まぁ、ズボラ管理人なので…というより抗がん剤で体調悪くて…ゲホゲホなので、ここで雑談しませうw
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コメント一覧
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- 2012年03月17日 11:58
- 幕天居士様
一元論と二元論…確かに、そのようなところはあります。
言葉にはしにくいのですが、その一元論の『一』の目指す方向性と時間軸が、広く、また時間という概念に収まらないとするなら、それらの許容範囲の狭さに囚われないのではないかと思います。
真に言葉にしにくいのですが、全てはあらかじめ決められている…でも、その方法と時間は決められていない、では、そこに『こうでなくてはならない』という考え方が入らないような自由さを重んじないといけない、もしそこに自由さがなければ、本当の意味での『決定論』から外れ、形骸化して歴史にあるような種々の悲劇を起こすのではないかと思います。
それだから、言葉に出来る道は道ではないとも言えると思います。
自分自身の人生を省みて、そのように感じてなりません。
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- 2012年03月17日 12:40
- 「本当の意味での決定論」。この言葉に、イマジネーションが広がります。さすがに義春さんは、何かをつかんでおられますね(「つかむ」といっても、もちろん執着するという意味ではありません)。
総体で世界は決定している可能性はありますね。全体では決定、部分では非決定、ということですかね。方法と時間、そしてなによりも重要であるのは、場所ですね。あらゆる場所において、運命は非決定ですね。存在可能なすべての場所と時間をトータルすれば、そこには決定(「けつじょう」と読んでもよい?)した世界がある。これを、義春さんは「本当の意味での決定論」といっておられるような気がいたします。
全体と部分を混同するところに「こうでなければならない」とする考え方が入り込むのかもしれません(全体で世界は調和していても、部分では不調和が許容される)。木を見て森を見ず。木は言葉にできても、森は言葉にできない。真理は、考えられているよりも、ずっと深いですね。義春さんの真意を理解したわけではありませんが、とりあえずのように考えてみた次第です。
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- 2012年03月17日 13:41
- 幕天居士様
有り難うございます。
幕天居士様に伝わって嬉しいです。僕には言葉に出来なかったものですから…。
むしろ、幕天居士様のお考えが深くて、より考えが深まってきて、嬉しいです。
元は自分自身の病気があったおかげです。去年の癌宣告より、色々悩み苦しんで、言葉の中身を求めるようになりました。
話は外れますが、真理の全ては言葉に出来ない、でも言葉に出来ないものは実現出来ない…ならば、全体は見えない、だけど、部分なら出来よう、だったら敢えて限定してイメージして現実化させる、先ほどの投稿は、そこから発想しました。
部分での不調和があるから、調和の表れる余地があり、場所での運命が決められてないというのは、その表し方にこそが面白さがあると思います。
全体は決定(けつじょう)でも、全体はもしかすると、我々が知覚出来ないかもしれない、だから、『本当の決定論』は機械的に押し付けたりするものではなく、人が人それぞれの内なる良心と語らい、一本一本の木を見ながら、その木に流れる生命から森とつながる、それが部分部分での『本当の決定論』になり、より良いものを生み出していく…そう思います。
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- 2012年03月17日 13:57
- 追伸
真に真理は深く、また、面白いものですね、これを知れただけでも、僕は今を生きる愉しさがあります。
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- 2012年03月17日 15:45
- >>390 さくらさま
>しゅうきょうを「かたくしんじてる」ひとほど、じふんとちがってたら、どんなにざんこくにでも、はいじょ、できるんです。ひつようないですよ、ちがうものは。わたしはそれをみたし、たいけんしました。
大好きな方々にそれをされると、人を深く愛していても、わたしは、宗教というものを考えてしまうんです。<
わたしが、以前、トーキングスティックボードで学んだ「宗教の伝道」についてを一文で表せば、
「伝道とは、相手の実相を見ることで自分自身の魂を磨き、そのことによりおきる愛の奇跡」
ということになります。
この、「相手の実相をみる」または「相手に実相を礼拝する」という表現は、皆さんよく使われますが、このとらえ方が、みなそれぞれ違うのではないかと感じています。
わたしは、「相手の実相をみる」とは、相手の善なる姿を想像して表面的に見るものではなく、またその姿を礼拝するものでもなく、「心から信じる」ものだと思うのです。
そして、相手の実相を心から信じたとき、たとえば、雅宣先生の実相を心から信じたとき、それでも、現象におかしな姿が現われていたら、それは「雅宣先生の責任ではなくて、自分の影が雅宣先生に投影されているのだから自分の責任なのだ!」と考えなければいけないのだと思うのです。そうしないと、自分の魂を磨くことにつながらないと思うのです。
(つづく)
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- 2012年03月17日 15:48
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(つづき)
だから、今の雅宣先生(教団)のお姿は、本流の方々の心の影だと思っています。
そして、本流の先輩達の姿もまた、雅宣先生(教団)の心の影だとも思っています。
どちらが先にそのことに気づき、相手を赦し、さらに感謝の気持をおこし、愛の奇跡を起こせるのか、わたしは今傍観しているのです。
だって、部外者ですから...(笑)←ここで笑ったらだめですかね...
最初に「赦せた」方が、わたしにとっては、本物の「生長の家」ということになります。
でも、わたし、部外者ですけど、今まで何度か本流の方々に働きかけてはみたのですよ!あまり効果がありませんでしたが...
まあ、雅宣先生にはお会いすることは不可能ですから、本流に働きかけるしかないですよね。
「先輩方、愛を忘れていませんか?」みたいに...
もう、ほんとにこの件に関して、わたしは傍観するしかない状態です(笑)
きっと、なるようにしかならないですよね。
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- 2012年03月17日 19:19
- なかなか言葉に出来ないので、試行錯誤しながらボチボチ書いていきます。
僕は全体と部分が分かれているとは思ってません。
で、全体の『本当の意味での決定論』はある、でも部分では、その範囲が広いので、知覚出来ない、だから部分では不調和のある範囲も仮に出来る。
それで部分は完全に全体から分かれているのではなく、全体につながっているから、部分においても『本当の意味での決定論』があり、しかしながら、その指すところに、全体と同じ様に場所や時間軸等々が決められていない、だから、そこに機械的に押し付けたりするのは出来なくて、そこに無限がある…と感じてます。
だから此処で気を付けなければならないのが、全体としての『本当の意味での決定論』というのを、いきなり押し付けたりせず、その人それぞれに合わせていかなければならない、生命としての自由を奪う考え方は間違っていると感じます。
だから、全体と部分の有機的なつながり…そこに無限の可能性を僕は観ます。
うーん…なかなか言葉になりません…難しいです…。
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- 2012年03月17日 23:08
- a hopeさま、コメントをありがとうございます。お心、わかりました。
ここで、ゆっくりしていいのか、ほんとうに、まだ、とまどってるのですが・・ご縁ですので、a hopeさまの答えにはならないかもしれないけど、思ったことを、書きます。
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- 2012年03月17日 23:10
- a hopeさま、コメントをありがとうございます。お心、わかりました。
ほんねをいうと、ここでゆっくりしていいのか、まだ、とまどってるのですが、ご縁ですので、a hopeさまの答えにはならないかもしれないけど、ぽつぽつ思ったことを、書きます。
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- 2012年03月17日 23:11
- 全体と、部分、幕天居士さまと義春さまの考察、わたしには深い視点がよくわからないけれど・・感じることはあります。
自然界でも、部分で不調和に見えることも全体で調和してバランスがとれている。例えば魚の稚魚がたくさん生まれるけれど、生き残るのは一部です、残酷だと思って、人間の浅知恵ですべてを生かせば、自然全体でのバランスが崩れてしまう。そんな例は自然界にはいっぱいあります。
たぶん、義春様は、もっと深いことについて・・たとえば人間のあり方や、真理のあらわれ方について言及されているとおもうのですが、
まあ、これは、自然界でも、部分と全体のあり方が、微妙なバランスを保っている、というような例として、思いました。
これは、「部分の不調和が容認されている」こととも言えるかも知れません。
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- 2012年03月17日 23:11
- 人間のあり方の場合は、自由があり、そこに調和があらわれる可能性を秘めている、それは、時間や空間を、決定的に決めることはできないが、人間には、良心があり、そこに、部分による全体性の現れがある、そういったことなのでしょうか。
それについての「こうしなければならない」という、決めつけができない、というのはわかります。それは、その時は、部分ではよく見えても、やはり、全体のバランスを崩す要因になるとかんじます。その決めつけは、「善」や「正義」のようなものでも、というか、そう主張するからこそ、全体のバランスが崩れることも、あるようなこともある気がします。
最近、アーノルドミンデルという心理学者の本を読んでいて、人間の身体って、絶妙にバランスをとって、症状をあらわすんだということに、驚きました。ミンデルはその病気や不調が結果的に治ることはあっても、治すことに目標を置いていません。病気や身体のバランスが崩れるのも、心理的葛藤や、魂の成長のプロセスの声として、ミンデルが患者と寄り添って診ていってるのが、とても興味深いです。
やはり、その時不調を無理に治してみると、逆にバランスが崩れてしまうことにも気づいたりしています。
不調な状態を、ただ単に、悪と決めつけられないと、感じました。
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- 2012年03月17日 23:14
- うーん…
sakuraは、さくらの二重投稿です。
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- 2012年03月17日 23:28
- それから、愛について、の見解は、
わたしは、信じる。というところは、a hopeさまと、おなじです。
それから、わたしは、放つこと、これがないと、真の愛とは、やっぱり言えないとおもいます。
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- 2012年03月17日 23:30
- うーん、どんなテンションで書いても、話が合わず、ドン引きされてそうな気がする、笑。
…まだチューニングが、むずかしい。
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- 2012年03月18日 00:34
- a hopeさま
心の影とは、どういう現象なのか、興味深いですよね。
投影についても、ミンデルの本に書いてあったので、何か思いつけば、書かせてもらうかもしれません。
…良心、…全体を示す可能性というのも、なんか、つながりがありそうですね。幕天居士さまのソフィアカルパイの話にも、かんじるものがあります。
掲示板でこうしたことを考えれば、人間智と、バカにされてた気がしますね、そういえば。
でも、こうして考えることは、空想とはちがいますし、いろんなことに、つながっていくと、最近思えるようになりました。
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- 2012年03月18日 08:02
- おはようございます。続けます。
投影というのは、あらゆる人間関係のなかで、おこなわれてますね、多かれ少なかれ。
それが、否定的なものでも、肯定的なものでも、自分のまだ意識されていない部分をすべて、第三者に投影する可能性があるんですね。
ミンデルによると、専門家でさえも、自分の投影を見抜き統合するのは、不可能に近い、というほど、微妙なもの、みたいです。
これは、実際に表にだして相手や事柄と向き合わなければ、あるいは「戦わなければ」、気づきや統合が行われない場合がある、つまり、外的に現れた現実と向き合う必要があることが多いですよね。
ここで、速やかに自己の投影に気づいたら現象的問題の解決は早いけれど、外的な現実にとらわれ続け、戦い続ける可能性も、充分にたかい。
知的分析ができる洞察ににいたるまでは、感情のある地点を通過しないといけない。この情動のなかを、どう通過するかはなかなかおもうままにはいかないものですね。
自分を見つめるのは、すごく苦しいことですし、忍耐がいる。
自分にとって都合の悪い「外敵」と闘って追い払うほうが、手っ取り早い気になってしまう。
投影って、すごく、厄介だと、おもいます。
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- 2012年03月18日 08:15
- わたしが、興味深くおもったのは、肯定的投影は、おなじように危険だと、書いてあったことです。
自分の内的身体的経験のすべてが、外部に投影されるということには、おなじだから。
それは、自分をほんとうに、愛するということにつながるようです。
さらに、非常に心地よいために、否定的な投影より、さらに、統合がむずかしい、と。
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- 2012年03月18日 08:39
- 余計なこと書いたけど、まあ、なんの応答にもなってないですね、
a hopeさまとは、ここでまた再開して、わたしはお話できてよかったな。a hopeさまには、まっすぐ、真理の学びをし続けてほしいです、これからも変わらず!
