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人工世界論

 神の存在を信じるか、信じないかという問題は信仰―つまり心理的な問題であるから、このようなことに正確な答えを与えることはできない。しかし純客観的に、神が存在するか、存在しないかということは答えられる、なぜならそれは単に科学的な問題だからである。この世界が基底現実ではなく、人工世界であることが証明されれば、当然神の存在が証明されたことになるだろう。
 今までありとあらゆる神学者、哲学者が神の存在証明に挑戦し、すべて失敗に終わった。だから今度も失敗するだろう、と考えるのが普通である。しかし神の存在証明は、実は徹底的に容易である、なぜなら神が人間を神の存在を証明できないように創らなければならないほど、この世界は人工性をはっきり示しているからである。

 いわゆる手や目の構造が精緻を極めているから創造者がいるのだという論法では、進化論に全然対抗できないし、それどころか進化論を支持さえすることになる(私の進化論は有神論的進化論、調整された進化論である)。だからそういう回りくどい曖昧な神の証明法は採らない。はっきりと分かりやすい、子供や老人でも分かる神の証明法がある。それはやはり客観的な数学や物理学である。以下に述べる神の証明は無論私のオリジナルであり、どの本にも載ってない(哲学者として私は最も困難な哲学命題−『神の存在証明』に挑戦する)。

 科学知識に乏しい者でも、この世界がある種の物理法則によって動いていることに疑いを挟む者はいないだろう。もしその物理法則の中に人工物が混じっていたら、人工世界だと疑わざるを得ない。数学者、科学者によれば、自然な論理は+、−、×、÷、=の五つで(その他の演算記号は自然科学上の物理方程式で全く使われないから、あくまで二次的なものだと判断出来る)、二乗して−1になる虚数iは物理的に存在せず、純粋に数学上の存在ということになっている(例えばimaginary number=想像上の数、という名が与えられている)。従ってこの世を統べる物理方程式の一つ、量子力学におけるシュレディンガー方程式、

シュレディンガー方程式

 において、虚数iが出てくるということは、この世界の始まり以前に数学を完成させた知的生命体が存在し、世界建設の際に人工数として虚数iを使ったということになる。例えば木のうろに住んでいて、床を削っていたところ、鉄筋コンクリートがいきなり出てきたら、常識ある人間だったら木は自然の産物ではなく、人間が造ったものだと判断するだろう、それと同じである。

 因果律を整理して言うと、原初知的生命体の誕生→数学の発展、虚数iの登場→人工世界建設の際に使用→シュレディンガー方程式→人工世界内部に人間という知的生命体が登場→人間が数学を発展させ、虚数iが登場→人間がシュレディンガー方程式を認識→人間が虚数iに気付く→因果律を遡って推論→原初知的生命体の認識 ―――神の証明その1。 

 以下に述べる神の証明は神の証明その1より極めて確実で直感的である。意識を用いた思考実験―――

意識質感の不可解性による証明。単純明快にいって、色質感や音質感、触系質感の数が非常に多いのに、クォークを基礎とする物理界は基礎物質の種類があまりに少なく、質感と対応関係が全然結べないというのはおかしい。例えば音質感だけで何万種もあるのに、原子は100あまりしかないというのは不可解。脳の外では光の波長と色が、空気の振動波形と音質感が対応関係を結んでいるのに、いざ脳の中に存在しているはずの意識質感と様々なアトム的存在との間に対応関係が全然ないというのは不可解にすぎる−例えばある原子がある色を、ある電磁波がある音質を−と対応関係を結んでいくと、いたるところに意識質感が散らばっていることになり、人間の意識質感を担当する確率は極めて低くなる。これはおかしいので、人工世界説を採用し、意識質感は物理存在と全く別の存在だと考えるのが合理的。従ってこの世界は人工物になるから、創造主の証明になる ―――神の証明その2。

質感死について−もしこの世界が基底現実だったら、生物の主観は因果律さえ保持すればよいのであり、質感的連続性など必要ないはずである。例えば毎日の睡眠で意識が消失する=質感が消える=無―という過程を経て、一旦純粋無になってから、その次に覚醒によって生じる意識質感は元の意識質感である必要は全くなく、別の意識質感でよいはずである。だから朝を起きてこの意識は自分だと思っていても、実は他の質感であり、主観的に昨日の自分とは全然別の物理的実体ということになり、自我の連続性は保持されない、つまり睡眠して質感が消えるまでしか意識の連続性はなく、人間の真の体感寿命は一日になる。仮に何らかの理由で睡眠質感死を乗り越えたとしても、数年もすれば間違いなく同じ意識質感を使っていない状態になる、というのも、肉体の新陳代謝によって人間の原子構成の形相は同じでも、質料は入れ替わっているから、以前と同じ質感を未だ使っているはずはなく、主観の連続性は保持されない。従って意識質感は不動の非物質的実体でなければならない、この世では物理学に出てくる物質的実体以外認められないから、意識質感という不動の非物質的実体だけ中に浮いてしまう。これはおかしいので、因果律界と質感界に直接的な繋がりがなくても合理的に説明できる世界観―即ち人工世界論が証明され、創造主としての神が証明される ―――神の証明その3。

