SYNODOS JOURNAL

飯田泰之
飯田泰之

経済を考える勘所−−ワルラスの法則について

2010年07月31日

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 何らかの理論的な思考をもって、現実の問題に当たろうとする。そうすると、経済学にかぎらず、必ずといっていいほど、ある壁にぶつかることになる。

◇理論の精緻さと適用範囲のトレードオフ◇
 たしかに、精緻な理論は厳密な結論を与えてくれる。しかし、理論はそれが精緻なものであればあるほど、多くの前提を必要とするため、現実がその諸条件を満たしていない可能性が高くなる。いわゆる机上の理論というやつだ。

 一方、波及経路(なぜそのような結論になるのか)や定量予想(効果を数字で表すとどのくらいになるのか)に答えることのできない基礎的な理論は、素朴であるがゆえに、わずかな前提から結論を導くことができる。

 要するに、理論の精緻さと適用範囲は、往々にしてトレードオフの関係にあるということだ。

 そうしたなか、ほぼまったく前提を必要とせず、それでいて現実問題への鋭い洞察を与えてくれる「都合のよい理論」もいくつか存在する。

 そのひとつが、有名なワルラス法則だ。

◇「すべての市場の超過需要の和はゼロになる」◇
 ワルラス法則は、「すべての市場の超過需要の和はゼロになる」と表現される。教科書などにおいても、このような木で鼻をくくった説明が加えられるだけだが、この法則はマクロ経済を考える際に重要なインプリケーションを与えてくれる。

 説明を簡略化するために、「経済的になんらかの価値があるもの」は、世の中に、財やサービス・貨幣・その他の3種類しかないとしよう(4つ以上の市場がある場合でも、以下の議論は変わらない)。

 「その他」を含むため、この分類はMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive。脱漏・重複のない分類を指す)である。ここでいう「その他」とは、具体的には、土地、株、債券などの貨幣以外の資産などが代表的である。

 以下では、これらの取引をそれぞれ【財】【貨幣】【資産】と呼ぼう。

 ある時点で、財・貨幣・資産は、誰かによって所有されている。個々の人・企業は手持ちの財・貨幣・資産それぞれを、売ろうとする(供給)か、買おうとする(需要)ことになる。

 ここで上記の分類がMECEであることに注意されたい。

 財・貨幣・資産のすべてを同時に入手する、または手放すことはできない。財を手放せば、対価として貨幣か資産が増えるし、資産を買う場合には、貨幣か財のどちらかを手放すことになるためだ。

 そのため、ある交換比率の下で、財・貨幣市場において、ともに手放したい人よりも入手したい人の方が多い【超過需要】ならば、資産市場では、かならず入手したい人よりも手放したい人の方が多い【超過供給】ということになる。

 このとき、超過供給をマイナスの超過需要と考えると、「すべての市場の超過需要の和はゼロになる」という、ワルラスの法則が導かれるわけだ。

◇問題は貨幣供給の不足をどう埋めるのか◇
 ワルラスの法則を、もう少し具体的なかたちに書き改めると、「ある市場が超過需要状態であるならば、かならずどこかの市場では超過供給状態になっている」となる。

 「ワルラスの法則は均衡においてしか成り立たない」といった中央銀行総裁がいた(注)という噂があるが、それは誤りである。市場の分類をMECEに整えているため、この関係はいつでもどこでも成り立たざるをえない。

 (注) 白川方明日本銀行総裁のこと。さすがに経済学のPh.Dホルダーが、ワルラスの法則を理解していないということはあり得ないので、ワルラス調整かワルラス均衡あたりと勘違いをしたのだと思われる(思いたい)。

 さて、このワルラスの法則を理解すると、マクロ経済の状況について明確な理解が得られる。

 財市場と資産市場において、ともに超過供給(需要が足りない)にあるならば、それは貨幣市場において超過需要がある(貨幣供給が足りない)ことと同値になる。

 日本経済の現状について、(財・資産市場での)需要不足を指摘する論者は多い。このような需要不足を指摘する論者のなかには、貨幣供給の不足について否定的なものがいるが、これは論理的に矛盾している。

 需要不足を認めるならば、残された問題は、貨幣供給の不足をどのように埋めるのか、という点に絞られているはずなのだ。(注)

 (注)ちなみに、いくら貨幣を供給しても、それを上回る貨幣需要が生じるため、貨幣市場での超過需要を解消することができないと考えると、小野善康氏による不況定常の議論となる。

◇もっと深く知るための一冊◇
松尾匡『不況は人災です−みんなで元気になる経済学・入門』筑摩書店 ⇒ 【アマゾンで詳細をみる】

 現代のエコノミストの多くはケインズ理論、新古典派理論、新ケインズ理論などの近代経済学を基礎に分析・思考を行っている。一方、著者である松尾匡氏の専門は数理マルクス経済学である。その上で狭義のマルクス経済学のみに拘泥することなく、近代経済学についても精力的な批判と成果の吸収を行ってきた。主流派理論にとらわれない、氏の考える不況への処方箋は何か。異なる理論的なモデルから類似の方法が推薦されるならば、その手法の信憑性は高い。ぜひご一読を願いたい。

プロフィール

飯田泰之(いいだ・やすゆき)
1975年生。エコノミスト。専門は経済政策・マクロ経済学。東京大学大学院経済学研究科満期退学。駒澤大学経済学部准教授・財務省財務総合研究所客員研究員。主な著作に『経済学思考の技術−論理・経済理論・データで考える』(ダイヤモンド社)、『ダメな議論』(筑摩新書)、『脱貧困の経済学』(共著、自由国民社)など。

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