私がこの事件を追及するわけ
たとえば、みなさん、 この「岩手17歳女性殺害事件」に
1人は殺害された佐藤梢(B)さん。 そしてもう1人は小原勝幸の元交際相手、佐藤梢(A)さんです。 2人は、宮城県内の高校に通う同級生でした。 しかし2人は、単に同じ高校に通う同級生というだけでなく、顔も背格好も髪型までも似た、大の仲良しだったのです。 そして2007年(平成19)2月、二人の梢さんにとって、人生を分ける日を迎えます。 それは、バレンタインデーの頃でした。 この日、学校帰りに立ち寄った宮城県登米市内のゲームセンターで小原勝幸とその友人(同郷の後輩)にナンパされ、2つのカップルが誕生するのです−−− ツイッターでの発言はこちらへ 小原勝幸×佐藤梢(A) 同郷の後輩×佐藤梢(B)―――(ほどなくして破局) それから3ヶ月後の2007年(平成19)5月1日、佐藤梢(B)さんが殺害される「岩手17歳女性殺害事件」と密接な関係があると思われる事件が発生します。 それが、小原勝幸を被害者とする恐喝事件でした。 恐喝事件の原因は、前年、(2006年)の10月頃にさかのぼります。 働き口を探す小原勝幸は、三陸地方の沿岸部に住む30代の男性(Z氏)の紹介で、関東地方の型枠大工の仕事に就くことができたそうです。ところが、仕事のキツさに耐えかねた小原は、わずか1週間足らずで仕事場を逃げ出し、以来、この男性から逃げ続けることになります。2人の佐藤梢さんに出会ったのは、それから4ヶ月後の事でした。 2007年(平成19)5月1日午後6時過ぎ、 小原勝幸は、「一緒にZ氏のところに行ってくれないか?」と、当時久慈市内の自動車会社に勤めていた弟のユウジ(仮名)に頼み見込んだそうです。 恐喝事件は、それからまもなくした午後6時30分頃起こりました。 それは、恐喝などというものではなく、リンチとさえ言える手荒なものでした。 Z氏は、小原勝幸に日本刀を咥えさせ、迷惑料名目で120万円の現金を要求し、「金を払わなければ指をおいて行け」と指詰めを迫り、それができないなら、「保証人を立てろ」と迫ったそうです。 この時小原勝幸は、事件のすべてを目撃していた弟に保証人になるように頼み込みました。しかし弟は、「事件に関わりたくない」と拒否。 結果、Z氏の家の前に止めた車の中で待つ佐藤梢(A)さんの名前と連絡先を「保証人」として紙に書いたのです。 これらは、私が週刊朝日で報じるまで、まったく社会に伝わっていなかった事実です。 おそらく、このブログをご覧のみなさんも知らなかったでしょう。 しかし、それだけではありません。 この恐喝事件以後、金を支払わずに再びZ氏から逃げまわった小原勝幸は、それから約1年後の2008年(平成20)6月3日、突然岩手県警久慈警察署を訪れ、Z氏を被疑者とする、銃刀法違反、傷害、そして恐喝事件の被害届を提出したのです。 そして、被害届の提出から1ヵ月も経たない2008年(平成20)6月28日、小原勝幸が当時交際していた佐藤梢(A)さんと別人の梢(B)さんを誘いだし、首を絞めて殺害したとされる、本件、「岩手17歳女性殺害事件」に発展することになったのです。 しかし、もう一つ報じられていない重大な事実があります。 小原勝幸は、この6月28日の昼頃から被害届の取り下げを口にし始めたと、佐藤梢(A)さんが言うのです。 小原勝幸は、なぜ、被害届の提出からわずか25日後のこの日、「Z氏恐喝事件」の被害届取り下げを決意したのでしょうか。深く取材を続けてきた私にして、この日、小原勝幸がなぜ右手の機能を失うほどのケガを負ったのか分からないのです。しかし、偶然とは思えません。 一方、岩手県警は、 「息子、小原勝幸から恐喝と銃刀法違反事件として、被害届を受理しているか、その有無について回答してください」とする父親の質問状(平成20年10月30日付)に対し、「わからない。答えられない」と回答を拒否したのです。 そしてこの「Z氏恐喝事件」は、被害届の提出から1年半にもなる今日現在、まったく手つかずのままであり、Z氏は、一度も取り調べを受けていないといいます。つまり岩手県警は、他人の口の中に日本刀を押し込み、「金を払わなければ指をおいて行け」と指詰めを迫るほどの極悪人を、野放しにし続けているのです。 こんな馬鹿な話があるでしょうか。 本件、「岩手17歳女性殺害事件」も、「捜査の限りを尽くした」とは断じて言えないものです。 事件関係者に対するヒアリングはおろか、岩手県警は、殺害現場とする小原勝幸の車内に残されていた指紋の照合作業さえ怠り、被害者の死亡推定日時を曖昧にすることで小原勝幸のアリバイ証言さえ闇に葬ったのです。 そして驚くことに警察庁は、事件発生からわずか4ヶ月後の11月1日、小原勝幸に捜査特別報奨金として100万円の懸賞金を懸けたのです。しかしその後の取材で、警察庁刑事局が小原勝幸に懸賞金をかけることを起案した日付が判明しました。その日は、小原勝幸に逮捕状が発布された日からおよそ2ヶ月後の、2008年(平成20)10月7日だったのです。 当時、1500人程度が指名手配されていました。 その中には、何人もの人を殺害したとされる凶悪犯が複数含まれています。そしてなにより、時効目前にした事件が多数あるのです。こうした状況からいっても、私は、警察庁がなぜ事件から間もない小原勝幸に懸賞金を懸けたのか、その理由がわかりません。 前述した起案日から推測すると、岩手県警から警察庁に対し懸賞金手配の要請があったのは、9月末だと思われます。だとするなら岩手県警は小原勝幸の指名手配後、2ヶ月にして警察庁に公的懸賞金の要請を行ったということになるのです。手配から2ヵ月といえば、イギリス人英語講師、リンゼイ、アン、フォーカーさん殺害容疑で逮捕された「市橋達也」事件をみるまでもなく、徹底的に容疑者を追い込む時期です。それなのに、懸賞金の要請などできるものなのでしょうか。甚だ疑問です。 繰り返しますが、当時、1500人程度が指名手配されていました。そうした中、警察庁はなぜ岩手県警を叱責することなく、易々と小原勝幸の懸賞金支出を決定したのでしょうか。 本文をご覧になっていただければわかりますが、小原勝幸が佐藤梢(B)さんを殺害したとする警察の説明は、全くもって説明になっていません。つまり、小原勝幸を逮捕したとしても起訴することさえできない事件なのです。それなのに警察庁はなぜ小原勝幸に懸賞金をかけることを決断したのでしょうか。 私は、1年半にも及ぶ長期取材の結果、小原勝幸はこの世にいないのではないかと考えています。 警察庁が私と同じ考えを持っているとするならば、それはすなわち、「死者を指名手配し懸賞金をかける」などといった、日本警察の根幹さえ揺るがす前例のない「大警察犯罪」ということになるのです。 みなさん、私が身体を張ってまでこの事件に取り組む理由がお分かりいただけたでしょうか。
週刊朝日の見出しにこの文が踊ったのはそのためなのです。 |