思いがけず、幕天居士さまと、再会…いえ、やりとりできて、また気づきがありました、ありがとうございます。
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- 2012年03月18日 09:08
- みなさま おはようございます。
さくらさま
今、さ~とですが、さくらさまの昨晩から今朝にかけての投稿拝見しましたが、「投影」についてとても興味深いです。
ですが、今日は日曜日、家族と一日過ごしたいので、夜またゆっくり拝見し、お返事します。
さくらさま、わたしもさくらさまとお会いできて本当にうれしいのですよ。(泣きたいくらいです。)
さくらさまは、わたしに真理についていろいろ気づかせ、考えさせてくださいますし、人に対する優しさや、気遣いを教えてくださいます。
勝手ながら、さくらさまとは、ただならぬご縁を感じております(笑)
ここでなら、誰にも邪魔されず、ゆっくりお話できそうですね。(義春さまに感謝です。)
どこにも行かないでくださいね。
それでは、また、夜に...
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- 2012年03月18日 12:27
- さくら様、たくさん書いていただいてありがとうございます。これから、まずは総論めいたことを書かせていただくことにいたします。「全体とは何か」という考察は横に置いておくとして、結論を申しますなら、部分は全体として動くということです。個は個として運動するのではなく、個は全体運動としてしか運動できないということです。
存在するのは全体だけであって部分は存在しない、と考えたのがパルメニデスです。弟子のゼノンは、師の考えを後押しするために、いくつものパラドックスを考案しました。俊足のアキレスは、鈍足のカメに追いつけない。A地点からB地点への移動は不可能である。放たれた矢は飛ぶことができない、などなど。
ゼノンは、部分が存在するとすれば運動は不可能となる、ということを逆説的に証明することで、「存在するのは全体だけであって部分は存在しない」とする師の教えを援護しようと考えたのですね。ゼノンの目論見ははたして成功したといえるのでしょうか。
一即多、多即一という考え方もあります。部分と全体。これは、人類にとって永遠の課題であるのかもしれませんね。
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- 2012年03月18日 13:33
- さくら様
「調和」という観点から部分と全体ということを考えてみましょう。肉食動物は、捕食者として草食動物を襲いますね。それはあまりにも残酷な光景であり、それが調和した姿であるとは、とてもではないですが考えることはできません。ですがこれも、さくら様がいっておられる「魚の卵」とおなじように、全体として考えてみると、そこには計算し尽くされた調和が用意されているとしか思えなくなってきますね。
自然界の生き物たちは、はたして個として活動しているのでしょうか。それは個と見えて、じつは全体として活動しているからこそ自然界の調和はたもたれている、と考えることはできないでしょうか。もちろん、長い年月をかけて自然の調整機能が、試行錯誤をくり返しながら働きつづけてきた結果、最終的にいまのような形で落ち着いた、と考えることもできるでしょう。ですがわたしは、それでも世界は、個としてできなく全体として運動しているということを主張してみたいのであります。
ネットで「ティラノサウルスを襲っていた巨大ワニ」というトピックを見ました。「ワニも恐竜だ」とこのとき強くおもいました。なのに、なぜ恐竜だけが絶滅してワニは生き残ったのでしょう。ワニが恐竜であれば、この理由が説明できません。恐竜はなぜ絶滅したのか。これはたしかに不思議な話におもえます。
つづく
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- 2012年03月18日 13:33
- 「巨大化」を理由にあげる人もいますが、哺乳類とさして変わらない大きさの小型の恐竜もいたはずですし、さらに小型の恐竜もいたはずですから、「巨大化」だけでは説明にならないはずです。「隕石説」が正しいにしても、「なぜ恐竜だけがことごとく?」といった疑問が出てまいります。なにしろ恐竜は、数億年も地上に君臨した生き物なのです。たいていの危難に耐え抜くための「多様化」はできていたはずなのですね(海洋に生息していたはずの恐竜までもが絶滅してしまいました)。
絶滅という現象は、これだけを見れば不調和でありますが、全体との調和のなかで絶滅という現象が起きたと考えれば、これを調和と見ることもできます。ただひとつ言えるのは、恐竜が絶滅しなければ、人類がたとえ出現できたとしても地上の王者にはなり得なかった、ということでしょう。人類が繁栄するには、恐竜の絶滅は必要不可欠な条件であったはずなのです。
爬虫類は、体を左右に動かしながら移動しますね。これにたいして、哺乳類は体をタテに動かしながら移動します。爬虫類は魚類とおなじなのです。魚類が尾ひれを左右に動かしながら泳ぐように、爬虫類もまた体を左右にくねらせながら移動します。哺乳類であるクジラやイルカは尾ひれを上下に動かしながら泳ぎます。上下の運動は進化の証なのですね。
つづく
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- 2012年03月18日 13:34
- 恐竜は爬虫類と同類に見られがちですが、左右の動きではなく上下の動きで移動することに違いを見ることができます。左右の動きにくらべて上下の動きは、移動ということでは効率がよくできています。少なくとも地上では、左右よりも上下のほうが速く移動できます。上下の動きで移動する恐竜は、爬虫類よりもはるかに俊敏に動くことができていたはずなのです。
恐竜が絶滅していなかったとすれば、人類にとって恐竜は、ワニとはくらべものにならないほどの脅威であったはずです。その恐竜が絶滅してくれた。人類にとってそれは、この上のない幸運であったはずです。それははたして偶然なのだろうかと、わたしには思われてなりません。
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- 2012年03月18日 15:59
- さくら様
>最近、アーノルドミンデルという心理学者の本を読んでいて、人間の身体って、絶妙にバランスをとって、症状をあらわすんだということに、驚きました。ミンデルはその病気や不調が結果的に治ることはあっても、治すことに目標を置いていません。病気や身体のバランスが崩れるのも、心理的葛藤や、魂の成長のプロセスの声として、ミンデルが患者と寄り添って診ていってるのが、とても興味深いです。
やはり、その時不調を無理に治してみると、逆にバランスが崩れてしまうことにも気づいたりしています。
不調な状態を、ただ単に、悪と決めつけられないと、感じました。
このことに関連してわたくしごとを書きます。じつはわたしも、いくつかの身体症状をかかえておりますが、それはことごとくが奇妙としかいいようのない身体症状なのですね。
はっきりと申しますが、この身体症状、すべて自分でつくったと考えております。なぜなら、それらの症状は「こうした症状をつくりだそう」と具体的にその症状を思い描いたあとに出てきたものだからですね。なかには、つよく念じてわずか3時間後にあらわれた症状もあります。その症状は、3時間であらわれて20年くらいつづいています。
なかば強制的に病院にいかされたりしても、それは「医学的には千パーセントない」症状であったり、「医学の教科書には載ってない」症状であったりします。それは気のせいとか精神的なものとかではなく、まごうことなき身体症状であるにもかかわらず、ほかのどこにもないオリジナルバージョンの奇妙としかいいようのない症状なわけです。ではなぜわたしは、このような症状をつくりださねばならなかったのでしょうか。このことについて考えてみることにいたします。
つづく
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- 2012年03月18日 16:00
- これから書きますことは、さくら様から寄せられた以下の問いかけの回答にもなるかとおもいます。
>幕天居士さまは、何かを犠牲にして、求めたいことがありましたか?
そこまでして求めたいものは、なんですか?
わたしは若いころから、なにを犠牲にしてでも、この人生で「やりたいことだけをやる」と決めていました。やりたくないことはやらない。これがわたしの流儀でした。やりたいことだけをやって、やりたくないことをやらないために、もっとも役立ったのが身体症状だったのです。そのためにわたしは、ひと様に迷惑をかけながらも、しかも多少の不自由は耐え忍んででも、望んだ症状をつくりだして、「やりたいことだけをやる人生」を全うしたいと考えたのだとおもいます。
部分的不調和は、だからわたしの場合は「ある」ということです。それはたしかに、ほかの人たちからすれば、自分勝手な病的な人生であるとおもいます。それでも、その不調和を消し去ろうと考えたことは、ほとんどなかったようにおもいます。それはもしかしたら、わたしには、そうした不調和がより大きな調和を実現するために必要な条件であったからなのかもしれません。
つづく
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- 2012年03月18日 16:01
- 部分的な調和にとらわれてしまうと、全体的な不調和へとつながる可能性がないとはいえませんね。「魚の稚魚」を不自然に生かすという部分的な調和にとらわれてしまうと、全体的にはそれはマイナスな不調和へとつながるということですね。ライオンやハイエナが部分的な調和を意識して獲物を捕らなくなると、けっきょくは生物界全体の衰退をまねき寄せる結果にもなりかねない、ということですね。
身体症状という不調和を消し去ったとして、それが人生全体の調和につながるかというと、かならずしもそうとはいえないってことですよね。わたしの場合は、たぶんそうはならないという気がいたします。部分的な不調和をかかえながらも、人生全体を見渡したときには、あるいはミンデル的にいえば、「より大きな自己」を意識したときには、どちらにしてもおそらくは調和した方向へと向かって行ってるはずだと、そんなことをおもはないわけではありません。なんにしても、どちらに転ぶかは自分次第ということでしょうけど。
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- 2012年03月18日 17:07
- 幕天居士さま
お返事がおそくなりました。
深い内容なので、ずいぶん考えてしまいました(笑)
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>>370
>そして、また自分が死んだり愛する人が死んでしまったら、もう2度と一緒にご飯を食べたり、笑いあったり、楽しく過ごすことができなくなりますよね。これは現象世界での話ですが...
これは、幕天居士さまのおっしゃっている、「死の恐怖」と同じ性質のものでしょうか?
そうですね。「死の恐怖」といっても、いくつかあるとおもいます。ここでわたしが言っている「死の恐怖」とは、単純に、自分という存在が消えてなくなることへの怖れであると考えてください。もちろん、a hope様が言っておられる、人との関係性を失うことへの憂い、といったものもそのなかのひとつと考えられるでしょうね。
「死の恐怖」を一度は超えてみたこの身からすれば、それへの怖れはあったほうがよいのではないかとおもわなくはありません。西洋に、「メメントモリ」という言葉があります。日本語に訳せば「死を忘れるな」です。
シャーマンのドン・ファン・マトゥスは言います、「死はおまえの最良の盟友だ」と。「ほかのすべてが意味をなさないとき、死に触れることだけが大事なのだ」と。「重要なことはほかに何もない。他のすべてを手放すのだ」とも。
超えようとするより忘れるな。死を忘れないことが、すべての束縛(社会のオキテ)から解き放たれ、自由へとつながるゆいいつの道であるのかもしれません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
(つづく)
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- 2012年03月18日 17:10
- (つづき)
わたし、大学3年生のときなんですが、大失恋をしたんです。とても激しい恋愛だったので、その分、空虚感がすごかったのです。そして、さらに、思うようにいかない就職活動で、人生が嫌になっちゃって、死んでしまおうかとまで思いつめた時期でした。ビルの高層階から下を見たりすると、「ここから飛び降りたら、確実に死ねるよな...」なんて無意識に考えたりしていた時期があります。寂しさから、お酒もよく飲みましたし、好きでもない男の子と付き合ったりもしましたが、これが一番精神的に辛かったですね。実際、大学4年のときには、友達でビルから投身自殺しちゃった子がいて、その当時のわたしにとって、「死」はすごくリアルでした。それでも、どうして死ななかったかと言うと、まず頭に浮かんだのが、実家の家族でした。わたしが、死んだらどれだけ悲しむだろう...って。それで、思いとどまりました。幽体離脱の体験をしたのはちょうどそのころでした。
その後の人生も色々ありましたが、「死ぬこと」をリアルに考えたのは、その時だけだと思います。
(つづく)
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- 2012年03月18日 17:13
- (つづき)
「死」を考える時、そんな風に悲観的に思うと良くないですよね。「死」への道まっしぐらになってしまいかねませんものね。
「メメントモリ」といって思い出すのは、藤原新也という「放浪カメラマン作家」の本ですが、わたし、独身時代にこの藤原新也が大好きで、本もよく読んだし、軽く恋愛感情ももっていました(笑)彼の若いころの本で「インド放浪」とか、「チベット放浪」が、大好きでした。彼もまた、いつも「死」について考えている人だなって思っていました。
>シャーマンのドン・ファン・マトゥスは言います、「死はおまえの最良の盟友だ」と。「ほかのすべてが意味をなさないとき、死に触れることだけが大事なのだ」と。「重要なことはほかに何もない。他のすべてを手放すのだ」とも。
超えようとするより忘れるな。死を忘れないことが、すべての束縛(社会のオキテ)から解き放たれ、自由へとつながるゆいいつの道であるのかもしれません。<
すみなせん。結局↑ここの文章は、わたしのあほ頭では、理解できませんでした(笑)
わ~嫌だ、わたし、幕天居士さまに、すごい打ち明け話しましたね~。
酒と男に溺れていた、a hopeの青春時代のお話ですよ......なんでだろ~(笑)
今は結婚して、優しい主人と可愛い子どもたちと幸せに暮らしています。この幸せに満足していないわけではないけれど、なにか、物足りない、それが何なのか、よくわからないのですが、ただ漠然とですが、何かわたしには自分自身のこの人生でしなければいけない「大切なこと」があるような気がしています。
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- 2012年03月18日 17:42
- 幕天居士さま さくらさま
今、幕天居士さまの、全体と部分のさくらさまあてのご投稿も拝見しました。わたし、その手のお話、今までは苦手だったのですが、今回は理解できました!
