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風塵山荘
この掲示板は仏法と、仏教者の視点から時事を語る掲示板です。
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「けつねうろん」氏の史観からの葬祭一考、
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名前:
松木
日付:2012/3/24(土) 15:57
日本で最初に火葬≠ノ付されたのは日本における法相宗の開祖である「道昭」である。この道昭は遣唐使として唐にわたり、西遊記のモデルである玄奘三蔵に直接師事した人物であり、新訳の仏典を数おおく招来している。
この道昭の弟子にしばしば菩薩≠ニ呼称される「行基」がいる。行基は一般的に捉えられている私度僧≠ナはなくれっきとした官僧≠ナある。この時代、仏教は朝廷と官吏のもので一般的に庶民が仏教の教えを得ることは禁じられていた。
行基菩薩は朝廷・官僚の専有物であった仏教≠広く庶民に説き広めた。このようなことから度々官権から迫害を受けることになるがなお屈せずに民衆に法を説き僧綱≠ゥらの圧迫にも耐えた。
やがて東大寺の大仏殿建立にあたり、民衆を敵にまわすことが不利だと解した朝廷は、実質的に建立指揮者として行基を迎え入れ、私度僧に対する圧力もこれを機に改められ、清貧にして潔癖な者は僧侶として活動することが許されることとなった。この後より決まった拠点(寺院)を持たない遊行僧≠ェ各地をまわり民衆に広く仏教を広めることとなる。
鎌倉時代のことは実は史学的にもよく解明されていない。網野善彦氏がときおり日の当たらなかった古文書から時代の側面を切り開いて史学界に物議をかもしだす。
網野善彦氏によれば、鎌倉時代のいわゆる家人・下人≠ニいう主(あるじ)に使える者たちは比較てき自由に主を代えることが出来たようで、主に借金などがある場合、例えば奉公の給与などを前借りしたもの(人質)は別としてけっこう自由に出入りがあったようだ。
この他に、天皇家の造営や儀式に関わる諸々の工人(建築・彫刻・芸能・飾職・仏師・表具師等)たちは天下御免の特権があり、全国を自由に歩き回って商売が出来たようである。四条金吾などは江間氏に仕えていたが主家より給与された領地があり、小規模の領主(地頭)であり、家人・下人を持っていた。
四条金吾は地頭だったので宗祖に供養する資格も資料もあったが家人・下人に至ってはどうだったのであろうか。宗祖の御妙判は最初に供養料の目録となっているが、これは領収書≠兼ねており、使いの者が横領することを防いでいたとも考えられる。
これらの家人・下人が遊行の途上に行き倒れた場合などはどうなったのだろう。宗祖の御妙判に塚原の様子を示し「都の蓮台野のような死人を捨てるところに云云」との御書がある。資力の無い浪人たちの死亡に際しては墓域に捨てられることもあったのであろうか。
さて、我が国では古来から死者に対する祭礼は荒ぶる魂を鎮めるために行われていた。権力闘争に明け暮れる朝廷では、天変地夭等は倒した敵対者の魂による祟り≠ナあると捉える傾向があった。
そこで鎮魂≠フ儀式がなされるようになったのである。これは仏教以前では古典神道によって行われていたことは記紀にも記されており、現在でも各地方の神社において鎮魂祭≠ェ行われていて神式で葬儀をあげることも珍しいことではない。
靖国神社が戦死者を軍神≠ニして祭るのは、怨みを呑んで無念のうちに死んでいった兵士たちの魂が国に祟りを降らさないように神として祭る鎮魂≠フ意義を持っているのである。
本日は支部登山です。
返信
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名前:
黒川和雄
日付:2012/3/24(土) 13:0
本日夜出発で、明日の朝の御開扉です。
法太郎氏のことも祈って参ります。
バス5台、200名の参加ですが、
チョーかわいい女の子(某雑誌のモデルさん)、億ション住まいのフラダンスの先生、有名一級建築士、有名お笑い芸人・・・!!!
なんせワテのお寺は大阪有数の金持ちエリア、手塚山でっせ!!
ボ〜クノ オテラ オカネ モチ〜〜〜(=^▽^=)
キンジョノ カイカン ビンボーニ〜ン(;_:)
バカ話をしながらのバス旅行です。^m^
浜名湖サービスエリアでの休憩が楽しみです。
ウナギ丼食べる予定!!(ワテのパトロンがいつもおごってくださる)^m^
北海道の有志とも会いまっせ!
