未分類
おつるさんへの答え
>テンテンちゃんが言ってもいない脅されたとか
>クレジットカードの犯罪者だと嘘を
>吹田市議会議員さん他 10人以上の人に
>あちこちに電話で言いふらしてジェリーを排除しろ
>距離をおけと言った事を謝罪して下さい。
電話嫌いの私がどうして10人以上に
電話をしなければならないのでしょうか?
吹田市議会議員のKさんには
変な騒ぎに巻き込まれては傷がつくので
しばらく距離を置いて静観してくださいとは言いました。
その他は、心配して電話をくださった東京のKさんに
相談しただけです。
前にも書いたと思いますが
「クレジットカードの犯罪者」などとは言っていません。
「何のカードか知らないけど
もしクレジットカードが入っていたら大変なことになる」
と話したのです。
その根拠として、テンテンちゃんは
どこかのIDカードをジェリーが作る際に
キャッシュカードと保険証を貸したと書いてあったからです。
(これは最初のメッセではなく
おそらく3番目のメッセだったと思いますが)
保険証だけでも驚きなのに
キャッシュカードまで・・・
常識では考えられないですよね。
そして、私は「ジェリーを排除しろ」となど
言ったことはないのです。
私は私のやり方で活動しますし
彼女は彼女なりに活動すればいいというのが
私の考え方でしたから。
但し、それは周りに迷惑をかけない範囲でということですが。
テンテンちゃんが脅されたのは
保険証を借りる際ではなく
テンテンちゃんの書いた日記が
ジェリーさんのお気に召さなかったときに
電話で怒鳴りつけられて
書き換えさせられたときのことです。
言いがかりはやめてください。
>あなたが警察で事情聴取された時に
>クレジットカードの事を言ったのを謝罪して下さい。
参考人としての事情聴取のことですね。
私はその際、間違って答えないように
テンテンちゃんとのメッセの記録を
プリントアウトして持っていってましたから
そのようなことは言っていません。
これも、言いがかり、妄想の類?
>作本さんの事をネタにするのは卑劣です。
>もうやめて下さい。
ネタにしたのはあなたたちで
私は、疑問を持たれた方からの質問に答えただけです。
そのように、文句を言う前に
カトリックの教義からはずれることを
平気で言ったりしないでください。
私のブログで作本さんの名をあげていないでしょう?
天国についての説明をしただけです。
これもまた言いがかり。
>テンテンちゃんが、最初に送った自分のメッセージを
>おつるさんに見てもらいたいとお願いしているのです。
要するに、そのようにテンテンちゃんが答えざるを得ないほどに
あなたは彼女を責め立てたということですね。
>どうしてテンテンちゃんのお願いを無視するのですか。
>自分の都合の悪い事を隠すためにテンテンちゃんを利用する
>のはやめて下さい。
あのメッセには、
事件以外のさまざまなことが書かれていて
公開するようなものではないと何度も言っています。
内容についてあなたに説明したはずです。
>病的ってどういう事ですか?
>私は真摯にあなたに質問しても逃げて、影で
>悪口ばかり言うのはやめて下さい。
あなたは川東さんからのお答えも、
意味不明だと書かれていましたよね。
あなたはご自身が気づかないのかもしれませんが
ご自身が期待したようなこと以外の答えが返ってきたら
意味不明とか仰って、耳に入らないのでしょうか?
私は川東さんの返信を見せていただきましたが
理路整然としたお答えでしたよ。
そういう状態が際立っていて
あなたの「言いがかり」には
かなりの妄想が見受けられるので
病的と表現させていただきました。
あなたの悪口ばかり・・・って被害妄想なのでは?
>今まで、私が送ったお願いやコメントはすべて非公開にして
>都合のいい時だけ公開して叩くのですか?
あなたへの訣別のブログ記事は
あなたの記事を削除してほしいと願って書いたもので
あそこで泥仕合をするつもりはなかったから
わざわざ、あなたのメールアドレスを探し出して
お返事を差し上げたのです。
そのことは、その返信の際に書いていたはずですが。
今回は、普通の私のブログ記事に対するものだったので
ブログでお答えさせていただいただけです。
公開されてはお困りになるのでしたら
非公開設定をしてください。
>言いたい事があれば 陰口をやめて
>正々堂々と逃げないで 電話なりメールなりで
>伝えて下さい。
今さら、あなたに伝えたいことなどありません。
もう何を忠告しても聞いてもらえないと
この何年かでいやというほど思い知らされましたから。
この件の最初の電話も、
実は私も乗り気ではありませんでした。
だって、それまでに一度として
忠告を聞き入れてくれたことはなかったのですから。
でも、あなたのことを心配するFちゃんの願いもあり
Kさんもかけて欲しいと仰るのでかけたのです。
その結果、テンテンちゃんのことを最初から
「私、あの子のこと嫌いやねん」から始まり
あたかも異常者のごとく仰いましたよね。
あなたとの交信は不毛だと悟りました。
>荒巻さんやジェリーの事、警察に通報とか
>やめて下さい。
私は大阪府警とはあまり話したこともなく
あなたが親しくしているKさんが
「(府警)Fさんからジェリーちゃんのことを
何回も聞かれてるんですけど、
このことを話してもいいですかね」
と尋ねられたのは記憶にありますが・・・
通報なんて、これも妄想ですよね。
私が誰かれなく警察に通報しているとか
有りもしないことを書かないでください。
あなたがご自身のブログで何回も書かれていて
後の方のコメントでも書かれているので
厳しいことは分かっていますがお答えします。
ジェリーさんの人生に傷をつけたのは彼女自身です。
自分が蒔いた種は
自分で刈り取らなければならないのです。
○○のせいで私の人生は傷ついたなどと
思っている限り、真の更生はありませんし
それを諭してあげるのが、真の友情だと思います。
もうあなたにこれ以上答えるつもりはありません。
>クレジットカードの犯罪者だと嘘を
>吹田市議会議員さん他 10人以上の人に
>あちこちに電話で言いふらしてジェリーを排除しろ
>距離をおけと言った事を謝罪して下さい。
電話嫌いの私がどうして10人以上に
電話をしなければならないのでしょうか?
