「今日は晴れとうから、夕日が美しいばい」
夕暮れの1時間ほど前になると、雲の様子をうかがいながらこんな会話がまちのあちこちから聞こえてくる。ここ津屋崎では曇りや雨の日を除いて、1日の終わりを告げる大切なセレモニーが夕暮れ時に訪れる。津屋崎ブランチの事務所の窓が夕焼け色に染まりだすと、僕らもいてもたってもいられなくなる。
いったん仕事の手を止めて夕日を見に行く支度を始める。津屋崎には夕日が美しい場所がいくつもあり、どこから見るかによって印象が変わる。今日は津屋崎浜から見ようか、それとも宮地嶽神社からにしようかと思案するのも楽しい。
夕日を見ていて気付いたことがある。海の向こうには、相島、志賀島など大小の島々があり、季節によって太陽の沈む位置が違う。中学校の理科の時間に学んだ記憶はあるけれど、実際のスケールでそうなっていることを目の当たりにすると感動する。
日が沈むと、灯台に徐々に明かりがともる。それぞれの島にある灯台の光は色も回る速度も微妙に違う。眺めていて飽きることはなく、いつの間にか辺りはすっかり暗くなる。
月の満ち欠けもここに住む人たちは意識している。今日は満月、今日は新月、と月齢を数えて空を見る。新月の時は懐中電灯がないと歩けない暗い道に、満月の時は自分の影がくっきりと映し出される。
太陽の沈む場所や月の満ち欠けを意識しながら毎日を過ごすことは、なんて豊かなんだろうとしみじみ思う。聞き慣れない渡り鳥の声に耳をすまし、初夏にワカメ拾いに行くこともまた楽しい。
先月、東京で開催したワークショップで「豊かな暮らしとは何か」を語り合った。その中で出てきた「無駄な時間そのものかもしれない」という言葉が、ずっと頭の中を巡っている。
効率が優先される社会では無駄が省かれていく。そうやってたどり着く、無駄のない社会とは一体どんなものなのだろうか。効率を追求して暮らしが豊かになればいいが、多くの人が疲れ切った顔をしているのはなぜだろう。夕日を見る時間も、家族で語らう時間も奪われているのはどういうことなんだろう。
経済の合理性という観点から無駄と捉えられ、隅に追いやられている時間。それは、本当は暮らしを豊かにする「意味ある時間」ではないか。「都会には何でもある、田舎には何もない」を「都会には何もなく、田舎には何でもある」と言い換えてみると、何もなかった場所が「意味ある時間」の宝庫となる。
その「意味ある時間」を自然から学び、まちから学び、実践しながら広く伝えていくことが津屋崎ブランチの役割ではないか。夕日を見ながら、そんなことを考えた。
(NPO法人地域交流センター津屋崎ブランチ代表・山口 覚)
=2012/03/12付 西日本新聞朝刊=
▼山口 覚=やまぐち・さとる 北九州市出身。大学卒業後、大手ゼネコンの鹿島に就職して東京へ。建設省(当時)所管の財団に出向したときに過疎地域の現実を知る。2002年に鹿島を退職し、NPO法人地域交流センター理事。5年前に九州へUターン。1級建築士。1969年生まれ。