植民地時代のソウルに生きた華僑の大富豪

19-20世紀の華僑企業を分析した研究書『同順泰号』

 続いて譚傑生は、不動産に力を注いだ。乙支路2街にあった2階建ての赤れんが造りの建物を漢城(京城=ソウルの中国語名)本社として使用し、明洞の3階建てのビルは『時代日報』の社屋としても使われた。1923年には、京城の都市土地税・家屋税・戸口税分野でいずれも譚傑生が個人納税額第1位となった。1932年の京城府の公式発表によると、全7万戸のうち、1万1856戸が賃貸住宅で、このうち同順泰号が350戸を所有していた。京城の賃貸住宅の34軒に1軒は、同順泰号が所有していたわけだ。

■次男のスキャンダルで没落

 同順泰号をはじめとする中国人の経済的繁栄は、日本によるけん制を招いた。朝鮮総督府は1924年、ぜいたく品など中国からもたらされる輸入品の関税を大幅に引き上げ、輸入商中心の華僑社会は打撃を受けた。同じころ、同順泰号は破滅の危機に直面した。「百万長者の中国人富豪・同順泰号のアヘン密売、紅参(高麗ニンジンの一種)密輸出、詐欺事件」。1924年8月、真夏の京城メディアは騒然となった。譚氏の次男など、家族が数十年にわたりアヘンの密売や紅参の密輸出を行ってきたというニュースに加え、次男の女性遍歴まで報道され、同順泰号は不道徳な企業として追及された。借金に追われた譚傑生は1929年、失意のうちに76歳で世を去り、その後故郷の広東省高要県に埋葬された。さらに、1937年に日中戦争が始まり、ほかの家族も皆、朝鮮を離れた。

 カン・ジンア教授は、ソウル大学奎章閣や中央図書館古文献資料室で偶然、同順泰号の帳簿や取引の書信などを発見し、研究を始めた。カン教授は「譚傑生と同順泰号は、19-20世紀の東アジア経済ネットワークにおける華僑の役割を説明する、立派な端緒。2004年に、韓国の貿易相手国として中国は米国を抜き最大の相手となったが、中国はここ100年を除くと、約2000年にわたり常に韓国の最大の貿易パートナーだった」と語った。

金基哲(キム・ギチョル)記者
前のページ 1 | 2 次のページ
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) 2011 The Chosun Ilbo & Chosunonline.com>
関連フォト
関連ニュース