吹田市議会議員のKさんには
変な騒ぎに巻き込まれては傷がつくので
しばらく距離を置いて静観してくださいとは言いました。
その他は、心配して電話をくださった東京のKさんに
相談しただけです。
前にも書いたと思いますが
「クレジットカードの犯罪者」などとは言っていません。
「何のカードか知らないけど
もしクレジットカードが入っていたら大変なことになる」
と話したのです。
その根拠として、テンテンちゃんは
どこかのIDカードをジェリーが作る際に
キャッシュカードと保険証を貸したと書いてあったからです。
(これは最初のメッセではなく
おそらく3番目のメッセだったと思いますが)
保険証だけでも驚きなのに
キャッシュカードまで・・・
常識では考えられないですよね。
そして、私は「ジェリーを排除しろ」となど
言ったことはないのです。
私は私のやり方で活動しますし
彼女は彼女なりに活動すればいいというのが
私の考え方でしたから。
但し、それは周りに迷惑をかけない範囲でということですが。
テンテンちゃんが脅されたのは
保険証を借りる際ではなく
テンテンちゃんの書いた日記が
ジェリーさんのお気に召さなかったときに
電話で怒鳴りつけられて
書き換えさせられたときのことです。
言いがかりはやめてください。
>あなたが警察で事情聴取された時に
>クレジットカードの事を言ったのを謝罪して下さい。
参考人としての事情聴取のことですね。
私はその際、間違って答えないように
テンテンちゃんとのメッセの記録を
プリントアウトして持っていってましたから
そのようなことは言っていません。
これも、言いがかり、妄想の類?
>作本さんの事をネタにするのは卑劣です。
>もうやめて下さい。
ネタにしたのはあなたたちで
私は、疑問を持たれた方からの質問に答えただけです。
そのように、文句を言う前に
カトリックの教義からはずれることを
平気で言ったりしないでください。
私のブログで作本さんの名をあげていないでしょう?
天国についての説明をしただけです。
これもまた言いがかり。
>テンテンちゃんが、最初に送った自分のメッセージを
>おつるさんに見てもらいたいとお願いしているのです。
要するに、そのようにテンテンちゃんが答えざるを得ないほどに
あなたは彼女を責め立てたということですね。
>どうしてテンテンちゃんのお願いを無視するのですか。
>自分の都合の悪い事を隠すためにテンテンちゃんを利用する
>のはやめて下さい。
あのメッセには、
事件以外のさまざまなことが書かれていて
公開するようなものではないと何度も言っています。
内容についてあなたに説明したはずです。
>病的ってどういう事ですか?
>私は真摯にあなたに質問しても逃げて、影で
>悪口ばかり言うのはやめて下さい。
あなたは川東さんからのお答えも、
意味不明だと書かれていましたよね。
あなたはご自身が気づかないのかもしれませんが
ご自身が期待したようなこと以外の答えが返ってきたら
意味不明とか仰って、耳に入らないのでしょうか?
私は川東さんの返信を見せていただきましたが
理路整然としたお答えでしたよ。
そういう状態が際立っていて
あなたの「言いがかり」には
かなりの妄想が見受けられるので
病的と表現させていただきました。
あなたの悪口ばかり・・・って被害妄想なのでは?
>今まで、私が送ったお願いやコメントはすべて非公開にして
>都合のいい時だけ公開して叩くのですか?
