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歴史から消された広安門事件と廊坊事件


広安門(1957年取り壊し)(第1次大戦と20世紀)[a]
 昨年支那事変(日中戦争・日華事変)に関して調べ物をしていた際に英語版ウィキペディアで見つけた項目のうち、中国に都合の悪いものに限ってその後削除されているのに最近気が付いた。

 ウィキペディアは誰でも登録すればHNで編集が可能なものであるため時折編集合戦になっている事もあり、先の大戦に関して何としても「日本が一方的に中国を侵略した」と言う結論に導きたい英語版ウィキの中国人編集部隊がしらみ潰しに、中国側の加害行為を隠そうとすると言う傾向が目立つ。ウィキペディアは中立を是とするという建前の筈がその現状としては、日本語版に比べて同項目の英語版に用いられている資料が中国側に極度に偏っているものが圧倒的に多く、数にものを言わせたプロパガンダ交戦のようなフェアでない状況に見える。

 以下に挙げる二つの事件は、1937年7月7日の盧溝橋事件と8月13日の第二次上海事変の間に相次いで起こった数々の日本人襲撃殺害事件のごく一部であり、そう言った現代のイラク戦争顔負けのテロ事件の連続が、日中開戦の大きな理由と実際なっているにもかかわらず、編集合戦の結果極度に内容の乏しいものになったり、項目自体が消滅してしまったりなど、中国側の加害事件を矮小化しようとする傾向が非常に見られる。




廊坊事件

 これは以前英語版ウィキペディアに掲載されていたものが、現在は内容が書き換えられ非常に短いものになっている。元の全文は『All Experts』およびウィキペディアの編集ログページで見る事が出来る。

Langfang Incident (AllExperts.com) [魚拓]

全文訳は以下:
編集前
廊坊事件
From Wikipedia, the free encyclopedia (2005.9.25-2006.11.17)

 廊坊事件(日:ろぼう)は1937年7月25日に北平の南東48kmの天津に向かう鉄道路線で発生した。橋本群中将は「日本の通信隊が郎坊駅でケーブルの修理をしていたところ、駅の側に駐留していた中国38師団所属の兵士が奇襲をかけた。鉄道防衛で近くに駐留していた(日本の)支那駐屯歩兵は一晩に渡って駅の防衛をしたが、多くの死傷者を出した。このような厄介な事件を防ぐために我々は中国側に修理作業を事前に通知していたのだが」と証言している。死傷者は15人(死者4人)。[訳=岩谷]

The Langfang Incident (Japanese: Lo-bo) occurred on July 25, 1937, about 30 miles southeast of Peiping, on the railroad that leads to Tientsin. "... while a Japanese signal unit was repairing communication wires at the Langfang station, a Chinese unit belonging to the 38th Division, which was camped near the station, launched a surprise attack against the signal unit. An infantry company of the China Garrison Army stationed nearby to protect the railway successfully defended the station throughout the night but suffered severe casualties." General Gun Hashimoto adds that "to prevent the occurrence of such an untoward incident, we had given the Chinese advance notice of the repair work...." There were 15 casualties on the Japanese side (four of them killed.)

Wikipedia. "Langfang Incident", as of September 25, 2006; 9:52 edited by Asiaticus.

編集後
廊坊事件
From Wikipedia, the free encyclopedia (2006.11.17以降)

 廊坊事件は第二次中日戦争中の1937年7月26日に、北京天津間にある廊坊で起こった事件である。中国第29軍への攻撃作戦の一貫として日本軍がそこに配備された。[訳=岩谷]

The Langfang Incident (廊坊事件) was a military incident of the Second Sino-Japanese War that occurred on July 26, 1937 in Langfang, a town en route from Beijing to Tianjin. The Japanese dispatched troops there as part of an organised attack on the 29th Army.

Wikipedia. "Langfang Incident", as of November 17, 2006, 7:30 edited by CaliforniaAllBaba.