さくらさまとしている「投影」のお話にも、もしかしたらつながるかもしれないですね。
すごく、難しいお話ですが...(笑)
ただ、これから、わたしは、夕飯の支度をしたりするので、パソコンにもどれるのは、夜になります。
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- 2012年03月18日 17:48
- 幕天居士様
やりたいことだけをする…ですか…僕には出来なかったから、少し羨ましいなって思います。
僕はあちこちに書いてる様に、小さい頃から遺伝病で身体という個としての全体の基盤となる部分が不調和という状態から出発しました。
それで、どうなったか、個人としては、やりたいことがないのですよ。これはホント。
それをこの頃知り合った友人には、何故?と問われました。それだけ物を知ってて行動力もあるのに、何故何かしたいという欲がないのって。そう言われて、やっと気付きました。
せめて、知識だけでもブログでアップしないか?…それが、このブログの出来た原因。だけど結局、書きたいことは無かった、この程度、誰かが書くだろうなって。
だから、無意識に他人との関係性の中での、より大きな自己という部分を作り出すことで、部分の不調和を乗り越えるしかなかった…という人生でしょうか。
それだから、皆が幸せな社会を夢見たのでしょうね。
僕も人並みな幸せを求めてはいます、だけどそれはそこを自分自身のよりしろにしたいからに過ぎない、それは他人にとって良いのだろうか…少し悩みますね。
それだから幕天居士様の人生が病的というのは、他人からは言われましょうが、僕自身は、僕がこれだから言えないなぁ…まぁ、色々あるよなぁ…というところなのですよ。
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- 2012年03月18日 17:59
- 幕天居士さま、
こんなに自己開示してくださるとは思わなかった・・。
書いて下さって、ありがとうございます、さくらも、なんだか、ここへ来てよかったなって、思えました・・。
a hopeさまも、すごく告白をされている、笑。
愛と情熱の日々を送った若き日のahopeさまを思い浮かべました、お話素敵です、ありがとうございます。
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- 2012年03月18日 17:59
- さくらは、実は、生まれたときから、ある身体的な欠陥を抱えて生まれました。生死に関わることじゃなかったし、いまも、不自由のない身体なんでありがたいですが、10歳までに、なんどもなんども手術をしました。
この病気は、幕天居士さまのように、自分で選べたとは言えませんね、、(・・幕天居士さまってやっぱり、・・超人?笑。)
たぶん、ちっちゃいころから、なんか、無情、(10歳でそんな言葉はしらないけど、、)を感じていた気がするんです、この肉体を授かったって、自分はいったいなんだろ、って。病院の生活も、長かったし。
10歳の時、家庭のごたごたが、すごくこたえて、いわゆる、パニック障害になっちゃって、さくらは、とつぜん、・・なんというか、生きるって、なんだか、わかんなくなっちゃったんですよね。とつぜん、死の恐怖に投げ込まれるって、かんじてました。
宗教とか、心理のこととか興味持ったのは、その頃でした。興味を持った、というより、突きつけられた、ってかんじで。なんで生きているんだ、自分は、みたいな感じでした。
パニック障害って、とつぜん、死の恐怖に襲われたりして、くるちゃうかもって、不安が襲ってきたりするんですよね。まあ、不安定な子供ですよね。
そんなことが辛いんで、自殺とかは考えなくても、まあ、死ぬって、どんなだろっていうのは、たえず、頭にあった気がします。
a hopeさまと共通なのは、わたしも、10代の不安定なとき、やっぱり、幽体離脱してた。すごい、大失恋した。そしてもう一つは、好きでもない男の人と付き合うのは、一番精神的に、辛い、ってとこでしょうか、笑。
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- 2012年03月18日 17:59
- で、今は、そんな身体のこととか、不安定な症状があったから、今のさくらになれた。とも思えることも、確かにあります。それが、わたしのプロセスの、一部だったんだって。人が感じないこと、感じられたかも知れないし、見えないものも見たのかも知れない。
・・でも、「より大きな自己」を目指していけてたのか、わからないけど。
今も、心には、すごく、・・あったかくて大きな、自分の中の信じられるものがある、っておもえるけど、この世で生きている限りは、わたしは、そのプロセスの中にいて、まだまだいろいろ考えて行きたいって思うんです。
-
- 2012年03月18日 22:01
- さくらさま
「心の影」と「投影」のお話ですが、わたしはミンデルという人の本を読んだことがないので、さくらさまのお話でしかさくらさまの考えていらっしゃる「投影」を理解できないのですが、ミンデルという方は心理学者ですよね?心理学的にも「投影」=「心の影」は認められているのですか?
そうだとしたら、とても興味深いですね。
でも、わたしがいう、「心の影」は、意識されていない部分ではなくて、感情(気)のレベルとでもいいましょうか...
わたしは、気功をやっていたので、ある程度人の「気」が分かるのです。怒りの感情や、悲しみの感情、疑いの心、憎しみの感情、嫌悪感etc...
そういうものは、邪気として感じるので、気持ち悪くなります。
反対に、良い「気」を受けると元気になります。これは、無邪気な子どもとか、元気な明るい性格の人から感じます。最近は、朝の神想観が上手くいくと、その日一日心身共に元気にすごせるので、神さまからの気(エネルギー)ももらえているような気がしています。
(つづく)
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- 2012年03月18日 22:02
- (つづき)
ですから、わたしの言う「心の影」とは、わたしにはとても分かりやすいです。
自分が、怒っているから、相手も怒る
自分が、悲しんでるから、相手にも悲しい思いをさせてしまう
自分がウキウキしていれば、周りの人も楽しくさせることができる...そんな単純なことです。これを自覚することを、生長の家の言葉では、「自他一体の自覚」というのだと思います。
でも、それが分からないと、「何であの人と会うと、いつも気分が悪くなるんだろう...」みたいなことが起きるのだと思います。
これを今の「生長の家」の問題に当てはめれば、本流の先輩たちが、雅宣先生を赦す気がないから、雅宣先生も赦さないのだ。雅宣先生が本流の先輩たちを愛さないから、本流の先輩たちも雅宣先生を愛さないのだ。ということになり、これは、すべて逆も当てはまります。
どちらかが、我を殺して相手のすべてを赦して、感謝して、愛することができれば、すべては上手くいくと思うのですよ。
だって、それが「生長の家」の愛なのですから。
-
- 2012年03月18日 22:27
- 義春さまも、さくらさまも、生れつきにお身体にハンディがあったのですね。
でも、そのおかげで普通の人では学ぶことができないことを学んでこられたのではないでしょうか?
わたしはたまたま、健康に生まれましたが生まれそだった家庭はそれほど幸福ではありませんでした。そこから学んだことは大きいです。
今の幸せがあるのは、その不幸があったからだと、実感しています。
幕天居士さまは、やりたいことをやって来られたそうですが、わたしも実はやりたいことをやってきた人間です。
でも、やりたいことをやるって、結構大変ですよね?
