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マイナス成長下の消費増税を扇動する古舘伊知郎とマスコミの狂気
今日(3/29)のテレビ報道は、国新党と消費税の問題が大きく扱われることだろう。昨日(3/28)の朝日の政界面(4面)に、「国民新、増税巡り分裂含み」と見出しされた記事が載っていて、国新党に所属する議員8名について、連立離脱に賛成か反対かを色分けして報じている。賛成は3名、亀井静香、亀井亜紀子、浜田和幸。反対は2名、下地幹郎、森田高。不明が3名、自見庄三郎、松下忠洋、中島正純。昨夜のニュースで、前原誠司らが国新党の幹部を前に民主党の「事前審査」の結果を報告する映像が出たが、下地幹郎が余裕綽々の様子だったのに対して、亀井亜紀子の表情が険しかったのが印象的だった。下地幹郎は、党が割れようがどうなろうが別にお構いなく、辻元清美と同じ保身行動を選ぶ魂胆が透けて見え、郵政法案についても未練はないように見える。2010年初頭からの民主党の右旋回(逆コース)以降、この党では下地幹郎の権勢が強くなった。結論がどう転んでも国新党の分裂は必至で、亀井静香の失脚と国新党の消滅の趨勢は否定しようもない。「石原新党」で必死に生き残りを模索したが、当の石原慎太郎が消費税増税に賛成で、政策が一致しておらず、亀井静香の思惑での展望は閉ざされている。たち日に国新党が合流するだけの「新党」に国民の期待が集まるはずもなく、「石原新党」がハプンする図はないだろう。


唯一の可能性は、民主党から分裂する小沢派と一緒になることで、亀井静香は、そこに「石原新党」を絡ませ、橋下徹のブームにも便乗し、一つの保守勢力を構築する計略だったのだろうが、この構想は政策において破綻している。小沢派がマニフェストを守り、反新自由主義の旗幟を鮮明にして新党を立ち上げた場合、そこに亀井静香が加わったとしても、マスコミに叩かれて支持率は上がらず、彼らが目論む政界再編の勝者にはなれないだろう。マスコミは、今回の民主党の「事前審査」の騒動について、小沢派の政局動機という描き方で説明し、強引に増税法案を押し切った執行部の側に正当性を認める報道に終始している。公約を守ろうとする小沢派議員の方が国民の立場に立ち、民主主義のルールに即しているという事実は見ない。古舘伊知郎の連日の報道が典型的だ。紛糾する議場の絵を切り取った後で、小沢一郎の悪役顔をアップで挿入し、この男が裏で政局を操るべく悪巧みしているという構図に処理する。悪性記号である「政局」という語を多用し、「政局」の語と小沢一郎を接着させ、良性記号である「政策」という語を執行部と接着させる。善悪の二項対立に仕立てる。そのような単純化の表象処理で、増税に反対する小沢派への不信や嫌悪を視聴者に植えつけるのである。何年も見慣れたマスコミの洗脳工作だが、飽きずにまたやっている。そして、国民は「どっちもどっちだ」とシラけている。

シラけるという気分と態度に帰着することは、古舘伊知郎に説得に(半ば)共感したという意味に他ならない。本来なら、古舘伊知郎の洗脳工作に反発し、小沢派議員の造反を支持すべきところを、古舘伊知郎の小沢派批判に納得してしまうのは、TPP問題を始めとして、この政治に何度も遭遇して食傷させられているからであり、震災から間もない6月に起こった菅降ろしの不信任案騒動を想起するからである。国民一般の目からは、同じ不毛な「政局」が続いているとしか映らないのだ。本気で消費税増税に反対しているとは信用できず、「政争の具にしている」というマスコミの決めつけが耳に馴染む。実際のところ、小沢派は、次は5月の法案採決で政局だと息巻いている。政局に次ぐ政局の永久革命。小沢一郎が、自らに押しつけられた「政局」のレッテルを否定しても、その反論は国民には届かないのである。ネットの中には、4月26日の小沢一郎への判決を見越して、その復権と増税政局での優勢を喧伝している小沢信者の群れがある。私は、事態がそう推移するとは思わない。仮に無罪判決が出ても、マスコミはたじろぐことなく小沢一郎へ攻撃を続け、増税法案を後押しする世論工作の手を緩めることはないだろう。橋下徹を持ち上げ、維新の風を吹かせることで大連立を促し、マスコミを仕切り役にして橋下徹と民自で政策を進める態勢を固め、小沢派を異端の政敵に置き続ける。小沢派をレガシーデバイスとして性格づけて無意味化する。

一昨夜(3/27)の報ステでは、古舘伊知郎がフリップでグラフを示し、「20年間の名目GDPの成長率平均が-0.7%で、+3.0%を超えた年が2回しかないのに、どうしてこの指標が消費税増税の条件になるのか」という意味の主張をした。増税反対派への反論と糾弾である。つまり、名目GDPが前年比マイナスに落ち込んでも、消費税増税を敢行して問題ないという意見の強調だ。この恐るべき強弁には腰を抜かしたが、現在の官僚とマスコミの言い分はこの線であり、この言説に対するエコノミストの異議は全く見られない。3年前、否、菅直人が公約を裏切って増税を断行しようとした2年前でさえ、このような議論を平然とする者は一人もいなかった。消費税をめぐる議論がどんどん非科学的になり、狂気の暴論が理性の常識に置き換わっている。橋本内閣が、未だ日本経済が不況から立ち直っていない1997年に税率を3%から5%に引き上げたため、景気が落ち込み、山一や北拓が破綻した1998年の金融危機を招来し、デフレが加速して税収も減った。この経済的事実は一般に確定された経験則だったはずで、このときの増税は失策として評価が固まっていた。これまで、原因と結果の因果関係を否定した者は誰もいない。そのため、消費税増税は景気回復後にすべきという政策論は、左右と朝野を超えたコンセンサスとなり、マスコミでも定着していた共通認識だった。今回、その前提が崩れて決壊した。放射能被曝の年間許容線量が、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに変わったのと同じだ。