 編集前は、天津が「Tientsin」と欧米で用いられているスペルで、事件当時の北京の名称の「北平」と表記されるなど時代考証に忠実なもので、橋本群中将の証言を含んだものに対し、改変後では天津のスペルが拼音の「Tianjin」に変わり、「北平 Peiping」「北京」(スペルは英語の「Peking」でなく拼音の「Beijing」) になっている事、そして中国側の攻撃の記述が全て削除され、何の事件だか一切分からなくなっている点、更に参考文献が中国人に書かれた一冊のみである事から、日本側の資料が一切排除されそっくりそのまま中国側の主張に置き換えられている。

 南京大虐殺で“30万人”と主張する割には、廊坊事件の「4人死亡」も消してしまうとは、一体どういうご都合主義なのか。


この項目を書いたのは誰か

 この最初のバージョンが書かれたのは2005年10月11日で、書いたのは「Reader72」というユーザー。自己紹介ページには「日本語を話す」とだけ書かれておりどうも日本人らしい。内容的にも橋下群中将の証言を入れている辺りから日本人と見られる。

 差し替えバージョンは2006年11月17日で、差し替えを行ったのは「CaliforniaAliBaba」というユーザー。自己紹介によれば、英語がネイティブ、マレー語と中国語が堪能、日本語とスペイン語が中級、ロシア語と韓国語とウイグル語の知識があるという、かなりの言語マニアのようであり、英語・マレー語・中国語の3つが堪能という事は、HNからしてマレーシア華僑の米国移民と見られる。


現在確認出来る「廊坊事件」のウィキペディア英語版編集前からの転載。(2009.1)
AllExperts [魚拓]
NationMaster [魚拓]
INEX
Shortpedia [魚拓]



広安門事件

 これは昨年の夏の段階で英語版ウィキペディアに掲載されていたものが、その後項目自体が削除されているため、編集ログを見る事すらも出来なくなっている。その後「answers.com」などに転載されたものが見られたものが、現在は「answers.com」からも項目が消えていて、以下の「search.com」上で見られるのみである。

Kuanganmen Incident (search.com)

全文訳は以下(写真はウィキペディアとは無関係):

広安門北側(右側が外門)
広安門事件
From Wikipedia, the free encyclopedia

 1937年7月27日(未だに合意を得ていない廊坊事件の翌日)に北平旧市街の西側の高層門の広安門において勃発した。日本側は北平市内の日本居留民50数名を保護するため、中国側の同意を得た上で支那駐屯歩兵第2連隊第2大隊を豊台から北平に移動することにした。桜井徳太郎中将(支那駐屯軍司附、第29路軍顧問、ホペイ=チャハル作戦委員を兼任)は、攻撃の口実が欲しい中国側を牽制するため非武装で通訳1名と共に広安門の上に登った。中国側の指令の取り消しなどによる混乱の後、日没以前にトラックに乗って到着していた日本軍のために門を開ける手はずを桜井は整えた。


広安門箭楼西側(外門外側)

広安門城楼西側(内門外側)

 最初の車両が外側の門を通過して二番目の門に近付いた時、城門上の中国軍は日本のトラックに対して機関銃や手榴弾で攻撃を始めた。中国側によって内門が閉じられる前に大隊のおよそ半数が(攻撃の中を猛スピードで)2番目の門を越えた。「その突然の出来事に驚いた」桜井と中国側将校は両側の壁から日本軍目掛けた攻撃を停止するよう働きかけた。そして近代日本軍の記録で最も劇的なエピソードを展開した。桜井自身はその光景をこう語っている:

  「中国人数人が私と通訳の川村の側に来て「日本人を殺せ」と叫んでいた。王隊長を制止して中国兵をコントロールしようとしたが無駄であった。第132旅の中国兵が10メートルの距離から発砲して来た。そして機関銃・・・二階建ての門の・・・北側で攻撃を始めた。川村はそれを止めようとして銃弾数発を受けたようである(註:この通訳はその時殺害されている)、同じ方向から槍とピストルを持った中国兵数人が私達目掛けて突進して来た。西側の二階建ての門から10人以上の中国兵が来て銃弾一発が私の足に当たった。もはやどうにもならないないため、王隊長を投げ飛ばし二つの門の間に10メートル以上の高さを飛び下りた。私はコンクリートで右足を骨折した・・・そして右肩を打撲した。・・・私は攻撃に晒され城壁の上の中国兵は手榴弾を投げて来た。・・・私は死角を探すため小屋に入った・・・そして棒やレンガを防衛のために確保した。もし城壁の上に留まっていたら殺されていたことだろう」

 剣道と陸上の達人である桜井は当時41歳、丁度昇進した時期であった。橋本群将校は「広安門事件」を「最も悪意に満ちた奇襲である。我々は17人の死傷者を出した(2人が死亡、そして2人のジャーナリストが殺害された)」と語った。7月29日までに日本軍は中国軍を北平と揚子江の左岸から追い出したことも特記する。

http://en.wikipedia.org/wiki/Kuanganmen_Incident
[訳=岩谷] (原文:英語)

 ウィキペディアから項目自体が削除されるという事は、誰が書いてどういう編集歴があったかの痕跡すらも消えてしまう事であり、つまり削除するという事は、広安門事件自体が歴史に存在しない架空の物語とみなされたという事になるのかという話である。

 なお、廊坊事件は日本語版にもかつて独立項目が存在したものの昨年3月に削除されている。日本語版でも英語版と同様の事が起こっているのだとすれば、削除の経緯の記録そのものを消去してしまったのでは、これらの事件を「史実ではない架空の事件」とみなしたも同然という事になる。





追記 (2008.10.6)

「search.com」に転載されていたものもその後消去され、広安門事件の記事が転載されては削除されるといういたちごっこを繰り返している状態なので、以下に転載サイトリストと魚拓の一覧、それから保存のために原文の全文を本エントリーに転載する。

Wikipedia (項目自体が削除)
Answers.com (削除)
Search.com (削除)
cassiopeia.com (cassiopeia wiki自体が消滅)

現在確認出来る「広安門事件」のウィキペディア英語版からの転載。(2009.1)
AllExperts [魚拓]
NationMaster [魚拓]
TvWiki [魚拓]
INEX



付録資料:
広安門事件の英語原文
これはかつてウィキペディアに掲載されていたもので現在は項目自体が削除されている。その後「Ansers.com」に転載されたものも削除されている。保存のために本稿に収録。
Kuanganmen Incident
From Wikipedia, the Free Encyclopedia

On July 26, 1937 (the day after the yet-unsettled Langfang affair), a new incident flared up at Kuanganmen (Japanese: Kōanmon), the high western gate leading into Peiping's Old City. After obtaining the assent of the Chinese, the Japanese arranged to dispatch the 2d Battalion (minus one company) of the 2d Infantry Regiment from Fengtai back to Peiping, in order to protect some fifty Japanese nationals still remaining within the Walled City. Tokutaro Sakurai (then a LtCol serving with the China Garrison Army Headquarters, and simultaneously accredited to the Hopei-Chahar Political Committee and the Chinese Twenty-ninth Army) went atop the Kuangan Gate, unarmed and accompanied only by a Japanese interpreter, in an effort to restrain the trigger-happy Chinese. After some confusion because of Chinese orders and countermands, Sakurai arranged to have the gate opened for the Japanese battalion, which arrived aboard its trucks before sunset.

