイギリスの心理学者チャールズ・スピアマンの「g因子説」よりも、知能を多種多様な概念として分類するアメリカの心理学者ルイス・サーストンの「多因子説」の方が支持を得るようになる。神経心理学者ハワード・ガードナーが提唱した「多重知能理論(theory of multiple intelligences)」は、まさにこの「多因子説」を支持する強烈な理論として知られるようになった。彼がこの理論を携えて1984年から実践している「プロジェクト・スペクトル(Project Spectrum)」は、この多重知能理論に方向付けられた教育的なコミュニケーションであると言える。
ガードナーは、「知能(intelligence)」を「創造性(creativity)」と区別することで説明している。両者の差異を引き立てる具体例となるのが、「神童(Prodigies)」だ。彼らは、他の子どもたちに比して、普通の成人ならばできるような活動に特化した才能を有している。しかしそれは、知能と創造性の双方を有していることを意味する訳ではない。神童は、あくまで早熟な熟達者に過ぎないのである。他の子供たちの成長が追い付けば、もはや神童は目立たない。一方、成人の熟達者たちは、元々神童であったか否かとは無関係に、創造的な業績を残すことがある。しばしば天才科学者として頭角を現すのは、科学において創造性を発揮した熟達者たちだ。知能が発達しているからといって、天才科学者になることが可能になるとは限らないのである。科学における才能を発達させるためには、知能のみならず、創造性が必要となる。
知能が高いからと言って、創造的であるとは限らない。創造的だからと言って、知能が高いとも言い切れない。この関連からガードナーは、「知能(intelligence)」を「ある文化で価値のある問題を解決する場合か、あるいは業績を創造する場合の文化的な場面で活性化され得る、情報処理のための生物心理学的な潜在能力」(Gardner, 1999, p33.)として定義している。この潜在能力を早くから開花させたのが神童なのだ。それ以外の子供たちでも、遅かれ早かれ、この潜在能力を顕在化させることで、自らの知能を高めることが可能なのである。
■ 多重知能理論
ガードナーが知能と創造性の差異を強調するのは、知能と創造性の相互作用を説明するためでもある。創造的な人間たちは、特定の領域に関連した高い知能を有している。だがガードナーによると、そうした創造性は、複数の知能が混合した状態を前提としているという。たとえばガードナーが例示するフロイトは、科学者としての十分な論理数学的な能力を持っていた。しかし彼は、一方で高い言語的な知能や個人的な知能も有していたという。だが他方で、彼は音楽的な知能を欠落させていた。したがってフロイトは、精神分析学という新学問領域では創造的ではあったが、音楽の領域では創造的ではなかったのである。つまり知能の種類が、社会や文化が容認する範疇の下で、創造性を方向付けている訳だ。
知能を種別するガードナーの前提にあるのは、彼自身が提唱する「多重知能理論(theory of multiple intelligences)」に他ならない。多重知能理論が言い表しているのは、機能的にモジュール化された知能が複数あるということである。彼は知能の相対的に独立した機能単位を「フレーム(frame)」と名付けている 。たとえば彼の暫定的な区別によれば、言語を理解する能力や言語で表現する能力を言い表す「言語的知能(linguistic intelligence)」、論理的・数学的に問題を解決する能力を言い表す「論理的・数学的知能(logical-mathematical intelligence)」、作曲や演奏や鑑賞に必要となる「音楽的知能(musical intelligence)」、身体を駆使した表現能力や問題解決能力となる「身体的・運動的知能(bodily-kinesthetic intelligence)」、空間情報や画像情報を認知・操作するための「空間的知能(spatial intelligence)」、他者の感情や意識を理解した上で社会的な人間関係を維持し続ける能力となる「対人的知能(interpersonal intelligence)」、自己自身を理解するための「個人的知能(intrapersonal intelligence)」、自然界の様々な生物と触れ合う能力となる「博物的知能(naturalistic intelligence)」、そして霊的なものや実存の問題に接するための「信仰的能力(spiritual intelligence)」など、複数のフレームが機能的に分化しているという。
■ 多重知能理論と加齢