わたしは、世間さまにガンガンたたかれましたけど...(笑)
-
- 2012年03月18日 23:50
- a hope様
まぁ、面白い人生だなとは思います。
よく前世が云々とかな話をされたりはしますが、いつも、こう言っています。
『めんどくさいな、そんなのは。考えるだけでめんどくさい。俺には無理。こう来るのだから、それを受ける、禅みたいな考え方かもしれんが、ただそのままを生きる、それで良いじゃないか』って。
スッキリした生き方ではあるなとは思いますよ。
-
- 2012年03月19日 08:40
- みなさま、おはようございます。
>430>431
a hopeさま
a hopeさまの書き込み刺激されて、つい、いろいろ考えさせてもらって、ついつい、書き込み続けています。
しばらく掲示板離れてたし、正直、わたしがどこまで、この話題にここで、参加していいか、感覚がわからなかったので、ちょっと戸惑ってるんです。
うのちゃんのコスペがあると勘違いして、志恩さまのコスペして、義春様にはご迷惑かけたし、生命の實相の問題のことも微妙なことだし、(とくに監督には掲示板のときも聞かれてた気がします。)みなさんが、ずっと、交流してきずいてきた絆みたいなものかな…なんか、そういう微妙なニュアンスを、わたし、よくわかってないのかな、って、感じてました。
せっかくここは、みなさんのオアシスだったのに、なんか、書きづらくしてないか〜、笑、とかって。(義春様には、優しさに甘えて申し訳ありません。)
もちろん、生長の家の方々なんで、考え方の基本は、生命の實相で、ですよね。
わたしは、今までの発言から分かると想いますが、宗教には、個人的不信感でちょっと屈折して見ている部分があって…変に思われるかもしれませんね。
a hopeさまは、お出かけですね。
わたしも、また後で、考えたこと、書きますね。
よい一日を。
-
- 2012年03月19日 09:43
-
きのう、Dr,Kがお店に忘れて帰った。
誰にも知られない心の中をほんの少しだけ
覗かれたような気がした。
異数の世界へおりてゆく 吉本隆明
異数の世界へおりてゆく かれは名残り
おしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあわなかったこと
なお欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだった敬礼
にかわるときの快感をしらなかったことに
けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だった くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうえで支配者にむかって
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとって逃げた
そのときかれの世界もかすめとられたのである
無関係にたてられたビルディングと
ビルディングのあいだ
をあみめのようにわたる風も たのしげな
群衆 そのなかのあかるい少女
も かれの
こころを掻き鳴らすことはできない
生きた肉体 ふりそそぐような愛撫
もかれの魂を決定することができない
生きる理由をなくしたとき
生き 死にちかく
死ぬ理由をもとめてえられない
かれのこころは
いちはやく異数の世界へおりていったが
かれの肉体は 十年
派手な群衆のなかを歩いたのである
秘事にかこまれて胸を ながれる
のは なしとげられないかもしれない夢
飢えてうらうちのない情事
消されてゆく愛
かれは紙のうえに書かれるものを恥じてのち
未来へ出で立つ
「吉本隆明詩集」(昭和33年)所収
-
- 2012年03月19日 10:51
- a hope様
『酒と薔薇の日々』。こんな曲がありましたね。ラビアンローズ、バラ色の人生。かつて、青春時代に酒と男におぼれたa hope様が、いくつかの悩みごとをかかえながらも、今はバラ色の人生に取り組んでらっしゃる、とこのように考えてよろしいのでしょうか。
大失恋。わたしには縁のない言葉ですね。なにしろ恋愛をしたことがない。だからふられることもなければ、失恋することもない。そんな人生を生きたようにおもいます。「やりたいこと」のなかに、どうやら恋愛は入っていなかったようです。
「やりたいことをやる」といっても、わたしの場合は、何か大きなことをやる、というのではなく「欲望に身をまかせる」といった程度のことでしかありませんでした。しかもその「欲望」たるや、単に普通人のふつうの欲望でありました。たいしたことをなすでもなく生きてきた人生であります。
つづく
-
- 2012年03月19日 10:52
- >超えようとするより忘れるな。死を忘れないことが、すべての束縛(社会のオキテ)から解き放たれ、自由へとつながるゆいいつの道であるのかもしれません。<
すみません。結局↑ここの文章は、わたしのあほ頭では、理解できませんでした
そういえば、藤原新也さんのホームページのタイトルは、たしか「メメントモリ」でしたね。インドでは人が亡くなると、その亡き骸を川の中州に放置したりするようです。やがて、待ちかねていたかのように野良犬がやってきて、その亡骸を喰らいはじめる。そのときの様子が「メメントモリ」で公開されていました。
インド人にとって、「死を見つめる」というのは日常的な出来事なのでしょうね。現代の一般的な社会では、これとは逆に死は隠蔽されます。みんなで「ない」ことにして生きていこうとします。このことを理解するのはけっして楽ではありませんが、現代社会は、みんなで死を忘れるために、人生に本当には必要でないことに共同で取り組もうとしている社会であるような気がいたします。
ドン・ファン・マトゥスの言葉は、日本教文社から出ている、アーノルド・ミンデルの『身体症状に〈宇宙の声〉を聴く』から引用したものです。ミンデルは、「真に意味あるものに近づくことが大事である」と述べています。
つづく
-
- 2012年03月19日 10:53
- みんなで死を忘れようとしている社会で、みんなとおなじような生き方をしていて、それでも、たとえばミンデルのいう「真に意味あるもの」に近づくことができるのか、といった疑問があります。
みんなとおなじこと、たとえばコンサートで熱狂するとか、テニスコートの熱戦を楽しむとか、そんな楽しみを追求しつづけることで、いったい何が得られるのかということです。
この社会は「楽しみの構造」を幾重にもはりめぐらして、その中に人々を埋没させようとする社会であるような気がいたします。ファッション、グルメ、スポーツ観戦、テレビのバラエティー番組、マイカーでのちょっとしたドライブ、テーマパーク、ショッピング。「楽しみの構造」を並べ立てようとすれば、おそらく枚挙にいとまがないということになるでしょう。
人々が埋没させられている「楽しみの構造」、これが束縛ですね。それは「している」のではなく「させられている」ということ。死を忘れたいがために、人々はそれをさせられているのです。「させられている」という意味で、それは束縛といえるのではないでしょうか。
こうした束縛から逃れるためのキーワードが「メメントモリ」であるとわたしは考えます。忘れようとするから束縛されるしかないのですね。束縛されないためには、忘れようとはしないこと。これしかないようにおもいます。
-
- 2012年03月19日 16:26
- さくら様
「投影」について考えてみたいとおもいます。投影という現象は、自分が相手のことを嫌っているにもかかわらず、相手が自分を嫌っていると思い込んだり、自分が相手を憎んでいるのに、相手が自分を憎んでいると本気で信じ込んでしまう現象です。
わたしにも心当たりはあります。たとえば近所に騒音をまき散らす人がいるとします。そうすると、わたしはその人のことを嫌いになるわけですが、ここに投影という現象がからんできて、その人が自分のことを嫌っていると思い込むようになるわけです。つまりは、「相手は悪意で騒音を立てている」と、このように本気で信じ込むようになるのですね。「相手の姿は心の影」。こうしたメカニズムに無自覚でいるかぎり、近隣トラブルは深刻になっていくばかりですね。
ヒチコックの『サイコ』に、ライラという娘が、坂を登って、ノーマンの母親が住むとされる古い家に近づいていくシーンがありますね。このシーンでヒチコックは、2つのカットだけを用いて、2つのカットを禁じています。用いているのは、ライラの視線から見た「古い家」のカットと、第三者の視線から見たライラのカットで、禁じられているのは、「古い家」の視線から見たライラのカットと、第三者の視線から見た「古い家」のカットです。
ヒチコックはある効果を期待して、用いるカットと禁じるカットとを意図的に使い分けています。「ある効果」とは、ライラがまるで家によって見られているという不気味な効果です。このシーンで観客は、家を見ているはずのライラが家によって見られているという不気味な印象を持たされてしまいます。それはほとんど無意識のうちに、そのような印象を持たされてしまうのです。
つづく
-
- 2012年03月19日 16:31
- ここでもしもヒチコックが、家からの視線で見たライラのカットや第三者の視線から見た家のカットを不用意に用いたとすれば、このシーンの心理的効果は台無しになっていたはずです。なぜなら、これこそが「投影」の効果だと、わたしはおもうからです。
人は普段から、自分が相手を見ているにもかかわらず、おなじ視線で相手が自分を見ていると、意識することなく思い込むことがあります。これが「投影」です。『サイコ』のこのシーンでは、投影の心理的メカニズムが見事に再現されているようにおもいます。観客は、ふだん自分がそうしているように、家を見ているはずのライラが家によって見られているという印象を持ってしまうのですね。
ヒチコックは投影にはある条件が必要だと知っていたのかもしれません。投影に必要なのは、自分が相手を見る視線と、自分を見ている第三者の視線の2つだけです。禁じられるのは、相手が自分を見る視線と、相手を見る第三者の視線の2つです。誰かがもしも、わけもなく自分を憎んでいると感じるなら、そこに欠けているのは、その誰かが自分を見る視線と、第三者がその誰かを見つめる視線の2つの視線なのではないでしょうか。
わたしの場合でいえば、騒音を立てる隣人の視線から自分を見ることができれば、あるいは、第三者の視線からその隣人を見ることができれば、無用なトラブルは避けられるのかもしれません。『サイコ』はこのことを教えてくれているような気がいたします。
-
- 2012年03月19日 22:44
- 幕天居士さま
書いてくださり、ありがとうございます!
今日は、眠いんで、寝ます、へへ(笑ってごまかすさくらです、)。
a hopeさまとお話してたら、元気もらいました、、で、思わず、女子会に会いにいきました、笑。
…比丘尼ママ、まだ、【Queen bee】本店、オープンしてるかな…
-
- 2012年03月19日 23:02
-
や~ん、さくらちゃんてば本店の方に
行っちゃたのね。
何かあっち、このごろ開けにくくてさ。
でも、またさくらちゃんが来てくれるんなら
時々開けるわ。
今夜は、ここで飲んでって。
カントクも、追い出されたんでしょ。
ここなら誰もいじめる人いないから安心して。
-
- 2012年03月19日 23:12
- ママ〜、さくら、本店の戸を、叩きますよ、笑。
またあちらでも、大人の恋の話、聴かせてください〜〜!
…そうだ、恋だ。恋をしないとね、やっぱり。
来月から、がんばります!
-
- 2012年03月19日 23:33
- ママの恋の話
a hope も大好きです
また聞かせてね。
幕天居士 さま
藤原新也を御存じなのですね。うれしいです。
今日はもう遅いので、あした、 幕天居士 さまのコメントゆっくり拝見します!
-
- 2012年03月20日 06:30
- おはようございます。
>431 a hopeさま
>a hopeさま
わたし、ダライラマ14世の言葉で心に残っているのが、あって、
「宗教間の調和の障害となるものを克服し理解をもたらす最善の方法は、他の宗教を信仰している人達と対話することです。対話は個人間あるいは国家間の意見の相違や利益の対立を解決する唯一の良識ある知的な方法です。」っていうのです。
トキ様が、掲示板で対話を、と一貫して呼び掛けて、しかもこれは生長の家の信仰を共にしていた信徒で、対話で和解の道を目指せないわけがないという信念を、尊敬します。(・・まあ、実際の掲示板ではいろいろと他の信徒に生長の家のいやな面も見せてしまう、ということがあるわけですけど、、。)
・・結局、他の人が、雅宣先生に、本流側に変わってほしいと要求するより、対話、できる方が、対話できれば、一番良いとわたしは思っていますが、どうなのでしょうね。
言葉って、厄介ですね。同じ教えを、学んでいても、って。
違いをみつけることより共通点を見つけること、とか、たとえ理解できなくても認めあうこと、そういうことがないと、対話にはならないし、違うことってわたしは「面白いこと」でもあったりするけれど、それが嫌悪の対象や無視する対象になったりするから、悲しいです。
-
- 2012年03月20日 06:31
- 生長の家の「心の影」っていうように、心について考えるって、大切だと思っています。a hopeさまが、感じているように、人間関係の中で、自分の気持ちが周りに大きく影響してるというのは、ほんとそうですね。
a hopeさまは気功をしていたのですか、文章からも、いつも爽やかな気をもらっています~。
心って個人が持ってるものだけど、結果それが家庭や団体社会や国世界をつくっているもので、「同調」とか「投影」とかの心の働きが、いろいろな人間関係に影響されて行っているわけですね。
人間ってこうした心理的なゲームをいつもしているのかも知れないなとおもいます、ゲームはルールを知って楽しめるなら良いですけど、たいてい人って、ルールを知らずに巻き込まれて、自分が苦痛にはいりこんでいたりする。だから、心理学って心のルールを知ることに役に立つのかな、と思ったりします。
知識とかあまりしらないけど、自分の心を振り返るには役に立ったりします。
平和の道は、お互い立場で主張をし続けることだけじゃなくて、それに宗教のおしえばかり主張することじゃなくて、
例えば、平和学を考えると、生物学者ローレンツは、スポーツとか芸術とか、あと笑いとかユーモアの共有(訊け監督が実践、笑)などをあげていて、心理学者マズローは、エンカウンターグループ(共感と理解のトーキングスティック、これは初心者校長が実験済み、笑)あと、共同学習、共同活動、そういうものを提唱したみたいですから、和解に役立てられればいいのに。・・やっぱり、だめなんでしょうかね。
生長の家でも、こうしたことが取り入れられてきたはずなんですけど。
-
- 2012年03月20日 06:39
- それから、a hopeさまの、
「やりたいことをやってきて、世間に叩かれた」、って話にも、興味アリ、です、笑。
情熱の女神、ですね、笑。
・・それから、聞きそびれていた、資格の合格、おめでとうございます!遅ればせながら、笑。
資格はお仕事にお役立てなんですか?