When the first vehicles had passed through the outer gate and were approaching the second, Chinese troops on the castle wall opened fire with light machine guns and buried grenades at the Japanese trucks. About half of the battalion got through the second gate (moving at high speed and under fire) before the portals were slammed by the Chinese. Sakurai and a Chinese staff officer, "amazed at the sudden incident," both strove to halt the firing which was aimed at the Japanese on both sides of the wall. Then ensued one of the most dramatic episodes in the modern annals of the Japanese Army. Sakurai describes his adventure in his own words:

"Some Chinese got close to me and Kawamura, the interpreter, crying, 'Kill the Japanese!' Holding Brigade Commander Wang, tried to control the Chinese, but in vain. The Chinese of the 132d Division fired from a distance of ten meters. Then light machine guns ... north of ... the two-storied gate began to fire. Trying to prevent this action, Kawamura seemed to have been hit by several bullets. (N.B.: The interpreter was actually killed). From the same direction several Chinese rushed toward us with halberds and pistols. ... from the direction of the eastern two-storied gate, ten or more Chinese came forward, and one bullet hit my left leg. Now that there was no use to fight, I grappled with Brigade Commander Wang, knocked him down, and jumped down to the yard between the walls a drop of over ten meters, between the eastern and western two-storied gates. I fractured my right leg on the concrete ... and hit the ground on my right shoulder. ... I was being fired upon, and the Chinese on the wall were throwing hand grenades. ... I entered a barn, seeking dead angle . . . and prepared some sticks and bricks by way of precaution.... If I had remained on the wall, I would have been killed".

Sakurai, a kendo and track star, was 41 years old at the time of his celebrated leap. General Gun Hashimoto states that in the "Kuangan Gate incident, a most malicious attack, we suffered seventeen casualties" (two of them killed, and, in addition, two journalists killed) It should be noted that the Japanese proceeded to drive the Chinese from Peiping and from the left bank of the Yungting River by 29 July 1937.

http://en.wikipedia.org/wiki/Kuanganmen_Incident

  sakurai03.jpg
桜井徳太郎 (1897-1980)

関連資料1:
 ウィキペディア英語版の、削除された広安門事件の項目を書いた人物が参考にしたと思われる資料は、1938年7月6日の東京朝日新聞に掲載された「盧溝橋事件一周年回顧座談会」での、桜井徳太郎歩兵中佐本人の証言と思われる。

盧溝橋事件一周年回顧座談会9
 北京入城を阻止 桜井顧問 広安門の活躍

 (東京朝日新聞 昭和十三年七月六日)
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/zadankai9.html



関連資料2:
 支那事変に関して当時の報道の様子を伝える「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」(1937.12.18刊)の記事を載せているブログ『反日ワクチン』では、当時の生々しい報道が紹介されている。これはリアルタイムで報じられた一級の一次資料としての貴重な記録である。

郎坊事件特派員特電(反日ワクチン 2007.6.30)
広安門事件特派員特電(反日ワクチン 2007.7.2)




写真;

  1. ^ 別宮暖朗. 『廊坊事件・通州事件』. 第一次大戦と20世紀.
  2. ^ 北京老城門図片展. 『広安門』. 結芸坊中国民俗芸術網.




支那事変関連エントリー:
歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
南京事件考 (2007.8.7)
東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)
清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト (2009.9.26)
はてなブックマーク - 歴史から消された広安門事件と廊坊事件

コメント

中国って・・・徹底してますね。もちろん悪い意味で。(笑)

  • 2007/07/11(水) 13:04:17 |
  • URL |
  • bao #uP0j07LY
  • [ 編集]

こんつは〜っス、熱闘欲っス。

wikiの編集合戦ってのはよく目にするっスが、重要な項目が衆目に晒されるのを嫌って握り潰した奴がいるってことっスね。
そもそもwikiは公正中立を謳っているっスが、日本語版のサーバーが韓国にあるだか何だかで、朝鮮半島に有利な記述になり易いってのは度々指摘されてたっス。wikiとは別に日本海の呼称問題なんかでも、悪名高いVANKがgoogleに圧力をかけて、地図の表記を東海(トンへ)だかにしてませんでしたっけ?
どうやら特亜にとっては、歴史は事実を語るもんじゃなしに都合よく作り直すものらしいっスね。
ましてやシナーはニダーに較べりゃ格段にデカイ国っスから、歴史の改竄や捏造、隠蔽を本格的に遣り出したら、過去がまるっきり変えられるなんてあるかもっス。
SFのタイムとラベル物なんかじゃ、過去に干渉したら現在が丸っきり変わってしまうんで、タイムトラベラーは不干渉がお約束になってるっスが、特亜は現代を変えるために過去への干渉を試みているのかもっス。自分らの邪な目論見のために。