こうしたフレームの区別には、実証性が不足している。しかし多重知能理論に実証性を問うようでは、この理論の重要な側面を見落とすことになる。この理論が指し示しているのは、個々人の「知能のプロフィール(profile of intelligences)」 に差異が伴うという点である。言い換えれば、我々人間は皆独自に複数の知能の配列を持ち合せているのだ。生得的にも文化的にも異なる背景を持つ個々人が同一の「知能のプロフィール」を持ち合せるのは、ありそうもない。知能を一義的に捉えてしまっては、別様にもあり得る知能の可能性に盲目的になってしまう。潜在能力としての知能を開花させるためには、むしろ知能の多様性に敏感にならなければならない。
尤も、成人の知能が一義的に捉えられてしまうのは、理由の無いことではない。ガードナーによれば、多重知能は多くの点で、子供時代特有の才能であるように見えるらしい。成人は、子供のように、必ずしも複数の知能モジュールに依拠した学習を展開している訳ではない。だがガードナーも指摘するように、加齢と共に多重知能の重要性が希薄化していく訳ではない。我々の知能は、加齢と共に、心の奥へと「内面化(internalized)」されていく。「知能のプロフィール」の個人差は、加齢と共に消え失せるのではない。それは潜在化してしまうのである。
それ故に成人同士の間でも、相も変わらず、個々人の知能には差異が伴っている。成人は皆、子供時代から歴史的に連続する固有の「知能のプロフィール」を持ち合せている。成人の間でも、それぞれ別様にもあり得る創造性を発揮し得るのである。ただし、高齢者間の差異は、明確に顕在化する機会が少ないのだ。
「我々の心の奥は個人的なのであり、誰も何をすべきかを正確に教えることができない。心にとっての挑戦は、街中であれ教室の中であれ、体験に意味を付与することである。心は、資源、すなわち我々の知能を最大限自由に使用するのである」。
Gardner, Howard., (1999) Intelligence reframed : multiple intelligences for the 21st century, New York : Basic Books, p112.
知能のプロフィールは、言わば多重知能理論が構成した経歴である。経歴は通常連続する均質な「人生」を前提としている。つまり知能のプロフィールは、進歩史観的な発達段階論と同じく、知能の発達の連続性を想定した概念なのである。それ故ガードナーの多重知能理論は、ビネー同様に、進歩史観的な発達段階論の範疇から脱け出すことができていない。「プロジェクト・スペクトル」のような一見して既存の近代教育制度の代替案であるかのように思える試みも、実際には未だ近代の教育システムの営みに過ぎないのである。
■ 発達概念と進歩史観
IQをはじめとした知能概念の背景にあるのは、発達段階論と進歩史観である。もともと「発達(Entwicklung: development)」とは、巻物を広げ、そこに記述されている文書を読みとることを意味していた。言い換えれば、発達と言う概念は、包みを広げて、中のものを外部化することを含意している。それはコメニウスやルソーをはじめとした自然主義的な教育論者たちが言うように、内在している善性を外部化することを意味する。そして段階を踏んで発達していくという人生観の背後にあるのは、かつてカントやヘーゲルが想定してきた進歩史観に結び付く。それは近代的な人間観と歴史観を前提としている。ビネをはじめとした発達心理学者も、シャーロット・ビューラーやロバート・ハヴィガーストのような発達段階論(課題論)者たちも、そして彼らの発達段階論を採用してきた近代教育学者たちもまた、こうした発達概念を常に「連続」する均質な「進歩」として認識してきたのである。
教育学の「知能」概念や「発達」概念に潜むのは、進歩史観に他ならない。そうした進歩史観を暗に受け入れている教育者たちは、苦悩や逸脱も教育的に機能すると見做してしまう。言うなればそれは「恋愛アドベンチャーゲーム」のようなものである。知能や発達を徒に認める者たちは、どのような苦悩や逸脱であれ、それは教育のハッピーエンドを生み出す「伏線」だと盲信してしまう。成功の「フラグ」が立てば、もはや失敗しないと錯覚してしまう。青年期の非行やカウンター・カルチャーへの参加などのように、どれほど反社会的な言動を続けようと、それはハッピーエンドへ向かう途中の「物語」なのであり、「最終的に若者は既存の社会の秩序に迎合してくれる」。そう考えることで、発達段階論的な近代教育に依拠する教育者たちは、後に状況や状態が大方好転すると期待するのである。
しかし現実は、ゲームのように甘くはない。我々はこのゲーム機を巨匠の文献と共に踏みにじることによって、不毛な仮想体験に浸っている教育者たちを夢から醒まさせてあげなければならない。さもなければ、既存の社会の秩序や既存の「物語=ストーリー」を受容するだけの社会人しか育たなくなってしまうのだ。 ■ 関連文献
Buhler, C. (1935) "The curve of life as studied in biographies," Journal of Applied Psychology, Vol 19(4), pp405-409.
