小学生編(前期)
100万PV記念番外編 とある研究所での日常
とある研究機関の研究室。ちょうど小学校の理科室と同じ広さの研究室には、乱雑に置かれた1つのデスクと睡眠用と思われるソファーが2つ存在した。そしてデスクとソファー以外にも部屋の中央に大きな丸テーブルが置かれその近くにはブラウン管テレビが置かれている。恐らくは2つとも公共用の品なのだろうが、丸テーブルの前で2人の男女が座ってPCと向き合っているだけでテレビは点けられていなかった。
丸テーブルの前置かれたイスに座る男女を含めて全員で部屋には4人の人間がして居座っており、1人はソファーで高いびきをかいて夢の真っただ中、もう一人はデスクの前に座っていた。
部屋には高いびき以外の音は聞こえず、高いびきをかいて寝ている男以外の3人はそれぞれの作業を黙々とこなしていたが、不意にその静寂で満ちた時間は終わりを告げる。
「エロゲがやりたい……」
デスクの前に座る黒髪と髭をぼうぼうに生やした30歳前後と思われる男が、ポツリと虚ろな目をしながら呟いた言葉が時間の終わりを告げた。
男は黒のTシャツと黒のスラックスを着衣し更に上から白衣を着ており、手入れの行き渡っていない髪と髭からも男が容姿に関しては無頓着であることが想像できる。
そんな男の前に鎮座しているデスクの上には、適当に置かれた小物とデスクの大部分を占めるPCが存在し、そのPCのモニター画面には二次元美少女が映っていた。しかしモニター画面に映る美少女以外にも研究開発の報告書作成画面が展開しているところを見る限り、男の目の前に置かれたPCはどうやら仕事用のものらしい。
男はそのPCに映る美少女のデスクトップ画像を現実逃避のようにぼへ~と見つめていると、丸テーブルに座っていた女が立ちあがった。
十代後半と思われる肩まである黒髪をポニーテールに纏め、整った顔立ちをした少女だった。
赤いタンクトップと赤いのショートパンツを着衣し黒いサイハイソックスを履いて、その衣服の上から男と同じ白衣を着た少女は、ポニーテールに纏めた髪を少しだけ揺らしながら男の方につかつかと歩み寄ると、一言、
「主任、死んでください」
と言った。男は少女の言葉を聞いた瞬間、今まで座っていたキャスター付きの回転椅イスから飛び上がるように立ち上がる。
「シロちゃん酷くね!?」
「酷くありません。エロゲがしたいなど女性がいる場所で言うのはセクハラです。
セクハラは死刑、よって主任は死ぬべきです……私が言ったことでおかしなところは存在しましたか? 存在しないでしょう、なぜなら正論ですから。よって死んでください主任、GO!! 紐なしパンジーGO!!
……覚悟がないのでしたら紐なしパンジーをする準備を手伝います。しっかり罪を償って来世では幸せな日々を過ごせるようにしてください。悲しいですが主任のためです……別れるのは辛くても私が引導を渡してあげます……」
辛辣かつ長い台詞を吐いたシロちゃんと呼ばれた少女は、悲哀に満ちた顔をしながら懐から無言で縄を取り出し主任と呼ばれた男の背後に廻り縄を巻く作業を始める。
男も紐なしパンジーをされるなど堪ったモノではないと当然ながら思っている。自分をぐるぐる巻きにしようとしている少女の誤解を解かなければ本当に紐なしパンジーをさせられる光景がありありと想像できた。
男と少女の関係は昨日今日で培われたモノではない。2人は既に8年を過ぎようかと言う程の時間を共有していた。目の前の少女が純粋培養に育てられた世間知らずのお嬢様並みに、世間知らずで純粋である事ぐらいは認識していて当たり前だったのだ。そのため、今回の私刑に近い処刑は何らかしらの理由があるのではと男は察する。
「いろいろと突っ込みどころがあるけど、エロゲがやりたいって愚痴るのがセクハラでセクハラが死刑なら世の中のエロゲユーザーの2割くらいは死刑になってる!!」
男――主任――は声を大にして私刑と言える処刑に対して根拠のない数字で抗議するが、主任の抗議などどこ吹く風の少女は淡々と縄を男に巻いていく。
「その2割と言う数字がどこからやって来たのかは知りません。ですが掃除のおばさんが言っていました、
『白雪ちゃん、あのバカ主任は本当にセクハラの権現よ、白雪ちゃんも気をつけなさい。あの男と目が合ったら孕まされるから。
この前なんかおばちゃんの目前でエロゲがやりたいなんて発言するのよ、まったくセクハラだわ!!
