十勝の上ホロカメットク山で遭難事故があり、女性は助かったが男性は凍死したということである。北海道では先日も中央高地で外国人の遭難があったばかりだった。
雪山の遭難、と云えば「松涛明(まつなみあきら)」を知らない岳人はおるまい。私の遊び仲間で内地にいた友人が氏を知っていたことから山の話題が沸騰したことがある。
播隆上人が開山したことで知られている槍ヶ岳は四方に尾根がのびており、その中で「北鎌尾根」は縦走の難しいコースであることが知られている。
当時、登山といえば極致法≠ェ流行していた。極地方とはベースキャンプ(BC)を築き、アタック用のキャンプを次々に建設してゆき、必要な装備や食糧をデポ(在庫)しておく方法で、明治時代に青森歩兵第5連隊の八甲田山雪中行軍の大遭難事故(死の行軍)の救出にあたり、日本陸軍が次々と小屋を建設して前進したことが記録上の始めとされている。
現在も大がかりなエクスペディションでは極地法がとられるが、この方法をよしとせず必要な装備はすべて体力にものをいわせて自力で運ぶ古典的・野心的で果敢な挑戦を試みた岳人がいた。松涛明と有元克己である。
東京の老舗の山岳会である「徒歩渓流会」に属していた彼等は厳冬期北鎌尾根縦走に挑戦したが、ストーブ(石油コンロ)の調子が悪く、遭難に至った。
体力を消耗した有元が滑落し、これを救助しようとした松涛明も相当のダメージを受けていたが、自身のみであれば助かったらしいが、友を見捨てるにしのびなく、友とともに死を決した松涛は、五万分の一の地形図の裏に死までの日記を綴っていた。
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有元を捨てるにしのびず死を決す 。
お母さん、貴方のやさしさにただ感謝、 ひとあし先に、お父さんのところへゆきます。 何の孝養も出来ず死ぬことをお許しください。
最後まで戦うも命、友のかたわらに捨てるも命、共に逝く。(松涛) ----------------------------------------------------------------
この遺言に涙を流さない岳人はおるまい。松涛明の捜索(当時は捜索とは云わず捜査と云った)にあたった徒歩渓流会は翌年、遭難記録を発表し、その表題には「風雪のビバーク」と題された。
新田次郎氏の「風雪の北鎌尾根」はこの遭難事故をモデルとした小説である。岳人の友情と命の記録は日本登山史に永遠に記録されるのである。
十数年前、北大探検部の学生とOBが石狩川源流部でカヌーによる渓流下りで遭難があった。学生のひとりが絶壁を途中で一晩ビバークしながら無線を飛ばしたところ、傍受した一般人の通報をうけて新得山岳会が中心となって救助隊が結成された。
私は仕事の途中でテレビ局に勤める友人から電話が入り、遭難者が友人のKだと知った。電話がかわり先鋭的な遊びで著名なTさんが、「まっちゃん、沢登りの道具持ってたっけ?」と、トンチンカンな話しになった。(笑)、絶壁の河畔に沢登りの用具はまったく役に立たないのである。(笑)、
とりあえず、沢登りの用具を車に放り込み、新得の現場に向かったら、札幌のS荘のマネージャーが指揮を執っており、帯広の畜産大学の学生や、北大の学生達がザイルを引っ張っていた。畜大の学生は笑いネタを飛ばしながら北大の女学生を口説いていたり、お菓子をほおばりながら、半ば冗談まじりの状態だったので笑ってしまった。(笑)、
ま、全員無事でよかったが、それから友人のKは会うたびに照れくさそうに笑うのがおかしかった。(笑)、ま、装備は万全に野外では安全に遊びたいものである。
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