Havighurst, R.J. (1972) Development tasks and education (3rd ed.) New York: MeKay.
Piaget, Jean. (1962) "The Stages of the Intellectual Development of the Child," Bulletin of the Menninger Clinic, 26, pp120-128.
Gardner, Howard., (1999) Intelligence reframed : multiple intelligences for the 21st century, New York : Basic Books.
辰野千寿(1995)『新しい知能観に立った知能検査基本ハンドブック』図書文化社。
滝沢武久(1971)『知能指数 発達心理学からみたIQ』中央公論社、中公新書。
■ ログ
http://megalodon.jp/2012-0331-1134-36/note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n50175
(アクセスする前にブラウザのJavaScriptを無効にしてください。) http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n50175
知恵袋で活動中の「専門家」大澤眞知子が、エイプリルフールのネタらしきものを1日早く投稿したようだ。
■ 出典不明
彼女が投稿した『子供の知能の発達を助ける環境』には、以下のような文章が含まれている。
- 「子供の教育は早いうちに手を打てば打つほど将来のIQ値が上がると証明されています。」
- 大澤眞知子(著)『子供の知能の発達を助ける環境』、URL:http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n50175、閲覧日時:2012/3/30 11:45
- 「幼児のときから、自分で考えることをせず、ただ座ってワークをやることを習慣づけられた子供は大きくなってからストレスを自分でコントロール出来なくなることも証明されています。」
- 大澤眞知子(著)『子供の知能の発達を助ける環境』、URL:http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n50175、閲覧日時:2012/3/30 11:45
冒頭の表記によれば、どうやら「北アメリカ最新の発達心理学」に基づいた知見らしい。だが、直後には「と言っても誤解のないように」とのことだ。これが全否定だとすれば、IQ値が上がることを証明したのは「北アメリカ最新の発達心理学」なのだろうが、ストレスを自分でコントロールできなくなることを証明したのは誰なのかがわからなくなる。それとも、「と言っても誤解のないように」というのはあくまで部分否定であって、この表記以降の知見も「北アメリカ最新の発達心理学」に基づいたものなのだろうか。
いずれにしても、「証明されています」と述べているだけで、出典が明記されていない。このノートを読んだだけでは、誰がいつ発表した論文や著作なのかがわからない。大澤は「リサーチ結果」に依拠することで「間違った幼児教育をやってしまっているお母さんへのアドバイス」をしているらしいが、そもそもそのリサーチが間違っていないのかどうか確認しようがない。
■ 何故IQを取り上げたのか
そもそも大澤は、このノートで突拍子もなく「IQ」を取り上げている。だが、子供の教育に関する膨大な研究の中から、何故IQを取り上げていくことにしたのかがこのノートには明記されていない。
IQと言う概念は、一筋縄ではいかない難解な問題を孕んでいる。雑談や無駄話の最中に引き合いに出す分には構わないだろうが、「専門家」として他人にアドバイスする際には、注意を払わなければならない。
厳密に言えば、「知能指数:IQ」は客観的に知能を測定するための概念なのではない。知能指数は、政治的に導入された歴史的な概念であると同時に、進歩史観的な発達段階論とも相性の良い概念である。確かにIQが高ければ、IQという尺度を用いた場合の「頭の良さ」を計ることもできる。だがIQは、それと共に「政治的な都合の良さ」をも言い表しているのである。「知能」というものに関わる者は、このことを注意深く意識しておかなければならない。
■ ビネー・シモン検査
人類史上最も早くに知能測定に成功したのは、発達心理学者であり実験心理学者でもあったアルフレッド・ビネーであると言われている。ビネーは自身の二人の娘が同じ境遇で育てられたにも拘らず、能力や適性に差異があることから、発達の個人差に関心を持つようになっていた心理学者である。そのビネーが1905年に、フランス政府からの要請を受けたことによって、遂に「知能テスト」を開発したのであった。ビネーに依頼したのは、パリ市の教育当局であった。1881年に義務教育が制度化されて、普通教育に付いていくことのできない子どもの処遇が教育政策課題となっていた。そこで、普通教育における子どもの適性を識別するための知能測定尺度が必要となったのである。
