日本で冷麺といえば「韓国」や「夏」「焼き肉」などが連想されるのだろうが、韓国では「北韓(北朝鮮)」や「失郷民(シルヒャンミン)」といった言葉が挙がる。失郷民とは、朝鮮戦争(1950~53年)で南へ逃れ、故郷を失った人たちのこと。冷麺(ネンミョン)は元々、朝鮮半島北部の郷土料理で、彼らによって広まったと言われるからだ。
ソウルにある韓流料理文化研究院の金秀珍(キムスジン)院長によると、冷麺は大きく分けて2種類。肉類でだしを取ったスープに梨やトンチミ(大根の水キムチ)などを入れる「平壌冷麺(ピョンヤンネンミョン)」と、辛いヤンニョム(薬味ソース)と刺し身入りの「咸興冷麺(ハムフンネンミョン)」だ。
日本でもおなじみの平壌式は、そば粉を主体にイモのでんぷんを混ぜた麺でほどよい硬さ。「ムルネンミョン」と言う。ムルは「水」を意味する。一方、咸興式は麺がイモのでんぷん主体でコシと弾力が強く、ビビンバ同様よくかき混ぜるので「ビビンネンミョン」と呼ぶ。
「冷麺は本来、冬の食べ物なんですよ」と金院長。朝鮮時代(1392~1910年)末期の「東国歳時記」には旧暦11月に紹介されているという。屋外の大がめに漬かる冷えた水キムチやその汁を使い、寒冷地特産のそばの麺をオンドル(朝鮮半島の床暖房)の利いた部屋で食べたのだろう。
金院長によると中期の詩文集などにも記載があり「17世紀以降は漢陽(今のソウル)でも食されたと思われます」。平壌では19世紀末に専門店ができ、日本の植民地時代の1930年代にはソウルで出前をする店もあったようだ。それでも南で爆発的に広まるのは、朝鮮戦争で逃れてきた数百万もの人々が「古里の味」を懐かしんで食べたから。「人の情と関係の深い食べ物とも言えるわね」と、金院長が続けた。
夏が近づけば、あちこちの店先で「冷麺開始」と染め抜かれた赤い旗が揺れる。ソウルの平壌冷麺の老舗の一つ「又来屋(ウレオク)」(ソウル市中区)を平壌生まれの姜哲煥(カンチョルファン)さん(43)と訪ねた。
姜さんは、祖父母や両親が日本からの帰還者。不自由ない暮らしだったが9歳のとき突然、政治犯収容所に送られ、10年間過ごした。92年に北朝鮮を脱出し韓国に逃れた。姜さんが「又来屋」を推すのは「平壌の味に一番近い」からだ。
同店の金枝億(キムチオク)専務(79)によると、創業者は元々、平壌で飲食店を営んでいたが政治体制を嫌って料理人とソウルに移り、46年に開業。朝鮮戦争でさらに南へ避難したが、休戦後の53年に再びソウルに出店。屋号はそのときのもので「また来たぞ!」という喜びを表すとか。
平壌冷麺は1杯1万1000ウォン(約809円)。スッキリした牛だしスープで、かめば梨の甘さやキムチの酸っぱさなど複雑な味が楽しめる。お酢やからしで好みの味にも仕立てられる。
「平壌では家からバスに乗って、冷麺で有名な北朝鮮を代表するレストラン玉流館によく通った。でも収容所ではトウモロコシの麺しか食べられなかったなあ」。姜さんが振り返る。実は姜さん、昨年末に長年勤めた朝鮮日報の記者を辞め、脱北者による北朝鮮問題シンクタンク、北朝鮮戦略センターを設立し、代表を務める。今の北朝鮮に話が及ぶと「あと3年もたてば、大きな変化が起きるんじゃないか」と目をギラリ。
懐かしさと故郷を奪われた寂しさ、悔しさ--複雑な思いを胸に味わう冷麺。多くの人々の思いとともに冷麺は食べ継がれていく。【西脇真一】
スープや汁物はスプーンで食べるのが韓国料理のマナーだが、冷麺は例外。手で持ち上げた器に直接口をつけ、ゴクリとやるのがいい。「麺は生もの。出てきたらできるだけ早く食べるに限る」と又来屋の金枝億専務。はしですくって思い切り「ズルッ」とすすったら、金専務は「その調子」とにっこり。
絶妙な麺の硬さで、はさみで短く切る必要はない。店では味付けカルビや、すき焼きに似たプルコギといった肉料理も食べられるが、使うのは韓牛。冷麺のスープも韓牛からだしをとる。金専務の話では「平壌の味を守れ」「韓国料理を世界へ」が創業者の2大遺言。米国にも進出を果たしているという。
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「世界食彩記」は今回で終了します。次回から世界の街道、小道を紹介する「世界道ものがたり」です
毎日新聞 2012年3月26日 東京夕刊
3月26日 | 世界食彩記:韓国・ソウル 冷麺 |
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