東日本大震災の発生から1年になるのを受け、県内では被災者がさまざまな思いを語る集いが開かれた。福島第1原発(福島県大熊町など)事故で避難を余儀なくされた「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」代表の佐藤幸子さん(53)は奈良市の講演で、「福島県は頑張らなきゃいけない、と言われています。私は頑張りたくない。これ以上、どう頑張れっていうんですか。私には『我慢しろ』と聞こえます」と語った。【山成孝治】
佐藤さんの講演は、奈良市公立学校教職員組合が2月25日に同市内で開いた「フクシマと奈良をつなぐ2・25集会」で行われた。
佐藤さんは福島第1原発から約40キロの距離にある福島県川俣町で農業を営んでいた。昨年3月11日の地震発生当日、自宅にいた子供2人を福島市内で暮らす長女宅に連れて行き、さらに13日に山形の友人宅に避難させた。「チェルノブイリの事故の時に、長男が4歳で、長女がおなかの中にいた。その時、たとえ微量でも被爆させてしまったと思い、ほんとうに悔やんだ。それで、一生懸命に勉強して、事故があった時は、子どもたちをまず100キロ逃がすと、決めていました」
佐藤さんにとって、原発事故の最初の「被害」は、地域の人々が「分断」されたことだった。「情報がまったくない中で、避難した人たちを見て、『一言も言わないで、同じ地域、集落にいる私たちを見捨てた』と言う人がいた」という。
それ以降も、信じられないことが次々に起きた。3月末に自分たちで用意したガイガーカウンター(放射線量測定器)を使って地域の学校で測定し、県教委に今後の対応について協議しに行った際、福島県はガイガーカウンターを1台も用意していなかった。5月1日に「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」を設立し、幼稚園や小学校の除染について交渉に行くと、相手から「計らないでください。高い数字が出たら、園児が来なくなってしまう」と拒否されたこともあったという。
「福島は『福』がいっぱいある県だったんです。おいしい水と空気、大地からとれる食べ物。けれど、この原発事故一つで、全部失われた。だから、今しなければならないのは、それを全世界に発信すること。できれば原発を全部止めて、暮らし方を変え、これからの未来をみんなで考えたい」
毎日新聞 2012年3月30日 地方版
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