とはいえ、ビネーの「知能テスト」は、もともと小学校の入学生の中から知的障害児を発見するために開発されたものだ。そこでビネーは、テオドール・シモンと協力することで、普通教育を受ける子どもたちの適性を見分ける測定尺度として、このテストを改良したのである。これがいわゆる「ビネー・シモン検査法」の発端である。発達課題論と同じように、知能が児童期から青年期にかけて「段階」的に「発達」していくという仮説に基づいている。ビネーとシモンは、この仮説を想定した上で、テスト問題の回答難易度に対応する「精神年齢(mental age)」の尺度を考案した。それは年齢ごとに分類されている。各年齢ごとに約6割から7割の正答率となる難易度の問題を年齢に相当する問題として捉えられている。知能の測定結果は、正解した問題数の合計から算出される。その表現は今で言う「知能指数(Intelligence Quotient : IQ)」とは全く異なり、「◆歳▲カ月」といった形式であった。この検査法では、子どもの実際の年齢と精神年齢の差を照合することによって、知能の進退を計測していたのである。
■ 知能指数:IQの測定
ビネー・シモン検査法は、その後もアメリカをはじめ、世界中に普及した。この検査法は少なからずIQの測定にも影響を与えている。IQそのものを創案したのはドイツの心理学者ヴィルヘルム・シュテルンである。だがIQの測定を初めて実施したのは、ルイス・ターマンというアメリカの心理学者であった。ターマンは、ビネー・シモン検査をスタンフォード大学で応用し、「スタンフォード・ビネー知能尺度」を開発することで、IQの測定を可能にしたのである。IQの測定は、基本的に精神年齢と実年齢の比較から導くと言う点において、ビネー・シモン検査法と類似している。ただし、差分から導くのでは、同じ精神年齢と実年齢の差であっても、各年齢ごとにその差が意味するところが変わってしまう。例えば、実年齢が「5歳0カ月」であり、精神年齢が「4歳0カ月」である人間と、実年齢が「15歳0カ月」であり、精神年齢が「14歳0カ月」である人間は、その差分が1歳0カ月であるという点で同一である。しかしこれでは、児童期の発達の遅延と青年期の発達の遅延を比較することができなくなる。発達段階論的に言えば、一般に年齢の若い時期の発達の遅延の方が深刻だ。その後の発達課題に連鎖的に支障をきたすためである。だから知能の発達を論じたければ、各時期における実年齢と精神年齢の対応関係を比較できるようにしておかなければならない。
そこでスタンフォード・ビネー検査法では、IQを「精神年齢÷実年齢×100」という比で表現することになった。こうすると各時期の知能発達を比較することが可能になる。例えば実年齢が「5歳0カ月」であり、精神年齢が「4歳0カ月」である人間ならば、知能指数は4÷5×100=80となる。一方実年齢が「15歳0カ月」であり、精神年齢が「14歳0カ月」である人間の場合、知能指数は14÷15×100=93.33となる。したがって、後者より前者の知能指数が低いこととなり、知能発達の遅延は前者の方が深刻だと言えるようになる。ターマンはこの検査法を普通の子どもと優秀な子どもを識別することにも応用できると考えた。高IQが優秀であるという神話が蔓延したのも、この検査法が切欠となっている。
■ 多重と創造性の差異:神童の無常化
こうして知能概念が普及すると、知能を単一の概念として一般化するイギリスの心理学者チャールズ・スピアマンの「g因子説」よりも、知能を多種多様な概念として分類するアメリカの心理学者ルイス・サーストンの「多因子説」の方が支持を得るようになる。神経心理学者ハワード・ガードナーが提唱した「多重知能理論(theory of multiple intelligences)」は、まさにこの「多因子説」を支持する強烈な理論として知られるようになった。彼がこの理論を携えて1984年から実践している「プロジェクト・スペクトル(Project Spectrum)」は、この多重知能理論に方向付けられた教育的なコミュニケーションであると言える。
ガードナーは、「知能(intelligence)」を「創造性(creativity)」と区別することで説明している。両者の差異を引き立てる具体例となるのが、「神童(Prodigies)」だ。彼らは、他の子どもたちに比して、普通の成人ならばできるような活動に特化した才能を有している。しかしそれは、知能と創造性の双方を有していることを意味する訳ではない。神童は、あくまで早熟な熟達者に過ぎないのである。他の子供たちの成長が追い付けば、もはや神童は目立たない。一方、成人の熟達者たちは、元々神童であったか否かとは無関係に、創造的な業績を残すことがある。しばしば天才科学者として頭角を現すのは、科学において創造性を発揮した熟達者たちだ。知能が発達しているからといって、天才科学者になることが可能になるとは限らないのである。科学における才能を発達させるためには、知能のみならず、創造性が必要となる。