あなたへの訣別のブログ記事は
あなたの記事を削除してほしいと願って書いたもので
あそこで泥仕合をするつもりはなかったから
わざわざ、あなたのメールアドレスを探し出して
お返事を差し上げたのです。
そのことは、その返信の際に書いていたはずですが。
今回は、普通の私のブログ記事に対するものだったので
ブログでお答えさせていただいただけです。
公開されてはお困りになるのでしたら
非公開設定をしてください。
>言いたい事があれば 陰口をやめて
>正々堂々と逃げないで 電話なりメールなりで
>伝えて下さい。
今さら、あなたに伝えたいことなどありません。
もう何を忠告しても聞いてもらえないと
この何年かでいやというほど思い知らされましたから。
この件の最初の電話も、
実は私も乗り気ではありませんでした。
だって、それまでに一度として
忠告を聞き入れてくれたことはなかったのですから。
でも、あなたのことを心配するFちゃんの願いもあり
Kさんもかけて欲しいと仰るのでかけたのです。
その結果、テンテンちゃんのことを最初から
「私、あの子のこと嫌いやねん」から始まり
あたかも異常者のごとく仰いましたよね。
あなたとの交信は不毛だと悟りました。
>荒巻さんやジェリーの事、警察に通報とか
>やめて下さい。
私は大阪府警とはあまり話したこともなく
あなたが親しくしているKさんが
「(府警)Fさんからジェリーちゃんのことを
何回も聞かれてるんですけど、
このことを話してもいいですかね」
と尋ねられたのは記憶にありますが・・・
通報なんて、これも妄想ですよね。
私が誰かれなく警察に通報しているとか
有りもしないことを書かないでください。
あなたがご自身のブログで何回も書かれていて
後の方のコメントでも書かれているので
厳しいことは分かっていますがお答えします。
ジェリーさんの人生に傷をつけたのは彼女自身です。
自分が蒔いた種は
自分で刈り取らなければならないのです。
○○のせいで私の人生は傷ついたなどと
思っている限り、真の更生はありませんし
それを諭してあげるのが、真の友情だと思います。
もうあなたにこれ以上答えるつもりはありません。
未分類
歌を聴くとは・・・
歌を聴くというのは、
その歌を通して
その人の思いやメッセージに耳を傾け、
そこから派生する情景などに思いを寄せたり、
歌う側、聴く側の思いも共有できたりする。
ある神父様が「海ゆかば」を歌われた。
普段はあまり歌われない神父様が
その司祭金祝(司祭叙階50周年)を
祝うために集った信徒の前で歌われた。
変な誤解を招かぬように、歌う前にこのように説明された。
「『大君の』を『神様』に置き換えて歌います。」
「私は右翼でも左翼でもありません」
そして、少し不安定な音程で懸命に歌われた。
その場におられた方々は拍手喝采だった。
私もその歌に感動した。
【海ゆかばの歌詞】
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ
それを神父様このような気持ちで歌われたのだ。
海を行けば、水に漬かった屍となり、
山を行けば、草の生す屍となって、
神様のみ足元にこそ死のう。
後ろを振り返ることはしない。
全てを捧げられて、司祭生活50年
司祭を志されてからを数えるならば
おそらく60年を越えるはずだ。
その年月の重みを感じずにはいられない。
この神父様の修道会は、
かつての安土桃山時代に26聖殉教者を出し
その後も多くの司祭・修道者が殉教した。
禁教になった後も隠れながら
全国の信徒に奉仕して回り、
捕まって殉教を遂げた司祭もいる。
神への奉仕者として命をささげた
尊い殉教者の血で祝福された修道会だ。
自身は名もなく小さな者でも
神への奉仕者として全てを投げ捨て
生きてこられた志を
感じずにはいられない歌だった。
そして、つけ加えるならば
この歌の動画をアップされた方の思い・・・
修道会の司祭であることから
全国各地に、この司祭を慕う信者が多くいる。
その人たちが皆集まることは不可能だ。
その全国の方々とも共に喜びを分かち合いたい!
神父様は金祝を迎えられて、こんなにお元気で
多くの信者に囲まれて
お祝いの会をしましたという喜びのメッセージ
なんとも微笑ましい動画
これを、得手勝手に利用する人がいる。
神父が「海ゆかば」を歌ったと勝ち誇り
正平協をからかうような記事。
このようなことは
この神父様の司祭生活50周年を傷つけ
周りの信者の心を傷つける行いだと知るべき。
神父様が「右翼でも左翼でもない」と仰っていたが
下手をすると、双方から攻撃されるかもしれない。
極端な民族主義者は
「大君」を勝手に置き換えるなど不逞の輩が・・・と
目くじらをたてる狭量な方もいるかもしれないし、
反対に、この歌はまぎれもない軍歌なのに
戦争を懐かしむかのように歌うとは何事!という
揚げ足取りをする方がいるかもしれない。
良識ある右翼・左翼の方はスルーしてください。
自分の記事の短慮を知るべきだ。
神父様の歌われた思いは深淵で、
カトリック精神・価値観に基づくもの。
他の事柄と勝手に結びつけないでください!
保守派と言われる信徒は
何よりも心を大切にするものです。
四旬節の黙想のテーマである
「隣人への思いやり」から
あえて苦言を呈したい。
その歌を通して
その人の思いやメッセージに耳を傾け、
そこから派生する情景などに思いを寄せたり、
歌う側、聴く側の思いも共有できたりする。
ある神父様が「海ゆかば」を歌われた。
普段はあまり歌われない神父様が
その司祭金祝(司祭叙階50周年)を
祝うために集った信徒の前で歌われた。
変な誤解を招かぬように、歌う前にこのように説明された。
「『大君の』を『神様』に置き換えて歌います。」
「私は右翼でも左翼でもありません」
そして、少し不安定な音程で懸命に歌われた。
その場におられた方々は拍手喝采だった。
私もその歌に感動した。
【海ゆかばの歌詞】
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ
それを神父様このような気持ちで歌われたのだ。
海を行けば、水に漬かった屍となり、
山を行けば、草の生す屍となって、
神様のみ足元にこそ死のう。
後ろを振り返ることはしない。
全てを捧げられて、司祭生活50年
司祭を志されてからを数えるならば
おそらく60年を越えるはずだ。
その年月の重みを感じずにはいられない。
この神父様の修道会は、
かつての安土桃山時代に26聖殉教者を出し
その後も多くの司祭・修道者が殉教した。
禁教になった後も隠れながら
全国の信徒に奉仕して回り、
捕まって殉教を遂げた司祭もいる。
神への奉仕者として命をささげた
尊い殉教者の血で祝福された修道会だ。
自身は名もなく小さな者でも
神への奉仕者として全てを投げ捨て
生きてこられた志を
感じずにはいられない歌だった。
そして、つけ加えるならば
この歌の動画をアップされた方の思い・・・
修道会の司祭であることから
全国各地に、この司祭を慕う信者が多くいる。
その人たちが皆集まることは不可能だ。
その全国の方々とも共に喜びを分かち合いたい!