  • 2007/07/11(水) 13:04:38 |
  • URL |
  • ドウモっス #bgTjmk0w
  • [ 編集]

日本人は馬鹿正直なので

>>baoさん
日本では「正々堂々」や「清廉潔白」に拘る人が多くある意味潔癖症な性質の強い国民性に見えますが、特亜の場合は結果さえ良ければ手段は問わないというか、無理が通れば道理が引っ込むというか、引っ込めさせた方が勝ちみたいな点は日本とはかなり異質だと思います。

>>ドウモっスさん
今回調べてみて分かったのは、削除を行った人物が毎日数分置きにウィキをいじっていて、要するにウィキ専門の人がいるようです。もし例えば中国政府が人を雇って給料を与えて、ウィキだけ編集して生活出来る人が数人いればこれも可能になります。

あとGoogle Earthですが、日本海どころか今は世界中の海洋名が非表示になっていますね。韓国が余りにも騒ぐのでGoogle側が嫌気がさしたのかもしれません。

以前あきらさんがmumurブログに書いていましたが、特に韓国は儒教の伝統的に「歴史とは事実」ではなく「歴史とはあるべき姿にするもの」と言う考えが基本にあるようで、つまり彼等にとっては修正するのは当たり前の事であり、自分達の価値観で日本を見るものだから「歴史修正主義」とか言う言葉を平気で使うのでしょう。

「タイムマシーンなんて出来たら絶対に歴史を変えようなんて輩が現れるな」とは誰でも想像する事ですが、国ぐるみでそれをやりそうなのが三ヶ国程あるので、そんなもの発明されない方がいいのです (笑)

  • 2007/07/11(水) 15:00:14 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

こんにちは。
遅ればせながらブログ開設おめでとうございます。
どちらもやり方が汚いですね、
過去の奇襲も現在の歴史の隠蔽も。
それに比べ日本は呑気すぎてイライラするくらいですw

  • 2007/07/11(水) 18:14:30 |
  • URL |
  • さと #-
  • [ 編集]

さとさんもブログ復活しましたね

>>さとさん
戦前の日本を性悪論で見る人に限って特亜人と言うものを全く分かっていないのですが、結局の所これが大昔から様々な民族の興亡を繰り返し支配したりされたりを繰り返した大陸の流儀です。

  • 2007/07/12(木) 06:03:24 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

やはり

チャイナ人は、ゴミですね。汚物は、きっちり消毒しておかないと。事実は、後から作ったもの勝ちだなんて、チャイナ人留学生が言ってましたね。しっかり、違う意味で、ナデナデしておきましたので、ご安心を。

  • 2007/07/12(木) 21:05:14 |
  • URL |
  • OK野郎こと白兎 #-
  • [ 編集]

一種の儒教らしいのですが

>>白兎さん
実際特亜人は国家レベルだけでなく個人レベルでも物凄い執念で歴史修正を行おうとしているのは、それぞれのユーザーの編集記録にそれが表れている訳で、「結果さえ良ければそれが正義になる」と言う点彼等は徹底してますね。それに比べて日本人は危機感がなさすぎます。

  • 2007/07/13(金) 09:45:37 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

ブログ開設おめでとうございます(・∀・)

文太さんこんにちは。

ご挨拶が遅く成りましたが、ブログ開設おめでとうございます。
文太さんらしい「深〜い」ブログになりそうですね。

  • 2007/07/13(金) 20:17:20 |
  • URL |
  • マック #Gwbh409o
  • [ 編集]