みなさま。よい一日を。
-
- 2012年03月20日 15:19
- 義春さんへ
ここで改めていうまでもなく、わたしの人生は、ひと様から見れば、どうしようもなく病的で、何が悲しくて恥も外聞もなくあのような生きざまをさらしていられるのか、とあきれられてしまいそうなほどに、世間的には本当にショーモナイ人生なのですね。
ですが、このことにかんしては「おあいこさま」といっておきたいです。世間的にどんなに成功した人の人生であっても、それはあくまでも「世間的に」という条件付きであって、「世間」という枠組みをはずしてみれば、どんな人であっても、かならずどこかにショーモナイ部分をかかえ込んで生きているにきまっています。それが表に出ているか出てないか、このちがいがあるだけですね。
ところで義春さんの#426のコメントですが、「個としてやりたいことがなかったから、全体のために役立つことをなそうとしてきた。そのために、他人との関係性のなかでより大きな自己という部分を作り出そうとしてきた。それが個としての不調和を乗り越えるための手段であったからこそ、皆が幸せな社会を夢見てきた」と、このようにいっておられると理解いたしましたが、一方で「人並みの幸せを求めてはいるが、だけどそれは」ともいっておられて、葛藤のない人生ではないということを吐露しておられるようにも感じました。
つづく
-
- 2012年03月20日 15:19
- わたしの人生を振り返ってみると、個としての欲望のままに生きてはきましたが、大きな自己に振り向くような生き方はしてこなかった、という気がいたします。ひと言でいえば、全体のことは考えずに、わが身のことだけをおもんばかって生きてきた、ということです。でもそれだからこそ、世間的にはショーモナイ人生であっても、自分なりに納得のいく人生を生きてこれたと、このような気分でいられたりもいたします。
人間にもしも罪があるとするなら、それは自らの欲望を裏切ることだ、といった人がいます。義春さんの欲望って何だったのでしょう。不遜な考えですが、掲示板でさわいでいる人たちのなかには、自らの欲望を裏切りながら生きてきた人たちが少なからずいそうな気がいたします。
個を裏切って全体へと奉仕する。それがもしも本来の欲望であったなら、あのようにさわぐ必要はないものと感じます。自らの欲望を裏切ってまで全体に奉仕してきたはずなのに、なのに、なのにその全体に裏切られた。すべてとは申しませんが、一部の方々からは、そんな無念さが感じられてならないのですね。
義春さんは、個ではなく全体への奉仕を選ばれたのだとおもいます。それは、義春さんの個としての欲望とどのように関係していたのでしょう。欲望に身をゆだねるにしても、根本のところでその欲望が阻害されていると考えるなら、あるべき本来の欲望を裏切る方向へと進まざるを得なくなるというのは、たしかにありがちなことだとおもいます。ですが義春さんはどうだったのでしょう。いらぬこととはおもいますが、このことがどうしても気にかかって仕方がありません。
つづく
-
- 2012年03月20日 15:20
- ハイデッガーは「自己了解」ということをいっていたようです。「自分とはどういう存在なのかを納得する」というのが「自己了解」であったようですが、これは「理解」ではなく「気分」としてあらわれてくるとハイデッガーは考えていたようです。「自分とはこういうものだ」とはっきりとわかるのではなく、「気分」としてそれが感じられる、ということなのですね。
それで、ここが大事なのですが、ハイデッガーは、「気分」の内容ではなく、「それはどこからくるものなのか」ということを問題にしていたということなのです。「自分とはこういう存在だ」と何となく納得しながら人は生きている。ではその「納得感」はどこからきたものなのか。こういうことを、ハイデッガーは問題にしていたようです。
「どこから?」を考える前に、なぜそれほどまでに「気分」が大事かということを考えてみます。ひとついえるのは、「気分」は「理解」とちがって、自分の思いどおりにならないということです。「理解」であるなら、自分に都合のよいように、いくらでもねつ造したり変造したりできますが、「気分」はそうはいかないですね。嫌いな人といて気分がよくないのに、それをよいとは感じられないということです。
ではその「気分」はどこからやってくるのでしょうか。すでに述べたように、ハイデッガーはこれを問題にしました。これについて、竹田青嗣は「了解は、自分の身体や欲望から自分のありようを告げ知らされることなのである」と述べています。人は、「気分」によってそのときどきの自分のありようを知らされている。このようにハイデッガーは考えていたようです。
つづく
-
- 2012年03月20日 15:21
- 言葉でいくらご託を並べて自分を誤魔化しても気分は誤魔化せない。こういうことなのでしょう。たとえば、気分の根底に死の恐怖を忘れたいとする心性があったとすれば、気分の悪さは、いくら逃れようとしても人生に重くのしかかってくるはずです。自分のありようを知らされて、それで気分がよくないのであれば、それは自分のありようがそういうものだということです。口では何とでもいえますが、気分は誤魔化しがきかないということですね。
人にはそれぞれに支配的な気分があるようにおもいます。そのときどきで、周囲の環境や出来事に応じて、気分がよくなったり悪くなったりはいたしますが、そうした気分の背後には、人生にまとわりついて離れようとしない支配的な気分があるような気がいたします。
どのような気分によって支配されているか。けっきょくはこれが問題なのだとおもいます。いうまでもなくこれは、何か楽しいことがあるから気分がよい、というのとはちがった問題です。自分という存在の奥深いところから出てくる気分はどうか、ということなのです。
掲示板でさわいでいる人たちのなかには、よい気分でない人が少なからずおられるような気がいたします。自らの欲望を裏切ってきた。こうした人生のありようが、そうした気分によって告げ知らされているのかもしれません。余計なおせっかいではありますが、義春さんの気分はどうですか、と聞いておこうとおもいます。葛藤はいろいろであるにしても、気分はどうかということだけが問題であるような気がいたします。
-
- 2012年03月20日 18:27
- >>436. 幕天居士さま
>『酒と薔薇の日々』。こんな曲がありましたね。ラビアンローズ、バラ色の人生。かつて、青春時代に酒と男におぼれたa hope様が、いくつかの悩みごとをかかえながらも、今はバラ色の人生に取り組んでらっしゃる、とこのように考えてよろしいのでしょうか。<
『酒と薔薇の日々』という映画はみたことないですが、わたし独身時代は、かなりの酔っ払いでしたよ(笑)
あのころは、お酒が好きで飲んでいたのではなくて、生きる辛さを忘れるために飲んでいたのです。これも、「死」を忘れるためにつながるのかな~?だから「バラ色の人生」って感じではなかったです(笑)。
今は、お酒は好きなので、飲んでます。おいしい料理を食べてるときに、それにぴったりのお酒があると、おいしさが何倍にもなりますよね!
それに、今、悩み事というほどの悩み事はないです。子どもたちも落ち着いてくれているし、主人は優しいし、とても幸せです。でも、やっぱり「バラ色の人生」ではないかな...(笑)
大恋愛している時は、バラ色だったかも知れません。なんにも言わなくても、お互いに愛を確認できていた頃は...(笑)
幕天居士さまの欲望には「恋愛」は入っていなかったのですね。
でも、恋って、欲望でするものじゃないような気がします。恋は突然やって来て、抑えられない感情なのではないのでしょうか?
-
- 2012年03月20日 18:28
- 幕天居士さまは、「死」を意識することで、、「真に意味あるものに近づくこと」が可能だとお考えですか?
うーん。どうですかねえ。
わたしは、「生長の家の教え」を勉強しているので、わたしにとって、本当の意味での「死」はないのですよ。もちろん肉体の「死」があるのは分かってますが、そのことを気にしては生きていません。
わたしにとって「真に意味あるもの」て何なんだろう...って、今考えてます。
-
- 2012年03月20日 20:12
- a hope様
ミンデル的にいえば、「真に意味あるもの」とは、自分の全体を生きるということだろうとおもいます。人は全体ではなく、自分の一部しか生きていない。このことをミンデルは、「心ある道」という表現で、徹頭徹尾、問題にしています。
「維摩経」のなかに、文殊菩薩が、維摩居士のところに病気見舞いに訪れる場面があります。ノコノコとやってきたかに見える文殊菩薩に、「どうやってここへ来た」と維摩は訊ねたようです。すると文殊菩薩は、「不来の相にして来たりて、不見の相にしてまみゆる」と答えたといいます。「来たらずして来た。あらわれずしてあらわれた」というわけですね。
これをどう解釈するかですけども、生長の家では、実相のわれは来てもいないし、あらわれてもいない、とおそらくこのように解釈するはずです。ミンデルの解釈では複数の世界を想定します。来ている世界もあるが来ていない世界もあると、このように解釈いたします。
つまり、ミンデルのいう「自分の全体」とは、複数の世界に生きている自分ということなのですね。複数の世界に生きているすべての自分を統合したものが本来の自分であって、ここにあらわれている自分は自分の一部でしかないと、ミンデルはこのように考えます。「真に意味あること」とは、全体の自分に気づくということですね。
そうであるとすれば、死を忘れないということが「全体の自分」にどのようにつながるのか、ということが問題になってきます。死を忘れたがるということは、「今ここで生きている自分だけが自分である」と考えて、その自分に執着しているということですね。これでは「心ある道」、つまりは「全体の自分」を自覚することはできない。それでミンデルは、今ある自分だけに執着しない生き方という意味で「メメントモリ」ということをいっているわけです。
-
- 2012年03月20日 23:01
- >>445. さくらさま
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わたし、ダライラマ14世の言葉で心に残っているのが、あって、
「宗教間の調和の障害となるものを克服し理解をもたらす最善の方法は、他の宗教を信仰している人達と対話することです。対話は個人間あるいは国家間の意見の相違や利益の対立を解決する唯一の良識ある知的な方法です。」っていうのです。
トキ様が、掲示板で対話を、と一貫して呼び掛けて、しかもこれは生長の家の信仰を共にしていた信徒で、対話で和解の道を目指せないわけがないという信念を、尊敬します。(・・まあ、実際の掲示板ではいろいろと他の信徒に生長の家のいやな面も見せてしまう、ということがあるわけですけど、、。)
・・結局、他の人が、雅宣先生に、本流側に変わってほしいと要求するより、対話、できる方が、対話できれば、一番良いとわたしは思っていますが、どうなのでしょうね。
言葉って、厄介ですね。同じ教えを、学んでいても、って。
違いをみつけることより共通点を見つけること、とか、たとえ理解できなくても認めあうこと、そういうことがないと、対話にはならないし、違うことってわたしは「面白いこと」でもあったりするけれど、それが嫌悪の対象や無視する対象になったりするから、悲しいです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
つづく
-
- 2012年03月20日 23:02
- ↑のさくらさまの発言について
うーん。わたし、ホントにアホなので、難しいこと考えるの苦手なのですが、このさくらさまの発言は、なんとなく言わんとしていることが分かる気がします。
でも、「生長の家の教え」って万教帰一の教えですよね。だから、このダライラマ14世の言葉は当てはまらないのではないかと思うのです。
雅宣先生にしろ、本流にしろ、「本物の生長の家の教え」を実践していたら、対立自体が起こらないはずなんでよね。だから、この問題の解決には、わたしは「対話は必要ない」のではないかと感じています。
では、何が必要なのかと言えば、これは雅宣先生が原点に戻られることだと思います。「雅宣先生の教え」は「真の生長の家の教えではない」から、このようなたくさんの問題が起き、不調和が起き、多くの人が苦しみ、雅宣先生に対して悪感情をもっているのです。
だから、雅宣先生が、今までの間違いを反省され、「真の生長の家の教え」をしっかり理解され、信徒に伝えて行くことが大切なのではないかと思います。
わたしは、「学ぶ会」も正しい事をしているとは全然思っていません。雅宣先生や現教団の鏡として現われたのが「学ぶ会」だと思うので、同じように「学ぶ会」も「真の生長の家の教え」を理解され伝えているとは思っていません。
今夜は、これくらいしかお返事できませんが、「心の影」に関してももう少し深く考えたいです。
わたしの資格試験についても、できればすべてをお話して、さくらさまと盛り上がりたいのですが、ここでは、話せませんね。あまり詳しいことを話すと、身元がばれてしまいますから...(笑)
-
- 2012年03月20日 23:15
- 454. 幕天居士さま
ごめんなさい、a hope はアホの上、ミンデルを読んでいないので454. 幕天居士さまの説明がよく理解できません
>ミンデルの解釈では複数の世界を想定します。来ている世界もあるが来ていない世界もあると、このように解釈いたします。<
これは、現象界とか、エーテル界とか、アストラル界とかいう階層のことですか?
面白そうで、興味はありますが難しすぎます(笑)
わたしの恋に関する考察はいかがでしょうか?