神父様は金祝を迎えられて、こんなにお元気で
多くの信者に囲まれて
お祝いの会をしましたという喜びのメッセージ
なんとも微笑ましい動画
これを、得手勝手に利用する人がいる。
神父が「海ゆかば」を歌ったと勝ち誇り
正平協をからかうような記事。
このようなことは
この神父様の司祭生活50周年を傷つけ
周りの信者の心を傷つける行いだと知るべき。
神父様が「右翼でも左翼でもない」と仰っていたが
下手をすると、双方から攻撃されるかもしれない。
極端な民族主義者は
「大君」を勝手に置き換えるなど不逞の輩が・・・と
目くじらをたてる狭量な方もいるかもしれないし、
反対に、この歌はまぎれもない軍歌なのに
戦争を懐かしむかのように歌うとは何事!という
揚げ足取りをする方がいるかもしれない。
良識ある右翼・左翼の方はスルーしてください。
自分の記事の短慮を知るべきだ。
神父様の歌われた思いは深淵で、
カトリック精神・価値観に基づくもの。
他の事柄と勝手に結びつけないでください!
保守派と言われる信徒は
何よりも心を大切にするものです。
四旬節の黙想のテーマである
「隣人への思いやり」から
あえて苦言を呈したい。
社会と福音
『裁き』について・・・四旬節の考察
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕(ヨハネ8・3−11)
この聖書の箇所をある方が引用されてから
私のもとに、複数の問い合わせがありました。
その問い合わせを要約すれば
「カトリックは罪を犯した人間を
裁くな!野放しにしろ!という教えなのか?」
というものだったと思います。
これは躓きを与えることになりかねず
福音の意に反することにもなりますので
私の受け止め方をお話したいと思います。
まず、『裁く』ということには
3つの『裁き』が考えられます。
私たちはこの社会に生きているのですから
社会的な法律による『裁き』
イエズスを陥れるために、
納税について質問した人々に対して
お金を提示させ、その銀貨の皇帝の肖像を指摘し
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
と仰られました。
この世のもの(罪)は、
この世のもの(罰)で報いを受け、
神へのもの(罪)は神に・・・
これは、司法が処罰を決めるので
それについて、とやかく言うべきではないと思います。
次に、罪を犯した人への私たちの思いや態度
これを『裁き』と捉えることもできると思います。
3つ目は、神の『裁き』
以前に、私は自分の姿勢として
死者についてとやかく言うのは好まないと
書いたことがあります。
この世から神の領分に移った人を裁くのは
神への越権行為であり、
畏れ多いことだと思うからです。
神は全てを知っておられ、
行いだけではなく、心の中まで知っておられて
その上で裁かれるのです。
さて、今回は、私たちの態度について
取り上げてみたいと思います。
あの聖書の箇所で、
姦通の女はどのような態度だったのでしょうか?
引きたてられてきて、自分の罪を知っていて
殺されても仕方がないと
恐れおののいていたのは
簡単に想像できます。
ゆえに、イエズスは
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
と仰ったのです。
ここで重要なのは、『改心』だと思います。
キリスト教では『回心』といい
心を神の方に向け、立ち返ることを言います。
もし、この姦通の女が悪態をつき
「このくらいのことで・・・」とか
「よくも私を引きたてたな!」
などと悪態をついていたら、
このようなイエズスの言葉はあったでしょうか?
自分の罪を認めることが大切です。
まず、自分の罪を認め、
本当に罪深い人間だと自覚するならば
それは、態度や行いにあらわれるものだと思います。
そしてその人は悔い改め、
自分の犯した罪を償おうとするものです。
聖書の表面的な言葉だけを読むのではなく
心で読むならば
そのメッセージである
「自分の罪を認める」
「悔い改め」に
行きつくのではないかと思います。
深く悔いている人に対して
責め立てるようなことはしてはならないのです。
罪について言うならば
軽犯罪であるかどうかや
金額の問題ではないのです。
さて、キリスト教では、
今、『四旬節』と言って
復活祭の前の回心の季節を過ごしています。
四旬節には教皇様がメッセージをおくり
留意し黙想する指針を与えてくださいます。
「四旬節メッセージ」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/12lent.htm
「互いに愛と善行に励むように心がけましょう」
(ヘブライ10・24)という聖句をテーマになさっておられます。
「互いに思いやりをもちましょう」と呼びかけられ
兄弟姉妹に対する責任に言及されています。
私たちの「『プライバシー』を尊重するという仮面に覆われ、
利己主義から生じる冷淡で無関心な態度」を指摘され
思いやりを持つようにと諭され、
「他者に思いやりをもつことは、
身体的、道徳的、霊的といったあらゆる観点で、
他者によいことを望むことを意味します。」
と説かれています。
このメッセージが公表された際
教皇庁開発促進評議会議長のサラ枢機卿は
「兄弟間での忠告」に注目し、
教会には世界の不正義や貧困の状況を
非難する預言者的使命があることを強調されて、
こうした不正義に打ち勝つためには、
その状況の根底にある道徳的問題に
取り組まなくてはならないと説かれました。
特に富の許しがたいほどの不均衡により
最貧層はもっと貧しくなっていることを指摘されているのですが
「この兄弟間での忠告」は「思いやり」であるのです。
真の「思いやり」は
何も耳触りのいい言葉で慰めあい、
美辞麗句を連ねることではなく、
隣人が悪から立ち返るために
尽力することであると言えます。
カトリックには沈黙を
美徳のように扱うことがありました。
それによって、多くのいたいけない子供たちが