行ってらっしゃい、
名前:
松木
日付:2012/3/24(土) 16:7
>法太郎氏のことも祈って参ります。
※「必勝祈願」ですね。「武運長久」もお願いします。(笑)、
私は家内と別れてから別なお寺の預かりとなっていますので支部登山は
まだ先です。
>ウナギ丼食べる予定!!(ワテのパトロンがいつもおごってくださる)^m^
※いま、うなぎは高騰しているので、シカトウをされるかもしれませんよ。(笑)、
アハハハハハハハハ
返信
引用
名前:
ボク冨士宗学研究の管理人
日付:2012/3/24(土) 10:13
弊サイト・ブログを魚拓サイトに保存することは固くお断り致します。
ブログ記事は一切削除しないので魚拓サイトに保存する必要性がありません。不許複製 著作権所有:富士宗学研究
妙教や大白法の記事を許可なく転載した馬鹿野郎が言う言葉ではあるまいで!!著作権所有 無許可転載野郎が著作権だと!!
Re: アハハハハハハハハ
名前:
日付:2012/3/24(土) 10:36
盗人猛々しいとはこのことですねww
Re: アハハハハハハハハ
名前:
けつねうろん
日付:2012/3/24(土) 15:39
毎度!ボク冨士宗学研究の管理人 はん。
そない魚拓や転載が嫌なら、Webサーバに置くんではなくて鍵かけて金庫に格納すればええのにね、アホやで(www
>Copyright (C) The FUJI Institute of NichirenSyousyu Buddhism, Japan
>Nichiren Shoshu Buddhismだよ、ボケが!
それよか管理人なら修正を@:@(呵呵大笑)
恥さらしでっせ(wwww
サンクス波木井坊、
返信
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名前:
松木、
日付:2012/3/23(金) 20:43
波木井坊というのは、どうもパソコン通信の時代からあっちこっちのニュースサイトに参加していたようで、おそらくそこここでぶつかり合っていたのだろう。当時、ネットにつなぐにはよほどのプロ級の知識が無ければ無理だった。
パソコン通信の時代には、各ニュースサイトには必ず親分≠フようなやつがいて取り仕切っていた。私がよくアクセスしていたのはPC-VAN(NEC)で、「PC-98幼稚園」というサイトで、パソコンの初心者の質問やテクについて学ぶところだった。
ここにも親分級≠フやつがいて、質問に対して他の人物が答えようものならなんだかんだケチをつけて黙らせてしまう、という傾向が強かった時代である。写真のサイトにはけっこう素人のヌード写真などがあり習作≠ニか云って投稿されていた。(笑)、
>創価学会には同性愛グループが存在するのよ。
>新宿二丁目でストリート折伏して入会させる、なんてのが問題になった
>事があるようです。
※サンクス、波木井坊。なんとなく「久遠居士」の動きの傾向さが見えてきたよ。ある日「久遠居士」が法華講員青年部のサイトに他宗の学究がきて困っているので助けてやってくれないか、という連絡が入った。
見てみると、むちゃくちゃな状態だった。教学もない、宗史の知識も無い法華講青年部たちが反論不能のくせに「今度住職さんに聞いてきます」とか、遁辞をかまえて逃げ回っていたのだ。なにしろ相手は真宗の「歎異抄研究会」の人物なのである。三吉氏という。
三吉氏とは過去に、この私が持てる全知全能をかけて対論し五分≠ノ持っていくのがせいいっぱいの人物だったのである。その法華講青年部のサイトの中に「同性愛の部屋」という項目があり、その道の青年たちが集まっていたのである。私は久遠居士に「あれはなんだ?」と聞いたことがあったが明確な応えは無かった。
さて、謀略サイトの冨士宗学研究の旧掲示板を見給え、「誠之助」というものが「RE:異体同心の実を」という私への反論を書いている。彼は東京の昭島市に住むれっきとした学会青年部の人物である。もっとも十年以上前の話しだから現在は壮年部と思われるが。
なるほどのう。久遠居士が十数年間にわたり学会男性と深く交わっていたのは、肉体的にも交わり続けていたのであろう歟。(笑)、
これは、私が謎≠フひとつとしていた事柄なのだ。(笑)、
また地方大学を「国立大学」とでっち上げた聖教珍聞
返信
引用
名前:
黒川和雄
日付:2012/3/23(金) 17:26
(=^▽^=)
http://blog.livedoor.jp/sokadakkai/archives/53768860.html
某HPに
返信
引用
名前:
お初でございます
日付:2012/3/23(金) 16:49
不掲載の理由が書かれていました
私しも、かのHPに
「なぜ一審の判決文を掲載されないのか?