白雪ちゃんも言われたらあの男を死刑にしてやりなさい、セクハラは情状酌量の余地もなく死刑って相場が決まっているんだからね!!
それにしてもあの男がおばちゃんを見る目はまるで狼だわ……私の身体狙いなのよ――』
と……おばさんの話が長くて、そこから先は憶えていませんが……おばさんが教えてくれた事はいつも本当のことでしたので、今回のおばさんの話も本当のことですよね?」
シロちゃんこと白雪が語った掃除のおばちゃんの台詞に主任は憤慨したらしく、縄でぐるぐる巻きにされながらも身体をプルプル小刻みに震わせてこの場には居ない掃除のおばちゃんに対して怒りの旨を顕わにし、そしてその烈火の如き怒りは主任が放つ言葉にも滲み出る。
「また、あのばぁさんか……シロちゃんが最近目を合せないと思ったら変な事吹き込みやがってぇ……。
あと誰が還暦が目の前の迫った老体に欲情なんかするか!!
シロちゃん、掃除のおばちゃんから聞いたことは全部嘘だから忘れろ。これは主任命令なので嫌でも絶対に忘れて貰います!!」
白雪は主任の言葉に小首を傾げた。
「女性用下着の着用の仕方とか生理の時に必要な道具もですか?」
「全部って言っても、白雪が掃除のばぁさんから聞いたセクハラ関連の話を忘れりゃ良いだけだよ」
白雪が主任に対して聞いた質問に答えたのは、主任本人ではなく先程まで白雪がいた丸テーブルにいる男だった。
主任と同様に黒髪は手入れを怠っているらしく艶が無かったが、髭は綺麗に剃られているので主任よりは身だしなみに気を使う人間なのだろう。ただし服装は皺だらけのYシャツに黄ばんだでいるが白だったであろうスラックスと、お世辞にも服装に気を使っているとは言えない。
「たっちゃん、ヘルプミー!!」
「誰がたっちゃんだ。黙れよ毛むくじゃら男が……1ヶ月は缶詰だからって髭ぐらい剃れ……」
たっちゃんと呼ばれた男――巽――は呆れたようにため息を吐き、縄で縛られている主任を可哀そうなものを見る目で見ると、すぐに視線を主任を縛るのを一旦止めている白雪に移した。
「白雪、その馬鹿をいい加減に放してやれ。そんなんでも一応は主任だ、死なれると上層部に報告すんのが面倒だ。セクハラで処刑されて死にましたなんて、その馬鹿も流石に嫌な筈だ」
「オイ、ゴラ。そこの妻子持ちの裏切り野郎、女みたい名前して美人の嫁さんを貰ったたっちゃん君。君はアレかね? 馬鹿馬鹿言ってるけど、もしかして俺を貶しめているのかい? 髭を剃れって言う前にお前は服くらい買え変えるか、もしくはクリーニングに出せ。今着ているの大学時代から着てる奴だし、一度もクリーニングに出してないだろうが」
「もしかしなくてもその通りだ。あと嫁を貰うのに名前は関係ないぞ。それはともかく魔法使いの童貞君、俺が女みたいな名前を気にしてんのを知ってて、女みたいな名前って強調したのか? それとこの服は俺のお気に入りだから一時も手放したくないからクリーニングに出さなくて良いんだよ」
「そうだけど。あと、そんな萎れたYシャツと黄ばんだスラックスがお気に入りとかお前の服飾センスを疑うな」
「よし、白雪の代わりに俺が紐なしパンジーを手伝ってやる。黒ずくめのお前だけには俺の服飾センスを疑われたくないな」
「やってみやがれ。遺言の代わりにお前の性癖と、エロゲを学生時代に俺とやってたって嫁さんにばらしてやるから。あと俺は黒ずくめじゃないから、白衣着てるから」
主任と巽は罵り合いの末、睨み合いに発展し研究室の空気は徐々に険悪になっていく。それはともかく、罵り合いの末に服飾センスが無いことが互いに判明する事になった。
そして睨み合いにより生まれた険悪な空気は唐突に壊された。険悪な空気を壊したのは黙って2人の罵り合いを見ていた白雪だ。
白雪は険悪な空気を無視して主任を縛っていた縄を解き始めた。せっせっと2人を無視して縄を解く白雪を見て、主任と巽は睨み合うのも止めて互いにポカンとした間抜けな顔を晒す。
「白雪、何やってんだ……?」
「主任を縛っている縄を解いています」