背徳司祭たちの犠牲となり
多くの子供たちの心と体を傷つけ、
その傷を深め、広めていきました。
被害者の訴えに対して、裁治権者である司教が
相応の処置をしなかったのです。
これに関連して
教理省のシクルナ神父は
「沈黙の文化自体が誤りであり不正義」
と指摘しています。
不正義を前にして沈黙することは
美徳ではなく、神への背信行為であるのです。
私たちカトリック信者は
四旬節メッセージを
自分への呼びかけとして受け止め
思い、言葉、行いに
反映していかなくてはならないと思います。
この聖書の箇所をある方が引用されてから
私のもとに、複数の問い合わせがありました。
その問い合わせを要約すれば
「カトリックは罪を犯した人間を
裁くな!野放しにしろ!という教えなのか?」
というものだったと思います。
これは躓きを与えることになりかねず
福音の意に反することにもなりますので
私の受け止め方をお話したいと思います。
まず、『裁く』ということには
3つの『裁き』が考えられます。
私たちはこの社会に生きているのですから
社会的な法律による『裁き』
イエズスを陥れるために、
納税について質問した人々に対して
お金を提示させ、その銀貨の皇帝の肖像を指摘し
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
と仰られました。
この世のもの(罪)は、
この世のもの(罰)で報いを受け、
神へのもの(罪)は神に・・・
これは、司法が処罰を決めるので
それについて、とやかく言うべきではないと思います。
次に、罪を犯した人への私たちの思いや態度
これを『裁き』と捉えることもできると思います。
3つ目は、神の『裁き』
以前に、私は自分の姿勢として
死者についてとやかく言うのは好まないと
書いたことがあります。
この世から神の領分に移った人を裁くのは
神への越権行為であり、
畏れ多いことだと思うからです。
神は全てを知っておられ、
行いだけではなく、心の中まで知っておられて
その上で裁かれるのです。
さて、今回は、私たちの態度について
取り上げてみたいと思います。
あの聖書の箇所で、
姦通の女はどのような態度だったのでしょうか?
引きたてられてきて、自分の罪を知っていて
殺されても仕方がないと
恐れおののいていたのは
簡単に想像できます。
ゆえに、イエズスは
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
と仰ったのです。
ここで重要なのは、『改心』だと思います。
キリスト教では『回心』といい
心を神の方に向け、立ち返ることを言います。
もし、この姦通の女が悪態をつき
「このくらいのことで・・・」とか
「よくも私を引きたてたな!」
などと悪態をついていたら、
このようなイエズスの言葉はあったでしょうか?
自分の罪を認めることが大切です。
まず、自分の罪を認め、
本当に罪深い人間だと自覚するならば
それは、態度や行いにあらわれるものだと思います。
そしてその人は悔い改め、
自分の犯した罪を償おうとするものです。
聖書の表面的な言葉だけを読むのではなく
心で読むならば
そのメッセージである
「自分の罪を認める」
「悔い改め」に
行きつくのではないかと思います。
深く悔いている人に対して
責め立てるようなことはしてはならないのです。
罪について言うならば
軽犯罪であるかどうかや
金額の問題ではないのです。
さて、キリスト教では、
今、『四旬節』と言って
復活祭の前の回心の季節を過ごしています。
四旬節には教皇様がメッセージをおくり
留意し黙想する指針を与えてくださいます。
「四旬節メッセージ」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/12lent.htm
「互いに愛と善行に励むように心がけましょう」
(ヘブライ10・24)という聖句をテーマになさっておられます。
「互いに思いやりをもちましょう」と呼びかけられ
兄弟姉妹に対する責任に言及されています。
私たちの「『プライバシー』を尊重するという仮面に覆われ、
利己主義から生じる冷淡で無関心な態度」を指摘され
思いやりを持つようにと諭され、
「他者に思いやりをもつことは、
身体的、道徳的、霊的といったあらゆる観点で、
他者によいことを望むことを意味します。」
と説かれています。
このメッセージが公表された際
教皇庁開発促進評議会議長のサラ枢機卿は
「兄弟間での忠告」に注目し、
教会には世界の不正義や貧困の状況を
非難する預言者的使命があることを強調されて、
こうした不正義に打ち勝つためには、
その状況の根底にある道徳的問題に
取り組まなくてはならないと説かれました。
特に富の許しがたいほどの不均衡により
最貧層はもっと貧しくなっていることを指摘されているのですが
「この兄弟間での忠告」は「思いやり」であるのです。
真の「思いやり」は
何も耳触りのいい言葉で慰めあい、
美辞麗句を連ねることではなく、
隣人が悪から立ち返るために
尽力することであると言えます。
カトリックには沈黙を
美徳のように扱うことがありました。
それによって、多くのいたいけない子供たちが
背徳司祭たちの犠牲となり
多くの子供たちの心と体を傷つけ、
その傷を深め、広めていきました。
被害者の訴えに対して、裁治権者である司教が
相応の処置をしなかったのです。
これに関連して
教理省のシクルナ神父は
「沈黙の文化自体が誤りであり不正義」
と指摘しています。
不正義を前にして沈黙することは
美徳ではなく、神への背信行為であるのです。
私たちカトリック信者は
四旬節メッセージを
自分への呼びかけとして受け止め
思い、言葉、行いに
反映していかなくてはならないと思います。
未分類
天国の質問に・・・
下記の質問をコメント欄でいただきました。
知人が亡くなったのですが
カトリックの方が、葬儀も終わらないのに「彼は天国にいます」言うのですが
カトリックでない人が死んでも天国にすぐに行けるのですか?