訴えたことは大々的に掲載しておきながら
都合が悪いとスルーですか?まるで創価学会そのものではないか?」的なカキコをした
それがレス覧に掲載されることはなかった
都合が悪いレスは一切載せないのだなと
笑ってみていたのだが
なんと、串経由との理由で掲載されていないようだ
だが、私しは「串による投稿の仕方」を知らないのだ
久遠殿、どうにかならんか?w
納得できないんで書かせてくださいな。
返信
引用
名前:
けつねうろん
日付:2012/3/23(金) 12:49
今日はまじめな話をしたいので標準語で投稿します。大阪人だってまじめに書く時には標準語がええんです。大阪弁だと漫才になります。)
昨日ふざけたHNで投稿したのは僕です。下に三件とありますが、自分が書いたのは二件です。(道教の件と日蓮大聖人様の御振舞いの件)
道教はそれ自体は確かに平安以前より中国から来たものであるということになっている。陰陽道とか日本各地の風習にその名残が有ることは承知している。そこは砲太郎はんの仰るとおりだ。また、時代に応じて道教の姿が変遷したというのもその通りだ。
だが、波木井坊氏が書かれた「庶民は道教で葬儀をした。」「徳川以前の庶民は僧侶を呼べなかったのだ」なんていうのはどう考えても間違いだろう。(平安時代以前なら、南都六宗は「行基」等のごく一部の僧侶をのぞき、庶民に接しなかったので正しいと思うのだ。)
百姓一揆を見よ。
三河では徳川家(浄土宗)に対し、浄土真宗を担いで対抗しているし、石山本願寺も畿内の一向宗の尊崇を集めて織田信長に激烈な抗争をし、加賀の一向宗はこれまた殿様を認めずに激しく抗争したのだ。
「戦争をする」というのは「生きるか死ぬか」である。「死ぬ」可能性があるのが解っていて百姓は抵抗したのだ。「死の時」に僧侶が来ないでなぜ、命を張ってまで南無阿弥陀仏を唱えようか。石山本願寺のために尽くそうか?(むろん、無駄飯喰らえの馬鹿な殿様/武士よりも、商業政策に長けた石山本願寺にシンパシーを感じた側面はあっただろう。ただ、信長の凄さはさらに進化させた楽市楽座だが、そこは念仏へのほうが勝ったのだろう。)
そうしたことを考えると、おそらく、戦国時代の遥か前からもっと死の際には僧侶を呼ぶというのは当たり前に行われていたのだと思う。
(鎌倉時代以降に開宗、ここまで庶民に浸透したという意味で一向宗:浄土真宗はもしかしたら激烈な何かがあるのだろう)
ワシの住む大阪南部ー和歌山には雑賀衆という、当時信長をも凌ぐ強力な鉄砲隊衆があったが天下は取れなかった。なぜか?
それは、雑賀衆自体が真言宗を担ぐグループと浄土真宗(石山本願寺)を担ぐグループで成り立っており、高野山を担ぐグループが信長と野合したため、統制が取れなかったとされるが、斯様に宗教界と庶民は大いなる結束があったのだ。
(テレビもない時代である。夜になればすぐに寝るよりほかになく、油灯もない当時の庶民は闇の怖さを宗教に求めたのは自明であろう。今とは違って効果的な医薬品が限られた時代、信者が病気になったと聞けば僧侶や祈祷師は真っ先に祈りに行ったであろう。)
二点目を書かせてもらう。
ここにいるメンバーは全員日蓮大聖人様の信仰に属していると思う。
熱原で首を切られようとする際にまで、お題目を唱え続けたお百姓さん
方はは日蓮大聖人とその弟子方の振る舞いや信者の死の際、成仏の相を見て他の宗派(特に念仏)とは違う!と感激し、確信したがゆえいくら脅かされようとも題目を唱えたのであろう。
もし、大聖人様やお弟子がたが真宗と同じく肉食妻帯していたら熱原の法難なんて起きず、実に平和(旧態依然と書くべきか?)な農村社会が
続いただろう。僧侶が在家と同じように欲深いのであるならば尊崇する意味なんかないではないか。法を持っているから?そんな欲深い人物に法なんか説いてもらっても、煩いだけだろう(苦笑)。
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