>でも、恋って、欲望でするものじゃないような気がします。恋は突然やって来て、抑えられない感情なのではないのでしょうか?<
-
- 2012年03月21日 05:47
- >439
幕天居士さま
大変お返事遅くなり申し訳ありません。考えてました。
投影について。
いつも、人間関係でも、このことに突き当たってます。
生長の家にふれて間もなくの頃、友だちと気まずくなって、けんかしたことがありました。わたしは、嫌なことを言う友だちに、「これは、さくらのどんな心の影だろう」と言って呆れられたことがあります、
そんなことケンカの最中に言われたら、たしかに不気味かもしれません、笑。
いつも、わたしは相手に何を見ているんだろうと、考えます。
幕天居士さまがあげられた、ヒッチコックのカメラ手法。
そういえば、自分から相手を見ることと、第三者が自分を見ることに、どうしても終始してるかもしれませんね、。
第三者が相手をどうみてるか、相手が自分をどう見るか、その視点が欠けてる…
でも、これって、相手に聞かない限り、想像する、ことしかできないものですよね、
こういうのって、ときどき苦痛なことが多いです。
相手の気持ちが見えない。
わたしには、やっぱり、苦痛です。
相手の気持ちが分からないと、まるで、映画のなかの大きな家が、自分をみている、そんな不気味さ感じるようですね。やはり、直接相手と対話できれば良いですが、相手が必ずしも対話を望んでるとは限らないし。
-
- 2012年03月21日 05:48
- そういえば、ラカンによると、欲望は、実は他者によって、作られている。そう校長がいつか言ってたと思います。
自分の発言も、自分が考えて言っているようで、実は相手に言わされていると考えられると。
欲望させられる原理も、投影の一つということに、なるんでしょうか。
…欲望の仕組みは、もう少し複雑なものを、含みますか。
-
- 2012年03月21日 05:57
- ahopeさま
対話は同じ宗教内でも、やっぱり必要とわたしは思います。毎日暮らす家族でさえ、対話って、必要なことですよね。
対話しないと相手を誤解することが多くなりますから。
a hopeさまとわたしが違うのは、雅宣先生がすべて間違ってると考えてることかもしれません。
わたしは、雅宣先生の発言とか、本とか結構よんで賛成できる点もある、とかんじることはあります。
…そうすると、雅春先生軽視と判断されるかもしれませんが、雅宣先生は、世界の流れも考えているところも、時代により変わらざるを得ないものも、仕方ないと思う面もあります。
…雅宣先生の方針はとても、あり得ないし、人事とか人の対し方とか、…もうそれはあり得ないのですが…組織のあり方がまねいたものだって、大きいこともあるし…雅宣先生一人追い出すか、反省して生長の家問題が解決には、ならないとはおもってますよ。
本部のあり方はもともとどうかと思うし…雅春先生が生きていらして、直接に教えを説かれても、違った方向へ行った方は、たくさんいましたよね。
やはり、わたしは、信仰は、一人一人の実践だから、人に強制や要求は、できないものだと、基本は、思ってます。
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- 2012年03月21日 05:53
- 雅春先生のような教えを体現された方でも、組織のあり方は試行錯誤だったのですよね。
わたしは、もともと、宗教や、信仰と、救いのための組織活動を一緒にするのは、そのこと自体、いろんな問題を含んでいると思われてしまいます。
だから、教えは各自が学ぶ同士をつくって学んだり伝えたりするようにすれば良いし、
そこから何をするかという、その先は、救済活動として、それぞれの使命によって、ボランティアや仕事や会社のような形ですれば良いとおもんです。
もともと、光明化運動は、いろんな分野で発揮されるのことを雅春先生は望まれたのだから、組織の方針などに縛られず、各自の分野で行動すればよいのではないかな、と思っています…。
内部で、組織を守ることや、教えの捉え方などに終始しているようにみえます。
組織のあり方自体変えないと、繰り返されるし解決しない問題じゃないかな…と、そんな風には考えます。
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- 2012年03月21日 05:58
- 義春様。みなさまおはようございます。
a hopeさま。おはようございます。
投稿の順番が、逆になってるかもしれません。
>460と>461は、
ahopeさま
から始まる文より読んでください!!
ごめんなさい!
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- 2012年03月21日 11:51
- さくら様
さくら様の#428のコメントへの返信です。10歳のころまで大変な思いをされていたようですね。意外な感じがいたします。意外というか、人はそれぞれに十字架を背負って生きていくものだと、いまさらながらに再認識させられたといったほうがよいのかもしれません。
「人みなシメールを背負う」といったのは、象徴派詩人のボードレールでした。シメールとは火竜。そんなとんでもないシロモノを背負って、人というものは生きていくのですね。
十字架とシメールの違いとはなんなのでしょう。十字架は重荷?シメールは、何かに向かって駆り立てられる激情?十字架には「他者のため」といったニュアンスがありますね。自分のためではなく他者のために背負う。そんなニュアンスがあるような気がいたします。だとすれば、多くの人が背負っているのは、十字架ではなくシメールであると考えてよさそうな気がいたしますが、どうなのでしょう。
シメール、それが激情であるとすれば、それもまたラカンがいうように「他者の欲望」であるはずです。シメールの欲望は、身を焼きつくすほどの炎となってその人を責めさいなみます。
つづく
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- 2012年03月21日 11:51
- >そしてもう一つは、好きでもない男の人と付き合うのは、一番精神的に、辛い、ってとこでしょうか、笑。
背中に背負ったシメールによって、人は「他者によって欲望されたい」と欲望します。好きでもない人と付き合うことの苦悩。それは、つき合っている相手から欲望されたいと思えないことの苦痛であるのかもしれません。そうした苦痛によって、その人は、身も心も焼き尽くされようとしているのかもしれませんね。
さくら様がもしもかつての経験によって何かを背負っておられるとお感じなら、それでもそれは十字架であるとお考えでしょうか、それともそれはシメールとお考えでしょうか。シメールの正体、それは言葉です。
つづく
-
- 2012年03月21日 11:52
- パニック障害は十字架なのでしょうか、それともシメールなのでしょうか。このあたり、まだ考えがまとまってなくて、どう書けばよいのか、方向感が定まりません。とりあえずわたしの体験を書かせていただくことにいたします。
わたしは、中学生のときにパニック状態というものをはじめて経験いたしました。それはパニック障害というほどには深刻でなく、それでも一過性でもなく、わたしの人生に暗い影を落とすことになります。いかにしてパニックを回避するか。それが人生の主要な課題となりました。
パニックを回避する。およそ生産的とはいえないこの課題のために、多くの時間と労力がついやされました。そうした苦労の甲斐あって、パニックを回避することには成功してまいりましたが、今にしてみれば、それは十字架でもなくシメールでもなく、〈死の欲動〉とでも呼ぶべきものであったような気がいたします。
〈死の欲動〉とははたしてなんなのでしょう。死を怖れれば怖れるほど死にたくなるということでしょうか。そうした一面はたしかにあるとおもいます。しかし、これを深く理解するには、ヘーゲルから読み進める必要があるようにおもわれてなりません。ヘーゲル?なんで?いえ、見栄とはったりを信条とする、ただの個人的好みであります。
わたしがいま、なんとはなしに心惹かれているのが、ヘーゲルから出発したジョルジュ・バタイユの思想です。あまり熱心とは言えませんが、いまも勉強中です。はっきりとしたことは言えないにしても、バタイユに〈死の欲動〉の臭いを強く嗅ぎ取ることができそうです。死を意識し、怖れることが自己意識の基礎となる。このことを、バタイユは、ヘーゲルから読み取ったといいますから。
また何かわかれば、書かせていただこうとおもいます。
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- 2012年03月21日 13:03
- 460. さくら さま
わたしは、以前 ↓ のように投稿させていただいています。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
385. a hope 2012年03月16日 22:07
さくらさま
>「信仰」に基づいていない、運動、というのが、どういう方向に行ったのか、生長の家のなかでどういう人たちを産んだのか、雅宣先生は、過去からすごく学ばれたとのだと思います。
それは生長の家の運動が「間違った方向」に行かないことを、徹底して決意されたと、わたしにはおもわれるです。
で、「過剰な反応」が多々あったので、まあ・・過剰な反応で対応せざるを得なかった部分もなきにしもあらず、と思えるんです、。<
それでは、雅宣先生は、「生長の家」の運動が間違った方向に行かないために、今の方針を貫かれているわけですか?
つまり、環境保護とか反原発とかそういう方向に...?
386. a hope 2012年03月16日 22:14
さくらさま
わたし自身は、環境保護も反原発も大賛成なんですよ。すごく大切なことだと思っているんです。
雅宣先生は良い所に目をつけられていると思います。
ですが、わたしが「生長の家」でしたいことは、そういうことではないんです。聖典「生命の實相」の真理を学び、実践して、自分の魂を生長させたいんです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
つづく
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- 2012年03月21日 13:05
- つづき
わたしは、決して、雅宣先生がすべて間違っているとは思っていません。
これは、一部の本流の方々の「愛国運動」と共通するのもがあるのではないかと感じています。
雅宣先生も、優先順序を間違えていられるのではないかと思うのです。
宗教を信仰していくのに、一番大切なのは「個々の魂の救済」なのではないでしょうか?
それがなされていくうちに、自然に人々は「愛国」なり、「自然との調和」なりの大切さに気づいていくのだと思うのです。だって、すべては一つの神に中心帰一するわけですから、個の心が変われば、全体が変わると思うからです。
ところが、本流の愛国派にしても、雅宣先生にしても、全体から変わらせようとするから、たくさんの違う心(考え)をもった個に反発されてしまうのだと思います。
-
- 2012年03月21日 13:25
- 461. さくら さま
>雅春先生のような教えを体現された方でも、組織のあり方は試行錯誤だったのですよね。<
わたしは、組織のあり方については、よくわかりませんが、今は、「生長の家」総裁としての雅宣先生がどのようなお考えでいるかより、組織のあり方が変わるのですよね?
雅春先生も組織のあり方には試行錯誤され、反省をされていたのですから、これから、雅宣先生は、その雅春先生の反省点を十分生かして、組織活動をされて行けばいいのではないのでしょうか。
雅宣先生はとても頭のよい方なので、それができるお方ではないかとわたしは思っています。
でも、大切なのは「本当の宗教の使命」は何かを忘れてはいけないことだと思います。
今日は、これから出かけます。
夜また戻ります。
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- 2012年03月21日 13:29
- >>468
訂正
今は、「生長の家」総裁としての雅宣先生がどのようなお考えでいるかより、組織のあり方が変わるのですよね?
↓
今は、「生長の家」総裁としての雅宣先生がどのようなお考えでいるかにより、組織のあり方が変わるのですよね?
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- 2012年03月21日 13:32
- こんにちは
幕天居士様
有り難うございます。
まだ考えをまとめている、というより自分自身の内面を振り返っているところで、返信が少し遅くなりそうです。
明日の晩くらいには返信しようと思っています。取り急ぎ、亀レスになることのお詫び申し上げると共に、ご温言心から感謝申し上げます。
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- 2012年03月21日 13:44
- まぁ、ちょっとした話等々
年度末というのもあり、報告書作成等で、ほぼ忙殺状態だったりします。(オマケに準公的機関だから残業、休日出勤にはかなり制限があったりします)
抗がん剤治療で身体の調子を崩されているから、想うように進まない、だけど上司は何故か知らないけど、自分なんぞに全幅の信頼を寄せて仕事任せてくれるから、かなり嬉しかったりします。
良い仕事だなっと思います。
この身体では最後の仕事になるかもしれない、そう想うと、これは神様からのプレゼントだなとか思ったりもします。
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- 2012年03月21日 21:59
-
>>461. さくら さま
>わたしは、もともと、宗教や、信仰と、救いのための組織活動を一緒にするのは、そのこと自体、いろんな問題を含んでいると思われてしまいます。
だから、教えは各自が学ぶ同士をつくって学んだり伝えたりするようにすれば良いし、
そこから何をするかという、その先は、救済活動として、それぞれの使命によって、ボランティアや仕事や会社のような形ですれば良いとおもんです。
もともと、光明化運動は、いろんな分野で発揮されるのことを雅春先生は望まれたのだから、組織の方針などに縛られず、各自の分野で行動すればよいのではないかな、と思っています…。<
さくらさまのこの意見はとてもよくわかります。
しかし、「生長の家」とは、「聖使命菩薩懺悔」にうたわれているように、人類の苦悩を消滅し、滅罪清浄ならしむるために現われたのですよね?その後にも具体的に聖使命会員としてなすべきことがうたわれています。
わたしは、毎朝、これを読誦しているのですが、「生長の家」は例えどのような大きな組織になっても、信徒も職員もこの事を忘れてはいけないと思うのです。ですが、今の「生長の家」の組織の方針は、さくらさまもご指摘のとおり、この事からずれてしまっていますよね。
でも、だからと言ってわたしは、さくらさまのおっしゃるように、
>組織の方針などに縛られず、各自の分野で行動すればよいのではないかな、<
とは、思いません。
なぜなら、そのまま、現教団組織が「生長の家」という名前を名乗り続け、今の方針を貫いていけば、本当の「生長の家の教え」が何なのわからなくなっててしまうからです。
このことは、以前トキさんの掲示板でさくらさまと少し話した記憶がありますが、さくらさまは憶えていらっしゃいますか?