仏教なら、葬儀で仏になるための戒を授けられて
中陰を経て、仏になると聞いたことがあるのですが。
仏教徒は極楽浄土と言います。
まず、カトリック信者でない方々に誤解をお与えしたことを
代わってお詫びしたいと思います。
カトリックでは、仏教とは異なり、
亡くなって葬儀で戒を授けられて成仏へと進むというような
天国に行くために不可欠というものではないと思います。
カトリックの通夜、葬儀では故人が天国に早くあげられるように祈り、
また遺族や親しかった方々が悲しみから癒されるように祈ります。
カトリック信者ならば、亡くなると煉獄に行き
そこで生前に犯したさまざまな罪の浄化の期間を経て
天国に上げられるというのは、常識です。
しかしながら、最近では洗礼前の養成や信仰教育の場が形骸化して
教義を知らないままに信仰生活を送っている方々も多いようです。
信仰は洗礼、堅信を受ければ完成されるものではなく
生涯をかけて求めていくものです。
上記のような発言をされた方も
おそらく、自ら要理の勉強をなさっておられないのでしょう。
さて、極端な言い方をすれば
カトリックでは、死者のために祈るのは
煉獄にいる霊魂のために、早く天国に行けるように祈るのであって
天国に上げられた霊魂のために祈るのではないと思います。
なぜならば、天国は神のみもとなので、
神によって祝福されているのです。
天国にいる死者に神への取り次ぎを願って祈ることはありますが。
人が亡くなると、もう自分のために祈ることはできず
他者の祈りによって、煉獄の霊魂は早く天国へと引き上げられるのです。
ですから、死者への祈りは大切だと伝承されています。
カトリックでは、人間には生まれついて持って生まれた原罪があり
洗礼によって清められると教えています。
ですから、洗礼は天国への条件とも言えます。
では、カトリックではない方が亡くなると天国には行けないか?
昔は、キリスト教信者のみが天国に行けると言われていましたが
現代では、神のいつくしみによると言われています。
人間には神によって『良心』というものが備わっています。
キリストに出会うことなく生涯を終えることになっても
『良心』に従って生活していたならば
その善行に、神は目をとめられて
神のいつくしみによって天国に上げられるであろうと
推察しています。
天国は、キリスト教信者のみのものではありませんが
キリスト教信者ではない方々にとって困難な道のりと言えるでしょう。
「彼は天国にいます」と言うのは???
「亡くなられた方が一日も早く天国にあげられますようにお祈りします」
と、言うべきところなのでしょう。
人間が亡くなって、どの程度の期間を経て天国に上げられるかは
たとえ、カトリック司祭であっても把握できません。
亡くなった方の全てを知っているわけではないので・・・
そして、生前の過ちを償うのにどの程度の期間が必要かもわかりません。
亡くなってすぐに天国に上げられる方は、
聖人と呼ばれる特別な方々です。
人間として生まれながらに持って生まれる原罪からも守られ
罪のない状態で生まれ、亡くなってすぐに天国に迎え入れられた方は
イエズス・キリストの御母であられる聖母マリアのみです。
知人が亡くなったのですが
カトリックの方が、葬儀も終わらないのに「彼は天国にいます」言うのですが
カトリックでない人が死んでも天国にすぐに行けるのですか?
仏教なら、葬儀で仏になるための戒を授けられて
中陰を経て、仏になると聞いたことがあるのですが。
仏教徒は極楽浄土と言います。
まず、カトリック信者でない方々に誤解をお与えしたことを
代わってお詫びしたいと思います。
カトリックでは、仏教とは異なり、
亡くなって葬儀で戒を授けられて成仏へと進むというような
天国に行くために不可欠というものではないと思います。
カトリックの通夜、葬儀では故人が天国に早くあげられるように祈り、
また遺族や親しかった方々が悲しみから癒されるように祈ります。
カトリック信者ならば、亡くなると煉獄に行き
そこで生前に犯したさまざまな罪の浄化の期間を経て
天国に上げられるというのは、常識です。
しかしながら、最近では洗礼前の養成や信仰教育の場が形骸化して
教義を知らないままに信仰生活を送っている方々も多いようです。
信仰は洗礼、堅信を受ければ完成されるものではなく
生涯をかけて求めていくものです。
上記のような発言をされた方も
おそらく、自ら要理の勉強をなさっておられないのでしょう。
さて、極端な言い方をすれば
カトリックでは、死者のために祈るのは
煉獄にいる霊魂のために、早く天国に行けるように祈るのであって
天国に上げられた霊魂のために祈るのではないと思います。
なぜならば、天国は神のみもとなので、
神によって祝福されているのです。
天国にいる死者に神への取り次ぎを願って祈ることはありますが。
人が亡くなると、もう自分のために祈ることはできず
他者の祈りによって、煉獄の霊魂は早く天国へと引き上げられるのです。
ですから、死者への祈りは大切だと伝承されています。
カトリックでは、人間には生まれついて持って生まれた原罪があり
洗礼によって清められると教えています。
ですから、洗礼は天国への条件とも言えます。
では、カトリックではない方が亡くなると天国には行けないか?
昔は、キリスト教信者のみが天国に行けると言われていましたが
現代では、神のいつくしみによると言われています。
人間には神によって『良心』というものが備わっています。
キリストに出会うことなく生涯を終えることになっても
『良心』に従って生活していたならば
その善行に、神は目をとめられて
神のいつくしみによって天国に上げられるであろうと
推察しています。
天国は、キリスト教信者のみのものではありませんが
キリスト教信者ではない方々にとって困難な道のりと言えるでしょう。
「彼は天国にいます」と言うのは???