>>マックさん
マックさんこそ最近はいろいろお疲れ様です。
巷にいいサイトやブログは沢山あるので、自分に出来る事と言えば何か自分の得意分野を活かした物をやるのがいいのかなとは思ってます

>>blue moonさん
これは想像に過ぎませんが、アメリカは非営利組織から援助を受けていたり、中国では政府お抱えの歴史の専門家を雇っているなど組織的な印象もあります。日本だって編集合戦は起こりますが、年から年中全ての記事をチェックして修正するなど、マニアかプロでないとなかなか出来るものではないとは思います。

  • 2007/07/14(土) 10:15:32 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

支那事変

文太様
コメント有難うございます。
貴ブログ拝見しました。
私もできるだけ当時の資料からの引用がより真実を訴えるのに有効と思い、いろいろ古書籍を探していて、偶然手に入れたものです。
もちろんできるだけ多くの人たちに真実を知って頂きたいのが主旨ですので、どうぞご自由にお使い下さい。
そてさらに多くの方に広めて頂ければ、私もやりがいがあります。
これからもどうぞよろしくお願いします。
※貴ブログを今後も読ませて頂きたく、リンクさせて頂きましたが、ご承諾よろしくお願いします。

  • 2007/07/14(土) 13:55:24 |
  • URL |
  • 小楠 #00DmkO4s
  • [ 編集]

お越し頂き有り難うございます

>>小楠様
こちらにもコメントありがとうございます。今手がけているのが通州事件と大山事件なので、そちらが出来たらまたお知らせさせて頂きます。

  • 2007/07/15(日) 14:03:34 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

はじめまして。信じてもらえないかと思いますが、櫻井徳太郎は私の曾祖父です。この話は祖父から何度も何度も聞かされました。また、現地の中国軍の卑劣さも聞いてます。民間人になり済まして奇襲をかけていたそうです。
この事件で祖父は騙し打ちにあいました。しかし、撃たれたあとの曾祖父は現地の中国人の友人によって救われました。不思議ですよね。歴史が闇に葬られないためにはどうすればよいのでしょうか?

  • 2011/12/16(金) 17:38:43 |
  • URL |
  • ひ孫です。 #-
  • [ 編集]

ひ孫ですさん

中国軍が民間人を装って奇襲する便衣兵の手段を使ったり、民間人の中に紛れ込んだり民間人を盾にするという、国際常識からするととんでもない卑劣な戦法を使ってそれで日本側を悩ましていたというのは、昨今は日本の報道番組でもようやく言及するようになりましたね。

そもそも当時の中国は捕虜の扱いなども国際的な取り決めも全く関係ないある種の野蛮国の面もありましたので、それに中華思想的な動機で列強の中で日本を殊更に目の敵にした国民党や、アメリカは何を好き好んでそういうルール破りばかりやる野蛮国側に付いて最終的に日本と戦争にまでなったのかなど、これは単純に日本が悪いと言って片付けていい問題ではありませんので。

中国は昨今の共産党体勢では「一つの中国」や愛国主義的なスローガンを連呼していますが、元々はあの人達は国家意識は希薄で、内輪主義で風見鶏な民衆であって、それが日本人だろうが同胞だろうが親しい方を優先という、そういう辺りは本質的には今でも中国人は変わっていないと思います。

歴史が葬り去られないようにするためには、まず第一に日本国内では忘れさせてはならないという事だと思います。
このエントリーを書いた4年半前には日本軍が野蛮でイノセントで可哀想な中国人という認識がまだ強い時代でしたが、この4年でも少しずつでも変わって来てはいますので。

日本が敗戦したために、大戦関係は戦後に関係者が口を閉ざしてしまい、そういう点でも歴史に埋もれようとしていますので、そのためにももし遺品の中に何かしら重要な資料があったり、生前の証言などをご遺族の方には何らかの形で世に出して頂ければとは思いますね。

  • 2011/12/19(月) 01:27:11 |
  • URL |
  • 岩谷文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

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