-
- 2012年03月21日 22:15
- さくらさま
>内部で、組織を守ることや、教えの捉え方などに終始しているようにみえます。
組織のあり方自体変えないと、繰り返されるし解決しない問題じゃないかな…と、そんな風には考えます。<
このさくらさまの最後のお言葉に完全同意します。
「組織のあり方を変える」について、さくらさまのご意見があれば、是非、お聞かせください。
-
- 2012年03月22日 11:33
- ahopeさま
コメントありがとうございます。返事おそくなってごめんなさい。
丁寧に考えを述べられていて理解ができました。
わたしも自分の中にすっきりと解決があるわけではないので、言い方が曖昧になりますし、
むずかしいですよね、こういうことって。
あと、組織とか宗教に対する、偏見。わたしにはこれがあると思うから、公平で正しい意見や宗教的意義を、述べてないしな~、と思いますが・・これから、自分なりにかんがえることはたいせつですよね、。ありがとうございます。
>それでは、雅宣先生は、「生長の家」の運動が間違った方向に行かないために、今の方針を貫かれているわけですか?
つまり、環境保護とか反原発とかそういう方向に...?
今の方針にいったことと、間違った方向に行かないようにしたこととは、考えの出発する視点が違うので、まったく別のことと思います。
言葉の暴走ということ、教えがイデオロギー化してしまった運動の現実とか、そういうものをなくすために、「信仰による」運動をしよう、いうことだったとわたしなりには理解
してます。
でも、方針は、何をするか、というその次の問題で。
いま、何が問題になっているか、世界の宗教家と共に取り組めることや、身近なことでできることはなにか、と考えたとき、雅宣先生は、環境問題のことに注目されたのでしょうね、宗教団体として人類に貢献するため取り組むべき問題として、かんがえられたのでしょうね。
だけど。
.>宗教を信仰していくのに、一番大切なのは「個々の魂の救済」なのではないでしょうか?
わたしもこれは、第1だとおもますよ、ほんと、。
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- 2012年03月22日 11:34
- (つづき)
救済の仕方、これが問題になってくるとは思いますが、個人を、全体の犠牲にしてよい、というのは、宗教以前に、人権的な問題ですし、信仰の原点に反しますし、今の組織の方針の仕方は、おかしい。
>今は、「生長の家」総裁としての雅宣先生がどのようなお考えでいるかにより、組織のあり方が変わるのですよね?
雅宣先生の決定も、そうだけれど・・まあ。それだけじゃなく、それを行っている、本部のあり方、とか組織のあり方って、おかしくなっちゃってるんだな、と思います。
それは、雅宣先生一人が作ってきたわけじゃなく、組織のあり方が作ってきたところも、おおきいと考えられるんじゃないでしょうか。
ほんと、義春さまの言ったこと、納得できます。
付和雷同。かりそめの平和が、全体としての平和を崩す。
この感じ分かります。このなんとも言えない気持ち悪さ・・でも、人間って楽な方にながれてしまうんですよね。自戒するべきことです、
うーん。学びって、ありがたい。
-
- 2012年03月22日 11:34
- >ところが、本流の愛国派にしても、雅宣先生にしても、全体から変わらせようとするから、たくさんの違う心(考え)をもった個に反発されてしまうのだと思います。
組織で活動していると、信仰の原点、ってなんだろう、とか、よく考えさせられました。
自分の良心は、否。ということを、「組織の目的」のためには実行しなければならない。
・・どこの組織でもそうしたことはあると思いますよ、そりゃ。でも、宗教では、そこに信仰の問題がある。信仰の「教義」を持ち出されて、良心に反することをするような気がするっていうか・・。
>「生長の家」とは、「聖使命菩薩懺悔」にうたわれているように、人類の苦悩を消滅し、滅罪清浄ならしむるために現われたのですよね?その後にも具体的に聖使命会員としてなすべきことがうたわれています。
このことは、以前トキさんの掲示板でさくらさまと少し話した記憶がありますが、さくらさまは憶えていらっしゃいますか?
覚えています。どういう展開になったのか・・途中だったですね。
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- 2012年03月22日 11:35
- 宗教行事と、組織活動。わたしは、それをわけてもよいのかな、とそんなことを考えたりしてます。
聖使命として奉納したものは、皆を祈り、人や国や世界の実相顕現を宇宙浄化を祈る。そういう宗教的な行事に使うのはわかります。
活動は、その祈りで神につながった一人一人の良心が、活動していければよいのかな、とそんな風に感じたんです。本来そうあるべきが、よいのかと。
神が人間の活動、一組織の方針に働かれる、とは、とても考えられませんから、
聖使命を預かってなにをしているか、疑問になります。
聖使命を、今の教団の方針に使われた、裁判に使われた、とか、そんな愚かなことにはならないとおもうんです、。
トキ様も言われていましたが、中心帰一、という、本来の原則を、組織の理論に利用されてきたのですよね、。
雅宣先生が、変わる必要があるとするなら、本山や道場を生長の家として残し、雅春先生の教えによる救済を行う場所から、まったく手を引いて、今の団体を宗教と呼ばず、活動することがよいんじゃないでしょうか。。・・そんなこと、まったくむずかしいですけどね、。
また、a hopeさまの問いかけで、抜けていることがあれば、書きます。
考える機会に感謝してます。
-
- 2012年03月22日 12:27
- a hope様
>ごめんなさい、a hope はアホの上、ミンデルを読んでいないので454. 幕天居士さまの説明がよく理解できません
>>ミンデルの解釈では複数の世界を想定します。来ている世界もあるが来ていない世界もあると、このように解釈いたします。<
これは、現象界とか、エーテル界とか、アストラル界とかいう階層のことですか?
面白そうで、興味はありますが難しすぎます(笑)
ミンデルは心理学者でありますが、もともとは、マサチューセッツ工科大学で量子力学を専攻していた物理学徒だったんですね。ですから、その考え方には量子力学の思想が色濃く反映されています。「来ている世界と来ていない世界」は、量子力学の「多世界解釈」にもとづいた考え方です。
ちなみに、「多世界解釈」を提唱したのは、その当時大学院生だったヒュー・エヴェレット3世ですが、そのエヴェレットは、学生の身でありながらキャディラックに乗っていたそうです。
世界ははたしてひとつだけなのでしょうか。わたしたちが住むこの世界だけが唯一のものなのでしょうか。「多世界解釈」は無限ともいえる数の世界を想定します。無限の数の宇宙を想定する並行宇宙は、SF小説の世界だけでなく、いまや物理学の有力な思想となっているといって過言ではないのですね。ミンデルはたえず、こうした物理学の思想を意識しながら、みずからの心理学を構築しようとしています。
つづく
-
- 2012年03月22日 12:27
- ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』の最後のところで、名前は忘れましたが、かつてシッダールタとともに修行していた人物がシッダールタと再会する場面が描かれています。この人物が、シッダールタにうながされて、シッダールタの額に手を当てます。すると幻想的な世界があらわれてくるんですね。まるで幻覚を見ているかのように、無数のシッダールタがあらわれてきたのです。
盗人、魚、石、あらゆるシッダールタがあらわれてきます。これこそが多世界であると、わたしは解釈いたしました。盗人、魚、石、あらゆるシッダールタを統合すれば、それが本物のシッダールタなのです。
>わたしの恋に関する考察はいかがでしょうか?
>>でも、恋って、欲望でするものじゃないような気がします。恋は突然やって来て、抑えられない感情なのではないのでしょうか?<
そうですね、恋はたとえ欲しなくてもやってくることもあれば、いくら欲してもやってこないこともありますね。抑えられない感情。そのとおりですね。
恥ずかしながらわたしは、片思い専門なのです。ただひたすら相手のことを思いつづける。ただこれだけの恋愛経験ですね。
そんなわたしにも、理想の片思いがあります。さあ、どんな片思いなのでしょう。それは内緒です。
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- 2012年03月22日 14:21
- 幕天居士さま
返信考えてます、遅れててすみません、、
ところで、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」この本がわたしは、大好きなのです。大学で第二外国語、ドイツ語にしたのも、これを原文で読みたかったからです。(いや。もちろん、果たしてないですよ、笑)
何冊も買って人に上げたりしました。
多世界解釈だったのですか、あの世界は…。
わ〜、すごい…
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- 2012年03月22日 17:13
-
さくらさま
>>474~477
さくらさまのおっしゃていること、とてもよく理解できました。
そうです、トキさまの掲示板でで、男性陣が難しい討論をされていて、わたしはほとんど理解できなかったのですが、さくらさまが言い換えてくださると、とてもよく理解できたので不思議でした。
さくらさまは霊感でも聞いたりしゃべったりしているのかも知れませんね。
だから、相手のお考えがよくりかいできる。かぴばらさまがエンパスという言葉を教えてくださいましたが、やはりそういう力があると思います
そういえば、さくらさまも幽体離脱を経験されたのですね!
わたしは、精神的にすごくストレス状態の時に離脱しました。そのころは、「神なんかいるはずがない!神がいたら、こんな苦しみをわたしに与えるはずがない!神がいたら、呪い殺してやる~~!」くらいの無神論者でしたから、もちろん、魂の存在なんて信じていませんでした。人間死んだらおしまいだと心から信じていました。
それが、幽体離脱を経験してから、目が覚めたというか、生きるのが少し楽になった、というか、前向きに人生を捉えるようになっりました。
さくらさまの幽体離脱の経験って1回だけでしたか?
どんな風だったのか、教えて下さいませんか?
-
- 2012年03月22日 17:18
- さくらさま
話が、違う方へ行ってしまいました(笑)
ごめんなさい。
>雅宣先生が、変わる必要があるとするなら、本山や道場を生長の家として残し、雅春先生の教えによる救済を行う場所から、まったく手を引いて、今の団体を宗教と呼ばず、活動することがよいんじゃないでしょうか。。・・そんなこと、まったくむずかしいですけどね、。<
そうそう、これすごくいい考えだと思います。トキさまの掲示板でも、そんなところまで話が進んだのですよね!
でも、なんかさくらさまが居ずらいような雰囲気になってしまって、わたしは試験勉強に追われていて、話が途中になっていた。わたしは、そこが心残りだったのです。
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- 2012年03月22日 17:31
- さくらさま
これ、もしかして「生長の家」の「放つ愛」につながりますか?