「亡くなられた方が一日も早く天国にあげられますようにお祈りします」
と、言うべきところなのでしょう。
人間が亡くなって、どの程度の期間を経て天国に上げられるかは
たとえ、カトリック司祭であっても把握できません。
亡くなった方の全てを知っているわけではないので・・・
そして、生前の過ちを償うのにどの程度の期間が必要かもわかりません。
亡くなってすぐに天国に上げられる方は、
聖人と呼ばれる特別な方々です。
人間として生まれながらに持って生まれる原罪からも守られ
罪のない状態で生まれ、亡くなってすぐに天国に迎え入れられた方は
イエズス・キリストの御母であられる聖母マリアのみです。
正義と平和
韓国カトリック教会の非常識
伊藤博文暗殺の安重根が「準聖人」になるのか
韓国カトリック教会が「福者」に推薦
2011/11/ 5 18:30
初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した民族活動家の安重根(アン・ジュングン)に対して、韓国のカトリック教会が「聖人」に準ずる「福者」に認定しようという動きを始めている。
韓国では「民族の英雄」とされるものの、日本では「テロリスト」と受け止める向きが多く、今後波紋を広げそうだ。
暗殺は「正当防衛であり、義挙」と韓国の枢機卿
安は1879年に現在の北朝鮮・海州(ヘジュ)で生まれ、1909年に中国・ハルビンで伊藤博文を暗殺。その場で逮捕され、翌1910年に処刑された。安は1895年に洗礼を受けてカトリック信者になり、「トマス」という洗礼名も持っていた。ただし、伊藤の暗殺が殺人を禁じたカトリックの教義に反するとして、安は長い間カトリック信者だとは認められてこなかった。だが、1993年になって復権が認められている。聯合ニュースによると、復権当時、韓国人としては初めて枢機卿になった故・金寿煥氏は、安の行動を「正当防衛であり、義挙とみなすのが正当」などと暗殺を正当化したという。
それから20年近くたって、さらにその動きが加速しつつあるようだ。韓国メディアが2011年10月31日の報じたところによると、安を「聖人」に準じる「福者」に推薦しようという動きが進んでいる。なお、カトリック教会が正式に福者として認めることを「列福」という。
現時点では、韓国のカトリック教会のソウル大教区の「列福列聖準備委員会」が安を含む551人を列福推進対象者に選び、その上部組織にあたる韓国カトリック司教協議会の列福列聖司教特別委員会に名簿を提出。その内訳は、近現代の「信仰の証人」24人と、朝鮮王朝統治下の殉教者527人。
これら527人の推薦理由は「殉教者として卓越した信仰の模範を示した」というもので、推薦理由を示すための写真、手紙などの資料や、証言を収集しているという。
手続きは簡単ではない
だが、これまでの列福の経緯を見ると、実際に列福されるまでのハードルは非常に高い。韓国の教会だけで列聖を決めることはできず、バチカンのローマ教皇庁に資料を送った上で、ローマ教皇庁が2度目の審査を行う。また、列福される人は、殉教者以外は最低1つの「奇跡」(超自然現象)を起こしている必要があり、調査には大変な時間がかかるとされる。
最近のケースでは、97年9月に死去したマザー・テレサは03年10月に、05年4月に死去したヨハネ・パウロ2世が11年5月に、それぞれ列福されているが、これは異例中の異例。数百年がかりになることも珍しくない。
例えば、日本人で最も最近に列福されたのは、08年のペトロ岐部ら188人。この188人はいずれも徳川幕府の禁教令による殉教で、1600年代前半のことだった。
http://www.j-cast.com/2011/11/05112270.html?p=1
これを読んで、感想は一言だけ
韓国の常識は世界の非常識
殺人者をいくら誤魔化しても
神の前では義人とはならない
「ギジン」でも
「義人」ではなく「偽人」
武器を持たない文民である伊藤博文を
銃撃して殺した犯人・安重根は
逮捕された瞬間
自分は戦争捕虜だと言ってのけた
戦争中ならば、即射殺が常識
どこまでも、女々しい男
大体、カトリックにおいて
殺人者が褒め称えられることはない。
それが如何に残虐非道な
ヒトラーや金日成、スターリン、毛沢東
のような極悪人であってもだ。
いくら国民がその殺人を正当化しようとも
キリスト教の教えからはそれに賛同してはならない。
昔、金寿煥枢機卿に近くでお会いしたこともある。
故人となった人のことをとやかく言うのは
私の主義には合わないのだが
金枢機卿についてはこれだけは指摘しておきたい。
彼の最大の過ち・・・
韓国が民主化した後
民族意識を高揚させるのではなく
真の福音化を目指すべきであったと思う。
その一つの現象として
安重根を義人としたこと
カトリックにおいて、キリスト教において
殺人を義としてはならない。
殉教というのは
信仰ゆえに命を落とすことであって
相手の命を奪い、
その結果として死刑になって死ぬことではない。
正当防衛?
相手は武器を持たず、
襲いかかってもいないのに、
わざわざハルピン駅まで出向いて銃撃するのを
正当防衛と呼ぶ?