 この世界が基底現実であるならば、生物脳の研究から生物のクオリアを生成、構成するための専用部位が必ず発見されるはずである(生体機能の分業の原則)、そしてそれは当然極めて困難な事業であろうから、大脳新皮質その他のように広大な部位となるであろう(理性の獲得には広大な部位が必要だが、クオリアの獲得には広大な部位は必要ない、というのはいかにも不可解である)、従ってその発見は比較的容易なはずである−もし生物脳にクオリア獲得過程、獲得法の痕跡が全くないならば(認識機能は外界の状態の分析及びその情報の転送−つまりクオリア生成器官への正しい情報の提供が主な目的だから代用物にはならない)、生物脳はクオリアを獲得しないということが合理的帰結として示される−となれば人間の意識の明白な存在性と矛盾する、従って質感空間は別の合理的原理によって発見、生成されたということになり−つまりは人工世界論が証明される ―――神の証明その4。

これらの証明がいまいち分からないという人には、もっと単純明快な証明法が別にある。

アニメとか見たことがないと言われると困るのだが−意識には特殊な質感があり、例えば声優が発するいかにも美少女な声質とか、いかにも美少年な声質というものがある。これらは単純に言って物理的実体であり、それ以外の何物でもないはず。人間の子供が生じたのは進化論に従えばここ3万年以内である。しかしまさかそういう特殊な質感が物理的実体として都合よく人間の進化に合わせて宇宙に生じるということは常識に反するから、元々宇宙にそうゆう質感が物理的実体として存在し、それを後から利用したということになる(人間の肉体、脳は宇宙にすでにあったものを利用して再構成したものにすぎないから、当然脳に依存する意識質感も同様の原理に束縛されることになる)。ということは、人間の子供が発生する以前にいかにも美少女な質感とか、いかにも美少年な質感とかが宇宙にあったことになり、人間発生以前に人間らしさの方が物理的実体としてすでにあったことになってしまう。これは因果律が逆転しており、宇宙の進化に反する。そう考えるよりも、この世界は無限時間が経過した後の世界であり、そういう特殊な質感は人工的に創られたものだと考えるのが自然である ―――神の証明その5。

  現代人と一万年前の人類種は遺伝子構成にほとんど差異がない、ということは一万年前の人類種も現代人と全く同じ質感空間を所有していた、ということになる。そうなると原始人の質感空間にアニメ声質感が設定されていたということになる。アニメ声質感は極めて芸術的な存在であり、無条件な質感属性として文明的人格性(キャラクター性)を所持している(例えばアニメ声質感をランダムにキャラクターへ設定すると、いかにも不自然な印象を与えることになる)。原始人にそのような代物が設定されているということは、文明的なものを質感空間においてだけ先取りしていたということになってしまう。文明発生以前に文明的なものが設定されている、というのは因果律の矛盾だから、この世界は基底現実ではなく、人工世界だと考えた方がより合理的である ―――神の証明6

次の証明も明快である。進化論に従えば、生物は生存競争に勝つため、生存に最適な姿形をしているはずである。だから生存に適しない姿形をした動物がいれば、進化論ではなく、創造主によって因果律が捻じ曲げれられて創られたということになる。それがいわゆる人間である。もし人間が進化論によってのみ進化したならば、前髪は長く伸ばせないはずである、なぜなら狩りや採集に視界の確保は絶対条件だからである。その証拠に前髪が視界を覆うほど伸ばせる動物は一種もいない。当たり前である、生存に不利な視界を覆う前髪をずるずる引きずって歩く動物存在など不可解である。しかし人間だけ髪を長く伸ばせる−なぜか?デザイン上の理由から、髪を長く伸ばせた方がいいからである。まさか人類すべてが禿げか短髪というわけにもいくまい。神が介入せず、因果律にのみ従って知的生命体を生むと、髪の毛が短い知的生命体しか生まれず、アニメなどでキャラ分けが全然できなくなる(質感空間における人間のデザイン性にとって前髪がいかに必須なものであるか、という端的な一例)。 ―――神の証明その7。

哲学的証明として−普通に考えて、科学が発展すればいずれにせよ人工的な世界を創ることになる、そして一度でも人工世界が出来てしまえば、あとは無限時間ずっと人工世界が存在する世界になる。従って人工世界が存在しない基底現実世界というのはただの一回切りであるから、無限時間に対してその一回切りの世界に生まれるというのは確率的にいって不可能である。たまたま超初期の基底現実界に生まれるというのは、無限の数だけ目があるサイコロを一回だけ振っていきなり1を出すようなものである。聖書主義者はいう、「聖書にみられるような奇跡が確かに起こったのだ」基底現実論者はいう、「無限の数だけ目があるサイコロを一回だけ振っていきなり1が出るという奇跡が確かに起こったのだ」我々は前二者と違って合理主義者だから、このような奇跡譚は受け入れない、彼らは奇跡を前提に論を展開するという点で全く同じである ―――神の証明その8。神の存在証明の続き

                     
                                                     富樫 一弥