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- 2012年03月22日 23:06
- 幕天居士様
御返事遅くなり、大変申し訳ありません。
色々、考えさせられてしまって、また、その中で気づくことがありました。有り難う御座います。
まぁ、、、僕も自分自身の人生をシューモナイとは思っています。それでも、他の人から観れば、羨ましいと言われる、、、確かに「おあいこ」なんでしょうね。
葛藤があるのは、僕は嘘は言わない、だけどこれは自分自身なのか?真実なのか?といわれれば、自信が無い。そこに周りの人に対する申し訳ない気持ちがありました。
で、そこは幕天居士様のa hope様宛の書き込みを拝読して、自分の中にある色々な世界、それ全体が自分なんだって感じた時に、その悩みは無くなりました。真実はそこにあるんだって・・・本当に有り難う御座います。
続きます。
-
- 2012年03月22日 23:31
- それで欲望とは、おそらく方向性、自分と云うものを成り立たせる起源と云うようなものなのだろうと僕は感じています。
本流掲示板での一部の投稿者は、確かに自分の方向性を間違っている、生長の家という教団が自分の欲望・方向性を叶えてないと、「偽った自分」という鍍金が剥れてヒステリーを起すのだろうと思います。
>義春さんは、個ではなく全体への奉仕を選ばれたのだとおもいます。それは、義春さんの個としての欲望とどのように関係していたのでしょう。欲望に身をゆだねるにしても、根本のところでその欲望が阻害されていると考えるなら、あるべき本来の欲望を裏切る方向へと進まざるを得なくなるというのは、たしかにありがちなことだとおもいます。ですが義春さんはどうだったのでしょう。いらぬこととはおもいますが、このことがどうしても気にかかって仕方がありません。
僕はどうなのだろう・・・ずっと自問自答しています。この御文章を拝読した日は朝の4時まで、ずっと考えました・・・自分の個としての欲望・・・たぶん、温かさを感じたいなのかもしれません。
すごく抽象的ですが、最初の癌で死にそうになった時、強烈に感じたのは、それでした。
本当にそうなのか?と言われれば、どうか分かりません。
色々考えて見ました。出世とかは出世したら、めんどくさい事ばかりになるし、名誉なんて名誉を守る方がめんどくさいし、人に認められたら、それこそそれに応え続けないといけないのはめんどくさいし、金銭は拘らないし・・・それこそ、めんどくさいなって思ってしまうのです。
-
- 2012年03月22日 23:37
- 続きました。
気分はどうにもなりませんよね。
まぁ、本流掲示板な方々を支配する気分は「怒り」なのでしょう。
いつも何かに怒っている。
雅宣先生だったり左翼だったり、中国だったり韓国だったり・・・何かにいつも怒って、国の為に怒っているから正義なんだって滅茶苦茶な論理。幕天居士様の仰る様に、そもそも自分を裏切っているから、それを隠す為に怒るのかもしれません。
で、僕を支配する気分・・・うーん・・・彼らと同じような状況で考えると、癌で苦しい時とかに、その支配する気分が出てくるのだとするなら、僕は「笑い」なのかもしれません。
暇があれば笑える話を探してしまいます。ただ、笑うツボはシュールですが・・・。
それから、死の恐怖についてですが、僕は痛みの恐怖ですね。もう、死そのものより死の直前の痛みが怖い。昨日の晩、痛いのが怖いんだって、やっと分かりました。そして認めました。なんかスッとして楽になりました。
我慢しなくて良いんだと。
うーん・・・どうにもまとまりが悪くて、申し訳ありません。
-
- 2012年03月23日 08:01
- 義春さん
体にご負担をかけさせてもうしわけありません。身勝手な言い草ではありますが、これはすでに、義春さんとわたしの「業」ではないかと、そんなことをおもったりもいたします。
ところでじつは最近、ジョルジュ・バタイユにはまりつつありまして、関連した本を読もうとしているところなのですね。バタイユという人は、名前だけはずいぶん以前から知っていましたけれども、「消尽」や「蕩尽」という言葉で代表されるように、「すべてを使い尽くすように、死ぬほどまでに生きようとした特異な人物」といったイメージを持つだけでありました。それがなぜかこのごろは、もっとも気にかかる人物として浮上してきたのですね。
本を読んでますと、もちろん解説書ですが、さすがに凄いことが書かれてますね。たとえばこれはハイデッガーから取り込んだ思想のようですが、死というものを「強烈な否定性」ととらえるわけですね。いってみれば、生のすべてを否定するような威力を持っているわけですから、死はやはり強烈な力でありエネルギーなわけです。この自己を全否定しようとさえする力、エネルギーを、人間はおのれのうちに取り込んで内面化させたと、このようにバタイユは考えるわけです。
武士道がそうであるのかもしれません。死の威力、自分の存在を全否定するような威力をうちに取り込まなければ、武士道は成り立つはずがありませんよね。たしかに武士は、死を自己の一部として内面化させていたのですね。しかしそれは武士のみならず、人間がそれを内面化させたのだと、バタイユは考えます。それが推進力へと変わるのですね。それこそ、自己を否定しすべてを使い尽くそうとする推進力へと、それは変わるのですね。
つづく
-
- 2012年03月23日 08:02
- 死を忘れ去ろうとするのは、せっかく取り込んだ死の威力を消し去ることにつながる気がいたします。なんら推進力を持たない「生半可な生」を実現するだけのようにおもわれます。死を忘れるな。そうすることでしか推進力は生まれない。そんな気がいたします。
それにしても、人生に推進力をもたらす威力とはなんなのでしょう。それは〈死の欲動〉としてあらわれるものなのでしょうか。バタイユほどに激しく生きる必要はないとおもいますが、もしも人がことをなすとすれば、それはこうした推進力が背後にあればこそという気がいたします。
自分の人生を振り返れば、あまり偉そうなことは言えないのですが、それでも人が何かにせきたてるように生きざるを得ないとすれば、それは死の威力、その強烈な否定性をうちに取り込んだがゆえではないかと、バタイユに興味と関心を持ってしまった今となっては、どうしてもこのようなことに思いをはせてしまいます。
しかし、それでもですね、義春さんがいっておられるように、人は死そのものよりも、そこへといたるプロセスを怖れるものなのですね。痛みや苦悩。これを怖れてしまいますね。わたしにしても、「死は怖くない」と勇ましいことをいってはいても、「痛いのだけは勘弁してほしい」と、それこそ切実におもってしまいます。
つづく
-
- 2012年03月23日 08:05
- 痛みにどう対処するか。これは大きな問題です。わたしの対処法としては、自分が痛んでいるとはおもわないということですね。痛みがそこにある。そう考えるしかなさそうです。痛みを対象化してそれを観察する。無理にでも、痛みと自分とを分離させて、自分が痛んでいるのではないと思い込みたいですね。
でも、ほんとうに痛いときは笑うしかなさそうです。堪えられないような激痛でも、ヘラヘラと笑っていると、不思議と楽になったという体験があります。エンドルフィンの作用であったような気もいたしますが、よくはわかりません。
-
- 2012年03月23日 08:10
- 訂正いたします。義春さんとわたしの「業」、となっているところは、「「縁」と書いたつもりなのですが「業」になっておりました。やはりこれは、「縁」ではなく「業」というべきものなのでしょうか。なんとも言い難いです。なんにしても、勝手な言い草ですので、気になさらないでください。
-
- 2012年03月23日 08:13
- 小さなことですが、これも訂正です。
「何かにせきたてるように」は、「何かにせきたてられるように」と読んでください。
-
- 2012年03月23日 18:32
- >463
幕天居士さま
コメント、ありがとうございます。返信遅くなりました。
前から気になっていた、とても印象深い、写真があります。
マリオ・ジャコメッリ。イタリアのアマチュア写真家です。
NHKの番組で見たことがありました。
白黒の、どこにも感じたことのない、なんとも独特で幻想的な世界を作りだしていて、
一度見たら、脳裏に焼き付くような、不思議な感覚になる写真です。
辺見庸が解説していましたが、その時少し聞いただけですが、興味深かったです。
昨日、久しぶりになぜかふと思い出して、アマゾンで本を注文してしまいました。
いま、いくつかの写真しか思い出せないのですが・・例えば、視点、なんです、不思議なのは。
中央にいるのは、亡くなって目を閉じている老婆。その周りにいる弔いの喪服の人々。
カメラの焦点が合っているのは、この真ん中に寝かされている老婆なんですけど、周りにいる人々の姿の方がぶれていてさまよっているように見える。
まるで死者の方が生きている人間を、静かに見ているような錯覚に陥るようで、死んでいるものの感覚の方が確か、みたいな気にさせられます、
どれも、異世界に迷い込まされるような、不思議な感覚になる写真です。
本の副題には、~「生」と「死」のあわいを見つめて~とあります。辺見さんがご病気をされて生死をさまよった経験から人生観もこの写真に投影されたようです。
-
- 2012年03月23日 18:34
- うえのsakuraは、さくらです、笑。
(つづき)
ロランバルトの「写真論」のなかで、情報や知識なんかを与える、ストゥディウムと(一般的関心)に対して、見るものの身体の奥深くにある感性の痛覚をいきなり刺す、プンクトトゥム(一般的関心を破壊する要素、小さな裂け目などの意)と呼ばれるものがあります。この写真は、後者の方で、「内面にとつぜんやって来て、痛みや傷を負わせるもの」、そんな印象、と言えるのかもしれないですね、
辺見さんは、それを、身体の奥底に刺青を彫られるような感覚とか、脳裏に焼き付くシミ、とか書かれていました。辺見さんは大病を患って生死をさまよった経験があるようです。
なぜそんな感覚になるのか・・正確には知りません。
私自身は、なにか言えないけど怖さと、同時に強い親和性を感じる気がしています。
それは、直視するのが恐ろしいのだけれど、どうしても、惹かれてしまう、そんな感じで。
普段はそれを感じないように・・そうですね、幕天居士さまが言われたように、忘れたがって日常の楽しみに埋もれさせてしまっている感覚、なのかもしれません。
でも、忘れ去ることができずに、ずっと奥にある、シミ、裂け目のような感覚。
たぶんそんなものに、触れるような気がするからかもしれないですね。
時々なにかの拍子にそんなことがあります。
本当は、この「裂け目」が、自分の中の確かな感覚に近いのかもしれない、そんなことも思います。
ジャコメッリの問題意識の中には「時間」というものがあるそうです。「時間=死」というものを映し出しているとすれば、それが、今、自分がおかれた、・・確かだと錯覚しているものを、揺るがしてしまうような、そんな感覚になるのかも知れない、とも思います。
時々感じる、この・・「裂け目」のような感覚が、なにかごまかしきれないものと向き合う手がかりにもなるようになる気がしますが、分かりません。
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- 2012年03月23日 18:35
- シメールも、十字架も、人間ならどちらも持っていて、
人によって違いがあると思うんですが、
女性と男性の背負うもの、って・・すべての感覚や機能や、思考も・・おそらく、耐え難く、笑、違いがあったりしますよね。最終的には、一つ処に帰るとしても、たどり着くまでの過程にずいぶん隔たりがある。
世の中ってすべて言葉でできている(象徴界ですか)なら、男女は、身体や無意識の中に組み込まれた言葉のなんというか・・構造がちがうことがおおきいと感じますね。
今の社会構造は、男性の内部構造にぴったりした言葉でできています。だから、社会の中で男性の思考とその存在は、矛盾しない。でも、女の存在は、不可解で、理屈には合わない。とかそんなことが起きてくる。
ラカンがいう「女は存在しない」が、人間が言葉の習得の段階で起こる心理的な状態の必然と言えるなら、これは女の宿命、というか・・そんなことなのでしょう。
ときどき、人間として考える自分と、女性になった時の自分というものの存在の隔たりみたいなものは感じます。
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- 2012年03月23日 18:35
- (つづき)
でも、大人の女性として生きている尊敬できる人って、女としての宿命みたいなものも受けとめて覚悟して生きて言ってる気がするから、・・さくらにはまだ、女の覚悟、笑、のようなものがないのかも知れませんね・・。
「女」になってしまうのがとてもこわいときがあります。男の人には、幕天居士さまが・・以前言っていたようなフロンティアの海を、見ることができるんですけど、女は、ただ、置き去りにされて、窓辺でその海を見ているしかないのかもしれない、とか。
とても人を好きになってしまうと、この「存在しない」、空虚という意味が本当のような感覚が、何となく分かるような気がしてきたり。
それに、女性は、「欲望される」ってことが、その存在の価値を決められるってところがあるようですね。好きでもない人の欲望に答えてしまうのは、自分の知っている内部価値を汚してしまうように感じるから、苦痛なのでしょうか・・。
女性もシメールを背負って生きるけれど、・・十字架って背負うのでしょうか。
マリアは十字架を共に背負ったというより、傷ついたイエスをただ、抱いていましたね。