「シロちゃん……、俺と巽は険悪な空気を醸し出しているんだけど……。縄を外したら殴り合いのケンカになるとか考えないの?」
「やりたいのなら勝手にやれば良いと思います。最初に私が縄で縛ったのが原因ですが、現在の睨み合いはお2人が互いに言い争いをしたせいですので私には関係ありません。
止めて欲しくても止めて上げませんので、険悪な空気をなくしたのならいい大人なんですからご自分で何とかしてください。私がするべきことはセクハラが死刑ではないのなら、紐なしパンジーの準備を急遽止める事です」
白雪は言いきると縄を外し終えてさっきまで座っていた丸テーブルの前のイスに座り、PCに向かいカタカタとキーボードを叩く音を響かせて作業を再開する。主任と巽は白雪の言葉を聞いて頭が冷えたのか睨み合いではなく、顔を見合わせてから互いの席に戻って報告書の作成を再開した。
それから30分後。主任は席を立ちあがり散らかった自分のデスクから煙草の入った箱とジッポーライターを握り、
「煙草吸ってくる。報告書は帰ってから俺がやっとくから各自で自由にして良いよ」
部屋の出入り口でそう言ってから室外へと消えて行った。主任が消えた後の研究室で白雪は淡々とキーボードを叩き続け、巽は浅く息を吐いてから席を立ちあがった。
「白雪は昼飯を食いに行かないのか?」
「朝食を食べたのが二時間前でしたので要りません。そう言う巽さんは帰らなくて良いんですか? 主任がああ言ったら、帰宅しても良いと言っているようなものですよ」
「白雪も帰らないだろ。それに昨日親方と仕事が終わったら飲んで帰ろうって約束したしな」
巽はチラッとソファーで寝ている初老の男の方を見てからすぐに会話をしていた白雪の方に視線を戻す。
「これだけの激務なんだから少しくらいの報酬は有っても良いだろ?」
「そこは巽さんの判断次第と言っておきます。ただ、あまり家に帰らないと奥さんに愛想を尽かされてしまうので、そこだけは注意して下さい」
白雪の言葉は巽には耳が痛かったのか顔を顰めて、
「大丈夫……だよな?」
と呟いて部屋を退室して、十分程すぎてから売店のおにぎりとサンドイッチを買って部屋に戻って来た。巽は自分の席に座り、昼食を食べながら横目で白雪を見て口を開いた。
「白雪は何で残ってるんだ?」
巽の言葉に白雪はキーボードを叩くのを止めて、巽の方へポニーテールを揺らして顔を合せる。
「私は主任が残るから残る、理由はそれだけです」
無表情でそれだけ言うと白雪は再びキーボードを叩くの再開した。感情の籠らない白雪の淡々とした言葉に巽は、
「……そうか」
と少々戸惑いながらも食事を再開しようとおにぎりを口に運ぼうとしたところで、白雪の言った言葉の意味を十全に理解した。そして1秒に満たない刹那の時間で、その意味をもう一度自分の頭で反芻して巽は唖然とした。
「おい……白雪それって」
「どうしたんですか? 間抜けな顔をしてますけど」
巽の言葉を聞いた白雪は、巽の方に振り向き不思議そうな顔で巽の唖然とした顔を見つめる。
「間抜けな顔は余計だ……。白雪ってあいつのことが好きだったのか?」
「好きでなければ、わざわざ自分の手で引導を渡そうなどと思いませんよ」
「凄い斬新な返しが来たもんだな、普通は嫌いなら引導を渡そうと思うんだがな……。ちゃんとした意味で捉えているか微妙だから補足するけど、俺が言っているのは男として好きなのかってことだからな」
「……男として好き?」
心底不思議そうな顔で白雪は巽を見る。その反応を見て巽は意外過ぎる反応に頭を抱えたくなった。正直19の少女が男として好きなのかどうかを聞いて、首を傾げるなど三十路を過ぎてそれなりの数の人間を見てきた彼にとっても信じられないモノだった。情操教育はどうなっているんだと彼女の親を小一時間責め立てたいくらいに巽にとって白雪の反応は予想外だった。
「男として好き……、あぁ、つまりは恋愛をして最終的にはキスやセックスがしたいかどうかと言うことですね」
「女の子が人前でセックスとか言うな……」