安重根は、破門から外してもらっただけで
温情に値する。
それがどうして
福者になどなれようか・・・
カトリックでは、
神のしもべ→福者→聖人
この順に上げられていく。
神のしもべにも選ばれることはない。
彼を福者の候補とすることで
韓国カトリック教会の
異常な非常識さが際立つことだろう。
韓国がお得意の裏工作をしようとも
神の前には通用しないことを知っておくべきだ。
以前、日本の大司教・司教方が
安重根の墓地に巡礼団を率いて行かれた際、
バチカン駐日大使閣下に、その異常さを訴えた。
被害者の国である日本が、加害者の国の韓国から
謝罪を受けるのならば理解できるが
顕彰など、もっての外なのだ。
ご乱心にもほどがある。
最近とみに感じることがある。
韓国カトリック教会、韓国キリスト教会が
統一協会化している。
嘘をついてでも、優位に立ち
日本から謝罪と賠償をし続けさせようというのは
統一協会と全く同じなのだ。
韓国カトリック教会が「福者」に推薦
2011/11/ 5 18:30
初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した民族活動家の安重根(アン・ジュングン)に対して、韓国のカトリック教会が「聖人」に準ずる「福者」に認定しようという動きを始めている。
韓国では「民族の英雄」とされるものの、日本では「テロリスト」と受け止める向きが多く、今後波紋を広げそうだ。
暗殺は「正当防衛であり、義挙」と韓国の枢機卿
安は1879年に現在の北朝鮮・海州(ヘジュ)で生まれ、1909年に中国・ハルビンで伊藤博文を暗殺。その場で逮捕され、翌1910年に処刑された。安は1895年に洗礼を受けてカトリック信者になり、「トマス」という洗礼名も持っていた。ただし、伊藤の暗殺が殺人を禁じたカトリックの教義に反するとして、安は長い間カトリック信者だとは認められてこなかった。だが、1993年になって復権が認められている。聯合ニュースによると、復権当時、韓国人としては初めて枢機卿になった故・金寿煥氏は、安の行動を「正当防衛であり、義挙とみなすのが正当」などと暗殺を正当化したという。
それから20年近くたって、さらにその動きが加速しつつあるようだ。韓国メディアが2011年10月31日の報じたところによると、安を「聖人」に準じる「福者」に推薦しようという動きが進んでいる。なお、カトリック教会が正式に福者として認めることを「列福」という。
現時点では、韓国のカトリック教会のソウル大教区の「列福列聖準備委員会」が安を含む551人を列福推進対象者に選び、その上部組織にあたる韓国カトリック司教協議会の列福列聖司教特別委員会に名簿を提出。その内訳は、近現代の「信仰の証人」24人と、朝鮮王朝統治下の殉教者527人。
これら527人の推薦理由は「殉教者として卓越した信仰の模範を示した」というもので、推薦理由を示すための写真、手紙などの資料や、証言を収集しているという。
手続きは簡単ではない
だが、これまでの列福の経緯を見ると、実際に列福されるまでのハードルは非常に高い。韓国の教会だけで列聖を決めることはできず、バチカンのローマ教皇庁に資料を送った上で、ローマ教皇庁が2度目の審査を行う。また、列福される人は、殉教者以外は最低1つの「奇跡」(超自然現象)を起こしている必要があり、調査には大変な時間がかかるとされる。
最近のケースでは、97年9月に死去したマザー・テレサは03年10月に、05年4月に死去したヨハネ・パウロ2世が11年5月に、それぞれ列福されているが、これは異例中の異例。数百年がかりになることも珍しくない。
例えば、日本人で最も最近に列福されたのは、08年のペトロ岐部ら188人。この188人はいずれも徳川幕府の禁教令による殉教で、1600年代前半のことだった。
http://www.j-cast.com/2011/11/05112270.html?p=1
これを読んで、感想は一言だけ
韓国の常識は世界の非常識
殺人者をいくら誤魔化しても
神の前では義人とはならない
「ギジン」でも
「義人」ではなく「偽人」
武器を持たない文民である伊藤博文を
銃撃して殺した犯人・安重根は
逮捕された瞬間
自分は戦争捕虜だと言ってのけた
戦争中ならば、即射殺が常識
どこまでも、女々しい男
大体、カトリックにおいて
殺人者が褒め称えられることはない。
それが如何に残虐非道な
ヒトラーや金日成、スターリン、毛沢東
のような極悪人であってもだ。
いくら国民がその殺人を正当化しようとも
キリスト教の教えからはそれに賛同してはならない。
昔、金寿煥枢機卿に近くでお会いしたこともある。
故人となった人のことをとやかく言うのは
私の主義には合わないのだが
金枢機卿についてはこれだけは指摘しておきたい。
彼の最大の過ち・・・
韓国が民主化した後
民族意識を高揚させるのではなく
真の福音化を目指すべきであったと思う。
その一つの現象として
安重根を義人としたこと
カトリックにおいて、キリスト教において
殺人を義としてはならない。
殉教というのは
信仰ゆえに命を落とすことであって
相手の命を奪い、
その結果として死刑になって死ぬことではない。
正当防衛?
相手は武器を持たず、
襲いかかってもいないのに、
わざわざハルピン駅まで出向いて銃撃するのを
正当防衛と呼ぶ?
安重根は、破門から外してもらっただけで
温情に値する。
それがどうして
福者になどなれようか・・・
カトリックでは、
神のしもべ→福者→聖人
この順に上げられていく。
神のしもべにも選ばれることはない。
彼を福者の候補とすることで
韓国カトリック教会の
異常な非常識さが際立つことだろう。
韓国がお得意の裏工作をしようとも
神の前には通用しないことを知っておくべきだ。
以前、日本の大司教・司教方が
安重根の墓地に巡礼団を率いて行かれた際、
バチカン駐日大使閣下に、その異常さを訴えた。
被害者の国である日本が、加害者の国の韓国から
謝罪を受けるのならば理解できるが
顕彰など、もっての外なのだ。
ご乱心にもほどがある。
最近とみに感じることがある。
韓国カトリック教会、韓国キリスト教会が
統一協会化している。
嘘をついてでも、優位に立ち
日本から謝罪と賠償をし続けさせようというのは
統一協会と全く同じなのだ。