知能が高いからと言って、創造的であるとは限らない。創造的だからと言って、知能が高いとも言い切れない。この関連からガードナーは、「知能(intelligence)」を「ある文化で価値のある問題を解決する場合か、あるいは業績を創造する場合の文化的な場面で活性化され得る、情報処理のための生物心理学的な潜在能力」(Gardner, 1999, p33.)として定義している。この潜在能力を早くから開花させたのが神童なのだ。それ以外の子供たちでも、遅かれ早かれ、この潜在能力を顕在化させることで、自らの知能を高めることが可能なのである。
■ 多重知能理論
ガードナーが知能と創造性の差異を強調するのは、知能と創造性の相互作用を説明するためでもある。創造的な人間たちは、特定の領域に関連した高い知能を有している。だがガードナーによると、そうした創造性は、複数の知能が混合した状態を前提としているという。たとえばガードナーが例示するフロイトは、科学者としての十分な論理数学的な能力を持っていた。しかし彼は、一方で高い言語的な知能や個人的な知能も有していたという。だが他方で、彼は音楽的な知能を欠落させていた。したがってフロイトは、精神分析学という新学問領域では創造的ではあったが、音楽の領域では創造的ではなかったのである。つまり知能の種類が、社会や文化が容認する範疇の下で、創造性を方向付けている訳だ。
知能を種別するガードナーの前提にあるのは、彼自身が提唱する「多重知能理論(theory of multiple intelligences)」に他ならない。多重知能理論が言い表しているのは、機能的にモジュール化された知能が複数あるということである。彼は知能の相対的に独立した機能単位を「フレーム(frame)」と名付けている 。たとえば彼の暫定的な区別によれば、言語を理解する能力や言語で表現する能力を言い表す「言語的知能(linguistic intelligence)」、論理的・数学的に問題を解決する能力を言い表す「論理的・数学的知能(logical-mathematical intelligence)」、作曲や演奏や鑑賞に必要となる「音楽的知能(musical intelligence)」、身体を駆使した表現能力や問題解決能力となる「身体的・運動的知能(bodily-kinesthetic intelligence)」、空間情報や画像情報を認知・操作するための「空間的知能(spatial intelligence)」、他者の感情や意識を理解した上で社会的な人間関係を維持し続ける能力となる「対人的知能(interpersonal intelligence)」、自己自身を理解するための「個人的知能(intrapersonal intelligence)」、自然界の様々な生物と触れ合う能力となる「博物的知能(naturalistic intelligence)」、そして霊的なものや実存の問題に接するための「信仰的能力(spiritual intelligence)」など、複数のフレームが機能的に分化しているという。
■ 多重知能理論と加齢
こうしたフレームの区別には、実証性が不足している。しかし多重知能理論に実証性を問うようでは、この理論の重要な側面を見落とすことになる。この理論が指し示しているのは、個々人の「知能のプロフィール(profile of intelligences)」 に差異が伴うという点である。言い換えれば、我々人間は皆独自に複数の知能の配列を持ち合せているのだ。生得的にも文化的にも異なる背景を持つ個々人が同一の「知能のプロフィール」を持ち合せるのは、ありそうもない。知能を一義的に捉えてしまっては、別様にもあり得る知能の可能性に盲目的になってしまう。潜在能力としての知能を開花させるためには、むしろ知能の多様性に敏感にならなければならない。
尤も、成人の知能が一義的に捉えられてしまうのは、理由の無いことではない。ガードナーによれば、多重知能は多くの点で、子供時代特有の才能であるように見えるらしい。成人は、子供のように、必ずしも複数の知能モジュールに依拠した学習を展開している訳ではない。だがガードナーも指摘するように、加齢と共に多重知能の重要性が希薄化していく訳ではない。我々の知能は、加齢と共に、心の奥へと「内面化(internalized)」されていく。「知能のプロフィール」の個人差は、加齢と共に消え失せるのではない。それは潜在化してしまうのである。
それ故に成人同士の間でも、相も変わらず、個々人の知能には差異が伴っている。成人は皆、子供時代から歴史的に連続する固有の「知能のプロフィール」を持ち合せている。成人の間でも、それぞれ別様にもあり得る創造性を発揮し得るのである。ただし、高齢者間の差異は、明確に顕在化する機会が少ないのだ。
「我々の心の奥は個人的なのであり、誰も何をすべきかを正確に教えることができない。心にとっての挑戦は、街中であれ教室の中であれ、体験に意味を付与することである。心は、資源、すなわち我々の知能を最大限自由に使用するのである」。
Gardner, Howard., (1999) Intelligence reframed : multiple intelligences for the 21st century, New York : Basic Books, p112.