白雪の羞恥心のなさに巽は再び頭を抱える羽目になってしまう。そもそも白雪の常識が欠如しているのは恋愛ごとだけではなく、それ以外も欠けていることは先程主任を縄で縛りあげた時にその片鱗が見えていた。掃除のおばちゃんに教えられたからと言って、『常識』が有ればセクハラの容疑で死刑を本気で行おうとするのは有り得ないことなのだ。
「白雪の親は何を教えてきたんだよ……」
「……私は両親からは何も教えて貰ってません。そもそも育てらてすらいません」
「は……? いや流石にそんなことはないんじゃないのか、赤子の時なんて面倒見て貰わなきゃ死ぬだろ」
「私が生かされていた時に私の面倒を見てくれたのは屋敷の使用人です」
巽は白雪の言葉で押し黙る。もしかしたら自分は地雷を踏んでしまったのではないかと思ったが、白雪の淡々とした無表情から地雷を踏んだのかどうかは分からなかった。だが白雪はその後も相変わらずの無表情で巽の疑問に答えるかのように語り続ける。
「私の父方の家は男尊女卑の風習が存在していて、最初に生まれた子供が女である私でしたのであまり生まれたことを歓迎されなかったんでしょう。私が物心ついた時両親は生まれたばかりの弟にだけ構って、弟を作るついでに生まれた妹の方も放置でした。
男尊女卑の考えがない嫁いだ母は父にご執心だったんだと思います。父に嫌われたくない為に私と妹の放置を好しとしたみたいですね……」
巽は黙る。意外にも重かった白雪の過去の話に、他人である自分が口を挟む余地が無いと思ったのだ。ただ、巽も子を持つ親だ、自分の子供をぞんざいに扱う親が居ると言う事実に信じられない思いになりそのことに対しては僅かながらの怒りも感じていた。
「その後何だかんだあって、私が世間一般で言う天才だったので7歳の頃に実家からアメリカの方に追いやられて生物学の研究所に所属したんです」
「端折り過ぎだが聞かないでおく、たしかあいつの話だと初めてあいつと会ったのがその研究所だったんだよな」
「ええ、主任と初めて顔を合わせたのは、8年前……主任がアメリカから日本に帰国する数日前で一緒に帰国しないか聞かれたのは帰国前日でした」
「……それ、初めて聞いた」
巽の呆れ顔をスルーして、白雪は初めて主任と出会った時のことを思い出す。
アメリカの研究所は白雪と同年代の少年少女など当然ながら存在せず、何時も通り1人で職員用食堂で食事をしていた時主任に声を掛けられたのが2人の関係の始まりだった。
主任が白雪を見掛けたのは偶然で、普段は白雪と違う部署、違う時間帯に食事をしている主任は当然ながら今までそれまで白雪に接する機会は存在していなかった。それまでに何度かすれ違った事はあれど、白雪の年齢から親の白衣を借りた関係者の家族くらいの認識でいたのだ。だが職員用食堂に居る白雪を見て主任はようやく白雪が職員であることに気がついたのだ。
主任が子供好きの性格で面倒見が良かったこと、そして白雪は久方ぶりに見た同郷の人間と言うこともあって、出会った当日には2人は自然に会話が出来るまでになった。そして唯一心を許せる存在であった主任には、帰国する前に白雪の境遇を話すまで主任に白雪は心を許した。それだけ白雪は今でも主任を信頼しているし、彼女の中では主任が一番大切な存在でもあるのは確かだ。
だから、好きという感情が有っても……、
「私は家族として主任が好きです。主任が望むのであれば結婚しても良いですが、一部主任の性癖を満たせない部分はあります」
そう言って白雪は自分の平均以下の大きさしか持たない胸を見つめてからぺたぺたと胸を触る。その光景を見た巽は、内心で自分の性癖を女の子に知られるなと思うが顔には出さず、白雪の常識外れの考え方に対しての言葉を発した。
「……白雪が常識では測れないと言うことは分かった」
「1年前まで主任と同居していましたし時々その時の名残で主任のマンションに泊まりに行きますので、私としてはあまり変わらないと思いますが」
「同居……だと……?」
またしても放り投げられた爆弾に巽は唖然とした顔を晒す。
