【コラム】1982年の学生運動家と現代のリベラル政党代表

 野党・統合進歩党の李正姫(イ・ジョンヒ)共同代表が、総選挙の候補選出手続きでの不正を指摘されたにもかかわらず、出馬強行を決めた騒動。昨日新聞を見ながら、思わず「李正姫って、どうしてこうなんだ」とつぶやいた。すると、妻は「あなたが知らなければ、ほかに誰が知っているというの」と答えた。「どういう意味だ」と問い返すと、妻は「あなたが学生運動をしていたころはもっとひどかったじゃない」と皮肉った。妻とは大学1年のときに知り合ったため、何も隠し立てできない目撃者だ。

 1982年。それは、当時を知らない若者が「暴圧の時代」と呼ぶ全斗煥(チョン・ドゥファン)政権初期だ。実際に殺伐とした時代だった。81年に大学に入学した筆者は、80年に起きた5・18光州民主化運動(光州事件=1980年5月18日に光州で起こった民主化要求)の「真実」を目の当たりにして怒りを感じ、学生運動に身を投じた。熱心な活動家だったため、先輩からは「期待株」と目された。期待株といっても大したことはない。理念学習の末、3年生にもなると、ビラをまいたり、デモを主導するなどして、集会デモ法違反で1-2年で刑務所に入り、筋金入りの運動家になれる人物という意味だ。ビラの内容が過激なことから、国家保安法違反に問われることもあった。

 私は「期待株」だったからか、2年生のとき、現在の総学生会長に相当する学徒護国団長の間接選挙に裏方としてかかわる機会があった。候補には、学生運動系と非学生運動系の2人が出馬した。選挙前日まで、学生運動系の候補は、弁舌が優れた非学生運動系の候補に対し劣勢だった。選挙前夜、学生運動勢力の「非常対策会議」が行われ、筆者も出席した。議題は、非学生運動系の候補を「警察の支援を受けた御用候補」だとするネガティブキャンペーンを行うというものだった。正直驚いたが、選挙に勝てるならそれも上策だと思った。既に道徳的に優れているという優越感と、敵と同志の二分法に基づく運動家の考え方にすっかり染まっていたからだ。

李翰雨(イ・ハンウ)企画取材部長
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