知能のプロフィールは、言わば多重知能理論が構成した経歴である。経歴は通常連続する均質な「人生」を前提としている。つまり知能のプロフィールは、進歩史観的な発達段階論と同じく、知能の発達の連続性を想定した概念なのである。それ故ガードナーの多重知能理論は、ビネー同様に、進歩史観的な発達段階論の範疇から脱け出すことができていない。「プロジェクト・スペクトル」のような一見して既存の近代教育制度の代替案であるかのように思える試みも、実際には未だ近代の教育システムの営みに過ぎないのである。
■ 発達概念と進歩史観
IQをはじめとした知能概念の背景にあるのは、発達段階論と進歩史観である。もともと「発達(Entwicklung: development)」とは、巻物を広げ、そこに記述されている文書を読みとることを意味していた。言い換えれば、発達と言う概念は、包みを広げて、中のものを外部化することを含意している。それはコメニウスやルソーをはじめとした自然主義的な教育論者たちが言うように、内在している善性を外部化することを意味する。そして段階を踏んで発達していくという人生観の背後にあるのは、かつてカントやヘーゲルが想定してきた進歩史観に結び付く。それは近代的な人間観と歴史観を前提としている。ビネをはじめとした発達心理学者も、シャーロット・ビューラーやロバート・ハヴィガーストのような発達段階論(課題論)者たちも、そして彼らの発達段階論を採用してきた近代教育学者たちもまた、こうした発達概念を常に「連続」する均質な「進歩」として認識してきたのである。
教育学の「知能」概念や「発達」概念に潜むのは、進歩史観に他ならない。そうした進歩史観を暗に受け入れている教育者たちは、苦悩や逸脱も教育的に機能すると見做してしまう。言うなればそれは「恋愛アドベンチャーゲーム」のようなものである。知能や発達を徒に認める者たちは、どのような苦悩や逸脱であれ、それは教育のハッピーエンドを生み出す「伏線」だと盲信してしまう。成功の「フラグ」が立てば、もはや失敗しないと錯覚してしまう。青年期の非行やカウンター・カルチャーへの参加などのように、どれほど反社会的な言動を続けようと、それはハッピーエンドへ向かう途中の「物語」なのであり、「最終的に若者は既存の社会の秩序に迎合してくれる」。そう考えることで、発達段階論的な近代教育に依拠する教育者たちは、後に状況や状態が大方好転すると期待するのである。
しかし現実は、ゲームのように甘くはない。我々はこのゲーム機を巨匠の文献と共に踏みにじることによって、不毛な仮想体験に浸っている教育者たちを夢から醒まさせてあげなければならない。さもなければ、既存の社会の秩序や既存の「物語=ストーリー」を受容するだけの社会人しか育たなくなってしまうのだ。 ■ 関連文献
Buhler, C. (1935) "The curve of life as studied in biographies," Journal of Applied Psychology, Vol 19(4), pp405-409.
Havighurst, R.J. (1972) Development tasks and education (3rd ed.) New York: MeKay.
Piaget, Jean. (1962) "The Stages of the Intellectual Development of the Child," Bulletin of the Menninger Clinic, 26, pp120-128.
Gardner, Howard., (1999) Intelligence reframed : multiple intelligences for the 21st century, New York : Basic Books.
辰野千寿(1995)『新しい知能観に立った知能検査基本ハンドブック』図書文化社。
滝沢武久(1971)『知能指数 発達心理学からみたIQ』中央公論社、中公新書。
■ ログ
http://megalodon.jp/2012-0331-1134-36/note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n50175
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