「主任から聞いていなかったんですか? アメリカで保護者をしてくれた使用人を通して実家には伝えましたが、殆んど勝手に帰国したも同然でしたので当たり前ですが帰る家なんてありませんでした。その時は未成年でしたので当然ながら借家なんて借りれません、ですから主任のマンションに妹と近所には嘘を吐いて転がり込んだんです」
「犯罪じゃねぇか……」
「そして、ここの研究所は未成年でも、実力があれば労働基準法を破って働かせてくれているのでここの研究員になったんです。巽さん、主任が言っていた言葉ですが犯罪はバレなければ成立しないんですよ。まぁ、主任のお母様に見つかって、通報された主任が危うく刑務所送りになりかけたことはありましたが……」
ポンポン放り投げられる爆弾発言も、いい加減に慣れてきた巽はスルー。それに自分の所属する研究所が労働基準法を無視しているのは分かり切っている事なので、そこの爆弾発言のダメージは全くなかった。
「あいつ信用ないな……、自分の母親に警察へ通報されるって……。そういや一時期連絡が途絶えてた事があったな」
「私の証言と両親が私を放置したことを警察に話さない条件で貰った両親の証言で無罪放免にはなりましたが」
「もう何からツッコミを入れれば良いのか分からない……。けど大学時代もあいつはそんな感じだったな……非モテ童貞魔法使い候補同盟とか言うサークルを作ってたし。同盟者は立ち上げた本人以外は魔法使いになる前に彼女持ちか妻帯持ちになったけど」
「主任涙目ですね」
巽自身も同盟者ではあったが、同盟内容である『開き直って魔法使いになってしまおう』を裏切った身として、主任が魔法使いであることは気を使って喧嘩する時くらいしか触れないことにしている。
何気に気遣いができる男と大学時代に言われて居ただけあり、未だに童貞である主任に対してのさり気ない気遣いは確かに出来ていた。ただし、同盟した人間がポンポン同盟違反をしていったため、一時期は主任のヤケ酒に付き合う羽目になった彼は、どちらかと言うと気遣いできる故の苦労人の方が評価としては正しいかもしれない。
「それにしても煙草を吸いに行ったにしては遅いな」
昼食を終えても未だに部屋に帰って来ない主任に、巽は疑問を口にした。
「恐らくは掃除のおばさん辺りと口喧嘩でもしているんではないんですか?」
「あり得るな」
2人が主任の帰りが遅い理由を勝手に納得した時、
『犯される!! ケダモノバカ主任におばちゃん犯されちゃう!!』
『おい、ばぁさん目を合わせるなり人聞き悪いがこと言うな!! 誰が還暦目の前のばぁさんを犯すか、つうかシロちゃんに嘘を教えやがって……』
『お黙り、この年中発情男!! バレンタインでチョコレートを貰えないで落ち込んでたのを心配した白雪ちゃんに、『男にとって最も辛い日』って言ったそうじゃないか!! そのせいで白雪ちゃんは2月14日が男の生理の日って間違った認識をしたんだよ!? そんな事を吹き込むセクハラ男は死刑に値するに決まってるじゃないか!!』
『吹き込んでねぇー!! シロちゃんが勝手に勘違いしただけじゃん、そもそもセクハラが成立してないし!!』
廊下から主任と老女の怒鳴り声が聞こえて来た。それを聞いた白雪は立ち上がって廊下に出て、数メートル離れた廊下で髭を剃った主任と青い清掃用作業着を着た初老の女性のところに向かって行く。
「主任、おばさん、近所迷惑ですのでお静かにお願いします」
白雪を確認した2人は互いに罵るのを止めた。おばちゃんの方は白雪を確認すると、主任には目もくれず白雪に猫撫で声で白雪に話しかけた。
「白雪ちゃん、聞こえてたのかい……ごめんね、おばちゃんとこのバカ主任の声が煩かったから来たんだよね?」
「そうですが、もう静かになったのなら特に気にしません。そんな申し訳なさそう顔をしないで下さい、何時もの事ですから私は気にしません。この8年では毎日の事ですから」
研究室では終始無表情であった白雪が、掃除のおばちゃんの前では僅かながらも自然な笑顔を見せた。掃除のおばちゃんは白雪に感極まって抱きしめる。その光景を見た主任はぼさぼさの髪の毛を掻いて「またか」と呟いた。