古舘伊知郎やマスコミは、日本は少子高齢化だから今後の経済成長などあり得ず、名目GDPの成長率+3.0%を基準にするなど論外だと非難する。この20年間の平均成長率の実績である-0.7%を前提に踏まえ、消費税増税の可否を判断するのが現実的だ説教する。欧州の先進国が、日本と似たような少子高齢化に直面しつつ、20年間の名目GDPを年平均+2.0%成長させている事実には目もくれない。日本経済だけが異常な低迷と縮小を続け、一人当たりGDPのランキングを崩落させている現実を正視しない。われわれは急下降しているジェット機に乗っていて、周囲の乗客と体勢が同じだから、感覚が麻痺して気づかないだけなのに。外から見れば、日本機だけが失速して急下降しているのだ。少子高齢化は景気とは直接の関係はない。少子高齢化が進んだとしても、所得が増え、消費が増え、投資が増えれば、景気は拡大循環するのであり、中小企業の法人税と中小企業従業員の所得税が伸び、国の税収は増えるのである。中小企業の7割が赤字で法人税を払えず、大学を卒業した2人に1人が定職に就けない状況で、どうして社会保障の財源を維持できるのか。ところが、マスコミも政治も国民も、左派(脱構築)の論者も、このように経済の自然な発想をせず、最初に少子高齢化を言い、日本型雇用の崩壊を(歓迎的に)言い、ひたすら消費税増税の必要で論を固める。日本経済の問題は、少子高齢化ではなく需給ギャップ(デフレギャップ)であり、需要がないこと、需要を創出できない仕組みになっていることが問題なのだ。

需要の問題は、菅内閣の頃までは口端に上っていたが、最近は、経済をめぐる言説の中で全く登場しなくなった。需要という経済学の概念は、消費税増税の正当化で国内の議論を染めようとする側にとっては邪魔な言語なのであり、新自由主義の構造と体制への批判の芽を摘むためには、需要の概念で日本経済を語らせるのはタブーなのだろう。デフレという言葉も意味が混乱していて、正確な概念が失われている状況にある。高橋洋一のような、竹中平蔵の元部下の「改革派」官僚で、みんなの党系の新自由主義者が、日銀券を刷り増せば簡単に名目GDPを3.0%に引き上げられると言い、リフレ政策を喧伝しているが、この点は注意すべきだろう。このマネタリズムの手法が、決して内需を生み出さず、逆にヘッジファンドに流れて投機に回され、原油価格を吊り上げたり、新興国の不動産バブルを過熱させたり、欧州の通貨危機を煽ったりする要因になっている問題は、FRBのバーナンキによっても指摘されている。中央銀行が市場にマネーを注いでも、見かけ(数字)のデフレ対策にはなっても、内需(メインストリート)を喚起する効果は薄い。現在の日本のネット空間では、右翼と新自由主義が合体した橋下教(=小泉教)のカルトが流行病のように言論を席巻していて、日銀券を増刷すれば景気がよくなるという信仰が広まっている。しかしこれは、新自由主義者が、もっと投機のための資金をよこせと要求しているのが本音なのであって、国民の購買力をつけて需要を創出する方向ではないのである。

ブログの記事という形式では、一日に一回この程度のことを言うしかできない。本当は、本格的なデフレ論の分析が必要なのであり、日本経済の20年間のデフレの内実について、世界経済との関連で理論化しなくてはいけないのだが、その作業は一冊の本を書くことと等しい。「国民経済の終焉」を諭したのは、死の直前の宮崎義一だった。今は日本経済を単独で論じる経済学などあり得ず、米国経済(グローバリズム)に組み込まれた構造の一部として論じるしか意味がない。「デフレだから」「デフレが原因で」という説明は、どこか、「エルニーニョだから」「エルニーニョが原因で」と、地球環境や異常気象を説く空論に似ている。ペルー沖の海面水温が上昇するのは、異常気象全体の一つの環なのであり、エルニーニョにも原因がある。そこがビッグバン的な起点となって他の現象を発生させているわけではない。すなわち、エルニーニョを「原因」として説明する方法は、論理的にも不整合で、科学的にも意味がない思考停止だ。20年間のデフレ現象は、期間によって原因を異にするのであり、大きく類別すれば、1990年代のデフレと2000年代のデフレは別物と言える。1990年代のデフレはバブル崩壊による不良債権が要因だが、2000年代のデフレは小泉改革による構造的な要因がもたらした。こうしたエコノミクスの視点が、2000年代半ばまでは健在で、金子勝や森永卓郎もこの認識をベースにしていた。ところが、2010年代に入ってからは、この認識が消え、「社会保障のための消費税増税」と「企業は海外に出よ」だけになった。

需要という問題(経済学的範疇)が省みられていない。


by thessalonike5 | 2012-03-29 23:30 | Trackback | Comments(0)
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