「本当に白雪ちゃんは可愛いくて良い子ったらありゃしない、家の子供達も白雪ちゃんの可愛さと素直さを見習わないことか……。下の息子は反抗期でババァババァ言うし、上の息子はお金をせびってろくに働かない、三十路前の娘は玉の輿を狙って自分の歳も考えずに合コンばかり。おばちゃんはどこで教育を間違えたんだか……」
「大丈夫ですおばさん、辛いのはきっと今だけです。おばさんにいろいろなことを教えて貰って、私は感謝しています。私にとっての母親はおばさんですから、そのおばさんが私の事を良い子って言ってくれるなら、おばさんの息子さん達も良い子ですよ」
白雪が掃除のおばさんに言った事はお世辞などではない嘘偽りのない本音であった。生まれた時から母親との関わりがなく親の概念がなかった白雪に、主任以外で初めて親身にしてくれた人間が掃除のおばちゃんであった。そして女性の嗜みなどの主任には教えられない事を教え、母親が娘に接するように掃除のおばちゃんも白雪に接したので、白雪にとって掃除のおばちゃんは紛れもない母親と言える存在になって居たのだ。
「白雪ちゃん、こんな還暦前のおばちゃんに嬉しいことを言ってくれるよ……、それに比べてそこのバカ主任!! 白雪ちゃんを部屋に連れ込んだり、白雪ちゃんの目の前でエロゲしたり、家の息子以上にロクデナシったらありゃしない!!」
「いや、シロちゃんは部屋に連れ込んだんじゃなくて部屋に転がり込んできただけだけし、エロゲは流石にシロちゃんの前ではどうどうとしてないって」
「お黙り!! 部屋に干支が一回り違う女の子と同居してる時点でアウトだよ!! エロゲはしてなくても持ってるんだったらロクデナシだよ、まったく男の頭は今も昔もエロばかりで本当に呆れるわ!! 昔はさかった男共にスカート捲りされておばちゃんのフローラルな香りのパンツを男共の見せしめにされて、しかも――」
おばちゃんの長話が始まり主任は呆れ顔をする。そして白雪の方を見ると目でこの場を頼んで良いかと訴え白雪は無言で頷き、主任は仕事を再開するために部屋に戻ろうとするが、
「バカ主任!! 白雪ちゃんに全部任せて逃げようとするんじゃないよ!!」
「いや、俺仕事があるんだけど……」
「お黙り!! そんな下らない事してるからあんたはいつまでも童貞なんだよ!!」
「え!? 童貞関係あるの? と言うか仕事より掃除のおばちゃんの話が優先なのか!?」
「そうだよ」
「そうなんですか?」
掃除のおばちゃんの即答を聞いた白雪が主任を見上げて確認してくる。
「いや、仕事の方が大事だから信じなくて良いよ」
「そうですか」
短い会話の最中でも掃除のおばちゃんの長話は現在進行形で行われていた。掃除のおばちゃんの口からマシンガンの如く次から次に言葉が発され、主任は疲弊した顔で、白雪は涼しい顔をして掃除のおばちゃんの話を聞いていた。
「シロちゃん……」
「何でしょう主任?」
「俺、掃除のおばちゃんの話が終わったら、たっちゃんに髭を剃った顔を見せつけるんだ」
「主任、それは死亡フラグです。あとそんな事のために髭を剃ったんですか?」
「いや、現実にフラグなんて便利なモノはないから。髭を剃ったのは見せつけるだけじゃなくて俺の服装を……」
「お黙りバカ主任!! あ、白雪ちゃんは別に良いのよ。まったくあんたって人間はエロエロエロしか頭にない煩悩人間だから、この前も――」
2人が掃除のおばちゃんに解放されたのは、途中で気になって廊下を覗いてしまったが故に、掃除のおばちゃんの長話の巻き添えを受けた巽を交えてから実に一時間後、実質長話が始まってから二時間後の事であった。
当然ながらその弊害で缶詰状態はもう一日追加されてしまった。
主任――来世では新城衛になる男が他界したのはこの日から実に二週間後であり、彼はきっちりと死亡フラグ(?)を立てて死去したのである。
小説家になろう 勝手にランキング
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。